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1 저작자표시 - 비영리 - 변경금지 2.0 대한민국 이용자는아래의조건을따르는경우에한하여자유롭게 이저작물을복제, 배포, 전송, 전시, 공연및방송할수있습니다. 다음과같은조건을따라야합니다 : 저작자표시. 귀하는원저작자를표시하여야합니다. 비영리. 귀하는이저작물을영리목적으로이용할수없습니다. 변경금지. 귀하는이저작물을개작, 변형또는가공할수없습니다. 귀하는, 이저작물의재이용이나배포의경우, 이저작물에적용된이용허락조건을명확하게나타내어야합니다. 저작권자로부터별도의허가를받으면이러한조건들은적용되지않습니다. 저작권법에따른이용자의권리는위의내용에의하여영향을받지않습니다. 이것은이용허락규약 (Legal Code) 을이해하기쉽게요약한것입니다. Disclaimer

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46 맺음말 본고에서는 豊臣秀吉 起請文의 양식과 기능의 변화 양상을 살펴 보았다. Ⅰ장 1절에서는 戰國時代의 對 起請文 인식을 파악하였다. 起請文은 인간 간의 서약을 위하여 작성되기 시작하였고, 이와 같은 변화 과정에서 血判과 수신인의 기재와 같은 형태적인 요소가 나타 났다. 다만, 神佛의 권위를 긍정하는 인식과 부정하는 인식이 공존 하고 있었고, 특히 神佛의 권위를 부정할 수 없었기 때문에 起請文 이라는 형식을 사용했음을 간과해서는 안 된다고 지적하였다. Ⅰ장 2절에서는 秀吉이 작성한 起請文을 살펴보았다. 秀吉이 작성 한 起請文은 총 4건으로, 그 활용 양상은 戰國時代 후기의 그것과 크게 다르지 않았다. 血判과 추가적인 神佛의 勸請은 起請文의 신뢰 성을 확보할 필요가 있을 때 이루어졌다. 특히 神文은 秀吉의 정치 적 지위의 변화에 따라 변화하는 모습을 보였는데, 이는 勸請하는 神佛의 증가, 불교계의 神佛 勸請과 같은 양상으로 나타났다. 또한 秀吉이 起請文의 교환 이라는 절차를 인지하고 있었음도 확인할 수 있었다. Ⅱ장에서는 豊臣 정권의 起請文 정책을 살펴보았다. 秀吉은 關白 이 된 이후 起請文을 징수하기만 하였으므로, 그가 징수한 起請文이 분석 대상이 되었다. 1절에서는 1588년(天正 16) 聚樂第 行幸에서 諸大名으로부터 징수한 起請文을 분석하였다. 해당 문서는 秀吉의 명령에 따라 諸大名이 後陽成 天皇에게 바친 起請文이다. 작성자는 行幸에 참석한 諸大名 29명으로, 그 중 23명이 豊臣氏를 칭함으로서 擬制的으로 豊臣家의 一門이 되었다. 秀吉이 天皇을 비롯한 朝廷 측 에게 進上한 토지와 세금 징수권, 즉 秀吉 개인과 朝廷 간의 계약에 諸大名이 관여할 수 있도록 마련된 장치인 동시에 諸大名을 天皇 關白 諸大名이라는 지휘체계 안으로 끌어들이는 수단이었다고 할 수 있다. 해당 起請文의 神文을 보았을 때, 해당 문서는 秀吉과 後 陽成 天皇 간의 계약에 관한 것으로 이해할 수 있고, 諸大名은 이를

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50 <부록> 표 1. 羽柴秀吉이 작성한 起請文 일시 1577년 (天正 5) 1579년 6월 5일 1582년 6월 4일 수신인 주요 내용 - 영지의 安堵 小官兵 御宿所 - 인질의 문제 - 黑田孝高의 공적 치하 계약을 제시 中川瀨兵衛尉 -- 형제의 中川의 영지 安堵 문제 毛利輝元 吉川駿河守 - 織田軍과 毛利軍의 화친 小早川左衛門督 長岡兵部大輔 - 藤孝 父子 보호 약속 1582년 7월 11일 父子 血判 無 *1 無 有 有 神文 日本國中大小神祇, 특히 愛宕, 八幡 日本國中의 大小神祇, 八幡大菩薩, 愛宕, 白山 日本國中의 大小神祇, 특히八幡大菩薩 愛宕 白山 摩利支尊天,氏神 梵天 帝釋, 四大天王, 모든 日本中大小神祇, 八幡大菩薩,天滿大自在 天神, 愛宕 白山 氏神 * 1. 해당 起請文은 현재 확인 가능한 史料가 寫本을 근거로 하기 때문에 血判의 유무를 알 수 없다. * 출처는 다음과 같다. 黑田 = 黑田文書 96), 信長 = 增訂 織田信長文書の硏究 97), 武家 = 武家事紀, 細川 = 細川文書 98). 표 2. 秀次 사건 관련 사항 및 起請文 목록 일시 작성자 수신인 1595年 7월 8일 秀次 高野山으로 추방 同年 7월 12일 石田三成, 增田長盛 없음 미상 미상 同年 7월 15일 秀次 자살 宮部繼潤, 前田玄以, 前田利家 同年 7월 20일 宇喜田秀家 富田一白, 長束正家, 織田信雄 이하 30명 石田三成, 增田長盛 德川家康, 毛利輝元, 불명 同年 7월 小早川隆景 형식 출전 靈社上卷 木下 靈社上卷 毛利 靈社上卷 木下 불명 毛利 96) 兵庫県史 史料 編 中世9, ) 奧野高廣 編, 增訂 織田信長文書の硏究 上, 下. 東京 : 吉川弘文館, ) 永靑文庫叢書 細川文書 中世 編, 東京 : 吉川弘文館, (이후 細川文書 로 약칭.) 출처 * 黑田 信長 武家 등 細川

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52 출처 ねね 聚樂 毛利, 木下 毛利, 島津, 慶長등

53 참고문헌 - 史料 (가나다순) 誓紙一卷 (東京國立博物館 소장). 加藩國初遺文 (森田平次 編, 加藩國初遺文, 金澤市立圖書館加越 能文庫, 1970.) 家忠日記增補追加 제13권 (東京大史料編纂所 所藏) 甲陽日記 (東京大史料編纂所 所藏) 兼見卿記 제1권. (齋木一馬, 染谷光廣 校訂, 東京 : 續群書類從完成 會, 1971.) 兼見卿記 제4권. (金子拓, 遠藤珠紀 校訂, 東京 : 八木書店古書出版 部, 2014) 公卿補任 中編. ( 国史大系 第10卷.) 慶長三年誓紙前書 (東京大史料編纂所 所藏) 寬永幸行記 (日本國立國會圖書館 所藏) 金山城と由良氏 (太田市教育委員會 編, 太田 太田市教育委員會, 1996) 多聞院日記 (辻善之助 編, 東京 : 角川書店, 1968.) 大友家文書錄 (東京大史料編纂所 所藏) 木下文書 ( 大阪城天守閣所藏文書 第3卷, 大阪 : 大阪城天守閣, 2009.) 武家事紀 (山鹿素行全集刊行會 編, 武家事紀 中卷, 山鹿素行全集 刊行會, 1916.) 細川文書 (外題 細川侯爵家文書, 東京大史料編纂所 所藏) 言經卿記 (東京大史料編纂所 所藏) 玉露叢 (矢野太郞 編, 國史叢書 제43권, 東京 : 國史硏究會, 1917.)

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61 日文 要旨 起請文とは 中世を象徴する文書形式の一つである それゆえ 今 までの起請文研究は時期的に中世に集中してきた それに対し 最近 では戦国時代や江戸幕府の起請文が盛んに研究されている とくに 東国の戦国大名の起請文活用に関する研究が主流になっている だが このような先行研究には戦国時代と近世の間に位置する織豊 政権の起請文に関する研究は数少なく 研究されているのもほとんど 文禄四年 一五九三 秀次事件以後のことが多い 近世起請文研究に おいても 織豊政権の影響は考えられていない しかし 豊臣秀吉は 政治的に重要な場面で起請文を活用する傾向を見せるが その原因は 未だ究明されていない 特に秀次事件から 霊社上巻起請文 という 形式の起請文を取立てたが その原因や背景もまだ明らかにされてい ない このようなことを解明するためには 秀吉が作成した起請文と豊臣 政権が取立てた起請文群を対象として研究する必要がある 先ずは 秀吉が作成した起請文の特徴を把握する前提として 戦国大名の起請 文の活用の様子を確認する 戦国大名は上下関係 対等関係を前提に 起請文を交換した そして起請文の真偽を判断するために 血判 と いう要素が使われた 血判 は 文書と作成者を直接結びつかせる ため使われたと思われる 受信人を記載することも同じである この ように 文書と受信人を結び付ける ことが一般化されたのは 戦国 時代に起請文が人間同士の契約を記録するために作成する文書として 認識されたからである しかし 起請文が人間同士の契約を記録する 文書として認識されるようになったことが その本質である 神仏の 権威 を否定することではない 弱化されたとはいえ 神仏の権威が 人々に対して影響力を持っていったことは否定できない さて 秀吉が作成した起請文として現在確認できるものは計四通で ある 期間は天正五年 一五七七 から同十年までである その起請

62 文を分析した結果 彼の起請文活用様相は戦国大名のそれとほとんど 合致する 神文に勧請する神仏の数が徐々に増えること そして勧請 する神仏が大凡地域性がない神仏であること 京都を治める地位に なってから仏教系の神仏が登場したのは特徴的である 整理すれば 彼は人間同士の契約のために起請文を活用し 必要に従って血判を据 えるとか勧請する神仏を追加するなどの様相を見せる それ故 彼の 対起請文認識はほかの戦国大名と類似的であったと評価できる 天正十五年 一五八八 の聚楽第行幸において取り立てた起請文は 秀吉と後陽成天皇の間で行われた契約を諸大名が遵守すると誓約した ものである 天正十六年四月 秀吉の家である聚楽第に天皇が行幸 し その二日目に諸大名が起請文を作成した その内容は行幸に参加 できたことに対する感謝 天皇家及び公家 門跡宛の知行を永代守る こと 秀吉の命令に従うこと 三つである この起請文は 聚樂第行幸記 によれば 秀吉の命令によって作成 されたもので その宛先は後陽成天皇である 当該起請文の特徴は 第一は 連署者のほとんどが豊臣氏を称していることである これは 秀吉が個人的に進上した知行などに諸大名を関わらせるための装置で ある 第二は 案文や返答に該当する起請文がないことである 諸大 名が該当契約の当事者ではないからである 諸大名は第三者として その契約の遵守を誓約したのである これは該当起請文の神文に勧請 された神仏が秀吉と後陽成天皇と関係ある神仏だけであることからも 窺える 第三は行幸において起請文を作成する先例がなかったことで ある 秀吉は諸大名を擬制的に豊臣家の一門に化させて天皇 關白 諸大名という体系を作り出した そのため 秀吉は先例を遵守せず 三日予定の行幸を五日に変化し それを祝いするという理屈で土地や 地子を進上した そして それを守らせるという名文で起請文を作成 させたのである このような起請文の活用方式は 戦国時代のそれと 類似であると言える しかし 秀吉と諸大名の一門関係があくまでも 擬制的なものであった点が違うところである 恐らく 秀吉が行幸と

63 いう行事を催した理由は このような関係を作り出そうとしたからで あろう 文禄四年 関白兼豊臣家の家督であった豊臣秀次が秀吉により追放 され 遂には自殺する事件が発生した そのとき 秀吉は奉行衆と諸 大名から起請文を取立てたが その理由は新しく豊臣家の家督になる 秀頼に対する忠誠を強制することである この時 諸大名は羽柴氏を 称して 秀頼と諸大名は家督と一門の関係を成したのである そして 神文として 霊社上卷起請文 という形式を採用したが その理由は 恐らく神仏の権威を最大限に活用して 秀頼に対する諸大名の忠誠を 確かめたいという秀吉の願いが反映された結果であろう そして 慶長三年 一五九八 秀吉の死亡前後に一連の起請文が 作成されたが その内容や形式から見れば 文禄四年起請文群の延長 線上にあると評価できる 整理すれば 秀吉の起請文活用の様子は基本的に戦国大名のそれと 類似であると評価できる 特に織田政権期の起請文はほとんど違いが ないと言える 天正十五年聚樂第行幸の起請文の場合 忠誠を誓約す る もしくは命令や法度の遵守のために起請文を作成させるという様 式は類似であるが 天皇の権威を活用した点が特徴的である しかし 秀次事件をきっかけに 秀吉は 霊社上卷起請文 という 神文を採択することで 秀頼に対する諸大名の忠誠を確保させようと した これは 同年の御掟と合わせて 諸大名が豊臣政権に提出する 起請文が一定な形式に統一される結果になった ひいては 以後江戸 幕府の起請文に影響を与え 近世の起請文が 形骸化された と評価 される要因になったのである キーワード 豊臣秀吉, 起請文, 聚樂第行幸, 霊社上卷起請文 学籍番号 2011ー

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