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교육 과 학기 술부 고 시 제 호 초 중등교육법 제23조 제2항에 의거하여 초 중등학교 교육과정을 다음과 같이 고시합니다. 2011년 8월 9일 교육과학기술부장관 1. 초 중등학교 교육과정 총론은 별책 1 과 같습니다. 2. 초등학교 교육과정은 별책

시험지 출제 양식

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초등국어에서 관용표현 지도 방안 연구

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우리나라의 전통문화에는 무엇이 있는지 알아봅시다. 우리나라의 전통문화를 체험합시다. 우리나라의 전통문화를 소중히 여기는 마음을 가집시다. 5. 우리 옷 한복의 특징 자료 3 참고 남자와 여자가 입는 한복의 종류 가 달랐다는 것을 알려 준다. 85쪽 문제 8, 9 자료

상품 전단지

::: 해당사항이 없을 경우 무 표시하시기 바랍니다. 검토항목 검 토 여 부 ( 표시) 시 민 : 유 ( ) 무 시 민 참 여 고 려 사 항 이 해 당 사 자 : 유 ( ) 무 전 문 가 : 유 ( ) 무 옴 브 즈 만 : 유 ( ) 무 법 령 규 정 : 교통 환경 재

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민주장정-노동운동(분권).indd

과 위 가 오는 경우에는 앞말 받침을 대표음으로 바꾼 [다가페]와 [흐귀 에]가 올바른 발음이 [안자서], [할튼], [업쓰므로], [절믐] 풀이 자음으로 끝나는 말인 앉- 과 핥-, 없-, 젊- 에 각각 모음으로 시작하는 형식형태소인 -아서, -은, -으므로, -음

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時 習 說 ) 5), 원호설( 元 昊 說 ) 6) 등이 있다. 7) 이 가운데 임제설에 동의하는바, 상세한 논의는 황패강의 논의로 미루나 그의 논의에 논거로서 빠져 있는 부분을 보강하여 임제설에 대한 변증( 辨 證 )을 덧붙이고자 한다. 우선, 다음의 인용문을 보도록

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伐)이라고 하였는데, 라자(羅字)는 나자(那字)로 쓰기도 하고 야자(耶字)로 쓰기도 한다. 또 서벌(徐伐)이라고도 한다. 세속에서 경자(京字)를 새겨 서벌(徐伐)이라고 한다. 이 때문에 또 사라(斯羅)라고 하기도 하고, 또 사로(斯盧)라고 하기도 한다. 재위 기간은 6

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한울타리36호_완성본

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11민락초신문4호


제1절 조선시대 이전의 교육

사진 24 _ 종루지 전경(서북에서) 사진 25 _ 종루지 남측기단(동에서) 사진 26 _ 종루지 북측기단(서에서) 사진 27 _ 종루지 1차 건물지 초석 적심석 사진 28 _ 종루지 중심 방형적심 유 사진 29 _ 종루지 동측 계단석 <경루지> 위 치 탑지의 남북중심

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96부산연주문화\(김창욱\)

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목 차 국회 1 월 중 제 개정 법령 대통령령 7 건 ( 제정 -, 개정 7, 폐지 -) 1. 댐건설 및 주변지역지원 등에 관한 법률 시행령 일부개정 1 2. 지방공무원 수당 등에 관한 규정 일부개정 1 3. 경력단절여성등의 경제활동 촉진법 시행령 일부개정 2 4. 대

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정 답 과 해 설 1 (1) 존중하고 배려하는 언어생활 주요 지문 한 번 더 본문 10~12쪽 [예시 답] 상대에게 상처를 주고 한 사 람의 삶을 파괴할 수도 있으며, 사회 전체의 분위기를 해쳐 여러 가지 사회 문제를 발생시킬 수 있다. 04 5

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참고 금융분야 개인정보보호 가이드라인 1. 개인정보보호 관계 법령 개인정보 보호법 시행령 신용정보의 이용 및 보호에 관한 법률 시행령 금융실명거래 및 비밀보장에 관한 법률 시행령 전자금융거래법 시행령 은행법 시행령 보험업법 시행령 자동차손해배상 보장법 시행령 자본시장과

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580 인물 강순( 康 純 1390(공양왕 2) 1468(예종 즉위년 ) 조선 초기의 명장.본관은 신천( 信 川 ).자는 태초( 太 初 ).시호는 장민( 莊 愍 ).보령현 지내리( 保 寧 縣 池 內 里,지금의 보령시 주포면 보령리)에서 출생하였다.아버지는 통훈대부 판무

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3. 은하 1 우리 은하 위 : 나선형 옆 : 볼록한 원반형 태양은 은하핵으로부터 3만광년 떨어진 곳에 위치 2 은하의 분류 규칙적인 모양의 유무 타원은하, 나선은하와 타원은하 나선팔의 유무 타원은하와 나선 은하 막대 모양 구조의 유무 정상나선은하와 막대나선은하 4.

근대문화재분과 제4차 회의록(공개)

인천광역시의회 의원 상해 등 보상금 지급에 관한 조례 일부개정조례안 의안 번호 179 제안연월일 : 제 안 자 :조례정비특별위원회위원장 제안이유 공무상재해인정기준 (총무처훈령 제153호)이 공무원연금법 시행규칙 (행정자치부령 제89호)으로 흡수 전면 개

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교육실습 소감문

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단위: 환경정책 형산강살리기 수중정화활동 지원 10,000,000원*90%<절감> 형산강살리기 환경정화 및 감시활동 5,000,000원*90%<절감> 9,000 4, 민간행사보조 9,000 10,000 1,000 자연보호기념식 및 백일장(사생,서예)대회 10

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며 오스본을 중심으로 한 작은 정부, 시장 개혁정책을 밀고 나갔다. 이에 대응 하여 노동당은 보수당과 극명히 반대되는 정강 정책을 내세웠다. 영국의 정치 상황은 새누리당과 더불어 민주당, 국민의당이 서로 경제 민주화 와 무차별적 복지공약을 앞세우며 표를 구걸하기 위한

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1) 음운 체계상의 특징 음운이란 언어를 구조적으로 분석할 때, 가장 작은 언어 단위이다. 즉 의미분화 를 가져오는 최소의 단위인데, 일반적으로 자음, 모음, 반모음 등의 분절음과 음장 (소리의 길이), 성조(소리의 높낮이) 등의 비분절음들이 있다. 금산방언에서는 중앙

내지4월최종

주지스님의 이 달의 법문 성철 큰스님 기념관 불사를 회향하면서 20여 년 전 성철 큰스님 사리탑을 건립하려고 중국 석굴답사 연구팀을 따라 중국 불교성지를 탐방하였습 니다. 대동의 운강석굴, 용문석굴, 공의석굴, 맥적산석 굴, 대족석굴, 티벳 라싸의 포탈라궁과 주변의 큰

15강 판소리계 소설 심청전 다음 글을 읽고 물음에 답하시오. [1106월 평가원] 1)심청이 수궁에 머물 적에 옥황상제의 명이니 거행이 오죽 하랴. 2) 사해 용왕이 다 각기 시녀를 보내어 아침저녁으로 문 안하고, 번갈아 당번을 서서 문안하고 호위하며, 금수능라 비

2 국어 영역(A 형). 다음 대화에서 석기 에게 해 줄 말로 적절한 것은? 세워 역도 꿈나무들을 체계적으로 키우는 일을 할 예정 입니다. 주석 : 석기야, 너 오늘따라 기분이 좋아 보인다. 무슨 좋은 일 있니? 석기 : 응, 드디어 내일 어머니께서 스마트폰 사라고 돈

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京 畿 鄕 土 史 學 第 16 輯 韓 國 文 化 院 聯 合 會 京 畿 道 支 會

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Transcription:

序 言 今 次 釜 山 大 学 校 韓 国 民 族 文 化 研 究 所 との 学 術 交 流 の 一 環 として 第 2 回 共 同 学 術 会 議 都 市 移 住 民 と 空 間 変 形 を 212 年 2 月 9 日 釜 山 大 学 校 において 開 催 できました ことを 心 よりお 慶 び 申 し 上 げますとともに 釜 山 大 学 校 の 関 係 者 のみなさんに 改 めて 御 礼 申 し 上 げます 釜 山 大 学 校 韓 国 民 族 文 化 研 究 所 と 大 阪 市 立 大 学 都 市 文 化 研 究 センターとの 交 流 は 29 年 7 月 にはじまりました この 時 金 東 哲 所 長 以 下 の 調 査 団 が 大 阪 市 立 大 学 に 来 学 され 親 しく 懇 談 させていただきました 同 年 1 月 13 日 再 度 金 所 長 が 来 学 され 大 阪 市 立 大 学 都 市 文 化 研 究 センターと 釜 山 大 学 校 韓 国 民 族 文 化 研 究 所 との 間 の 学 術 交 流 に 関 する 協 定 書 を 締 結 するにいたります その 後 21 年 5 月 6 月 の 釜 山 での 講 演 会 シンポジウムへの 大 阪 市 立 大 学 関 係 者 の 参 加 を 経 て 211 年 2 月 9 日 第 1 回 合 同 シンポジウム( 共 同 学 術 会 議 )を 大 阪 市 立 大 学 で 開 催 することとなりました そして 偶 然 ちょうどその 一 年 後 の 同 じ 日 釜 山 で 第 2 回 のシンポジウムを 開 催 する にいたりました 今 回 のシンポジウムは 大 阪 市 立 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 が 採 択 されました 日 本 学 術 振 興 会 頭 脳 循 環 を 加 速 する 若 手 研 究 者 戦 略 的 海 外 派 遣 プログラム の 第 1 回 国 際 共 同 セミ ナーを 兼 ねるものでした 同 プログラムでは 212 年 度 以 降 大 阪 市 立 大 学 から 若 手 研 究 者 を 釜 山 大 学 校 に 長 期 派 遣 させていただく 予 定 です 今 回 のシンポジウムが 釜 山 大 学 校 韓 国 民 族 文 化 研 究 所 と 大 阪 市 立 大 学 都 市 文 化 研 究 セ ンター 相 互 をつなぐ 学 術 研 究 研 究 者 養 成 のための 着 実 な 一 歩 となるだろうことを 確 信 しております 今 後 とも よろしくお 願 いします 212 年 3 月 大 阪 市 立 大 学 都 市 文 化 研 究 センター 所 長 頭 脳 循 環 プログラム 主 担 当 研 究 者 大 阪 市 立 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 教 授 仁 木 宏

大 阪 市 立 大 学 都 市 文 化 センター 釜 山 大 学 校 韓 国 民 族 文 化 研 究 所 人 文 韓 国 (HK) 研 究 グループによる 第 2 回 共 同 シンポジウムの 開 催 にあたって 大 阪 市 立 大 学 都 市 文 化 センターと 釜 山 大 学 校 韓 国 民 族 文 化 研 究 所 人 文 韓 国 (HK) 研 究 グループは21 年 度 に 学 術 交 流 協 定 を 結 び 日 韓 両 国 において 毎 年 1 回 交 代 で 共 同 学 術 会 議 を 開 催 することが 決 定 しました 昨 年 の211 年 第 1 回 目 が 大 阪 市 立 大 学 都 市 文 化 センターで 盛 大 に 開 かれ それを 受 けて212 年 の 第 2 回 目 を 釜 山 大 学 校 韓 国 民 族 文 化 研 究 所 人 文 韓 国 (HK) 研 究 団 が 主 催 することになりました 大 阪 市 立 大 学 都 市 文 化 研 究 センターは 大 阪 市 立 大 学 におけるグローバル 都 市 研 究 の 創 造 拠 点 構 築 を 目 的 に 都 市 の 多 面 的 な 課 題 に 向 けた 先 端 的 研 究 に 取 組 む 代 表 的 な 研 究 所 といえます 都 市 研 究 の 蓄 積 を 基 礎 に 多 様 な 都 市 問 題 に 対 して 実 践 的 にアプローチ し 現 在 は 都 市 研 究 のメッカとして 評 価 されています 一 方 釜 山 大 学 校 韓 国 民 族 文 化 研 究 所 人 文 韓 国 (HK) 研 究 団 は 人 間 の 生 の 営 みにおける 根 源 的 かつ 具 体 的 な 空 間 場 所 であるローカルに 注 目 しています モダニティを 表 象 する 国 家 中 央 中 心 主 義 一 元 主 義 の 思 想 は 地 域 を 周 縁 的 かつ 副 次 的 なものと 看 做 すがゆえに ローカル そしてローカ ルにおける 人 々のいま ここへの 問 題 意 識 を 触 発 したのです 本 研 究 グループのローカ リティ 研 究 はそのような 根 源 的 かつ 統 合 的 なアプローチから 行 われています 今 日 世 界 は 急 激 に 変 化 しながらグローバル 時 代 を 迎 えました グローバル 時 代 に 入 って 都 市 ローカルの 独 自 性 やダイナミズムに 新 たな 注 目 が 集 まっています このよう な 世 界 の 変 化 に 合 わせて 大 阪 と 釜 山 を 地 域 基 盤 とする 両 大 学 の 研 究 所 が 現 在 までの 蓄 積 の 上 にさらなる 学 問 的 な 交 流 を 遂 げ 相 互 協 力 および 連 帯 を 維 持 することで その 社 会 的 影 響 力 は 倍 増 されるでしょう このような 期 待 から 本 シンポジウムが 都 市 ロ ーカルに 関 する 熟 考 と 情 熱 の 場 を 広 げ より 旺 盛 な 学 問 的 交 流 の 場 となることを 願 って やまみません 212 年 2 月 9 日 釜 山 大 学 校 韓 国 民 族 文 化 研 究 所 人 文 韓 国 (HK) 研 究 団 所 長 金 東 哲

活 動 報 告 212 年 2 月 8 日 釜 山 大 学 校 韓 国 民 族 文 化 研 究 所 表 敬 訪 問 釜 山 大 学 校 韓 国 民 族 文 化 研 究 所 の 金 東 哲 所 長 仁 木 宏 先 生 からのご 挨 拶 ( 左 から 3 人 目 )を 始 め 研 究 員 の 方 々 212 年 2 月 9 日 釜 山 大 学 校 人 文 館 51 号 進 行 : 車 胤 汀 ( 釜 山 大 学 校 ) 1:~1:1 開 会 挨 拶 金 東 哲 所 長 の ご 挨 拶 仁 木 宏 先 生 の ご 挨 拶 第 1 部 : 都 市 1:1~1:3 1:3~1:5 1:5~11:1 11:2~12:5 移 住 民 の 生 活 近 代 大 阪 の 都 市 下 層 社 会 複 合 する 諸 要 素 佐 賀 朝 ( 大 阪 市 立 大 学 ) 国 境 をまたぐ 生 活 圏 の 形 成 在 日 済 州 島 出 身 者 の 生 活 史 から 伊 地 知 紀 子 ( 大 阪 市 立 大 学 ) 釜 山 移 住 民 の 定 着 と 生 活 ネットワーク 湖 南 出 身 者 を 中 心 に 車 喆 旭 ( 釜 山 大 学 校 ) 第 1 部 討 論 司 会 : 文 載 媛 ( 釜 山 大 学 校 ) 討 論 : 辛 智 恩 ( 釜 山 大 学 校 ) 安 美 貞 ( 韓 国 海 洋 大 学 校 )

佐 賀 朝 先 生 伊 地 知 紀 子 先 生 車 喆 旭 先 生 第 1 部 討 論 第 2 部 : 都 市 14:2~14:4 14:4~15: 15:~15:2 15:2~15:4 15:5~17:5 空 間 の 再 編 植 民 都 市 釜 山 の 空 間 配 置 と 坂 上 の 村 の 時 空 間 性 呉 美 一 ( 釜 山 大 学 校 ) 貧 困 地 域 の 社 会 空 間 大 阪 市 の 都 市 貧 困 問 題 の 分 析 川 野 英 二 ( 大 阪 市 立 大 学 ) 都 市 疎 外 空 間 と 村 の 人 々の 経 験 釜 山 乭 山 町 ( 村 )を 中 心 に 孔 允 京 ( 釜 山 大 学 校 ) 戦 時 期 に 登 場 した 在 日 集 住 地 の 地 域 的 展 開 ウトロ 地 区 における 場 所 の 記 憶 全 ウンフィ( 大 阪 市 立 大 学 ) 第 2 部 討 論 司 会 : 李 尚 峰 ( 釜 山 大 学 校 ) 討 論 : 朴 奎 澤 ( 釜 山 大 学 校 ) 崔 永 鎬 ( 霊 山 大 学 校 )

呉 美 一 先 生 川 野 英 二 先 生 孔 允 京 先 生 全 ウンフィさん 第 2 部 討 論 記 念 写 真

日 程 1: 1:1 開 会 辞 進 行 : 車 胤 汀 ( 釜 山 大 ) 1 部 : 都 市 移 住 民 의 生 活 1:1 1:3 近 代 大 阪 の 都 市 下 層 社 会 複 合 する 諸 要 素 佐 賀 朝 ( 大 阪 市 立 大 学 ) 1:3 1:5 国 境 をまたぐ 生 活 圏 の 形 成 在 日 済 州 島 出 身 者 の 生 活 史 から 伊 地 知 紀 子 ( 大 阪 市 立 大 学 ) 1:5 11:1 釜 山 移 住 民 の 定 着 と 生 活 ネットワークー 湖 南 出 身 者 を 中 心 に 車 喆 旭 ( 釜 山 大 ) 11:1 11:2 休 息 11:2 12:5 1 部 討 論 司 會 : 文 載 媛 ( 釜 山 大 ), 討 論 : 辛 智 恩 ( 釜 山 大 ), 安 美 貞 ( 韓 國 海 洋 大 ) 12:5 14:2 中 食 2 部 : 都 市 空 間 의 再 編 14:2 14:4 植 民 都 市 釜 山 の 空 間 配 置 と 坂 上 の 村 の 時 空 間 性 吳 美 一 ( 釜 山 大 ) 14:4 15: 貧 困 地 域 の 社 会 空 間 大 阪 市 の 都 市 貧 困 問 題 の 分 析 川 野 英 二 ( 大 阪 市 立 大 学 ) 15: 15:2 都 市 疎 外 空 間 と 村 の 人 々の 経 験 釜 山 乭 山 町 ( 村 )を 中 心 に 孔 允 京 ( 釜 山 大 ) 15:2 15:4 戦 時 期 に 登 場 した 在 日 集 住 地 の 地 域 的 展 開 ウトロ 地 区 における 場 所 の 記 憶 全 ウンフィ( 大 阪 市 立 大 学 ) 15:4 15:5 休 息 15:5 17:5 2 部 討 論 司 會 : 李 尙 峰 ( 釜 山 大 ), 討 論 : 朴 奎 澤 ( 釜 山 大 ), 崔 永 鎬 ( 靈 山 大 )

일 정 1: 1:1 개회사 진행 : 차윤정(부산대) 제1부 도시 이주민의 생활 1:1 1:3 근대 오사카의 도시하층사회 복합적 요소 사가 아시타(오사카시립대학) 1:3 1:5 국경선을 넘는 생활권 의 형성-재일 제주도 출신자의 생활사으로부터- 이지치 노리코(오사카시립대학) 1:5 11:1 부산이주민의 정착과 생활 네트워크-호남출신자를 중심으로- 차철욱(부산대) 11:1 11:2 휴식 11:2 12:5 1부 토론 사회 : 문재원(부산대), 토론: 신지은(부산대), 안미정(한국해양대) 12:5 14:2 점심 제2부 도시 공간의 재편 14:2 14:4 식민도시 부산의 공간 배치와 산동네의 시공간성 오미일(부산대) 14:4 15: 빈곤지역의 사회공간-오사카시의 도시빈곤문제의 분석- 카와노 에이지(오사카시립대학) 15: 15:2 도시 소외공간과 마을 사람들의 경험-부산 돌산마을을 중심으로- 공윤경(부산대) 15:2 15:4 전후 재일조선인 집주지의 지역적 전개 우토로 마을의 장소의 기억을 통해 전은휘(오사카시립대학) 15:4 15:5 휴식 15:5 17:5 2부 토론 사회 : 이상봉(부산대), 토론 : 박규택(부산대), 최영호(영산대)

目 次 1 部 : 都 市 移 住 民 의 生 活 近 代 大 阪 の 都 市 下 層 社 会 複 合 する 諸 要 素 3 佐 賀 朝 ( 大 阪 市 立 大 学 ) 国 境 をまたぐ 生 活 圏 の 形 成 在 日 済 州 島 出 身 者 の 生 活 史 から 15 伊 地 知 紀 子 ( 大 阪 市 立 大 学 ) 釜 山 移 住 民 の 定 着 と 生 活 ネットワークー 湖 南 出 身 者 を 中 心 に 31 車 喆 旭 ( 釜 山 大 ) 2 部 : 都 市 空 間 의 再 編 植 民 都 市 釜 山 の 空 間 配 置 と 坂 上 の 村 の 時 空 間 性 39 吳 美 一 ( 釜 山 大 ) 貧 困 地 域 の 社 会 空 間 大 阪 市 の 都 市 貧 困 問 題 の 分 析 45 川 野 英 二 ( 大 阪 市 立 大 学 ) 都 市 疎 外 空 間 と 村 の 人 々の 経 験 釜 山 乭 山 町 ( 村 )を 中 心 に 59 孔 允 京 ( 釜 山 大 ) 戦 時 期 に 登 場 した 在 日 集 住 地 の 地 域 的 展 開 ウトロ 地 区 における 場 所 の 記 憶 63 全 ウンフィ( 大 阪 市 立 大 学 )

목 차 제1부 도시 이주민의 생활 근대 오사카의 도시하층사회 복합적 요소 77 사가 아시타(오사카시립대학) 국경선을 넘는 생활권 의 형성 -재일 제주도 출신자의 생활사으로부터- 91 이지치 노리코(오사카시립대학) 부산이주민의 정착과 생활 네트워크-호남출신자를 중심으로- 15 차철욱(부산대) 제2부 도시 공간의 재편 식민도시 부산의 공간 배치와 산동네의 시공간성 121 오미일(부산대) 빈곤지역의 사회공간-오사카시의 도시빈곤문제의 분석- 147 카와노 에이지(오사카시립대학) 도시 소외공간과 마을 사람들의 경험-부산 돌산마을을 중심으로- 161 공윤경(부산대) 전후 재일조선인 집주지의 지역적 전개 우토로 마을의 장소의 기억을 통해 171 전은휘(오사카시립대학)

近 代 大 阪 の 都 市 下 層 社 会 複 合 する 諸 要 素 佐 賀 朝 ( 大 阪 市 立 大 学 ) [ 目 次 ] 1. 課 題 と 視 角 2. 明 治 期 の 都 市 下 層 社 会 1) 都 市 人 口 の 動 向 2) 近 世 都 市 下 層 社 会 の 解 体 変 容 3. 大 正 期 の 都 市 下 層 社 会 1) 都 市 発 展 と 社 会 的 矛 盾 2) 大 正 期 のスラム 多 様 な 要 素 の 複 合 4. 昭 和 戦 前 期 の 都 市 下 層 1) 巨 大 都 市 と 貧 困 問 題 2) 不 良 住 宅 地 区 の 実 態 5. 結 論 1. 課 題 と 視 角 本 報 告 は 近 世 以 来 の 展 開 をふまえて 近 代 大 阪 における 都 市 下 層 社 会 の 変 容 と 拡 大 の 動 向 とその 社 会 的 構 造 そこでの 人 々の 生 活 のありようについて 概 観 するものである 日 本 の 近 代 都 市 史 研 究 において 都 市 下 層 社 会 論 は 重 要 な 分 野 をなしてきた 特 に 欧 米 の ポストモダンの 理 論 による 影 響 を 強 くうけた199 年 代 以 降 の 研 究 では 都 市 下 層 民 を 排 除 する 近 代 社 会 の 犯 罪 的 性 格 が 強 調 された(*1) そこでは 都 市 下 層 社 会 が 近 代 のジャーナリズム によって 怠 惰 や 不 衛 生 無 秩 序 無 規 範 などを 特 徴 とする 特 異 な 社 会 として 描 かれたことを 強 調 し そのことから 逆 に 近 代 社 会 が 勤 勉 で 衛 生 的 で 秩 序 だった 規 範 ある 良 民 に よって 構 成 される 均 質 な 社 会 という 性 格 を 持 っていたことを 浮 かび 上 がらせたのである しかし 社 会 史 研 究 の 問 題 として 考 えた 場 合 このような 議 論 には 落 とし 穴 がある ここで は 下 層 社 会 と 一 般 社 会 という 対 比 を 前 提 に 下 層 社 会 を 孤 立 した 社 会 として 分 析 し その 特 異 性 を 強 調 し 近 代 社 会 の 陰 画 として 描 く 傾 向 が 強 い そのため 都 市 下 層 民 を 地 域 の 社 会 的 諸 関 係 の 中 に 位 置 づける 視 点 や 作 業 が 不 十 分 となるのである しかし 実 際 に は 都 市 下 層 民 が 集 住 する 地 域 は 近 代 都 市 大 阪 の 社 会 構 造 全 体 の 中 に 位 置 付 いていた した がって 都 市 下 層 を 一 つの 構 成 要 素 として 含 み 込 んだ 地 域 社 会 の 構 造 的 把 握 が 必 要 になる 本 報 告 では 近 世 ~ 近 代 の 都 市 社 会 において 多 くの 場 合 集 住 地 域 としての 特 徴 を 持 って 存 在 した 都 市 下 層 社 会 について 都 市 大 阪 全 体 の 展 開 も 視 野 に 入 れて 見 ていく 下 層 民 の 集 住 地 域 が 時 代 ごとにどのように 形 成 され 展 開 したか またその 特 徴 は 何 か などに 注 目 しながら 近 代 大 阪 の 都 市 下 層 社 会 を 概 観 したい - 3 -

2. 明 治 期 の 都 市 下 層 社 会 1) 都 市 人 口 の 動 向 はじめに 明 治 時 代 の 大 阪 市 街 地 の 人 口 動 向 について 見 よう(*2) 大 阪 市 街 地 の 人 口 は 18 世 紀 後 半 の 約 42 万 人 をピークに その 後 減 少 を 続 け 明 治 元 年 である1868 年 には 約 28 万 人 と なったとされる 187 年 代 にも 人 口 の 停 滞 が 続 いたが 松 方 デフレの 影 響 で 農 村 が 深 刻 な 不 況 にあえいだ188 年 代 はじめから 都 市 への 流 入 人 口 が 増 大 したことによって 大 阪 市 街 地 の 人 口 は 順 調 な 増 加 へと 転 じた その 後 大 阪 市 街 地 (1889 年 から 大 阪 市 に)の 人 口 は 1891 年 に48 万 人 に 達 したが その 後 の 増 加 はやや 鈍 り 1896 年 にようやく5 万 人 を 越 えた 189 年 代 に 入 ってからの 人 口 増 加 の 鈍 化 は 中 心 市 街 地 の 人 口 がすでに 飽 和 状 態 にあったことを 意 味 する 一 方 で 大 阪 市 を 取 り 巻 くように 存 在 していた 西 成 郡 東 成 郡 では 188~9 年 代 を 通 じ て ほぼ 一 貫 して 増 加 した これは 市 街 地 中 心 部 の 人 口 が 飽 和 したため 周 辺 部 への 人 口 流 入 が 増 加 したものと 見 られる 旧 来 の 市 街 地 の 外 縁 部 には188 年 代 以 降 工 業 化 の 進 展 にとも なって 新 しい 工 場 の 立 地 とそれに 伴 う 住 宅 ( 多 くは 長 屋 )の 建 設 も 進 んだため 市 街 地 の 外 延 的 拡 大 すなわちスプロール 化 が 始 まったのである 1897 年 大 阪 市 は 第 一 次 市 域 拡 張 を 実 施 した これは 旧 市 街 の 外 縁 部 に 会 社 工 場 が 立 地 し 人 口 が 流 入 したことや 築 港 事 業 をはじめとする 都 市 建 設 の 進 展 にともなって 市 街 地 が 拡 大 したのをうけたものであった 大 阪 市 は 行 政 区 域 を 越 えて 拡 張 していく 社 会 的 経 済 的 な 意 味 での 都 市 域 を 後 追 いするかのように その 範 囲 を 拡 大 し 都 市 自 治 体 としての 財 政 基 盤 の 強 化 を 目 ざした この 第 一 次 市 域 拡 張 の 結 果 大 阪 市 の 人 口 は75 万 人 に 達 し さらに 工 業 化 が 本 格 的 に 進 んだ2 世 紀 の 初 めには1 万 人 を 突 破 したのである こうして188~19 年 代 における 工 業 化 と 都 市 開 発 の 進 展 によって 大 阪 は 規 模 の 面 で も 構 造 の 面 でも 近 代 的 な 巨 大 都 市 に 成 長 したのである 2) 近 世 都 市 下 層 社 会 の 解 体 変 容 近 世 から 近 代 への 移 行 期 にあたる19 世 紀 の 後 半 期 において 大 阪 の 都 市 下 層 社 会 は どのよ うに 変 化 しただろうか この 時 期 は 近 世 以 来 の 下 層 民 集 住 地 の 典 型 であった 長 町 ( 名 護 町 と も 呼 ばれた)が 近 代 的 なスラムへと 変 容 を 遂 げる 一 方 で 市 街 地 の 外 縁 部 への 人 口 流 入 によっ て 無 秩 序 な 市 街 地 化 と 過 密 化 が 進 展 し 新 たなスラムも 形 成 されていった 長 町 とその 変 容 長 町 (ながまち 日 本 橋 筋 三 ~ 五 丁 目 )は 近 世 ~ 近 代 における 大 阪 最 大 の 貧 民 集 住 地 域 である この 地 域 は 近 世 から 木 賃 宿 ( 薪 代 ていどの 安 価 な 宿 賃 で 泊 まれる 宿 屋 )とそこに 宿 泊 ( 事 実 上 は 居 住 )する 膨 大 な 日 雇 層 の 集 まる 下 層 民 集 住 地 域 であったが 188 年 代 以 降 農 村 からの 激 しい 人 口 流 入 によって 膨 張 拡 大 していく(*3) そうした 膨 張 の 過 程 で 近 世 において 長 町 に 都 市 下 層 民 の 集 住 地 が 形 成 される 上 で 重 要 な 軸 となっていた 木 賃 宿 仲 間 の 特 権 ( 無 宿 空 人 別 の 人 々を 宿 泊 させ 彼 らに 日 雇 の 仕 事 を 斡 旋 する - 4 -

仕 事 を 独 占 的 に 行 う)が 解 体 した 点 が 注 目 される その 結 果 木 賃 宿 は 単 なる 日 払 いの 長 屋 へと 変 容 しながら 依 然 として 日 雇 層 を 中 核 とする 膨 大 な 都 市 下 層 民 の 集 住 地 として 膨 張 を 続 けたのである 1887 年 ごろに 鈴 木 梅 四 郎 という 新 聞 記 者 が 記 した 大 阪 名 護 町 貧 民 窟 視 察 記 (*4)による と 長 町 の 貧 民 ( 都 市 下 層 民 )の 職 業 は 以 下 のようなもので 構 成 されていた a. 傘 や 団 扇 の 製 造 などに 関 わる 職 人 たち( 多 くは 自 らの 店 舗 を 持 たない 通 勤 の 職 人 ) b. 車 夫 ( 人 力 車 や 荷 車 を 曳 く 人 夫 )をはじめとした 日 雇 の 力 役 仕 事 に 従 事 する 人 々 c. 屑 拾 い 乞 食 などの 最 底 辺 の 窮 民 的 職 種 ( 数 の 上 ではこれが 最 大 ) d. 門 付 芸 人 ( 町 家 の 門 前 で 芸 をして 賃 銭 を 稼 ぐ 人 々)を 中 心 とした 多 様 な 芸 能 者 e. 女 性 や 子 供 も 多 く 含 んだマッチ 工 場 など 近 代 産 業 の 労 働 者 f. 長 町 の 表 通 りに 開 かれた 露 店 も 含 めて 零 細 な 小 売 商 人 これらは 全 体 として (1) 成 年 男 子 を 主 な 担 い 手 とした 日 雇 いや 職 人 (2) 家 族 全 員 を 担 い 手 とする ほとんど 不 熟 練 の 窮 民 的 な 労 働 力 をその 構 成 要 素 としていたと 言 える これは 一 方 では 近 世 以 来 の 巨 大 都 市 に 普 遍 的 に 見 られた 裏 店 の 民 衆 世 界 (*5)と 共 通 の 性 格 を 持 つと 言 えるが 他 方 では 職 人 的 な 要 素 が 少 なく 最 底 辺 の 窮 民 に 偏 っている 点 には 長 町 固 有 の 特 徴 があったと 言 えよう また 189 年 前 後 は 大 阪 周 辺 部 を 中 心 とした 工 業 化 の 進 展 にともなっ て マッチ 製 造 のような 近 代 産 業 の 労 働 者 も 増 加 していた 点 が 注 目 される マッチや 傘 などの 製 品 は 日 本 中 国 東 南 アジアを 舞 台 とする アジア 間 貿 易 の 主 要 製 品 としての 性 格 も 持 っており 近 世 以 来 の 長 町 の 下 層 民 は こうしてアジア 規 模 の 経 済 変 動 にも 巻 き 込 まれつつ あったのである さらに 都 市 下 層 民 と 地 域 との 関 係 という 点 で 見 逃 せないのは 長 町 では 近 世 以 来 木 賃 宿 や 質 屋 金 貸 しなどを 通 じて 地 主 家 主 たちが 下 層 民 に 吸 着 していたという 事 実 である 彼 ら は その 日 その 日 を 生 きることで 精 一 杯 の 下 層 民 たちに 宿 を 提 供 し 仕 事 の 仲 介 も 行 う 一 方 で 月 払 いよりも 割 高 な 日 払 い 家 賃 を 下 層 民 から 搾 取 し きわめて 高 利 で 金 を 貸 し 布 団 や 蚊 帳 などのレンタルや 粗 末 な 食 事 物 品 などの 販 売 も 行 っていたのである しかし 先 述 のように 木 賃 宿 の 営 業 的 な 特 権 がなくなり 地 域 住 民 の 負 担 で 学 校 を 経 営 す る 学 区 制 度 の 導 入 に 伴 って 地 主 たちの 財 政 負 担 が 増 加 した 上 187 年 代 末 から188 年 代 にかけ てコレラの 流 行 がこの 地 域 を 襲 うなどの 問 題 が 生 じたために 膨 大 な 下 層 民 に 吸 着 することの 有 利 さは 次 第 に 失 われていった その 結 果 1886 年 以 降 には 大 阪 府 の 提 案 をきっかけに 長 町 貧 民 移 転 問 題 が 発 生 した これは 長 町 の 長 屋 を 撤 去 し 都 市 下 層 民 を 市 街 地 外 部 へ 移 転 あ るいは 拡 散 させるというものであり その 基 底 には この 地 域 を 長 年 にわたって 支 配 し 下 層 民 に 吸 着 してきた 地 主 家 主 たちの 利 害 の 変 容 が 存 在 したのである 結 局 1891 年 に 大 規 模 なスラムクリアランスが 行 われ(*6) 日 本 橋 筋 に 沿 って 立 ち 並 ぶ 木 賃 宿 を 中 核 にした 近 世 的 な 長 町 の 構 造 は 解 体 し この 地 を 追 われた 都 市 下 層 民 は 長 町 の 東 西 周 辺 地 域 や 南 西 部 にあたる 釜 ヶ 崎 地 域 へと 移 動 し 新 たな 流 入 人 口 がそれに 加 わる 形 で 近 代 的 なス ラムを 形 成 していくことになる - 5 -

近 代 的 スラムの 形 成 189 年 代 は 日 清 戦 争 を 経 て 日 本 の 資 本 主 義 が 大 きく 発 展 する 時 期 であり 市 街 地 周 辺 への 人 口 流 入 が 増 大 し 新 たなスラムの 形 成 が 進 んだ 先 に 見 た 長 町 の 周 辺 では 長 町 の 長 屋 街 の 解 体 後 日 本 橋 筋 の 東 西 周 辺 地 域 に 中 小 零 細 工 場 の 集 積 と 新 たな 長 屋 の 建 設 が 日 清 戦 後 に 進 み 住 工 混 在 の 街 が 形 成 された この 地 域 は 4 章 で 述 べる 八 十 軒 長 屋 もそうであるように 主 として 家 族 持 ちの 都 市 雑 業 層 が 居 住 する 地 域 に なっていく 一 方 長 町 の 南 西 方 向 にあたる 関 西 鉄 道 線 路 と 南 海 鉄 道 が 交 差 する 地 点 の 南 側 には 釜 ヶ 崎 と 呼 ばれるスラムが 形 成 された 1897 年 の 第 一 次 市 域 拡 張 後 関 西 鉄 道 の 南 側 が 今 宮 町 とされ たが ここには 新 たな 追 い 込 み 式 の 木 賃 宿 ( 二 階 建 ての 宿 のうち 多 くは 二 階 部 分 に 多 人 数 の 単 身 者 が ザコ 寝 する 大 部 屋 が 用 意 されたもの)が 群 をなして 建 設 された また 日 雇 労 働 者 が 集 まり 彼 らに 日 々の 仕 事 を 周 旋 する 寄 せ 場 と 呼 ばれる 空 間 も 形 成 された その ため この 釜 ヶ 崎 は 当 初 は 家 族 持 ちも 少 なくなかったが しだいに 単 身 の 日 雇 労 働 者 が 集 ま る 地 域 になる(*7) これは 第 二 次 世 界 大 戦 後 の 釜 ヶ 崎 問 題 の 起 源 をなす 西 浜 町 南 大 阪 には もう 一 つ 大 きな 都 市 下 層 民 の 集 住 地 が 存 在 した それが 西 浜 町 である(*8) 近 世 には 大 坂 三 郷 に 付 属 する えた 身 分 の 村 であった 渡 辺 村 は 1887 年 に 西 浜 町 と 改 称 した 近 畿 地 方 を 中 心 に 各 地 の 被 差 別 部 落 からの 流 入 者 がここに 集 中 したことによって 貧 困 層 が 集 住 する 地 域 として 周 辺 部 へ 膨 張 していった 西 浜 町 は 1897 年 の 第 一 次 市 域 拡 張 で 大 阪 市 に 編 入 されるが 人 口 増 加 は 続 き 191 年 代 に は 全 国 最 大 規 模 の 都 市 部 落 へと 膨 張 する(192 年 の 人 口 は16 人 にも 達 した) じつは 西 浜 の 中 心 部 には 近 世 以 来 皮 革 流 通 にたずさわり 大 きな 富 を 築 いた 皮 問 屋 の 系 譜 をひく 有 力 者 がいたが 部 落 の 周 辺 部 では 人 口 流 入 と 貧 困 層 の 増 加 によってスラム 化 が 進 展 し 社 会 問 題 化 した 191 年 前 後 には こうして 膨 張 した 周 辺 部 にあたる 木 津 北 島 町 の 児 童 たちが 一 般 地 区 の 小 学 校 で 差 別 を 受 け やむを 得 ず 部 落 内 の 学 校 に 越 境 入 学 し あるいは 不 就 学 を 余 儀 なくさ れるという 問 題 も 発 生 した この 時 期 被 差 別 部 落 では 警 察 や 部 落 の 支 配 層 が 主 導 する 形 で 自 主 的 改 善 を 目 ざす 部 落 改 善 運 動 が 進 められていたが 部 落 内 の 改 善 に 努 めても 外 部 からの 差 別 がなくならない 状 況 への 不 満 が 広 がった それに 連 動 して 西 浜 部 落 の 内 部 でも 191 年 代 には 貧 しい 借 家 人 層 と 地 域 支 配 層 である 地 主 家 主 との 間 で 借 家 紛 争 が 頻 発 し 階 級 的 な 対 立 も 強 まった こう した 矛 盾 の 深 まりは 192 年 代 の 水 平 運 動 を 準 備 していくことになる 3. 大 正 時 代 の 都 市 下 層 社 会 1) 都 市 発 展 と 社 会 的 矛 盾 都 市 人 口 の 増 大 と 住 宅 難 1914~19 年 の 第 一 次 世 界 大 戦 は 日 本 経 済 の 飛 躍 的 な 発 展 をもたらし 工 業 化 の 進 展 にとも - 6 -

なって 大 都 市 への 人 口 集 中 と 都 市 化 が 大 きく 進 んだ ここでも まず 大 阪 市 とその 周 辺 の 人 口 動 向 について 見 よう 191 年 代 には 大 阪 市 を 取 り 巻 く 東 成 郡 西 成 郡 において 人 口 が 急 増 し 1914~1919 年 の 人 口 増 加 率 は 東 成 郡 44% 西 成 郡 5%にも 上 った これは 大 阪 市 周 辺 部 への 工 場 建 設 と 労 働 力 人 口 の 流 入 によるもので 急 速 に 市 街 地 化 が 進 展 し 住 宅 難 が 深 刻 な 社 会 問 題 となった(*9) この 時 期 の 住 宅 問 題 は 二 つの 内 容 を 持 っていた 第 一 に 住 宅 の 絶 対 的 な 不 足 とそれに 伴 う 家 賃 の 高 騰 による 借 家 問 題 の 発 生 である 192 年 には 大 阪 市 内 で5 万 世 帯 分 の 住 宅 が 不 足 して いるとされ 1912~1921 年 に 大 阪 市 内 の 平 均 家 賃 は 約 2 倍 に 高 騰 した 住 宅 の 不 足 分 は 1 戸 に2 世 帯 以 上 が 同 居 する 間 貸 し 間 借 り によって 補 われた また 第 二 に 粗 造 長 屋 の 建 設 と 無 秩 序 な 市 街 地 化 の 進 行 によって 住 宅 環 境 悪 化 と 過 密 化 が 問 題 になったことである こうした 住 宅 環 境 の 劣 悪 な 地 域 は 不 良 住 宅 地 区 と 呼 ばれた 都 市 の 急 膨 張 による 都 市 住 民 の 生 活 困 難 という 社 会 的 矛 盾 が 深 刻 化 したのである 米 騒 動 の 勃 発 第 一 次 大 戦 にともなう 好 景 気 で 大 都 市 周 辺 部 への 人 口 集 中 とスラム 形 成 が 進 んだが 単 身 の 日 雇 層 が 集 まるスラムとなった 釜 ヶ 崎 はその 典 型 であった(*1) 釜 ヶ 崎 を 含 む 今 宮 町 では 1913 年 の 人 口 112 人 が1916 年 には235 人 に 倍 増 し 192 年 にはさらに49 人 に 倍 増 した ま た 大 戦 景 気 による 物 価 全 般 の 上 昇 にくわえ 都 市 への 急 速 な 人 口 集 中 によって 農 業 生 産 が 停 滞 したことを 背 景 に 米 価 は 上 昇 を 続 けていた 1918 年 8 月 政 府 がロシア 革 命 に 干 渉 するためのシベリア 出 兵 を 決 定 すると 米 の 思 惑 買 いや 売 り 惜 しみが 広 範 囲 で 発 生 し 米 価 は 未 曾 有 の 急 騰 を 示 した 大 阪 では 通 常 は1 升 2 銭 の 米 価 が 7 月 には3 銭 に 達 し 8 月 はじめには4 銭 へと 急 上 昇 し 8 月 12 日 には なんと56 銭 に 達 し た 富 山 県 の 漁 村 地 域 で 発 生 した 女 房 一 揆 が8 月 はじめに 県 外 で 報 道 されると 西 日 本 を 中 心 に 米 の 廉 売 ( 安 売 り)や 生 活 難 救 済 を 求 める 大 衆 行 動 が 全 国 に 広 がった 大 阪 では8 月 11 日 に 天 王 寺 公 園 周 辺 と 今 宮 町 で 群 衆 による 廉 売 要 求 の 騒 動 が 発 生 12 日 以 降 は 陸 軍 第 四 師 団 の 軍 隊 も 出 動 してその 鎮 静 化 にあたったが 騒 動 は16 日 まで 続 いた 後 述 する 八 十 軒 長 屋 など 日 本 橋 周 辺 の 住 民 も 廉 売 要 求 の 運 動 に 立 ち 上 がった 以 上 のように 米 騒 動 は 第 一 次 大 戦 期 に 蓄 積 された 都 市 の 社 会 的 な 矛 盾 が 暴 発 して 起 きた ものであり その 後 階 級 的 な 社 会 運 動 が 都 市 を 舞 台 にして 多 彩 に 展 開 される 口 火 ともなっ た 事 件 である 労 働 運 動 や 借 家 人 の 運 動 部 落 解 放 運 動 や 都 市 周 辺 農 村 における 小 作 人 の 運 動 などは いずれもこうした 都 市 的 な 社 会 矛 盾 の 蓄 積 を 不 可 欠 の 要 因 として 生 じたのである 大 阪 府 方 面 委 員 制 度 大 阪 府 は 米 騒 動 の 際 に 寄 せられた 寄 付 金 を 基 礎 に 1918 年 1 月 貧 困 者 に 対 する 監 視 と 救 済 のための 新 制 度 として 方 面 委 員 制 度 を 創 設 した(*11) その 内 容 は 次 のようなものであった おおむね 小 学 校 の 通 学 区 域 ( 学 区 )を 単 位 に 設 定 さ - 7 -

れた 方 面 と 呼 ばれるエリアごとに 数 人 の 委 員 を 任 命 し 彼 らが 貧 困 世 帯 の 調 査 を 実 施 し 方 面 カードに 登 録 した 上 で 公 的 救 助 の 斡 旋 や 職 業 紹 介 生 活 指 導 などを 行 い 貧 困 問 題 の 解 決 をめざした 方 面 委 員 制 度 が 現 在 の 民 生 委 員 制 度 の 前 身 になったことはよく 知 られて いる 方 面 委 員 制 度 は 地 域 の 世 話 役 的 な 有 力 者 を 組 織 的 に 動 員 して 貧 困 層 の 把 握 と 保 護 救 済 を 行 う 一 方 で 暴 発 の 要 因 となる 下 層 民 衆 を 日 常 的 に 監 視 する 役 割 をも 担 ったのであり 都 市 の 安 全 装 置 であった 2) 大 正 期 のスラム 多 様 な 要 素 の 複 合 大 都 市 への 流 入 者 は しばしば 先 に 流 入 した 同 郷 者 をたよって 集 住 し 同 郷 的 な 結 合 にもと づく 集 住 地 を 形 成 した 特 に192 年 代 以 降 の 大 阪 では 在 日 朝 鮮 人 や 沖 縄 県 出 身 者 の 集 住 地 が 注 目 される まず 朝 鮮 人 の 増 大 について 見 よう(*12) 191 年 の 韓 国 併 合 によって 日 本 の 植 民 地 となった 朝 鮮 半 島 から 大 阪 への 流 入 者 は 1923 年 に 済 州 島 大 阪 間 の 航 路 が 開 設 されたのをきっかけに 192 年 代 半 ば 以 降 急 速 に 増 加 した 当 初 は 単 身 男 性 の 出 稼 ぎのための 流 入 が 多 かったが しだいに 居 住 人 口 に 占 める 女 性 の 割 合 が 増 加 し 世 帯 形 成 や 定 着 が 進 んだと 思 われる 彼 ら は この 時 期 に 東 成 区 の 鶴 橋 木 野 町 猪 飼 野 町 東 小 橋 町 などに 集 住 地 を 形 成 し 大 阪 市 内 の 各 所 にも 小 規 模 な 集 住 をつくる 形 で 散 在 した 次 に 沖 縄 県 出 身 者 について 見 る(*13) 192 年 代 の 沖 縄 県 では 糖 価 の 暴 落 によって 主 要 産 業 であるサトウキビ 生 産 が 大 きな 打 撃 をうけたことをきっかけに ソテツ 地 獄 と 呼 ばれる 厳 し い 困 窮 が 生 じ 本 土 ( 本 州 地 域 )へ 労 働 力 の 激 しい 流 出 が 見 られた 大 阪 への 流 入 も 多 く 192 年 代 後 半 には 沖 縄 県 から 大 阪 府 への 出 稼 者 は 毎 年 5 人 ほどにのぼった 彼 らが 従 事 した 仕 事 は 男 性 は 日 雇 や 雑 工 業 の 中 小 工 場 の 労 働 者 が 多 く 女 性 では 紡 績 工 場 の 女 工 になるも のが 多 かった また 彼 らも 先 に 流 入 した 縁 故 者 や 同 郷 者 をたよって 集 住 するようになり 大 正 区 の 三 軒 家 小 林 恩 加 島 地 区 や 此 花 区 の 四 貫 島 港 区 の 市 岡 などに 集 住 地 を 形 成 した 彼 ら の 生 活 労 働 状 況 は おおむね 過 酷 であったが 193 年 代 になると 一 部 は 重 工 業 労 働 者 に 参 入 するものも 出 てきた 4. 昭 和 戦 前 期 の 都 市 下 層 1) 巨 大 都 市 と 貧 困 問 題 だいおおさか 大 大 阪 の 誕 生 大 阪 市 は 1925 年 第 二 次 市 域 拡 張 を 実 施 した(*14) これは 第 七 代 大 阪 市 長 関 一 (せき はじめ)が 主 導 する 形 で 進 めたものである 大 阪 市 域 外 縁 部 への 人 口 流 入 と 無 秩 序 な 市 街 地 化 に 伴 う 社 会 矛 盾 の 激 化 に 対 応 する 目 的 で 東 成 郡 西 成 郡 の44か 町 村 を 大 阪 市 域 に 編 入 した その 結 果 大 阪 市 の 人 口 は211 万 人 に 達 し その 時 点 で 東 京 を 抜 いて 全 国 最 大 の 都 市 となった 注 目 したいのは その 後 (1925 194 年 )の 人 口 増 加 の 推 移 である - 8 -

旧 市 域 133 万 人 154 万 人 16% 増 新 市 域 78 万 人 17 万 人 12% 増 (2.2 倍 に 増 えた) 大 阪 市 211 万 人 325 万 人 54% 増 (1.5 倍 に 増 えた) 上 の 旧 市 域 新 市 域 それぞれの 人 口 推 移 を 見 ると 都 心 部 の 旧 市 域 における 人 口 の 停 滞 減 少 に 対 して 周 縁 部 の 新 市 域 では 人 口 増 加 が 続 く という 動 向 が 読 みとれる(ドーナツ 化 現 象 ) その 結 果 新 市 域 旧 市 域 の 比 重 はこの 間 に 逆 転 し 新 市 域 の 人 口 増 加 によって 引 き 起 こされる 問 題 は この 時 期 の 都 市 的 課 題 の 焦 点 となったのである 失 業 と 貧 困 の 深 刻 化 192 年 代 から193 年 代 の 初 頭 は 日 本 経 済 が 不 況 にあえいだ 時 期 である(*15) 特 に193 年 の 昭 和 恐 慌 の 影 響 が 大 きく 193 年 に 大 阪 の 失 業 率 は5.5%となり 失 業 者 数 では 東 京 を 抜 いて 全 国 一 の 失 業 都 市 とも 言 われた しかし この 間 も 都 市 への 流 入 人 口 は 減 るどころか む しろ 増 加 し 大 阪 は 膨 大 な 貧 困 人 口 を 旧 市 域 の 周 辺 ~ 外 縁 部 のエリアに 抱 え 込 むことに なったのである こうした 不 況 にともなう 貧 困 状 況 を 端 的 に 示 すのが 不 良 住 宅 地 区 の 増 大 と 在 日 朝 鮮 人 の 増 加 という 事 実 であった まず 不 良 住 宅 地 区 の 増 大 について 見 る 都 市 雑 業 に 従 事 する 下 層 住 民 が 粗 造 の 裏 長 屋 に 密 集 して 居 住 する 地 域 は 旧 市 域 と 新 市 域 の 境 目 から 外 側 にかけて 広 がった 1937 年 に 大 阪 市 が 実 施 した 調 査 によると 大 阪 市 内 の 不 良 住 宅 地 区 は333か 所 に 上 り 不 良 住 宅 は1 万 7896 戸 あったとされている こうした 裏 長 屋 に 居 住 する 人 々の 劣 悪 な 生 活 環 境 や 貧 困 が 問 題 化 し 続 けたのである 次 に 在 日 朝 鮮 人 の 増 大 について 大 阪 府 内 に 居 住 する 在 日 朝 鮮 人 の 人 口 は 1932 年 には1 万 人 を 突 破 した 彼 らの 労 働 と 生 活 の 状 況 を 見 ると 以 下 のような 点 が 指 摘 できる 第 一 に 高 い 失 業 率 と 低 賃 金 の 重 労 働 を 特 徴 とする 過 酷 な 労 働 環 境 である 昭 和 恐 慌 にあえいだ193 年 当 時 の 失 業 率 は 大 阪 市 全 体 で5.5%と 推 定 されているが 在 日 朝 鮮 人 は18%と 高 かった 彼 らが 働 く 職 場 は ガラス 工 場 やゴム 工 場 など 多 くは 雑 役 労 働 あるいは 日 雇 いや 土 方 仕 事 などが 中 心 で 賃 金 についても 民 族 差 別 によって 日 本 人 の 下 層 労 働 者 よりも 低 位 に 置 かれた 第 二 に 彼 らが 居 住 した 東 成 区 などの 集 住 地 はいずれも 不 良 住 宅 地 区 で 劣 悪 な 居 住 環 境 のもとに 置 かれたことである 単 身 者 は 大 人 数 が 飯 場 やバラック 小 屋 に 寝 泊 まりするよう な 場 合 が 少 なくなかった また 長 屋 などに 住 居 する 人 々も 含 めた 東 成 区 小 橋 町 (おばせちょ う)の 在 日 朝 鮮 人 の 場 合 1 人 当 たりの 畳 数 は.55 畳 であった 当 時 方 面 委 員 が 救 済 の 対 象 と した 要 保 護 世 帯 でも1 人 当 たり1.5 畳 であったから 彼 らは スラムの 最 底 辺 の 生 活 を 余 儀 なく されたのである 2) 不 良 住 宅 地 区 の 実 態 八 十 軒 長 屋 の 場 合 上 に 述 べた 不 良 住 宅 地 区 の 具 体 例 として 挙 げられるのが 日 本 橋 周 辺 の 裏 長 屋 群 である (*16) 中 でも189 年 代 に 建 設 された 八 十 軒 長 屋 と 呼 ばれた 長 屋 は 大 阪 府 大 阪 市 がそれ - 9 -

図 1 八 十 軒 長 屋 平 面 図 備 考 : 大 阪 市 社 会 部 調 査 課 密 住 地 区 居 住 者 の 労 働 と 生 活 所 載 の 図 を 加 工 して 作 成 家 屋 番 号 は 大 阪 府 警 察 部 衛 生 課 大 阪 府 保 健 衛 生 調 査 報 告 第 三 編 のそれと 対 応 している なお 7~72 番 は69 番 の 北 側 にあるが 密 住 地 区 調 査 では 対 象 とされていないので 省 略 し 欠 番 としてある ぞれ 住 民 調 査 を 実 施 したことで 詳 しい 実 態 がわかる 貴 重 な 事 例 である( 図 1) 八 十 軒 長 屋 には 大 大 阪 誕 生 前 夜 の1924 年 時 点 で 79 戸 の 長 屋 住 居 に129 世 帯 54 人 の 住 民 がいた 129 世 帯 のうち5 世 帯 は 間 借 り 世 帯 で 二 階 建 てになっている 住 戸 の 一 階 部 分 と 二 階 部 分 をシェアする 形 で2 世 帯 ( 場 合 によっては3 世 帯 )が 同 居 する 場 合 が 少 なくなかった 長 屋 の 居 住 環 境 を 見 ると 室 数 では 全 体 の4% 近 くが1 室 しか 使 用 しておらず 2 室 以 下 を あわせると 全 体 の75%にも 及 んだ 畳 数 では 7.5 畳 以 下 が 全 体 の72%にのぼった(1 世 帯 当 た り7.2 畳 1 人 当 たり1.9 畳 ) 家 族 の 人 数 がほぼ4 人 であったことを 考 えると かなりの 高 密 度 で 居 住 していたと 言 えよう 生 活 設 備 を 見 ると 井 戸 と 上 水 道 は 同 じ 敷 地 内 に 住 んでいた 家 主 が 各 1つを 専 用 するほかは 長 屋 内 の 他 の128 世 帯 が 井 戸 3つと 水 道 栓 1つを 共 用 するという 状 態 であった またこの 時 期 普 及 が 進 んだ 電 灯 は 1 個 を 共 用 する 世 帯 が14%あるほか 1 個 専 用 58% 2 個 21% 3 個 以 上 7%となり 一 部 とはいえ 共 用 さえ 見 られた 便 所 は 新 しく 建 てられた24 戸 (46 世 帯 が 居 住 )には 各 1か 所 ずつあったが 家 主 の 住 居 を 除 けば 残 りは2か 所 の 共 同 便 所 を じつに82 世 帯 が 共 用 する 有 り 様 であった( 写 真 1) 八 十 軒 長 屋 の 土 地 家 屋 居 住 をめぐる 階 層 関 係 は 以 下 のように 整 理 できる( 図 2) じつ は 長 屋 が 建 つ 敷 地 は 大 阪 の 著 名 な 財 閥 企 業 の 経 営 者 である 住 友 吉 左 衛 門 の 所 有 地 であり 不 在 地 主 であるこの 住 友 家 を 頂 点 に その 住 友 から 土 地 を 借 り 地 代 を 納 めながら 借 家 経 営 を 行 い 現 地 に 居 住 している 家 主 家 主 から 住 戸 1 戸 を 借 りる 本 世 所 帯 その1 戸 のうち 二 階 な どの 部 分 を 間 借 りする 同 居 所 帯 これらが 長 屋 の 社 会 関 係 を 構 成 する 人 々である 現 地 に 居 住 する 家 主 は 1か 月 数 百 円 ( 借 家 人 の5 倍 以 上 )の 高 収 入 を 得 る 存 在 で 当 然 家 屋 も 広 々 - 1 -

としたものであった 裏 長 屋 に 住 む 借 家 人 たちとの 格 差 は 歴 然 であり こうして 裏 長 屋 の 世 界 には 地 主 家 主 借 家 人 の 間 の 階 層 関 係 が 存 在 したのである 長 屋 住 民 の 職 業 は 世 帯 主 については188 年 代 までの 長 町 と 同 様 屑 物 収 集 に 関 する 職 業 が 少 なくなかったが 世 帯 員 の 世 代 では 雑 貨 品 工 業 が 多 いものの 工 業 的 職 種 に 就 く 者 が 多 く 一 部 には 熟 練 度 の 高 い 工 場 労 働 者 もいた ここには 都 市 下 層 住 民 の 職 業 面 における 上 昇 傾 向 が 読 み 取 れるとともに スラムと 一 括 される 地 域 が 実 際 には 多 様 な 要 素 を 含 んで 成 り 立 っていたことが 示 されていると 言 えよう 大 阪 市 の 新 市 域 を 中 心 に 存 在 した 不 良 住 宅 地 区 は それぞれがこうした 生 活 諸 関 係 を 持 っており 集 住 地 を 単 に 外 部 から 見 て スラム と 一 括 するだけでは 一 面 的 であり その 地 域 の 特 性 を 職 業 居 住 消 費 などを 通 じた 社 会 的 関 係 の 中 で 捉 えていくことが 必 要 であろう 不 良 住 宅 地 区 改 良 事 業 と 都 市 下 層 民 1927 年 から この 八 十 軒 長 屋 を 含 めた 日 本 橋 周 辺 の 長 屋 群 に 対 して 大 阪 市 は 不 良 住 宅 地 区 改 良 事 業 を 進 めた(*17) 大 阪 市 は 同 年 3 月 の 不 良 住 宅 地 区 改 良 法 の 施 行 をうけ 全 国 で 最 も 早 く 事 業 に 着 手 翌 28 年 には 事 業 対 象 地 区 の 指 定 が 認 可 され 改 良 住 宅 の 建 設 が 始 まった 指 定 された 地 区 は 下 寺 町 三 四 丁 目 北 日 東 町 南 日 東 町 東 関 谷 町 一 二 丁 目 広 田 町 の 各 一 部 で 総 面 積 は1 万 8796 坪 戸 数 12にのぼり 6か 年 計 画 で 約 71 万 円 もの 予 算 が 計 上 さ れた 同 年 度 の 社 会 事 業 費 通 常 予 算 38 万 円 と 比 べれば いかに 大 規 模 な 事 業 であったかがわか る この 事 業 によって1943 年 までに 鉄 筋 コンクリート 建 ての3 棟 を 含 む 改 良 住 宅 が 建 設 された ( 写 真 2) しかし 地 区 指 定 と 事 業 構 想 の 発 表 から 間 もなく 裏 長 屋 の 住 民 たちは 事 業 実 施 に 抵 抗 する 運 動 を 開 始 した 住 民 らは 1 移 転 料 の 金 額 に 不 満 2 一 時 移 転 先 ( 今 宮 地 域 )に 不 満 3 事 業 によって 自 分 たちの 生 活 が 奪 われる などと 訴 えたのである 当 初 は 立 ち 退 きに 反 対 し の ちには より 有 利 な 条 件 での 立 ち 退 きを 求 める 運 動 に 変 化 したが 彼 らの 主 張 の 前 提 には 裏 長 屋 で 育 んできた 生 活 への 愛 着 があった この 紛 争 は 長 屋 をめぐる 重 層 的 な 居 住 関 係 を 反 映 して 複 雑 化 し 住 民 と 家 主 地 主 ( 住 友 家 - 11 -

写 真 2 市 営 下 寺 町 第 一 住 宅 (1931 年 の 竣 工 当 時 ) ら) 大 阪 市 の 間 で いくつもの 紛 争 が 発 生 した 国 粋 会 の 侠 客 の 仲 裁 もあったため 地 主 家 主 は 一 定 の 譲 歩 を 見 せ 大 阪 市 も 移 転 条 件 改 善 を 行 ったようである 結 局 移 転 条 件 の 改 善 をともなって 改 良 事 業 は 遅 延 縮 小 しながらも 実 施 されたのである 改 良 後 の 住 民 生 活 を 見 ると 居 住 条 件 ( 設 備 畳 数 家 賃 )の 大 幅 な 改 善 だけでなく 大 正 期 以 来 の 地 域 改 善 政 策 の 効 果 もあって 住 民 の 教 育 水 準 や 健 康 状 態 も 向 上 した また 社 会 関 係 の 面 では 間 貸 し 間 借 り 関 係 が 減 少 し 相 対 的 に 所 得 水 準 の 高 い 新 住 民 が 入 居 したほか 重 層 的 な 関 係 が 解 消 されて 大 阪 市 による 住 民 の 直 接 管 理 が 実 現 するなどの 変 化 があった 裏 長 屋 時 代 の 社 会 関 係 は 大 きく 再 編 されたのである じつは 改 良 事 業 の 対 象 としてこの 地 域 が 選 ばれた 背 景 には この 地 域 の 都 市 下 層 民 の 生 活 が 持 っていた 一 定 の 上 昇 可 能 性 が 存 在 した また 立 ち 退 きに 抵 抗 した 住 民 の 主 張 からは スラ ムとはいえ 大 都 市 大 阪 に 移 り 住 み まがりなりにも 世 帯 を 形 成 し 長 屋 内 で 共 同 性 を 育 みな がら 働 き 暮 らしてきた 都 市 下 層 住 民 の 自 負 を 読 み 取 ることもできるだろう 5. 結 論 本 報 告 で 述 べてきた 内 容 を 19 世 紀 から2 世 紀 の 都 市 下 層 社 会 の 変 容 という 点 に 即 して 整 理 すると 次 のような 点 が 指 摘 できる 第 一 に 大 阪 の 都 市 下 層 社 会 は 近 世 以 来 の 下 層 民 集 住 地 として 代 表 的 な 地 位 を 占 めた 長 町 の 変 容 解 体 を 軸 に 工 業 化 都 市 化 が 進 む 中 で 新 たなスラムを 形 成 していった そこには 釜 ヶ 崎 と 日 本 橋 周 辺 という 性 格 の 異 なる 下 層 民 集 住 地 が 生 まれた 2 世 紀 には さらに 拡 大 多 様 化 し 被 差 別 部 落 としての 性 格 を 持 つ 西 浜 町 が 膨 張 を 続 けただけでなく 在 日 朝 鮮 人 や 沖 縄 県 出 身 者 の 集 住 地 も 形 成 された こうして それぞれが 個 性 を 持 つ 下 層 社 会 を 一 つ 一 つてい ねいに 研 究 叙 述 することが さらに 進 められるべきであろう 第 二 に 19 世 紀 の 段 階 と2 世 紀 の 段 階 で 権 力 による 下 層 住 民 対 策 の 性 格 が 変 化 したことで ある つまり 貧 民 の 単 純 な 排 除 から 生 活 改 善 を 伴 った 介 入 と 秩 序 化 への 転 換 である こうした 変 化 は この 間 の 都 市 政 策 の 歴 史 的 変 化 を 反 映 している そこには 居 住 をめぐる 住 民 の 諸 権 利 を 不 十 分 ながらもその 前 提 に 組 み 込 む 形 での 住 宅 政 策 の 登 場 という 変 化 があった - 12 -

と 考 えられる 第 三 に 都 市 下 層 住 民 の 主 体 性 に 関 わる 問 題 である 彼 らは 単 に 近 代 的 市 民 の 陰 画 でも なければ 受 動 的 な 存 在 でもなかった 工 業 化 と 都 市 化 が 進 展 し 大 きく 社 会 が 変 動 する 中 に あって 近 代 の 都 市 下 層 民 は 流 入 者 が 結 婚 し 集 住 定 着 する 形 で 裏 長 屋 にその 生 活 世 界 を 構 築 していった 2 世 紀 段 階 の 都 市 政 策 の 影 響 も 受 けながら 昭 和 戦 前 期 には 都 市 下 層 住 民 の 結 集 運 動 や 権 利 自 覚 にもとづく 生 活 条 件 の 改 善 と 市 民 的 な 成 長 も 一 定 ていどもたらされ た 不 良 住 宅 地 区 改 良 事 業 をめぐる 立 ち 退 き 問 題 は そうした 変 化 を 象 徴 するものではないだ ろうか 以 上 のように 大 阪 の 都 市 下 層 社 会 は 近 世 以 来 の 構 造 を 変 容 させ 19 世 紀 末 以 来 新 たな 流 入 人 口 を 受 けとめながら 巨 大 都 市 大 阪 の 発 展 を 底 辺 で 支 える 重 要 な 役 割 を 果 たしつづけた のである [ 註 ] 1) 成 田 龍 一 近 代 都 市 と 民 衆 ( 同 編 近 代 日 本 の 軌 跡 9 都 市 と 民 衆 吉 川 弘 文 館 1993 年 同 著 近 代 都 市 空 間 の 文 化 経 験 岩 波 書 店 23 年 に 収 録 )など 2) 以 下 の 記 述 は 小 山 仁 示 芝 村 篤 樹 大 阪 府 の 百 年 ( 山 川 出 版 社 1991 年 ) 新 修 大 阪 市 史 編 纂 委 員 会 新 修 大 阪 市 史 第 五 巻 ~ 第 七 巻 ( 大 阪 市 1991~94 年 )を 参 照 した 部 分 も 多 い 特 に 注 記 しな い 限 り 統 計 データなどもそれらの 成 果 に 依 拠 している なお 本 報 告 全 体 に 関 わる 先 行 研 究 として 水 内 俊 雄 近 代 期 大 阪 の 空 間 構 造 と 居 住 分 化 ( 都 市 文 化 研 究 2 号 23 年 )がある 3) 以 下 長 町 については 拙 著 近 代 大 阪 の 都 市 社 会 構 造 ( 日 本 経 済 評 論 社 27 年 ) 第 二 ~ 四 章 を 参 照 4) 鈴 木 梅 四 郎 大 阪 名 護 町 貧 民 窟 視 察 記 (1888 年 西 田 長 寿 編 明 治 前 期 の 都 市 下 層 社 会 光 生 館 197 年 所 収 ) 5) 吉 田 伸 之 表 店 と 裏 店 商 人 の 社 会 民 衆 の 世 界 ( 日 本 の 近 世 9 都 市 の 時 代 中 央 公 論 社 1992 年 同 著 巨 大 城 下 町 江 戸 の 分 節 構 造 山 川 出 版 社 2 年 に 収 録 ) 6) 加 藤 政 洋 大 阪 のスラムと 盛 り 場 近 代 都 市 と 場 所 の 系 譜 学 ( 創 元 社 22 年 ) 7) 前 掲 加 藤 大 阪 のスラムと 盛 り 場 のほか 釜 ヶ 崎 資 料 センター 編 釜 ヶ 崎 歴 史 と 現 在 ( 三 一 書 房 1993 年 )などを 参 照 8) 福 原 宏 幸 都 市 部 落 住 民 の 労 働 = 生 活 過 程 西 浜 地 区 を 中 心 に ( 杉 原 薫 玉 井 金 五 編 大 正 / 大 阪 /スラム( 増 補 版 ) 新 評 論 1996 年 初 出 は1986 年 所 収 ) 9) 第 一 次 大 戦 期 ~192 年 代 の 住 宅 問 題 については 大 阪 都 市 住 宅 史 編 集 委 員 会 まちに 住 まう 大 阪 都 市 住 宅 史 ( 平 凡 社 1989 年 )を 参 照 1) 以 下 米 騒 動 に 関 する 記 述 は 小 山 仁 示 芝 村 篤 樹 大 阪 府 の 百 年 ( 山 川 出 版 社 1991 年 )などによ る 11) 大 森 実 都 市 社 会 事 業 成 立 期 における 中 間 層 と 民 本 主 義 大 阪 府 方 面 委 員 制 度 の 成 立 をめぐって ( ヒストリア 97 号 1982 年 ) 松 下 孝 昭 一 九 二 〇 年 代 の 借 家 争 議 調 停 と 都 市 地 域 社 会 大 阪 市 の 事 例 を 中 心 に ( 日 本 史 研 究 299 号 1987 年 )のほか 前 掲 拙 著 近 代 大 阪 の 社 会 構 造 第 七 章 を 参 照 されたい - 13 -

12) 佐 々 木 信 彰 192 年 代 における 在 阪 朝 鮮 人 の 労 働 = 生 活 過 程 東 成 集 住 地 区 を 中 心 に ( 前 掲 大 正 / 大 阪 /スラム 所 収 ) 杉 原 達 越 境 する 民 近 代 大 阪 の 朝 鮮 人 史 研 究 ( 新 幹 社 1998 年 )などを 参 照 13) 冨 山 一 郎 近 代 日 本 社 会 と 沖 縄 人 ( 日 本 経 済 評 論 社 199 年 )などを 参 照 14) 第 二 次 市 域 拡 張 も 含 めた 戦 間 期 の 大 阪 市 における 都 市 政 策 の 展 開 とその 歴 史 的 特 質 については 芝 村 篤 樹 関 一 都 市 思 想 のパイオニア ( 松 籟 社 1989 年 ) 同 日 本 近 代 都 市 の 成 立 192 3 年 代 の 大 阪 ( 松 籟 社 1998 年 )を 参 照 15) 以 下 昭 和 恐 慌 期 の 社 会 問 題 については 前 掲 小 山 芝 村 大 阪 府 の 百 年 を 参 照 16) 前 掲 拙 著 近 代 大 阪 の 都 市 社 会 構 造 第 八 章 を 参 照 17) 前 掲 拙 著 近 代 大 阪 の 都 市 社 会 構 造 第 九 章 を 参 照 - 14 -

国 境 をまたぐ 生 活 圏 の 形 成 在 日 済 州 島 出 身 者 の 生 活 史 から 伊 地 知 紀 子 ( 大 阪 市 立 大 学 ) [ 目 次 ] 1. はじめに 2. 済 州 島 民 の 渡 日 (1) 植 民 地 期 の 渡 日 (2) 解 放 前 後 の 渡 日 (3) 密 航 による 渡 日 (4)88を 経 て 3.おわりに 1. はじめに 本 報 告 は 日 帝 時 代 から 現 在 までの 済 州 島 出 身 者 の 移 動 経 験 をとおして 日 本 と 韓 半 島 の 間 に 形 成 された 国 境 をまたぐ 生 活 圏 の 変 容 について 考 察 するものである ここで 済 州 島 出 身 者 に 着 目 する 理 由 は 大 きく2つある 第 一 に 在 日 コリアンの 歴 史 における 解 放 後 史 の 再 検 討 である 第 二 に 在 日 コリアンの 多 様 性 を 示 すためである 第 一 点 目 は 在 日 コリアン 史 の 記 述 に 関 する 問 題 である 従 来 の 研 究 では 在 日 コリアンと は 解 放 前 に 渡 日 した 後 継 続 して 日 本 に 在 住 している 人 々と 考 えられがちである そこには 解 放 前 にいったん 故 郷 を 離 れるとそのまま 戻 ることなく 日 本 に 滞 在 し 続 けているという 移 動 についての 一 方 向 的 な 視 点 がある しかし 実 際 は 故 郷 と 渡 航 先 である 日 本 の 間 を 往 来 する ケースはまれではない 本 報 告 の 対 象 である 在 日 済 州 島 出 身 者 の 軌 跡 をたどってみると 解 放 直 後 から196 年 代 まで 日 本 と 陸 地 部 あるいは 済 州 島 間 の 往 来 済 州 島 からの 再 渡 日 や 初 渡 日 は 頻 繁 に 見 られる さらにその 後 も 密 航 による 渡 日 は 継 続 し 88 年 以 降 は 飛 行 機 で 合 法 的 に 渡 日 する 人 びとが 増 える つまり 在 日 コリアンの 歴 史 は 1945 年 8 月 15 日 に 在 日 していた 人 びとだけで 構 成 されるのではないということだ 本 報 告 ではこうした 人 々の 双 方 向 的 な 移 動 の 軌 跡 と その 移 動 を 生 みだした 背 景 を 明 らかにす ることによって 国 境 をまたぐ 生 活 圏 ( 梶 村 1985)の 生 成 と 変 容 について 論 じる また こ うした 移 動 を 支 えている 構 造 には 家 族 と 労 働 にかかる 部 分 が 大 きく 関 わっている 調 査 対 象 者 の 移 動 にあたって 家 族 や 親 族 を 頼 りに 渡 日 するケースや 調 査 対 象 者 自 身 を 頼 りに 家 族 や 親 族 が 渡 日 するケースは 少 なくない さらに 渡 航 後 の 生 活 のためには 必 ずいずこかで 労 働 に 従 事 しなければならず 労 働 口 を 得 るためには 家 族 親 族 同 郷 といった 人 間 関 係 がベース となっている 本 研 究 では 特 にこうした 家 族 と 労 働 に 着 目 し 渡 日 にいたる 歴 史 渡 日 後 の - 15 -

生 活 故 郷 との 紐 帯 帰 還 にいたる 経 緯 帰 還 後 の 生 活 などを 具 体 的 に 明 らかにする ただ ここで 注 意 しなければならないことは 当 事 者 にとっては 家 族 親 戚 との 関 係 や 就 業 関 係 での 連 続 的 な 移 動 であっても 法 制 度 上 では 解 放 前 における 帝 国 日 本 の 拡 張 期 での 移 動 と 解 放 後 における 帝 国 日 本 崩 壊 と 冷 戦 構 造 下 での 移 動 は 非 連 続 なものとして 処 遇 されたというこ とである そのため 解 放 後 の 在 日 コリアンの 間 では 世 代 区 分 だけでなく 在 留 資 格 の 合 法 / 非 合 法 も 入 ることとなった これに 加 えて 南 北 分 断 による 在 日 コリアン 内 部 の 分 裂 がある こ うした 解 放 後 の 在 日 コリアンの 歴 史 のなかで 韓 半 島 との 関 係 を 踏 まえた 移 動 史 の 研 究 蓄 積 は 薄 い 当 時 について 当 事 者 の 発 話 が 記 録 されることが 困 難 であること 官 憲 側 の 資 料 を 使 用 せ ざるをえなかった 限 界 があったためであろう さらに 本 報 告 の 対 象 である 済 州 島 から 日 本 へ の 移 動 の 背 景 には 済 州 4 3もまた 深 く 関 わっていた 韓 国 での 動 きが 示 すように 長 く4 3について 発 話 することはタブーであったために 従 来 の 在 日 コリアンに 関 する 研 究 では4 3 も 含 めた 密 航 経 験 に 関 する 詳 細 な 研 究 は 皆 無 であった この 点 については 現 在 報 告 者 を 含 めた 共 同 研 究 解 放 直 後 在 日 済 州 島 出 身 者 の 生 活 史 調 査 による 調 査 研 究 が 進 んでいる 第 二 点 目 は 日 本 における 在 日 コリアンの 学 説 史 についてである 戦 後 在 日 コリアンは 一 時 的 滞 在 者 として 政 治 問 題 扱 いをされ 197 年 代 から 定 住 をめぐる 社 会 問 題 が 論 じ られるようになる いずれも 在 日 朝 鮮 人 問 題 として 問 題 化 されてきたが 199 年 代 に 入 り 国 際 化 時 代 における 内 なる 他 者 として 学 問 の 領 域 でも エスニシティ 研 究 の 対 象 として 取 り 上 げられるようになった つまり 日 本 国 内 の 少 数 民 族 として 分 析 の 対 象 と なったのである こうした 研 究 傾 向 は 21 世 紀 前 後 から 在 日 コリアンの アイデンティティ の 多 様 化 をテーマとする 研 究 となって 現 れた 世 代 交 代 国 際 結 婚 の 増 加 ダブル などがタイトルとなり 民 族 的 アイデンティティの 行 方 が 論 じられている これらの 研 究 は 在 日 コリアンを 一 枚 岩 として 論 じてきた 既 存 研 究 の 視 点 を 検 証 するうえでは 意 味 がある 在 日 コリアンを 一 枚 岩 として 論 じるパターンは2つあり 在 日 コリアンを 差 別 や 排 除 の 対 象 である 受 動 的 存 在 ( 非 差 別 者 )として 記 述 するもの 差 別 や 排 除 と 闘 う 能 動 的 存 在 ( 運 動 体 )として 記 述 するもののどちらかに 集 約 されがちであった 在 日 コリアンの 多 様 性 を 論 じる 研 究 は こ うしたパターンへ 異 議 を 唱 えるものとして 評 価 できるが 限 界 もある それは 既 存 の 在 日 コ リアン 研 究 が 在 日 コリアンを 日 本 国 家 の 枠 内 にいる 存 在 として 捉 え 朝 鮮 半 島 との 関 係 を 論 外 に 置 いているということである 近 年 の 研 究 では 在 日 コリアンと 朝 鮮 半 島 との 関 係 を 視 野 に 入 れ かつ 先 述 した2つのパターンとは 異 なる 視 点 として 常 に 非 差 別 者 でもなく また 常 に 運 動 者 でもない( 時 にどちらでもある) 日 常 生 活 を 営 む 民 衆 の 姿 を 記 述 する 研 究 が 出 始 めてい る( 杉 原 1998; 高 鮮 徽 1998; 伊 地 知 2) 本 報 告 では こうした 日 常 生 活 を 営 む 民 衆 の 視 点 にたち 在 日 済 州 島 出 身 者 が 移 動 してきた 軌 跡 を 人 びとの 生 活 史 をとおして 辿 ることによって 在 日 コリアンを 一 つの 国 家 を 越 える 視 点 から 捉 える 必 要 性 を 論 じる それは 国 境 をまたぐ 生 活 圏 の 形 成 と 変 容 について 論 じて いくもう 一 つのポイントである ここで 済 州 島 出 身 者 の 移 動 と 生 活 史 に 焦 点 を 置 くのは そ の 特 殊 性 を 示 すためというよりも それが 朝 鮮 民 衆 全 体 の 経 験 の 一 環 であり 普 遍 的 な 現 象 や 問 題 が 集 中 したり 突 出 しているものであるがゆえに そこに 日 本 帝 国 主 義 と 朝 鮮 の 関 係 性 を 浮 - 16 -

き 彫 りにする 可 能 性 が 内 在 していると 考 えるためである ( 伊 地 知 村 上 28:88) 上 記 2 点 を 通 して 本 報 告 は 日 本 における 従 来 の 在 日 コリアン 研 究 に 欠 けていた 国 境 をま たぐ 視 点 = 韓 半 島 との 関 係 を 普 通 の 人 びと の 日 常 という 視 点 に 立 って 提 示 するものであ り それは 同 時 に 韓 半 島 の 歴 史 と 在 日 コリアンの 歴 史 との 関 係 性 を 考 える 材 料 となるものであ る 本 報 告 にあたっては 報 告 者 による1992 年 以 降 の 個 人 研 究 と1999 年 以 降 の 共 同 研 究 の 成 果 が ベースとなっている 個 人 研 究 としては 済 州 島 北 東 部 の 海 村 である 杏 源 里 が 報 告 者 の 主 たる フィールドあることから 杏 源 里 出 身 者 の 生 活 史 がデータの 主 軸 となり 他 の 村 出 身 者 について もとりあげていくスタイルを 採 用 する 2. 済 州 島 民 の 渡 日 (1) 植 民 地 期 の 渡 日 1 賃 労 働 植 民 地 期 に 済 州 島 から 賃 金 労 働 者 として 渡 日 した 人 びととしては 漁 民 と 工 場 労 働 者 があげ られる 漁 民 としてはチャムスをあげることができる( 注 1) チャムスたちは 陸 地 に 出 稼 ぎに 出 た 後 193 年 三 宅 島 への 出 漁 を 発 端 に 日 本 各 地 で 漁 をした( 資 料 1) 済 州 島 と 釜 山 を 結 ぶ 汽 船 運 航 に 乗 りだした 済 州 商 船 株 式 会 社 が1922 年 に 設 立 されるが その 動 きについて 朝 鮮 近 現 代 史 研 究 の 藤 永 壮 は 潜 嫂 ( 海 女 )たちが 釜 山 地 方 に 多 数 出 稼 ぎしていた 状 況 に 目 をつ け 済 州 釜 山 間 の 汽 船 運 航 に 乗 り 出 したのではないかとも 考 えられる と 論 じている( 藤 永 1999:75) そして 済 州 商 船 株 式 会 社 は 翌 年 済 州 島 と 大 阪 間 の 直 行 航 路 に 就 航 した 大 阪 にある 尼 崎 汽 船 部 と 業 務 提 携 をする この 定 期 航 路 は 済 州 島 から 大 阪 への 渡 航 者 を 数 多 く 運 んだ そのなかに 先 述 したチャムス もおり またチャムスの 次 に 工 場 労 働 者 として 渡 日 した 人 びともいた 日 本 の 近 代 化 のなか で 東 洋 のマンチェスター と 呼 ばれる 工 業 都 市 となる 大 阪 への 渡 航 は 1911 年 摂 津 紡 績 木 津 川 工 場 からの 職 工 募 集 からスタートする 土 地 調 査 事 業 による 土 地 の 剥 奪 に 押 される 形 で 191 年 代 済 州 島 からの 渡 日 者 数 は 増 加 の 一 途 をたどる これを 後 押 ししたのが 先 述 した 済 州 島 大 阪 間 の 定 期 航 路 であった 地 理 学 者 である 桝 田 一 二 も 1934 年 大 阪 築 港 から 君 が 代 丸 で 済 州 島 に 向 かった この 船 の 船 客 規 定 定 員 は365 名 であるが 出 稼 ぎ 船 客 定 員 として685 名 までは 許 されていた 桝 田 一 二 が 乗 った 際 の 船 客 563 名 のうち 561 名 が 済 州 島 の 人 であったという 船 内 には 若 者 が 多 く 17 8 歳 から3 歳 前 後 の 者 が 大 部 分 である 中 には まげを 結 って 馬 の 尾 で 編 んだ 冠 をつけ あご ひげをのばした 者 や 老 婆 もいる また 体 つきなどから 出 稼 ぎ 海 女 や 一 家 総 出 の 出 稼 ぎらしい 人 顔 の 青 白 い 女 工 らしい 娘 なども 乗 っていたという 報 告 者 が 杏 源 里 で 話 を 聞 くと 海 女 として 出 稼 ぎのために 渡 日 した 人 のなかには 大 阪 で 洋 服 の まとめ (( 洋 服 のボタン 付 けや 袖 付 け 脇 の 縫 い 合 わせなど)という 下 請 けの 内 職 をしてから 帰 郷 した 人 も いた 人 々は 現 金 を 得 るべく 多 様 な 労 働 に 就 いたのである 直 行 航 路 によって 結 びつけられ た 済 州 島 と 大 阪 の 繋 がりのなかで 往 来 する 人 々 その 姿 を 桝 田 は 本 船 は 済 州 島 の 一 部 が 切 - 17 -

り 離 されて 海 上 を 不 動 しているようなものである と 述 べている( 桝 田 1976:27-28)( 注 2) また 内 鮮 協 和 会 の 廣 瀬 勝 は 1926 年 在 阪 朝 鮮 人 と 済 州 島 と 題 する 文 章 のなかで 済 州 島 に 流 入 する 物 資 について 時 代 の 波 は 此 所 にも 打 寄 せ 自 動 車 の 疾 驅 するあり トランクの 見 ゆるあり 汽 車 電 燈 こそ 無 けれ 日 に 月 に 一 通 りの 流 行 品 の 入 り 来 る 有 様 と 記 した( 廣 瀬 1926:65) 済 州 島 の 北 西 部 涯 月 邑 郭 支 里 から 渡 阪 した 林 汝 玉 さん(1921 年 生 )は 14 歳 のとき 父 親 に 無 理 やり 頼 んで 渡 航 証 明 書 を 取 り 同 じ 村 の 人 が 取 締 役 をしていた 尼 崎 の 紡 績 工 場 に 入 った 渡 阪 の 理 由 として 林 汝 玉 さんは 済 州 島 と 日 本 を 行 ったり 来 たりする 人 のなかで 紡 績 工 場 に 勤 めている 人 が 持 ち 帰 る 日 本 のミカンがあまりに 甘 かったので 皮 まで 残 せへん と 食 べ 日 本 から 帰 る 人 は ちょっと 色 が 白 い きれいねん それを 見 たらね また 服 でも な ボロ 服 でもきれいに 見 えまんがな な そおようなんとか みんな 憧 れるしね と 語 っ た 日 本 から 帰 った 人 の 色 が 白 い のは 悪 臭 と 騒 音 呼 吸 も 満 足 にできない 紡 績 工 場 で 働 いた 翰 林 邑 出 身 の 女 性 のライフヒストリー( 成 1994:49)から 伺 えるように 過 酷 な 労 働 の ためであろう( 注 3) 廣 瀬 の 記 述 からは 帰 郷 する 人 が 身 に 付 けたり 持 ち 帰 った 洋 服 和 服 が 古 着 屋 に 品 物 として 売 られた 様 子 も 見 て 取 れる( 廣 瀬 1926b:68) 先 にふれたように 済 州 島 からの 渡 航 者 の 数 は 直 行 航 路 の 開 設 により 増 加 した 当 初 は 男 性 の 単 身 出 稼 ぎであったが 1924 年 には 定 期 航 路 体 制 が 確 立 し 渡 航 者 数 が22 年 の3 倍 に 上 り 女 性 の 渡 航 者 数 もこの 頃 から 増 え 始 める 日 本 からの 送 金 は 済 州 島 にいる 人 々の 生 計 を 大 き く 助 けることになった 実 際 済 州 島 から 大 阪 や 下 関 に 向 けて 移 出 されたのものは 鮮 魚 や 鮮 貝 カジメといった 海 産 物 がほとんどであり 反 対 に 済 州 島 へ 移 入 されるものは 砂 糖 綿 織 物 米 などの 生 活 用 品 であった( 善 生 1929:88) またこの 航 路 は 単 に 人 や 物 を 運 ぶだけでは なく 日 本 にまつわる 様 々な 情 報 やイメージを 島 にもたらした 杏 源 里 の 渡 阪 出 稼 ぎは192 年 代 にはじまる いい 畑 を 買 う 金 を 稼 ぐ ためだったと 村 で は 語 られる 今 でも 畑 にまつわる 出 稼 ぎ 話 が 語 り 継 がれている 杏 源 里 から 大 阪 に 行 った 金 春 緑 さん(1915 年 生 )は 1931 年 から5 年 間 大 阪 にいた( 注 4) 金 春 緑 さんは 15 歳 の 時 に 北 海 道 の 炭 坑 労 働 者 への 募 集 が 来 たので 自 分 が 連 れていかれるかもしれないと 思 い 山 に 隠 れた 経 験 を 持 っていた 杏 源 里 からは 北 海 道 に3 人 送 られた その 後 193 年 代 に 樺 太 の 木 材 伐 採 に 徴 用 されていった 人 もいる 金 春 緑 さんは 再 びどこかに 連 れて 行 かれることを 懸 念 し また 学 校 に 行 きたいという 思 いが 強 く 日 本 に 行 けば 可 能 になると 考 えた 金 春 緑 さんが 渡 日 した 当 時 は 渡 航 許 可 証 が 必 要 であり 金 寧 派 出 所 で 申 請 した 12 人 の 警 官 のなかで 朝 鮮 人 は1 人 日 本 語 ができない 人 がそこにいくと くさい 汚 い とバカにされたり 殴 られ た 証 明 を 出 してもらうための 費 用 は2 円 だったが 賄 賂 として 警 官 に5 円 から1 円 出 してい た( 注 5) それでも 申 請 後 は 身 辺 を 調 査 された 善 良 で 健 康 な 成 人 男 性 が 労 働 の 基 準 だったのである また 金 春 緑 さんのように 渡 航 許 可 証 を 取 得 できなかった 人 びとは 密 航 に よって 渡 日 していた - 18 -

2 同 郷 性 と 就 業 定 期 航 路 開 設 により 日 本 居 住 者 は1934 年 末 には 済 州 島 民 の5 分 の1に 達 した 大 阪 では メリヤスの 月 汀 印 刷 の 杏 源 という 言 葉 ができるほど 村 と 日 本 の 近 代 工 場 との 経 路 は 確 実 となっていった 当 時 日 本 は 第 一 次 世 界 大 戦 後 の 好 況 により 大 企 業 による 設 備 投 資 や 中 小 零 細 企 業 が 増 加 していた 当 時 大 阪 は 経 済 の 急 激 な 伸 張 に 必 要 な 労 働 力 を 朝 鮮 半 島 や 沖 縄 からの 渡 航 者 で 補 充 する 国 際 都 市 であった 植 民 地 体 制 がしかれていくなかで 生 きる 術 を 求 めて 渡 航 する 人 々の 多 くが 土 木 建 築 貨 物 運 搬 衛 生 掃 除 などの 長 時 間 過 酷 不 快 低 賃 金 の 現 在 3K といわれるような 下 層 労 働 についていた そのなかで 阪 神 地 域 から 職 工 募 集 があったということが 191 年 代 からの 済 州 島 からの 渡 日 者 の 増 加 の 背 景 にあっ た 大 阪 市 のなかで 現 在 の 生 野 区 を 含 む 当 時 の 東 成 区 は 都 市 計 画 事 業 の 本 格 的 な 発 展 のなか で 市 街 化 が 進 んだ 東 成 には 中 小 工 場 が 集 中 し 当 時 綿 織 物 工 場 石 鹸 工 場 は 工 場 数 生 産 額 とも 大 阪 市 の 第 一 位 を 占 め ゴム 工 場 の 工 場 数 は 大 阪 市 の 第 一 位 生 産 額 は 第 二 位 を 占 めてい た また ろうそく 工 場 セルロイド 工 場 金 属 品 工 場 ホーロー 工 場 ガラス 工 場 洋 傘 工 場 などの 零 細 工 場 も 多 く いずれも 職 工 が 不 足 していた そこでこの 不 足 労 働 力 を 埋 めるべ く 済 州 島 人 は 大 阪 へと 動 員 されることになった( 資 料 2) 192 年 代 出 稼 ぎ 当 初 に 杏 源 里 から 渡 阪 した 人 で うまくいった 人 は 康 チバンに1 人 い た その 人 は 金 春 緑 さんの 父 方 の 叔 母 の 夫 になる 金 春 緑 さんのコモブは 初 め 印 刷 工 場 に 入 り うまく 働 いた ので 金 儲 けをして 食 堂 兼 下 宿 を 始 めた そこで 世 話 になって 仕 事 を 紹 介 してもらった 杏 源 の 人 は 1 人 はいるさ と 金 春 緑 さんはいう 村 から 大 阪 に 行 く 人 たちは 互 いの 渡 阪 をすべて 知 っていたのではなかった ただ 村 では 谷 町 空 堀 町 といった 地 名 だけは 杏 源 里 の 人 が 多 くいる 場 所 として 耳 に 馴 染 んでいた 杏 源 里 の 人 々が 特 に 集 って 住 んでいた 谷 町 4 丁 目 には 康 チップトンネ( 康 家 洞 内 ) と 呼 ぶ 筋 があったと 金 春 緑 さんは 語 った( 注 6) ここを 探 し 当 てるには 万 貫 堂 という 店 が 目 印 だった 杏 源 里 出 身 者 が 集 う 康 チップトンネ のように 同 郷 者 同 士 で 集 住 していた 地 域 は 現 在 の 生 野 区 および 東 成 区 にまたがる 猪 飼 野 と 呼 ばれた 済 州 島 出 身 者 が 集 住 している 地 域 だけで なかった 1931 年 18 歳 のとき 当 時 城 内 と 呼 ばれた 済 州 市 から 子 供 を 一 人 連 れて 夫 のいる 大 阪 に 来 た 高 緑 山 さんは 夫 の 親 戚 や 自 分 の 弟 のいる 森 町 ( 現 在 の 森 之 宮 付 近 )に 向 かった 最 初 は そこから 南 西 に 離 れた 本 庄 ( 現 在 の 東 今 里 付 近 )で 朝 鮮 の 人 ( 同 郷 者 でも 済 州 島 の 人 でもないときの 表 現 )から 又 貸 しで3 畳 1 部 屋 を 一 ヶ 月 5 円 で 借 り1 年 住 んだ 博 打 をして なかなか 給 料 を 持 って 帰 らない 夫 に 困 っていたところ 近 所 の 朝 鮮 の 人 が 傘 の 糊 付 けの 内 職 を 取 ってきて 教 えてくれた 稼 いだ 金 はその 朝 鮮 の 人 が 親 になり 頼 母 子 をしてくれ 森 町 で 家 を 借 りる 資 金 にした ところが 空 いている 家 はたくさんあるにもかかわらず 日 本 人 家 主 は 全 く 貸 してくれな かった そこで 昔 のやくざ 気 のある 日 本 人 に 頼 んで 何 とか 見 つけた しかし 事 はすん なり 運 んだわけではなかった まず 家 賃 は 高 緑 山 さんが1 年 分 払 うことにして 先 に 沖 縄 出 - 19 -

身 者 に 借 りてもらった 次 に その 家 の 二 階 を 間 貸 しする 貼 り 紙 を 借 り 主 となった 沖 縄 出 身 者 にはってもらい 高 緑 山 さんが 借 りた そして1 年 後 沖 縄 出 身 者 が 大 家 に 自 分 が 沖 縄 に 帰 っている 間 の 家 賃 はすべて( 一 階 分 と 二 階 分 合 わせて) 高 緑 山 さんが 支 払 うと 告 げて 出 て いった こうした 手 順 を 踏 んで やっと 高 緑 山 さんは 一 軒 の 借 家 を 使 用 できるようになったの である 当 時 の 家 賃 は 一 ヶ 月 2 円 ガラス 工 の 夫 の 月 収 は35 円 だった 高 緑 山 さんの 内 職 でも 補 いきれない そこで 高 額 な 家 賃 のやりくりを 高 緑 山 さんは 二 階 の6 畳 を 二 つに 分 けて5 円 ずつで 朝 鮮 の 人 に 又 貸 しすることで 賄 った こうして 済 州 島 をはじめとする 朝 鮮 から 来 た 人 々は 集 住 することになる その 状 態 を 指 して 大 阪 市 社 会 部 調 査 課 (193)は 報 告 書 で 日 本 人 家 主 は 朝 鮮 人 が 一 戸 に 群 居 するから 貸 さない という 拒 否 理 由 を 挙 げているが 問 題 は 逆 である 日 本 人 の 拒 否 があるがゆえに 人 々は 集 住 せざるをえなかった しかし 高 緑 山 さんのように 間 に 沖 縄 出 身 者 を 介 する 工 夫 や 様 々な 同 郷 ネットワーク 済 州 島 / 陸 地 といった 地 域 別 を 越 えた 朝 鮮 人 ネットワークなども 形 成 活 用 しながら 人 々は 固 有 の 生 活 空 間 を 形 成 してきた 集 住 地 域 には 人 々とともに 生 活 必 需 品 も 集 まる そうして 人 々はそれぞれ 金 や 物 や 力 を 持 ち 寄 り 杏 源 里 出 身 の 人 々のように 親 睦 会 を 結 成 し 冠 婚 葬 祭 を 執 り 行 った それは 都 市 の 居 住 空 間 に 生 活 世 界 としての 村 を 再 現 しようと する 出 稼 ぎ 民 の 実 践 ( 松 田 1996:141)として 生 成 応 用 されたものであった (2) 解 放 前 後 の 渡 日 第 二 次 世 界 大 戦 に 突 入 し 戦 況 が 悪 化 するなか 都 市 にいた 済 州 島 出 身 者 にとって 田 舎 で ある 済 州 島 が 疎 開 先 となる 1945 年 に 解 放 を 迎 えると 済 州 島 への 移 動 は 引 揚 げ となり 44 年 から46 年 の 間 に 人 口 は 約 5 万 3 人 増 加 した( 済 民 日 報 4 3 取 材 班 1994:39) 解 放 によって 済 州 島 の 生 活 は いきなり 植 民 地 経 済 構 造 から 放 り 出 されてしまう 植 民 地 期 済 州 島 の 生 活 必 需 品 は 日 本 からの 送 金 および 輸 入 によって 賄 われていた( 伊 地 知 2:86-93) その 流 れが 解 放 によって 突 然 断 たれることになる さらに 帰 郷 には 千 円 という 財 産 持 帰 り 制 限 が 課 せられる そのため 人 や 物 品 を 搬 入 するために 貨 物 船 や 小 型 漁 船 が 玄 界 灘 を 往 来 していた( 済 民 日 報 四 三 取 材 班 前 掲 書 :19) 梁 愛 正 さん(1937 年 生 )は 母 と 弟 二 人 とともに 45 年 疎 開 で 本 籍 地 である 済 州 島 下 貴 里 に 初 めて 住 むことになる 父 と 姉 は46 年 に 引 揚 げてきたが そのとき 品 物 を 仕 入 れて 済 州 島 で 売 りさばいたという( 藤 永 他 2) 李 健 三 さんは 1937 年 大 阪 で 生 まれ1946 年 家 族 で 済 州 島 新 村 里 に 帰 郷 した 李 健 三 さ んの 母 は 4 3の 前 年 に 不 穏 な 空 気 を 村 内 で 感 じ 済 州 市 への 引 越 しを 決 意 した そこで 日 本 に 残 ってゴム 長 靴 工 場 を 営 む 長 女 から 引 越 し 資 金 を 調 達 するために 母 は 再 渡 日 し 済 州 島 に 戻 ってきた 李 健 三 さんが 当 時 の 行 き 来 は 自 由 やったから と 語 るように 解 放 によって 突 然 国 境 線 が 引 かれても 人 びとの 生 活 感 覚 にすぐさま 国 境 線 が 持 ち 込 まれるわけではない( 藤 永 他 27) しかし 実 際 は 国 境 線 が 成 立 しているのであり GHQ 当 局 の 許 可 無 しでの 外 国 人 の 日 本 への 出 入 国 は 禁 止 されていた さらに 日 本 からの 物 資 の 持 ち 込 みは 密 輸 と 看 做 された 当 時 米 軍 政 の 警 察 服 に 着 替 えた 日 帝 の 巡 査 たち が 密 輸 品 を 取 り 締 まる という 大 義 名 分 の - 2 -

もとに 活 動 した しかし 物 資 搬 入 を 処 分 するよりも 裏 取 引 で 私 腹 を 肥 やしたものが 多 く 後 に このような 謗 利 行 為 に 米 軍 政 官 吏 や 警 察 高 位 幹 部 西 北 青 年 会 などの 施 設 団 体 が 加 わり 数 々の 暴 利 事 件 に 繋 がったのである( 済 民 日 報 四 三 取 材 班 1994:45) 解 放 後 も 在 日 する 人 びとが 済 州 島 にいる 人 びとの 生 活 を 支 える 姿 そして 日 本 と 朝 鮮 半 島 双 方 の 占 領 軍 が 往 来 を 取 り 締 まる 様 子 は 解 放 とは 何 であったのかを 問 うものといえよう これら 経 済 的 要 因 に 加 えて46 年 コレラが 発 生 し 生 活 疲 弊 に 追 い 打 ちをかけるように 凶 作 が 続 く こうした 状 況 の なか 渡 日 再 渡 日 する 人 びとは 続 き 46 年 不 法 入 国 で 検 挙 された 人 数 は1 万 7 千 人 を 越 えた ( 法 務 省 入 国 管 理 局 1959:14) そして 人 びとを 日 本 へ 向 かわせる 要 因 には 48 年 に 起 き た 済 州 4 3もまた 深 く 関 わっていたのである (3) 密 航 による 渡 日 解 放 直 後 の 渡 航 は 1945 年 1 月 から 始 まり 1946 年 は2 万 人 を 越 えた これらはすべて 密 航 = 事 前 許 可 なし 渡 航 であった こうした 動 きに 対 して 米 軍 政 長 官 からGHQへ 要 請 があり 1946 年 3 月 本 国 に 帰 還 した 非 日 本 人 は 連 合 国 最 高 司 令 官 によって 認 可 された 場 合 を 除 いて 通 商 上 の 交 通 機 関 が 利 用 できるまで 日 本 に 戻 ることは 許 されない という 項 目 が 盛 り 込 まれた (SCAPIN822)( 伊 地 知 村 上 28:98-99) 1947 年 以 降 の 密 航 には 後 の 済 州 4 3に 繋 がる 動 きがある 1947 年 3 月 1 日 の3 1 独 立 運 動 28 周 年 記 念 集 会 の 後 警 察 の 無 差 別 発 砲 によって 子 供 を 含 めた6 人 の 住 民 が 犠 牲 になる 事 件 が 起 き た( 注 7) 島 民 は 官 民 総 ストライキを 全 島 で 展 開 し 警 察 へ 抗 議 した この 動 きを 米 軍 政 は 北 朝 鮮 と 共 謀 したものと 見 なし 陸 地 部 から 警 察 を 動 員 し ストライキ 関 連 者 の 検 挙 が 始 まっ た 弾 圧 を 避 けるための 渡 航 先 の 一 つが 日 本 であった 全 体 像 は 不 明 であるが 1947 年 5 月 12 月 九 州 地 方 への 密 航 船 15 隻 で 479 人 が 到 着 した( 伊 地 知 村 上 28:15-16) これら の 人 びとを 待 ち 受 けていたのは 1947 年 5 月 に 公 布 施 行 された 勅 令 27 号 外 国 人 登 録 令 ( 注 8)であり GHQによる 許 可 のない 不 法 入 国 者 としての 処 遇 であった ここでのGHQの 視 角 は 占 領 の 目 的 に 有 害 な 活 動 を 行 う 人 物 の 流 れという 観 点 から 治 安 の 点 でも 極 めて 重 要 である [RG331,GHQ/SCAP Recors.]というものであった( 伊 地 知 村 上 28:18-19) この 時 期 を 中 心 として 報 告 者 を 含 めた 解 放 直 後 の 在 日 済 州 島 出 身 者 の 生 活 史 調 査 チー ムでは 1999 年 から 現 在 までに35 名 にインタビュー 調 査 を 行 ってきた そのうち 28 年 まで のデータである 資 料 3の 人 びとのうち 金 好 珍 さんと 孫 裕 炯 さんを 除 いた 全 員 が 密 航 による 渡 日 であり 高 太 成 さんを 除 いた 全 員 が 家 族 親 族 を 頼 っての 渡 日 であった 梁 寿 玉 さん 李 性 好 さん 高 蘭 姫 さん 姜 京 子 さんは 自 身 があるいは 家 族 が 武 装 隊 ( 注 9)に 入 ったため 渡 日 したケース 高 奉 淀 さんは 韓 国 海 軍 として4 3 鎮 圧 のために 済 州 島 での 海 上 警 備 に 派 遣 され 水 葬 ( 注 1)を 目 撃 し 陸 地 部 へ 戻 った 後 で 左 翼 思 想 の 著 書 を 読 むようになり 軍 を 追 わ れ 渡 日 したケース 梁 愛 正 さんは 父 が3 1 集 会 後 に 検 挙 を 恐 れ 渡 日 し その 父 を 頼 りに 進 学 のために 渡 日 したケース 李 健 三 さんも 進 学 のために 渡 日 したケース こうした 事 情 のほ かに 経 済 的 理 由 もある 済 州 4 3 朝 鮮 戦 争 という 激 変 の 最 中 であった5 年 代 は ポリッ コゲ( 麦 峠 ) という 言 葉 で 象 徴 される 飢 餓 の 時 代 であった 57 年 には4 年 ぶりといわれる - 21 -

大 凶 作 となる こうした 状 況 のなか 58 年 12 月 17 日 の 夜 に 朝 天 面 新 村 浦 口 から 日 本 に 密 航 し ようとした9 名 を 検 挙 という 記 事 が 出 ている( 済 民 日 報 1958.12.2) 先 述 した 以 外 の 人 び との 渡 日 背 景 には こうした 生 活 難 もある また 解 放 前 後 で 離 散 した 家 族 の 結 合 という 事 情 もある 1968 年 8 月 21 日 付 の 済 州 新 聞 に は 日 本 特 別 滞 在 申 請 という 記 事 がある 内 容 は 次 のようなものだ 金 良 淑 さん( 当 時 13 歳 )は 1 歳 の 彼 女 を 済 州 島 に 置 いて 渡 日 した 母 のもとへ 行 くため 密 航 し 上 陸 するや 出 入 国 管 理 収 容 所 に 収 監 されたため 済 州 島 内 の 各 界 で 一 万 名 署 名 運 動 が 起 こり 人 道 主 義 の 観 点 から 金 良 淑 さんが 在 日 できるよう 在 日 韓 国 大 使 館 が 日 本 政 府 と 交 渉 し 特 別 在 留 許 可 を 得 た この 記 事 は 在 留 許 可 を 得 るまで3 度 にわたって 掲 載 されている こうした 家 族 結 合 のための 渡 日 は 先 述 した< 資 料 >では 玄 ジョンミンさんのケースである ただ 注 意 しなければならない ことは ここで 取 り 上 げた 渡 日 要 因 は 直 接 的 であるが 背 景 には 帝 国 日 本 の 拡 張 と 崩 壊 という 歴 史 的 変 化 があるということだ 密 航 者 数 そのものは 1965 年 日 韓 条 約 を 基 準 に 摘 発 件 数 が 急 減 する( 玄 武 岩 27:17) しかし 日 韓 国 交 正 常 化 による 正 規 ルートの 入 国 が 可 能 となった 後 も そのルートで 渡 日 する には 手 続 きが 煩 雑 であり 198 年 代 まで 密 航 が 絶 えることはなかった こうした 解 放 後 の 密 航 による 移 動 は 日 本 からはもちろん 韓 国 からも 不 法 行 為 とされる 非 連 続 的 な 処 遇 を 受 ける ものとなった その 一 方 で 解 放 前 から 形 成 されてきた 生 活 圏 のなかで 済 州 島 民 にとっては 連 続 的 なものであった 先 述 した 金 良 淑 さんのように 家 族 の 結 合 も 含 め 渡 日 はさまざまな 事 情 によるものであるが 何 より 生 活 に 余 裕 が 出 てきた と 実 感 できる8 年 代 ( 伊 地 知 2:13-14)まで 人 びとにとって 密 航 とは その 不 法 性 を 問 う 以 前 に 経 済 的 社 会 的 に 選 ばざるをえなかった 移 動 手 段 だったのである (4)88を 経 て 88 年 ソウル オリンピックを 経 て89 年 海 外 渡 航 自 由 化 前 後 から 人 びとは 飛 行 機 に 乗 って 済 州 島 から 日 本 に 来 るようになる 3ヶ 月 の 親 族 訪 問 ビザ 15 日 の 観 光 ビザを 使 ってひと 仕 事 して は 済 州 島 に 帰 り また 渡 日 するという 短 期 滞 在 型 の 移 動 形 態 が 生 まれた ただ 当 初 から ひ と 仕 事 目 的 で 来 日 するとは 限 らない 私 が 杏 源 里 でこの 時 期 以 降 の 渡 日 理 由 を 尋 ねた 際 日 本 で 弟 がしている 母 の 祭 祀 に 一 度 顔 を 出 したいから 甥 の 結 婚 式 のため 兄 の 小 祥 ( 一 周 忌 )に 息 子 と 村 の 畑 管 理 で 相 談 するため など 出 稼 ぎ 以 外 のさまざまな 答 えが 返 ってきた そこで 家 族 や 親 戚 の 手 伝 いから 近 所 の 工 場 へという 流 れもできる もちろん なかにはビザの 期 間 が 切 れてもそのまま 不 法 滞 在 する 人 びとはいる 私 が94 年 に 杏 源 里 を 初 めて 訪 れたとき 俺 が 関 空 を 作 ったんだ 鶴 橋 に 鶴 一 って 焼 き 肉 屋 があるだろ 私 はあ そこにいたんだ と 気 軽 に 声 をかけられた( 資 料 4) そのうちの 一 人 9 年 3 歳 のときに 大 阪 の 親 戚 を 頼 って 従 兄 とともに 渡 日 したヒジニアバン は その 後 3 年 間 不 法 滞 在 していた ヒジニアバンは 当 初 親 戚 が 借 りてくれた 大 阪 市 生 野 区 のアパートに 入 ったが 仕 事 探 しは 自 分 でした 鶴 橋 には 彼 と 同 じく 不 法 滞 在 する 人 同 士 で 情 報 交 換 し 生 活 用 品 を 販 売 する 場 所 がある そこで ヒジニアバンのような 不 法 滞 - 22 -

在 者 を 雇 ってくれる 砂 利 採 集 業 者 や 電 気 工 事 会 社 などの 仕 事 情 報 を 得 て 働 いてきた 彼 のよ うな 人 びとにとって 住 居 の 確 保 も 一 苦 労 である 1989 年 以 降 飛 行 機 で 人 びとがやって 来 る 以 前 から 間 貸 し があった 生 野 区 でインタビューした 女 性 もまた 知 り 合 いから 紹 介 された 不 法 滞 在 の 人 に2 階 を 貸 していた 92 年 当 時 66 歳 以 上 の 韓 国 籍 朝 鮮 籍 の 人 びとは 国 民 年 金 制 度 から 排 除 されており 間 貸 しによる 現 金 収 入 は 生 計 の 支 えとなった 実 は こうした 間 貸 し は 解 放 前 からすでに 実 践 されていたのである( 伊 地 知 25:89-9) 3.おわりに 在 日 する 人 びとの 生 活 は 在 住 する 日 本 と 朝 鮮 半 島 それぞれの 社 会 的 政 治 的 状 況 の 変 化 によ る 影 響 を 受 けざるをえない こうした 生 活 のありようそのものを 梶 村 秀 樹 は 国 境 をまた ぐ 生 活 圏 ひいては 定 住 外 国 人 として 故 国 との 紐 帯 は 観 念 意 識 のあり 方 以 前 に まず 生 活 の 実 態 としてあるものである それは 歴 史 が 形 成 させたものであり 本 人 に 責 任 如 何 という 筋 合 のことではない と 主 張 している( 梶 村 1985 :27) 済 州 島 出 身 者 の 解 放 後 史 から 見 れば 国 境 をまたぐ 生 活 圏 は まさに 生 活 の 必 要 から 維 持 されてきたのである 国 境 をまたぐ 生 活 圏 での 人 びとの 移 動 には 経 済 的 理 由 進 学 家 族 との 再 会 財 産 や 祭 祀 の 管 理 など 生 活 に 関 わるさまざまな 事 情 が 伴 っている 近 年 短 期 滞 在 型 の 渡 日 者 も 増 え ているが 済 州 島 の 経 験 から 見 ればその 人 びとをただ 滞 在 期 間 でもって 分 類 するだけでは 不 十 分 といえよう もちろん 杉 原 が 指 摘 するように 日 々の 現 実 のなかでは 様 々な 在 日 歴 がぶつ かり 例 えば 合 法 / 非 合 法 の 分 節 によって 排 他 的 関 係 の 再 生 産 も 見 られる( 杉 原 1998:31 伊 地 知 25:342-346) こうした 関 係 のありようは 済 州 島 においてはその 裏 返 しのように 表 れることがある 日 本 で 生 まれ 育 ち 朝 鮮 語 ができない 親 戚 が 村 を 訪 れ 帰 った 後 に その 人 びと のふるまいかたについて 村 では 日 本 人 と 呼 び そこには 彼 我 の 境 界 が 引 かれてしまうか らだ こうした 差 異 化 / 差 別 化 の 作 用 もまた 国 境 をまたぐ 生 活 圏 が 維 持 されるなかで 歴 史 的 に 形 成 されたものである < 謝 辞 > 本 研 究 は 平 成 21 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 ( 基 盤 研 究 (B)) 在 日 コリアンの 労 働 世 界 に 関 する 実 証 的 研 究 国 境 をまたぐ 生 活 圏 の 形 成 と 変 容 ( 課 題 番 号 :2133119 代 表 : 伊 地 知 紀 子 )および( 基 盤 研 究 (A) 新 自 由 主 義 の 時 代 における 生 活 世 界 が 生 成 する 新 た な 共 同 性 に 関 する 生 活 人 類 学 的 研 究 ( 課 題 番 号 :2124233 代 表 : 松 田 素 二 ) ( 基 盤 研 究 (C)) 第 2 次 大 戦 直 後 大 阪 在 住 朝 鮮 人 の 生 活 状 況 に 関 する 歴 史 的 研 究 ( 課 題 番 号 : 2152697 代 表 : 藤 永 壮 )の 助 成 をうけた 成 果 の 一 部 でもある - 23 -

資 料 1 済 州 島 チャムスの 出 稼 ぎ 先 地 図 (1932 年 ) 出 典 : 桝 田 1976:79. - 24 -

資 料 2 済 州 島 人 の 日 本 への 出 稼 ぎ 者 職 業 別 人 口 (1934) - 25 -

資 料 3 解 放 直 後 の 在 日 済 州 島 出 身 者 の 生 活 史 調 査 による 移 動 歴 梁 寿 玉 さん:1917 年 済 州 島 生 1925 年 京 都 1929 年 済 州 島 1934 年 大 阪 1936 年 東 京 1937 年 天 津 1946 年 47 年 仁 川 木 浦 済 州 島 大 阪 李 性 好 さん:192 年 済 州 島 生 1935 年 和 歌 山 尼 崎 1938 年 済 州 島 1942 年 尼 崎 1944 年 済 州 島 1948 年 大 阪 済 州 島 1949 年 大 阪 金 好 珍 さん:192 年 済 州 島 生 1941 年 大 阪 金 玉 煥 さん:1921 年 吹 田 生 193 年 済 州 島 196 年 大 阪 金 春 海 さん:1922 年 済 州 島 生 1928 年 大 阪 1946 年 済 州 島 1957 年 大 阪 高 奉 淀 さん:1925 年 済 州 島 生 光 州 1949 年 済 州 島 195 年 羅 州 大 阪 玄 ジョンミンさん:1928 年 済 州 島 生 1942 年 大 阪 1944 年 九 州 1945 年 大 阪 1947 年 済 州 島 1949 年 大 阪 孫 裕 炯 さん:1929 年 済 州 島 生 1943 年 大 阪 高 蘭 姫 さん:193 年 西 宮 生 1946 年 済 州 島 1948 年 大 阪 朴 仁 仲 さん:1933 年 済 州 島 生 朝 鮮 戦 争 後 に 議 政 府 1964 年 大 阪 金 徳 仁 さん:1936 年 大 阪 生 解 放 前 に 済 州 島 朝 鮮 戦 争 後 に 議 政 府 1964 年 大 阪 梁 愛 正 さん:1937 年 大 阪 生 1945 年 済 州 島 1953 年 釜 山 済 州 島 1955 年 釜 山 大 阪 姜 京 子 さん:1937 年 大 阪 生 解 放 直 前 に 済 州 島 195 1952 年 大 阪 李 健 三 さん:1937 年 大 阪 生 1946 年 済 州 島 1957 年 加 古 川 大 阪 高 太 成 さん:1937 年 済 州 島 生 1957 年 大 阪 斜 め 太 文 字 は1945 年 8 月 15 日 後 の 移 動 - 26 -

資 料 4 済 州 島 杏 源 里 サントンの 渡 日 経 験 出 典 : 伊 地 知 2:123-27 -

[ 注 ] 注 1 チャムスとは 済 州 島 の 言 葉 で 海 女 を 意 味 する チャムスの 引 率 者 や 漁 船 の 乗 組 員 もいるが どの 程 度 どのような 形 態 で 雇 用 されていたかは 今 後 の 課 題 であるため 今 回 はとりあげない 注 2 廣 瀬 勝 は 島 を 出 づる 船 は 白 衣 の 人 を 積 み 島 に 入 る 船 は 洋 服 或 いは 和 服 の 黒 き 姿 を 乗 せて 歸 る 船 員 等 は 恰 も 色 揚 げの 送 迎 なりと 自 ら 愚 笑 せり 事 實 一 度 島 を 出 でし 者 にして 傳 統 の 白 衣 を 着 し 又 島 に 歸 る 者 は 絶 無 なり 何 れも 多 少 の 手 荷 物 の 中 には 眞 新 らしきトランクを 携 へ 意 氣 揚 々 紳 士 然 として 歸 島 す ( 廣 瀬 1926b:67)とあり 帰 島 者 がいかにも 朝 鮮 の 伝 統 を 捨 て 日 本 の 文 明 に 着 替 えているかのようである しかし 桝 田 の 文 章 では まげを 結 って 馬 の 尾 で 編 んだ 冠 をつけ あごひげをのばした 者 も 登 場 しており 記 述 された 時 期 の 相 違 も 関 連 するであ ろうが 見 る 者 のまなざしを 映 し 出 す 文 章 とも 捉 えられるのではないだろうか 注 3 済 州 島 から 渡 阪 した 女 性 たちが 多 く 携 わった 紡 績 工 場 では 労 働 環 境 労 働 条 件 が 劣 悪 であった これに 対 して193 年 岸 和 田 紡 績 堺 分 工 場 で 日 本 人 労 働 者 と 朝 鮮 人 労 働 者 が 共 闘 して 立 ち 上 がっ た 詳 しくは 金 賛 汀 (1982)を 参 照 のこと 注 4 当 時 日 本 で 稼 いだ 金 を 父 母 に 送 金 する 人 は えらい と 評 判 になった 注 5 1924 年 当 時 の 朝 鮮 での 農 作 夫 の 日 給 92 銭 (1 銭 =1 円 )である( 河 明 生 1997:3) 注 6 康 チップトンネ とは 康 という 姓 の 人 びとが 集 住 した 界 隈 という 意 味 である 注 7 1947 年 3 月 1 日 済 州 市 で 開 催 された3 1 節 28 周 年 記 念 大 会 終 了 後 街 頭 デモに 繰 り 出 した 群 衆 に 対 して 警 察 が 観 徳 亭 広 場 で 発 砲 し 6 名 が 死 亡 また 負 傷 者 の 運 ばれた 道 立 病 院 でも 理 性 を 失 った 警 察 官 が 無 差 別 乱 射 し 一 般 市 民 が 重 傷 を 負 う 事 件 が 起 こった 米 軍 政 と 済 州 島 民 衆 運 動 勢 力 の 対 立 を 深 刻 化 させたこの 事 件 は 4 3 事 件 勃 発 への 導 火 線 の 役 割 を 果 たすことになった 注 8 天 皇 の 大 権 によって 制 定 公 布 された 命 令 注 9 現 在 一 般 的 に1948 年 4 月 3 日 に 蜂 起 した 遊 撃 隊 を 武 装 隊 討 伐 鎮 圧 作 戦 に 参 加 した 軍 警 察 右 翼 青 年 団 らを 討 伐 隊 と 呼 ぶ 注 1 討 伐 隊 が 検 挙 した 武 装 隊 を 船 に 乗 せ 足 に 錘 をつけて 生 きたまま 海 に 投 げ 入 れることを 水 葬 という [ 参 考 文 献 ] 済 民 日 報 4 3 取 材 班 19941994=1994 文 京 洙 金 重 明 済 州 島 四 三 事 件 第 一 巻 新 幹 社 24 金 蒼 生 訳 済 州 島 四 三 事 件 第 六 巻 新 幹 社 藤 永 壮 1999 植 民 地 期 済 州 島 の 実 力 養 成 運 動 団 体 とその 人 員 構 成 192 年 代 を 中 心 に ( 大 阪 産 業 大 学 大 阪 産 業 大 学 論 集 社 会 科 学 編 113 号 pp67-9 藤 永 壮 高 正 子 伊 地 知 紀 子 鄭 雅 英 皇 甫 佳 英 張 叶 実 2 解 放 直 後 在 日 済 州 島 出 身 者 の 生 活 史 調 査 (1 上 ) 梁 愛 正 さんへのインタビュー 記 録 大 阪 産 業 大 学 論 集 人 文 科 学 編 12 号 pp.57-74 藤 永 壮 高 正 子 伊 地 知 紀 子 鄭 雅 英 皇 甫 佳 英 高 村 竜 平 村 上 尚 子 福 本 拓 塚 原 理 夢 李 陽 子 27 解 放 直 後 在 日 済 州 島 出 身 者 の 生 活 史 調 査 (4 上 ) 李 健 三 さんへのインタビュー 記 録 大 阪 産 業 大 学 論 集 人 文 科 学 編 122 号 pp.99-124 廣 瀬 勝 1926a 在 阪 朝 鮮 人 と 済 州 島 ( 一 ) ( 大 阪 府 社 会 課 社 会 事 業 連 盟 社 会 事 業 研 究 第 14 巻 第 5 号 - 28 -

1926b 在 阪 朝 鮮 人 と 済 州 島 ( 二 ) ( 大 阪 府 社 会 課 社 会 事 業 連 盟 社 会 事 業 研 究 第 14 巻 第 6 号 法 務 省 入 国 管 理 局 1959 出 入 国 管 理 とその 実 態 昭 和 34 年 度 版 玄 武 岩 27 密 航 大 村 収 容 所 済 州 島 大 阪 と 済 州 島 をむすぶ 密 航 のネットワー ク 現 代 思 想 第 35 巻 第 7 号 pp.158-173 伊 地 知 紀 子 2 生 活 世 界 の 創 造 と 実 践 韓 国 済 州 島 の 生 活 誌 から 御 茶 の 水 書 房 25 営 まれる 日 常 縒 りあう 力 語 りからの 多 様 な 在 日 像 藤 原 書 店 編 集 部 編 歴 史 のなかの 在 日 pp.337-355 藤 原 書 店 伊 地 知 紀 子 村 上 尚 子 28 解 放 直 後 済 州 島 の 人 びとの 移 動 と 生 活 史 - 在 日 済 州 島 出 身 者 の 語 りから 蘭 信 三 編 日 本 帝 国 をめぐる 人 口 移 動 の 国 際 社 会 学 不 二 出 版 pp.87-145( 村 上 担 当 分 は 第 1 節 から5 節 伊 地 知 分 担 分 は4 節 から6 節 ) 梶 村 秀 樹 1985 定 住 外 国 人 としての 在 日 朝 鮮 人 思 想 732 号 岩 波 書 店 河 明 生 1997 韓 人 日 本 移 民 社 会 経 済 史 明 石 書 店 金 賛 汀 1982 朝 鮮 人 女 工 のうた 193 年 岸 和 田 紡 績 争 議 岩 波 書 店 高 鮮 徽 1998 2 世 紀 の 滞 日 済 州 島 人 その 生 活 過 程 と 意 識 明 石 書 店 大 阪 市 社 会 部 調 査 課 193 本 市 に 於 ける 朝 鮮 人 住 宅 問 題 桝 田 一 二 1976 桝 田 一 二 地 理 学 論 文 集 弘 詢 社 松 田 素 二 1996 都 市 を 飼 い 慣 らす アフリカの 都 市 人 類 学 河 出 書 房 文 京 洙 25 済 州 島 現 代 史 公 共 圏 の 死 滅 と 再 生 新 幹 社 成 律 子 1994 オモニの 海 峡 彩 流 社 杉 原 達 1998 越 境 する 民 近 代 大 阪 の 朝 鮮 人 史 研 究 新 幹 社 在 日 本 朝 鮮 人 人 権 協 会 24 在 日 コリアン 暮 らしの 法 律 Q&A 日 本 加 除 出 版 株 式 会 社 善 生 永 助 1929 生 活 状 態 調 査 ( 其 二 ) 済 州 道 朝 鮮 総 督 府 済 州 新 聞 1968 年 8 月 21 日 付 済 州 新 報 1958 年 4 月 6 日 付 1958 年 12 月 2 日 付 - 29 -

釜山移住民の定着と生活ネットワークー -湖南出身者を中心に 車喆旭(釜山大) [目 次] はじめに 4. 影島と湖南の人々 1. 湖南の人の釜山への移住と地域感情 5. 定着と鄕友会の役割 2. 湖南-釜山の交流と海域圈 3. 船員の移住と生活ネットワーク おわりに はじめに 釜山の人は大きく避難民 湖南の人 釜山近隣の慶尙道の人で構成されている 釜山の構成 員が様々であるという点は釜山のローカリティーを規定するにあったて重要な変数になると思 う 移住民の釜山移住と定着に関心を持つことはローカリティー研究において意味深い作業と 言える この中で湖南の人の移住は植民地時代から確認されている 196年代 197年代の韓 国の政治的理由によって始まった地域主義は湖南の人の釜山定着にもう一つの要素として作用 された可能性がある 湖南の人々の移住は大きくソウルと釜山に進められたという 特に釜山に移住した湖南の人 は全羅南道の海岸に居住しながら船員を職業に選んだ人が多かったという 船員のおおかたは ヨンド 影島に定着した 影島には開港以降に人が住み始めた 濟州島と全羅道の出身者が多く生活し ていたという 影島には海辺の人々が主に移住して生活したと思われる 全羅道と影島が海の 道で結ばれていた このような海域圏が陸地の地理的な区分による政治的 経済的区画に対応 してどのような意味として作用するか調べてみる必要がある 海域圏を基礎にした湖南の人の移動と定着過程で形成された生活ネットワークは影島の特性 を規定する重要な要素である 生計型ネットワーク 響友会 その他の様々なネットワークを 確認する作業は影島で生活する湖南の人が影島に定着する(させる)方式を理解できるようにす る 今回の発表では全ての湖南の人を対象にはできず 全羅南道高興郡羅老島の出身者を中心に して莞島郡の出身者を補充した 31

1. 湖南の人の釜山への移住と地域感情 湖南の人の釜山移住の歴史は長い 植民地時代 解放後の帰還同胞 韓国戦争の避難民など の形で進行された 職業 教育などの理由が重要であった それが 196,7年代には嶺湖南 の間に地域主義が浮き上がった 今回の調査過程の中で釜山に移住した湖南の人が経験した地 位差別の類型は職場内の差別 就職上の不利益 結婚の拒否 営業妨害など多様な形態であっ た このような経験は主に196年代と197年代に多かったという 以降 このような差別は良 くなったが 1987年の選挙以後 選挙の時にまた地域主義を経験するようになったという 地域主義に対応した湖南の人の適応方法は一つ目は言葉遣いであり 湖南の人であるかどう かを判断する重要な表象になる言葉遣いを変える場合である 二つ目は地域主義や言葉遣いを 気にせず自分なりの生き方を選ぶことであった 構造的な問題と言うよりは個人の努力で乗り 越えられたと思われる だが 釜山の湖南の人が地域主義によって苦しめられたりもしたが政 治意識と関連して自分たち自身も地域主義に抱き込まれたことを確認することができた 2. 湖南-釜山の交流と海域圈 本章では陸地を区分する境界(ここで出発した意識)ではなく海を媒介として湖南と釜山結ばれ ている方式を検討してみる 両地域の結び付きを海域圏の観点で理解する 海域で結ばれたい くつかの島は孤立し制限されたところではなく海を通じて外部と結ばれている人 物資 情 報が往来する空間である 今回の発表では高興郡羅老島と釜山の影島との関係を分析の対象と して制限する ヨンド ワンド ナロド 口述者によると影島で生活する湖南の人のほとんどは 莞島郡靑山島と高興郡羅路島のように 海に接している地域の出身という 羅老島は1894年に日本人の漁民が移住漁村を建設した 197年 蛇梁島にはじめて進出した日本人の中部幾次郞がハモ漁のためにここを根拠地にし た 以後 日本人の漁業が繁盛したところである 今でも羅老島には日本人村の原型が残され ている 朝鮮人も日本式の漁具を活用して漁業に従事した 羅老島に収集された水産物は日本 32

と中国 朝鮮内陸に販売された 日帝時代の全羅道と釜山旅客航路が開設されていた 全羅道 海岸の青山島 羅老島の住民は日帝時代から釜山と往来したり 影島に定着したりもした 1945年に解放されると羅老島の住民は日本人が残した漁具と新しい漁船を導入して底引網漁 業を始めた 日帝時代の海外販売市場がなくなりその代わりに漁獲物の主要販売経路が釜山に 変わった 出漁準備も釜山でできるようになった 195,6年代にも羅老島を中心とした南海 岸の漁船は釜山と交流が活発であった 旅客船の往来も198年代初期まで続いた 次第に羅老 島の船主がこの根拠地を全羅道から釜山に移した 3. 船員の移住と生活ネットワーク 生活ネットワークに対する関心は移住民の職業選択と定着を理解するにあたって重要であ る 釜山に定着した羅老島の人々の職業は船員 居住地域はほとんどが影島だった 羅老島の 人々の影島居住は解放直後の事例からも確認できるほど古くからあった 影島の羅老島の人々は幼いころから父親が船員であるか村の主要な生計である漁業の場合が 多かった 成長環境のせいでふるさとにいた時から船員の経験があった また お金を稼がな ければならない家庭環境も大きく作用した 当時の船員の収入は陸地の会社員より良かったと いう それに子供の教育問題も移住を決めた主要な要因であった 羅老島の人々は釜山に対する様々な情報をもっていた 釜山を往来したり居住する親戚や友 だちから乗船する船を紹介してもらった 船の種類は漁船 遠洋漁船 商船などと多様であっ た 個人の能力と人脈によって収入が高く安定した船に乗船することができた 羅老島の人々 は主に漁船に乗船した 漁船の船長と船主に羅老島の人が多かったからである 釜山に来た船員は居住地を定める 時も親戚が影島に住んでいる点 漁 船が停泊する所が影島の大平洞一帯 という点などを考慮して決めた 操業過程で船員は荒海と戦わなけ ればならなかった 一度 出漁する 2日間ほど操業をした 海での生 活は陸地の犬を羨ましく思うほど大 変であった 船員の構成は漁船の場 合は地域性がとても強かった 船長 の出身地域によって船員の出身地も決まった 羅老島出身の船長の船には羅老島出身の船員が 多数だった 時おり 他の地域のひとが含まれることもあった 操業過程での命令体系をきち んと伝えるためであった 船長の権威はめっぽうな威力を発揮した 暴行と暴言は自然なこと であった 船員内部または上下間の葛藤もあった 操業過程で船員は危険にさらされ地域主義 が作動する間がなかった 固い談合を前提とした共同体精神が必要であった 羅老島の人々が影島に移住して漁船に就職する過程はふるさと羅老島を媒体にするネット 33

ワークを前提にしなければならなかった 4. 影島と湖南の人々 船員が影島で生活する時間はそんなに長くなかった 普段は2日ぐらい操業して 一週間休 みを取る 3月と8月は魚があまり釣れない時期なので漁を中断するため 2ヶ月間は休息の時期 である 休みの期間に船員たちはそれぞれの立場による集まりの時間を持つ 船長同士 機関長同 士 船員同士が集まってお酒を飲みながら遊んだり情報を交換したりする 船員の収入は給料 制ではなく漁獲高によって一定の比率で分配される形であった 漁労地域 個人別の収益など に対する情報交換は就職と再就職のために必要であった 漁船修理に必要な造船所 操業に必要な装備と備品を整える 備える ための船具店 船員 の必需品販売店 米屋 食堂 喫茶店 理容院などは漁船 船員と密接な関係にあった すな わち 漁船の収益とこれに関連した業種は影島の経済と密接な関係があった 影島に漁船が 多かった198年代末から199年代半ばまで 人だらけ だの 犬が一万ウォン札をくわえて という 言葉が流行った 漁船と船員が選択する影島内の多様なサービス施設の関係はふるさとの人脈がとても重要で あった 船の修理に必要な造船所や操業に必要な品物を購入する船具店 食料品などは主にふ るさとの人々と連携されていた 注文する側でも信頼できる商品であり 商品を届ける側でも 代金問題もあるので信頼できる関係でないといけなかった このようなネットワークは漁船や操業と関連するだけではなかった 船員の日常生活にも作 動していた 船員個人が必要な服や家庭に必要な食料品にもふるさとの人脈は重要であった 湖南の人の強力なふるさと人脈と生活ネットワークは影島で経済的な安定と定着を可能にし たという点でメリットとして作用した だが 地域主義を強化する契機に見えたり 他の地域 の人々から 彼らは気がきつい ということを聞いたりもする そして1997年以後 景気後退と 過程で連鎖して没落するきっかけにもなった ふるさとの人脈という信頼に基づいた編み網的 取引(現物または金銭)は片方が崩壊すると途方もない打撃になる契機になった 一方 影島の湖南の人はふるさとの人脈以外にも多様なネットワークで結ばれていた 影島 に定着するための方法として洞単位の多様な半官團體で地域内の基盤を広げる場合も少くなく なかった 影島で湖南の人の中で民選の洞長や区議員(12年間)になる人物も登場する 以上から見て影島内の湖南の人はふるさとの人脈を基盤にしながら同時に影島の多様な政治 活動にも参加している 両者とも影島での定着に必要なネットワークだった 5. 定着と鄕友会の役割 鄕友会はネットワークの一つの形である 鄕友会は縁故主義の弊害がなくもなかったがふる さとを離れてきた人々が都市生活に適応する機能もした 在釜湖南鄕友会は1964年2月9日に創 立された 地域主義と差別が鄕友会設立の理由であった 在釜湖南鄕友会の下にそれぞれの区 34

別の支部があり その下に洞別の支会が組織された そして出身 市 郡鄕友会も組織され た 羅老島鄕友会は面単位の鄕友会である 198年7月6日に組織された 在釜湖南鄕友会の創立 とは異なって影島で生活する羅老島の人々の生活基盤がある程度 安定した頃に設立された 鄕羅老島友会会員たちが上位の鄕友会に参加する場合は多くなかった ふるさとの人々の集ま りと言う意識が強かった 羅老島に一つだけある中学の同窓会という点も作用した 羅老島鄕友会会員の特徴は船員である点 他の鄕友会に表われる経済的関係(職業斡旋)と相互 相助的な性格が強く ふるさとの人とのふれあいの機会としても重要に作用した 鄕友会事業 は必ずしもふるさとと関連したわけではない よって鄕友会はふるさとと関連した活動よりは ふるさとを媒介にして影島に馴染んでいく人々の現実的な必要によって運営された しかし1997年以後 羅老島の人々の経済力が萎縮するとともに鄕友会活動も부진해졌다. 会 員の間での葛藤 会員の老齢化 1.5世代 2世代の無関心などがその理由である おわりに 湖南と釜山の結び付きは国民国家が作り上げた陸(陸地)を基準に形成された地域主義を無力化 できるのだろうか 海域圏を通じて釜山に移住した湖南の人が作った影島という場所の特性と は何なのかという質問に答えてみよう 湖南の人々が影島に定着する過程で作り上げる196, 7年代の生活ネットワーク すなわち 船員で組合に参加する過程 組合を準備する過程で作られる共同体は影島に定着する湖南の 人々が地域主義から保護される安全網だった 影島に海の道と関連して南海岸の様々な地域の 出身者が集まった 影島は様々な地域出身者の 溶鉱炉 と呼ばれる 船員という職業的な特性に から多くの地域を基盤にする生活ネットワークが存在できた 35

植民都市釜山の空間配置と坂上の村の時空間性 吳美一(釜山大) [目 次] 1. はじめに 4. 朝鮮人の住居空間 坂上の村の形成と発達 2. 近代的都市空間の生産と区画 3. 産業発達推移と産業空間の移動 5. おわりに 1. はじめに 植民都市はおおかた植民支配者と非支配者間の民族的分化が空間的分化に展開される つま り 同じ都市空間の中で民族的差別は経済的 文化的分化として進行されひいてはこれは 空間 の区画と隔離として展開されるのである このような点で植民都市はその内部で植民支配層の 社会的空間と非支配層の社会的空間に二重構造化される現象がある 日帝時期の植民都市の中でも釜山は植民地朝鮮のローカリティー 植民性を代表する空間 だった 釜山の地理的条件と固有の歴史は植民地朝鮮のローカリティーと区別される 重層的 意味での釜山ローカリティーを造り出した 植民性で一般化されない釜山ローカリティーはこの 視覚的都市景観から発見することができる それは山地に入り込んでいる住居空間 つまり坂 上の村(산동네)である 海岸を沿って狭い平地と背後の山地に長く展開される地形上植民都市釜 山の民族的分化は平地と山地という空間的分化で独特な景観を構成した また 日本と地理的に関係にある釜山に数百年間存在した倭館を媒体に成り立った交流の歴 史は開港後 日本人專管居留地を中心に急速な 日本式都市 として建設することを可能にした主 要要因であった このような釜山の地理的条件と日本交流の歴史は近代釜山の都市建設過程と 空間配置に大きく作用された 空間的配置は多様な空間的実践を定義し統制することで社会的関係を形成した 表現する 逆に社会的関係は建築的構造と分布などを通じ空間自体を配列し そのような空間の中に人々 を配置する 空間は位置関係の形態として我々に与えられる はフーコ(MichelPaul Foucault) の言葉のように植民都市の社会的関係を把握することに空間の問題はすなわち空間的配列の問 題 空間的配置の問題である 本稿では 今日も依然として釜山を象徴する景観や空間 として認識されている坂上の村を都 市空間の区画と空間 配置という歴史的観点で接近していこうと思う このような分析は坂上 の村の位置関係とそれを内包する社会的関係で構成される都市景観を通じ釜山のローカリ ティーに接近するための作業である 39

2. 近代的都市空間の生産と区画 日帝時期 釜山府の空間境界はすでに初期日本居留民団の植民都市建設構想にて胚胎された のである 釜山地域の日本人は府域をいくつかの物理的区画空間の組み合わせとして考えた 例えば 19年代後半 釜山地域の日本人居住地別 戸口調査の時に專管居留地/ 新市街/ 北 濱埋築地/ 牧島/ 洲岬/ 草梁/ 古館/ 釜山鎭など 8ヶ所の圏域別に調査したが これは当時の 日本人が認識していた釜山港に対する地理空間的境界と空間生産のの歴史的過程をよく表して いる いくつかの物理的空間は日本專管居留地から近代的市區改正が成り立った後 次第に居 留地外部に市街が拡大される歴史的過程の構成物であった 釜山が近代都市に発展する過程はこの專管居留地を拡大するするために近隣の朝鮮人村の土 地を買ったり奪う過程であった 日本人が植民都市建設のためにはじめに奪って開拓使用とし た場所は專管居留地の西側方面であった 一方 專管居留地の東に位置している草梁 釜山鎭は營繕山と英國領事館山を境に日本專管 居留地と隔離されていた 草梁の朝鮮人は従来 漁業を生業として生活したが 開港以降には 日本人の運送 委託商業を主にした ここでの日本人の土地売買がブームになったのは慶釜線が 開通した195年前後であった 193年 草梁の日本人人口は355人だったが慶釜線が敷設され た194年に1,193人に大きく増え 以降195年に1,279人 196年に1,639人 197年に 1,855人と持続的に増えた 以降 日本專管居留地と草梁を結ぶために実施された兩山鑿平工事 を通じ新市街が助成された 3. 産業発達推移と産業空間の移動 1) 産業構成の変化と工業の発達推移 188年12月 釜山に移住し定着して日本人の営業別調査を見ると 35人の調査対象のな かで圧倒的に多数は仲買商(152人)で5% その次が貿易商(34人)と小賣雜商(34人)が12%で商 業貿易がほとんどであった ところが 兼業までを含めると仲買商と貿易商の比率ははるかに 高かった 次いで料理店(15人) 飲食店(13人)などのサービス業の比率が高かった 195年6月頃 調査対象者である居留民1,435人の職業を業種別に分類してみると商業貿易が 52%と最も多く 次いで飲食 遊興業(27%) 土木 建設業(7%)の順であった 製造業に従事する者は少なかったが 主に製綿業や長有 酒 製造 精米業などの食品工業が 主流であった 単一業種として藝妓が239人で最も多かった 貿易 商業の比重が以前より減少 しサービス業は交易商人だけではなく日本人官僚 旅行家 移住民などを対象に発達した こ れは開港初期の釜山港が居留民の最終的な定住地というよりはここで朝鮮の経済 文化的雰囲 気を身につけ適応し 追加的に開港される新天地の開港に向かう中間寄着地的な性格が強かっ た当時の時代的状況に基づくものである 1917年3月頃に調査した釜山地域の商業と工業関連の営業調査によると旅館 料理 遊興な どのサービス業の比重が1/3に激減し また 製造業の比重が増加した これは合併以降の釜山港 が市街の姿を整え再生産基盤が安定されて本格的に居留民の日常生活に必要な食料品工業と鑄 4

物 たたみ 煉瓦 煙草 せっけん製造業などの各種の小工業が大きく増加した 191年代末 以降 192年代に日本人の大資本が進出し大きな工場が設立されはじめながら釜山の空間境界 に対する認識と産業空間の配置にも次第に変化が表れはじめた 2) 産業空間の移動と人口推移 195年~192年代前半の製造業は專管居留地の外郭である西町と富平町に集中していた だが 192年代後半以降 富平町の工場数が減少する反面 瀛善町は193年代以降にも続けて 工場数が増加した 總工場數が続けて増加しているにも関わらず1927年以降 富平町と西町所 在の工場数が減少するのはこの地域が工場地帯としての機能が喪失していたことを意味する 同じ時期に市街地の東外郭地域である水晶町 左川町 凡一町の工場の数が増加した これは富 平町の工業立地機能が左川町と凡一町方面に移動したことを意味する いわば1913~1918年 1927~1932年 埋め立て工事で獲得したおよそ3万坪あまりの釜山鎭の埋め立て地が工場地域 として機能したのである そうすると 産業空間の移動による人口移動と各区画空間の変化はどのようであったのだろ う 192~1933年 町洞別の戸口数を区画空間別から見ると專管居留地区域は釜山の平均人口 増加率よりおおむね低く 人口増加率が相対的に高いところは西部新市街地と草梁の北の区域 であった 何よりも日本專管居留地区域では絶対的な住居人口数のほとんどが日本人であり 朝鮮人の比重は無視してもいいくらいに少なかった この区域には朝鮮人の流れ込みが不可能 な神聖な領域といってもいいほどであった 西部新市街地からは工業地帯である富平町の場合 日本人の増加率が高く朝鮮人の場合は低 かったが日本人は5千~6千人を維持しながらの増加であったが朝鮮人は1926年を頂点にに減少 した 西部新市街地の平地を日本人が工場または商店街として占有した反面 港湾埠頭で荷役 運送作業に従事したり專管居留地区域内の商業区域で店員として働いたりもしくは富平亭工場 地帯で労働者として働く朝鮮人は西方面や西北方面の山地である谷町 草場町 大新町に居住 した 1933年頃 朝鮮人が最も多く居住したところは大新町 草梁町 瀛州町, 凡一町の順であっ た 朝鮮時代以来伝統的に朝鮮人村であったところが近代以降にも朝鮮人住居空間に連続され たことが分かる ところが 注目すべき点は朝鮮人住居地域を見るとおおかた日本人の比重が とても低いがひときわ草梁だけは日本人の人口比率がほぼ4~47%に上った これは2章でも見 てきたように195年慶釜線の歴史敷設以降 関連機関や運送会社が設立されたからだ また 192年代半ば以降 釜山鎭方面に多数の工場が設立されたが ここに勤務する日本人管理者や 技術者などが近隣の草梁に住居地を置くことになったからである 要するに日本人居住比率が圧倒的に高いところは 專管居留地区域と北賓埋め立て地を基盤に した商業区域そして西部新市街地の真ん中の平地である既存の工業地帯だった 朝鮮人比率が 圧倒的なところはこの地域の外郭に位置している鵠汀 大新町 瀛州町 左川町 凡一町で あった 41

4. 朝鮮人の住居空間 坂上の村の形成と発達 1) 坂上の村の形成経路と空間的拡大 朝鮮人の住居空間として坂上の村が形成される過程すなわち朝鮮人が坂上の村に定着する経 路は大きく4つに分けることができる 一つ目は開港後に商業活動を目的に全国各地から商人 が移住してきた彼らが当初の期待とは異なって経済的に没落してから山地に定着することに なったのである 二つ目は土地所有の分化によって没落した農民たちが農村から職を探して家族とともに釜山 港に流れ込む場合は所有している財産もなく技術もないのて結局は埠頭や駅で荷物を運搬する しょいこ人夫や埋め立て地の労働者になるしかなかった 彼らは埠頭や駅 工事現場から近く て家賃が安い瀛州町や草梁町または水晶町などの山地に居住した 三つ目は植民都市の建設過程で生計基盤と住居地を奪われた朝鮮人が山地に構築される場合 もあった つまり釜山面や沙中面の土着民は主に漁業に従事してきたが開港以降の築港と埋め 立て工事によって従来の業を廃棄せざるえなくなり結局は経済的に没落し山地に草幕を建てて 暮すようになったのである また 日本人が專管居留地の外にある朝鮮人村の土地を奪ったり 買ったり もしくは慶釜線の歴史建設や道路の敷地 市區改正で朝鮮人の土地を強引に受容し ながら山邊として構築されたのである 山地の住居空間発達の主要な契機は都市建設過程の大型土木事業 そして産業空間の配置と 密接に関連していた 坂上の村は 19年代の半ばの日本專管居留地の西側の朝鮮人居住地を 奪い新市街を建設することで 元々ここに居住していた朝鮮人が鵠汀や大新町の山地に構築し て形成された こ ように形成された山地の住居空間は富平町の工場で働いたり埠頭や駅で日雇 い労働者として働くために外地から集まってきた移住民によってさらに発達した 続いて瀛州 町の坂上の村は19年代以降に港湾施設と着工工事のような大規模の土木工事が進行され土地 から掛け離れされた農民が流れ込み発達した 一方 草梁と釜山鎭の背後山地は生計手段である漁業を諦めるしかないか或は慶釜線の敷設 によって構築された土着民によって住居空間として形成されはじめた 以降 市區改正事業か ら構築された彼らが 釜山鎭の埋め立て工事に流れ込んだ日雇い労働者によってさらに拡大し た 釜山鎭埋め立て工事で獲得した平地が工業地帯として助成されたから192年代半ば以降に は凡一町の工場で働く労働者の背後住居地として機能した また 目島には189年代以降 続々と工場が入り込み これによって瀛仙町にも工場労働者 の背後住居地である坂上の村が形成されたと思われる. 2) 坂上の村の景観 植民都市釜山のローカリティー 山腹や山頂に居住する住民の相当数が朝鮮人であった だが 彼ら朝鮮人のほとんどは細民 や土幕民であった 朝鮮人細窮民の職業としてはしょいこ人夫や人足 日雇労働者 が最も多 く次いで行商 辻商いそして工場労働者の順であった 府廳の社會科や警察で実施する細窮民調査の時の対象地域はいつも朝鮮人居住地域である坂 上の村だった 1928年頃に細窮民が最も多く居住するところは大新町(25%)であり その次瀛 42

州町(山里を含む 22%) 木島(13%) 水晶町 鵠汀だった 世界大恐慌を経て釜山地位域の貧 民層の数は急速度に増加した 彼らは他人の土地を小作して生活していたが穀物値段の暴落と 債務の没落によって近隣の農村で押し掛けてきた流離民であった 釜山府の調査によると1932 年頃に救済を求める貧民いわば最貧民層は総数45戸 1,574人と地域別には鵠汀で171戸 778人/ 草場町 69戸, 336人/ 大新町 48戸, 157人/ 瀛州町 37戸, 129人/ 瀛仙町 25戸, 85人 / 草梁町で11戸 48人/ 左川町で6戸 24人順に分布していた 朝鮮人細窮民が居住する山地住居空間は地形上 駅と港の向かいに位置していた よって外地 から来た彼らの視野に入る最初の場所であった 日本人や外国人が釜山港に足を踏み入れた り 外地の人が釜山駅に降りて眺める坂上の村の景観は釜山の第一印象であった 夜見るとき らめく灯りによって美しい文明の摩天楼は朝になると蜃気楼のように去り 醜い都市の恥部に 変わった 釜山を視察した政務総督や釜山府当局 そして日本人地域の有力者には坂上の村の公衆衛生 を脅かし犯罪と頻繁な火災発生の温床であり また朝鮮第2の商工都市である釜山の面目をつ ぶす公共の敵として認識された よって 坂上の村を都市文明の摩天楼として整備するために は土幕と不良住宅を撤去したり 撤去が難しい場合は外部の視線から遮断された空間を隔離す る作業が必要だった 外地から来た朝鮮人に釜山は 家屋も飮食も衣服もまた 言語も 朝鮮的文化があまりにもな く まるで日本人がはじめて飾りたてた都市のなかに朝鮮の人が移住してきたかのように感じ させる場所 だった 釜山の朝鮮人は 朝鮮人の経済的亡狀の標本 であり 釜山の日本人は 日本 人の発展の標本 であった 朝鮮人の経済的没落と日本人の繁盛の標本である釜山のなかでも坂 上の村はその標本の圧縮的空間であった 5. おわりに 釜山のランドマークがダイヤモンドブリッジ 広安大橋 として一般化され ダイヤモンド ブリッジ 広安大橋 周辺の景観 つまり海を見晴らすセンタムシーティーと海雲台の超高層 ビルが釜山の代表的景観になっている だが 199年代までの釜山のランドマークは龍頭山公 園のタワーでったし 龍頭山と釜山駅から見える坂上の村が釜山の第一印象として思い出に残 る代表景観であった 思い出景観 であり 今も依然として 象徴的景観 として語られる坂上の村は釜山都市空間の 生産と区画 そして産業発達と関連されている歴史的構成物である 43

貧 困 地 域 の 社 会 空 間 大 阪 市 の 都 市 貧 困 問 題 の 分 析 川 野 英 二 ( 大 阪 市 立 大 学 ) [ 目 次 ] 1. 大 阪 市 の 貧 困 問 題 3. 釜 ヶ 崎 居 住 者 の 分 析 2. 釜 ヶ 崎 の 概 要 4. おわりに 1 大 阪 市 の 貧 困 問 題 貧 困 都 市 大 阪 大 阪 市 は 現 在 失 業 率 (11. 7% 25 年 )と 生 活 保 護 率 の 高 さ( 5.7% 211 年 ) 自 殺 率 などの 社 会 指 標 をみても きわめて 困 難 な 都 市 社 会 問 題 を 抱 えている その 問 題 の 深 刻 さは 他 の 大 都 市 と 比 較 しても 突 出 していることがわかる 図 1では 縦 軸 に 1 万 人 当 たりの 自 殺 率 横 軸 に 完 全 失 業 率 バブ ルは 生 活 保 護 率 を示 している 図 1 大 都 市 の 社 会 指 標 211 年 に 行 われた 大 阪 市 長 選 では 大 阪 府 と 大 阪 市 を 統 合 する 大 阪 都 構 想 を 掲 げて 橋 下 徹 新 市 長 が 誕 生 した 彼 の 率 いる 大 阪 維 新 の 会 が 選 挙 期 間 中 で 掲 げたマニフェストは 大 阪 市 の 失 業 率 や 生 活 保 護 率 の 高 さを 問 題 視 し 大 阪 を 政 令 指 定 都 市 のなかで 最 貧 困 地 域 と 表 現 している( 大 阪 維 新 - 45 -

の 会 211) たしかに 他 の 大 都 市 と 比 べても 大 阪 市 は 都 市 全 体 の 貧 困 化 という 大 きな 問 題 に 直 面 している 橋 下 新 市 長 は 大 阪 府 と 大 阪 市 の 二 元 行 政 を 撤 廃 し 新 たな 都 市 制 度 をつくり 大 都 市 大 阪 を 再 編 し 統 治 機 構 そのものを 変 えることによって 大 阪 の 抜 本 的 な 改 革 に 乗 り 出 そうとしている 工 業 化 時 代 の 大 阪 市 域 拡 張 とポスト 工 業 時 代 の 大 阪 大 阪 市 は 明 治 期 から 高 度 経 済 成 長 期 にいたるまで 次 第 にその 市 域 を 広 げていったが とりわけ 明 治 3 年 (1897 年 )の 第 一 次 市 域 拡 張 と 大 正 14 年 (1925 年 )の 第 二 次 市 域 拡 張 で 地 理 的 範 囲 を 大 きく 拡 大 した 大 阪 市 はもともと 現 在 の 中 央 区 西 区 を 中 心 とする 商 業 都 市 であったが 市 域 拡 張 で 大 阪 近 郊 を 取 り 込 むことによって 工 業 都 市 化 を 進 めていった( 図 2) 図 2 大 阪 市 域 の 拡 大 http://www.city.osaka.lg.jp/johokokaishitsu/page/1265.html 近 代 の 大 阪 市 は 多 くの 労 働 者 を 国 内 外 から 吸 収 していったが 急 速 な 拡 大 に 対 応 する 都 市 計 画 の 未 整 備 などによって スラムなど 多 くの 都 市 社 会 問 題 を 抱 えていた 工 業 都 市 大 阪 の 都 市 社 会 問 題 は 高 度 経 済 成 長 や 都 市 社 会 政 策 の 整 備 によっていったんは 不 可 視 化 したが 戦 後 の 工 場 立 地 法 による 大 都 市 での 工 場 設 置 の 制 約 によって 域 外 へと 工 場 は 移 転 し ポスト 工 業 化 の 時 代 に 入 ると 工 業 都 市 として 発 展 してきた 大 阪 はさらにいっそう 衰 退 の 道 を 進 むようになった 現 代 の 大 阪 もまた この 時 代 に 形 成 された 地 域 社 会 構 造 が 持 続 しており 現 在 の 大 阪 市 住 民 の 職 業 構 成 をみても 専 門 管 理 職 層 は 中 心 部 から 南 北 を 走 る 上 町 台 地 を 中 心 に 集 住 し インナーリングには ブルーカラー 層 が 居 住 する 構 造 になっていることがわかる( 図 3 図 4) - 46 -

図 3 大 阪 市 専 門 管 理 率 (25) 図 4 大 阪 市 ブルーカラー 率 (25) さらに 211 年 11 月 の 大 阪 市 長 選 で 改 革 を 訴 える 橋 下 現 市 長 の 区 別 投 票 率 をみても とりわけ 北 区 と 西 区 中 央 区 などの 市 中 心 部 を 中 心 に 橋 下 得 票 率 が 高 いことが 明 らかである - 47 -

図 5 211 年 大 阪 市 長 選 橋 下 得 票 率 以 上 のように 貧 困 都 市 と 呼 ばれるほど 都 市 社 会 問 題 が 集 積 する 大 阪 市 のなかで オフィス 街 が 集 中 し 専 門 管 理 職 等 の 高 い 社 会 階 層 が 居 住 する 地 域 では これまで 前 職 の 大 阪 府 知 事 時 代 からラディ カルな 制 度 改 革 を 訴 えてきた 橋 下 氏 の 支 持 率 が 相 対 的 に 高 かったことがわかる 今 や 貧 困 都 市 大 阪 では 高 い 階 層 が 居 住 する 市 中 心 部 とブルーカラー 層 が 居 住 するインナーエリアのあいだで 大 きな 階 層 分 断 が 生 じていると 考 えることができる 大 阪 市 住 民 の 貧 困 観 これまで 一 般 に 計 量 的 な 貧 困 研 究 では 貧 困 を 定 義 するさいに 等 価 可 処 分 所 得 の 5%を 貧 困 線 と 定 義 し それに 満 たない 低 所 得 層 を 貧 困 層 とみなしてきた しかしこうした 貧 困 定 義 はその 定 義 の 恣 意 性 から 逃 れることはできず たとえば 定 義 を 6%と 設 定 しなおして 計 算 すると 非 常 に 多 くの 人 々 が 貧 困 層 として 定 義 することができることになる こうした 慣 習 化 された 貧 困 定 義 にたいして ユーロスタ ットで 実 施 されているユーロバロメーター 調 査 では 社 会 的 地 位 によって 貧 困 がどのように 認 知 されてい るのか つまり 貧 困 観 の 調 査 が 実 施 されている(Eurobarometer, 21) しかし 日 本 では 貧 困 問 題 が 注 目 されるようになったのは およそ5 年 ほど 前 からであり この 種 の 研 究 の 蓄 積 が 多 いとはいえない 大 阪 市 立 大 学 の 研 究 チームでは 211 年 1 月 に 大 阪 市 民 約 3, 名 を 対 象 に 大 規 模 調 査 を 実 施 し 貧 困 社 会 的 排 除 と 健 康 格 差 のテーマに 取 り 組 んでいる この 調 査 では ユーロバロメーター 調 査 と 比 較 可 能 なデータを 収 集 するために 貧 困 観 についての 調 査 項 目 を 加 えている まずは 基 本 的 な 記 述 統 計 からみてみよう - 48 -

表 1 貧 困 定 義 貧 困 定 義 度 数 有 効 % 社 会 活 に 参 加 できるお がない 557 17.2 1 の 年 収 が15 万 円 未 満 626 19.4 活 保 護 を 受 けている 485 15. 社 会 的 地 位 がとても 低 い 314 9.7 活 必 需 品 が りない 146 32.4 その 他 21 6.2 合 計 3229 1. 表 1にあるように 社 会 生 活 に 参 加 できるお 金 がない は 17.2% 年 収 が 15 万 円 未 満 が 19.4% 生 活 保 護 の 受 給 が 14.9% 社 会 的 地 位 が 低 い が 9.7% 生 活 必 需 品 が 足 りない が 32.4% その 他 が 6.2%である 貧 困 概 念 には 様 々な 定 義 があり 大 阪 の 場 合 は 貧 困 を 社 会 参 加 の 資 源 低 所 得 扶 助 の 受 給 低 い 社 会 的 地 位 としてよりも ニーズの 欠 如 として 理 解 する 人 々が 最 も 多 いということがわか る 人 々が 貧 困 に 陥 る 原 因 としては 大 きく 社 会 に 原 因 があるか 個 人 に 原 因 があるかに 分 けられ る ユーロバロメーターと 大 阪 調 査 では 貧 困 の 原 因 を 社 会 が 不 公 正 だから 社 会 が 発 展 すると 必 然 的 に 生 じる ( 社 会 原 因 )と やる 気 や 意 欲 の 欠 如 運 が 悪 い ( 個 人 原 因 )に 分 けて 質 問 してい る 表 2 貧 困 原 因 貧 困 原 因 度 数 有 効 % 社 会 が 不 公 正 977 3.2 社 会 が 発 展 すると 必 ず まれる 811 25.1 社 会 原 因 計 1788 55.3 やる 気 や 頑 張 りが りない 92 28.4 運 が 悪 かった 226 7. 個 原 因 計 1146 35.4 その 他 3 9.3 合 計 3234 1. 表 2にあるように 大 阪 市 調 査 では 社 会 が 不 公 正 は3.2% 社 会 が 発 展 すると 必 ず 生 まれる は 25.1%で 社 会 原 因 が 合 計 で 55.3%である 他 方 やる 気 や 頑 張 りが 足 りない が 28.3% 運 が 悪 かっ た が 7.% 個 人 原 因 が 合 計 で 35.4%である したがって 大 阪 では 貧 困 の 原 因 が 社 会 にあると 考 え る 人 々が 55.3%で 個 人 に 原 因 を 求 める 人 々(35.4%)よりも 多 くなっている 最 も 多 い 回 答 は より 社 会 に 責 任 があると 考 える 社 会 が 不 公 正 の 3.2%で つぎに 多 いのは 個 人 の 自 己 責 任 と 考 える やる 気 や 頑 張 りが 足 りない が 28.4%であり 貧 困 にたいして 責 任 があるのは 社 会 か 個 人 かという 違 いはそ - 49 -

れほど 大 きなものではないようにみえる しかし この 結 果 を 他 国 と 比 べてみるとどのような 違 いがあるの だろうか 貧 困 観 の 国 際 比 較 先 に 述 べたように 貧 困 観 の 調 査 はユーロバロメーター 調 査 において 欧 州 各 国 で 行 われており 国 際 比 較 が 可 能 である 貧 困 の 原 因 がどのように 認 識 されているかは 社 会 によって 異 なっており またそ の 貧 困 観 をつうじて 当 の 社 会 の 特 徴 を 理 解 することができる 表 3 貧 困 定 義 の 国 際 比 較 貧 困 定 義 ( 欧 と 大 阪 ) 社 会 活 に 参 加 で きるお がない 貧 困 線 未 満 公 的 扶 助 を 受 けている 社 会 的 地 位 が とても 低 い 活 必 需 品 が りない その 他 合 計 ベルギー 22.6% 15.1% 6.5% 13.8% 36.6% 5.4% 1% デンマーク 36.6% 14.2% 12.9% 23.4% 6.4% 6.5% 1% ドイツ 26.5% 21.7% 8.8% 32.1% 4.3% 6.6% 1% 東 ドイツ 32.2% 23.% 5.9% 31.6% 4.7% 2.5% 1% ギリシャ 34.8% 33.1% 1.9% 9.6% 17.9% 2.7% 1% スペイン 21.5% 14.3% 7.3% 18.% 33.5% 5.3% 1% フィンランド 4.8% 19.7% 5.1% 28.5% 2.7% 3.3% 1% フランス 35.% 24.1% 9.5% 26.3% 2.4% 2.7% 1% アイルランド 23.2% 11.7% 6.2% 9.5% 39.2% 1.3% 1% イタリア 15.4% 18.7% 8.7% 12.8% 34.6% 9.9% 1% ルクセンブルグ 25.2% 13.4% 8.4% 25.% 22.2% 5.8% 1% オランダ 4.5% 13.8% 7.3% 26.8% 7.5% 4.1% 1% オーストリア 12.9% 17.2% 7.9% 3.6% 23.3% 8.% 1% ポルトガル 14.2% 23.2% 6.5% 17.4% 31.4% 7.3% 1% スウェーデン 41.9% 7.2% 8.2% 33.9% 7.% 1.8% 1% イギリス 14.4% 6.6% 6.% 16.8% 39.5% 16.8% 1% 北 アイルランド 16.3% 6.3% 6.7% 2.7% 34.7% 15.3% 1% ヨーロッパ 平 均 26.7% 16.7% 7.3% 22.2% 2.5% 6.7% 大 阪 17.3% 19.4% 15.% 9.7% 32.4% 6.2% 比 較 に 使 用 したデータは 29 年 に 実 施 されたユーロバロメーター72.1 調 査 である この 調 査 の 結 果 をみると 社 会 参 加 できる 資 源 がない という 回 答 が 一 番 多 いのはスウェーデンの 41.9%で つぎに フィンランドの 4.8%であり オランダ デンマークが 続 く エスピン アンデルセンの 福 祉 レジーム 論 の 表 現 でいえば 社 会 民 主 主 義 レジームに 属 する 国 では 貧 困 は 社 会 参 加 への 資 源 の 欠 如 と 理 解 されてい る 貧 困 線 未 満 という 回 答 は ギリシャが 33.1% フランスが 24.1%で ポルトガル 東 ドイツで 高 くな っている 公 的 扶 助 の 受 給 は ヨーロッパではデンマークが 一 番 高 く フランス 西 ドイツ イタリアが つづく ただしわれわれの 大 阪 市 調 査 では 生 活 保 護 を 受 けている が 15%で 欧 州 諸 国 よりも 高 い 結 果 となった 社 会 的 地 位 が 低 い は スウェーデン 西 ドイツ 東 ドイツである 生 活 必 需 品 が 足 りな い は イギリス アイルランドなど 自 由 主 義 レジームで 高 い 大 阪 市 調 査 とユーロバロメーター 調 査 の 結 果 を 比 較 すると 大 阪 市 は 公 的 扶 助 受 給 が 西 欧 平 均 の 約 二 倍 で 生 活 必 需 品 の 欠 如 も 西 欧 平 均 よ り 1 ポイント 高 くなっている - 5 -

表 4 貧 困 原 因 観 の 国 際 比 較 貧 困 原 因 観 ( 欧 と 大 阪 ) 社 会 が 不 公 正 社 会 の 進 歩 に 不 可 社 会 原 因 計 やる 気 意 欲 の 如 不 運 個 原 因 計 その 他 合 計 ベルギー 43.4% 21.% 64.4% 13.6% 15.7% 29.4% 6.3% 1% デンマーク 26.7% 22.% 48.6% 13.2% 31.5% 44.7% 6.7% 1% ドイツ 53.2% 14.4% 67.6% 14.7% 8.2% 22.9% 9.5% 1% 東 ドイツ 67.4% 11.5% 78.9% 13.1% 4.7% 17.8% 3.3% 1% ギリシャ 52.9% 18.2% 71.1% 13.9% 8.7% 22.6% 6.3% 1% スペイン 52.4% 13.1% 65.5% 11.7% 13.% 24.7% 9.8% 1% フィンランド 55.4% 19.3% 74.7% 12.% 12.% 24.% 1.3% 1% フランス 55.3% 19.1% 74.4% 11.2% 1.2% 21.4% 4.2% 1% アイルランド 42.3% 14.% 56.2% 12.7% 2.4% 33.1% 1.7% 1% イタリア 43.7% 16.4% 6.1% 1.1% 17.5% 27.6% 12.3% 1% ルクセンブルグ 45.2% 22.2% 67.4% 15.% 11.% 26.% 6.6% 1% オランダ 33.% 25.3% 58.3% 13.1% 16.7% 29.7% 11.9% 1% オーストリア 45.2% 15.2% 6.4% 14.% 15.4% 29.4% 1.2% 1% ポルトガル 43.6% 12.7% 56.2% 2.3% 17.4% 37.7% 6.1% 1% スウェーデン 46.4% 32.4% 78.7% 4.3% 9.2% 13.5% 7.7% 1% イギリス 33.1% 15.7% 48.8% 27.4% 13.5% 4.9% 1.3% 1% 北 アイルランド 4.7% 12.% 52.7% 24.% 13.% 37.% 1.3% 1% ヨーロッパ 平 均 45.9% 17.9% 63.8% 14.4% 14.% 28.4% 7.9% 1% 大 阪 3.% 25.% 55.% 28.3% 7.% 35.3% 9.2% 1% つぎに 貧 困 原 因 についての 意 識 をみると 社 会 が 不 公 正 との 回 答 が 最 も 多 いのは 東 ドイツ 67.8% その 後 はフィンランド フランスが 続 く 社 会 の 進 歩 に 不 可 欠 は スウェーデンが 32.4% オランダが 25.3%である 以 上 を 合 計 して 社 会 に 原 因 があると 回 答 しているのは 東 ドイツとスウェーデンが 最 も 高 い 個 人 のやる 気 意 欲 の 欠 如 と 答 えているのは 西 欧 ではイギリスと 北 アイルランドなど 自 由 主 義 レジ ームで 高 いが 大 阪 市 は 28.3%で 西 欧 諸 国 よりも 高 い 不 運 が 最 も 多 いのはデンマーク つぎにアイ ルランドで 個 人 に 原 因 があるという 回 答 が 多 いのは デンマーク イギリス 北 アイルランドで 大 阪 市 はその 次 に 位 置 している 一 般 にアングロサクソン 諸 国 で 自 己 責 任 言 説 が 強 いと 言 われるが 大 阪 市 調 査 ではやや 多 くなって おり 自 由 主 義 レジームと 呼 ばれる 諸 国 に 並 んで あるいはそれ 以 上 に 貧 困 の 原 因 を 個 人 の 自 己 責 任 としてとらえていることがわかる 1 貧 困 原 因 の 規 定 要 因 以 上 みてきたように 国 際 比 較 の 観 点 から 大 阪 では 貧 困 原 因 を 個 人 にあるとする 自 己 責 任 意 識 が 高 い 傾 向 がある さらに 大 阪 ではどのような 属 性 の 人 々が 貧 困 の 自 己 責 任 観 を 支 持 しているのか 貧 困 の 自 己 責 任 意 識 の 規 定 要 因 を 分 析 する 1 本 報 告 ではアメリカ 合 衆 国 のデータを 分 析 することはできなかったが 米 国 の 調 査 とユーロバロメー ター 調 査 の 結 果 を 比 較 したウィルソンによれば アメリカで 27 年 に 実 施 した 調 査 では アフリカ 系 ア メリカ 人 の 生 活 困 難 の 原 因 を 白 人 71% ヒスパニック 59% アフリカ 系 53%が 個 人 の 責 任 にある と 回 答 しており 西 欧 よりも 明 らかに 貧 困 の 原 因 を 個 人 に 帰 する 割 合 が 高 い(Wilson,2:25) - 51 -

モデル1では 性 別 年 齢 教 育 年 数 モデル2では 階 層 モデル3で 就 労 状 況 を 独 立 変 数 として 投 入 し 最 後 のフルモデルではさらに 世 帯 収 入 と 経 済 状 況 を 独 立 変 数 として 投 入 し 貧 困 の 自 己 責 任 を 従 属 変 数 としたロジスティック 回 帰 分 析 を 行 った 表 5 貧 困 の 自 己 責 任 を 従 属 変 数 としたロジスティック 回 帰 分 析 貧 困 の 自 責 任 を 従 属 変 数 としたロジスティック 回 帰 分 析 モデル1 モデル2 モデル3 モデル4 係 数 標 準 誤 差 係 数 標 準 誤 差 係 数 標 準 誤 差 係 数 標 準 誤 差 (Intercept) -.682*.346 -.494.371 -.58.384 -.133.464 性 別 : 男 性 / 性.21**.79.247**.9.179.99.228.119 年 齢.2.3.1.4.2.4 -.1.5 教 育 年 数 -.31.2 -.56*.22 -.62**.23 -.91**.28 階 層 : 専 管 /ブルー.298*.133.254.138.149.169 階 層 : ミドル/ブルー.22.121.195.126.164.153 就 労 : 正 規.252*.15.245.129 世 帯 収 経 済 状 況 : 苦 しい -.32**.116 McFadden R-sq. phi p Log-likelihood Deviance AIC N.3 1.15-1922.267 3844.534 3852.534 3226.4 1.1-1782.575 3565.15 3577.15 2981.7 1.1-1681.564 3363.128 3377.128 2814.14 1-1198.889 2397.778 2415.778 256 p.***<. p.**<.1 p.*<.5 性 別 と 年 齢 教 育 年 数 を 独 立 変 数 として 投 入 したモデル1では 性 別 が1% 水 準 で 有 意 であったが 階 層 を 投 入 したモデル2では 性 別 のほかに 教 育 年 数 と 専 門 管 理 がいずれも5% 水 準 で 有 意 であっ た 就 労 形 態 を 投 入 したモデル3では 5% 水 準 で 有 意 な 影 響 がみられた モデル4は さらに 世 帯 収 入 と 経 済 状 況 など 経 済 的 な 変 数 を 投 入 したフルモデルであるが 世 帯 収 入 には 有 意 な 差 はみられず 経 済 状 況 は1% 水 準 で 有 意 であった 以 上 の 分 析 結 果 をまとめると 大 阪 市 民 の 貧 困 観 としては 貧 困 原 因 を 自 己 責 任 ととらえる 傾 向 が 強 く その 規 定 要 因 としては 性 別 教 育 年 数 階 層 が 有 意 な 影 響 を 与 えているものの 就 労 形 態 さらに 現 在 の 経 済 状 況 でコントロールすると 教 育 以 外 の 効 果 がみられなくなった したがって 経 済 状 況 が 苦 しければ 貧 困 を 自 己 責 任 とみなすことはないものの 経 済 状 況 が 苦 しくないかぎりは 教 育 年 数 がより 短 い 正 規 雇 用 についている 層 が 貧 困 を 自 己 責 任 ととらえていることがわかる これまでは 大 阪 市 住 民 全 体 を 母 集 団 とした 調 査 にもとづき 大 阪 市 民 が 貧 困 をどのようにとらえて いるのかを 分 析 してきたが つぎに 貧 困 層 の 集 住 する 地 域 とその 住 民 の 生 活 がどのような 状 況 にある のかを 考 えてみたい - 52 -

2 釜 ヶ 崎 の 概 要 釜 ヶ 崎 の 社 会 空 間 的 位 置 大 阪 市 のなかでもとりわけ 西 成 区 の 失 業 率 生 活 保 護 率 は 突 出 しており 生 活 保 護 率 は 211 年 111 月 現 在 で 23.5%を 占 める なかでも 日 雇 い 労 働 者 の 街 として 知 られる 釜 ヶ 崎 では かつて 建 設 土 木 日 雇 に 従 事 してきた 男 性 が 労 働 市 場 の 変 化 や 高 齢 化 によって 仕 事 を 失 い ホームレスや 生 活 保 護 などで 生 活 を 維 持 するようになっており 現 在 では 福 祉 の 街 と 呼 ばれるようにもなっている 図 6は 釜 ヶ 崎 とその 周 辺 地 区 の 失 業 特 化 係 数 2 をマッピングしたものである 図 をみると 日 雇 労 働 者 が 主 に 利 用 する 簡 易 宿 所 や 生 活 保 護 受 給 者 が 居 住 する 福 祉 アパートが 密 集 する 萩 ノ 茶 屋 1 丁 目 で は5.61 萩 ノ 茶 屋 2 丁 目 が 4.77 太 子 一 丁 目 が 4.94 で 大 阪 市 平 均 の 約 5 倍 の 失 業 率 となっている 図 6 釜 ヶ 崎 失 業 率 特 化 係 数 日 雇 労 働 者 の 街 から 福 祉 の 街 へ このような 状 況 のなかで これまで 日 雇 労 働 者 を 主 な 顧 客 として 経 営 されてきた 簡 易 宿 泊 所 のなか には 利 用 者 の 減 少 に 対 応 するために 宿 所 を 生 活 保 護 受 給 者 向 けに 福 祉 アパートへと 転 用 するケー スが 多 くなった 下 の 図 は 21 年 に 報 告 者 の 研 究 グループで 行 った 釜 ヶ 崎 簡 易 宿 所 実 態 調 査 で 得 ら れたデータから 簡 易 宿 所 から福 祉 アパー トへの 転 用 年 をマッピングした 結 果 である 2 特 化 係 数 は 各 地 区 の 失 業 率 を 大 阪 市 平 均 失 業 率 で 除 した 値 で 各 地 区 の 値 が 大 阪 市 平 均 と 比 べて 何 倍 高 い/ 低 いのかがわかる - 53 -

図 7 釜 ヶ 崎 簡 易 宿 所 福 祉 アパート 分 布 図 (2 年 ) 図 8 釜 ヶ 崎 簡 易 宿 所 福 祉 アパート 分 布 図 (25 年 ) - 54 -

図 9 釜 ヶ 崎 簡 易 宿 所 福 祉 アパート 分 布 図 (21 年 ) 図 7から 図 9までの 簡 易 宿 所 福 祉 アパー ートの 分 布 の 推 移 をみると 明 らかなように 簡 易 宿 所 から 福 祉 アパー トへの 転 用 の 多 くは 主 に 25 年 から 21 年 までの 五 年 の 間 に 進 んでいる ここから 釜 ヶ 崎 は 日 雇 労 働 者 の 街 から 福 祉 の 街 へと 急 激 に 変 貌 を 遂 げたことがわかる それでは 実 際 に 福 祉 アパート の 居 住 者 は これまで 長 く 釜 ヶ 崎 で 日 雇 労 働 者 として 働 き 景 気 後 退 や 高 齢 化 の 影 響 で 生 活 保 護 を 受 給 し 福 祉 アパートに 住 むことになったのだろうか それとも これまで 簡 易 宿 所 を 利 用 していたわけで はない 人 々が 貧 困 化 のプロセスを 経 て 釜 ヶ 崎 にたどり 着 き 生 活 保 護 受 給 者 となったのだろうか 3 釜 ヶ 崎 居 住 者 の 分 析 ここでは 簡 易 宿 所 と 福 祉 アパートの 利 用 者 を 対 象 に 同 じく 21 年 に 実 施 した 調 査 結 果 から 居 住 者 の属 性 や 傾 向 を 把 握 してみたい この 利 用 者 調 査 の 目 的 は 釜 ヶ 崎 居 住 者 の 社 会 的 プロフィール を 把 握 し 居 住 歴 や 教 育 就 労 状 況 収 入 のほか 友 人 関 係 などが メンタルヘルスに 関 わる 項 目 ( 主 観 的 健 康 感 うつ 尺 度 自 殺 念 慮 )にどのような 影 響 を 与 えているのかを 分 析 することである 調 査 は 先 に 行 われた 簡 易 宿 所 実 態 調 査 で 把 握 した 簡 易 宿 所 福 祉 アパー ートのなかから 地 点 を 無 作 為 に抽 出 して 選 択 したのち 宿 所 アパー ート 管 理 者 に 利 用 者 への 配 布 を 依 頼 して 後 日 調 査 員 が 回 収 する 留 置 式 で 行 われた 配 布 票 数 は 約 6 で 回 収 票 数 は 155( 回 収 率 25.4%)である 3 記 述 統 計 量 まずは 簡 単 に 記 述 統 計 をみておく 最 終 学 校 は 高 校 卒 業 以 下 が 81.5%で 対 象 者 の 大 部 分 を 占 め ている 住 居 形 態 は 福 祉 アパートが 66.5% % 簡 易 宿 所 が 35.5%である 主 な 収 入 源 も 自 分 の 仕 事 より も 生 活 保 護 が 多 く 6% 以 上 が 生 活 保 護 受 給 者 である 収 入 額 は 月 1 万 以 上 15 万 円 以 下 が 半 数 を 3 釜 ヶ 崎 調 査 は 他 の 地 域 とは 異 なり 代 表 的 サンプルを 抽 出 することが 困 難 であり 回 収 率 も 低 い した がって 以 下 の 記 述 については 釜 ヶ 崎 全 体 の 母 集 団 に 一 般 化 することには 慎 重 でなければならず 参 考 値 として 利 用 すべきものである - 55 -

超 え ほぼ 生 活 保 護 費 水 準 となっている 西 成 歴 は 5 年 未 満 が 29% 5 年 以 上 1 年 未 満 が 14.8%で 合 計 44.8%と 半 数 弱 が 釜 ヶ 崎 で 生 活 するようになってから 1 年 に 満 たないことがわかる 表 6 釜 ヶ 崎 居 住 者 調 査 記 述 統 計 記 述 統 計 度 数 有 効 % 最 終 学 校 中 卒 以 下 56 37.1 校 67 44.4 専 門 短 大 11 7.3 大 学 17 11.3 合 計 151 1 住 居 形 態 簡 易 宿 所 52 33.5 福 祉 アパート 13 66.5 合 計 155 1 年 齢 35 歳 未 満 4 2.6 35 歳 以 上 45 歳 未 満 19 12.3 45 歳 以 上 55 歳 未 満 28 18.1 55 歳 以 上 65 歳 未 満 51 32.9 65 歳 以 上 53 34.2 合 計 155 1. 主 な 収 源 自 分 の 仕 事 44 28.9 活 保 護 96 63.2 年 11 7.2 その 他 1.7 合 計 152 1. 収 1 万 円 未 満 1 8.1 1 万 円 以 上 15 万 円 未 満 85 69.1 15 万 円 以 上 2 万 円 未 満 11 8.9 2 万 円 以 上 17 13.8 合 計 123 1. 成 歴 5 年 未 満 45 31. 5 年 以 上 1 年 未 満 23 15.9 1 年 以 上 2 年 未 満 32 22.1 2 年 以 上 45 31. 合 計 145 1. 居 歴 5 年 未 満 99 65.6 5 年 以 上 1 年 未 満 29 19.2 1 年 以 上 23 15.2 合 計 151 1. - 56 -

表 7 住 居 形 態 と 西 成 歴 のクロス 表 住 居 形 態 と 成 歴 のクロス 表 成 歴 住 居 形 態 5 年 以 上 1 1 年 以 上 2 5 年 未 満 年 未 満 年 未 満 2 年 以 上 合 計 簡 易 宿 泊 所 19(38.8%) 1(2.4%) 1(2.4%) 1(2.4%) 49(1%) 福 祉 アパート 26(27.1%) 13(13.5%) 22(22.9%) 35(36.5%) 96(1%) 合 計 45(31.%) 23(15.9%) 32(22.1%) 45(31.%) 145(1%) 住 居 形 態 と 西 成 歴 の 関 連 をみると( 表 7) 簡 易 宿 所 利 用 者 のほうが 福 祉 アパート 居 住 者 よりも 西 成 歴 が 短 く 福 祉 アパート 居 住 者 の 居 住 長 期 化 の 傾 向 がみられる 現 在 福 祉 アパートに 居 住 している 層 は これまで 日 雇 労 働 者 として 簡 易 宿 所 に 居 住 し その 後 福 祉 アパートに 移 転 したと 考 えられるが 西 成 歴 1 年 未 満 の 福 祉 アパート 居 住 者 も 4% 以 上 を 占 めており 釜 ヶ 崎 の 福 祉 の 街 への 転 換 が 進 行 するな かで 釜 ヶ 崎 に 移 動 してきた 層 が 約 4 割 いることになる 釜 ヶ 崎 居 住 者 の 人 間 関 係 とメンタルヘルス 釜 ヶ 崎 は 日 雇 労 働 や 劣 悪 な 労 働 環 境 狭 く 安 い 簡 易 宿 所 での 生 活 失 業 野 宿 生 活 保 護 など の 困 窮 した 生 活 状 況 にある 人 々が 集 住 している こうした 生 活 環 境 のなかで 居 住 者 がどのような 人 間 関 係 を 形 成 しているのか またメンタル 面 での 健 康 がどのようなものか またそれに 影 響 を 与 える 規 定 要 因 は 何 だろうか 表 8 自 殺 念 慮 の 有 無 を 従 属 変 数 としたロジスティック 回 帰 分 析 自 殺 念 慮 を 従 属 変 数 としたロジスティック 回 帰 分 析 モデル1 モデル2 係 数 標 準 誤 差 係 数 標 準 誤 差 (Intercept).614 1.461.425 1.49 年 齢 -.19.17 -.2.17 教 育 年 数 -.11.92 -.129.95 住 居 形 態 : 福 祉 アパート/ 簡 易 宿 泊 所.964*.467.876.482 仲 の 良 い 友 : いない/いる 1.41**.394 McFadden R-sq..41.81 Likelihood-ratio 7.162 13.986 p.67.7 Log-likelihood -84.719-79.53 Deviance 169.438 158.15 AIC 177.438 168.15 BIC 189.57 183.57 N 151 147 p.***<. p.**<.1 p.*<.5-57 -

表 8は 自 殺 念 慮 を 従 属 変 数 として 年 齢 教 育 年 数 居 住 形 態 を 独 立 変 数 としたロジスティック 回 帰 分 析 の 結 果 である 分 析 の 結 果 から 年 齢 と 教 育 年 数 住 居 形 態 の 影 響 をコントロールした 仲 の 良 い 友 人 の 有 無 が 自 殺 念 慮 に 有 意 な 影 響 を 与 えており 仲 の 良 い 友 人 がいると 答 えた 人 に 比 べると 仲 の 良 い 友 人 がいないと 答 えた 人 の 自 殺 念 慮 は オッズ 比 で 2.83 倍 高 い 確 率 となっている メンタルな 健 康 については 他 にいくつかの 尺 度 があるが 社 会 的 排 除 の 極 限 形 態 である 自 殺 への 志 向 性 にたいして は 友 人 関 係 など 社 会 的 な 関 係 の 脆 弱 性 や 社 会 的 孤 立 による 影 響 が 大 きいと 考 えることができるだろ う 5 おわりに 本 報 告 では 第 一 に 大 阪 市 住 民 全 体 を 母 集 団 とするサンプリング 調 査 からえられたデータを ヨー ロッパ 諸 国 のデータと 比 較 することによって 大 阪 市 住 民 の 貧 困 観 にはどのような 特 徴 があるのかを 明 らかにした 第 二 に 大 阪 市 のなかでもとりわけ 貧 困 層 が 集 住 する 釜 ヶ 崎 地 域 を 対 象 に 行 った 調 査 から 釜 ヶ 崎 の 近 年 の 福 祉 の 街 への 変 化 そして 居 住 者 の 特 徴 メンタル 面 への 影 響 を 分 析 した その 結 果 大 阪 市 住 民 は 西 欧 と 比 べても 貧 困 を 自 己 責 任 としてとらえる 傾 向 が 高 いこと また 釜 ヶ 崎 住 民 にと っては 社 会 的 な 孤 立 がメンタル 面 で 大 きな 影 響 を 与 えていることがわかった 大 阪 では 貧 困 が 自 己 責 任 として 考 えられる 傾 向 が 強 いために 貧 困 層 自 身 が 社 会 的 に 孤 立 し 最 終 的 にメンタル 面 での 悪 影 響 を 及 ぼすことが 考 えられる 今 回 報 告 したデータの 分 析 では 明 らかにすることはできなかったが 大 阪 全 体 の 貧 困 観 の 自 己 責 任 志 向 と 貧 困 層 の 社 会 的 孤 立 メンタルヘルスとの 関 係 について 今 後 はよ り 詳 細 な 分 析 が 必 要 であろう 文 献 青 木 秀 男 編 (21) ホームレス スタディーズ 排 除 と 包 摂 のリアリティ ミネルヴァ 書 房 大 阪 維 新 の 会 (211) 大 阪 秋 の 陣 市 長 選 マニフェスト (http://oneosaka.jp/pdf/manifest1.pdf#zoom=75) 原 口 剛 ほか 編 (211) 釜 ヶ 崎 のススメ 洛 北 出 版 Eurobarometer (21) Poverty and Social Exclusion, special eurobarometer 321 W.J.Wilson (21) Why both Social Structure and Culture Matter in Holistic Analysis of Inner-City Poverty, The Annals of the American Academy of Political and Social Science, vol.629. pp.2-219. - 58 -

都市疎外空間と村の人々の経験 釜山乭山町 村 を中心に 孔允京(釜山大) [目 次] 4. 住民の経験 1. 序論 5. 結論 トルサンマウル 2. 乭山村の形成背景と移住民 3. 疎外空間と住民の場所認識 1. 序論 196年代以降 急激に産業化 近代化そして都市化によって急に大勢の人々が釜山に殺到す るようになった 山と海に囲まれ住居空間が絶対的に不足であった釜山の場合 経済的に貧困 な人々は一般の人が居住しにくい空間にと追い出されるしかなかった 本研究は釜山の山村の トルサンマウル 中の一つである乭山村を対象に疎外空間の形成とそこで生活するしかなかった人々の経験につ いて調べてみようと思う 特に移住民が定着しながら場所に新しい意味を与え 自分達の場所 にとして作り上げていく過程に注目していくつもりである トルサンマウル 2. 乭山村の形成背景と移住民 釜山市南区門峴洞に位置する乭山村は現在およそ24世帯 95人あまりの住民が生活してい るところである 196年代後半 何人かの人々が共同墓地 畑などがあった山の坂に不法に 穴蔵やバラックを建てて定着し始めてから村が形成された 初期の移住民は産業化 都市化の 過程で経済的 社会的に追い込まれる状況に置かれていた 行政当局の強制移住 強力な取り 締まりと撤去政策によって198年代半ばまで乭山村には1あまりのバラックだけが散在してい た 韓国社会で民主化が進みオリンピックによって行政当局の不法建築物に対する取り締まり が緩くなった1988年-1989年乭山村が現在の規模に助成されたが 村の本格的な形成は当時の 国内 外の環境の変化と関連がある アメリカは長期的な財政赤字と貿易赤字を解決するために日本 ドイツなどに対し金利の値 下げ 通過節減 輸入解放を要求し これは1986年から3低現象(ドルの価値 原油価格 国際 金利の下落)として現われた 3低現象で経済的好況の恵みが最も大きかった地域のなかの一つ が釜山であり その影響で1988-1989年には不動産の価格が暴騰したした 飛び上がる家賃に 苦しむ貧困な人々が続出し 彼らのうちの一部が不法的に建物を建てて村を形成するように なった 196-7年代初期には定着民と絶対的貧困な状態にある人々がほとんどであったが 59

1988-1989年に定着した人々のなかには再開発に対する期待感を抱いて移住した人もいたよう に思われる まともな教育を受けていない定着民は釜山近隣の農村地域から移住し借家を転々としながら2 次 3次産業に従事する低賃金労働者だった また 共働きの家庭は少なく女性が主な生計を担 う場合が多かった 彼らが共同墓地が村のど真ん中にあり 道もなく草だけが茂ている乭山村 を選んだ理由は比較的に市内の中心と近いところに位置していて労働市場との接近性もよく 制限的でではあるが水と電気も使用できたからである また経済的 社会的に比較的に同じ立 場の人々が集まって職について情報交換を行うことに容易であり 何よりも狭い借家の大家か らの干渉なしに自分の家で生活できるというメリットから乭山村への移住が加速化した 3. 疎外空間と住民の場所認識 乭山村は北側は荒領山に隣接していて村の前には石の絶壁がある 絶壁と急な傾斜によって この村は田浦洞と門峴洞方面 両方からの接近が簡単ではなかった それに村が形成された初 期には森と畑があってまともな道がなく車はもちろん人の通行さえ大変で特に雨が降る泥だら けになって歩きにくい坂の傾斜地だった このような地形的特性から乭山村は釜山の都心地で ある西面から2kmほどの距離にも関わらず発展とは程遠い島のように分離された空間として 残っていた 乭山村という空間が持つもう一つの独特な点は村のなかにある墓場である 初期の村には現 在の6班と2班の下の方には主に墓場があった 今でも村には83の墓場が残っていて乭山村は生 と死が同一な空間のなかに入り混ざっているようだ 死の空間と生の空間が分離されている現 代の韓国の空間配置では見にくい場面である このように死と同居する乭山村は外部の人に とっては怖くて避けたいところ 産業廃棄物を捨てても何も言われない捨てられた空間だと 思っていた 乭山村に対する外部のこのような視線は村の人々にまでも移っていった 家の周辺にゴミを捨 てることなど平気に思ったりその上 外部から持ち込み捨てるゴミでですら放置するなど村の人 は空間と距離を置いた 疎外され捨てられたところに住んでいるとの認識が 村を自分が生活し ていく場所として作っていく空間ではなく匿名性のある捨てられた空間として受け入れた 村の 人にとって墓地もこの空間から距離を置くようになった大きな要因の一つであった お墓が怖く て夜 外に出ることが大変だったということは 仕方なく留まる空間という認識を示す ここがたとえ怖くて陰鬱な場所だとしても乭山村の人がここを出ていくことは簡単ではな かった 移住する土地もなければ経済的な余裕もなかったからである 留まるしかない状況の 中で人々は場所に与えた否定的認識を変化させようとしている 代表な例として人は怖いがお 墓は怖くない このような言葉には場所に対する認識の変化が含まれている ここが自分達が 生活しなければならない場所であるなら どうにかしてでも否定的な認識をなくす必要があ る それで お墓 は怖いものではないと否定することで自分の生きがいの場所に対する否定的な 意味をはらい流そうとするのである このようなもう一つの例は管理する人がいないお墓の面 倒を見ることである 村の人が墓地に対する態度の変化は場所に対する意味の変化であり生の 空間という場所に対する愛着の出発点として受け入れられる 6

4. 住民の経験 1) 定着と場所作り 乭山村の住民は疎外された空間を自分達の空間として作り上げていこうとした この過程は 個人的な努力 村共同体の活動 村の人々と外部の協調などの様々な形で行われた 地形的に孤立され 墓場として代表される疎外空間に入居した住民たちに最も必要なのは住 居空間であった 住居地は住居の形ではなくほとんどがバラックだった 空間は狭くオンドルや窓 などの基礎的な施設がなく 暖房 換気 採光などが全く整ってなかった 村に入るための道 路や水道 電気のような都市基盤も整ってなかった 劣等な住居環境だったが狭い住居空間を 改善しようと努力した 主には個人の力で解決したが村の人々の手助けで進めていった そし て私有地または国有地に建てた建築物は全てが無許可だったので行政による撤去は住民にとっ て最も不安になる要素であった 村の住民はじぶんたちで作り上げている住居空間を守るため に努力した 撤去が始まると村の住民は撤去に抵抗したり 頼み込んでみたり 村の内外部の 有力者を立てて官僚との妥協も行った 住民に住居地の確保の次に重要な問題は経済的な問題であった 村の住民は工場労働者 市 場の行商 建設労働者などであった 特に建設労働者の場合 村の助成が真っ最中であった 198年代末と199年代始めの釜山の建築ブームによって大勢の人々はここに従事した 生計と 関連した村内ネットワークの存在したが労働者を集める責任者は村の住民を中心にした労働 チームを作ったりもした 村共同体で最も重要な役割をしたのは村の重要な案件が論議される村の会館 公民館 で あった 村の会館を中心とする村共同体で論議された重要な事項は村の人々の生存に欠くこと のできない要素である電気や水道工事だった 電気は約3年前にとなりの地域から引いてきて 使っていたが2年前に正常的に電気が入ってきた この過程で村の村長はもちろん 電気工事 と関連し人脈のある個人の参加もあった 村の住民は電気を引いてくるために様々な情報を収 集したりもしたが詐欺にあったりもした また 山から流れて込む水と地下水は初期の村の住民にとっては重要な水源であったが増え続 ける住民にとっては足りなかった 以降 村の金庫 信用金庫 の理事長や国会議員のような外 部の影響力ある人の支援で21年には水道を引くようになった この過程で村の住民の間で葛 藤があったが それは水道の補給が国有地で生活している人に限られたからである 村の住民の定着過程と場所作りは住居地確保と村の住民の定着過程と場所作りは住居地の確保 と生計のための努力 劣等な都市基盤施設を獲得するための村共同体の活動を通じて可能になっ た このような経験はその後 公共美術と公園事業などの新しい事業を進める背景になった 2) コミュニケーションと関係作り (1) 壁画プロジェクト 釜山市整備事業区域は4あまりの地域で景気沈滞による再開発 再建築事業が遅れたり区域 が解体される事例が増えている そのため 放置されている老朽不良住居地である上の洞内 の住居環境と都市景観を改善するために多様な公共美術事業が進行された この事業の影響で 61

乭山村にも壁画プロジェクトが始まった 壁画プロジェクトが始まるとき 一部住民は反対したり 生業に追われ関心すらみえなかっ た だが 多くの住民は壁画が村の存在を知らせることになるこのプロジェクトが再開発事業 に有利になると思った 公務員 学生 市民など外部主催によって主導されたので住民の直接 的参加はなかったが 住民はプロジェクトが進む間 おやつ 飲料などを提供したりした 壁 画プロジェクトが 28 大韓民国公共デザイン大賞 住居環境分野 を受賞することによっ て乭山村は世間の注目をあびるようになった 壁画事業以降 村にはよその人が村を訪れることを拒む人もいた 勝手に庭や家のなかを除 いたり朝晩と村の中を歩きまわったり 挙げ句の果てには壁画を破るために屋根の上に上る屋 根を壊すこともあった それでもほとんどの住民は完成された壁画について好感を持っている し壁画プロジェクトは疎外空間であった乭山村を知らせる重要なきっかけになったと思う (2) 公園の再生 釜山市鎭区田浦洞と南区門峴洞の境にある乭山公園は211年に新しく助成された乭山村の裏 山に位置している小さな公園である ここには196年頃に砲部隊があったが部隊が移転してか らは無許可で建てた建物 倉庫 畑 ゴミ捨て場などとして利用された そうするうちに1999 年に今よりは小さい規模の公園が釜山鎭区の公共勤労事業の一貫として助成されたが まともに 管理されていなかった 壁画プロジェクトが成功すると村の裏に見捨てられていた公園の再生に目を向けるように なった 釜山鎭区 南区 釜山市 専門家(建築 造園 公共美術など)そして住民とともに行っ た 乭山公園作り事業 は住民たちが世間に目を向けるようになった二つ目の事業に当たる 初期には住民の参加よりは限られた予算で元々あった公園を部分的に整備する官が中心と なった事業として進められたが ゴミ拾い 石階段の掃除および傾斜面の造園石積み 傾斜面の 造景など 多くの住民が自ら公園助成に参加した そして乭山森 野外公演場を助成しながら 住民説明会が活気を増し 住民が積極的に意見と案件を提示し住民と共にする事業として変わっ ていった 再生以後の乭山公園は運動 休息などを提供するだけではなく 近所住民とのふれ あいの機会を増やし住民のためのコミュニケーションと共有の空間を作り上げている 特に市 長とのコミュニケーション 村の祭りなどが開かれるなど村に不足な公共空間の役割も行って いて乭山公園は避けられた空間からふれあいの空間として変わっていった 5. 結論 乭山村は共同墓地 山村 壁画村 町 公園村 町 へと変貌を繰り返している 地形的 地理的に住居地として不適切なところであったが 村は残らざるえない人々にとってはなんとか 適応して生活していかなければならない空間であった それで個人の努力だけではなく村共同 体の主体的活動 外部との協力などで住民は疎外された空間に新たな場所の意味を与え外部と の協力を通じ乭山村を変化させた 非可視的で(invisible)閉ざされた空間であった村が今や可視 的空間として生まれ変わったのである 62

戦 時 期 に 登 場 した 在 日 集 住 地 の 地 域 的 展 開 ウトロ 地 区 における 場 所 の 記 憶 全 ウンフィ( 大 阪 市 立 大 学 ) [ 目 次 ] 1. 課 題 と 方 法 2. 在 日 の 不 法 占 拠 地 としてのウトロ 地 区 と 社 会 運 動 3. ウトロ 地 区 と 周 辺 地 域 の 形 成 過 程 4. ウトロ 地 区 における 場 所 の 記 憶 の 変 遷 過 程 5. おわりに 1. 課 題 と 方 法 本 報 告 では 在 日 コリアン 集 住 地 域 で 元 不 法 占 拠 地 の ウトロ 地 区 ( 京 都 府 宇 治 市 所 在 ) を 事 例 に 在 日 という 国 家 的 民 族 的 条 件 がいかに 地 域 という 生 活 範 囲 の 中 に 定 着 し 変 容 していたかについてその 場 所 の 記 憶 の 変 遷 過 程 を 通 じて 分 析 する 9 年 代 以 後 日 本 は 多 文 化 社 会 に 入 り 在 日 研 究 も 既 存 の 異 文 化 的 アプローチから 在 日 を 日 本 社 会 の 構 成 要 素 として その 変 容 に 注 目 するトランスナショナルな 分 析 のほうへ 移 ってきた なかでも 下 層 労 働 として 在 日 を 捉 える 視 座 が 代 表 的 で(*1) 在 日 の 不 法 占 拠 地 が 日 本 近 代 と 在 日 の 形 成 という 社 会 経 済 的 条 件 が 空 間 的 に 配 置 された 具 体 例 として 浮 上 した しかし そのような 研 究 は 巨 大 な 構 造 に 対 する 日 常 的 実 践 に 注 目 することで 成 り 立 っているにも 関 わら ず(*2) 実 際 の 研 究 は 地 区 自 体 と 行 政 との 関 係 が 主 となり 地 区 住 民 の 生 活 の 場 としての 地 域 そして 地 域 住 民 との 関 係 は 研 究 課 題 として 扱 われることがほとんどなかった そこで 在 日 不 法 占 拠 地 の 地 域 社 会 における 関 係 に 影 響 を 与 える 要 素 として 場 所 の 記 憶 を 取 り 上 げる 場 所 の 記 憶 は9 年 代 前 後 の 欧 米 の 政 治 地 理 学 で 注 目 されたタームで 1あ る 場 所 を 軸 として 作 られ 制 度 化 された 共 同 体 の 記 憶 そして2 場 所 における 日 常 生 活 の 中 で 形 成 された 共 通 の 記 憶 の2つの 側 面 を 有 する(*3) 本 報 告 では 場 所 = 地 域 におかれた 主 体 の 動 向 に 注 目 しながら その 形 成 と 変 遷 を 検 討 していきたい 2. 在 日 の 不 法 占 拠 地 としてのウトロ 地 区 と 社 会 運 動 地 区 の 概 要 191 年 の 合 併 以 後 日 本 国 民 として 日 本 に 移 住 し2 年 代 を 起 点 に 下 層 労 働 として 定 着 戦 後 国 籍 の 剥 奪 されたまま 永 住 に 進 んだ 在 日 (*4)は 空 間 的 には 都 市 化 層 としておかれた 炭 坑 労 働 土 方 零 細 な 都 市 工 業 に 主 に 配 置 され 借 家 への 入 居 が 難 しかった 多 くの 在 日 はイン - 63 -

ナーシティのスラムや 河 川 敷 低 湿 地 高 架 下 工 事 現 場 の 飯 場 などを 占 有 し 集 住 地 を 形 成 す る しかし 戦 後 多 くの 不 法 占 拠 地 が 高 度 成 長 期 に 伴 う 都 市 化 の 進 展 でスラムクリアランスや 住 環 境 整 備 事 業 によって 解 体 消 滅 していたとは 対 照 的 に 在 日 の 不 法 占 拠 は2 年 代 まで 残 存 するケースが 見 られた ウトロ 地 区 はその 最 後 の 現 存 する 不 法 占 拠 の 集 住 地 区 である ウトロ 地 区 ( 京 都 府 宇 治 市 伊 勢 田 町 ウトロ51 番 地 )は 約 2.1Ha(64 坪 ) 人 口 は 約 65 世 帯 2 人 (211 年 公 表 )の 比 較 的 小 規 模 の 集 住 地 域 である 京 都 市 南 部 の 郊 外 住 宅 地 に 位 置 し 人 口 の8% 以 上 が 韓 国 朝 鮮 籍 となっている( 宇 治 市 全 体 の 平 均 は1.5% 29 年 現 在 ) 地 区 は 高 齢 化 が 進 み( 高 齢 化 率 24.1%)6 代 が 一 番 多 い( 全 体 の 約 2%) 世 帯 の 半 分 以 上 は 無 職 で 年 金 を 受 給 している 世 帯 が21% 生 活 保 護 受 給 世 帯 が18%となっている 主 な 職 種 は 建 設 業 が 一 番 多 く 次 に 会 社 員 ほかを 日 雇 い 土 木 運 転 手 などが 占 め 全 体 的 に 経 済 的 に 厳 しい 地 区 の 様 子 が 伺 える さらに 地 区 は 低 湿 地 として 常 習 的 な 浸 水 地 域 であり 不 法 占 拠 の 故 現 在 まで 都 市 ガスの 普 及 率 がゼロ%で 1988 年 初 めて 水 道 管 が 敷 設 されるまで 水 道 の 供 給 も 行 われなかった ウトロ 問 題 しかし このような 地 区 が 社 会 問 題 として 世 間 に 知 られたのは1987 年 の 前 後 を 起 点 とする ウトロ 問 題 の 発 生 後 のことである 1985 年 地 区 内 で 発 生 した 火 災 で 水 道 管 がない 地 区 の 事 情 が 地 域 に 知 られ 地 域 の 人 権 運 動 団 体 が 協 同 して 地 区 に 水 道 の 敷 設 を 要 望 する 市 民 運 動 を 行 った その 運 動 は1987 年 地 権 者 の( 株 ) 日 産 車 体 から 敷 設 同 意 書 を 得 ることに 至 るが 同 年 地 区 の 土 地 は 地 権 者 によって 不 動 産 会 社 の( 有 ) 西 日 本 殖 産 に 転 売 され 後 者 によって 住 民 全 体 に 対 する 立 ち 退 き 訴 訟 が 起 こされる それに 対 して 住 民 の 立 ち 退 きに 反 対 する 運 動 が 水 道 問 題 に 関 わってきた 市 民 たちによって 起 こされた これがウトロ 問 題 の 始 まりである 運 動 は 裁 判 に 最 高 判 決 で 敗 訴 する2 年 以 降 も 続 き 現 在 も 継 続 している 地 区 における 社 会 運 動 と 空 間 的 変 化 ウトロ 問 題 をとりまく 運 動 の 展 開 は その 戦 略 と 内 容 インパクトの 面 で 既 存 の 在 日 の 人 権 運 動 や 不 法 占 拠 地 区 における 住 民 運 動 とは 区 別 されるものであった どちらから 見 ても 発 生 時 期 の 遅 いウトロ 地 区 の 運 動 は 外 部 の 日 本 人 が 住 民 を 支 援 することによって そして 社 会 全 体 への 社 会 運 動 として 進 められた その 運 動 および 支 援 の 内 容 は 初 期 における 抗 議 行 動 裁 判 支 援 住 民 の 組 織 など 多 方 面 に 渡 るが(*5) 大 きい 特 徴 として 戦 後 補 償 と 居 住 権 という 大 きい フレームを 用 いた 広 範 囲 に 渡 る 広 報 活 動 があげられる 大 企 業 と 日 本 政 府 という 巨 大 な 対 象 に 対 するフレームは 地 区 の 運 動 を 住 民 や 日 本 社 会 のみならず 国 境 を 越 える 運 動 にさせた そのフレームの 根 拠 として 団 体 は 住 民 のライフヒストリー すなわち 居 住 の 記 憶 を 記 録 発 信 する 持 続 的 活 動 を 行 った ドキュメントの 発 行 はもちろんのこと 中 核 的 なものとして 地 区 における 様 々なイベントや 集 会 の 開 催 が 行 われ 中 には 必 ず フィールドワーク が 含 められ た 問 題 がほぼ 解 決 に 向 かった 現 在 も 月 1 2 回 が 行 われるこのフィールドワーク 活 動 がもたら した 注 目 すべき 効 果 は 地 区 における 空 間 的 な 変 化 である 85 年 の 火 災 報 道 以 前 まで 地 区 は 地 域 の 中 で 孤 立 され 地 域 住 民 との 交 流 がなかったウトロ 地 区 が 在 日 の 歴 史 的 証 拠 として 外 部 からの 多 くのヴィジターが 出 入 りするようになったのである その 変 化 は27 年 韓 国 政 府 から 支 援 金 が 決 定 することによって 地 区 単 位 の 環 境 整 備 の 話 し - 64 -

合 い 段 階 に 入 ったウトロ 地 区 住 民 の 地 域 志 向 からも 見 られる 29~21 年 実 施 されたまち づくり 意 向 調 査 において 住 民 はコミュイティの 維 持 に 加 え 在 日 や 韓 国 より 地 域 の 人 に 知 ってもらう ことを 要 望 した 劣 悪 な 住 環 境 にされた 困 窮 地 区 の 孤 立 そして 在 日 自 身 で はなく 外 部 によって 牽 引 され 地 区 の 歴 史 を 発 信 する 形 で 進 展 したこの 運 動 の 様 子 は 逆 にそのような 状 況 を 生 み 出 した 地 域 をとりまく 空 間 的 条 件 の 存 在 を 裏 付 けている 3.ウトロ 地 区 と 周 辺 地 域 の 形 成 過 程 では 具 体 的 な 事 例 に 入 って ウトロ 地 区 がどのような 空 間 的 背 景 で 形 成 していったかを 周 辺 地 域 の 形 成 と 関 連 して 見 てみよう 戦 後 196 年 頃 ウトロ 地 区 が 現 在 の 場 所 京 都 府 宇 治 市 伊 勢 田 町 に 形 成 したのは1943 年 と 推 定 され 1951 年 に 市 制 が 始 まる 宇 治 市 に 先 立 つ 現 在 伊 勢 田 町 と 呼 ばれるこの 地 域 は 明 治 の 町 村 制 から 市 域 の 編 成 前 までは 久 世 郡 小 倉 村 に 属 し 大 久 保 村 の 境 界 に 位 置 する 図 1から 見 られるように 未 開 発 の 農 村 地 域 だったこの 地 域 は 1941 年 京 都 飛 行 場 と 軍 需 工 場 の 建 設 を 中 核 とする 戦 時 下 の 軍 事 施 設 が 入 ることで 開 発 が 始 まった ウトロ 地 区 はその 建 設 に 携 わった 単 身 の 朝 鮮 人 労 働 者 の 飯 場 に 由 来 する 戦 争 の 激 化 に 伴 って 飯 場 には 縁 故 を 頼 って 避 難 してきた 親 族 が 流 入 し 建 設 が 中 止 され る 戦 後 直 後 は 在 日 の 情 報 センター と 呼 ばれるぐらいの 集 住 地 を 形 成 した(*6) 外 国 人 登 録 令 と 公 布 (1947 1952) 南 北 分 断 (1948) 朝 鮮 学 校 閉 鎖 令 (1949) 朝 鮮 戦 争 (195)など が 続 く 中 当 初 入 れ 替 わりが 激 しかった 地 区 の 人 口 は 次 第 に 安 定 し 現 在 の 世 帯 の 半 数 以 上 がこの 時 期 に 定 着 した しかし 地 区 内 の 状 況 は 過 酷 なもので 男 性 は 失 業 状 態 におかれたまま 単 身 者 用 に 区 切 られたバラック 小 屋 を 世 帯 別 に 分 配 し 暮 らしの 基 にして 女 性 が 工 場 労 働 や 失 対 事 業 豚 の 飼 育 密 造 酒 金 属 拾 いなど 都 市 雑 業 の 兼 業 で 生 計 を 立 てていた 図 1 伊 勢 田 町 の 地 形 図 (1927 年 ) 図 2 伊 勢 田 町 の 地 形 図 (1961 年 ) 出 所 : 宇 治 市 史 6 宇 治 市 西 部 の 生 活 と 環 境 411~412 頁 に 掲 載 されたものを 発 表 者 が 架 空 一 方 この 時 期 の 周 辺 地 域 は 戦 時 の 軍 需 工 場 が 企 業 ( 日 産 )に 払 い 下 げられ 工 場 の 操 業 が 始 まったことを 除 いては 多 くの 開 発 はされないままであった( 図 2) そのような 停 滞 の 様 子 は - 65 -

当 時 の 人 口 の 増 減 からも 明 らかで 戦 前 から196 年 代 にかけてしだいに 人 口 が 上 昇 していた 宇 治 市 内 の 他 地 域 に 対 して ウトロ 地 区 が 属 する 小 倉 村 だけが 戦 時 中 に 人 口 が 倍 増 し 戦 後 人 口 は 逆 に 減 少 停 滞 している 196 年 代 198 年 代 図 3 伊 勢 田 町 の 地 形 図 (1975 年 ) 出 所 : 前 掲 413 項 現 在 の 宇 治 市 は 人 口 約 19 万 人 の 中 小 都 市 で 京 都 府 では 京 都 市 に 次 いで 人 口 が 多 く 京 都 市 のベッドタウン 的 性 格 を 有 する このような 都 市 構 造 は 高 度 成 長 期 と 都 市 化 に 伴 う 住 宅 団 地 の 造 成 すなわち 京 都 市 のスプロールによるところが 大 きい(*7) 1953 年 この 地 域 は 住 居 地 帯 に 指 定 され196 年 代 初 頭 から 住 宅 開 発 ラッシューが 進 められ る 宅 地 化 はすなわち 流 入 人 口 のよる 人 口 の 増 加 で 表 れ とりわけ1965 年 から1975 年 の1 年 間 宇 治 市 全 体 の 世 帯 数 は16387から37443 世 帯 人 口 は68934 人 から13345 人 に 倍 増 している (*8) 伊 勢 田 町 界 隈 はなかでも 人 口 急 増 が 一 番 激 しかった 地 域 で 宇 治 市 全 体 の 人 口 が 約 4.4 倍 上 昇 した196 年 から8 年 までの 間 伊 勢 田 町 が 約 1 倍 小 倉 町 と 大 久 保 町 が 各 々 約 16 倍 と9 倍 の 増 加 している このような 急 増 は 過 密 化 という 都 市 問 題 を 浮 上 させたが なかでも 若 い 夫 婦 世 帯 が 多 かった 移 転 人 口 増 加 に 伴 う 児 童 数 の 増 加 が 目 立 った たとえば 宇 治 市 の 児 童 数 は1965 年 4783 名 だったのが1976 年 には14458 名 に 増 え その 傾 向 が1983 年 まで 続 く(*9) このようにウトロの 周 辺 地 域 は196 年 代 以 降 の 郊 外 都 市 化 に 伴 う 人 口 の 流 動 によって 短 期 間 で 形 成 された 地 域 コミュニティである 各 々 異 なる 背 景 を 有 する 住 民 たちが 急 激 に 集 まっ て 生 活 範 囲 を 形 成 し その 大 半 は 住 宅 を 基 礎 にした 家 族 中 心 の 世 帯 構 成 であった いずれの 特 徴 も 戦 時 軍 事 化 の 基 で 形 成 した 最 底 辺 の 集 住 地 であったウトロ 地 区 とは 異 なっていて 言 い 換 えるとウトロ 地 区 とその 住 民 は 地 域 コミュニティとしての 共 通 性 の 乏 しい 周 辺 地 域 において 物 理 的 言 説 的 に 一 番 異 質 的 な 場 所 であったと 考 えられる この 時 期 のウトロ 地 区 は 建 設 業 が 主 な 職 業 として 見 られ 始 め 住 宅 の 改 築 が 行 われるなどの 定 住 に 進 んでいる - 66 -

なおここで 注 目 されるのは 現 在 のウトロ 地 区 の 中 核 を 成 す6 代 が5 年 代 から 小 中 学 校 を 拠 点 に 地 域 社 会 と 接 触 し 始 めている 点 である 当 時 小 中 学 校 は 急 激 に 成 長 した 地 域 社 会 内 部 の 衝 突 と それを 宇 治 市 民 に 統 合 する 現 場 で ウトロ 地 区 住 民 が 地 域 住 民 の 接 するあまりない 場 所 であった 接 触 の 結 果 は 差 別 とそれに 対 する 物 理 的 対 抗 として 表 れ 3 7 代 の 住 民 に 同 様 の 経 験 が 聞 かれた この 段 階 に 既 にウトロ 地 区 に 対 する 集 団 的 意 識 が 形 成 され 地 域 の 関 わ りのあまりない 時 期 においても 継 がれていたのである 4.ウトロ 地 区 のおける 場 所 の 記 憶 の 変 遷 過 程 場 所 の 記 憶 の 多 重 構 造 ではウトロ 地 区 に 対 する 集 団 的 な 意 識 イメージはどのようなものか まず 以 下 のインタ ビューから 確 認 してみよう 中 高 生 のころ とくに 知 り 合 いもなかったし こわいと いったことないけどこわいというイメージが あった カタカナの 地 名 で 特 殊 な 感 じがした < 宇 治 市 在 住 男 性 日 本 人 5 代 > このまえ 学 校 のともだちがウトロこわいとかいっていて わたしウトロやでといったら よういきの こったな うそ なまえも 日 本 人 やんか といわれて <ウトロ 住 民 女 性 4 世 1 代 > ぼくも 向 こうに 住 んで1 年 以 上 経 つんですけどね やっぱり 最 初 のころは 誤 解 してはる 人 がかなりおら れましたね ( 中 略 ) 怖 さが 一 番 あったみたいで ( 中 略 ) < 元 ウトロ 住 民 男 性 3 世 5 代 > 世 代 と 地 区 内 外 を 問 わず ウトロは 共 通 して 怖 い 近 寄 れない という 負 のイメージ として 言 及 され ウトロにおける 場 所 の 記 憶 が 地 区 と 地 区 住 民 に 対 するレッテルとして 存 在 していることがわかる 実 はこのようなレッテルは 戦 前 から 存 在 した 在 日 に 対 するイメージと 共 通 する 192 年 代 の 流 入 過 程 においてマスメディアは 異 質 的 で 差 別 的 な 論 調 を 普 及 し( 山 中 23) 在 日 の 居 住 していた 不 良 住 宅 地 区 という 環 境 もそのイメージを 拡 大 再 生 産 するものであった( 姜 在 彦 22) その 上 に 195 年 代 以 後 のクリアランス 時 期 に 不 法 占 拠 に 対 する 不 法 的 で 不 衛 生 な イメージが 付 け 加 われた( 本 岡 27) しかし 以 下 のインタビューは ウトロ 地 区 に 対 する 場 所 の 記 憶 が 在 日 のみならず ウトロという 地 名 によって 地 域 的 に 展 開 していることが 伺 える バイト 先 でウトロって 書 いたら 全 部 落 とされる I 地 区 とかO 地 区 とかそうやで それでこのへんですと 勝 手 にうそついてた <ウトロ 住 民 3 世 3 代 > - 67 -

上述したように ウトロ地区の周辺地域は農村地域から郊外住宅地に急激に変貌している 在日として農村地域に突発的に形成したウトロ地区がこの地域において 在日 の代表として 認識されている一方 郊外地域に不法占拠地区として残存しながら地域スケールの中で共有さ れる ウトロ として地域の文脈を形成した可能性が高い ここで それを地域スケールの中 で時間的に蓄積された具体的な資料を軸にして住民の聞き取りと照らし合わせながら 場所の 記憶の変遷をとりわけ地域における差異に注目して検証したい 場所の記憶の変遷過程 地域新聞の分析から 洛南タイムス 紙は1946年12月に創刊し 宇治市を含む6市町にて発行されている地域紙で ある 当紙の創刊から21年1月までの新聞記事を対象に 在日コリアン全般 ウトロが登場 する総計529件の記事を取り上げて見出しをリスト化し 年代 種類別に分類して記事数の増減 を調べる一方 その内容の分析を行った 表1 そしてその全体的傾向を表2に示している カテゴ 区分1 リ ウトロ 周辺地 域 区分2 423 国家 法律 9 区分3 社会③ 集計 国家的政策 外国人証 国保 帰還事業 ニューカマー 地域政治 経 自治体 企業 都市問題 軍隊組織 済 13 21 ①犯罪 災害 32 ②都市生活 環境 水害 貧困 土地 福祉 21 289 ③ウトロ問題 裁判 土地問題 水道問題の裁判記事 情報 新聞社が書いた情報発信 運動 ウトロから発信した催し 行政への要請 社会 韓国 韓国議員 メディア 政府関係 在日 ウトロ 関連記 事 政治 議会 国家レベルで話されたウトロ 連帯 別の団体の運動に協力 カンパ 社会⑥ 地域 文化 らくた い 国際情 勢 計 ウトロ問題発生後の周辺地域と文化交流 文化 ④在日朝鮮人関連 総連 民団組織 民族教育 差別 43 ⑤その他 出来事 秘話 人物 事件事故 国際交流 16 ⑥社会運動 自治 労働 人権 町内会 社会③ 連帯 51 文化交流 イベント スポーツ 国際交流/社会③ 地域 7年代後半からはウトロの記事中心 3 3 洛南タイムス社関連記事の中 在日 ウトロ言及 13 韓国 北朝鮮国内情勢関連記事 例 金大衆拉致事件 北朝鮮拉致問題など 529 3 13 529 表1 洛南タイムス 紙における記事内容の区分および記事数 出所 洛南タイムス 1946 21.1 から発表者作成 68

表2 新聞記事における在日朝鮮人およびウトロ地区関連記事量の増減 出所 表1に前掲 表2から 大きく2つの傾向が読み取れる まずは 記事数の増減が時代によって激しい点 そして全体の記事においてウトロ地区関連記事はその記事数と影響力のどちらも大きい割合を 占めている点である 記事数からも全体529件の中423件 8 を占め 後者の記事の増減と 全体の記事の増減が一ほぼ一致している このような記事数の増減の時代的な傾向は内容的な 面でも上記の地域の変遷過程と同時期で変化が見られていた なおこのような記事の傾向は この地域で発行部数の一番高い 35 京都新聞とは異なる特徴であることを示しておく *1 次にその内容 場所の記憶の変遷過程を時代ごとに見る 戦後 196年代 戦後から196年頃までは 在日組織関連記事が中心となり 両者の増減が比較的に一致して いる時期でもある 当期は在日朝鮮人に対する政策的変換が激しかった時期で 外国人登録 令と公布 1947 1952 朝鮮学校の閉鎖令 1949 朝鮮戦争 195 北朝 鮮送還事業 1959 などの大事件が ウトロ地区を経て地域新聞に頻繁に掲載されてい た それが可能であった理由は 地区内に朝連系 正確には民戦 の支部が位置しこの周辺の 反政府 反米運動の拠点であったからである この傾向は表3 表4からも確認できるが 在 日 ウトロ両方において1955年まで在日組織関連記事が多く それ以降激減している 同年 民戦は解体し 共産党系運動から離脱していったが抵抗 犯罪の温床としてウトロ地区が既に 大きくプックアップされた後であった 区分 時期 5 55 6 65 7 75 8 85 国家 法律 2 1 3 5 日産 1 1 4 その他 7 4 犯罪 3 1 3 4 1 3 火災 1 2 1 1 水害 環境 5 3 1 1 貧困 福祉 4 社会③ ウトロ問題 地域政治 経済 社会① 社会② 5 55 6 65 7 75 8 85 国家 法律 2 地域政治 経済 1 犯罪 3 5 2 4 火災 1 2 1 1 水害 環境 3 3 1 貧困 福祉 4 区分 時期 社会① 社会② 社会③ ウトロ問題 在日組織 4 12 2 1 その他 社会④ 在日組織 4 13 8 2 4 1 2 社会④ 社会⑤ その他 1 4 3 3 社会⑤ 1 1 2 2 8 17 12 9 6 1 1 1 スポーツ 1 4 地域交流 8 2 12 9 6 1 2 5 社会⑥ 社会運動 社会計 文化 スポーツ 1 1 1 社会⑥ ウトロ連帯 8 21 26 13 1 2 5 6 社会計 1 4 国際情勢 1 5 2 1 2 計 9 3 36 15 11 7 8 19 表3 在日関連新聞記事数の時代における変遷 文化 計 表4 ウトロ関連新聞記事数の時代における変遷 出所 洛南タイムス 1946 1985 から発表者作成 時期別に一番記事数の多い箇所を太字で表示 69

その 上 この 時 期 にはウトロ 女 性 住 民 による 生 活 困 難 の 訴 えも 大 きくピックアップされ 前 述 した 地 区 の 状 況 とリンクし 貧 困 な 地 区 の 事 情 が 紙 上 を 通 じて 知 られた ようするに 戦 後 から 196 年 頃 の 時 期 に 地 区 の 怖 い イメージと 貧 困 で 異 質 的 なイメージが 形 成 したと 考 えられ るが ここで1957 年 掲 載 された 住 民 間 の 紛 争 の 記 事 は 注 目 に 値 する(*11) 豪 雨 で 低 地 である ウトロ 地 区 内 が 浸 水 し 境 界 の 堤 防 を 崩 して 北 側 の 田 んぼに 水 を 流 れ 出 そうとした 住 民 が 伊 勢 田 町 民 によって 阻 止 されたこの 事 件 はウトロ 地 区 が 被 害 を 被 ることによって 水 田 という 財 産 が ウトロ 住 民 の 安 全 に 優 先 される 結 果 となり 力 の 関 係 が 個 別 の 住 民 においても 共 有 され それ が 表 出 されたケースと 考 えられる 196 年 代 198 年 代 前 期 とは 異 なって この 時 期 はその 増 減 と 内 容 において 在 日 とウトロ 関 連 記 事 には 差 異 が 見 られるようになる 市 の 拡 大 とともに 記 事 の 内 容 も 多 様 化 し 日 韓 条 約 (1965 年 )と 送 還 事 業 に 引 き 続 き 国 保 加 入 公 営 住 宅 入 居 などの7 年 代 に 行 われた 全 国 的 な 社 会 運 動 が 主 に 取 り 上 げ られ 7 年 代 後 半 には 韓 国 社 会 の 動 向 をもイシューとなっていた しかし ウトロ 関 連 記 事 は 在 日 全 体 の 動 向 から 離 れ 6 年 代 に 犯 罪 の 摘 発 と 地 区 内 の 火 災 に 関 する 記 事 が 集 中 し 7 年 代 以 後 からはほぼ 掲 載 されなくなってくる( 表 3 4) この 時 期 はウトロの 周 辺 地 域 が 急 激 に 拡 大 する 時 期 でもあった 前 期 した 地 元 の 原 住 民 にお ける 在 日 組 織 からなる 否 定 的 なイメージの 上 に ウトロ というレッテルとともに 犯 罪 暴 力 関 係 の 記 事 が 非 常 に 少 ない 情 報 として 発 信 される 一 方 それを 和 らげる 在 日 の 人 権 運 動 は 地 域 外 の 出 来 事 として 扱 われ ウトロ 地 区 は 新 聞 という 媒 体 からは 見 られないものなってい た ようするにこの 時 期 をおいて ウトロ における 空 白 としての 場 所 の 記 憶 が 局 地 的 な 範 囲 に 定 着 し それまで 取 り 上 げられていた 地 区 の 諸 問 題 も 忘 れ 去 られたものになってしまった のである 1985 年 の 火 災 事 件 とそれに 続 く1986 年 の 水 道 敷 設 運 動 が 多 いに 反 響 を 呼 び 起 こした のはそれまでの 空 白 の 裏 返 しである 以 上 戦 後 から1985 年 までのウトロ 地 区 における 形 成 された とされる 場 所 の 記 憶 の 変 遷 過 程 を 分 析 した 最 後 に 地 区 と 周 辺 地 域 の 状 況 マスメディアの 報 道 そこから 形 成 した 場 所 の 記 憶 に 対 して 住 民 がどのように 場 所 の 記 憶 を 形 成 していたのかついて 少 し 触 れておきた い 多 重 構 造 におかれた 住 民 の 場 所 の 記 憶 住 民 の 認 識 と 対 応 は 性 別 や 世 代 立 場 によって 異 なっていて ウトロ 住 民 が 地 域 住 民 との 関 係 において 一 方 的 に 不 利 な 立 場 に 追 い 込 まれていたとは 言 い 切 れない 例 えば 1 世 のとりわけ 女 性 の 住 民 の 場 合 はウトロを 在 日 コミュニティの 居 場 所 として 外 部 の 差 別 から 安 全 な 場 所 であ りながら 差 別 の 内 容 と 共 通 する 人 間 が 集 まっている 場 所 というアンヴィバランスな 場 所 の 記 憶 を 持 っている 場 合 が 多 い(*12) 一 方 では 聞 き 取 りの 中 では 子 供 同 士 で 協 同 して 学 校 や 地 区 周 辺 で 生 じる 対 立 に 物 理 的 に 抵 抗 していたことが3 8 代 の 住 民 から 述 べられた - 7 -

しかしそれは 少 年 期 における 最 低 限 の 抵 抗 に 近 いものと 考 えられ 地 元 社 会 で 仕 事 や 育 児 に 従 事 している 住 民 の 多 くは 抵 抗 を 表 出 することなく いろいろいはったんですけど 昔 よりは あ 違 うねんな というのを 僕 ら 言 われまして 一 緒 に 活 動 したりして 始 めてわかった わ と (*13)のように 負 の 記 憶 を 前 提 として 受 け 入 れながら 日 常 生 活 の 実 践 を 続 けてい る このような 姿 勢 は これまでの 地 域 に 関 わろうとしたいくつかの 事 件 が(たとえば1957 年 の 台 風 ) 常 に 権 力 関 係 によって 阻 止 されていたことと 無 関 係 ではないだろう なお そのような 階 層 的 関 係 は 日 本 社 会 との 間 に 限 らない 195 6 年 代 に 地 区 へ 嫁 いでき た 女 性 の 話 では 怖 いところやと 思 った バラックがいっぱいあって (*14)のような 感 想 が 共 通 的 に 聞 かれる 小 規 模 の 不 法 占 拠 地 区 として 他 の 在 日 の 集 住 地 区 より 劣 悪 な 社 会 経 済 的 環 境 を 有 し 総 連 系 という 条 件 を 持 っていたウトロ 地 区 は 在 日 社 会 の 中 でもローカルな 存 在 だった 可 能 性 が 高 い 5.おわりに 本 稿 では 近 代 日 本 在 日 という 条 件 から 形 成 配 置 された 地 区 が 時 間 の 変 化 の 中 で 生 活 を 持 続 することで 地 域 生 活 圏 における 空 間 構 造 が 形 成 し 多 重 の 構 造 におかれた 住 民 の 状 況 を 生 み 出 したことを 本 稿 では 場 所 の 記 憶 とそれに 影 響 された 社 会 関 係 を 通 じて 明 らかにした 結 局 在 日 として 戦 時 中 形 成 し 戦 後 宇 治 市 に 定 着 したウトロ 地 区 はその 社 会 経 済 的 そして 空 間 的 条 件 の 故 戦 後 直 後 までの 異 民 族 のイメージ 戦 後 直 後 の 反 社 会 的 で 暴 力 的 なイメー ジ そして 地 域 の 郊 外 都 市 化 の 時 期 に 都 市 化 に 対 する 非 近 代 的 イメージを 代 表 する 地 域 内 の 場 所 として 表 象 され その 蓄 積 は 近 寄 れない 場 所 の 非 接 近 性 を 形 成 した そのような 構 造 を 克 服 する 取 り 組 みの 一 つが7 年 代 以 降 の 在 日 による 運 動 であったが ウト ロ 地 区 は6 年 代 以 降 そこからも 分 離 されることで 拡 大 する 地 域 社 会 の 中 で 外 部 に 知 られるこ となく 以 前 からの 反 社 会 的 不 法 的 そして 非 近 代 的 な 場 所 として 徹 底 した 地 域 の 場 所 として 置 き 去 りにされた 住 民 は 地 域 政 治 に 進 むこともできず 差 別 の 被 害 者 になる 一 方 在 日 というコミュニティに 頼 ることなく 日 常 生 活 が 持 続 される 範 囲 で 地 域 に 関 わろうと していた これが ウトロ 問 題 発 生 までの ウトロと 周 辺 地 域 の 住 民 たちがおかれていた 場 所 の 記 憶 における 空 間 的 背 景 である このような 地 域 化 の 過 程 は ウトロのような 集 住 地 の 問 題 にアプローチする 際 一 律 的 な 基 準 より 常 に 生 活 空 間 の 問 題 に 対 する 認 識 を 並 行 して 行 われなければならないことを 表 して いる さて 下 層 社 会 でエスニックという 日 本 社 会 における 前 提 そしてその2つの 社 会 空 間 的 言 説 が 地 域 スケールに 定 着 したウトロという 構 図 は 住 民 のウトロに 対 する 正 の 場 所 の 記 憶 でも 表 れた 前 世 代 のアジール 的 な 住 みやすさに 加 え 住 んできたことに 対 する 愛 着 そして 集 まっていることで 在 日 や 韓 国 というスケールを 生 活 感 覚 で 見 出 している ウトロという 場 所 に 対 しても ここウトロがかわいそうな 人 ばかりおるんちゃうで 生 活 保 護 もらってちゃんと 生 活 しているし ただここに 普 通 に 住 んでいるだけやん いい 人 もいてわるい 人 もいる の ように 客 観 化 し 日 本 人 韓 国 人 在 日 も 対 象 化 していた その 中 で 彼 らは 地 域 の 人 に - 71 -

知 ってもらいたい と 要 望 する このような 客 観 化 は 幾 重 の 排 除 の 経 験 の 裏 返 しとも 考 えられるが 地 域 化 された 力 の 係 を 承 知 しながら 場 所 において 構 成 された 社 会 的 関 係 の 中 を 暮 らし 続 ける 住 民 には 賢 明 ささえ 伺 える そしてそれが ウトロ にいることで 可 能 であったこと 運 動 以 降 対 応 が 変 わってきた ことに 注 目 し 今 後 の 研 究 課 題 としてウトロ 問 題 以 降 の 変 化 をより ウトロ におかれた 多 様 な 主 体 たちに 注 目 して 分 析 したい [ 注 ] 1) 西 成 田 の 以 下 の 研 究 が 先 駆 的 である 西 成 田 豊 在 日 朝 鮮 人 の 世 界 と 帝 国 国 家 東 京 大 学 出 版 会 1997 2)たとえば 兵 庫 県 の 在 日 不 法 占 拠 地 区 を 事 例 とした 金 菱 清 生 きられた 法 の 社 会 学 新 曜 社 28 3) 筆 者 は 主 に 政 治 地 理 学 で 使 われる 場 所 の 政 治 の 場 所 概 念 を 用 いた 空 間 を 共 有 するコミュニティ における 記 憶 の 概 念 はアルヴァックス(Maurice Halbwachs)の 集 合 的 記 憶 (collective memory) (195=1989 和 訳 ) そしてノーラ(Pierre Nora)の 記 憶 の 場 (Les Lieuxde Memoire) (1984=22 和 訳 )に 受 けて 社 会 学 歴 史 学 でも 議 論 される 場 所 の 政 治 について 山 﨑 孝 志 政 治 空 間 場 所 政 治 の 地 理 学 にむけて ナカニシヤ 出 版 21 32-33 項 を 参 考 4) 姜 在 彦 在 日 百 年 の 歴 史 環 11 22 152-164 頁 5) 運 動 における 社 会 運 動 の 役 割 に 関 しては Yu Young-Kook ウトロ 問 題 を 通 した 韓 日 市 民 社 会 の 連 帯 と 課 題 韓 国 民 族 文 化 S4 29 pp47-454が 詳 しい 6) 斎 藤 正 樹 ウトロ: 強 制 立 退 きから 新 しいまちづくりへ コリアンコミュニティ 研 究 1 21 37-44 頁 7) 宇 治 市 役 所 発 行 宇 治 市 史 4 近 代 の 歴 史 と 景 観 1978 598 項 8) 宇 治 市 宇 治 市 統 計 諸 昭 和 55 年 度 1981 9) 以 下 の 統 計 書 を 参 照 : 京 都 府 農 業 会 議 都 市 開 発 と 農 家 のくらしの 変 貌 京 都 府 宇 治 市 総 合 調 査 結 果 1969 前 掲 諸 宇 治 市 宇 治 市 統 計 諸 昭 和 62 年 度 1988 1) 京 都 新 聞 の28 年 1 月 の 地 域 別 発 行 部 数 から http://www.kyoto-np.co.jp/ad/profile/busuu_2.htm なお 京 都 新 聞 における 在 日 関 連 記 事 の 傾 向 については 以 下 の 研 究 を 参 考 江 口 信 清 新 聞 記 事 を 通 じてみた 京 都 の 在 日 朝 鮮 韓 国 人 像 の 変 容 -1945~2 年 の 京 都 新 聞 の 記 事 から 京 都 地 域 研 究 17 28 17-34 頁 11) 洛 南 タイムス 1957 年 7 月 7 日 伊 勢 田 町 とウトロ 対 立 12) 金 基 淑 チャングの 響 く 街 ウトロ 地 域 社 会 との 共 生 をめぐる 在 日 韓 国 朝 鮮 人 の 模 索 人 間 学 研 究 2 21 1-15 頁 13) 元 ウトロ 住 民 Y 氏 のインタビューから 29 年 11 月 1 日 実 施 14)ウトロ 住 民 K 氏 のインタビューから 21 年 8 月 17 日 実 施 [ 参 考 文 献 ] M.アルヴァックス( 小 関 藤 一 郎 訳 ) 集 合 的 記 憶 行 路 社 1989 P.ノーラ( 谷 川 稔 訳 ) 記 憶 の 場 全 3 巻 岩 波 書 店 本 岡 拓 哉 戦 後 神 戸 市 における 不 法 占 拠 バラック 街 の 消 滅 過 程 とその 過 程 人 文 地 理 59 2 27-72 -

13-15 項 山 中 速 人 近 代 日 本 のエスニシティ 観 新 聞 の 朝 鮮 ( 人 ) 報 道 を 手 掛 かりに ( 中 野 秀 一 郎 今 津 孝 次 郎 編 エスニシティの 社 会 学 日 本 社 会 の 民 族 構 成 世 界 思 想 社 1993 86 17 項 [ 報 告 書 統 計 資 料 ] 龍 谷 大 学 同 和 問 題 研 究 委 員 会 同 和 問 題 研 究 資 料 高 瀬 川 を 歩 くⅣ ウトロと 日 本 の 戦 後 処 理 26 平 成 21 年 度 住 まい まちづくり 担 い 手 支 援 事 業 長 期 優 良 住 宅 等 推 進 環 境 整 備 事 業 在 日 コリアン コ ミュニティの 持 続 型 居 住 を 実 現 する 住 環 境 整 備 計 画 策 定 活 動 ウトロまちづくりに 関 する 住 民 意 向 調 査 (29)の 中 間 報 告 (21 年 11 月 14 日 ( 社 )ウトロ 町 づくり 協 議 会 CASEま ちづくり 研 究 所 から 使 用 許 可 を 得 た) 京 都 府 市 区 町 村 男 女 別 人 口 時 系 列 表 ( 平 成 2 年 1 月 ~ 平 成 22 年 9 月 ) http://www.pref.kyoto.jp/tokei/monthly/suikeijinkou/suikeitop.html(21 年 12 月 29 日 検 索 ) - 73 -

제1부 도시 이주민의 생활

근대 오사카의 도시하층사회 복합적 요소 사가 아시타(오사카시립대학) [목 차] 2) 다이쇼기 슬럼의 다양한 요소의 복합 1 과제와 시각 2 메이지기의 도시하층사회 4 쇼와전기(태평양전쟁이전)의 도시하층 1) 거대도시와 빈곤문제 2) 불량주택지구의 실태 1) 도시인구의 동향 2) 근세도시 하층사회의 해체와 변용 3 다이쇼기의 도시하층사회 5 결론 1) 도시발전과 사회적 모순 1 과제와 시각 본 발표는 근세 이후의 발전 상황을 기초로 근대 오사카에서의 도시하층사회의 변용과 확 대의 동향 그 사회적 구조, 그 안에서의 사람들의 생활 모습에 대해서 개관하는 것이다. 일본의 근대도시사연구에서 도시하층사회론은 중요한 분야로서 발전해 왔다. 특히 서양의 포스트모던 이론에 의한 영향을 크게 받았던 199년대 이후의 연구에서는 도시하층민을 배 제하는 근대사회의 범죄적인 성격이 강조되었다(*1). 그러한 연구에서는 도시하층사회가 근대 의 저널리즘에 의해 어떻게 게으르고 비위생적이고 무질서하며 규범에서 벗어난 특징을 가진 특이한 사회로서 묘사되어왔는지에 주안점을 두어, 그 대조로서 근대사회의 성격을 근면하고 위생적이며 질서와 규범이 있는 양민 에 의해 구성되는 균질한 사회로서 파악하였다. 하지만 사회사연구의 관점에서 생각했을 때, 이러한 이론에는 무시되고 있는 점이 있다. 그것은 하층사회 와 일반사회 의 대비를 전제로 하여 하층사회를 고립된 사회 로서 분석 하여 그 특이성을 강조, 근대 사회의 어두운 면 으로 그리는 경향이 강한 점이다. 그 까닭 에 도시하층민을 지역의 사회적 관계 안에 위치시키는 시점 및 작업이 충분하지 못하게 된 다. 그러나 실제로는 도시하층민이 집단거주(역주: 이하 집주/집주지로 표기)하는 지역은 근 대도시 오사카의 전체적인 사회 구조 안에 자리잡고 있었다. 그래서 도시하층을 하나의 구성 요소로서 포함시켜 지역사회구조를 구조적으로 파악하는 작업이 필요한 것이다. 본 발표에서는 근세부터 근대에 걸친 도시사회의, 그중 다수가 집주지역으로서의 특징을 가지고 존재했던 도시하층사회에 대해 도시 오사카의 전체적인 양를 염두에 두고 살펴보도 록 한다. 하층민의 집주지역이 시대별로 어떻게 형성되고 발전하였는지, 또 그 특징은 무엇 인지 등에 주목하면서 근대 오사카의 도시하층사회를 개관할 것이다. 77

2. 메이지기의 도시하층사회 1) 도시인구의 동향 먼저 쇼와시대의 오사카 시가지의 인구 동향에 대해 살펴보자(*2). 오사카 시가지의 인구 는 18세기 후반 약 42만명을 맞이한 것을 기점으로 계속 감소하여, 메이지 원년인 1868년 에는 약 28만명이 되었다고 보여진다. 187년대에도 인구정체는 계속되었으나 마츠카타 디 플레이션의 영향으로188년대 초부터 농촌이 심각한 불황에 허덕이게 되어 도시로의 인구 유입이 증대함에 따라 오사카 시가지의 인구는 순조롭게 증가하게 되었다. 그 후, 오사카시가지(1889년부터 오사카시)의 인구는 1891년에 48만명에 이르렀으나 그 후의 증가율은 약간 감소하여 1896년에야 겨우 5만명을 넘겼다. 189년대에 들어선 이후 의 인구증가 둔화는 중심시가지 인구가 이미 포화상태였음을 뜻한다. 한편, 오사카시를 둘러싸듯 형성되어 있었던 니시나리군( 西 成 郡 ), 히가시나리군( 東 成 郡 )의 경우 188~9년대 지나는 동안 거의 계속해서 인구가 증가했다. 이는 시가지중심부의 인구 가 포화상태였던 까닭에 주변부로 유입하는 인구가 증가한 것이라고 보여진다. 구 시가지의 외연부에는 188년대 이후 공업화가 진행됨에 따라 새로운 공장의 입지와 그에 따른 주택 (대부분은 나가야_ 長 屋 ) 건설 역시 이루어져 시가지의 외연적 확대, 즉 스프롤 현상이 일어 나기 시작했다. 1897년 오사카시는 제1차시역확장을 실시했다. 이는 구시가지의 외연부에 회사, 공장이 입지하여 인구가 유입된 점, 칙코_ 築 港 사업을 시작으로 하는 도시건설의 진행으로 말미암아 시가지가 확대된 점에 영향을 받은 것이다. 오사카시는 행정구역을 넘어서 확장을 계속하는 사회적, 경제적 의미에 있어서의 도시역을 마치 뒤쫓는 것처럼 범위를 넓혀, 그 목표는 도시 지자체로서의 재정 기반의 강화였다. 이 제1차 시역확장의 결과, 오사카시의 인구는 75만명 에 도달하여 이후 공업화가 본격적으로 진행된 2세기 초에는 1만명을 돌파하게 되었다. 이러한188~19년대의 공업화와 도시개발의 진전에 의해 오사카는 규모의 면에서도 구 조의 면에서도 근대적인 거대도시로 성장하게 된 것이다. 2) 근세도시하층사회의 해체와 변용 근세로부터 근대로의 이행기에 해당되는 19세기 후반기에 오사카의 도시하층사회는 어떻 게 변화하였을까. 이 시기는 근세로부터의 하층민 집주지의 전형이기도 했던 나가마치_ 長 町 (나고쵸_ 名 護 町 라고도 불리웠다)가 근대적인 슬럼으로 변용이 이루어지는 한편, 시가지의 외 연부로의 인구유입에 의해 무질서한 시가지화와 과밀화가 진행되어 새로운 슬럼도 형성되어 있었다. 나가마치와 그 변용 長 町 とその 変 容 나가마치( 長 町, 니뽄바시스지_ 日 本 橋 筋 3~5쵸메 丁 目 )는 근세에서 근대에 걸쳐 오사카최대 의 빈민 집주지역의 명칭이다. 이 지역은 근세로부터 키친야도( 木 賃 宿 _연료비 정도의 저렴 한 숙박료로 머물 수 있었던 숙박시설)와 그곳에 숙박(실질적으로는 거주)하는 방대한 일용 - 78 -

노동자층이 모이는 하층민집주지역이었으나 188년대 이후 농촌에서의 급격한 인구 유입에 의해 팽창, 확대되게 된다(*3). 그러한 팽창 과정에서 근세에 나가마치가 도시하층민의 집주지가 형성되는 중요한 축이 된 것이 키친야도나카마_ 仲 間 의 특권(진베츠쵸_ 人 別 帳 :에도시대의 호적_에 기재되지 않은 사람들을 숙박시키고, 그들에게 일용노동의 일감을 알선하는 일을 독점적으로 행함)이 해체 된 점이 주목된다. 그 결과 키친야도는 단지 일세 형식의 나가야로 변용되면서 이전부터 일 용노동층을 중심으로 하는 방대한 도시하층민의 집주지로서 계속 팽창하게 된다. 1887년경 스즈키 우메시로_ 鈴 木 梅 四 郎 라고 하는 신문기자가 쓴 오사카 나고쵸 빈민굴 시 찰기 (*4)에 따르면, 나가마치의 빈민 (도시하층민)의 직업은 다음과 같이 구성되어 있었다. a. 우산이나 부채를 제조에 관련 직인들(다수는 자기 점포를 소유하지 않은 통근 직인) b. 車 夫 (인력거 및 짐차를 끄는 인부)를 필두로 한 일용 육체 노동 종사자들 c. 넝마주이, 거지 등 가장 주변부에 속하는 궁민_ 窮 民 적 직종(숫적으로는 최대) d. 카도즈케게닌_ 門 付 芸 人 (#역주:마치야_ 町 家 :에도시대 성 안에 위치한 상공업자들의 직주일체형 거주지역. 즉, 시가지를 형성했다_의 몬젠_ 門 前 에서 예능활동을 해서 수입을 얻 던 사람들) e. 여성 및 어린이를 포함한 성냥공장 등의 근대산업 노동자 f. 나가마치의 뒷골목에 열린 노점 등을 포함한, 영세 상인 이들은 전체적으로 (1) 주로 성인 남자로 이루어진 일용직 및 직인, (2) 가족 전원으로 이루 지며, 대부분이 미숙련의 궁민적인 노동력을 그 구성 요소로 하고 있었다고 할 수 있다. 이 는 한 편으로는 근세 이후의 거대도시에서 보편적으로 나타난 우라다나_ 裏 店 :뒷골목의 민중 세계(*5)와 공통된 성격을 가진다고도 할 수 있으나 한 편으로는 직인적인 요소가 적고, 가 장 주변부에 속하는 궁민에 편중되어있다는 점으로부터 나가마치 고유의 특징이 존재했다고 도 할 수 있다. 또한 189년 전후에는 오사카 주변부를 중심으로 공업화가 진행됨에 따라 성냥 제조와 같은 근대 산업의 노동자도 증가하는 중이었다는 점은 주목할 만 하다. 성냥이 나 우산 등의 제품은 일본, 중국, 동남아시아를 무대로 하는 아시아 간 무역 의 주요 제품이 라는 특징을 가지고 있어 근세 이후의 나가마치의 하층민들은 이러한 형태로 아시아 규모의 경제변동의 영향권하에 말려들어가기 시작한 것이다. 이에 더하여 도시하층민과 지역과의 관계라는 점에서 지나칠 수 없는 것은 나가마치에서는 근새 이래, 키친야도 및 전당포, 고리대금 등을 통하여 지주, 건물주들이 하층민들에게 들어 붙어 이익을 짜내고 있었다는 사실이다. 그들은 그 날 그 날을 살아가는 것만으로도 힘에 부 치는 하층민들에게 숙소를 제공하여 일자리를 중개하는 한편, 월보다 상대적으로 높은 일세 를 하층민들로부터 착취하고 아주 높은 금리의 대출, 이불이나 모기장 등의 대여, 질이 낮 은 식사와 물품 등의 판매도 행하고 있었다. 하지만 앞서 서술한 바와 같이 키친야도의 영업적인 특권이 사라지면서 지역 주민의 부담으 로 학교를 경영하는 학구제도가 도입됨에 따라 지주들의 재정부담이 증가한 것에 더하여, 187년대 말부터 188년대에 걸쳐 콜레라의 유행이 이 지역을 엄습하는 등의 문제가 발생 한 까닭에 방대한 하층민을 착취하는 이점은 점점 줄어들었다. 그 결과 1886년 이후에는 오 - 79 -

사카 부의 제안을 계기로 나가마치 빈민 이전문제가 발생했다. 이는 나가마치의 나가야를 철 거하고 도시하층민을 시가지 외부로 이전 혹은 확산시키는 것이었으며 그 기저에는 그 지역 을 장기간에 걸쳐 지배하면서 하층민을 쥐어짜왔던 지주, 건물주들의 이해관계의 변용이 존 재하고 있었다. 결국, 1891년 대규모의 빈민가 철거 정책(slum clearance)가 실시되어(*6), 니뽄바시스지 를 따라 늘어서 있었던 키친야도를 중심으로 한 근세적인 나가마치의 구조는 해체되고 이 땅에서 쫓겨난 도시하층민은 나가마치의 동서주변지역 및 남서부에 해당하는 카마가사키_ 釜 ヶ 崎 지역으로 이동하였고, 새로운 유입 인구가 그에 더해지는 형태로 근대적인 슬럼이 형 성되게 된다. 근대적 슬럼의 형성 189년대는 청일전쟁을 거쳐 일본의 자본주의가 크게 발전되는 시기이며 시가지 주변으로 의 인구 유입이 증대하여 새로운 슬럼의 형성이 진행되었다. 앞서 살펴본 나가마치의 주변에서는 나가마치의 나가야 거리의 해체 후 니뽄바시스지의 동 서 주변지역에 중소 영세 공장의 집적과 새로운 나가야의 건설이 청일전쟁 후에 이루어져 주거와 공업이 혼재하는 지역이 형성되었다. 이 지역은 4장에서 다룰 8채 나가야 도 그러 했던 것처럼 주로 가족세대로 이루어진 도시잡업층의 거주지로 형성되어 간다. 한 편, 나가마치의 남서방향에 해당하는 칸사이_ 関 西 철도노선과 난카이_ 南 海 철도가 교차하 는 지점의 남쪽에는 카마가사키라고 불리는 슬럼이 형성되었다. 1897년의 제1차 시역확장 이후 칸사이철도의 남쪽이 이마미야쵸_ 今 宮 町 가 되었으나 이곳에는 새로운 밀어넣기 식 의 키친야도(2층 건물의 숙박업소 중에서 대부분 2층 부분에 다인수의 단신자가 새우잠 을 자 는 큰 방이 있는 형태)가 떼를 지어 건설되었다. 또한 일용노동자가 모여, 그들에게 그 날의 작업을 주선하는 요세바_ 寄 せ 場 :인력시장 라 불리는 공간도 형성되었다. 그 때문에 카마가사 키는 당초 가족세대도 적지 않았던 것이 점점 단신 일용노동자가 모이는 지역이 된다(*7). 이는 제2차세계대전 이후 카마가사키 문제 의 기원을 형성했다. 니시하마쵸_ 西 浜 町 미나미오사카_ 南 大 阪 에는 또 하나 거대한 도시하층민의 집주지가 존재했다. 바로 니시하마 쵸이다(*8). 근세에는 오사카산고_ 大 坂 三 郷 (#역주:에도시대의 오사카 시가지의 총칭)에 부 속된 천민(えた) 마을이었던 와타나베무라_ 渡 辺 村 는 1887년 니시하마쵸로 개칭되었다. 오사 카 킨키지방을 중심으로 한 각지의 피차별부락으로부터의 유입자가 이곳에 집중됨에 따라 빈곤층이 집주하는 지역으로서 주변부로 계속 확장되었다. 니시하마쵸는 1897년의 제1차 지역확장에서 오사카시에 편입되는데 인구증가가 계속되어 191년대에는 전국 최대 규모의 도시부락으로 팽창한다(192년의 인구는 무려 16명에 달했다). 사실 니시하마의 중심부에는 근세 이후 피혁 유통에 관여하면서 막대한 부를 축적 한 가죽도매상의 계보를 잇는 유력자들이 있었지만, 부락의 주변부에서는 인구유입과 빈곤층 의 증가에 따라 슬럼화가 진행되어 사회문제화 되어 있었다. 191년 전후에는 이렇게 팽창 - 8 -

된 주변부에 해당되는 키즈키타시마쵸_ 木 津 北 島 町 의 아동들이 일반지구의 소학교에서 차별 을 받아, 어쩔 수 없이 부락내의 학교로 역입학하거나 취학을 하지 않는 문제도 발생하였다. 이 시기에 피차별부락에서는 경찰 및 부락의 지배층이 주도하는 형태로 자주적 개선 을 목표로 한 피차별부락운동이 진행되고 있었으나 부락내의 개선에 힘써도 외부로부터의 차별 이 사라지지 않는 상황에의 불만이 확대되었다. 그와 연동하여 니시하마 부락 내부에서도 191년에는 가난한 세입자층과 지역지배층인 지주, 집주인 사이에서 셋방_ 借 家 분쟁이 빈번 하게 발생하는 등 계급적인 대립이 커졌다. 이러한 모순의 심화는 192년대의 수평운동을 뒷받침하는 것이기도 하다. 3.다이쇼시대의 도시하층사회 1)도시발전과 사회적 모순 도시인구의 증대와 주택난 1914~19년사이의 제1차세계대전은, 일본 경제의 비약적인 발전을 가져와 공업화의 진행 에 따라 대도시로의 인구집중과 도시화가 대대적으로 이루어졌다. 여기에서도 우선 오사카시와 그 주변의 인구동향에 대해 살펴보자. 191년대에는 오사카 시를 둘러싼 히가시나리군과 니시나리군에서 인구가 급증하여 1914~1919년의 인구증가율 은 히가시나리군이 44%, 니시나리군이 5%나 증가했다 이는 오사카시 주변부로의 공장 건 설과 노동인구의 유입에 의한 것으로, 급속하게 시가지화가 진행되어 주택난이 심각한 사회 문제로 부상했다(*9). 이 시기의 주택문제는 2가지 내용을 가지고 있었다. 먼저 주택의 절대적 부족현상과 그에 따른 집세의 상승으로 셋방문제_ 借 家 問 題 가 발생하였다. 192년에는 오사카시내에서 5만세 대분의 주택이 부족했다고 보여져, 1912~1921년 오사카사 시내의 평균집세는 약 2배로 뛰 었다. 주택의 부족분은 1호당 2세대 이상이 동거하는 마가시 마가리_ 間 貸 し 間 借 り:셋방 살이 에 의해 채워졌다. 또한 둘째로, 불량주택(나가야)의 건설과 무질서한 시가지화의 진행 에 의해 주택환경악화와 과밀화가 문제시되게 된다. 이러한 열악한 주택환경을 가진 지역을 불량주택지구 로 불렀다. 도시의 급격한 팽창에 의한 도시주민의 생활곤란이라는 사회적 모순이 심화된 것이다. 쌀소동의 발발 제1차대전에 따른 호경기로 대도시 주변부로의 인구집중과 슬럼화 형성이 진행되었는데, 그 중에서도 단신일용층이 모이는 슬럼으로 형성된 카마가사키가 전형적인 예이다 (*1). 카 마가사키를 포함한 신이마미야쵸에서는 1913년의 인구 112명이었던 것이 1916년에는 235명으로 배로 증가하여 192년에는 49명으로 다시 배로 증가했다. 또한 전쟁경기 에 의한 물가의 전반적 상승에 더하여 도시로의 급속한 인구집중에 따른 농업 생산의 정체 를 배경으로 쌀값이 계속해서 상승하였다. 1918년 8월, 정부가 러시아혁명에 간섭하기 위해 시베리아 출병을 결정하자, 쌀의 매점매 석이 광범위하게 이루어져 쌀값은 미증유의 급등을 나타냈다. 오사카에서는 보통 1되2전이 - 81 -

었던 쌀값이 7월에는 3전, 8월초에는 4전으로 급상승하여 8월 12월에는 무려 56전에 도 달했다. 토야마현_ 富 山 県 의 어촌지역에서 발생한 부녀자 폭동( 女 房 一 揆 ) 이 8월을 기점으로 현 외 에 보도되자, 서일본을 중심으로 쌀의 염가 판매 및 생활난 구제를 요구하는 대중 행동이 전 국으로 확산되었다. 오사카에서는 8월 11일에 텐노지 공원 주변과 이마미야쵸에서 군중에 의한 염가 판매 요구 및 소동이 발생하여 12일 이후 육군 제 4사단이 출동하여 진정화를 시 도했으나 소동은 16일까지 계속되었다. 뒤에서 다룰 8채 나가야 등 니뽄바시 주변의 주민 도 염가 판매 요구 운동을 들고 일어났다. 이와 같이 쌀소동은 제1차대전기에 축적된 도시의 사회적 모순이 폭발하여 일어난 것이었 으며, 그 후 계급적인 사회운동이 도시를 무대로 하여 다채롭게 전개되는 도화선이 된 사건 이기도 하다. 노동운동 및 세입자 운동, 부락해방운동 및 도시주변 농촌에서의 소작농 운동 등은 모두 이러한 도시적인 사회모순의 축적을 불가결한 요인으로 하여 생겨난 것이다. 오사카부의 방면위원제도 오사카부는 쌀소동 때 모인 기부금을 기초로 하여 1918년 1월 빈곤자에 대한 감시와 구 제를 위한 신제도로서 방면위원제도_ 方 面 委 員 制 度 를 창설했다(*11). 그 내용은 다음과 같다. 소학교의 통학구역(학구)를 큰 단위로 설립된 방면 이라고 불리는 지구별로 몇 명의 위인을 임명하여 그들이 빈곤세대의 조사를 실시, 방면 카드에 등록한 후 에 그에 따라 공적부조의 알선 및 직업소개, 생활지도가 이루어지는, 빈곤 문제의 해결을 목 표로 하였다. 방면위원제도가 현재의 민생위원제도의 전신이 된 것은 잘 알려진 사실이다. 방면위원제도는 지역의 책임자 적인 유력인물을 조직적으로 동원하여 빈곤층의 파악과 보 호/구제를 실시하는 한편, 폭발의 요인이 된 하층민중을 일상적으로 감시하는 역할 또한 담 당하는 도시의 안전장치 였다. 2) 다이쇼기의 슬럼-다양한 요소의 복합 대도시로의 유입자는 많은 경우 먼저 유입된 동향자들을 의지하여 집주하며, 동향적인 결 합에 기초된 집주지를 형성했다. 특히 192년대 이후의 오사카에서는 재일조선인 및 오키나 와 출신자들의 집주지를 주목할 수 있다. 먼저 한국/조선인의 증대에 대해 살펴보자(*12). 191년의 한국합병에 의해 일본의 식민 지가 된 한반도로부터 오사카로의 유입자는 1923년 제주도-오사카 간의 로가 개설된 것을 계기로 192년대 중반 이후 급속하게 증가했다. 당초에는 단신 남성의 이주 노동_ 出 稼 ぎ을 위한 유입이 많았으나 점차 거주인구를 점하는 여성의 비율이 증가하여 세대 형성 및 정착 이 진행되었다고 생각된다. 그들은 이 시기에 히가시나리구의 츠루하시코노쵸_ 鶴 橋 木 野 町, 이카이노쵸_ 猪 飼 野 町, 히가시오바세쵸_ 東 小 橋 町 등의 집주지를 형성하여 오사카 시내의 각처 에도 소규모의 집주가 만들어져 산재해 있었다. 다음으로 오키나와 출신자에 대해 살펴보겠다(*13). 192년대의 오키나와현에서는 설탕 값의 폭락으로 인해 주요산업인 사탕수수 생산이 커다란 타격을 받은 것을 계기로 소테츠 - 82 -

지옥 이라 불리는 극심한 곤궁 상태가 발생하여, 본토(혼슈 지역)로의 급격한 노동력의 유출 이 나타났다. 오사카에도 많은 수가 유입되어, 192년대 후반에는 오키나와현으로부터 오사 카부로의 이주노동자는 매년 5명 정도에 달했다. 그들이 종사한 직종으로 남성은 일용 노동, 경공업의 중소공장 노동자가 많았으며, 여성은 섬유공장의 여공이 되는 경우가 많았 다. 또한 그들 역시 앞서 유입된 연고자 및 동향자를 의지해서 집주하게 되어, 다이쇼구_ 大 阪 市 大 正 区 의 산겐야_ 三 軒 家, 코바야시_ 小 林, 오카지마지구_ 恩 加 島 地 区 및 코노하나구_ 大 阪 市 此 花 区 의 시칸지마_ 四 貫 島, 미나토구_ 大 阪 市 港 区 의 이치오카_ 市 岡 등에 집주지를 형성하였다. 그들의 생활 및 노동 상황은 거의 가혹한 것이었으나 193년대에 들어가면 일부는 중공업 노동자로 진입하는 자들도 나타났다. 4. 쇼와전기의 도시하층 1) 거대도시와 빈곤문제 대오사카_ 大 大 阪 의 탄생 오사카시는 1925년 제2차시역확장을 실시했다(*14). 이는 제7대 오사카시장인 세키 하지 메_ 関 一 가 주도하는 형태로 진행되었다. 오사카 시역 외연부로의 인구 유입과 무질서한 시가 지화에 따른 사회 모순의 심화에 대응하기 위한 목적으로 히가시나리군, 니시나리군의 44곳 의 정촌_ 町 村 을 오사카 시역에 편입시켰다. 그 결과 오사카시의 인구는 211만명에 달해 그 시점에서 도쿄를 제외한 전국에서 가장 큰 도시가 되었다. 주목하고 싶은 점은 그 후(1925 194년)의 인구증가의 추이이다. 구시역 133만명 154만명 16%증가 신시역 78만명 17만명 12%증가(2.2배로 늘었다) 오사카시 211만명 325만명 54%증가(1.5배로 늘었다) 위의 구시역, 신시역 각각의 인구추이를 보면 도심부의 구시역의 인구의 정체, 감소에 비 해 주변부의 신시역에서는 인구증가가 계속되는 동향을 읽을 수 있다(인구공동화 현상). 그 결과 신시역, 구시역의 비중은 이 사이에 역전되어 신시역의 인구증가에 의해 일어나는 문제 는 이 시기의 도시적 과제의 중점이 된 것이다. 실업과 빈곤의 심화 192년대부터 193년대 초엽은 일본 경제가 불황에 시달리고 있던 시기이다(*15). 특히 193년의 쇼와공황의 영향으로 그 해의 오사카의 실업률은 5.5%가 되어 실업자수로는 도쿄 를 제외한 전국 제 1의 실업도시 라고도 불리웠다. 하지만 그 사이에도 도시로의 유입인구 는 줄어들기는 커녕 오히려 증가하여, 오사카는 방대한 빈곤인구를 구시역의 주변부터 외연 부의 지대에 보유하게 된다. 이러한 공황에 따른 빈곤상황을 단적으로 나타나는 사실이 불 량주택지구 의 증가와 재일조선인의 증가였다. - 83 -

그림 1 > 8채 나가야 평면도 비고: 大阪市社会部調査課 密住地区居住者の労働と生活 가 소장한 도면을 가공하여 작성. 집 번호는 大阪府警察部衛生課 大阪府保健衛生調査報告第三編 과 대응한다. 또한7 72번은 69번의 북쪽에 있지만 密住地区調査 에서는 대상이 아니었기 때문에 생략하고 비워두었다. 먼저 불량주택지구 의 증대에 대해서 살펴보겠다. 도시잡업에 종사하는 하층 주민이 허술 하게 만들어진 우라나가야_裏長屋 뒷골목에 지어진 나가야(주택)_에 밀집해서 거주하는 지 역은 구시역과 신시역의 경계에서 외곽에 걸쳐 확대되었다. 1937년 오사카시가 실시한 조사 에 따르면 오사카시내의 불량주택지구 는 333곳으로 증가, 불량주택 은 17896세대였다고 한다. 이러한 우라나가야에 거주하는 사람들의 열악한 생활환경 및 빈곤이 계속해서 문제화 되고 있었다. 다음으로 재일조선인의 증대에 대해서 살펴보자. 오사카부 내에 거주하는 재일조선인의 인 구는 1932년 1만명을 돌파했다. 그들의 노동과 생활의 상황으로부터 다음과 같은 점을 지 적할 수 있다. 첫째로, 높은 실업률과 저임금 중노동을 특징으로 하는 가혹한 노동환경이다. 쇼와공황에 시달리던 193년 당시의 실업률은 오사카 전체가 5.5%로 추정되는데 그 중 재 일조선인은 18%로 높았다. 그들이 일하는 직장은 유리공장이나 고무공장 등 다수가 잡역노 동 혹은 일용직 및 건설노동을 중심으로 하여, 임금 역시 민족차별에 의해 일본인의 하층노 동보다 낮은 지위에 있었다. 둘째로, 그들이 거주했던 히가시나리 등의 집주지의 전부는 불량주택지구 로 열악한 거주 환경이 밑바탕이 되어 있었던 점이다. 단신자는 많은 수가 함바 및 판자집에서 머무르는 경 우가 적지 않았다. 또한 나가야 등에 거주하는 사람들도 포함된 히가시나리구 오바세쵸의 재 일조선인의 경우, 1인당의 다다미 수는.55죠였다 (#역주:1죠=約1.8 ). 당시 방면위원이 구제의 대상으로 했던 요보호세대가 1명당 1.5죠였을 정도이므로 그들은 슬럼의 가장 주변 적인 생활 속에 있었던 것이다. 84

사진 1> 8채 나가야(서쪽->동쪽) 2) 불량주택지구 의 실태 8채 나가야_ 八 十 軒 長 屋 의 경우 앞서 언급한 불량주택지구 의 구체적인 예로서 들 수 있는 것이 니뽄바시 주변의 우라나 가야군이다(*16). 그 중에서도 189년대에 건설된 8채나가야 라 불렸던 나가야는 오사카 부/오사카시가 각각 주민조사를 실시하여 그 자세한 실태를 파악할 수 있는 귀중한 사례이 다(그림 1). 8채 나가야에는 대 오사카 탄생 전의 1924년 시점에 79호의 나가야주거에 129세대 54명의 주민이 거주하고 있었다. 129세대 중 5세대는 셋방살이 세대로 2층으로 이루어진 건물의 1층부분과 2층부분을 셰어하는 형태로 2세대(경우에 따라서는 3세대)가 동거하는 경 우가 적지 않았다. 나가야의 주거환경을 살펴보면 방 숫자에서는 전체의 4% 가까이가 방 한 칸만을 사용하 고, 방 두칸 이하의 경우가 전체의 75%에 달했다. 다다미 숫자로 살펴보면 7.5죠 이하가 72%에 달했다(1세대 별 7.2죠, 1인당 1.9죠). 가족 구성원 숫자가 약 4명이었다는 점을 고 려하면 상당히 고밀도로 거주하고 있었다 할 수 있다. 생활 설비면에서는 우물과 상수도는 같은 부지내에 살고 있던 집주인이 하나를 전용하는 한 편, 나가야 내의 그외 128세대는 우 물 3개와 수도전 1개를 공용하는 상태였다. 또한 이 시기 보급이 진행된 전등은 1개를 공 용 하는 세대가 14% 였던 외에, 1개 전용 58%, 2개 21%, 3개 이상이 7%로 나타나, 일부이 기는 하지만 공용 하는 형태도 존재했다. 화장실의 경우는 새로 지어진 24호(46세대가 거 주)에는 1개씩 있었지만 주인집 외에는 2개의 공동화장실을 82세대가 공동으로 사용하는 꼴 이었다(사진 1). 8채 나가야의 토지, 가옥, 주거를 둘러싼 계층관계는 이하와 같이 정리할 수 있다(그림 ). 실상 나가야가 지어진 부지는 오사카의 저명한 재벌기업의 경영자인 스미토모 키치자에몬_ 住 友 吉 左 衛 門 의 소유지로, 부재지주_ 不 在 地 主 인 이 스미토모가를 정점으로 하여 스미토모로 부터 토지를 빌려 지대를 납부하면서 셋방_ 借 家 경영을 행하며 현지에 거주하고 있던 집주인 _ 家 主, 집주인으로부터 주호1호를 빌리는 본세대가구 _ 本 世 所 帯, 그 1호 중 세내어진 2층 등의 부분을 임차_ 間 借 り하는 동거가구_ 同 居 所 帯 로 구성되어, 이들이 나가야의 사회관계를 - 85 -

사진 2> 시영 테라마치 제1주택 (1931년의 시공 당시) 구성하는 사람들이었다. 현지에 거주하는 집주인은 개월 당 수백엔(셋방 거주자의 5배 이상) 의 고수입을 얻는 존재로 당연히 넓은 가옥에 살고 있었다. 우라나가야에 사는 셋방살이들과 의 격차가 역력하여, 이러한 우라나가야의 세계에는 지주, 집주인, 셋방살이 간의 계층관계 가 존재했다. 나가야 주민의 직업은 먼저 세대주에 대해서는 188년대까지의 나가마치와 같이 폐품수 집에 관한 직업이 적지 않았으나 세대원의 세대를 살펴보면 잡화품 공업이기는 했지만 공업 적 직종에 취직하는 사람이 다수로, 일부는 숙련도가 높은 공장노동자도 있었다. 이를 통하 여 도시하층주민의 직업면에 있어서의 상승경향을 읽어냄과 동시에, 슬럼으로 일괄되는 지역 이 실제로는 다양한 요소를 포함하여 성립되어 있었음이 나타나 있다고 볼 수 있다. 오사카시의 신시역을 중심으로 존재했던 불량주택지구 는 각각 이러한 생활관계들을 가지고 있어 집주지를 단지 외부에서의 모습으로 슬럼 이라고 한 덩어리로 해석하는 것은 일차원적 이며, 그 지역의 특성을 지역, 거주, 소비 등을 통한 사회적 관계 안에서 파악하는 것이 필 요할 것이다. 불량주택지구 개량사업과 도시하층민 1927년부터 이 8채 나가야를 포함한 니뽄바시 주변의 나가야군에 대해 오사카시는 불 량주택 개량사업 을 실시했다(*17). 오사카시는 같은 해 3월 불량주택지구개량법의 시행을 맞이하여 전국에서 가장 사업에 착수, 다음 해인 28년에는 사업대상지구 지정이 인가되어 개량주택 건설이 시작되었다. 지정된 지구는 테라다쵸_ 寺 田 町 3 4쵸메, 키타닛토쵸_ 北 日 東 町 미나미닛토쵸_ 南 日 東 町, 히가시세키야쵸_ 東 関 谷 町 1 2쵸메, 히로타쵸_ 広 田 町 의 각 일부 로 총 면적은 18796평, 호수 12호로 6개월 계획으로 약 71만엔에 달하는 예산이 책정 되었다. 동년도의 사회사업비 통상예산 38만엔과 비교해 보면 얼마나 대규모의 사업이었는 지 알 수 있다. 이 사업에 의해 1943년까지 철골 콘크리트 구조의 3동을 포함한 개량주택이 건설되었다(사진 2). 하지만, 지구 지정과 사업 구상 발표 후 얼마 안 있어 우라나가야의 주민들은 사업 실시에 저항하는 운동을 개시했다. 주민들은 1)이전비의 액수에 대한 불만, 2) 일시이전지(이마미야 - 86 -

_ 今 宮 지역)에 대한 불만, 3) 사업에 따라 자신들의 생활 터전이 사라지는 것에 대한 불만을 외쳤다. 철거 반대로 시작되어, 뒤에는 좀 더 유리한 조건으로 철거를 요구하는 운동으로 변 화했지만 그들의 주장의 전제에는 우라나가야에서 키워 온 생활에 대한 애착이 있었다. 이 분쟁은 나가야를 둘러싼 중층적인 거주관계를 반영하면서 복잡해져, 주민과 집주인, 지주 (스미토모 가), 오사카 시의 사이에서 몇 번이나 분쟁이 발생했다. 국수회(#역주:폭력단 중 하나)의 협객에 의한 중재도 있었기 때문에 지주 가주는 일정 부분 양보하여 오사카시도 이전 조건을 개선한 듯 하다. 결국, 이전 조건의 개선과 함께 개량사업은 지연 및 축소되면 서 실시되었다. 개량 후의 주민생활을 살펴보면, 거주 조건(설비, 수량, 집세)의 대폭적인 개선 뿐 아니라 다 이쇼기 이래 존재했던 지역 개선 정책의 효과도 있어 주민의 교육 수준 및 건강 상태 또한 향상되었다. 이에 더하여 사회 관계의 면에서는 임대인 임차인 관계가 감소하고, 상대적으 로 소득 수준이 높은 신주민이 입주하는 한편, 중층적인 관계가 해소되어 오사카시에 의한 주민의 직접 관리가 실현되는 등의 변화가 나타났다. 우라나가야 시대의 사회관계가 크게 재 편된 것이다. 사실 개량사업의 대상으로 이 지역이 선정된 배경에는 이 지역의 도시하층민의 생활이 가 지고 있던 일정의 상승 가능성이 존재했다. 또한 철거에 저항한 주민들의 주장으로부터는, 슬럼이라고는 하지만 대도시 오사카로 건너와 셋방이긴 하지만 세대를 형성하여 나가야 내 에서 공동성을 키워나가며 일하고, 살아왔던 도시하층주민의 자부심을 읽어내는 것도 가능하 다. 5. 결론 본 발표에서 설명한 내용을 19세기에서 2세기의 도시하층사회의 변용이라는 점에 맞추 어 정리하면, 다음과 같은 점을 지적할 수 있다. 첫째, 오사카의 도시하층사회는 근세 이래의 하층민 집주지로서 대표적인 위치를 점해온 나가마치의 변용 해체를 축으로, 공업화 도시화의 진전 속에서 새로운 슬럼을 형성해 나갔 다. 2세기에는 더욱 더 다양하게 확대되어 피차별부락의 성격을 가지는 니시하마쵸가 팽창 을 거듭한 뿐 아니라 재일조선인 및 오키나와 출신자의 집주지도 형성되었다. 이렇게 각기 다른 개성을 가진 하층 사회를 하나 하나 자세히 연구, 저술하는 것이 앞으로 더 진행되어야 할 것이다. 둘째, 19세기와 2세기의 단계에서, 권력에 의한 하층주민대책의 성격이 변화한 점이다. 이는 빈민 이라는 단순한 배제에서부터 생활개선을 포함한 개입과 질서화로의 변환이다. 이 러한 변화는 그 시기의 도시정책의 역사적 변화를 반영하고 있다. 거기에는 주거를 둘러싼 주민의 권리들을 충분하지는 않지만 그 전제로 나아가는 형태로 주택정책이 등장하는 변화 가 있었다고 생각된다. 셋째, 도시하층주민의 주체성에 관한 문제이다. 그들은 단순히 근대적 시민의 그림자 가 아니며, 수동적인 존재도 아니었다. 공업화와 도시화가 진행되어 크게 사회가 변동하는 가운 데 근대의 도시하층민은 유입자가 결혼하여 집주, 정착하는 형태로 우라나가야에서 그 생활 - 87 -

세계를 구축해나가고 있었다. 2세기 단계의 도시정책의 영향을 받으면서도 쇼와전기에는 도시하층민의 결집 및 운동 및 권리의 자각에 기초한 생활조건의 개선과 시민적인 성장 역 시 일정 부분 이루어졌다. 불량주택지구 개량사업을 둘러싼 철거 문제는 그러한 변화를 상징 하는 것이 아닐까. 위와 같이 오사카의 도시하층사회는 근세 이래의 구조를 변용시켜 19세기 말 이래 새로운 유입인구를 수용하면서 거대도시 오사카의 발전을 저변에서 지탱하는 중요한 역할을 계속해 서 수행해나갔다. [주] 1) 成 田 龍 一 近 代 都 市 と 民 衆 ( 同 編 近 代 日 本 の 軌 跡 9 都 市 と 民 衆 吉 川 弘 文 館 1993 年 同 著 近 代 都 市 空 間 の 文 化 経 験 岩 波 書 店 23년에 수록)등 2) 이하의 기술 小 山 仁 示 芝 村 篤 樹 大 阪 府 百 年 ( 山 川 出 版 社 1991 年 ), 新 修 大 阪 市 史 編 纂 委 員 会 新 修 大 阪 市 史 第 五 巻 ~ 第 七 巻 ( 大 阪 市 1991~94 年 )을 참조한 부분도 많다. 특히 주기하지 않 은 통계 자료 등도 위의 성과에 의거하고 있다. 또한 본 발표 전체에 관한 선행연구로서 미즈우치 토시오_ 水 内 俊 雄 近 代 期 大 阪 の 空 間 構 造 と 居 住 分 化 ( 都 市 文 化 研 究 2 号 23 年 )가 있다. 3) 이하, 나가마치에 대해서는 졸저 近 代 大 阪 の 都 市 社 会 構 造 ( 日 本 経 済 評 論 社 27 年 )제2~4장 을 참조. 4) 鈴 木 梅 四 郎 大 阪 名 護 町 貧 民 窟 視 察 記 (1888 年 西 田 長 寿 編 明 治 前 期 の 都 市 下 層 社 会 光 生 館 197 年 所 収 ) 5) 吉 田 伸 之 表 店 と 裏 店 商 人 の 社 会 民 衆 の 世 界 ( 日 本 の 近 世 9 都 市 の 時 代 中 央 公 論 社 1992 年 同 著 巨 大 城 下 町 江 戸 の 分 節 構 造 山 川 出 版 社 2년에 수록) 6) 加 藤 政 洋 大 阪 のスラムと 盛 り 場 近 代 都 市 と 場 所 の 系 譜 学 ( 創 元 社 22 年 ) 7) 前 掲 加 藤 大 阪 のスラムと 盛 り 場 외에 釜 ヶ 崎 資 料 センター 編 釜 ヶ 崎 歴 史 と 現 在 ( 三 一 書 房 1993 年 )등을 참조. 8) 福 原 宏 幸 都 市 部 落 住 民 の 労 働 = 生 活 過 程 西 浜 地 区 を 中 心 に ( 杉 原 薫 玉 井 金 五 編 大 正 / 大 阪 /スラム( 増 補 版 ) 新 評 論 1996 年 初 出 は1986 年 所 収 ) 9) 제1차대전기~192년대의 주택문제에 관해서는, 大 阪 都 市 住 宅 史 編 集 委 員 会 まちに 住 まう 大 阪 都 市 住 宅 史 ( 平 凡 社 1989 年 )을 참조. 1) 이하, 쌀소동에 관한 기술은 小 山 仁 示 芝 村 篤 樹 大 阪 府 の 百 年 ( 山 川 出 版 社 1991 年 )에 의한 것이다. 11) 大 森 実 都 市 社 会 事 業 成 立 期 における 中 間 層 と 民 本 主 義 大 阪 府 方 面 委 員 制 度 の 成 立 をめぐって ( ヒストリア 97 号 1982 年 ) 松 下 孝 昭 一 九 二 〇 年 代 の 借 家 争 議 調 停 と 都 市 地 域 社 会 大 阪 市 の 事 例 を 中 心 に ( 日 本 史 研 究 299 号 1987 年 )외에, 前 掲 拙 著 近 代 大 阪 の 社 会 構 造 제 7장을 참조하시길 바란다. 12) 佐 々 木 信 彰 192 年 代 における 在 阪 朝 鮮 人 の 労 働 = 生 活 過 程 東 成 集 住 地 区 を 中 心 に ( 前 掲 大 正 / 大 阪 /スラム 所 収 ) 杉 原 達 越 境 する 民 近 代 大 阪 の 朝 鮮 人 史 研 究 ( 新 幹 社 1998 年 )등을 참조. 13) 冨 山 一 郎 近 代 日 本 社 会 と 沖 縄 人 ( 日 本 経 済 評 論 社 199 年 )등을 참조. 14) 제2차시역확장을 포함한 1,2차대전 사이의 오사카의 도시정책의 전개와 그 역사적 특질에 대해서는, - 88 -

芝 村 篤 樹 関 一 都 市 思 想 のパイオニア ( 松 籟 社 1989 年 ) 同 日 本 近 代 都 市 の 成 立 192 3 年 代 の 大 阪 ( 松 籟 社 1998 年 )를 참조. 15) 이하, 쇼와 공황기의 사회문제에 대해서는 前 掲 小 山 芝 村 大 阪 府 の 百 年 를 참조. 16) 前 掲 拙 著 近 代 大 阪 の 都 市 社 会 構 造 제8장을 참조. 17) 前 掲 拙 著 近 代 大 阪 の 都 市 社 会 構 造 제8장을 참조. - 89 -

국경선을 넘는 생활권 의 형성 -재일 제주도 출신자의 생활사으로부터-1) 이지치 노리코(오사카시립대학) [목 차] (3) 밀항에 의한 도일 (4) 88을 거쳐 1. 들어가며 2. 제주도민의 도일 3. 나가며 (1) 식민지기의 도일 (2) 해방 전후의 도일 1. 들어가며 이 보고에서는 일제시대부터 현재까지 제주도 출신자의 이동 경험을 통해 일본과 한반도 간에 형성된 국경을 넘는 생활권 의 변용에 대해 고찰하고자 한다. 여기서 제주도 출신자에 착목하는 이유는 크게 두 가지이다. 첫째는, 재일 코리안의 역사에 있어 해방 이후의 것을 재검토 하기 위해서이다. 두 번째는, 이것이 재일 코리안의 다양성을 나타내기 때문이다. 우선 재일 코리안에 대한 역사의 기술에 관한 문제이다. 종래의 연구에서 재일 코리안은 해방 전에 도일한 후 계속하여 일본에 정주하고 있는 사람들로 여겨져 왔다. 거기에는 일단 고향을 떠나면 돌아오지 않고 일본에 그대로 체재한다 라는 이동의 측면에서는 일방향적인 시점이 있다. 그러나 실제는 고향과 도항처인 일본을 종래하는 사례가 드물지 않다. 이 보고 의 대상인 재일 제주도 출신자의 궤적을 더듬어 보면, 해방 직후부터 196년대까지 일본과 육지부 혹은 제주도 간의 왕래, 그리고 제주도에서 일본으로 건너갔던 사례는 빈번하게 보여 져 왔다. 그 이후에도 밀항 에 의한 도일은 계속됐고, 1988년 이후는 항공기를 통해 합법적 으로 도일하는 사람들이 증가했다. 결국 재일 코리안의 역사는 1945년 8월 15일에 일본에 거주하고 있던 사람들만으로 구성되는 것은 아니라는 것이다. 이 연구에서는 이러한 사람들의 쌍뱡향적인 이동의 궤적과 그것을 창출하는 배경을 밝힘 으로써 국경을 넘는 생활권 의 생성과 변용에 대해 논하고자 한다. 또 이러한 이동을 뒷받 1) 본 연구는 헤세이21년도 과학연구비조성금(기반연구 B 재일코리안의 노동세계에 관한 실증적 연구- 국경을 넘는 생활권 의 형성과 변용(在日コリアンの労働世界に関する実証的研究 国境をまたぐ 生活圏 の形成と変容) 과제번호 2133119 대표 伊地知紀子 및 기반연구 A 신자유주의 의 시대에 있어 생활세계가 생성하는 새로운 공동성에 관한 생활인류학적 연구(新自由主義の時代におけ る生活世界が生成する新たな共同性に関する生活人類学的研究) 과제번호 2124233 대표 松田素 二 기반연구 C 제2차대전 직후 오사카재주조선인의 생활상황에 관한 역사적 연구 (第2 次大戦直後 大阪在住朝鮮人の生活状況に関する歴史的研究) 과제번호 2152697 대표 藤永壮 의 성과의 일부이다. 91

침하는 구조에는 가족, 그리고 노동과 상당 부분 연관되어 있다. 조사 대상자의 이동에 있어 가족이나 친족을 연고로 도일하는 사례나 조사 대상자 자신에 의지하여 그들의 가족이나 친 족이 도일하는 사례는 적지않다. 또한 도항 후의 생활을 위해서는 반드시 어느 곳인가에서 노동에 종사하지 않으면 안되는, 일자리를 얻기 위해서는 가족과 친족, 동향( 同 郷 )이라는 인 간 관계가 밑바탕이 되고 있다. 이 연구에서는 특히 이러한 가족과 노동에 착목하여 도일에 이르는 역사와 도일 후의 생활, 고향과의 유대, 귀환에 이르는 경위, 귀환 후의 생활 등을 구체적으로 밝히고자 한다. 단, 여기서 주의해야할 것은 당사자에게 있어서는 가족, 친척과의 관계나 취업 관계에서의 연속적인 이동이라 할지라도 법 제도 상에서는 해방 전, 즉 제국 일본의 확장기에서의 이동 과 해방 후인 제국 일본 붕괴와 냉전 구조 하에서의 이동은 비연속적인 것으로 여겨져 왔었 다는 점이다. 그 때문에 해방후의 재일 코리안 내부에는 세대 구분 뿐 아니라, 재류 자격의 합법/비합법의 문제도 발생되게 된다. 여기에 더하여 남북 분단에 의한 재일 코리안 내부의 분열이라는 문제도 있다. 이러한 재일 코리안의 해방후사( 解 放 後 史 )에 있어 한반도와의 관계 에 입각한 이동사의 연구 축적은 희박하다. 그때 당시에 대한 당사자의 증언이 기록되기 곤 란했던 점, 공공기관의 자료를 사용하지 않을 수 없었던 한계가 있었기 때문일 것이다. 또한 이 보고의 대상인 제주도에서 일본으로의 이동 배경에는 제주4 3 역시 깊게 연관되어 있었 다. 한국에서의 상황에서 보여지는 것처럼 오랫동안4 3에 대해 말하는 것은 금기였기 때문 에 종래의 재일 코리안에 관한 연구에서는 4 3를 포함시킨 밀항 경험에 관한 상세한 연구 역시 전무했었다. 이 점에 대해서는 현재 보고자가 참여하고 있는 공동연구 해방직후 재일 제주도 출신자의 생활사 조사 에 의한 조사 연구가 진행 중이다. 두 번째로는, 일본에 있어서의 재일 코리안의 학설사( 学 説 史 )에 대해서이다. 전후, 재일 코 리안은 일시적 체재자 로서 정치 문제화됐고, 197년대부터 정주 를 둘러싼 문제가 공론화 되게 됐다. 모두 재일 조선인 문제 로써 문제화되어 왔는데, 199년대에 들어서는 국제화 시대에 있어 내부의 타자 로서, 학문 의 영역에서도 에스니시티(ethnicity) 연구의 대상으 로 다루어지게 됐다. 결국 일본 국내의 소수 민족으로써 분석의 대상이 됐던 것이다. 이러한 연구 경향은 21세기 전후로 재일 코리안의 아이덴티티의 다양화 를 주제로 하는 연구로 나 타났다. 세대 교체 와 국제 결혼의 증가, 다부르(double) 등이 제목이 되는, 민족적 아이 덴티티의 행방이 논해지고 있다. 이러한 연구는 재일 코리안을 획일적으로 논해 왔던 기존 연구의 시점을 검증하는데에는 의미가 있다. 재일 코리안을 획일적으로 논하는 경향은 두 가 지로 접근해 볼 수 있는데, 재일 코리안을 차별이나 배제의 대상인 수동적 존재(비차별자)로 기술하는 것, 혹은 차별이나 배제와 싸우는 능동적 존재(운동체)로 기술함으로써 어느 한쪽 에 집약되는 경향이 많았다. 재일 코리안의 다양성을 논하는 연구는 이러한 연구 경향에 이 의를 제기하는 것으로 평가할 수 있지만 한계도 있다. 그것은 기존의 재일 코리안 연구가 재 일 코리안을 일본 국가의 테두리 내에 있는 존재로 인식되어, 한반도와의 관계를 논외에 두 고 있다는 점이다. 최근의 연구에서는 재일 코리안과 한반도와의 관계를 시야에 넣고, 동시 에 앞에서 언급한 두 가지의 패턴과는 다른 시점으로써 항상 비차별자도 아닌, 또 때에 따라 서는 어느 쪽도 아닌 일상 생활을 영위하는 민중의 모습을 기술하는 연구가 나타나기 시작 - 92 -

하고 있다( 杉 原 1998; 高 鮮 徽 1998; 伊 地 知 2). 이 보고에서는 이러한 일상 생활을 영위하는 개인의 시점에서 재일 제주도 출신자가 이동 해온 궤적을 그들의 생활사를 통해 더듬어 가면서 국경을 넘는 시점으로부터 재일 코리안을 파악해야하는 필요성에 대해 논할 것이다. 이것은 국경을 넘는 생활권 의 형성과 변용에 대 해 논하여 가는 또 하나의 포인트이다. 여기에 제주도 출신자의 이동과 생활사에 초점을 두 는 것은 그 특수성을 나타내 위해서라기 보다는, 그것이 조선 민중 전체의 경험의 일환이고 거기에 보편적인 현상이나 문제가 집중하거나 돌출하고 있기 때문에, 거기에 일본 제국주의 와 조선의 관계성 역시 명확해질 수 있는 가능성이 내재하고 있다고 생각하기 때문이다( 伊 地 知 村 上 28:88). 이상의 두 논점을 통해 이 보고는 일본에서의 종래의 재일 코리안 연구에서 결여돼 있는 국경을 넘는 시점, 즉 한반도와의 관계를 개인의 일상이라는 시점을 제시할 것이고, 그것은 동시에 한반도의 역사와 재일 코리안의 역사와의 관계성을 생각하는 소재가 될 것이다. 이 보고는 보고자의 1992년 이후의 개인 연구와 1999년 이후의 공동연구의 성과를 바탕 으로 하고 있다. 개인 연구로써는 제주도 북동부의 바닷가 마을인 행원리( 杏 源 里 )가 보고자 의 주요한 조사 대상지이기 때문에 행원리 출신자의 생활사가 자료의 주축이 되고 필요에 따라 다른 마을 출신자의 사례를 취하는 방식이 될 것이다. 2. 제주도민의 도일 (1) 식민지기의 도일 1임노동 식민지 시기에 제주에서 임노동자로 도일한 사람들로는 어민과 공장 노동자를 들 수 있다. 어민으로는 잠수를 꼽을 수 있다 2). 잠수들은 육지로 출가한 후 193년 야케지마( 三 宅 島 )로 의 출어를 발판으로 일본 각지에서 어업 활동을 했다.[자료1] 제주도와 부산을 연결하는 기 선 운항에 진출했던 제주상선 주식회사 가 1922년에 설립됐는데, 이에 대해 조선근현대사 연구자인 후지나가 다케시( 藤 永 壮 )는 잠수(해녀)들이 부산 지방에 다수 출가했던 당시 상 황을 고려하여 제주-부산 간의 기선 운항에 뛰어들었던 것은 아닌지 생각된다 고 논하고 있 다( 藤 永 1999:75). 그리고 제주 상선 주식회사는 이듬해 제주와 오사카 간의 직행 항로에 취항했던, 오사카에 있는 아마가사키( 尼 崎 ) 기선부와 업무 제휴를 한다. 이 정기 항로는 제주에서 오사카로 도항하는 많은 사람들을 실어 날랐다. 그 중에는 앞에 서 언급했던 잠수도 있었고, 그 다음으로 공장 노동자로 도일했던 사람들도 있었다. 일본의 근대화에 있어 동양의 맨체스터 라고 불리며 공업도시가 된 오사카로의 도항은 1911년 셋 츠( 摂 津 ) 방적 키즈가와( 木 津 川 ) 공장의 직공 모집으로부터 시작된다. 토지 조사 사업에 의해 토지가 강제로 강탈됐던 191년대 제주도에서의 도일자 수는 증가 일로를 걷게 된다. 이것 을 뒷받침한 것이 앞서 언급했던 제주도-오사카 간의 정기 항로였다. 지리학자인 마스다 이치지( 桝 田 一 二 )도 1934년 기미가요마루( 君 が 代 丸, 군대환)를 통해 2) 잠수란 제주도 말로 해녀 를 의미한다. 어민 가운데는 잠수의 인솔자나 어선 승조원도 있지만 어느 정도 어떠한 형태로 고용되었던가는 앞으로의 과제로 남겨두고 이 보고에서는 논외로 한다. - 93 -

오사카에서 제주도를 왕래했다. 이 배의 규정 정원은 365명이었지만 출가 선객 정원으로 685명까지는 허용됐다. 마스다 이치지는 당시 자신이 탓던 배의 선객 563명 가운데 561명 이 제주도 사람들이었다고 말한다. 선내에는 젊은이들이 많았고, 17-8세부터 3세 전후의 사람들이 대부분이다. 그 중에는 상투를 올려 말의 꼬리로 짠 갓을 쓰고 턱수염을 길게 늘어 뜨린 사람이나 노파도 있다. 또 행새 등으로 보아 출가 해녀 나 일가족 모두가 출가한 사 람, 얼굴이 창백한 여공처럼 보이는 여자 등도 탔었다고 말한다. 보고자가 행원리( 杏 源 里 ) 에서 얘기를 들어보면, 해녀로 출가하기 위해 도일했던 사람들 가운데에는 오사카에서 양복 의 마도메 (양복의 단투를 달거나 소매, 겨드랑이 부분을 봉합하는 등의 마무리 작업)라는 하청을 받아 하는 부업을 한 뒤 귀향했던 사람도 있었다. 사람들은 현금을 벌기 위해 다양한 노동에 종사했었던 것이다. 직행 항로로 연결됐던 제주도와 오사카를 왕래하는 사람들. 그 모습을 마스다는 배는 마치 제주도의 일부가 떨어져 나와 바다 위를 떠다니는 것과 같다 고 기술하고 있다( 桝 田 1976:27-28) 3). 또, 내선협화회( 内 鮮 協 和 会 )의 히로세 마사루( 廣 瀬 勝 )는 1926년 오사카의 조선인과 제주 도( 在 阪 朝 鮮 人 と 済 州 島 ) 라는 제목의 문장에서 제주도에 유입되는 물자에 대해 시대의 물결 은 이곳에도 밀어닥쳐, 자동차가 질구하고, 트렁크가 보이며, 기차나 전등은 없지만 날이 가 고 달이 갈수록 웬만한 유행품은 거의 모두 들어오는 상황 이라고 기술했다( 廣 瀬 1926:65). 제주도의 서북부 애월읍( 涯 月 邑 ) 곽지리( 郭 支 里 )에서 오사카로 넘어온 박여옥( 林 汝 玉 여, 1921년생) 씨는 14살 당시 아버지에게 우격다짐으로 부탁하여 도항증명서를 얻고 같은 마 을 사람이 임원으로 있었던 아마가사키( 尼 崎 )의 방적 공장에 들어갔다. 오사카로 간 이유에 대해 박여옥 씨는 제주도와 일본을 오고가는 사람 가운데 방적 공장에서 일하는 사람이 가 지고 온 일본 귤이 너무 달아서 껍질까지 남길 수 없을 정도로 먹었고, 일본에서 돌아오는 사람은 얼굴빛이 희다. 예쁘다. 그걸 보니까 다시 옷도, 누더기 옷도 예쁘게 보이고. 그렇게 왠지모르게 전부 마음이 끌렸다 고 말한다. 일본에서 돌아온 사람들의 색이 희다 라는 것은 악취와 소음, 호흡도 만족스럽게 할 수 없는 방적 공장에서 일했던 한림읍 출신의 여성의 생활사( 成 1994:49)에서 엿볼 수 있는 것처럼, 가혹한 노동 때문이었을 것이다 4). 히로세의 기술에서는 귀향하는 사람이 몸에 걸치거나 가지고 돌아간 양복과 일본옷 이 헌 옷을 파는 가게에서 구입된 옷차림이라는 것도 한 눈에 알 수 있었다( 廣 瀬 1926:68). 앞에서 언급한 것처럼, 직행 항로의 개설로 인해 제주도에서 도항했던 사람들의 수는 증가 했다. 당초에는 남성이 단신으로 출가했던 경우가 대부분이었지만, 1924년에 정기 항로 체 3) 히로세 마사루( 廣 瀬 勝 )는 섬을 나오는 배는 하얀 옷을 입은 사람을 배에 싣고, 섬에 들어오는 배는 양 복 혹은 일본 옷의 검은 모습을 실어 돌아간다. 선원 등의 모습은 염색 옷 차림으로 송영하며 웃고 있 다. 사실 한 번 섬을 나온 사람 가운데 전통적인 백의를 입고 다시 섬에 돌아가는 사람은 절대 없다. 어 느 사람이라도 크고 작은 수화물 안에는 정말로 새롭게 보이는 트렁크를 휴대하고, 의기양양하게, 신사 답게한 모습으로 귀도( 帰 島 )한다 ( 廣 瀬 1926b:67)고 기술한다. 귀도자는 정말로 조선의 전통 을 버리 고 문명 으로 갈아 입었던 것일까. 그러나, 마스다의 문장에서는 상투를 올려 말꼬리로 짠 갓을 쓰고 턱수염을 기른 자 도 등장하고 있어, 기술되었던 시기의 차이도 관련될 것이지만, 보는 사람의 시각을 반 영하는 문장으로도 파악할 수 있는 것은 아닐까. 4) 제주도에서 오사카로 넘어간 여성들 대부분이 종사했던 방적공장에서는 노동 환경이나 노동 조건이 열 악했다. 이에 대해 193년 기시와다( 岸 和 田 ) 방적계분공장에서 일본인 노동자와 조선인 노동자가 공동투 쟁하여 이의제기했었다. 자세한 것은 김찬정( 金 賛 汀, 1982)을 참조. - 94 -

제가 확립되고 도항자 수가 22년의 3배가 되어, 여성 도항자의 수도 이 시기부터 증가하기 시작한다. 실제 제주도에서 오사카나 시모노세키( 下 関 )로 반출되었던 것은 생선이나 어패류, 감태와 같은 해산물이 대부분이었고, 반대로 제주도로 유입됐던 것은 설탕, 면직물, 쌀 등의 생활용품이었다( 善 生 1929:88). 또 이 항로는 단지 사람이나 물건을 운반하는 것만인 아닌 일본과 관련되는 다양한 정보나 이미지를 섬으로 가져왔다. 행원리 사람들이 오사카로 넘어가 객지벌이를 시작한 것은 192년대부터였다. 마을에서는 좋은 밭을 살 돈을 벌기 위해서 였다고 얘기되어진다. 지금도 밭에 얽힌 출가 얘기가 이어 진다. 행원리에서 오사카로 갔던 김춘록( 金 春 緑, 1915년생) 씨는 1931년부터 5년동안 오사 카에 있었다 5). 김춘록 씨는 15 살에 홋가이도( 北 海 道 )의 탄광노동자 모집 이 있었을 당시 자 신이 끌려갈지 모른다는 생각에 산에 숨었던 경험을 가지고 있었다. 당시 행원리에서 홋가이 도로 3명이 보내졌다. 그 후 193년대에 가라후토( 樺 太 )의 목재 벌채에 징용되어 간 사람도 있었다. 김춘록 씨는 다시 어디론가 끌려가게 될 것을 염려했고, 또 학교에 가고 싶다는 생 각도 강하여 일본에 가면 그것이 가능할 것이라고 생각했다. 김춘록 씨가 도일했던 당시는 도항 허가증이 필요했기 때문에 행원리의 옆 마을인 김녕리( 金 寧 里 )에 있는 출장소에 신청했 다. 12명의 경관 중에 조선인은 한 명. 일본어를 할 수 없는 사람이 거기에 가면 냄새 난다 거나 더럽다 라며 바보취급을 받거나 매를 맞았다. 증명을 발급받는 비용은 2엔이었지만 뇌 물로 경관에게 5엔에서 1엔을 더 줬었다 6). 그런데도 신청 후에 다시 신상 조사가 있었다. 선량하고 건강한 성인 남성 이 노동의 기준이었던 것이다. 김춘록 씨와 같이 도항 허가증을 취득할 수 없었던 사람들은 밀항으로 도일하고 있었다. 2동향성( 同 郷 性 )과 취업 정기 항로가 개설되면서 1934년 말에는 제주도민의 5분의 1이 일본에 거주하기에 이른 다. 오사카에서는 메리야스는 월정( 月 汀 ), 인쇄는 행원( 杏 源 ) 이라는 말이 생길 정도로 제주 의 마을과 일본의 근대 공장 간의 경로는 확실해졌다. 당시 일본은 제1차 세계 대전 후의 호황에 의해 대기업에 의한 설비 투자나 중소 영세 기업이 증가하고 있었다. 당시의 오사카 는 급격한 경제 성장에 필요한 노동력을 한반도나 오키나와( 沖 縄 ) 출신의 도항자로 보충하는 국제 도시 였다. 식민지 체제의 지배 속에 살기 위한 방책으로 도항했던 많은 사람들이 토 목 건축과 화물 운반, 위생 청소 등의 장기간, 과혹 불쾌( 過 酷 不 快 ), 저임금 이라는 오늘날의 3D 로 불리는 하층 노동에 종사했다. 그 가운데 한신( 阪 神 ) 지역에서 직공 모집 이 있었던 것이 191년대부터 제주도로부터 도일자가 증가한 배경이었다. 오사카시 내에서 현재의 이쿠노쿠( 生 野 区 )를 포함한 당시의 히가시나리구( 東 成 区 )는 도시 계획 사업의 본격적인 발전 속에서 도시화가 진행됐다. 히가시나리에는 중소 공장이 집중했 는데, 당시 면직물 공장이나 비누 공장은 공장의 수나 생산액만으로도 오사카시에서 1위를 차지했고, 고무 공장의 공장 수도 오사카시에서 1위, 생산액은 2위를 차지하고 있었다. 또 양초 공장, 셀룰로이드 공장, 금속품 공장, 법랑( 琺 瑯 ) 공장, 유리 공장, 양산 공장과 같은 영 5) 당시 일본에서 번 돈을 부모에게 송금하는 사람은 뛰어나다 라는 평판을 얻었다. 6) 1924년 당시 조선 농부의 일당은 92전(1전=1엔)이다( 河 明 生 1997:3). - 95 -

세 공장도 많아서 어디서든지 직공이 부족했었다. 그런 까닭에 이러한 부족 노동력을 메우기 위해 제주도 사람들이 오사카로 동원되게 됐던 것이다.[자료2] 192년대에 행원리에서 오사카로 도항했던 사람으로 소위 잘 된 사람은 강치반 씨 한 명이었다. 그는 김춘록 씨의 고모부로, 처음 인쇄공장에 들어가 일을 잘 해서 돈을 벌어 식 당 겸 하숙을 시작했다. 김춘록 씨는 그곳에서 신세를 지며 일을 소개 받았던 행원 사람이 백 명은 된다 고 말한다. 한편, 마을에서 오사카로 가는 사람들이 서로의 사정을 모두 알고 있었던 것은 아니었다. 단지 마을에서는 타니마치( 谷 町 )나 카라호리쵸( 空 堀 町 )라고 하는 지명만은 행원리 사람이 많 이 있는 장소로 귀에 친숙해 있었다. 행원리의 사람들이 특히 모여 살고 있던 타니마치 욘 쵸메( 谷 町 4 丁 目 )에는 강칩 동네 ( 강집 동네 로 강씨 성을 가진 사람들의 동네라는 뜻)라고 부르는 구역이 있었다고 김춘록 씨는 말한다. 이곳을 찾는 사람들에게는 만관당( 万 貫 堂 ) 이 라는 가게가 일종의 표시였다. 행원리 출신자가 모이는 강칩 동네 와 같이 동향 출신의 사람들이 집주하고 있던 지역은 현재의 이쿠노쿠, 그리고 히가시나리구에 걸쳐 있는 이카이노( 猪 飼 野 ) 라 불리는 제주도 출 신자가 집주 하고 있는 지역 뿐만이 아니었다. 1931년 18세 때, 당시 성내( 城 内 )로 불렸던 제주시에서 아이를 한 명 데리고 남편이 있는 오사카에 온 고록산( 高 緑 山 )씨는 시댁의 친척 과 자신의 남동생이 있는 모리마치( 森 町, 현재의 모리노미야< 森 之 宮 > 부근)으로 향했다. 처 음은 그 곳에서 남서로 떨어진 혼죠( 本 庄, 현재의 히가시이마자토< 東 今 里 > 부근)에서 조선 사람 (같은 고향 사람도 제주도 사람도 아닐 때의 표현)으로부터 임대로 다다미 석 장의 방 한 칸을 한 달에 5엔을 주고 1년간 살았다. 남편이 도박을 했던 까닭에 좀처럼 급료를 가지 고 돌아오지 않아 어려웠던 때에 인근의 조선 사람 이 우산을 풀로 붙이는 부업을 가져 와 서 가르쳐 주었다. 그때 번 돈은 그 조선 사람 이 계주( 親 )가 되서 계를 할 수 있게 해주어 모리마치에서 집을 빌릴 수 있었다. 그런데 비어 있는 집이 곳곳에 많이 있었음에도 불구하고 일본인 집주인은 도무지 빌려 주려 하지 않았다. 거기서 옛날 야쿠자처럼 보이는 일본인에 부탁하여 어떻게든 찾아냈다. 그러나 일은 순조롭게 되지만은 않았다. 우선 집세는 고록산 씨가 1년분을 지불하기로 하고, 먼저 오키나와 출신의 사람에게 빌려줬다. 다음으로 그 집의 2층을 세를 놓는다는 전단을 세입자주가 된 오키나와 사람에게 붙이게 하여 고록산 씨가 빌렸다. 그리고 1년 뒤 오키나 와 사람이 집 주인에게 자신이 오키나와에 돌아가 있는 사이 집세는 모두(1층과 2층 모두) 고록산 씨가 지불한다고 알리고 나가 버렸다. 그러한 순서를 거쳐 겨우 고록산 씨는 한 채의 셋집을 사용할 수 있게 되었던 것이다. 당시의 집세는 월 2엔, 유리공이었던 남편의 월 수 입은 35엔이었다. 고록산 씨가 부업을 해도 충당하지 못한다. 거기서 고액의 집세의 변통을 고록산 씨는 2층의 다다미 여섯 장을 나누어 5엔씩 조선 사람 에게 또 빌려 주는 것으로 조 달했다. 이렇게해서 제주도를 비롯하여 조선에서 온 사람들이 집주하게 되는 것이다. 그러한 상황 을 오사카시 사회부 조사과(193)는 보고서를 통해, 일본인 집주인은 조선인이 한 가호에 군집 하기 때문에 쉽게 빌려 주지 않는다 고 기술하지만, 정작 이유는 그 반대이다. 일본인 - 96 -

의 거부가 있기 때문에 사람들은 집주하지 않을 수 없었던 것이다. 고록산 씨와 같이 중간에 오키나와 출신자를 개입시키는 전략이나 다양한 동향 네트워크, 제주도/육지라고 하는 지역 을 넘은 조선인 네트워크 등도 형성 활용하면서, 사람들은 고유의 생활 공간을 형성해 왔다. 집주 지역에는 사람들과 함께 생활 필수품도 모인다. 그렇게 해서 사람들은 각각 돈이나 물 건을 추렴하여, 행원리 출신 사람들과 같이 친목회를 결성해 관혼상제를 치렀다. 그것은 도 시의 거주 공간에 생활 세계로써의 마을을 재현하려고 하는, 출가하는 사람들의 실천 ( 松 田 1996:141)으로써 생성, 응용된 것이었다. (2) 해방 전후의 도일 제2차 세계대전에 돌입하면서 전황이 악화되는 가운데, 도시에 있던 제주도 출신자에게 시골 인 제주도가 피난처가 된다. 1945년에 해방을 맞이하면 제주도로의 이동은 인양 이 되 어, 44년부터 46년 사이의 제주도 인구는 약 5만 3천명이 증가했다( 済 民 日 報 4 3 取 材 班 1994:39). 해방으로 인해 제주도의 생활은 돌연 식민지 경제 구조 밖으로 내던져지게 된다. 식민지 시기 제주도의 생활필수품은 일본으로부터의 송금 및 수입에 의해서 조달되고 있었 다( 伊 地 知 2:86-93). 그러한 흐름이 해방으로 인해 돌연 끊겨져 버리게 된 것이다. 게 다가 귀향 시에 갖고 올 수 있는 재산이 천엔으로 제한 되어졌다. 그 때문에 사람이나 물품 을 반입하기 위해 화물선이나 소형 어선이 현해탄( 玄 界 灘 )을 왕래하고 있었다( 済 民 日 報 4 3 取 材 班 앞의 책:19). 양애정( 梁 愛 正, 1937년생) 씨는 어머니와 남동생 두 명과 함께 45년 에 피난을 통해 본적지인 제주도 하귀리( 下 貴 里 )에 처음으로 살게된다. 아버지와 언니는 46 년에 인양되어 왔는데, 그 때 물건을 매입하여 제주도에서 팔아치웠다고 한다( 藤 永 他 2). 이건삼( 李 健 三 ) 씨는 1937년 오사카에서 태어나 46년에 가족과 함께 제주도 신촌리 ( 新 村 里 )에 귀향했다. 이건삼 씨의 어머니는 4 3이 일어나기 전 해에 마을 내의 불온한 분위 기를 느껴 제주시로 이사 가기를 결심했다. 거기서 일본에 남아 고무 장화 공장을 운영하는 장녀로부터 이사 자금을 조달하기 위해 어머니는 다시 일본으로 갔다가 제주도로 돌아왔다. 이건삼 씨가 당시 왕래는 자유로웠기 때문에 라고 말하는 것처럼 해방으로 인해 돌연 국 경선이 그어졌어도 사람들의 생활 감각에 바로 국경선이 반영됐던 것은 아니었다( 藤 永 他 27). 그러나 실제는 국경선이 성립하고 있는 것이어서 GHQ 당국의 허가를 받지 못하는 외국인의 일본으로의 출입국은 금지되고 있었다. 게다가 일본으로부터의 물자의 반입은 밀 수 로 간주됐다. 당시 미군정의 경찰복으로 갈아 입은 일제의 순경들 이 밀수품을 단속한다 라는 대의명분으로 활동했었다. 그러나 물자 반입을 처분하는 것보다는 뒷거래로 사리를 채 운 것이 많았고, 후에는 이러한 부당이익을 노리는 행위에 미군정 관리나 경찰 고위 간부, 서북청년회와 같은 시설 단체가 더해져 더 많은 폭리 사건으로 연결됐던 것이다( 済 民 日 報 4 3 取 材 班 앞의 책:45). 해방 후 역시 일본에 있는 사람들이 제주도에 있는 사람들을 지 원하는 모습, 그리고 일본과 한반도 양쪽의 점령군이 왕래를 단속하는 상황은 과연 해방 이 란 무엇이었던가를 묻게한다. 이들 경제적 요인에 더해 46년에 콜레라가 발생하고, 생활 피 폐에 쫓겨 흉작이 계속된다. 이러한 상황 속에 도일 재도일하는 사람들이 이어졌고, 결국 46 년 불법 입국 으로 검거된 인원수는 1만 7천명을 넘게된다( 法 務 省 入 国 管 理 局 1959:14). - 97 -

또, 사람들을 일본으로 향하게 하는 요인에는 48년에 일어난 제주 4 3도 깊게 관련돼 있었 다. (3) 밀항에 의한 도일 해방 직후의 도항은 1945년 1월부터 시작되어 46년에는 2만명을 넘게된다. 이는 모두 밀항, 즉 사전허가 없는 도항이었다. 이러한 움직임에 대해 1946년 3월 미군정 장관은 GHQ 에 본국에 귀환한 비일본인은 연합국 최고 사령관에 의해 인가된 경우를 제외하고 통상상의 교통기관을 이용할 수 있을 때까지 일본으로 돌아오는 것이 불허된다 라는 항목을 요청 사항 에 포함시켰다(SCAPIN822)( 伊 地 知 村 上 28:98-99). 1947년 이후의 밀항에는 이후의 제주 4 3과 연관된다. 1947년 3월 1일의 3 1독립 운동 28주년 기념 집회 후, 경찰의 무차별 발포에 의해 어린아이를 포함한 6명의 주민이 희생이 되는 사건이 일어났다 7). 도민들은 민관 총파업을 섬 전체에 전개하며 경찰에 항의했다. 이러 한 움직임을 미군정은 북한과 공모한 것이라고 간주하고 육지부에서 경찰을 동원해 파업 관 련자를 검거하기 시작했다. 제주 사람들에게는 이러한 탄압을 피하기 위한 도항처의 하나가 일본이었다. 전체적인 상황 파악은 불분명하지만, 1947년 5월부터 12월까지 큐슈( 九 州 ) 지 방으로 밀항 선 15척에 479명이 도착했다( 伊 地 知 村 上 28:15-16). 이러한 사람들을 기다리고 있던 것은 1947년 5월에 공포 시행된 칙령 8) 27호인 외국인 등록령 이었고, GHQ 는 이들을 허가 없는 불법 입국자 로 처우했다. 여기서 GHQ의 시각은 점령의 목적에 유해 한 활동을 하는 인물의 흐름이라는 관점에서 치안의 측면에서도 지극히 중요하다 [RG331,GHQ/SCAP Records.]라는 것이었다. ( 伊 地 知 村 上 28:18-19). 이 시기를 중심으로 하여 보고자를 포함한 해방 직후의 재일 제주도 출신자의 생활사 조 사 팀에서는 1999년부터 현재까지 32명에 대해 인터뷰 조사를 실시해 왔다. 그 중에서 28년까지의 데이터인 [자료3]의 사람들 가운데, 김호진( 金 好 珍 ) 씨와 정유현 씨를 제외 한 모두가 밀항으로 도항했고, 고대성 씨를 제외한 모두가 가족 친족에 의지한 도일이었다. 양수옥 씨와 이성호 씨, 고난희( 高 蘭 姫 ) 씨, 강경자( 姜 京 子 ) 씨는 자신 혹은 가족이 무장대 9) 로 활동했기 때문에 도일한 사례. 고봉정( 高 奉 淀 ) 씨는 한국 해군으로 4 3 진압을 위해 제주 도의 해상 경비에 파견됐다가 수장( 水 葬 ) 1) 을 목격하고, 육지부로 돌아온 후에 좌익사상의 저 서를 읽게 되면서 군에 쫓겨 도일한 사례. 양애정 씨는 아버지가 3 1 집회 후의 검거를 우려 하여 도일했고, 그 아버지에 의지하여 진학을 위해 도일한 사례. 이건삼 씨도 진학을 위해서 도일한 경우. 이러한 사정 외에 경제적 이유도 있다. 제주 4 3과 한국전쟁이라고 하는 격변 7) 1947년 3월 1일 제주시에서 개최된 3 1절 28주년 기념 대회 종료 후, 가두 데모로 이어졌던 군중에 대 해 경찰이 관덕정 광장에서 발포해, 6명이 사망, 또 부상자가 옮겨진 도립 병원에서도 이성을 잃은 경찰 관이 무차별 난사하여 일반 시민이 중상을 입는 사건이 일어났다. 미군정과 제주도 민중 운동 세력의 대 립을 심각화시킨 이 사건은 4 3 사건이 발발하는데 도화선 역할을 하게 됐다. 8) 천황의 대권( 大 権 )에 의해 제정 공포된 명령. 9) 오늘날 일반적으로는 1948년 4월 3일에 봉기한 유격대를 무장대, 토벌 진압 작전에 참가했던 군 경 찰 우익청년단 등을 토벌대 라 부른다. 1) 토벌대 가 검거한 무장대 를 배에 태워, 발에 추를 메달아 산채로 바다에 던져 버리는 것을 수장 이라 한다. - 98 -

의 한 가운데인 5년대는 보릿고개 라는 말로 상징되는 기아의 시대였다. 특히 57년은 4 년 만의 대흉작이었다. 이러한 상황 속에서 1958년 12월 17일 밤에는 조천면 신촌( 朝 天 面 新 村 ) 포구에서 일본에 밀항하려고 앴던 9명을 검거 라는 기사가 나와 있다(제주신보 1958 년 12월 2일). 앞에서 언급했던 사람들과는 다른 도일의 배경에는 이러한 생활난도 있다. 또 해방을 전후하여 떨어졌던 가족의 결합이라는 사정도 있다. 1968년 8월 21 일자 제주 신문 에는 일본 특별 체재 신청 이라는 기사가 있다. 내용은 다음과 같다. 김양숙( 金 良 淑, 당시 13세) 씨는 한 살이었던 자신을 제주에 두고 도일했던 어머니에게 가 기 위해 밀항, 그러나 상륙하자마자 출입국 관리 수용소에 수감돼 버려서 제주도내 각계에서 1만명에 달하는 서명 운동이 일어나 인도주의의 관점에서 김양숙 씨가 일본에서 살 수 있도 록 재일한국대사관이 일본정부와 교섭하여 특별 재류 허가를 얻었다. 이 기사는 그녀가 재류 허가를 얻을 때까지 세 번에 걸쳐 게재돼 있다. 이러한 가족 결합 을 위한 도일은 앞에서 언급한 [자료3]에서는 현정민 씨의 사례가 그러하다. 단, 주의할 것 은 이 보고에서 사례로 제시하고 있는 도일의 요인은 직접적인 것으로, 그 배경에는 제국 일 본의 확장과 붕괴라는 역사적 변화가 있다는 것이다. 밀항자 수 그 자체는 1965년 한일 조약을 기준으로 적발 건수가 급감한다( 玄 武 岩 27:17). 그러나 한일국교정상화에 의한 정규 루트의 입국이 가능하게된 후도, 그 루트로 도일하려면 수속이 번잡해서 198년대까지 밀항은 끊이질 않았다. 이러한 해방 후의 밀항에 의한 이동은 일본에서는 물론 한국으로부터도 불법 행위 로 여겨져 비연속적인 처우를 받게 됐다. 한편, 해방 전부터 형성되어 온 생활권 내에서 제주 사람들에게는 연속적인 것이었다. 앞에서 언급했던 김양숙 씨와 같이 가족의 결합을 포함하여, 도일은 다양한 사정에 의한 것 이지만, 무엇보다 생활에 여유가 생겼다 고 실감할 수 있는 198년대( 伊 地 知 1999:13-14)까지, 사람들에게 밀항 이란, 그 불법성을 묻기 이전에 경제적, 사회적으로 선택하지 않을 수 없었던 이동 수단이었던 것이다. (4) 88을 거쳐 88년 서울 올림픽을 거쳐 89년 해외 도항 자유화를 전후하여, 사람들은 비행기를 타고 제 주도에서 일본으로 오게 된다. 3개월의 친족 방문 비자, 그리고 15일의 관광 비자를 이용하 여 한 차례 일을 해서 다시 제주도에 돌아가고, 다시 도일하는 단기 체재 방식의 이동 형태 가 생겨났다. 단, 당초부터 한 차례의 일 을 목적으로 일본을 방문했다고는 할 수 없다. 보 고자가 행원리에서 이 시기 이후의 도일 이유를 물었을 때, 일본에서 남동생이 하고 있는 어머니의 제사에 한 번 얼굴을 비추고 싶어서, 조카의 결혼식 때문에, 형의 소상( 小 祥 )에 아들과 함께, 마을의 밭 관리 문제로 상담하기 위해 등등 출가 외의 다양한 대답을 들을 수 있었다. 그래서 가족이나 친척의 심부름으로 시작하여 근처의 공장으로 옮길 수도 있었 다. 물론 그 중에는 비자 기간이 끊겨도 그대로 불법 체재 하는 사람들이 있다. 보고자가 94 년에 행원리를 처음으로 방문했을 당시, 내가 간사이( 関 西 ) 공항을 만들었어, 츠루하시( 鶴 - 99 -

橋 )에 츠루이치( 鶴 一 ) 라는 불고기 집이 있을 거야. 내가 거기 있었거든 이라는 얘기를 거리 낌없이 들을 수 있었다.[자료4] 그 가운데 한 명. 3세(9년 당시) 때 오사카의 친척에 의지하여 사촌과 함께 도일했던 희진이 아방 (희진의 아버지)은 그 후 3년동안 불법 체제 하고 있었다. 희진이 아방 은 당 초 친척이 빌려 준 오사카시 이쿠노쿠의 아파트에 들어갔지만, 일을 찾는 것은 자기 몫이었 다. 츠루하시에는 그와 같이 불법 체재 하는 사람끼리 정보를 교환하고 생활 용품을 판매하 는 장소가 있다. 거기서 희진이 아방 과 같은 불법 체재 자를 고용해 주는 자갈 채집 업자 나 전기 공사 회사 등으로부터 정보를 얻어 일을 해왔다. 그와 같은 사람들에게는 살 집을 찾는 것 또한 상당한 고생이 필요했다. 1989년 이후 비행기로 사람들이 오기 이전부터 셋 방 놓기 가 있었다. 이쿠노쿠에서 인터뷰했던 여성도 당시 아는 사람으로부터 소개받아 불 법 체재 하는 사람에게 2층의 방을 빌려 줬었다. 92년 당시 66세 이상의 한국적 조선국적 사람들은 일본의 국민연금제도에서 배제되어 있어 7) 셋방을 놓으면서 얻는 현금 수입은 생계 의 버팀목이 되었다. 사실 이러한 셋방 놓기 는 이미 해방 전부터 실천되고 있었던 것이다 ( 伊 地 知 25:89-9). 3. 나가며 일본에 거주하는 사람들의 생활은 거주하는 일본과 국적국( 国 籍 国 ), 본적지 각각으로부터 규제를 받지 않을 수 없다. 이러한 생활 그 자체를 카지무라 히데키( 梶 村 秀 樹 )는 국경을 넘는 생활권, 나아가서는 정주 외국인으로서 고국과의 유대는 관념이나 의식 이전에 우선 생활의 실태로서 있는 것이다. 그것은 역사가 형성시킨 것이지, 본인에게 책임 여하라는 도 리의 문제는 아니 라고 주장하고 있다( 梶 村 1985:27). 제주도 출신자의 해방 이후의 역사 를 보면 국경을 넘는 생활권 은 확실히 생활 상의 필요로부터 유지되어 왔기 때문이다. 국경을 넘는 생활권 에서의 사람들의 이동에는 경제적 이유와 진학, 가족과의 재회, 재산 이나 제사의 관리 등 생활과 관련되는 다양한 사정이 따르고 있었다. 최근 단기 체재형의 도 일자도 증가하고 있지만, 제주도의 경험에서 보면 그러한 사람들을 단지 체재 기간으로 분류 하는 것 만으로는 불충분하다고 말할 수 있겠다. 물론, 스기하라( 杉 原 )가 지적하듯이 나날의 현실 속에서는 다양한 재일의 역사가 부딪치고, 예를들면 합법/비합법의 분절에 의해 배타적 관계의 재생산도 보여진다( 杉 原 1998:31 伊 地 知 25:342-346). [참고 문헌] 済 民 日 報 4 3 取 材 班 19941994=1994 文 京 洙 金 重 明 済 州 島 四 三 事 件 第 一 巻 新 幹 社 24 金 蒼 生 訳 済 州 島 四 三 事 件 第 六 巻 新 幹 社 藤 永 壮 1999 植 民 地 期 済 州 島 の 実 力 養 成 運 動 団 体 とその 人 員 構 成 192 年 代 を 中 心 に ( 大 阪 産 業 大 学 大 阪 産 業 大 学 論 集 社 会 科 学 編 113 号 pp67-9 藤 永 壮 高 正 子 伊 地 知 紀 子 鄭 雅 英 皇 甫 佳 英 張 叶 実 2 解 放 直 後 在 日 済 州 島 出 身 者 の 生 活 史 調 査 (1 上 ) 梁 愛 正 さんへのインタビュー 記 録 大 阪 産 業 大 学 論 集 人 文 科 学 編 12-1 -

号 pp.57-74 藤 永 壮 高 正 子 伊 地 知 紀 子 鄭 雅 英 皇 甫 佳 英 高 村 竜 平 村 上 尚 子 福 本 拓 塚 原 理 夢 李 陽 子 27 解 放 直 後 在 日 済 州 島 出 身 者 の 生 活 史 調 査 (4 上 ) 李 健 三 さんへのインタビュー 記 録 大 阪 産 業 大 学 論 集 人 文 科 学 編 122 号 pp.99-124 廣 瀬 勝 1926a 在 阪 朝 鮮 人 と 済 州 島 ( 一 ) ( 大 阪 府 社 会 課 社 会 事 業 連 盟 社 会 事 業 研 究 第 14 巻 第 5 号 1926b 在 阪 朝 鮮 人 と 済 州 島 ( 二 ) ( 大 阪 府 社 会 課 社 会 事 業 連 盟 社 会 事 業 研 究 第 14 巻 第 6 号 法 務 省 入 国 管 理 局 1959 出 入 国 管 理 とその 実 態 昭 和 34 年 度 版 玄 武 岩 27 密 航 大 村 収 容 所 済 州 島 大 阪 と 済 州 島 をむすぶ 密 航 のネットワーク 現 代 思 想 第 35 巻 第 7 号 pp.158-173 伊 地 知 紀 子 2 生 活 世 界 の 創 造 と 実 践 韓 国 済 州 島 の 生 活 誌 から 御 茶 の 水 書 房 25 営 まれる 日 常 縒 りあう 力 語 りからの 多 様 な 在 日 像 藤 原 書 店 編 集 部 編 歴 史 のなかの 在 日 pp.337-355 藤 原 書 店 伊 地 知 紀 子 村 上 尚 子 28 解 放 直 後 済 州 島 の 人 びとの 移 動 と 生 活 史 - 在 日 済 州 島 出 身 者 の 語 りか ら 蘭 信 三 編 日 本 帝 国 をめぐる 人 口 移 動 の 国 際 社 会 学 不 二 出 版 pp.87-145( 村 上 担 当 分 は 第 1 節 から5 節 伊 地 知 分 担 分 は4 節 から6 節 ) 梶 村 秀 樹 1985 定 住 外 国 人 としての 在 日 朝 鮮 人 思 想 732 号 岩 波 書 店 河 明 生 1997 韓 人 日 本 移 民 社 会 経 済 史 明 石 書 店 金 賛 汀 1982 朝 鮮 人 女 工 のうた 193 年 岸 和 田 紡 績 争 議 岩 波 書 店 高 鮮 徽 1998 2 世 紀 の 滞 日 済 州 島 人 その 生 活 過 程 と 意 識 明 石 書 店 大 阪 市 社 会 部 調 査 課 193 本 市 に 於 ける 朝 鮮 人 住 宅 問 題 桝 田 一 二 1976 桝 田 一 二 地 理 学 論 文 集 弘 詢 社 松 田 素 二 1996 都 市 を 飼 い 慣 らす アフリカの 都 市 人 類 学 河 出 書 房 文 京 洙 25 済 州 島 現 代 史 公 共 圏 の 死 滅 と 再 生 新 幹 社 成 律 子 1994 オモニの 海 峡 彩 流 社 杉 原 達 1998 越 境 する 民 近 代 大 阪 の 朝 鮮 人 史 研 究 新 幹 社 在 日 本 朝 鮮 人 人 権 協 会 24 在 日 コリアン 暮 らしの 法 律 Q&A 日 本 加 除 出 版 株 式 会 社 善 生 永 助 1929 生 活 状 態 調 査 ( 其 二 ) 済 州 道 朝 鮮 総 督 府 済 州 新 聞 1968 年 8 月 21 日 付 済 州 新 報 1958 年 4 月 6 日 付 1958 年 12 月 2 日 付 - 11 -

[자료1] 제주도 잠수의 출가처 지도(1932 年 ) (출전 : 桝 田 1976:79) [자료2] 일본으로 출가했던 제주도인의 직업별 인구(1934년) - 12 -

[자료3] 해방직후의 재일제주도출신자의 생활사조사 에 의한 이동 역사 양수옥 씨 : 1917년 제주출생 1925년 교토( 京 都 ) 1929년 제주도 1934년 오사카 1936년 도쿄 1937년 천진( 天 津 ) 1946년 47년 인천( 仁 川 ) 목포( 木 浦 ) 제주도( 済 州 島 ) 오사카( 大 阪 ) 이성호 씨 : 192년 제주도 출생 1935년 와카야마( 和 歌 山 ) 아마가사키( 尼 崎 ) 1938년 제주도 1942년 아마가사키 1944년 제주도 1948년 오사카 제주도 1949년 오사카 김호진( 金 好 珍 ) 씨 : 192년 제주도 출생 1941년 오사카 김옥환 씨 : 1921년 스이타( 吹 田 ) 출생 193년 제주도 196년 오사카 김춘해( 金 春 海 ) 씨 : 1922년 제주도 출생 1928년 오사카 1946년 제주도 1957년 오사카 고봉정( 高 奉 淀 ) 씨 : 1925년 제주도 출생 광주( 光 州 ) 1949년 제주도 195년 나주( 羅 州 ) 오사카 현정민 씨 : 1928년 제주도 출생 1942년 오사카 1944년 규슈( 九 州 ) 1945년 오사카 1947년 제주도 1949년 오사카 정유현씨 : 1929년 제주도 출생 1943년 오사카 고난희( 高 蘭 姫 ) 씨 : 193년 니시노미야( 西 宮 ) 출생 1946년 제주도 1948년 오사카 박인중( 朴 仁 仲 ) 씨 : 1933년 제주도 출생 한국전쟁 후에 의정부 1964년 오사카 김덕인( 金 徳 仁 ) 씨 : 1936년 오사카 출생 해방 전에 제주도 한국전쟁 후에 의정부 1964년 오사카 양애정( 梁 愛 正 ) 씨 : 1937년 오사카 출생 1945년 제주도 1953년 부산 제주도 1955년 부산 오사카 강경자 씨 : 1937년 오사카 출생 해방 직전에 제주도 195 1952년 오사카 이건삼( 李 健 三 ) 씨 : 1937년 오사카 출생 1946년 제주도 1957년 카코가와( 加 古 川 ) 오사카 고대성 : 1937년 제주도 출생 1957년 오사카 기울어진 굵은 글씨는 1945년 8월 15일 이후의 이동 - 13 -

[자료4] 제주도 행원리 상동( 上 洞 )의 도일경력 (출전 : 伊 地 知 2:123) - 14 -

부산이주민의 정착과 생활 네트워크 -호남출신자를 중심으로 차철욱(부산대) [目 次] 머리말 4. 영도와 호남 사람들 1. 호남인의 이주와 지역감정 5. 정착과 향우회의 역할 2. 호남-부산의 교류와 海域圈 맺음말 3. 선원들의 이주와 생활네트워크 머리말 부산 사람은 크게 피난민, 호남인, 부산 인근 경상도 사람들로 구성되어 있다. 부산 구성 원이 다양하다는 점은 부산의 로컬리티를 규정짓는 중요한 변수가 될 수 있다고 생각한다. 이주민들의 부산이주와 정착에 관심을 가지는 것은 로컬리티 연구에서 의미있는 작업이라 할 수 있다. 이 가운데 호남인들의 이주는 식민지시대부터 확인된다. 그런데 196년대 197 년대 한국의 정치적인 이유로 시작된 지역주의는 호남인들의 부산정착에 또 다른 요소로 작 용했을 가능성이 있다. 호남인들의 이주는 크게 서울과 부산으로 진행되었다고 한다. 특히 부산으로 이주한 호남 인들은 전라남도 해안가에 거주하면서 선원을 직업으로 선택한 사람들이 많았다고 한다. 선 원들 대부분은 영도에 정착하였다. 영도는 개항 이후 사람들이 살게되었다. 제주도와 전라도 출신자들이 많이 살았다고 한다.1) 영도에는 바닷가 사람들이 주로 이주와서 살았던 것으로 보인다. 전라도와 영도가 바닷길로 연결되어 있었다. 이와 같은 해역권이 육지의 지리적 구 분에 따른 정치적 경제적 구획에 대응해 어떤 의미로 작용하는지 살펴볼 필요가 있다. 해역권을 기초로 한 호남인들의 이동과 정착 과정에서 형성된 생활 네트워크는 영도의 특 성을 규정짓는 중요한 요소이다. 생계형 네트워크, 향우회, 기타 다양한 네트워크를 확인하 는 작업은 영도에서 살아가는 호남인들이 영도에 정착하는(만드는) 방식을 이해할 수 있게 한다. 이번 발표는 모든 호남인들을 대상으로 할 수 없어, 전라남도 고흥군 나로도 출신자를 중 심으로 하고, 완도군 청산도 출신자들을 보충하였다. 1) 김재승, 그림자섬(影島)의 숨은 이야기, 전망, 25, 42쪽. 15

1. 호남인의 이주와 지역감정 부산에 이주한 호남인은 현재 약 8만 명이라고 한다. 본 연구의 주요 대상인 영도의 경 우에는 가장 많을 때, 1981년대 중반 약 5만 명이었다고 한다. 영도 전체 인구 약 2만 명 을 고려할 때 적지않다. 근대화 과정에서 호남인들이 부산으로 이주하는 계기는 긴 역사를 가지고 있을 것으로 보 인다. 일제 식민지시대에도 인구의 이동이 많았기 때문이다. 오늘날 생존한 사람들의 기억에 의존해 보면 귀환동포, 한국전쟁 피난민, 유랑민 등의 형태로 한국현대사에서도 호남인들의 이주가 계속되었다. 한 사례연구에 따르면 호남 사람들의 이주는 직장, 교육, 가족 요인의 순인데, 부산으로 이주에 영향을 미친 요인으로는 친지나 아는 사람, 부모나 자식이 살고 있 다고 하는 네트워크가 중요하였다. 2) 이러한 이주와 정착에는 근원적인 문제로 자본이나 문 화 이외에 작동하는 정치적인 논리는 또다른 변수로 작용할 수 있다. 특히 영호남이라는 관 계는 한국현대사에서 지역주의, 지역갈등이 존재하고 있어, 이주민들의 정착에 중요하게 기 능하게 된다. 영호남의 갈등 요인을 긴 역사적인 흐름 속에서 찾아보는 연구도 있으나, 196,7년대 근 대화 과정에서 드러난 차별적 경제혜택에 대한 호남 사람들의 불만과 피해의식, 여기에 대한 영남의 우세한 입장에 대한 방어의식으로 더 고조되었던 것으로 보인다. 3) 197,8년대 정 치적 경쟁관계까지 추가되면서 양 지역의 감정대립은 한국사회의 중요한 현안이되어 있다. 무엇보다 양 지역 사이의 갈등에 근대국민국가가 강하게 개입되어 있고, 통치의 논리가 작동 하고 있음을 부정할 수 없다. 부산에서 호남인들이 경험한 지역차별의 유형은 인간적 모독과 금전 거래의 불이익, 취업 상 불이익, 승진상 문제, 소속집단으로부터 따돌림 등이었다. 본 조사에서 지역차별을 경험 한 구술자들은 대체로 회사원들이 많았다. 동명목재(A)와 연합철강(B)에서 근무한 호남인들 은 승진이나 회사 내 업무처리와 관련하여 배제되었다고 한다. 모두 197년대로, 결과적으 로는 회사를 그만두고 개인 사업을 하게 되는데, 개인적인 네트워크를 활용하는 업종을 선택 하였다. A씨의 경우에는 같은 회사 직원을 상대로 하는 술집을, B씨의 경우에는 같은 고향 사람들이 운영하는 건축업자와 거래하는 철근 판매업을 경영하였다. 부산으로 이주해 오는 초기 직장을 구하려고 할 때 호남사람이라는 이유로 취업을 거부당한 사례도 확인할 수 있 었다. 심지어 C씨는 총각으로 생활하면서 결혼을 위해 맞선을 봤는데, 아가씨측의 아버지가 호남 사람이라는 이유로 반대하자 자리를 박차고 나왔다고 한다. 4) 지역감정이 직업 선택에 서만 아니라 결혼에서도 영향을 미쳤다. 호남 사람으로서 받는 차별은 영도에서도 마찬가지 였다. 유삼종은 영도 해안가에 위치한 철공소에 일자리를 부탁했으나 거절당했다고 한다. 대 체로 196, 7년대 직업 선택과정에서 차별을 받은 경우를 확인할 수 있었다. 호남 사람이라는 인지는 말투에서 확인 가능했다. 그래서 말투를 바꾸는 사람까지 있었다 2) 차민석, 지역감정에 대한 호남출신 이주민들의 경험 연구-부산지역 호남출신 이주민들을 중심으로-, 동아대 사회학과 석사논문, 1997, 18쪽. 3) 김혜숙, 지역간 고정관념과 편견의 실상, 심리학에서 본 지역감정, 성원사, 1988, 129 13쪽. 4) 박남현 증언. - 16 -

고 한다. 이번 조사에서 말투를 바꾼 사람을 만나지 못했으나, 몇 사람들의 구술에서 확인 가능하였다. 물론 말투를 바꿔버린 사람들을 언급할 때 말하는 당사자는 그런거 신경안써 저는 절대 안합니다 로 자신은 강하게 부정한다. 5) 전라도 어투의 변화를 경상도 어투와 섞 여 가는 과정으로 생각할 수도 있겠으나, 자신을 감추기 위한 정치적 과정일 수도 있다. 영 도의 경우는 아니지만 정치적 이유로 부산에 이주한 한 유랑민의 사례에서 전라도 어투가 거의 없음을 발견할 수 있었다. 어투의 변화가 생존을 위한 하나의 전략이었음을 확인할 수 있다. 지역감정과 관련해 호남 사람들은 구조적인 문제로 보기보다는 개인적인 차원으로 취급하 려는 생각이 지배적이었다. 자신의 노력이 중요하다느니, 신용을 강조한다. 이주민이라는 신 분 즉 떠돌이를 누가 고용하겠느냐는 지적에서 차별의 문제를 호남 사람 자신들에게 두려는 의식적인 화법도 확인할 수 있다(녹취 담당자가 경상도 사람이라는 점). 경제적으로 돈을 벌 고, 집도 사고 해서 당당하게 살았음을 강조하여 차별을 못느꼈다는 구술자도 많았다. 하지 만 이번 구술과정에서 호남사람들이 지니고 있는 감정 또한 발견할 수 있었다. 특히 정치적 으로 일반적인 호남의 정서와 일치하는 구술이 대부분이었다. 이들의 정치적 행보도 그랬다. 지역차별에 대한 반감은 오히려 차별에 대응하는 또 다른 생존 논리를 만들어 냈다. 지역감정은 결국 향우회 결성이나 참여로 연결되었다. 이 문제는 뒤에서 다시 언급하기고 한다. 2. 호남-부산의 교류와 海 域 圈 본 장에서는 호남사람들의 이동을 육로보다는 해로, 육지와의 관련성 보다는 바다와의 관 련성에 두고 설명해 보려고 한다. 육지에 구획된 지역 구분이 지역 감정을 만들어 냈다면, 바다를 매개로 한 생활권에는 이러한 지역 감정이 어떻게 작동했는가를 확인하기 위해서다. 해역은 육상의 국가나 좁은 지역사회를 넘어 국가, 종교, 문화 등을 달리한 다양한 사람들에 의해 이동과 생활을 위한 공유물이고, 동시에 보다 넓은 범위와 원격지에 걸친 만남과 교류 5) 박정남, 고금불 증언. - 17 -

의 주무대였다. 6) 이런 점에서 해역에 포함되어 있는 섬은 고립과 제한된 영토라기보다 바다 를 통해 외부와 연결되어 사람과 물자, 정보가 왕래하는 공간이었다. 7) 본 장에서는 전라도의 다도해 가운데 하나인 고흥군 나로도와 부산의 대표적인 섬인 영도와의 관계를 분석 대상으 로 한다. 완도 청산도, 고흥 나로도 그 두 지역의 사람이, 영도에는 향우회에서도 주 목적으로 인구가 많애요. 그래 인제 주로 보며는 그쪽 사람들이 주류를 이루고 살고 있는데, 와중 에 보성, 장흥, 해남, 강진 뭐 하여튼 남부지방 사람들이 많이 살아요. 전라북도 우로는 드물고, 어짜다 하나씩 계시고... 주류는 주로 말했던 완도 청산 고흥 나로도 그 분들은 말하자면 수산계통에 많이 계셔가지고 배를 많이 탔기 때문에 가족과 같이 많이 건너왔 어요. 그 이후로는 나같은 사람은 서울서 살다가 직장 때문에 부산에 왔는데, 내 같은 사람은 드물고, 저도 여기서 근 사십년 다 되어 가는데, 향우들이 많이 사는 것은 사실 이예요, 영도에.(박종문) 위 구술은 영도에서 생활하는 호남인들의 대부분은 완도 청산도와 고흥 나로도와 같이 바 다를 접하고 있는 지역 출신이라는 점을 확인시켜 준다. 그리고 이들의 집합지가 영도라는 점도 흥미를 제공한다. 필자는 구술자들에게 서울과 부산으로 간 나로도 출신자들의 특징을 질문해 봤다. 서울 간 사람들은 대부분 부자들이고 교육열이 강한 집안 사람들이라고 한다. 대표적으로 한국 수산업계에서도 잘 알려진 지철근 8) 씨 같은 경우를 거론한다. 부산으로 온 본인들은 빈촌에서 태어나서 배를 타다 보니까 부산으로 왔다고 한다. 그러면 수산업을 매개 로 하는 나로도와 영도는 어떤 관계가 있었을까. 나로도가 수산업이 발달하게 된 것은 개항 이후 일본인 어민들의 조선 진출과 관련이 있 다. 나로도에 일본인 이주어촌이 창설되는 것은 1894년 처음 확인된다. 자유이주어촌이었다. 동일한 내용인지는 확인할 수 없으나 다른 자료에는 봉래면 축정리에 이주어촌이 만들어졌 는데 호수가 27호, 남자 52명,여자 44명, 총 일본인 96명이 살고 있었다. 9) 그리고 일본인으 로 조선 수산업계에서 두각을 드러내는 中 部 幾 次 郞 의 활동 또한 나로도의 수산업 발전과 관 련있다. 그는 197년 사량도에서 일본 어민들로부터 갯장어를 수집해 일본 오사카로 운반하 면서 점차 근거지를 나로도까지 확대하였다. 나까베는 1915년 방어진으로 근거지를 옮기면 서 나로도에는 대리인 경영을 하였다( 林 兼 商 店 지부). 그리고 나로도전기(193년 설립)도 운 영하였다. 나로도 신금리에는 아직도 일본인들이 살았던 주거 배치가 그대로 유지되고 있다. 일제시대 나로도는 수산업에서 중요한 위치를 차지하였고, 해방 후에도 정부가 지정하는 어 업전진기지였다. 대규모 통조림공장도 만들어졌다. 마을 사람들은 육영수여사의 조카가 경영 6) 家 島 彦 一, 海 域 から 見 た 歷 史, 名 古 屋 大 學 出 版 會, 26, 2쪽. 7) 이경엽, 한국 도서 해양민속 연구의 시각과 쟁점 島 嶼 文 化 32, 28, 6쪽. 8) 지철근(1913 )은 외나로도 염포리 출신으로 일본 北 海 道 大 學 의 수산학부를 졸업하고, 미군정기와 1공화국 때 수산관료를 지냈다. 1961년 한일회담 어업수석대표를 맡았으며, 1972년 북양수산주식회사를 설립해 원양어업 에 투자하였다(지철근, 月 海 池 鐵 根 博 士 나의 水 産 人 生, 한국수산신보사, 1998). 9) 김수희, 근대 일본어민의 한국진출과 어업경영, 경인문화사, 21, 77쪽. - 18 -

했고, 박정희대통령이 사망하자 곧 부도가 났다고 기억한다. 일제시대 나로도에서 어획되는 어종은 조기, 鰕 (새우), 鱧 (하모) 등 이었다. 주요 시장은 일본, 중국이 중심이고, 조선 내륙 으로도 팔려 나갔다. 어업에 종사한 어민은 전체 1927년 현재 섬 주민 9천 286명 가운데 2 천 839명이었다(일본인 49명). 1) 일제시대 나로도는 섬이어서 부산과 육지로 연결되지 못했다. 동쪽으로 여수, 삼천포, 통 영 등지를 경유하야 마산, 진해만, 부산으로 가는 기선과 서쪽으로는 풍남, 녹동을 경유하여 완도, 목포 방면으로 가는 발동선 등이 매일 왕래하였다. 11) 이 시기 바다를 매개로 하는 부 산과 호남 사이 사람들의 이동을 자극했다. 부산에 살던 일본인들의 호남 이주는 물론이고 호남에 살던 조선인들의 부산 이주도 있었다. 전남 해안과 도서출신으로 어업 종사자들이 영 도에서 살고 있었다고 한다. 해방과 한국전쟁 이후에도 이 지역 출신자들의 부산에서 생활은 호남인들의 회고를 통해 확인되고 있다. 12) 해방이되자 나로도에서 어획된 수산물을 소비할 수 있는 시장이 없어졌다. 중국과 일본 시 장이 없어졌기 때문이다. 195년 이후 일본으로 수산물의 수출이 이루어지기는 했지만 많은 양은 아니었다. 일제시대부터 일본식 근대 어업을 경험한 나로도 주민들은 해방 후에도 많은 사람들이 어업에 종사했다. 필자의 면담자 대부분은 부친이 어업에 종사하였다. 해방 후 부 산 영도와 나로도 어민들이 관계를 맺는 것은 저인망이라는 어업기술과 판로와 관계가 있었 다. 나는 중학교 나와서 부산에서 나로도 살아도 저인망 배 타가지고 살았는데, 그걸 모델 로 해가고, 저인망, 초등학교 다닐 때 부산에 와서 고기팔고 그랬거든요, 보름만에 배가 들랑말랑하고 그랬어요, 고기 바다에 장어 잡아가지고 부산서 팔고, 그 다음날 시쿠미해 서 나로도 하루저녁 자고 출어하고 그런걸 보고 자랐어. 부산에도 한번씩 따라서 오고, 또 거기 이제 그때는 데구리배를 돈벌이가 좋아가지고, 백이 없으면..배를 못탔어요. 배 를 타면 다 먹고 살고, 내가 그런걸 보고 살았는데...(박정남) 위 구술 내용은 구술자가 초등학교 시절 즉 195년대 나로도 어선들이 부산에서 판매하 고 어로 준비를 하는 내용이다. 여기서 주목할 것은 저인망어업법이다. 구술자들은 한결같이 한국의 저인망(고데구리)어업이 나로도에서 시작되었다고 믿고 있다. 이승만대통령 때 지철근이 수산국장을 했는데, 저인망 데구리배와 트롤선을 일본에서 도입했 다고 생각한다. 13) 저인망 어업법은 일제시대부터 존재했었다. 다만, 해방 후 어선과 기술이 부족했던 당시에 지철근이 선박을 구입해와 고향 나로도 선주들이 운영했던 것으로 보인다. 나로도 사람들에게 저인망은 굉장히 돈을 많이 벌어다 주는 어업법으로 인식되어 있었다. 한편 195년대에는 나로도를 근거지로 해서 어획한 고기는 부산 어시장에서 판매되었다. 판매 시장, 어로작업 준비(기름, 부식)는 대도시에서만 가능했다. 14) 나로도나 인근의 여수는 1) 동아 1927.6.16(4)2 11) 동아 1929.6.2(4)4 12) 재부호남향우회, 사십년회사(1964 24), 대산출판사, 24, 69쪽. 13) 김치빈 증언. - 19 -

소량은 가능했지만 대규모 어로를 위해서는 적합하지 못했다. 부산으로 근거지를 옮기는 선 주들이 증가하였다. 조방률씨가 기억하는 내용으로는 1966년 군 제대를 했을 때 자신의 외삼촌을 비롯해 많 은 저인망 선주들이 나로도에서 부산으로 근거지를 옮겼더라고 한다. 15) 나로도에서 유명한 저인망 선주였던 최월권씨도 부산으로 옮겼다고 한다. 한편 섬 사람들이 이용하는 교통 수단은 여객선이었다. 부산과 목포 사이를 왕래하는 여객 선이 198년대 초까지 운행하였다. 나로도와 청산도와 같이 외딴 섬은 자주 왕래하지는 않 았으나 여수를 기점으로 한 여객선은 적지 않았다. 박정남은 당시 타고 다니던 배를 갑성호, 금양호로 기억했고 유삼종은 태안호, 강화호로 기억하였다. 주로 밤을 새워 운행했다고 기억 한다. 3. 선원들의 이주와 생활네트워크 네트워크 연구는 거시적인 구조에 가려져 있던 개인적인 관계의 효율성을 재발견했다는 점에서 주목을 받고 있다. 16) 생활네트워크에 대한 관심은 특히 이주민들에게 직업과 정착이 라는 측면에서 중요하다. 네트워크는 도시에서 살아가는 사람들에게 도시 생활에 적응할 수 있도록 해 준다는 점에서 중요한 역할을 한다. 영도에 정착하는 나로도 사람들의 생활네트워 크 작동방식을 확인할 필요가 있다. 부산에 정착한 나로도 사람의 대부분은 선원이었다. 다음 표는 24년 무렵 간행된 회원 명부에 소개된 나로도 사람들의 직업구성이다. 부산거주 나로도 출신자들의 거주지역과 직업 거주 지역 직업 출신지역 영도 기타 선원 기타 동광 6 14 9 11 신금 1 9 15 4 봉호리 6 2 8 - 사양 8 2 1 - 내외초 6 2 5 3 소영 18 7 22 3 백양 6 2 6 2 대영 3 1 3 1 봉남 16 2 18 - 자료: 재부나로도향우회, 회원명부 위 표에서 확인할 수 있는 것처럼 나로도 출신자들의 직업은 대부분 선원의 경험을 가졌 음을 알 수 있다. 그리고 거주 지역 또한 대부분 영도로 집중된다. 오늘날 7세를 전후한 사람들이 부산(영도)으로 이주한 시기는 대체로 197년대 초였다. 14) 보름에 쌀 1가마 정도(약 2명 분) 15) 조방률 증언. 16) 김선업, 한국사회 연줄망의 구조적 특성, 한국사회학, 26집(여름호), 1992, 2 3쪽. - 11 -

이들이 기억하는 8대 후반의 선배 선원들은 196년대 이주한 것으로 기억하고 있다. 17) 그 런데 이 보다 앞서 선원은 아니지만 영도에서 생활하던 나로도 사람들도 있었다. 박종문의 고모는 일본에서 귀환한 이래 영도에서 한진중공업(대한조선공사)에서 밥벌이를 하면서 살았 다고 한다. 앞서도 언급한 것처럼 부산으로 선원생활을 위해 이주한 나로도 사람들은 가정 형편이 그 다지 넉넉하지 못한 경우였다. 가정 환경 때문에 중학교나 고등학교를 중퇴한 경우도 확인할 수 있었다. 물론 학교를 다닐 수 없어 혼자서 독학하여 검정고시를 거쳐 상급학교에 진학하 는 경우도 있었다. 이러한 가정환경에서 성장한 사람들은 돈을 많이 벌 수 있는 직업으로 선 원을 택하였다. 대부분 어릴 때부터 마을에는 어민들이 많았고, 부친이 어업에 종사하는 것 을 보면서 자랐기 때문에 본인들로서도 그다지 생소한 직업은 아니었다. 부산으로 배타러 오 는 사람들도 나로도에서 일정 정도 배를 탄 경력을 가진 사람이 많았다. 나로도는 배들이 소 형이고, 규모가 적었다. 큰 배를 타는 것이 돈을 많이 번다는 생각으로 연결되었다. 197년 대 초 배를 타는 것이 초등학교 교사 봉급의 세 배였다고 한다. 18) 조칠용은 영도에서 조선 소 목수로 일을 했으나, 1년간 어선을 탄 적이 있다. 조선소 목수보다는 선원의 수입이 좋아 잠깐 배를 탔다고 한다. 나로도 사람들이 부산 이주를 결심하게 되는 데는 여러 가지 개인적인 사정이 있겠지만 대체로 미혼인 경우에는 수입이 가장 중요하게 작용했다. 19) 결혼하고 자식이 있는 경우에는 수입도 중요했지만 자식들 교육문제도 고려하지 않을 수 없었다. 2) 198년대 나로도 주민을 상대로한 조사연구에서도 소득이 고향을 떠나는 중요한 이유였다. 21) 나로도를 떠나려는 사람들에게 부산과 관련한 정보는 중요하였다. 자신이 탈 수 있는 배를 찾고 선택하는 일, 이주를 할 경우 정착할 공간을 마련하는 일 등은 이주민들이 일차적으로 고민해야할 중요한 요소였다. 구술자들 대부분이 부산으로 배를 타러 올적에 친척이나 친구들의 도움을 받았다. 박정남 처럼 어릴적부터 아버지를 따라다니면서 통신장이 되기를 기원하면서, 친구들과 통신학교를 다닌 경우도 있었다. 특히 선장 가운데 아는 사람이 있으면 보증수표였다. 선주나 선장의 입 장에서도 고향 사람들을 더 믿을 수 있다는 생각이 강했다. 따라서 나로도 선장 혹은 선주가 운영하는 배는 대부분 나로도 선원들로 채워졌고, 간혹 경상도 사람들이 한 두 명씩 승선하 기도 했다고 한다. 반대로 선장의 입장에서도 고향 사람들을 승선시키는 것이 여러 가지로 중요해서 고향 인맥을 동원하였다. 나로도 사람들이 인맥으로 탈 수 있는 배는 어선 종류였 다. 조방률이 탔던 화물선과 원양어선은 나로도 사람들의 후원이 있어도 쉽지 않았다. 이들 선박은 소개소를 통해 승선할 수 있었다. 어선과 나로도 선원 사이의 연결은 다른 형태로도 이루어졌다. 뭍에서 선구점업으로 전환했던 조방률은 고향 선주들과 거래를 하면서 주업 이 외에 선원 소개까지 담당했다. 17) 김치빈, 조방률 증언. 18) 박정남 증언. 19) 박정남 증언. 2) 고금불 증언. 21) 金 在 棊, 羅 老 島 地 域 住 民 指 導 者 들의 態 度 調 査 硏 究, 南 道 文 化 硏 究 2, 1986.12. 38 39쪽. - 111 -

선원의 이주는 가족 이주를 동 반하였다. 시간적인 차이는 있을 수 있지만, 대부분 남자의 이주 를 따르는게 일반적이었다. 영도 로 가족이 모이는 것은 앞서 와 있던 고향 사람들이 인맥에서 주 거지 마련이 용이하였다는 점, 무엇보다 선원인 남자들이 탄 배 가 들어오는 곳이 영도 대평동 굴강이었다. 영도에 모여살던 나 로도 출신자들은 배 사업이 위축 된 이후 타 지역으로 옮겨갔다. 영도에서 가까운 대신동이나 장림, 사하 등으로... 영도의 인구 변화는 197년대 중반 이후 약 21만 명에서 1984년 22만여 명으로 최고치 를 기록하였다. 그 이후 조금씩 감소하기 시작하여 1997년 이후에는 급감한다. 여기서 영도에서 살아가는 나로도 출신자들에게 고향은 선주가 선원을 조달하고, 선원이 일자리를 구하면서 영도 사람으로 살아가는데 필요한 존재였다. 구술자들이 고향을 떠나온 이후 고향과 관계맺는 방식은 선산찾기 정도로 평균 1년에 1-2회에 지나지 않았다. 생활에 서 고향이 지니는 의미는 퇴색되고 있다는 것을 의미한다. 어선의 조업은 1년에 1개월, 월을 단위로 15일 조업하고 약 5일 쉬고 또 출어하는 형식 이었다. 조업을 위해 배에서 생활은 절대적으로 많았다. 우선 나 얘기 안합디까, 손 시려운거. 그러고, 저인망 댕기모요, 지금은 그물을 끈다 합디만요, 그때는 낮에는 한시간반, 밤에는 두시간, 이런데 그 인자 한번은 두척이니까 한쪽배가 그물을 꺼 올려가지고 그 일하고, 한번은 이쪽배가 하고 이런 식으로 하는데, 그럴 때 밤에 겨울에 금방 자고 나와서 일하고 나와서, 갓바 안 입으면 일 못합니다. 항 시 레인코트입어요. 그래 갓고, 그걸 벗어놓고 들어가서, 잠이 빨리 온 사람은 그래도 한 시간정도 자요. 그런데 잠이 얼마 안온 사람들은 궁상하고 얼마 안든다 아입니까 오 분정도 잤을가 벨 울립니다. 왠만한 사람은 다 듣고 깹니다. 그때 나가서 눈 칭칭 감고 갓바를 차디찬 감각이 으시으시 합니다. 그런 통에 잠도 깨고. 그러니까 갓바 입고 할 때는, 잠오고 할 때는, 물 있는 거기서도 누우며는 자요. 그게 아주 고통스러워요 그게. 한가하면 그것도 안 좋은게. 고향서 집생각이 납니다.(조방률) 조업 과정에서 경험하는 선원들의 생활이다. 바다 일을 하는 사람들에게 가장 부러운게 육 지 일 하는 사람이었다. 조방율도 한 때 한전에서 일을 한 적이 있었는데, 부산으로 배 타러 오자 많은 사람이 부러워했다고 한다. 큰 파도를 만나고 배가 기울어져 갈 때 뭍에 있는 개 가 부러울 정도였다고 한다. 선원들이 승선하는 선박의 선원 구성은 어선과 화물선, 상선 등 종류에 따라 다소 차이를 - 112 -

보인다. 어선이 지역성이 강했고, 화물선이나 해외 상선 혹은 원양어선의 경우에는 어느 한 지역으로 집중하지 않았다. 물론 중심세력에는 지역성이 있을 수 있었다. 어선의 경우 선주 혹은 선장이 누구냐에 따라 해당 고향 사람들이 중심을 이루었다. 나로도 출신 선장일 경우 에는 대부분 나로도 사람들로 구성되었다. 22) 남해 사람의 경우에도 마찬가지였다. 조업 과정 에서 필요한 명령체계를 제대로 전달하고 수행하게 하기 위해서였다. 물론 그렇다고 타 지역 사람들이 전혀 없는 것은 아니었다. 타지역 사람이 승선했다고 해서 조업과정에서 외톨이가 되지는 않았다. 조업 과정에서 지역감정이 드러나는지를 질문해 봤다. 위에서 언급한 것처럼 바다에서 조 업이란 선원들이 정신차릴 수 없을 정도로 몰두해야 했다. 육체적 고통과 위험이 항시 존재 하였기 때문이었다. 이 때문에 어선 내부의 직위에 따른 규율은 엄격했다. 동시에 선원들은 좁은 배에 같이 자고 먹고, 작업하는 과정에서 한 식구처럼 생활한다고 한다. 그래서 서로 싸울 틈이 없다는 것이다. 육지로 돌아오면 선원들은 자기들끼리의 단합회를 열었다. 보름 동안 쌓였던 고통을 풀기위해 선원들은 주로 술을 마시며 색시집을 찾았다. 이 과정은 같은 배를 타는 선원들로 하여금 이질적인 감정보다는 현실적인 동료의식을 더 갖게 만들었다. 이렇게 볼 때 영도로 이주, 어선으로 취업, 어선 내 조직구성 등에서 지역적인 네트워크가 강하게 작동하였다. 4. 영도와 호남 사람들 호남 출신 선원들이 영도에서 생활하는 시간은 조업 종료 후 귀환해서 다시 조업하러 출 어할 때까지였다. 평상시에는 한 달에 약 2일 조업하면 일주일 정도 휴식을 하게 된다. 그 외 3월과 8월에 약 한 달씩 철망을 한다. 이런 때는 대체로 어선을 수리하기도 한다. 먼저, 선원들 사이의 네트워크이다. 선원들은 그들의 직위에 따라 만남을 가졌다. 다른 배 들의 선장은 선장대로, 기관장은 기관장대로, 선원들은 선원들끼리 술을 마시면서 정보를 교 환하였다. 23) 이 모임은 조업을 한 장소나 수익, 개인별 수익 등에 관한 정보 교환이었다고 한다. 이러한 네트워크를 취업과 재취업을 위한 정보를 교환하였다. 내는 본 업이 목수기 때문에...저인망이 철망을 하면, 여름에 하거든요. 철망해갖고 약 한달했는데...대평동이 벌어먹고 사는 분야가 굉장히 많습니다. 기관수리, 어탐수리, 레이 다수리, 배관수리. 벌어먹고 사는 직종이 굉장히 많습니다. 그러니까 옛날에는 대평동에 는 만원자리를 개가 물고 댕긴다고 안합니까. 어종이 줄어분깨나 망해부네.... 어선만들 적에 좋았습니다.(조칠용) 철망 기간 동안 어선 수리에 필요한 다양한 업종이 호황기를 맞이하고 있었다. 어선 수리 가 많은 영도 대평동에 개가 만원자리를 물고 다닌다고 할 정도였으니까 분위기를 짐작할 만하다. 이런 분위기는 한창 배 사업이 잘 될 무렵인 198년대 후반에서 199년대 중반까 22) 조방률, 김치빈, 조칠용, 김남실 증언. 23) 조방률 증언. - 113 -

지로 대부분 기억한다. 영도에는 배 수리를 위한 조선소, 선구점, 선원 필수품, 식당, 다방, 이발소가 몇 개나 있을 정도였다고 한다. 사람이 버글버글 했다고 한다. 영도구 어선 규모의 변화 동력어선 연도 인구 합계 강조 목조 척수 톤수 척수 톤수 척수 톤수 1984 221,651 186 3,3 13 2,335 173 668 1985 21,42 183 2,992 13 2,335 17 657 1986 213,366 184 2,994 13 2,335 171 659 1987 212,997 571 41,474 258 39,88 37 2,33 1988 213,145 594 53,164 36 51,784 279 1,317 1989 21,888 579 46,7 3 44,72 271 1,285 199 24,544 563 51,716 249 47,12 34 4,395 자료 : 영도구, 영도구 통계연보, 199, 1991. 필자는 이번 조사에서 나로도 혹은 청산도 출신으로 어선과 관련한 육지 사업을 한 사례 를 조선소, 선구점, 양복점, 쌀집 등의 사례에서 확인할 수 있었다. 조선소의 경우에는 일반적인 배 수리는 말할 것도 없고, 빙양선에서 냉동선으로 내부 구조 를 변경할 때 선주는 대부분 고향 사람이 운영하는 조선소를 활용하였다. 그리고 배를 수리 한 후나 휴식기간이 끝난 선원들은 출어를 준비하였다. 이 때는 기름, 고기담는 상자, 어구, 어망, 식료품, 청소도구, 선원 개인 필수품, 담배, 장화 등 선주가 준비하는 물품, 선원 개인 이 준비하는 물품 등 아주 많았다. 이러한 경우에는 대체로 선구점에서 준비하는데 선장생활 을 하다가 그만둔 조방률의 경우 1989년부터 대평동에서 선구점을 운영하였다. 고향 사람들 은 고향사람들이 운영하는 선구점을 주로 활용하였다. 선구점 사업은 점점 금전 대부업을 겸 하기도 하였다. 고향 사람들이라 걱정하지 않고 사업자금을 빌려줬다. 1977년 무렵부터 고 흥상회라는 쌀 가게를 운영한 고금불의 주요 고객은 저인망 7통(14척)이었다고 한다. 2명 이 보름 먹을 쌀로 배 한 척에 1가마 정도 싣는다. 24) 청산도 출신 유삼종은 봉래동에 1972년 무렵 양복점을 개업했다. 동네 불량배들의 행패가 심했지만, 전체 손님의 7%가 고 향 사람으로, 배 타는 사람들이었다고 한다. 25) 주문하는 측에서도 믿을 수 있는 상품이어야 하고, 상품을 조달하는 측에서도 대금 수금과 관련해 신뢰할 수 있어야 하기 때문이었다. 바다에서 생활하는 선원들과 뭍에서 살아가는 전라도 사람들이 결합되어 있는 구조를 확 인할 수 있다. 호남인들의 강력한 고향인맥과 생활네트워크는 영도에서 경제적인 안정과 정 착을 가능하게 했다는 장점으로 작용하였다. 그렇지만 지역주의를 강화하는 계기로 보이기도 하고, 타 지역사람들로부터 저놈들 독하다 라는 소리를 듣기도 한다. 이러한 관계는 경기가 불안해지면 연쇄적인 위험에 노출될 수도 있었다. 어선 사업을 하는 선주 혹은 선장과 뭍에 서 이 사업과 관계되는 사업을 하는 선구점이나 쌀집 등은 고향을 매개로 한 경제관계가 강 하게 연결되어 있었다. 그리고 사업자들에게 흔히 볼 수 있는 쌍방 보증도 고향 사람들 사이 24) 고금불 증언. 25) 유삼종 증언. - 114 -

에 얽혀 있었다. 1997년 IMF 경제체제로 들어가자, 영도를 배경으로 하는 어선 사업자들은 큰 타격을 받았다. 환율 상승으로 인해 입어료와 기름값이 크게 인상되었다. 26) 조업이 불가 능해지자 주로 은행대출이나 빚에 의존했던 사업자들이 망했다. 이들과 연계되어 있던 사업 자들도 연쇄방응을 일으켰다. 청산도, 나라도 출신 사업자들도 큰 타격을 입었다. 이들과 연 결되어 있던 네트워크도 이 무렵 많이 파괴되었다. 여기에 21년부터 시작된 감톤정책, 즉 과잉 어선을 축소하자 많은 호남인들은 영도를 떠나게 되었다. 한편 어선과 연결되어 있던 호남 사람들 가운데서는 나름대로 영도에서 고향 인맥 이외의 네트워크를 형성하기도 하였다. 경제적인 관계 이외에 정치적인 활동으로 입지를 확대하는 인물도 많았다. 이번 조사과정에서 동 단위의 정화위원 혹은 평통위원, 상의협의회 등 다양 한 반관단체에서 활동하는 인물들도 만났다. 이들은 선원 경험이 있는 경우도 있고, 선원과 경제관계가 있는 경우, 그렇지 않은 경우 다양하였다. 특히 유삼종은 1972년 봉래동에 양복 점을 개점 한 뒤 동내 불량배들과 갈등을 일으키면서도 마을을 좋은 일 나쁜 일에 돌아다니 면서 다양한 활동을 하였다. 그 결과 동네 어른들로부터 자네가 본토네, 자네가 본토네 라는 말을 듣기까지 하였다고 한다. 영도의 호남 사람들의 활동은 197년대 곽귀학씨 같은 민선 동장과 류인원(1995.7 26.6)처럼 구의원을 배출하는 요소로 작용한 것으로 보인다. 영도 호남인들은 정착과정에서 고향 사람들과 생계와 관련해 필요한 네트워크와 마을 내 정치적인 영향력을 확대하는 방향으로 네트워크를 만들었다. 5. 정착과 향우회의 역할 향우회는 네트워크의 한 유형이다. 향우회가 연고주의의 폐해가 없는 것은 아니지만, 고향 을 떠나온 사람들의 도시 적응에서 순기능을 하기도 한다. 27) 재부호남향우회는 1964년 2월 9일 창립되었다. 재부호남향우회 조직은 부산에 살아가는 호남 사람들이 경험하는 차별에서 출발하였다. 호남인들은 스스로의 힘을 결집해야 한다는 자위의식, 사회적 물의를 일으키는 몰지각한 호남인들을 계도해야 한다는 자성의 목소리 등 을 이유로 창립되었다. 당시 분위기가 창립일에도 그대로 반영되었다. 호남 사람임을 감추려 는 당시 분위기 때문에 창립위원 132명 정도만이 참여했다고 한다. 28) 재부호남향우회 아래 로 각 구별로 지부가 생기고, 그 아래 동 별로 지회가 조직되었다. 그리고 각 시군향우회도 조직되었다. 한편 나로도향우회의 출발은 약간 차이를 보인다. 나로도 향우회는 198년 7월 6일 조직 되었다. 이 시기는 나로도 출신자들이 경제적으로 윤택한 삶을 살 때라고 한다. 특히 영도를 중심으로 향우회가 조직되었기 때문에 선원들의 수입과 향우회 발전은 궤를 같이한다고 할 수 있다. 필자가 만난 구술자 가운데 재부호남향우회에서 활동한 인물도 있고, 여기에는 참가하지 26) 한겨레신문 1997.12.27(18)1. 27) 박성윤, 도시 생활의 적응 기제로서의 향우회에 관한 연구-재경고흥군향우회의 사례를 중심으로-, 서울대학 교 대학원 인류학과 인류학전공, 21.6, 2 4쪽. 28) 재부호남향우회, 위의 책, 72 73쪽. - 115 -

않고 나로도향우회에만 참가하는 사람들도 있었다. 재부호남향우회 소속 회원들 대부분은 기 업체나 자영업을 영위하는 사람들이었다. 재부호남향우회에 참여하지 않는 이유는 군 단위나 도단위 향우회에 가면 아는 사람이 없다는 사실이다. 개인적인 네트워크가 형성되어 있지 않 고 출신이라는 이름만으로는 향우회에 참여하기에는 개인적인 만족을 충족시킬 수 없었던 것이다. 그런 반면 나로도향우회는 고향 사람들의 모임이라는 의식이 강했다. 고향에서의 인맥이나 선원생활을 통해 이미 익숙해져 있는 사람들과의 관계가 향우회 참여를 가능하게 했다. 그래 서 면단위 향우회는 좀더 구성원간의 친밀도가 강했던 것으로 보인다. 그리고 면단위에 하나 뿐이었던 중학교의 존재와 인맥도 크게 작용했다. 이러한 인맥관계에 198, 9년대 어선 사업이 잘되었고, 따라서 선주나 선장들의 기부가 많았다고 한다. 기금도 많이 쌓였다. 회원이 5명에 이르렀다. 향우회 활동은 1년회 3회의 정기총회, 회원의 경조사, 위문 등이다. 향우회가 잘 이루어질 때 모임은 봄에 어선들이 철 망한 뒤 한 달 가량 쉴 때 한다고 한다. 대부분의 회원들이 선원들이기 때문이다. 이날은 12 개 마을 별로 도시락을 준비하는데, 각 종 고향음식을 맛볼 수 있는 기회였다. 이날은 재부 호남향우회장, 영도지회장은 물론이고 나로도 면장도 참석한다. 나로도향우회와 타 향우회의 차이는 회원들 구성에서 차이를 보인다. 호남향우회 영도지회 (1965년 11월 창립) 상임위원들의 직업구성을 보면 대부분 자영업이나 사업체를 운영하는 사람들이다. 여기에 비하면 나로도향우회는 앞서 검토한 것처럼 선원출신이 대부분이다. 구 성원들의 직업과 관련시켜 볼 때 향우회 참여 목적은 차이가 있을 수 있다. 전자의 향우회가 본인의 사업체 운영과 관련성을 맺고 있다고 한다면 후자의 경우에는 상호부조의 성격이 더 강한 측면을 보인다. 나로도향우회가 선원들의 직업선택에 어느 정도 역할을 했느냐는 질문 도 해 봤으나, 그런 측면은 그다지 중요하지 않고, 단지 고향사람들과 만남의 기회를 가지는 것으로 이해하고 있었다. 향우회 활동을 고향과 관련한 사업에서 어떤 내용이 있었는지를 질문해 봤다. 나로도향우 회가 정기적으로 고향을 방문하는 경우는 거의 없었다. 회원들의 친목을 목적으로 관광을 하 기는 하지만 반드시 관광지가 고향일 필요는 없었다. 다만 나로도의 중요한 행사였던 대교 완성(1994년, 1995년) 때는 많은 향우들이 참가했다고 한다. 물론 기부도 하고... 따라서 나 로도향우회는 끊임없이 고향을 바라보는 사람들의 모임이 아니라 고향을 매개로 영도에 적 응해 가는 사람들의 현실적인 필요에서 만들어진 것이다. 구술자들은 하나같이 고향으로 회 귀할 생각이 없다. 이미 부산에 정착했고, 정착지에서 만들어 놓은 네트워크 속에서 살아가 기를 희망한다. 하지만, 나로도향우회는 다른 향우회와 마찬가지로, 특히 1997년 IMF, 21년부터 시작 된 어선감축 정책에 따른 승선기회가 없어지면서 나로도 출신자들의 생활기반이 위축되고, 회원의 축소로 이어졌다. 회원 축소의 원인이 여기에만 있는 것은 아니었다. 196, 7년대 이주했던 세대들이 나이가 들었으나, 계속된 이주자들이 줄었다는점, 영도에서 생활하는 1.5 세대 혹은 2세대의 경우 고향을 매개로 하는 의식이 미약할 수밖에 없다. 더구나 부모의 고 향이 자식 세대들의 일상생활에서 지니는 의미가 약해지고 있기 때문이다. 회원도 5여 명 - 116 -

에서 5여 명으로 줄었다고 한다. 맺음말 호남과 부산의 연결이 국민국가가 만들어 놓은 뭍(육지)을 기준으로 만들어진 지역주의를 무력화할 수 있는가? 해역권을 통해 부산으로 이주한 호남인들이 만든 영도라는 장소의 특 성은 무엇인가라는 질문에 답을 해 보려고 하였다. 호남인들이 영도에서 정착하는 과정에서 만들어 내는 196, 7년대 생활네트워크, 즉 선 원으로 조업에 참여하는 과정, 조업을 준비하는 과정에서 만들어지는 공동체는 영도에 정착 하는 호남인들이 지역주의로부터 보호받을 수 있는 안전망이었다. 일제시대부터 호남(나로 도)과 영도는 바닷길로 연결되어 있었다. 나로도 사람들이 선택한 선원이라는 직업은 영도에 서도 나로도 사람이 경영하는 어선에서 생계를 위한 활동으로 연결되었다. 선원들이 생활하 는 영도 또한 고향인맥이 그대로 작동하고 있었다. 이러한 네트워크는 경제적인 관계 이상의 신뢰관계였던 것으로 보인다. 경제적인 위기에서 상호 연결되어 있던 네트워크는 동시에 몰 락하였다. 남해안 바닷길과 연결된 영도에는 다양한 지역 출신들이 모여들었다. 영도는 다양한 지역 출신의 용광로 로 불린다. 선원이라는 직업적 특성 때문에 많은 지역을 기반으로 하는 생활 네트워크가 존재할 수 있었다. 다양한 출신 지역들 사이의 네트워크가 영도에서 일으키는 화 학작용은 이후의 과제로 남긴다. 성명 출생년도 고향 이주년도 거주지 직업 이주시 현재 이주시 현재 박종문 1947년 전남 해남 1972년 영도 영도 연합철강 자영업 박정남 1943년 나로도 사동 백양 1959년 통신학교 사하구 선원 여관 조방율 1942년 나로도 봉영 봉남 1976년 영도 영도 선원 선구점 폐업 최학인 1946년 나로도 외초 상초 1968년 영도 영도 선원 석유상 고금불 1934년 나로도 소영 1973년 영도 영도 구멍가게 쌀집 이장용 194년 나로도 소영 영도 광안동 선원 무직 장정오 1945년 나로도 신금 동광 1971 군인 포목상 김치빈 1941년 나로도 예내리 1987년 영도 영도 선원 무직 유삼종 1948년 완도 청산 지리 1963년 영도 기장 양복점 유흥업 김남실 1945년 완도 청산 대모 1975년 영도 연산동 선원 자영업 조칠용 1942년 나로도 봉영 봉남 1972년 영도 영도 목수/선원 목수 백남현 1945년 보성 회천 봉강 1969년 영도 영도 통관사/안경 안경 - 117 -

제2부 도시 공간의 재편

식민도시 부산의 공간 배치와 산동네의 시공간성 오미일(부산대) [목 차] 1. 머리말 2. 근대적 도시공간의 생산과 구획 3. 산업 발달 추이와 산업공간의 이동 4. 조선인 주거공간, 산동네의 형성과 경관 1) 산동네의 형성 경로와 공간적 확대 2) 산동네의 경관: 식민도시 부산의 로컬리티 5. 맺음말 1. 머리말 식민도시는 대개 식민 지배자와 피지배자 간의 민족적 분화가 공간적 분화로 전개된다. 즉 같은 도시공간 안에서 민족적 차별은 경제적 문화적 분화로 진행되며, 나아가 이는 공간의 구획과 격리로 전개되는 것이다. 이런 점에서 식민도시는 그 내부에서 식민지배층의 사회적 공간과 피지배층의 사회적 공간으로 이중구조화되는 현상을 보인다. 오늘날의 경제적 양극화 에 의한 도시의 이중구조화 현상과 또 다른 맥락에서 식민도시는 전형적인 이중도시(dual city)였다. 일제시기 여러 식민도시들 가운데에서도 부산은 식민지 조선의 로컬리티 즉 식민성을 대표 하는 공간이었다. 그러면서도 부산의 지리적 조건과 고유한 역사는 식민지 조선의 로컬리티 와 구별되는, 중층적인 의미에서의 부산 로컬리티를 織造했다. 식민성으로 일반화될 수 없는 부산 로컬리티는 바로 시각적인 도시경관에서 발견할 수 있다. 그것은 바로 산지에 들어선 주거공간, 즉 산동네이다. 해안을 따라 좁은 평지와 배후의 산지로 길게 전개되는 지형상1) 식민도시 부산의 민족적 분화는 평지와 산지라는 공간적 분화로 독특한 경관을 구성했다. 또한 일본과 가까운 지리적 관계로 부산에 수 백년 간 존재한 왜관을 매개로 이루어진 교 류의 역사는 개항 후 일본인전관거류지를 중심으로 급속한 일본식 도시 가 건설될 수 있었 던 주요 요인이었다. 1884년 북경 주재 영국서기관 윌리엄 칼스(William Richard Carles)는 일본인 전관거류지를 돌아본 후 이곳은 꼭 조선 사람이 살지 않는 일본의 도시같다 는 소 1) 1914년부터 부역이 확장되는 1936년까지 부산부의 면적은 매축으로 인해 다소의 증감은 있었지만 크게 차이 가 없었다. 1935년 기준 부산부의 총면적은 1,71만 평이었는데, 그 중 주거가능면적은 42%에 불과했다. 따 라서 부산부의 인구밀도는 14개 부의 평균인구밀도보다 훨씬 높았다(上田耕一郞, 釜山商工案內, 1935, 4 쪽). 121

감을 피력했다. 2) 이로부터 1년 후 1894년에 방문한 이자벨라 비숍(Isabella Bird Bishop) 역시 부산항에 대한 인상을 일본인의 상점이 위치한 넓은 도로와 각종 영국식 일본식 건물 과 더불어 어느 정도 산과 바다로 둘러싸여 꽤 좋아 보이는 일본식 도시다 라고 표현했다. 3) 이와 같이 부산이 1876년 개항 후 급속하게 일본식 도시로 변모될 수 있었던 것은 다분 히 개항 이전에 동아시아에서 최대 규모의 일본인 거류지가 부산에 존재했던 사실에서 기인 한다. 4) 개항 직후 일본인들이 부산을 나가사키 縣 釜 山 町 이라고 표현하곤 했던 것은 당시 한창이던 팽창열에 편승한 것이지만, 부산 거류의 오랜 역사적 경험과 지리적 근접성에서 비 롯된 익숙함도 작용했다. 실제 청일전쟁 후 일본의 영향력이 확대되면서 부산을 일본의 식민 지처럼 생각하는 일본인들도 있었다. 당시 일본에서는 대륙진출 을 선전 장려하는 용감한 어부의 노래 가 유행했는데, 그 가사를 보면 형은 사할린, 동생은 만주, 나는 도미 잡으러 파도 위의 나가사키현 부산항 이란 구절이 나온다. 5) 만리장풍에 돛을 세우고 바다의 무진장 한 보고를 취하기 위해 부산을 바라보며 오는 일본인 어부 의 뇌리에 부산은 異 國 이 아닌 나의 뼈를 묻을 분묘의 땅 으로 그려졌던 것이다. 이러한 부산의 지리적 조건과 일본 교류 의 역사는 근대 부산의 도시 건설과정과 공간 배치에 크게 작용하였다. 본고에서는 오늘날에도 여전히 부산을 상징하는 경관이나 공간 6) 으로 인식되고 있는 산 동네를 도시공간의 생산과 공간의 배치란 역사적 관점에서 접근해보려고 한다. 공간적 배치 는 다양한 공간적 실천을 정의하고 통제함으로써 사회적 관계를 형성하거나 표현한다. 역으 로 사회적 관계는 건축적 구조와 분포 등을 통해 공간 자체를 배열하며, 그러한 공간 속에 사람들을 배치한다. 7) 공간은 위치관계의 형태로 우리에게 주어진다 는 푸코의 말처럼 식민 도시의 사회적 관계를 파악하는 데에 공간의 문제는 곧 공간적 배열의 문제, 공간적 배치의 문제이다. 이러한 시각에 기초하여 주거공간의 배치가 식민도시의 경제적 사회적 관계를 어 떻게 표현했는지, 구체적으로 주로 도시 건설과정의 공간 구획이나 산업구성의 변화에 따른 공간이동 자체에 초점을 두고 살펴보려고 한다. 이와 관련한 기존 연구로는 대개 일제시기 부산의 항만시설공사, 매축공사, 상수도 전기 가스 교통과 같은 도시기반시설과 지역개발에 대한 성과가 축적되어 있다. 8) 그리고 공업발전 과 경제구조, 9) 인구문제와 사회계층, 1) 도시빈민층, 주택문제 11) 등에 대해서도 연구가 이루 2) W. R. 칼스 저, 신복룡 역, 조선풍물지, 집문당, 쪽. 3) 박진우, 개항기 부산에서 본 일본의 조선 인식, 부관연락선과 부산, 논형, 27, 7쪽. 4) 淸 韓 漫 遊 餘 瀝, 191, 23~24쪽. 네덜란드 商 館 이 있었던 나가사키 데지마가 4천 평이었는 데 비해, 왜관은 약 1만 평 규모였다(박진우, 개항기 부산에서 본 일본의 조선 인식, 부관연락선과 부산, 논형, 27, 56 쪽. 5) 부산부 理 事 官 山 內 忠 市, 釜 山 建 設 の 回 顧, 부산부 편, 釜 山 開 港 五 十 年 紀 念 號, 부산부 내무계, 1926, 18쪽. 6) 부산발전연구원 부산학연구센터, 부산의 산동네-부산을 읽는 상징적 텍스트, 28, 6~7쪽. 7) 이진경, 근대적 주거공간의 탄생, 그린비, 27, 76쪽 8) 김용욱, 부산축항지, 항도부산 2, 부산시사편찬위원회, 1963; 차철욱, 191년대 부산진 매축과 그 성격, 지역과 역사 2호, 27; 김경남, 일제하 조선에서의 도시건설과 자본가집단망, 부산대학교 박사학위논 문, 23; 차철욱, 부산 북항 매축과 시가지 형성, 한국민족문화 28, 부산대학교 한국민족문화연구소, 26; 坂 本 悠 一 木 村 健 二, 近 代 植 民 地 都 市 釜 山, 櫻 井 書 店, 27; 홍순권 외, 부산의 도시 형성과 일본인들, 선인, 28; 전성현, 일제하 동해남부선 건설과 지역 동향, 한국근현대사연구 48, 한국근현대사학회, 29; 전성현, 일제시기 東 萊 線 건설과 근대 식민도시 부산의 형성, 지방사와 지방문화 12권 2호, 역사문 화학회, 29; 김승, 한말 부산거류 일본인의 상수도시설 확장공사와 그 의미, 한국민족문화 34호, 29; 일제강점기 해항도시 부산의 온천개발과 지역사회의 동향, 지방사와 지방문화 4권 1호, 211. - 122 -

어졌다. 이외에도 일제시기 부산지역사에 관한 연구는 다양한 분야에서 이루어지고 있다.12) 이들 성과를 기초로 일본인전관거류지가 식민도시로 확대 발달되는 과정에서 공간의 생산 과 구획이 어떻게 이루어지는지, 또한 산업구성 변화에 따른 산업공간의 이동이 어떻게 전개 되는지 살펴볼 것이다. 그리고 이러한 요인들에 의해 山地에 조선인들의 주거공간이 배치되 고 배열되는 순차적 과정에 대해 살펴보려고 한다. 이러한 분석은 산동네의 위치관계와 그것 이 내포하는 사회적 관계로 구성되는 도시경관을 통해 부산의 로컬리티에 접근하기 위한 작 업이다. 2. 근대적 도시발달 과정과 공간 구획 일제는 조선 병합 후 191년 9월 3일 칙령 제357호로 <조선총독부지방관제>를 공포하 고 도의 하부행정구역으로 府郡을 재확인했다. 그리고 1월 1일 제령 제7호 <부군의 명칭과 관할구역>을 공포하여 동래부는 부산부로 명칭이 변경되었고, 동래부의 행정사무는 그대로 부산부로 승계되었다.13) 그러나 1914년 3월 1일부로 시행된 제령 111호에 의해 다시 동래군이 복구되어, 부산진 을 경계로 하는 부산부 영역이 확립되었다. 즉 부산부는 邑內面과 東上面, 北面, 西上面, 西 下面, 南面, 東平面, 沙上面, 左耳面, 沙下面 등을 동래군으로 편입시키고, 일본인전관거류지 를 중심으로 沙中面 일부(영주동 초량동 영선동 瀛溪洞 청학동 동삼동), 釜山面(범일동 좌천 동 수정동), 사하면 일부(부민동 대신동 토성정 보수정 부평정)를 府域으로 확정했다.14) 그런데 이러한 釜山府의 공간 경계는 이미 초창기 일본거류민단의 식민도시 건설 구상에 서 배태된 것이었다. <표 1> 199년 부산지역 거주지별 일본인 호수와 인구 지역 釜山鎭 古館 草梁 매축지 거류지 호수(戶) 13 182 65 91 1,722 인구(人) 473 572 2,63 49 9,942 비율(%) 2.15 2.6 12.87 2.23 45.33 9) 부산상공회의소, 부산경제사, 부산경제연구원, 1989; 김경남, 한말 일제하 부산의 도시형성과 공업구조의 특성, 지역과 역사 5호, 1999; 장선화, 192~3년대 부산의 공업 발전과 도시구조의 변화, 지역과 역 사 6호, 부경역사연구소, 2; 김동철, 부산의 유력자본가 香椎源太郞의 자본축적과정과 사회활동, 역사 학보 186, 25; 김동철, 경부선 개통 전후 부산지역 일본인 상인의 투자동향, 한국민족문화 28호, 26. 1) 홍순권, 일제시기 부산지역 일본인사회의 인구와 사회계층구조, 역사와 경계 51, 부산경남사학회, 24; 김대래 김호범 장지용 정이근, 일제강점기 부산지역 인구통계의 정비와 분석, 한국민족문화 26, 25; 김 승, 해항도시 부산의 일본인 이주어촌 건설과정과 그 현황, 역사와 경계 75, 21. 11) 양미숙, 192 193년대 부산부의 도시빈민층 실태와 그 문제, 지역과 역사 19호, 26; 12) 홍순권, 일제시기 부제 의 실시와 지방제도 개정의 추이, 지역과 역사 14호, 24; 홍순권, 191-2 년대 부산부협의회 의 구성과 지방정치, 역사와경계 6, 26; 강혜경, 일제하 부산지역 발전과 일본인 지배, 한국독립운동사연구 24, 25. 그 외에 오늘날의 부산 산동네 관련 연구로는 공윤경, 부산 산동네 의 도시경관과 장소성에 관한 고찰, 한국도시지리학회지 13권 2호, 21가 있다. 13) 부산시사 2권, 61~62쪽. 14) 越智唯七, 新舊對照 朝鮮全道府郡面里洞名稱一覽, 1917, 578~585쪽; 부산시사 2권, 63쪽. 123

新 市 街 136 5,846 26.65 牧 之 島 288 1,6 4.83 洲 岬 227 942 4.29 합계 3,381 21,928 1 자료: 釜 山 の 社 會 觀, 朝 鮮 時 報 191년 9월 25일. <표 1>은 199년 부산지역 일본인의 거주지별 호구에 관한 표이다. 흥미로운 것은 町 洞 別 이 아니라, 전관거류지/ 신시가/ 北 濱 埋 築 地 / 牧 島 / 洲 岬 / 초량/ 古 館 / 부산진 등 8개의 권 역별로 호구를 조사한 점이다. 이는 당시 일본인들이 인식하고 있었던 부산항에 대한 지리공 간적 경계와 공간 생산의 역사적 과정을 잘 드러낸다. 이와 같이 부산지역 일본인들이 府 域 을 몇 개의 물리적 구획공간의 조합으로 사고하는 공 간 인식은 부산요람 (1912)에서도 마찬가지로 나타난다. 이 자료에서는 釜 山 町 名 一 覽 이 라고 하여 舊 전관거류지/ 신시가/ 북빈매축지/ 兩 山 鑿 平 跡 新 市 街 15) 로 분류하여 각 町 의 명 칭을 서술하고, 그 뒤에 아직 市 區 改 正 이 이루어지지 않아 町 名 을 붙이지 않은 조선인 거주 지역인 목도/ 草 梁 (제1 2 3 區 )/ 古 館 / 釜 山 鎭 을 함께 열거하였다. 16) 역시 부산을 8개 권역으 로 나누었는데, 다만 洲 岬 을 목도로 분류하고, 대신에 191~1913년 兩 山 鑿 平 으로 조성된 신시가 17) 를 새로운 공간으로 구분한 점이 다를 뿐이다. 이로 보아 당시 부산부는 행정구역상으로 지금의 동래지역을 모두 포함하고 있었지만, 일 본인들은 전관거류지를 중심으로 한 식민도시 건설에서 부산진 이북의 동래지역을 사고하지 않았으며, 이에 1914년 부산 府 域 의 경계 내에서 배제했음을 알 수 있다. 거류민단은 일찍 이 구상한 부산건설 마스터플랜에 따라 이미 19년대 초에 북빈매축, 兩 山 鑿 平 工 事 와 함께 목도 초량 및 부산진의 市 區 整 理 측량을 마치고 시가정비를 추진하려고 계획하고 있었다. 18) 전관거류지의 일본인은 195년 경부선이 개통되기 이전부터 이미 韓 人 의 소굴 인 초량이나 부산진을 부산항(일본인전관거류지)과 서로 연계되는 一 都 會 로 인식하고 있었던 것이다. 19) 이러한 부역 경계에 대한 관념은 공식적으로는 조선시가지계획령에 따라 1936년 4월 동래 군의 서면 일대를 부산진 관할구역으로 편입하여 대부산 프로젝트를 실시하기까지 그대로 지속되었다. 8개의 물리적 공간은 일본인전관거류지부터 근대적 시구 개정이 이루어진 후, 차츰 거류 지 밖으로 시가가 확대되어 나가는 역사적 과정의 구성물이다. 그러한 점에서 각 공간은 그 생산주체와 경제적 사회적 기능(생산 혹은 상업 또는 주거 등) 면에서 개별성을 보여준다. 여기에서 짚고 넘어갈 것은, 부산이 근대 도시로 발전하는 과정은 바로 전관거류지의 시가 15) 매축공사 내용에 대해서는 <표 5> 참고. 16) 森 田 福 太 郞, 釜 山 要 覽, 부산상업회의소, 1912, 44~46쪽. 조선인 거주지역은 洞 으로 부르다가 1927년 무 렵 町 으로 바뀌었다. 17) 양산 착평 후 생긴 공간은 佐 藤 町, 池 町, 매립신정, 大 倉 町, 高 島 町, 岸 本 町, 仲 之 町 등 7개 町 으로 구획되었 다. 그러나 철도 및 세관부지를 제외하면 2만 8천 평에 불과하므로 분할이 번잡하다고 하여 1927년 행정구 획 및 町 名 변경으로 모두 대창정에 흡수되었다.( 七 町 倂 合 問 題, 동아일보 1925년 9월 28일; 부산 2권 6호, 부산부, 1927년 6월) 18) 부산요람, 1912, 46쪽. 19) 鹽 崎 誓 月, 最 新 の 韓 半 島, 嵩 山 堂, 196, 9~1쪽. - 124 -

를 구획하고 이후 주변으로 확대하기 위해 인근 조선인 마을의 토지를 구매하거나 점탈하는 과정이었다는 점이다. 조일수호조규에서는 전관거류지 외 토지소유 규정이 없었으나 조영조 약 제4항에서 1리 이내 토지 가옥의 임차 또는 구매가 허용되면서 일본도 이를 최혜국조항 으로 균점할 수 있게 되었다. 이에 전관거류지 밖의 토지는 점차 일본인의 소유로 되어 부근 중요한 곳은 모두 매입되고 山 地 혹은 遠 距 離 지역만 남아 있을 뿐이었다. 195년경 거류지 면적은 총 11만 평인데 반해, 거류지 밖의 일본인 소유 토지는 무려 그 49배에 달하는 5,381,714평이었다. 이 가운데 매립지가 3만 1,714평에 불과한 데 비해, 매입을 통해 획득 한 민유지는 435만 평이었다. 2) 일본인들이 식민도시 건설을 위해 가장 먼저 점탈, 개척하려고 의도했던 곳은 전관거류지 서쪽방면이었다. 이곳은 조선시대 이래 정부 소유의 목장지로 조선인 거주자가 드물어 토지 점유가 용이했고 또한 평지였기 때문이다. 21) 처음 조선인 인가가 한적하던 이곳은 194~195년경에 이르러서는 약 1천 9백 호나 되는 일본인들의 인가가 즐비했다. 22) 특히 거류지와 바로 인접한 부평정에는 매일같이 가옥과 상점이 신축되어 새로운 일본인 거류 신 도시를 형성하기에 이르렀다. 23) 194년경 부산을 찾은 朝 鮮 新 報 社 기자 鹽 崎 誓 月 이 부산 거류지 시가는 12 區 로 나뉘어 있으며, 韓 人 市 街 조차 편입하여 대청정 보수정 등으로 부르 는데, 최근에는 이에 대해 이러쿵 저러쿵 논하는 일도 없어 대일본의 부산항이라고 公 稱 해도 좋을 정도이다 24) 라고 당시 상황을 언급했다. 이로 보아 이때 이미 전관거류지 인근 서북 쪽의 조선인 거주지가 실질적으로 일본인 주거지역인 町 으로 편입되었지만, 동래부나 조선정 부에서는 종전과 달리 이를 제지하지도 않아 모름지기 대일본 부산항 임을 自 他 가 공인할 정도라는 것이다. 195년에 제작된 부산항전도 (<지도1>)를 보면 거류지 서쪽으로 西 町 까지는 각 町 의 구 획이 자세히 표기되어 있지만, 부평정은 이름만 표기되어 있을 뿐 市 區 정리가 되어 있지 않 고 그 서쪽은 아예 洞 名 조차 표기되지 않았다. 그러나 197년경에 제작된 <지도 2>를 보면 전관거류지 서쪽으로 富 平 町 土 城 町 草 場 町 谷 町, 서북쪽으로 보수정 富 民 町 中 島 町, 大 新 町 이 신시가예정지 로 표기되어 있다. 이로 보아 일본인의 토지 매입, 점탈은 꾸준히 진행되었으 나 특히 러일전쟁 승리로 조선 지배권을 확고히 하면서 다수의 토지 점탈이 이루어지고 25) 또한 실질적인 토지지배가 가능해지면서 신도시계획이 확립되었음을 알 수 있다. 2) 부산항세일반, 1912, 7~8쪽, 5~6쪽. 21) 부산시사 1권, 815쪽. 이 지역은 189년 목장이 절영도로 이전하자 동래부의 玄 學 斗 가 양잠, 菜 柴 를 목적 으로 개간을 허가받았다. 193년 12월경 일본인에 의한 동래부 沙 下 面 의 토지매입 상황을 보면, 부평동 138,279평, 대신동 295,313평, 부민동 17,747평, 영주동 52,752평, 대청동 1,941평, 그리고 영도의 영선동 61평 등 총 56,638평이었다. 거류지의 서북쪽뿐만 아니라 동쪽의 범일동, 범이동, 좌천동, 佐 二 洞, 두모포, 路 下 洞, 水 晶 洞 등의 지역에서도 조선인의 가옥과 토지가 일본인에게 다수 전매되었다(부산일본영사관, 경 상도사정, 13쪽; 부산경제사 354쪽). 22) 相 澤 仁 助, 韓 國 二 大 港 實 勢, 195, 1쪽. 23) 相 澤 仁 助, 韓 國 二 大 港 實 勢, 195, 2쪽 24) 鹽 崎 誓 月, 最 新 韓 半 島, 東 京 嵩 山 堂, 196, 8~9쪽. 25) 예를 들어 富 坪 洞 基 址 는 원래 牧 位 土 로 여기에 의지하여 조선인들이 資 生 했는데 협잡배가 일본인들과 부동 하여 토지를 점탈했다( 釜 民 呼 哭, 황성신문 196년 12월 22일). - 125 -

<지도1: 釜 山 港 全 圖 >(195) <지도 2: 韓 國 釜 山 港 市 街 明 細 圖 >(197) 출전: 부산지리연구소, 釜 山 古 地 圖, 부산광역시, 28. 비고: <지도 1>에서는 부평정( 으로 표기된 부분)서쪽이 전혀 표시되어 있지 않는데, <지도 2>에서는 부평정 서북쪽 공간이 신시가예정지 (굵은 선 표시)라고 구획되어 있고 町 名 도 표기되어 있음. 실제 서부신시가의 일본인 인구추이를 보면, 193년 1,723명, 194년 1,896명이었으나, 195년에는 초량으로 이주하는 사람이 있어서인지 1,59명으로 감소했다가, 서부신시가예정 지역 시구개정이 구체화되면서 196년 2,732명으로 증가했는데, 특히 197년 4,175명으로 급증했다. 26) 한편 전관거류지의 동쪽에 위치한 초량, 부산진은 영선산과 영국영사관산을 경계로 일본전 관거류지와 격리되어 있었다. 초량의 조선인들은 종래 어업과 상업으로 생활했는데, 개항 후 에는 주로 일본인 전관거류지의 운송, 위탁상업을 했다. 27) 이곳에 일본인들의 토지 매입 붐 이 일어난 것은 경부선이 부설되는 195년 전후에 이르러서였다. 일본인들은 釜 山 面 ( 凡 一 里, 凡 二 里, 佐 一 里, 佐 二 里, 佐 川 里, 水 晶 洞, 豆 中 里 )과 沙 中 面 (영주동, 초량동, 부산진)의 대지, 가옥을 집중적으로 매수했는데, 특히 하자마(박간방태랑), 오이께( 大 池 忠 助 ), 고미네( 小 峰 虎 吉 ) 등의 부호에게 집적되었다. 28) 또한 6여 호의 조선인 가옥을 철거하고 강제수용한 초 량 5만여 평, 부산진 3만여 평의 경부선역사 부지의 일부는 다시 일본인들에게 분양되기도 26) 釜 山 の 社 會 觀, 朝 鮮 時 報 191년 9월 25일. 198년에는 5,238명, 199년 5,846명으로 신시가지가 확정 된 197년에 가장 급증했음을 알 수 있다. 27) 矢 津 昌 永, 朝 鮮 西 伯 利 紀 行, 1894, 15쪽, 27쪽. 예를 들어 矢 津 昌 永 을 거류지로부터 동래까지 안내해준 김 서방은 일본인에게 고용된 한인 인부의 십장으로 초량에 거주하고 있었다. 시진창영은 초량을 한인의 소굴 이라고 표현했다. 199년 순종이 전국을 巡 狩 할 때에 부산에 들러 지역민에게 하사금을 내린 곳이 초량이었 다( 草 梁 地 民 怨, 황성신문 199년 6월 5일). 28) 東 萊 監 理 各 面 署 報 告 書 ( 奎 18147), 제5,6책; 각사등록 14권, 594~633쪽. - 126 -

했다. 초량과 부산진에 경부선 철도역사가 부설됨으로써 번화해진 이곳은 이제 일본인들의 새로운 공간 영역으로 포섭되었다. 漁期에 즈음해서는 악취가 코를 찔러 통행할 수 없을 정도라고 했던 어촌에 경부철도가 부설되면서 초량기관차(193), 초량공장(194), 철도병원(194), 초량세관파출소 초량수송사 무소 草梁保線事務所 초량건축사무소(196) 등의 공공기관과 경부철도회사의 남부출장소와 사택이 들어서고 대판상선회사 일본우선회사의 출장소 등이 설립되었다.29) 郵便受取所와 전 화소, 그리고 일본인 상점들도 속속 설립되었다.3) 이에 따라 공공기관과 회사 상점, 그리 고 관련 업종에 종사하는 일본인들이 이주해왔다.31) 따라서 193년 초량의 일본인 인구는 355명에 불과했으나, 경부선이 부설된 194년에 1,193명으로 크게 증가했고, 이후 195년 1,279명, 196년 1,639명, 197년 1,855명, 198년 2,333명, 199년 2,63명으로 지속적 으로 증가했다.32) 일본전관거류지로부터 부산진의 북쪽에 위치한 경부철도정차장까지 寸地 의 여유가 없다 고 할 정도로 초량은 번화해졌다.33) 이후 일본전관거류지와 초량을 연결하기 위해 실시된 양산착평공사를 통해 다시 신시가가 조성되었다. 양산착평공사는 일본전관거류지와 조선인 거주지역인 초량을 연결하여 모름지기 규모있는 근대적 도시를 건설한다는 점에서 매우 중요했다.34) 위에서 살펴보았듯이 1914~1936년간 부산부역은 전관거류지, 서부신시가, 목도, 북빈매 축지, 양산착평 신시가, 초량 이북 부산진지역 등 몇 개의 물리적 공간으로 이루어져 있었 다. 각 공간은 거류민단 시절부터 일본인들이 구상하고 추진해온 식민도시 건설과정에서 형 성된 역사적 구성물이었다. 3. 산업 발달 추이와 산업공간의 이동 1) 산업구성 변화와 공업의 발달 추이 188년 12월 부산으로 이주 정착한 일본인의 영업별 조사를 보면 총 35명의 조사대상 자 가운데 압도적으로 많은 것은 仲買商(152명)이 5%이고, 그 다음에 무역상(34명)과 小賣 雜商(34명)이 각기 12%로 상업무역이 대부분이었다. 그런데 겸업까지 포함하면 중매상과 무 역상의 비율은 훨씬 더 컸다.35) 그 다음으로는 요리점(15명), 음식점(13명) 등 서비스업의 29) 3) 31) 32) 33) 34) 일선통교사 附부산사 近代記, 1916, 96, 14~19쪽. 田淵?彦, 韓國新地理, 박문관, 195, 235~236쪽. 最新の韓半島, 9~1쪽. 釜山の社會觀, 朝鮮時報 191년 9월 25일. 相澤仁助, 韓國二大港實勢, 194, 2쪽 199년부터 시작된 이 공사와 관련하여 부산항과 초량을 관통하는 도로의 폭을 둘러싸고 큰 논쟁이 벌어졌 는데, 이는 조만간 安奉線이 개통될 경우를 염두에 두고 일본제국의 차원에서 부산의 도로계획을 구상하는 쪽과 반면 부산 도시계획 차원에서 접근하는 입장이 상충되었기 때문이다. 결국 처음 설계 당시의 8칸을 장 래 부산의 간선도로이고 또한 전철복선의 부설을 예상하여 12칸으로 수정했는데, 부산일보 를 비롯한 일부 지역유지는 2칸으로 확장해야 한다고 계속 주장했다( 釜草貫通大路, 釜山草梁貫通大路に就て, 道路委員 會終了, 부산일보 1911년 8월 1일, 8월 2일, 8월 26일. 35) 明治13년 12월 居留人民營業調, 釜山府史原稿 6, 16쪽. 雜店(11명), 중매겸소매상(8), 무역겸중매업(5), 소매잡화겸무역상(4), 質屋(4), 중매겸무역 船問屋 소매잡화겸무역 음식점겸중매(각 3명), 船門屋겸무역 소매겸 무역 국립은행(각 2), 小賣業旅籠屋 海漕會社 질옥겸중매 旅籠屋겸仲買 중매겸잡업 소매겸잡업 旅籠屋 겸 음식점 (각 1) 등이었다. 127

비중이 컸다. <표 2> 195년 6월경 일본 거류민의 영업 상 업 토목 건설 제조업 유흥, 여관, 음식점 서비스업 기타 음식물행상 115 牛 肉 商 6 大 工 業 57 철공업 9 藝 妓 239 이발업 33 잡화상 94 錻 力 商 8 목수 25 醬 油 釀 造 9 음식점업 53 세탁업 8 과자상 92 통조림상 7 미장공 15 石 工 業 6 酒 屋 37 表 具 師 2 곡물상 57 대서업 6 酒 釀 造 6 여인숙 2 무역상 43 시계상 6 인쇄업 6 下 宿 商 18 은행 3 靑 物, 干 物 商 36 양복상 6 재봉업자 5 요리점 13 우유업 3 仲 買 商 26 목탄상 5 금은세공업 4 湯 屋 業 1 造 花 業 1 古 物 商 23 재목상 5 塗 物 業 4 遊 妓 場 3 渡 船 業 2 魚 商 23 砂 糖 商 5 提 灯 業 3 遊 藝 師 匠 2 오복상 22 建 具 商 4 靴 工 業 3 茶 處 2 창고회사 1 回 漕 問 屋 業 2 洋 燈 商 3 定 席 3 연초상 18 왜나막신상 3 염색업 3 金 物 商 17 장유상 3 정미소 2 사진사 3 藥 種 商 16 절인채소 판매 3 籾 擢 機 제조 2 도기상 13 果 物 商 3 전등회사 1 수산회사 1 荒 物 商 13 석탄상 2 桶 屋 業 9 인력거 47 小 間 物 業 11 해산물 2 疊 職 (다다미제 조) 7 綿 商 11 味 噌 商 2 籠 職 (바구니제 조) 1 두부상 11 총포상 2 質 屋 8 計 75(52.2%) 97(6.7%) 81(5.6%) 397(27.6%) 11(7.6%) 총계 1,438 자료: 相 澤 仁 助, 居 留 民 營 業 別 (195년 6월 調, 釜 山 港 勢 一 斑, 195, 82~83쪽. 비고: 상업/토목 건설/제조업 등의 항목 분류는 필자가 임의분류한 것임. <표 2>는 195년 6월경 거류민 조사대상자 1,435명의 직업을 업종별로 분류한 것이다. 이를 보면 상업 무역이 52%로 가장 많으며 다음으로 음식 유흥업(28%), 토목 건설업(7%) 순 이다. 제조업 종사자는 적은데, 주로 製 綿 業 이나 장유 酒 제조 정미업 등 식품공업이 주류를 이루었다. 단일 업종으로는 藝 妓 가 239명으로 가장 많으며, 그 다음이 음식물행상 115, 잡화 상 94, 과자상 92, 곡물상 57, 大 工 業 57, 음식점업 53, 인력거 47, 무역상 43명 순이었다. 거류지 시가가 유지되는 기반 경제는 여전히 무역 상업이지만, 그 비중은 종전보다 감소했 다. 그 다음으로 일본으로부터 온 중매상, 그리고 거류지 상업을 내륙의 조선 상인이나 생산 자와 연결해주는 조선인 객주 등 빈번하게 왕래하는 이동 인구를 대상으로 한 여관과 요리 옥 영업이 매우 번성했다. 특히 이러한 서비스업은 비단 교역 상인만이 아니라 일본인 관료, 여행가, 이주민 등을 대상으로 발달했던 것이다. 이는 개항 초 부산항이 거류민의 최종적인 정주지라기 보다 이곳에서 조선의 경제 문화적 분위기를 익히고 적응하여 추가로 개항되는 신천지 개항장으로 떠나는 중간기착지적인 성격이 강했던 당시 시대적 상황에서 기인하는 것이다. 한편 전체 산업 비중에서 매우 작기는 하지만, 개항 후 얼마 안 된 1883년부터 일정 규모 - 128 -

의 공장이 이주일본인에 의해 설립되기 시작한 것은 다른 지역에서는 찾아볼 수 없는 특징 이다. 특히 공장 설립이 크게 증가한 것은 러일전쟁 이후로 해마다 십 수 개에서 2여개의 공장이 설립되었다. 36) 일제의 조선 지배가 현실화되면서 定 住 日 本 人 의 수요에 부응하여 酒 간장 과자 두부 정미업 등 식품공업과 소규모 금속공업이 발달했다. <표 3> 1917년 부산지역 상공업 종사자 상 업 토목 건설 제 조 업 서비스업 기타 연초소매상 과자제조판매 麻 裏 商 13 大 工 211 669 업 64 철공업 5 음식점 147 고물상 28 잡화상 224 蒲 物 商 13 큰톱장이 85 染 洗 業 32 帆 제조업 3 하숙옥 34 운송업 36 과자소매상 洋 酒 罐 詰 商 帽 子 버선 製 造 石 工 73 酒 양조업 27 165 12 商 3 여관 16 潛 水 機 業 2 白 米 小 賣 業 115 靴 商 12 鍛 冶 職 26 蠟 燭 製 造 業 3 요리옥 2 貸 金 業 15 薪 炭 商 97 시계상 12 舟 大 工 25 다다미제조업 26 車 제조업 3 表 具 師 13 酒 판매상 93 荒 物 商 12 미장공 21 桶 제조업 26 제분업 3 植 木 屋 9 藥 種 商 66 綿 商 1 토목건축청 부업 17 潛 水 機 業 2 酢 제조업 3 사진업 9 魚 仲 買 商 58 紙 商 8 指 物 大 工 17 함석 細 工 商 19 折 箱 業 2 貸 船 屋 4 海 産 商 51 肥 料 商 8 펭키직 1 장유양조업 세탁소다제조 18 업 2 信 託 業 3 석유상 46 석탄상 8 두부옥 17 新 聞 代 理 店 2 靑 物 果 物 商 47 乾 物 商 8 재봉업 15 牛 乳 搾 取 業 5 煙 草 卸 賣 商 38 船 具 商 7 籠 細 工 商 14 製 箱 業 1 履 物 商 33 정미업 14 小 間 物 垈 物 商 33 陶 器 商 7 傘 提 灯 業 11 製 材 業 1 質 商 32 가마니상 7 인쇄업 1 곡물수출상 28 氷 商 5 제염업 9 金 物 商 25 자전차상 4 연초제조업 8 오복상 22 紙 箱 商 4 製 麵 業 7 잡곡상 2 玩 具 商 4 瓦 製 造 業 5 材 木 商 19 茶 商 4 비누제조업 4 맥주판매특약 점 17 家 具 疊 表 商 3 주물업 4 陶 器 商 17 총포화약상 2 연와제조업 4 문방구상 15 漆 器 商 2 포도주양조업 4 양복상 14 서적상 2 造 船 業 3 蒲 鉾 商 13 고무상 1 櫓 製 造 業 3 계 2,125(59%) 459(13%) 419(11%) 217(6%) 396(11%) 총계 3,616 자료: 釜 山 商 工 營 業 別 表, 부산항경제통계요람, 1917, 4~5쪽. <표 3>은 1917년 3월경 조사한 부산지역 상업과 공업 관련 영업 종류에 관한 것이다. <표 2>와 비교해 특징적으로 나타나는 점은 여관 요리 유흥 등 서비스업종의 비중이 1/3로 36) 오미일, 한국근대자본가연구, 한울, 22, 17쪽. - 129 -

격감했다는 점이다. 또한 제조업의 비중이 커진 점도 눈에 띤다. 이는 병합 이후 부산항이 시가의 모습을 갖추고 재생산기반이 안정되면서 본격적으로 거류민의 일상생활에 필요한 식 료품공업과 주물 다다미 연와 연초 비누 제조업 등 각종 소공업이 크게 증가했음을 보여준다. 1차세계대전으로 인한 수입, 이입의 감소가 국내 제조업을 자극하여 1918년 제2차 회사 령 개정으로 규제가 완화되면서 191년대 말 이후 전국적으로 조선인 공장 설립이 크게 증 가했다. 그러나 부산에서는 191년대 후반 일본인 대자본이 본격적으로 진출하고 조선인 공 장은 192년대 중반이 되어서 다수 설립되기 시작했다. 37) 일본인들은 일찍부터 부산의 공업입지로서의 가능성을 주목하고 있었다. 즉 공장 경영의 구비 조건은 원료 연료 제품의 수송관계인데, 海 港 都 市 인 부산은 조선에서 가장 저렴한 船 運 賃 으로 일본과 조선 각지로 연락할 수 있어 수륙 어느 방면으로든 판로 진출이 가능한 점을 주시했다. 동력은 조선가스전기회사가 부산에 존재하며 전력을 공급해주고, 연료는 큐슈의 일본탄이 저렴한 운임으로 신속하게 수입될 수 있는 위치인 점을 꼽았다. 실제 1차대전 이 후 호황속에 조선에 진출한 일본대자본이 1917년에 조선방직주식회사, 192년에 일본경질 도기주식회사를 부산에 설립하고 이후 순탄하게 경영을 하고 있는 것은 바로 이러한 입지적 호조건을 입증하는 증거라고 생각했다. 38) 191년대 말 이후 192년대에 일본인 대자본이 진출하여 대공장이 설립되기 시작하면 서 39) 부산의 공간경계에 대한 인식과 산업공간 배치에도 점차 변화가 나타나기 시작했다. 2) 산업공간의 이동과 인구 추이 부산은 개항 후 지역경제에서 상업 무역의 비중이 압도적이었고 이에 부수하여 요리옥 여 관업등 서비스업 또한 번성했다. 그러나 병합 전후 식민도시 건설이 본격화되고 이주일본인 의 정주성이 강해지면서 지역내 수요를 겨냥한 제조업이 발달하기 시작했다. 그러면 이러한 산업발달 추이는 공간적 측면에서 어떻게 전개되었는지 살펴보자. <표 4> 町 別 공장수 구획 町 洞 195 197 199 1917 1927 1932 1938.8 富 平 町 4 1 11 34 59 48 46 西 町 1 11 14 12 19 17 15 西 土 城 町 4 11 14 11 富 民 町 2 部 南 富 民 町 1 1 新 草 場 町 1 1 1 2 5 7 市 中 嶋 ( 島 ) 町 1 2 3 9 街 谷 町 1 3 2 大 新 洞 1 2 7 1 13 寶 水 町 3 5 13 18 21 17 大 廳 町 2 4 9 6 6 37) 오미일, 한국근대자본가연구, 22, 한울, 쪽. 38) 上 田 耕 一 郞, 釜 山 の 商 工 案 內, 부산상공회의소, 1935, 19~2쪽. 39) 대표적인 직공 2명 이상 대공장은 조선방직(1917), 일본경질도기(1918), 丸 大 고무(1923), 日 榮 고무 (1928), 직공 1명 이상 199명 이하 공장은 帝 國 製 麻 製 布 工 場 (1917), 부산직물공장(1925), 渡 邊 고무 (1926) 등이었다(김경남, 앞의 글, 23, 85쪽). - 13 -

거 幸 町 1 3 2 1 14 7 5 류 本 町 1 1 1 7 17 13 11 辨 川 町 1 6 4 5 5 지 南 濱 町 1 2 2 11 6 7 北 매립신정 2 1 濱 池 ノ 町 1 埋 岸 本 町 2 築 大 倉 町 19 21 13 地 藏 前 町 1 榮 町 2 18 22 2 절영도 동부 23 瀛 善 町 54 영선정 6 88 7 8 牧 절영도 洲 岬 8 島 靑 鶴 2 大 橋 4 瀛 州 洞 1 4 8 草 梁 洞 1 1 8 18 2 18 水 晶 洞 1 8 16 2 釜 山 鎭 1 2 9 佐 川 洞 11 15 13 凡 一 洞 1 12 12 21 釜 田 11 釜 岩 1 193 堂 甘 1 伽 倻 1 6년 田 浦 1 이후 門 峴 2 府 域 戡 蠻 1 龍 塘 1 龍 湖 1 합계 8 39 54 153 316 329 * 자료: 相 澤 仁 助, 부산항세일반, 195, 187쪽; 重 ナル 工 場, 부산일본인상업회의소연보, 197; 부산주요공장, 부산상업회의소연보, 199, 27~272쪽; 부산상업회의소, 부산항경제통 계요람, 1917, 1927; 부산부, 부산상공안내, 1932; 부산부, 釜 山 の 産 業, 1938. * 비고: 195, 197, 199년은 주요 공장에 관한 내용이다. 영주동, 수정동, 초량동, 좌천동, 범일동은 1927년 이후 町 으로 바뀜. <표 4>는 195~1938년간 공장 소재지를 정별로 분류 정리한 것이다. 195~199년은 전체 공장의 소재를 알려주는 자료가 없어 주요 공장만 파악한 것이고, 이후 시기는 전체 공 장의 소재지를 분류한 것이다. 이 표를 보면 195년경 제조업은 전관거류지 밖 외곽지대인 부평정에 집중되어 있음을 알 수 있다. 194년과 195년에 각기 직공 1명, 15명을 고 용하는 대규모의 통조림공장과 연초제조공장이 부평정에 설립된 것을 4) 보더라도 당시 이곳 이 공장지구 입지로서 기능했음을 짐작할 수 있다. 19년대 후반 이후 공장이 가장 많이 위치했던 곳은 서정과 부평정이었다. 개항 후~191년 기간에 설립된 공장은 총 53개인데, 그 중 32개는 194년 러일전쟁 이후 설립 되었다. 41) 그런데 서정에는 주로 188년대 후반과 19년대 초, 부평정에는 러일전쟁 이후 4) 相 澤 仁 助, 부산항세일반, 195, 187쪽. 41) 김경남, 앞의 글, 지역과 역사 5호, 235쪽. - 131 -

특히 서부신시가가 조성되면서 공장이 들어서기 시작했다. 아울러 절영도, 즉 영선정에도 병 합 이전부터 공장이 다수 설립되었다. 그러나 192년대 후반 이후 부평정의 공장수가 감소하는 반면 영선정은 193년대 이후에 도 계속 공장수가 증가했다. 총공장수가 계속 증가하는데도 1927년 이후 부평정과 서정 소 재 공장수가 감소하는 것은 이 지역이 공장지대로서의 기능을 상실하고 있음을 뜻한다. 주목할 점은 같은 시기에 시가지의 동쪽 외곽지역인 수정정 좌천정 범일정에 공장수가 증 가한다는 사실이다. 이는 부평정의 공업입지 기능이 좌천정과 범일정 방면으로 이동했음을 의미한다. 즉 1913~1918년 조선기업주식회사, 1927~1932년 부산진매축주식회사가 시행한 매축공사로 획득된 약 3여만 평의 부산진매축지가 공장지대로 기능했던 것이다. 42) 1917년 조선방직주식회사가 범일정에 설립되어 1921년에 조업을 시작하면서 43) 이후 인 근에는 많은 방직공장이 설립되었다. 1938년 21개 공장 가운데 업종별로 보면 방직공장이 9개로 기계기구 1개, 요업 3, 화학 1, 제재 및 목제품 2, 식품 4, 금속 1개에 비해 방직공장 이 집중되었음을 알 수 있다. 한편 좌천동에는 1923년 조선인 자본가 金 珍 守 가 日 榮 고무공장을 설립한 것을 시작으로 1929년 喜 聲 商 會 고무공장, 193년 부산고무공장과 大 和 고무공업소가 설립되었다. 뿐만 아니 라 인근 범일정에 丸 大 고무주식회사, 수정정에 菱 岩 고무제조합자회사 공장이 들어섬으로써 좌천동 일대는 고무공장지대로 형성되었다. 44) 그러므로 적어도 192년대 이후 193년대 초 부산에서 공장지대는 목도와 초량 이북 부산진 방면(좌천정, 범일정)이었음을 알 수있다. 45) 이상에서 개항 후 일본인전관거류지의 경제는 주로 상업 무역, 서비스업이 압도적이었으 나, 점차 식민도시로 체재를 갖추면서 부산지역 산업에서 제조업이 차지하는 비중이 커지고 이에 따라 산업공간이 확장되고 이동되는 사실을 살펴보았다. 이러한 산업구성의 변화에 따 른 공간 편제와 이동은 필연적으로 지역 내 거주인구의 변화 이동과 지역 외 인구유입문제 를 수반했다. 그러면 산업공간의 이동에 따른 인구 이동과 각 구획공간의 변화에 대해 살펴보기로 한다. <부표 1>은 192~1933년 町 洞 別 호구수이다. 앞에서 언급한 구획공간별로 볼 때 전관거류 지 구역은 대체로 부산 평균인구증가율(2.13) 46) 보다 대체적으로 낮았고, 인구증가율이 상대 적으로 높은 곳은 신시가와 초량 이북 구역이었다. 무엇보다 일본전관거류지 구역에서는 절 대적인 주거인구수에서 일본인이 거의 대부분이었고 조선인의 비중은 무시해도 좋을 정도로 극히 미미했다. 이 구역은 거의 조선인 유입 불가의 신성영역이라고 해도 좋을 정도였다. 47) 42) 가까운 곳으로는 부산진매축지가 장래의 공장지대로 부지런히 전념하여 그 공업을 진전시키고 있는 것도 주목할 만하다. ( 上 田 耕 一 郞, 부산상공안내, 부산상공회의소, 1932, 17쪽). 부산진 방면의 旣 設 의 조선방직회사 외 最 近 고무 제지 등의 공장이 건설되고 철도공장도 移 轉 新 築 하기로 결정되어 이미 敷 地 의 선정을 마쳤는데, 다시 鐵 道 機 關 庫 도 이전할 것이고, 製 絲 工 場 도 조만간에 실현할 추 세에 있어 大 工 業 地 帶 化 될 운명을 지니고 있다 게다가 부산진 매축에 수반하여 이를 이용해야 할 특수한 대 공업 맟 運 河, 繫 船 壁, 荷 揚 場 등의 설비도 실현해야할 것이기 때문에 부산진 방면은 확실히 부산의 大 工 業 地 帶 化 하는 추세에 있다. ( 釜 山 鎭 の 工 業 地 化, 부산일보 1928년 7월 28일). 43) 조선은행회사조합요록, 1921년판; 44) 부산상공안내, 부산부, 1932, 13쪽 45) 工 場 地 帶 を 牧 の 島 と 草 梁 町 以 北 に 纏 め, 경성일보 1932년 11월 25일. 46) 192년 1월 대비 1933년 12월 호구수의 평균증가율은 2.13이었다. - 132 -

서부신시가에서는 공업지대인 부평정의 경우 일본인의 증가율이 크고 조선인의 경우 낮았 으니, 일본인은 5천~6천명을 유지하여 완만한 증가세이지만, 조선인은 1926년을 정점으로 감소했다. 평지인 토성정과 중도정은 일본인의 증가율이 평균증가율보다 높았다. 반면 山 地 인 곡정의 경우 조선인의 증가율이 높고 또한 조선인 인구 비중이 압도적이라는 점에서 식 민지 지배민족과 피지배민족의 공간적 분화란 유의미성을 드러낸다. 서부신시가의 평지를 일 본인이 공장 혹은 상가로 점유한 반면, 항만 부두에서 하역운송작업에 종사하거나 전관거류 지 내 상업구역에서 점원으로 일하고, 혹은 부평정 공장지대에서 직공으로 일하는 조선인은 서쪽이나 서북쪽 산지인 곡정, 초장정, 대신정에 거주했다. 요컨대 전관거류지 구역은 처음 부터 지속적으로 일본인 비중이 압도적이고 일반적인 데 비해, 서부신시가는 조선인 거주지 와 일본인 거주지로 공간적으로 구획되었음을 알 수 있다. <부표 1>에서 알 수 있듯이 인구밀도와 무관하게 1933년경 조선인이 가장 많이 거주한 곳은 대신동, 초량동, 영주동, 범일동 순이었다. 조선시대 이래 전통적으로 조선인 마을이었 던 곳이 근대 이후에도 조선인 주거공간으로 연속되었음을 알 수 있다. 그런데 주목할 점은 조선인 주거지역을 보면 대개 일본인의 비중이 매우 낮은데, 유독 초량만은 일본인 인구 비 율이 거의 4~47%에 육박했다. 195년 무렵 초량지역 조선인 인구가 1천 5백여 명이었는 데, 일본인도 8여 명으로 급증했다. 48) 이는 2장에서 살펴보았듯이 195년 경부선 역사 부설 이후 관련 기관이나 운송회사들이 설립되었기 때문이다. 또한 <표 4>에서 보았듯이 192년대 중반 이후 부산진 매축과 함께 부산진 방면에 많은 공장이 설립되었는데 여기에 근무하는 일본인 관리자나 기술자 등이 인근 초량에 주거지를 마련했기 때문인 것으로 보인 다. 49) 한편 목도의 영선정은 조선인 비율이 높고 또한 일본인 비율도 4%대에 달하는 점에서 초량과 유사한 공간이라고 할 것이다. 그러나 시기적으로 초량보다 앞서 일본인 비율이 높은 것은 초량이 개발되기 이전인 188년대부터 일본인에 의해 토지가 집적되었기 때문이다. 그 리고 전관거류지 서쪽이 원래 조선인 마을이었으나 일본인의 토지점탈에 의해 신시가로 변 한 역사적 경로와 달리, 북빈매립지는 매립 주체가 일본자본이었기 때문에 전체 인구수에서 일본인들의 비중이 압도적으로 높았다. 결국 일본인 거주 비율이 압도적인 곳은 전관거류지 구역(서정, 행정, 남빈정, 변천정, 영 정)과 5) 북빈매축지를 기반으로 한 상업구역, 그리고 서부신시가 가운데 평지인 기존의 공업 지대(부평정)이었다. 조선인 비율이 압도적인 곳은 이들 지역의 외곽에 위치하는 곡정, 대신 47) 실제 호구조사를 할 때 부산부에서는 부산부를 內 地 人 調 査 區 와 朝 鮮 人 調 査 區 로 나누었는데, 조선인조사구가 없는 지역은 대청정 복전정 서정 행정 변천정 남빈정 대창정 영정 등 예전의 전관거류지 구역이었다. 따라서 조선인조사구가 없는 지역에 거주하는 조선인, 중국인 기타 외국인 세대는 일본인조사원으로부터 조사받아야 만 했다. 하지만 일본인조사구가 없는 지역은 없었다( 本 秋 十 月 一 日 に 釜 山 府 戶 口 調 査 實 施, 釜 山 2권 8호, 부산부, 1927년 8월, 2~4쪽). 48) 鹽 崎 誓 月, 最 新 の 韓 半 島, 嵩 山 堂, 196, 1쪽. 49) 예를 들어 1937~1942년 부산제3공립국민학교를 다녔던 米 倉 勝 則 은 아버지가 좌천정 소재 삼화고무공업 제 4공장에서 일하여 회사 사택이 있는 수정정의 2층집에 살았다고 회고한다( 米 倉 勝 則, 玄 海 灘 のかなたに, 鶴 書 院, 1993, 23~24쪽). 5) 김경남, 앞의 글, 1999, 242쪽. - 133 -

정, 영주정, 좌전청, 범일정이었다. 1936년에 이르러 동래부 서면을 부산부역으로 포함시켰는데,51) 이는 부산진도 이미 포화 상태가 됨으로써 부당국이나 지역유지들이 대안을 모색한 결과였다. 전시체제기에 들어서 공업부산 이 제기되면서는 부산 서쪽 교외 즉 낙동강 연안의 평야에 공장지대를 건설하려는 안이 계획되기도 했다.52) 이미 193년대 초부터 府당국이나 지역 자본가들은 새로운 공장지 대로 기능할 공간의 생산이 필요하다고 생각하고 있었다. 이는 초기 거류민단 시절의 식민도 시건설계획에 기초한 부산부의 공간경계 인식이 193년대 이후 정치경제적 상황에 따라 크 게 변화되고 있음을 뜻한다. 4. 조선인 주거공간, 산동네의 형성과 발달 1) 산동네의 형성 경로와 공간적 확대 위에서 살펴보았듯이 일제시기 부산부는 일본인전관거류지가 확대되어 조선인 거주지를 침탈하면서 식민도시로 발달하는 역사적 과정에서 생산, 구획된 공간의 구성물이었다. 이 구 획공간들은 민족별로 분화되는 양상을 보이며, 동일한 공간 내에서도 평지=일본인 주거지역, 산지=조선인 주거지역으로 경계지어지고 있었음을 확인했다. 조선인 주거공간으로 산동네가 형성되는 과정 즉 조선인들이 산동네에 정착하게 되는 경 로는 크게 세 가지로 나눌 수 있다. 첫째 개항 후 상업활동을 목적으로 전국 각지에서 상인 들이 이주해왔는데,53) 이들이 당초 기대와 달리 경제적으로 몰락하면서 산지에 정착하게 되 었던 것이다.54) 둘째 토지소유 분화에 의해 몰락한 농민들이 농촌을 떠나 일자리를 찾아 가족과 함께 부 산항에 유입되는 경우, 자본금도 없고 기술도 없으므로 결국 부두나 역에서 짐을 운송하는 지게꾼이나 매축공사장의 인부가 될 수밖에 없었다. 춘궁기에 농촌을 떠난 농민들이 특히 부 산으로 몰려들었던 데에는 일본 도항을 통해 활로를 모색하려는 의도도 있었다. 그러나 일제 당국의 도항 저지로 좌절되거나 또는 밀항했다가 송환되어 와서 고향으로 돌아가지 못하고 결국 부산에 주저앉는 경우가 많았다.55) 이들은 부두나 역, 공사장이 가까우면서도 집세가 싼 영주정이나 초량정 혹은 수정정 등지의 산지에 거주했다.56) 셋째 식민도시 건설과정에서 생계기반과 주거지를 박탈당한 조선인들이 산지로 구축되는 경 우도 있었다. 즉 부산면이나 沙中面의 토착민들은 주로 어업에 종사해왔는데, 개항 이후 축항과 매립공사로 인해 종전의 업을 폐기하지 않을 수 없게 되면서 결국 경제적으로 몰락하여 산지에 51) 大京城과 大釜山雄姿, 매일신보 1936년 2월 15일; 都市計劃と新興釜山, 부산일보 1936년 4월 5일. 1936년 서면과 사하면 암남리 2區를 편입하여 부산부 2方里가 6方里로 확대되었다. 52) ( 교외에 공업지구, 조선일보 1939년 3월 15일. 53) 개항 후 전국 각지에서 부산으로 상인들이 모여드는 양상과 그 경로에 대해서는 오미일, 개항장과 이주상인, 한국근현대사연구 47, 한국근현대사학회, 28, 47~52쪽 참조. 54) 예를 들어 대신동 빈민굴의 이춘성이란 노인은 본래 충청도 서천 사람으로 개항기에 부산에 장사하러 왔다 가 실패하고 산동네에 눌러앉게 되었다(車相瓚, 南隊, 별건곤 22호, 1929년 8월). 55) 渡航者 俄然激增, 渡航沮止 流浪民處置問題, 매일신보 1931년 4월 26일, 1936년 7월 13일; 三萬四千 細民階級, 동아일보 1939년 4월 15일. 56) 在釜山 白衣人, 釜山의 貧民들을 보고, 동아일보 1923년 11월 9일. 134

초막을 짓고 살게 되었던 것이다. 57) 또는 일본인들이 전관거류지 밖 조선인 마을의 대지를 점탈, 구매하거나 혹은 경부선 역사 건설이나 도로 부지, 市 區 改 正 으로 조선인들의 토지를 강제수용하 면서 결국 山 邊 으로 구축되었던 것이다. 결국 산동네는 외지로부터 유입된 이주민들이나 부산의 식민도시 건설과정에서 구축된 토착 민들에 의해 형성된 주거공간이었다. 부산부 인구증가의 주요 원인은 첫번째와 두번째 상업을 목적으로 혹은 일자리를 찾아 외지로부터 유입되는 이주민이었다. 부산지역 인구 증가에서 일본인에 비해 조선인 증가율이 매우 높은 것은 지방농촌으로부터 도회로 집중되는 현상때 문이었다. 58) 그런데 지형상 평지가 적은 부산에서 이들을 수용할 수 있는 주거공간은 항만 과 시가지의 배후 산지밖에 없었다. 그러면 산동네란 주거공간이 형성되는 시기는 언제부터이며, 여러 산동네가 조성되는 순차적 과정은 어떠했을까? 문헌상으로 부산의 산동네가 처음 언급된 것은 동아일보 1921년 8월 7 일자 기사이다. 부산은 조선에 뎨일 큰 항구이요 세계 각국의 일홈난 명사가 조선을 방문하는 첫 문간인즉 부 산은 실로 조선사람을 세계에 소개하는 첫 인상의 중요한 곳이라. 이곳에 사는 조선사람의 인구 가 사만오천여명이 잇스나 생존경쟁의 격렬한 물결에 부듸치인 조선사람들은 차차로 시가의 번 화한 거리로부터 쫒기여 영주동 뒤 산에 게딱지 가튼 초가집을 짓고 눈으로 참아 볼 수 업는 가 련한 현상에 잇는 거슨 조선을 처음 찻는 여러 외국사람에게 말할 수 업는 치욕이라. 59) 이 기사는 1921년부터 시작된 초량정 부산진 수정정 범일정의 시구개정으로 인해 조선인 주 택이 철거되는 것을 계기로 주택난이 심화되자, 조선인 유지들이 중심이 되어 주택난구제기성회 를 발기하고 시민대회를 열어 부산부에 대책을 요구하는 내용이다. 이로 보아 영주동 산동네는 1921년 이전, 적어도 191년대 이전부터 형성되었을 것으로 보인다. 그런데 산지에 조선인 주거공간이 가장 먼저 형성된 곳은 영주동이 아니었다. 앞에서 산지 주 거공간의 형성경로에 대해 세 가지 유형으로 나누어 살펴보았다. 그런데 산지 주거공간 발달의 주요한 계기는 도시건설 과정의 대형토목사업, 그리고 산업공간의 배치와 밀접하게 관련된다. 먼저 개항 당시 수백 호에 불과했던 부산항에 토지로부터 유리된 농민들을 대거 유입시킨 주 요 원인은 근대적 식민도시 건설을 위한 각종 토목 건설공사였다. <표 5>는 부산에서 전개된 대표적인 대규모 공사를 정리한 것이다. 1919~1928년 십년간 전개된 제2잔교 축항 2기공사에 동원된 일본인과 조선인, 중국인 노동자 연인원이 평균 39만 4천여 명인 것으로 보더라도 대형 건설공사는 노동력 유입을 촉발하는 주요 변수였음을 알 수 있다. 57) 在 釜 山 白 衣 人, 釜 山 의 貧 民 들을 보고, 동아일보 1923년 11월 9일. 58) 釜 山 の 現 住 戶 口, 부산 3권 2호, 1928년 2월, 2쪽. 1927년 경우 일본인증가율은 8리인데 비해, 조선인 증가율은 9푼 8리였다. 경제가 부진하면 일본인들 중에는 본토로 돌아가는 이들도 많았으나 농촌의 조선인 들은 오히려 도회로 몰려들었다. 59) 市 區 改 正 에 伴 하야 釜 山 府 의 주택난, 동아일보 1921년 8월 7일. - 135 -

<표 5 > 개항~194년 부산지역 건설공사 공사시기 공사명 공사 내용 비용 연인원 1888.11~1889.12 착평공사 복병산과 용두산의 중간구릉 착평 192.7~194. 12, 북빈매축공사 북쪽 해안 41,37여 평 매축 197.4~198.8 196~1912 부산세관공사 제1잔교 축조, 세관창고 건설 1,511,437원 199.5~1913.8 兩 山 착평공사 매축지 신시가 조성 17만 3천여원 ~1926.6 牧 島 蕯 摩 窟 매축공사 4만2백여평 매립 4만 원 1911~1919 축항 제1기공사 제2잔교 축조, 창고 및 上 屋 건축 3,811,617원 489,832(일) 533,943(일) 1919~1928 축항 제2기공사 海 陸 連 路 설비 확장, 방파제 건설 7,866,975원 1,49,394(조) 1,996,866(중) 1921~1927 市 區 改 正 事 業 초량정 수정정 좌천정 범일정 조선기업주식회사가 144,188평 매 1913.6~1918 부산진매축공사 립 부산진매축주식회사가 16만 평 매 1927~1932 부산진1구매축공사 26만 원 립 북빈연안무역설비공 북빈 佐 藤 町 전면 1만1천2백여 1928.11~1931.9 사 평 매립. 繫 船 岸 壁, 物 揚 場 축조 41만 원 남빈정 부평정 초장정 녹정 부민정 1929.2~ 남빈매축공사 해면 145,24평 매립, 방파제 축조 1931~1934 牧 島 渡 津 橋 공사 36만 원 부산진매축주식회사가 해면 27만 1936~1939 부산진2구매축공사 7만 원 평 매축, 잔교 건설, 護 岸 공사 자료: 釜 山 築 港 略 志, 조선총독부, 1937; 森 田 福 太 郞, 釜 山 要 覽, 부산상업회의소, 1912, 16~17 쪽; 北 濱 幹 線 道 路 와 牧 島 渡 津 橋, 매일신보 1931년 2월 19일. <표 5>를 보면 토목 건설 공사가 전관거류지 내의 복병산착평공사를 시작으로 19년대에 북 빈매축공사, 세관공사를 전개할 시기에는 유입노동자의 거처는 거리상으로 가까운 서부신시가 의 곡정과 대신정 산지였을 것이다. 그러나 191년대 양산착평공사와 축항제1기공사가 이루어 지는 시점에는 노동자들의 주거공간으로 영주정의 산지가 발달했을 것으로 보인다. 초량과 부산진의 배후 산지는 195년 경부선 부설로 평지에서 구축된 토착민에 의해 주거공 간으로 형성되기 시작하여, 192년대 이후 초량 수정정 시구개정과 부산진매축공사가 이루어지 면서 확대 발달하기 시작했다. 다음으로 부산의 도시화가 전관거류지를 중심으로 먼저 서부신시가가 이루어지고, 이후 동 쪽방면으로 확대되어 나간 경로는 앞에서 보았듯이 산업공간의 배치, 이동과 관련된다. 부산진 매축을 통해 새로운 산업공간을 획득하면서 부평정의 공장은 감소되고 초량 이북 좌천정 범일정 으로 산업공간이 이동하기 시작했다. 이에 따라 192년대 중반 이후 주거공간도 이동했을 것이 다. 따라서 초량 이북 수정정과 좌천정 등지의 산록에 조선인들의 주거공간이 본격적으로 조성 된 것은 부산진 매축공사로 인한 노동자 유입과 6) 이후 이 지역이 공장지대로 변화되면서일 것 이다. 앞에서 보았듯이 192년대 중반 이후 좌천정에 고무공장, 범일정에 방직공장을 중심으로 공장지대가 형성되면서 직공들은 수정정이나 좌천정의 산록에 주거공간을 마련하기 시작했다. 6) 1937년 2월 임금 인상을 요구하며 파업한 부산진매축공사장 인부 1천 3백여 명의 주거지는 영주정 수정정 좌천 정 범일정 서면 등지에 거주하는 극빈자들이었다. - 136 -

192년대에 들어서 부산진방면이 얼마나 발달했는지는 1931년 이곳 지역유지들과 주민들이 수 정동 좌천동 범일정에 각종 사업, 회사가 시설되어 주민과 商 家 가 격증함에 따라 수정정 부근에 약 2만 평의 料 亭 및 藝 妓 屋 구역을 설정해주도록 청원하는 것을 통해서도 충분히 짐작할 수 있 다. 61) 요컨대 산동네는 전관거류지의 서쪽 조선인 거주지를 점탈하여 신시가를 건설함으로써 원래 이곳에서 거주하던 조선인들이 곡정이나 대신정 산지로 구축되면서 형성되었다. 이렇게 형성된 이곳 산지의 주거공간은 부평정의 공장에서 일하거나 부두나 역에서 일용노동자로 일하기 위해 외지에서 모여든 이주민들로 인해 더욱 발달했다. 이어서 보수정 영주정의 산동네는 19년대 이후 항만시설과 착평공사와 같은 대규모 토목공사가 진행되면서 토지에서 유리된 농민들이 유 입되어 발달했다. 초량과 부산진의 배후산지는 생계수단인 어업을 포기할 수 밖에 없거나 혹은 경부선 부설로 구축된 토착민들에 의해 주거공간으로 형성되기 시작했다. 이후 시구개정사업으 로 구축된 이들과 부산진매축공사로 유입된 일용노동자자들에 의해 더욱 확대되었다. 이후 부산 진매축공사로 획득된 평지가 공업지대로 조성되면서 192년대 중반 이후에는 범일정의 공장 에 서 일하는 직공들의 배후주거지로 기능했다. 편 앞에서 보았듯이 189년대 이후 목도의 평지에 는 속속 공장이 들어섰고 이에 영선정에도 공장노동자들의 배후주거지인 산동네가 형성되기 시 작했을 것으로 보인다. 이러한 산동네의 순차적 형성은 조선인 세민(혹은 노동자) 통제를 위해 지역별 방면위원제 를 62) 설치한 순서와 같다는 점에서 신빙성을 더해준다. 즉 1933년 2월 제일 먼저 대신동(서부 제1구)과 영주정(중부 제1구)에, 1934년 5월 목도(남부 제1구)에 방면위원제를 설치했고, 이후 1935년 1월에 중도정 곡정(서부 제2구), 초장정(서부 제3구), 1936년 3월에는 초량정(북부 1 구), 좌천정 수정정(북부 2구), 범일정(북부 제3구)에 설치하여 산동네의 형성 순서와 유사함을 알 수 있다. 63) 2) 산동네의 경관: 식민도시 부산의 로컬리티 앞에서 살펴보았듯이 山 腹 이나 山 頂 에 거주하는 주민은 상당수가 조선인이었다. 그런데 이 들 조선인의 거의 대부분은 세민(빈민)이거나 토막민이었다. 산리지역 조선인 세궁민의 직업 은 지게꾼이나 인부(일용노동자)가 가장 많았고 그 다음으로 행상 노점상 그리고 공장 직공 순이었다. 64) 61) 부산부 북부주변 料 亭 地 區 設 定 請 願, 매일신보 1931년 12월 8일. 62) 방면위원제는 오사카, 코베 등 일본 주요 도시에서 시행하고, 조선에서는 처음으로 1927년 경성부에 설치 했다. 방면위원제는 중산계급 이하 생활개선빈곤자의 援 助 敎 養 을 통해 사상계의 변동에 수반하는 사회적 위험을 막기 위한 사회적 시설이 필요한데 그것을 수행하는 조사실행기관 이었다. 즉 방면위원은 구역 내 일 반적 생활상태를 조사하여 그 개선 향상의 방법을 연구하는데, 경찰관 학교관계자 유지 가운데에서 부윤이 촉탁했다( 釜 山 に 方 面 委 員 制 度 設 置 の 必 要, 부산 2권 9호, 부산부, 1927년 9월). 63) 愈 よ 釜 山 に 出 來 る 方 面 委 員 先 づ 大 新 町 と 瀛 州 町 に, 부산일보 1933년 2월 21일; 방면위원제 실시, 동 아일보 1933년 2월 25일; 부산부서부에 二 方 面 委 員 新 設, 매일신보 1935년 1월 9일; 방면위원을 신설 부산세궁민 구제, 매일신보 1936년 1월 11일. 방면위원제 확충, 매일신보 1936년 3월 1일. 조 선에서 방면위원을 처음 설치한 곳은 경성뿐이었는데, 부산에서 두번째로 실시되었다. 64) 차상찬, 南 隊, 별건곤 22호, 1929년 8월; 在 釜 山 白 衣 人, 釜 山 의 貧 民 들을 보고, 동아일보 1923년 11월 9일; 嚴 冬 에 떠는 土 幕 民, 절도 전염병 발원지는 細 民 蝟 集 의 工 場 街, 동아일보 1937년 12월 5 일, 1939년 6월 16일. - 137 -

부청 사회과나 경찰서에서 실시하는 세궁민 조사 시 대상지역은 항상 조선인 거주지역인 산동네이었다. 65) 예를 들어 1927년 부산사회사업연구회가 細 民 窟 조사 시 관할 경찰서의 도움을 받아 부내 동쪽과 서쪽으로 나누어 서쪽은 초장정 곡정 대신정 방면, 동쪽은 영주정으 로부터 부산진에 걸친 일대를 조사했던 것을 들 수 있다. 66) 1928년 12월 부산경찰서에서는 각 파출소원의 실지조사에 의해 세민의 분포, 실제 상황 에 관한 자료를 수집했다. 그 결과 경찰은 일본인측에서는 소위 세민은 찾아 볼 수 없었지만 가장을 잃거나 혹은 가장의 병 때문에 일가의 생계가 곤란하게 된 빈곤자가 17호, 37인이라 고 발표했다(<표 6> 참조). 반면 조선인측은 287호, 884명으로 전체 세민 호수의 95%, 인 구수의 96%가 조선인이었다. <표 6>은 1928년 町 別 로 세민 분포를 조사한 것이다. 표를 보면 세민이 가장 많이 거주 하는 곳은 대신정(25%)이고, 그 다음이 영주정( 山 里 포함, 22%), 목도(13%), 수정정, 곡정 순임을 알 수 있다. 67) <표 6> 1928년 12월 부산지역 세민 분포 현황 구역 호수 가족수 일본인 조선인 수정정 19 62 1호/ 2인 18호/ 6인 범일정 14 23 1/ 1 13/ 22 좌천정 5 12 1/ 1 4/ 11 대신정 71 225 중도정 2 2 곡정 15 61 부민정 4 22 초량정 17 57 1/ 4 16/ 53 영주정 13 29 2/ 3 11/ 26 1937년 11월 부산부 사회과에서 토막민과 불량주택거주자의 생활상태에 대해 조사했는데 토막민은 19호 325명, 불량주택자는 245호 11,813명이었다. 이들의 생계수단을 보면 인부가 836호로 제일 많았고, 그 다 음 소상인 행상인 394호, 공장직공 252호, 기타 918호 등으로, 기타를 제외하면 일용노동자가 제일 많고 그 다음에 행상, 공장노동자 순이었음을 알 수 있다. 세궁민의 이러한 생계수단 순위는 1939년 6월 북부서 조 사에서도 마찬가지였다. 전시하에서 공업이 발달한 193년대 중후반에 전체 세궁민의 1%가 공장직공인 것 으로 보아 이전에는 이 비율이 더욱 낮았을 것이다. 따라서 세민의 경우 대부분 수입이 불확실한 일용노동자 였음을 알 수 있다. 65) 年 內 부터 실시될 예정인 부산부의 方 面 委 員 은 細 民 의 大 部 가 조선인이기 때문에 方 面 委 員 도 조선인을 선정 촉탁하고 있는데 ( 釜 山 に 方 面 委 員, 부산일보 1932년 12월 1일). 66) 社 會 事 業 硏 究 會 の 貧 民 窟 調 査, 부산일보 1927년 12월 5일. 67) 한편 같은 시기에 조선일보는 하루라도 근육노동을 하지 않으면 살 수 없는 사람들 을 기준으로 한 세민이 총 2,129호, 8,62명이라고 보도하여 상당한 차이를 보인다. 그런데 이 기사에서는 영주정이나 수정정, 좌천 정 등이 빠져 있으므로 이 기준의 세민 숫자는 더욱 늘어날 것이다. 그러나 정별 분포에서 대신정에 가장 많 은 세민이 집중되어 있는 것은 일치한다. <표> 1928년 지역별 세민 분포 지역 호수 구수 곡정 567 (27%) 2,15(25%) 대신정(중도정, 신창리) 84 (38%) 3,366(39%) 영선정 244 947 초량 18 531 총계 2,129 8,62 자료: 釜 山 警 署 細 民 詳 密 調 査, 조선일보 1928년 9월 26일. - 138 -

同 山 里 41 168 목도 38 114 4/ 13 33/ 11 남부민정 19 53 초장정 18 6 綠 町 1 3 토성정 3 16 보수정 2 6 1/ 3 1/ 3 부평정 2 8 내지인빈곤자 대창정 1 1 내지인빈곤자 본정 1 1 내지인빈곤자 계 286 923 16/ 37 27(95%)/ 886(96%) 자료: 府 內 に 於 ける 細 民 調 査, 釜 山 4권 1호, 1929년 1월, 35쪽. 세계대공황을 겪으면서 부산지역 빈민층의 숫자는 급속도로 증가했다. 이들은 다른 사람 의 토지를 소작하여 근근이 생활을 하여 오던 중 곡가 폭락과 채무로 몰락하여 인근 농촌에 서 몰려든 유리민들이었다. 68) 부산부 조사에 따르면 1932년경 구제를 요하는 궁민 즉 최빈 민층은 총 45호, 1,574명으로 지역별로는 곡정 171호, 778명/ 초장정 69호, 336명/ 대신 정 48호, 157명/ 영주정 37호, 129명/ 영선정 25호, 85명/ 초량정 11호, 48명/ 좌천정 6호, 24명 순으로 분포되어 있었다. 69) 대신동에 빈민이 많이 거주했지만, 최극빈자가 가장 많이 거주하는 곳은 화장장이 위치한 곡정 부근이었다. 7) 1936년에는 기아선상에서 방황하는 극빈자가 2,7여 호, 1만 3천여 명으로 조사되었다. 이들 대부분은 교통이 불편하고 上 水 飮 料 가 불결한 시가 부근의 山 麓 이나 山 腹 에서 움집을 짓고 생활하는 이들이었다. 71) 조선인 세궁민이 거주하는 산지 주거공간은 지형상 驛 과 항구의 맞은편에 위치했다. 따라 서 외지에서 온 이들의 시야에 가장 먼저 들어오는 장소였다. 무릇 첫 여행자가 이 항구에 나려서 맨 처음 一 警 을 喫 할 것은 市 街 위의 山 비탈에 疊 疊 히 지어 올린 가옥일 것이다. 이 土 民 의 部 落 으로 山 全 體 가 거대한 아파-트를 형성하고 있 는 觀 으로서 밤이면 그 燈 불과 한울의 별을 구별하기 조차 어려웁다 72) 부산항에서 본 부산의 밤은 일견 고루거각이 즐비한 듯 보이나 실은 부산을 둘러싼 주위 의 산꼭대기로 올라가면서 세궁민이 집을 짓기 때문이다 73) 위 인용문에 나타나듯이, 일본인이나 외국인이 부산항에 발을 딛으면서 혹은 외지인이 부 산역에 내려서 고개를 들면 바라다 보이는 산동네의 경관은 부산의 첫 인상이었다. 밤에 보 68) 부산에 걸인 격증, 조선일보 1931년 2월 12일. 69) 釜 山 府 內 의 窮 民, 동아일보 1932년 6월 21일. 7) 부산일보 1927년 12월 5일. 71) 貧 民 을 위한 施 設 此 亦 釜 山 의 緊 急 問 題, 조선일보 1936년 1월 4일. 72) 柳 致 環, 너무나 浪 漫 的 인 釜 山, 신동아 56호, 1936년 6월. 73) 釜 山 細 民 地 區 設 定, 조선일보 1939년 12월 15일. - 139 -

면 반짝이는 불빛으로 인해 아름다운 문명의 마천루는 아침이 되면 신기루같이 사라지고 차 마 드러내기 민망한 도시의 치부로 변했다. 釜 山 港 頭 에서 눈에 잘 띄는 장소, 高 燥 地 帶 는 영주정 토성정 초장정 대신정 보수정 수 정정 좌천정 영선정 범일정 녹정 뒷 편 등의 각 방면에 걸쳐 매우 비위생적이며 風 紀 를 해 치고, 公 安 을 위협하는 불량주택이 대략 4천 5백 호를 헤아리기에 이르렀다. 本 月 初 頭 池 上 정무총감의 巡 視 에 즈음하여 醜 穢 함이 너무 심하여 이러한 종류의 주택이 散 在 하는 實 況 을 지적당하고 도시의 面 目 上 사회시설의 見 地 로부터도, 공중위생 또는 풍기, 공안상으로도, 도시산업의 진전이라고 하는 방면으로부터도 이들 散 在 한 불량주택은 적당한 一 地 區 를 한정 하여 集 束 整 理 를 실행하는 것에 대해 香 椎 商 議 會 頭 가 처음으로 府 內 자산가 여러 사람의 이해있는 義 擧, 發 奮 을 희망했다. 74) 위 인용문에서 나타나듯이 정무총감이나 부산부 통치당국, 그리고 일본인 지역유지들에게 산동네는 공중위생을 위협하며 범죄와 빈번한 화재 발생의 온상이었고, 또한 조선 제2의 상 공도시 부산의 체면을 구기는 공공의 적으로 인식되었다. 따라서 산동네를 도시문명의 마천 루로 정비하기 위해서는 토막과 불량주택을 철거하거나 만약 철거하기 어렵다면 외부의 시 선으로부터 차단된 공간으로 격리하는 작업이 필요했다. 1928년 이후 부산사회사업연구회가 공중위생, 도시미관과 치안 등을 이유로 세민지구 설 치를 계속 주장해온 것은 이러한 배경에서였다. 75) 그러나 同 연구회가 세민지구 설치를 제 기한 가장 주요한 이유는 바로 도시의 체면 즉 도시경관 때문이었다. 부산사회사업연구회 76) 는 1927년부터 부산지역 세민 실태에 대해 현장답사를 하고 세민지 구 설치를 위한 구체적 실현방법을 연구하여, 1928년 9월 부산부윤에게 <부산세민지구설정 안>을 제출했다. 77) 이를 보면 세민지구란 부정적인 명칭을 피하기 위해 釜 山 授 産 地 區 라고 하고 죽세공류 및 團 扇 의 제조를 목적으로 한다고 밝혔다. 가장 중요한 것은 세민지구의 위 치로 곡정 공동묘지의 뒷 편, 大 浦 灣 을 面 한 경사지대였다. 계획안에서는 이곳의 장점으로 음료수의 풍부함, 토지가 넓어 위생시설상 호조건인 점, 市 街 의 体 裁 를 파괴하는 것이 절대 로 없으며, 地 價 가 저렴하고, 市 街 로 通 勤 勞 動 하는 자의 교통거리가 가까운 점을 들고 있다. 주목되는 것은 시가의 체재를 절대로 파괴하지 않는다 는 점이다. 이는 바로 세민지구 설정 의 목적 즉 대륙의 관문이자 제2상공도시인 부산의 불량주택을 철거함으로써 도시경관을 개 선하려는 의도를 잘 드러낸다. 78) 곡정의 뒷 편은 부산항이나 부산역, 옛 전관거류지 상업구 74) 言 論 : 釜 山 緊 急 施 設 細 民 地 區 を 設 定 せよ (상), 부산일보 1928년 1월 25일. 75) 釜 山 細 民 地 域 設 定, 부산일보 1928년 6월 13일; 言 論 : 釜 山 緊 急 施 設 細 民 地 區 を 設 定 せよ (상), 부산일 보 1928년 1월 25일. 76) 본 연구회는 강령에서 소극적인 사회사업 뿐만 아니라 적극적으로 근본적인 社 會 整 齊 를 기조로 하고 중소상 공의 금융문제, 상공의 합리화, 산업의 진흥증식, 도시계획에 관한 연구를 내세우고 있다( 釜 山 社 會 事 業 硏 究 十 二 月 例 會 記 事, 부산 3권 12호, 1938년 12월, 34쪽). 77) 言 論 : 釜 山 緊 急 施 設 細 民 地 區 を 設 定 せよ (상), 부산일보 1928년 1월 25일; 부산세민지구설정안, 부 산 3권 1호, 부산부, 1928년 1월, 36~37쪽; 釜 山 社 會 事 業 硏 究 十 二 月 例 會 記 事, 부산 3권 12호, 1938년 12월, 34쪽. 78) 부산사회사업연구회는 세민지구 면적을 2만평, 지가비용 6천 원을 계상하고 1가족에게 1평을 할당하고 평 - 14 -

역의 시야에서 조망되지 않는 차단된 지역이면서도 철도, 항만시설이나 상업구역과 가까워 필요한 노동력을 쉽게 조달할 수 있는 지역이란 점을 고려했을 것이다. 그러나 세궁민을 산 동네에서, 도시 중심에서 몰아내기는 쉽지 않았다. 79) 세민지구 설정은 궁극적으로 식민권력이나 일본인 유지들이 조선인 세궁민들을 교외로 구 축하고 시가지를 재정비하려는 도시계획의 일환이었다. 반면 조선인사회에서는 주거공간 문 제를 주택난 의 해소로 보고 시민단체를 중심으로 부청에 압력을 가했다. 즉 1921년 8월 부 산청년회가 중심이 되어 부산주택난구제기성회를 조직하고 주택조사위원을 선정하여, 각 호 의 家 主 貸 主 家 賃 貸 料 가족수 등 현황을 조사하는 한편, 주택부족 원인과 구제방법을 연구 하여 시민대회를 개최했다. 8) 시민대회에서는 현재 조선인 주택난의 원인은 일본인이 토지 를 다수 점유하고 있기 때문이라고 진단했다. 그리고 부산부 당국이 일본인의 주택문제에 대 해서는 정밀하게 조사하여 완화책을 강구하면서도 조선인 주택문제는 도외시하고 있다고 성 토했다. 81) 부산청년회는 1922년 8월 부산차가조합을 창립하고 차가료 인하 등을 주장하며 주택문제 해결을 위해 구체적 방안을 제시하고 행동하기 시작했다. 82) 일본전관거류지에서 출발하여 조선인 거주지를 구축하며 근대 도시로 형성된 부산의 경관 은 곧 식민지 조선의 로컬리티였다. 昨 年 末 現 在 의 釜 山 居 住 民 은 朝 鮮 人 이 一 萬 三 十 一 戶 에 日 本 人 이 八 千 百 十 一 戶 이오 그 外 에 六 十 四 戶 의 其 他 外 國 人 이 잇다. 卽 朝 鮮 人, 日 本 人 約 半 々인 셈이다. 그런대 日 本 人 中 의 迫 間 房 太 郞 과 가튼 사람은 그 一 人 의 富 力 이 一 萬 三 千 一 戶 朝 鮮 人 의 全 富 力 을 當 하고도 有 餘 한다. 朝 鮮 人 의 經 濟 的 亡 狀 의 標 本 을 보라. 그것은 釜 山 의 朝 鮮 人 이다. 는 朝 鮮 에 在 한 日 本 人 의 發 展 의 標 本 을 보라. 그것은 釜 山 의 日 本 人 이다. 朝 鮮 八 路 의 地 點 이 이러케만 되리라. 이것이 나먹신 는 族 屬 의 希 望 이오 죄다 이러케 되게 하리라. 이것이 朝 鮮 에 在 한 日 本 爲 政 者 의 일하는 솜씨이다. 釜 山! 그곳은 한 무셔운 큰 窟 穴 이며 巢 窟 이다. 大 新 洞 貧 民 窟 의 窟 됨은 말할 것도 업고 朝 鮮 의 富 를 搾 取 하는 幾 多 日 本 人 有 力 家 의 屯 聚 한 巢 窟 이며 虛 榮 失 業 家, 無 識 富 家 者 의 屯 聚 하는 巢 窟 이며 幾 多 의 可 憐 한 朝 鮮 有 産 者 의 黃 金 ㅡ 文 券 을 落 失 하는 洞 窟 이다. 83) 윗글에 잘 나타나 있듯이 조선의 도시들 가운데 부산은 일본인의 비율이 가장 높고 또한 당 월 3전의 地 料 를 지불하며, 가옥은 각자 건축하도록 계획했다. 79) 193년대에도 부산부에서는 세민지구 설치를 계속 시도했으며 또한 총독부에서도 실지조사를 행하는 등 협 조적 태도를 보였다. 그러나 부 예산과 총독부 보조금 문제로 실현되지는 못했다. 1939년 부산부는 초장정 배면지구, 영주정 산리, 부산진 세 곳에 세민지구를 설정하는 안을 만들었다( 釜 山 府 累 年 宿 案 細 民 區 設 置 在 邇, 부산세민지구설정, 조선일보 1937년 7월 17일, 1939년 12월 15일). 8) 주택난구제 부산시민대회, 조선일보 1921년 8월 23일. 81) 주택구제에 대하야 조선인측의 절규, 조선일보 1921년 9월 2일. 82) 釜 山 借 家 組 合 總 會, 동아일보 1922년 4월 2일. 조선인 시민단체의 적극적 대응 결과 부산부청은 1925년 이후 대신동 중도정 곡정 영주정 수정정 초량정 등지에 115호의 주택을 건설하여 임대해주었다. 1939년에는 목도와 범일정에도 각기 5호씩 부영주택을 건설했다( 부산부영주택, 부산에 부영주택, 조선일보 1925 년 1월 28일, 1925년 2월 1일, 1939년 9월 3일). 83) 小 春, 釜 山 의 貧 民 窟 과 富 民 窟 - 南 海 一 帶 를 어름어름 지내든 追 憶, 개벽 34호, 1923년 4월. - 141 -

일본인의 경제 장악력이 가장 강했다. 때문에 외지에서 온 조선사람들에게 부산은 家屋으로 나 飮食으로나 衣服으로나 또는 言語로나 朝鮮的 文化가 너무나 없어 마치 日本人이 처음 꾸민 都市안에 朝鮮사람이 移住하여 온 것처럼 느끼게 만드는 곳 84)이었다. 부산의 조선인은 조선인의 경제적 亡狀의 표본 이며, 부산의 일본인은 일본인의 발전의 표본 이었다. 조선인의 경제적 몰락과 일본인의 번성의 표본인 부산 내에서도 산동네는 그 표본의 압축적 공간이었다. 게딱지같은 집의 소유주는 하자마로 대표되는 일본인 대지주들이 었고 이들에게 꼬박 꼬박 집세를 바치기 위해 일용노동자나 공장 직공으로 일하는 조선인들 의85) 주거공간, 산동네는 바로 식민지 근대 조선의 로컬리티이다. 근대 부산의 로컬리티는 일본인전관거류지가 조선인거주지를 구축하면서 가장 빠르게 발 달된 대표적 식민도시라는 점이다. 그리고 산동네는 이러한 부산 로컬리티가 시공간적으로 압축된 역사적 장소이다. 5. 맺음말 오늘날 부산의 랜드마크가 광안대교로 일반화되면서 광안대교 주변의 경관, 즉 바다를 조 망하는 센텀시티와 해운대의 초고층빌딩이 부산의 대표적 경관으로 자리잡아가고 있다. 그러 나 199년대까지만 해도 부산의 랜드마크는 용두산공원의 타워였고, 용두산과 부산역에서 빤히 바라다 보이는 산동네가 부산의 첫 인상으로 기억되는 경관이었다. 기억 경관 이자 오 늘날에도 여전히 상징적 경관 으로 이야기되는 산동네는 부산 도시공간의 생산과 구획, 그 리고 산업발달과 관련된 역사적 구성물이다. 일제시기 일본인들은 도시 구획 시 지형이 비슷한 코베나 나가사키를 모델로 원용했다. 공 업지구 주택지구를 구획하고, 초량-보수정 간에 산복도로를 開鑿하며, 초량-대신정 간에 터 널을 굴착하기 위한 사업을 제기한 것 등이 그러했다. 그러나 이러한 도시설계 즉 일본전관 거류지가 확대되며 근대 도시로 형성되는 과정은 단지 공간의 외연적 확장이란 현상에 그치 는 문제가 아니다. 이는 일본제국의 대륙의 관문 으로 짧은 시기에 과다하게 팽창된 도시에 이주한 많은 일본인과 생계를 위해 몰려든 각지의 조선인들이 어디에 어떻게 거주했던가의 문제이다. 부산의 산동네는 도시 공간의 위계적 배치와 분포를 통해 만들어진 특정한 공간적 형태였다. 84) 柳致環, 너무나 浪漫的인 釜山, 신동아 56호, 1936년 6월. 85) 차상찬, 앞의 글. 142

전 洞 町 名 호구 민족 192.1 1923년말 1926.12 1928.12 1931.12 1933.12 증가율 일 262 27 299 288 235 231.89 관 호 조 4 5 3 3 거 외 - - 3 2 1 - 幸 町 류 일 1,173 1,234 1,192 1,161 1,78 1,55.9 지 구 조 91 98 126 19 변천정 琴 平 町 南 濱 町 本 町 西 町 常 盤 町 대청정 호 구 호 구 호 구 외 49 49 5 3 3 - 일 192 196 193 225 245 241 조 - - 1 2 3 - 외 1 2 1 일 1,217 1,28 1,191 1,219 1,443 2,482 2.4 조 47 47 134 135 15 154 3.28 외 2 8 5 일 54 57 51 조 - - 1 일 215 114 24 조 12 2 13 일 338 347 319 32 149 266 조 2 3 12 16 194 1 외 1 2 2 - 일 1,62 1,672 1,453 1,42 915 762.48 조 77 79 15 197 1,1 42.55 외 7 12 8 2 호 일 389 47 397 428 62 588 1.52 조 84 93 12 12 19 92 1.1 외 2 2 3 4 4 1 구 일 1,772 1,893 1,875 1,845 1,882 1,652 호 구 조 369 42 646 611 667 3,216 외 2 2 13 18 9 2 일 623 637 68 593 61 62 조 2 2 4 1 5 7 외 1 1 4 9 4 2 일 2,417 2,552 2,481 2,39 2,375 2,832 1.18 조 51 51 91 13 142 34.67 외 4 4 14 29 13 8 호 일 21 23 19 조 - - 구 일 11 115 92 호 구 조 - - 일 367 385 393 413 451 435 1.19 조 - 2 14 19 32 27 외 1 - - 일 1,639 1,717 1,869 1,886 2,23 1,658 1.2 조 13 19 155 198 256 74 5.7 외 5 - - 신 日 22 26 14 176 호 시 朝 368 384 173 131 富 民 洞 가 일 75 582 766 구 조 1,728 1,8 767 586 일 76 86 14 176 22 247 3.25 호 조 23 32 173 132 153 118 5.13 富 民 町 구 외 1 - - 일 331 39 582 766 826 667 2,2 조 13 129 767 586 515 535 5.2 외 1 1 - - 143 -

일 1,265 1,312 1,363 1,36 1,457 1,481 호 조 73 79? 66 93 48 부평정 외 1 1 2 7 6 2 일 4,947 5,186 5,444 5,553 5,579 5,989 1.21 구 조 33 323 778 522 629 265.88 외 4 4 9 18 16 4 호 日 91 13 133 127 26 23 2.23 朝 39 43 52 39 57 58 1.49 綠 町 外 - 2 1 2 日 681 742 95 738 896 812 1.2 구 朝 237 259 322 352 41 288 1.22 外 2 6 4 6 일 197 257 36 39 445 494 2.51 호 조 585 642 889 931 1,154 1,115 1.91 草 場 町 외 - - 2 1 - 일 951 865 1,342 1,583 1,747 2,52 3.68 구 조 4 2,289 3,634 3,983 4,938 5,88 2.15 외 13 1 5 2 - 호 일 242 258 37 394 433 455 조 133 141 91 78 79 54 土 城 町 외 3 2 2 일 496 1,41 1,577 1,729 1,918 1,786 1.88 구 조 178 43 453 413 443 25.63 외 6 8 6 일 38 4 53 58 65 73 1.93 호 조 79 76 864 958 329 1,313 1.86 谷 町 일 159 182 215 241 1,212 344 2.17 구 조 2,517 2,761 3,514 4,113 4,963 5,74 2.28 호 일 48 64 9 126 187 189 3.94 조 196 221 353 347 399 335 1.71 中 島 町 외 1 1 구 일 177 227 346 532 741 62 3.41 조 823 936 1,437 1,489 1,698 1,554 1.89 외 1 1 호 일 17 196 385 449 649 922 5.43 조 1,185 1,281 1,742 2,34 3,94 4,781 4.4 대신동 외 2 3 3 구 일 742 846 1,682 2,35 2,957 4,73 5.49 조 4,975 5,366 8,373 1,44 13,468 17,492 3.52 외 5 1 3 일 645 691 848 882 852 838 1.3 호 조 345 383 439 453 556 497 1.44 보수정 외 4 4 3 - 일 2,564 2,785 3,548 3,752 3,622 2,362.93 구 조 1,58 1,226 1,899 2,111 2,598 2,33 2.21 외 6 9 11 - 북 일 77 8 68 호 빈 조 1 1 1 池 ノ 町 매 일 349 363 311 구 축 조 43 45 82 지 일 15 17 95 호 조 - 1 7 埋 立 新 町 일 512 531 526 구 조 4 43 94 일 7 76 91 458 521 521 호 大 倉 町 조 4 4 25 86 118 53 외 3 3 1-144 -

中 ノ 町 岸 本 町 高 島 町 佐 藤 町 일 367 411 452 2,192 2,342 2,412 구 조 28 31 127 719 833 351 호 외 15 8 2 일 47 53 68 조 - - 8 일 184 227 36 구 조 - 1 55 호 구 호 구 외 6 일 22 24 63 조 - - - 일 14 154 193 조 15 15 24 일 36 38 42 조 - 1 5 일 177 194 246 조 22 26 66 호 일 35 36 31 조 5 8 19 구 일 14 147 151 조 38 48 118 일 18 15 27 호 兩 조 - - - 高 砂 町 山 일 15 12 154 구 鑿 조 3-2 平 일 47 67 125 174 183 14 市 호 조 1 5 23 13 42 27 街 외 1 1 3 5 4 - 榮 町 일 225 33 572 796 853 533 2.37 相 生 町 藏 前 町 福 田 町 瀛 仙 洞 靑 鶴 洞 구 호 구 호 구 호 구 호 구 1 조 7 21 244 169 335 28 29.72 외 2 2 1 49 27 - 일 5 8 1 조 - - - 외 - - - 일 26 38 51 조 - - - 외 - - - 일 9 1 13 조 - - - 일 38 41 43 조 2 2 - 일 42 48 62 58 62 62 조 - - 1 - - - 일 175 191 257 216 276 242 조 - - 1 3 5 - 일 878 1,8 1,37 1,34 1,146 2,46 조 1,212 1,317 1,859 2,66 2,62 3,373 외 2 2 8 5 5 5 일 3,652 4,144 4,264 4,282 4,449 5,93 1.43 조 4,772 5,148 8,184 8,89 11,264 13,984 2.93 외 5 9 22 11 1 9 일 9 8 11 14 13 17 조 122 134 175 173 245 261 일 39 41 44 51 61 86 2.21 조 617 677 83 91 1,12 1,287 2.9-145 -

東 三 洞 항만내지 인선박 瀛 州 洞 초량동 수정동 좌천동 범일동 호 일 17 17 11 6 7 조 249 261 297 277 344 구 일 54 54 51 28 24 조 1,487 1,53 1,592 1,496 1,756 호 일 69 22 조 1 구 일 22 93 조 1 일 71 16 166 135 159 167 호 조 1,127 1,218 1,817 2,7 2,459 2,642 외 2 2 11 11 3 1 일 286 395 559 58 756 622 2.18 구 조 4,687 5,588 7,679 8,817 1,829 11,752 2.51 외 1 15 36 56 5 2 일 632 683 814 846 961 942 1.49 호 조 1,185 1,21 1,737 1,92 2,434 2,615 2.21 외 34 45 68 58 5 27 일 2,565 2,753 3,479 3,786 4,293 5,65 2.19 구 조 5,248 5,8 8,189 9,187 11,515 12,46 2.38 외 191 215 392 328 174 112 호 일 262 28 43 472 494 622 2.38 조 587 633 99 1,72 1,598 1,768 3.2 외 3 6 6 구 일 1,52 1,13 1,636 1,914 2,9 2,94 2.76 조 2,678 2,942 4,56 5,17 7,12 8,221 3.7 외 8 12 23 일 73 78 43 12 142 162 2.22 호 조 71 752 99 878 994 1,462 2.9 외 5 6 2 7 7 4 일 313 338 1,636 57 672 835 2.67 구 조 3,357 3,666 4,56 4,417 4,68 6,332 1.89 외 15 2 8 16 22 1 일 167 184 228 225 371 358 2.15 호 조 565 61 91 1,131 1,913 1,717 3.4 외 3 4 3 5 7 4 일 7 782 848 927 1,153 2,1 3. 구 조 2,675 2,843 4,585 5,967 9,467 9,186 3.44 외 5 11 5 11 1 8 계 호 일 7,662 8,281 9,584 9,822 1,836 12,358 조 9,512 1,221 14,5 15,578 2,475 23,253 외 55 72 122 142 122 62 구 일 32,786 35,36 4,83 42,246 45,52 51,31 조 4,549 43,886 64,928 73,336 93,674 15,197 외 248 36 592 625 362 21 합계 호 17,229 18,574 23,756 25,542 31,433 35,673 구 73,583 79,552 16,323 116,27 139,538 156,429-146 -

빈곤지역의 사회공간 -오사카시의 도시빈곤문제의 분석카와노 에이지(오사카시립대학) [목 차] 1. 오사카시의 빈곤문제 3. 카마가사키 주거자의 분석 2. 카마가사키(釜ヶ崎)의 개요 4. 마지막으로 1. 오사카시의 빈곤문제 빈곤도시 오사카 오사카시는 현재 높은 실업률(25년 국세조사 11.7%)과 생활보호율(211년 5.8%), 자살 률 등의 사회지표를 보아도 지극히 곤란한 도시사회문제를 안고 있다. 그 문제의 심각성은 다른 대도시와 비교해 보아도 확연히 높다는 것을 알 수 있다(그림 1 참조) 오사카시 삿포로시 자 살 률 고베시 ( 1 만 인 당 동경도 전구 ) 교토시 완전실업률 (%) 그림 1 대도시의 사회지표 147

211년에 실시한 오사카 시장 선거에서는 오사카부( 府 )와 오사카시의 통합에 따른 오사 카도( 都 ) 구상을 내걸고 하시모토 토오루( 橋 本 徹 )라는 새로운 시장이 탄생했다. 하시모토 시 장이 이끄는 오사카 유신의 모임이 선거기간 중 내걸었던 매니페스트에서는 오사카시의 높 은 실업률과 생활보호율을 문제삼아 오사카를 법령지정도시 1) 중 최고빈곤지역 이라고 표현 하고 있다(오사카 유신의 모임, 211). 확실히 다른 대도시와 비교해 보아도 오사카시는 도 시 전체의 빈곤화 라는 커다란 문제에 직면해 있다. 하시모토 시장은 오사카부와 오사카시 의 이원행정을 철폐하고 새로운 도시제도를 수립하여 오사카시 오사카를 재편, 통치기강 그 자체를 바꿈으로써 오사카의 발본적인 개혁에 나서려 하고 있다. 공업화시대의 오사카시역( 市 域 )확장과 포스트 공업시대의 오사카 오사카시는 메이지시대부터 고도경제성장기에 이르기까지, 차츰 그 시역을 넓혀왔으나, 특 히 메이지3년(1897년)의 제1차시역확장과 타이쇼14년(1925년)의 제2차시역확장에서, 지리 적 범위를 크게 확대하였다. 오사카는 원래 현재의 츄오구( 區 ), 니시구( 區 )를 중심으로 하는 상업도시였으나 시역확장으로 오사카 근교를 포함시킴으로써 공업도시화를 추진해 나갔다 (그림 2) 메이지22년4월 (시제시행) 평방킬로미터 메이지3년4월 (제1차 시역확장) 평방킬로미터 다이쇼14년4월 (제2차 시역확장) 평방킬로미터 쇼와3년4월 (인접6개마을 편입) 평방킬로미터 그림 2 오사카 시역의 확장 http://www.city.osaka.lg.jp/johokokaishitsu/page/1265.html 쇼와4년이후 (매립에 의함) 근대의 오사카시는 많은 노동자를 국내외로부터 흡수해 갔지만, 급속한 확대에 대응하는 도시계획의 미정비 등으로 인해 슬럼 등 많은 도시사회문제를 안고 있다. 공업도시 오사카의 도시사회문제는 고도경제성장과 도시사회정책의 정비에 의해 일단은 불가시화되었지만, 세계 2차대전 이후의 공장입지법에 따른 대도시의 공장설치 제약에 의해 시역 외로 공장이 이전 하여, 포스트 공업화의 시대에 들어서자, 공업도시로서 발전해 온 오사카는 한층 더 쇄퇴의 길을 걷게 되었다. 현재의 오사카도 또한 이 시대에 형성된 지역사회구조가 지속되어 현재의 오사카시 주민의 직접구 1) 법으로 지정하는 인구 5만 이상의 도시 - 148 -

성을 살펴보면 전문관리직층은 중심부부터 남북으로 펼쳐진 우에마치( 上 町 )대지( 臺 地 )를 중심으로 밀 이너 링(inner ring)은 블루 칼라 층이 거주하는 구조로 되어 있음을 알 수 있다(그림 3, 그림 4). 그림 3 오사카시 전문관리직율 (25) 그림 4 오사카시 블루 칼라율 (25) - 149 -

게다가 211년 11월의 오사카시 선거에서 개혁을 외치는 하시모토 현 시장의 구( 區 )별 투 표율을 보아도 특히 키타구와 니시구, 츄오구 등의 시 중심부를 중심으로 하시모토 득표율이 높다는 것을 알 수 있다(그림 5). 그림 5 211년 오사카 시장 선거 하시모토 투표율 이상 빈곤도시라고 불릴 정도로 도시사회문제가 집적해 있는 오사카시에서 오피스가가 집 중해 있고 전문관리직 등의 높은 사회계층이 주거하는 지역에서는 지금까지 예전 오사카지 사( 知 事 )시절에 생활곤궁층이나 생활보호수급자에게 엄격하게, 급진적인 제도 개혁을 주장한 하시모토씨의 지지율이 상대적으로 높은 것을 알 수 있다. 현재 빈곤도시 오사카에서는 높은 계층이 주거하는 시 중심부과 블루 칼라 층이 주거하는 이너 에리아(inner area)의 사이에 커다른 계층 분단이 발생하고 있다는 점이 추측 가능하다. 오사카시 주민의 빈곤관 지금까지 일반적으로 계략적인 빈곤연구에서는 빈곤을 정의할 때 등가가처분 소득의 5% 를 빈곤선으로 정의하고 그 기준에 미치지 않는 저소득층을 빈곤층 이라고 간주해 왔다. 그 러나 이러한 빈곤정의는 그 정의의 자의성으로부터 벗어나지 못하며, 그 한 예로, 정의를 6%로 재설정하여 계산하면 상당히 많은 사람들이 빈곤층으로 정의할 수 있게 된다. 이런 습관화된 빈곤정의에 비해 유로스타트(Eurostat)가 실시되고 있는 유로 바로미터 조사에서는 사회적 지위에 따라 빈곤이 어떻게 인지되어있는가, 즉 빈곤관의 조사가 실시되고 있다 (Eurobarometer, 21). 그러나 일본에서는 빈곤 문제가 주목받게 된 것이 약 5년쯤 전부 - 15 -

터이며, 이런 종류의 연구의 축적이 많다고는 할 수 없다. 오사카시립대학의 연구팀에서는 211년 1월 오사카시민 약 3명을 대상으로 대규모조사를 실시하여 빈곤과 사회적배제 와 건강 격차라는 테마에 몰두하고 있다. 이 조사에서는 유로 바로미터조사와 비교가능한 데 이터를 수집하기 위해 빈곤관에 대한 조사 항목을 추가하였다. 우선 기본적인 기술 통계부터 살펴보도록 하겠다. 표 1 빈곤정의 표 1과 같이 사회생활에 참가할 돈이 없음 은 17.2%, 연수입이 15만엔 미만 이 19.4%, 생활보호의 수급 이 14.9%, 사회적 지위가 낮음 이 9.7%, 생활필수품 부족 이 32.4%, 그 외 가 6.2%이다. 빈곤개념은 연구에 따라 다양한 정의가 있는데, 오사카의 경우는 빈곤을 사 회 참가의 자원, 저소득, 부조의 수급, 낮은 사회적 지위보다도, 필수품(needs)의 결여로써 이해하는 사람이 가장 많은 것을 알 수 있다. 사람이 빈곤에 빠지는 원인으로써는, 크게 사회 에 원인이 있는가 개인 에게 원인이 있는 가로 나뉜다. 유로 바로미터와 오사카 조사에서는 이것을 사회가 불공정하니까. 사회가 발 전하면 필연적으로 발생한다 (사회원인)과 할 마음이나 의욕의 결여, 운이 나쁘다 (개인원인) 으로 나누고 있다. 표2 빈곤원인 표 2와 같이, 사회가 불공정 은 3.2%, 사회가 발전하면 반드시 발생한다 는 25.1%로 사 회원인이 합계 55.3%이다. 한편, 의욕이나 노력이 모자라다 가 28.3%, 운이 나빴다 가 - 151 -

7.%로 개인원인이 합계 35.4%이다. 오사카시 조사에서는 빈곤의 원인이 사회 에 있다고 생각하는 사람이 55.3%로 개인 에게 원인을 찾는 사람(35.4%)보다도 많이 나타나고 있다. 가장 많은 대답으로는, 사회에 더 책임이 있다고 생각하는 사회가 불공정 이 3.2%, 다음 으로 많은 것은 개인의 자기책임으로 생각하는 의욕이나 노력이 모자라다 가 28.4%로 빈곤 에 대해 책임이 있는 것은 사회인가 개인인가 하는 차이는 그다지 크지 않다. 빈곤관의 국제비교 위에서 말한 것처럼, 빈곤원인관( 觀 )의 조사는 유로 바로미터 조사가 유럽 각국에서 이루 어지고 있기 때문에 국제비교가 가능하다. 빈곤의 원인이 어떻게 인식되어있는지는 사회에 따라 다르고, 또한 각각의 빈곤관을 통해 그 사회의 특징을 이해할 수 있다. 표 3 빈곤정의의 국제비교 비교에 사용한 데이터는 29년에 실시된 유로 바로미터 72.1 조사이다. 사회참가할 자 원이 없다 라는 대답이 가장 많은 것은 스웨덴의 41.9%, 다음이 핀란드의 4.8%로, 네덜란 드, 덴마크가 이어진다. 에스핀 안데르센의 레짐론의 표현으로 말하자면 사회민주주의 레짐 에 속하는 나라로, 빈곤은 사회참가로의 자원의 결여라고 이해되고 있다. 빈곤선미만 이라는 대답은 그리스가 33.1%, 프랑스가 24.1%로, 포르투갈, 동독이 높게 나타나고 있다. 공적부 조의 수급 은 유럽에서는 덴마크가 가장 높고 프랑스, 서독, 이탈리아가 이어진다. 단 우리 오사카시 조사에서는 생활보호를 받고 있음 이 15%로 유럽 각 나라보다도 높은 결과가 나 타나고 있다. 사회적 지위가 낮음 은 스웨덴, 서독, 동독이라는 결과가 나타났다. 생활필수 - 152 -

품 부족 은 영국, 아일랜드 등 자유주의 레짐이 높다. 오사카시 조사와 유로 바로미터 조사 의 결과를 비교해보면 오사카시는 공적부조수급이 서유럽 평균의 약 2배로 생활필수품의 결 여도 서유럽 평균보다 1포인트 높게 나타나고 있다. 표 4 빈곤원인관의 국제비교 다음으로 빈곤의 원인에 대해서는 사회가 불공정 이라는 대답이 가장 많은 것은 동독 67.8%, 그 뒤로 핀란드, 프랑스가 이어진다. 사회의 진보에 불가피 는 스웨덴이 32.4%, 네 덜란드가 25.3%이다. 이상을 합계하여 사회에 원인이 있다고 대답한 나라는 동독과 스웨덴 이 가장 높다. 개인의 할 마음, 의욕의 결여 라고 대답한 것은 유럽에서는 영국과 북아일랜 드 등 자유주의 레짐이 높지만, 오사카시는 28.3%로 서유럽 각국보다 높다. 불운 이 가장 많은 나라는 덴마크, 다음으로 아일랜드이며 개인에게 원인이 있다는 대답이 많은 나라는 덴 마크, 영국, 북아일랜드로 오사카시는 그 다음에 위치하고 있다. 일반적으로 앵글로색슨국가에서는 자기책임설이 높다고 하지만, 오사카시 조사에서는 그보 다 약간 높게 나타나고 있어, 자유주의 레짐이라고 불리는 여러 나라와 비슷하게, 혹은 그 이상으로 빈곤의 원인을 자기책임으로서 느끼고 있다는 것을 알 수 있다 2). 2) 이 보고에서는 미국의 데이터를 분석하지 못하였지만, 미국의 조사와 유로 바로미터 조사의 결과를 비교 한 윌슨에 의하면, 미국에서 27년에 실시한 조사에서는 아프리카계 아메리카인의 생활곤란의 원인을, 백인 71%, 히스패닉 59%, 아프리카계 53%가 개인의 책임이라고 대답하여 서유럽보다도 확연히 빈곤의 원인을 개인에게 귀속시키는 비율이 높다 (Wilson, 2, p.25) - 153 -

빈곤원인의 규정요인 위에서 살펴본 것처럼, 국제비교의 관점에서 오사카는 빈곤원인을 개인에게 있다고 보는 자기책임의식이 높은 경향이 있으나, 그 다음으로 오사카에서는 오사카에서는 어떤 속성의 인간이 빈곤의 자기책임관을 지지하고 있는지, 빈곤의 자기책임의식의 규정요인을 분석하도 록 한다. 모델 1에서는 성별, 연령, 교육연수, 모델 2에서는 계층, 모델 3에서는 취업노동상황을, 마 지막에는 세대수입과 경제상황을 독립변수로서 추가하고 빈곤의 자기책임을 종속변수로 한 로지스틱 회귀분석을 실시했다. 표 5 빈곤의 자기책임을 종속변수로 한 로지스틱 회귀분석 성별과 연령, 교육연수를 독립변수로서 투입한 모델 1에서는, 성별이.1% 수준에서 유의 ( 有 意 )였지만 블루 칼라를 기준 카테고리로 한 계층을 추가 투입한 모델 2에서는 성별 외에 교육연수와 전문관리 두 항목이 모두 5% 수준에서 유의였다. 취업노동형태를 투입한 모델 3 에서는, 교육연수에 더하여 정규고용이 5%수준에서 유의였다. 한층 더 나아가 세대수입과 경제상황 등 경제적인 변수를 투입한 모델 4에서는 세대수입에서는 유의한 차가 보이지 않 고, 경제상황에서는 1% 수준에서 유의한 차이가 보였다. 이상 분석결과에서 보이는 것과 같이 오사카 시민의 빈곤관은 그 원인을 자기책임으로써 인식하는 경향이 있으며, 규정요인은 성별, 교육연수, 계층이 유의한 영향을 끼치고 있으나, 취업노동형태, 나아가서는 현재의 경제 상황에서 컨트롤하면 교육 이외의 영향이 제외된다, 따라서, 경제상황이 어려워지지 않는 한은 교육 연수가 보다 짧고, 정규 고용에 취업한 층일 수록 빈곤을 자기책임으로서 이해하고 있다는 점을 알 수 있다. - 154 -

지금까지는 오사카시 주민 전체를 모집단으로 한 조사를 바탕으로 오사카 시민이 빈곤을 어떻게 인식하고 있는가를 분석했으나, 다음으로는 빈곤층이 집주하는 지역과 그 주민은 어 떤 상황에 있는가를 고찰해 보고자 한다. 2. 카마가사키( 釜 ヶ 崎 )의 개요 카마가사키의 사회 공간적 위치 오사카시 중에서도 특히 니시나리구( 西 成 區 )의 실업률, 생활보호률은 눈에 띄게 높으며 그 안에서도 일용직 노동자의 거리로 알려져 있는 카마가사키에서는, 예전에 건설 토목 일용고 용에 종사해 온 남성이 노동시장의 변화와 고령화에 따라 일을 잃고 홈리스나 생활보호등으 로 생활을 유지하게 되어 현재는 복지의 거리 라고도 불려지게 되었다. 그림 6은 카마가사키와 그 주변지구의 실업특화계수 3) 를 맵핑한 것이다. 이 그림을 보면, 일용직 노동자가 주로 이용하는 간이숙소와 생활보호수급자가 거주하는 복지아파트가 밀집 한 하기노챠야( 萩 ノ 茶 屋 )1번지에서는 5.1, 하기노챠야 2번지가 4.77, 타이시( 太 子 ) 1번지에 서는 4.94로 오사카시 평균의 약 5배의 실업률이 나타나고 있다. 그림 6 카마가사키 실업률 특화 계수 3) 특화계수는, 각지구의 실업률을 오사카시 형균 실업률로 나눈 값으로 각지구의 값이 오사카시 평균과 비 교하여 몇 배 높은가/낮은가를 알 수 있다. - 155 -

일용직 노동자의 거리에서 복지의 거리로 이런 상황에서 지금까지 일용직 노동자를 주고객으로 경영해 온 간이숙박소 중에는 이용 자의 감소에 대응하기 위해, 숙소를 생활보호수급자에게 맞게 복지아파트로 전용하는 케이스 가 늘어났다. 아래 그림은 21년에 보고자의 연구 그룹이 실시한 카마가사키 간이숙소 실태조사에서 얻은 데이터 중, 간이숙소에서 복지아파트로 전용한 연도를 맵핑한 결과이다. 그림 7 카마가사키 간이숙소 복지아파트 분포도 (2년) 그림 8 카마가사키 간이숙소 복지아파트 분포도 (25년) - 156 -

그림 9 카마가사키 간이숙소 복지아파트 분포도 (21년) 그림 7~9까지의 간이숙소 복지아파트의 분포 추이를 보면 확실하듯이 간이숙소에서 복지 아파트로 전용한 대부분은, 주로 25년에서 21년까지의 5년간 이루어진 것을 알 수 있 다. 여기에서, 카마가사키는 일용직 노동자의 거리에서 복지의 거리로 급격히 변모한 것을 알 수 있다. 그렇다면, 실제로 복지아파트의 거주자는 지금까지 오랫동안 카마가사키에서 일 용직 노동자로서 일하면서 경기후퇴나 고령화의 영향으로 생활보호를 수급하고 복지아파트 에서 살게 된 것일까. 아니면 지금까지 간이숙소를 이용하지 않았던 사람들이, 빈곤화의 과 정을 거치면서 카마가사키로 유입하게 되어 생활보호수급자가 된 것일까. 3. 카마가사키 주거자의 분석 여기에서는 간이숙소와 복지아파트의 이용자를 대상으로, 역시 21년에 실시한 조사결과 에서 주거자의 속성과 경향을 파악해 보고자 한다. 이 이용자 조사의 목적은, 카마가사키 주 거자의 사회적 프로필을 파악하고, 주거력과 교육, 취로상황, 수입 외에 친구관계 등이 정신 건강과 관련된 항목(주관적 건강감, 우울 척도, 자살염려)에 어떤 영향을 미치고 있는지를 분 석하는 것이다. 조사는 앞서 실시된 간이숙소 실태 조사에서 파악한 간이숙소 복지아파트 중에서 지점을 무작위로 추출하여 이용자에게 배부를 의뢰하고 후일 조사원이 회수하는 유치( 留 置 )식으로 이루어졌다. 배부표수는 약 6, 회수표수는 155(회수율 25.4%)이다 4). 4) 카마가사키는 다른 지역과는 달리 대표적 샘플을 추출하는 일이 곤란하므로 회수율도 낮다. 따라서 이하 의 기술을 카마가사키 전체의 모집단으로 일반화하는 것은 신중해져야 하며 참고치로서 이용해야할 것 이다. - 157 -

기술통계량 우선 간단히 기술통계량을 보도록 한다. 최종학교는 고등학교 졸업 이하가 81.5%로 대상자 의 대부분을 점하고 있다. 주거형태는 복지아파트가 66.5%, 간이숙사가 35.5%이다. 주된 수 입원으로 자신의 일보다도 생활보호가 많으며, 6%이상이 생활보호수급자이다. 수입액은 월 1만엔 이상 15만엔 이하가 반수를 넘으며 거의 생활보호비수준으로 나타나고 있다. 니시나리 구에 주거한 연수로는 5년 미만이 29%, 5년 이상 1년 미만이 14.8%로 합계 44.8%이며 반 수 가까이가 카마가사키에서 생활하기 시작한 지 1년이 되지 않았다는 것을 알 수 있다. 표 6 카마가사키 주거자 조사 기술통계량 - 158 -

표 7 주거형태와 니시나리구 주거력의 교차표 주거형태와 니시나리 주거력의 관련을 보면(표7) 간이숙소 이용자 쪽이 복지아파트 주거자 보다도 니시나리 주거력이 짧고, 복지아파트 주거자의 주거 장기화 경향이 보이나, 그렇다해 도 니시나리 주거력 1년 미만의 복지아파트 주거자가 4%이상을 점하고 있으며 카마가사 키의 복지의 거리로의 전환이 진행되는 과정에서 카마가사키로 이동해 온 층이 약 4할이라 는 뜻이 된다. 카마가사키 주거자의 인간관계와 정신 건강 카마가사키는 일용직 노동이나 열악한 노동환경, 좁고 싼 간이 숙소에서의 생활, 실업, 노 숙, 생활보호등의 궁핍한 생활 상황에 놓여있는 사람들이 집주하고 있다. 이러한 생활 환경 속에서 주거자는 어떤 인간관계를 형성하고 있는가, 또한 멘탈면의 건강은 어떠한가, 그것에 영향을 주는 규정요인은 무엇인가. 표 8 자살염려의 유무를 종속변수로 한 로지스틱 회귀분석 표 8에서와 같이 연령과 교육연수, 주거형태의 영향을 컨트롤한 사이좋은 친구의 유무가 - 159 -

자살염려에 영향을 미치고 있어, 사이좋은 친구가 있다고 대답한 사람과 비교해 보면 Odds 비가 2.83배의 확률로 나타나고 있다. 정신 건강에 대해서는 이 외에도 몇 가지 척도가 있 으나 사회적 배제의 극한형태인 자살 지향성에 대해서는 친구관계 등 사회적인 관계의 취약 성이나 단절에 의한 영향이 크다고 생각할 수 있다. 4. 마지막으로 이 보고에서는 첫 번째로, 오사카시 주민 전체를 모집단으로 하는 샘플링 조사로부터 얻어 진 데이터를 유럽 각국의 데이터와 비교함으로써 오사카시 주민의 빈곤관에는 어떠한 특징 이 있는가를 밝혔다. 두 번째로, 오사카시 중에서도 특히 빈곤층이 집주하는 카마가사키 지 역을 대상으로 실시한 조사에서 카마가사키의 최근에 이루어진 복지의 거리 로의 변화, 그 리고 주거자의 특징, 멘탈면의 영향을 분석했다. 그 결과, 오사카시 주민은 서유럽과 비교해 보아도 빈곤을 자기책임으로서 인식하는 경향이 높다는 점, 그리고 카마가사키 주민에게 있 어서 사회적인 고립이 멘탈면에 큰 영향을 미치고 있다는 점이 밝혀졌다. 오사카에서는 빈곤 이 자기책임으로서 인식되는 경향이 강하기 때문에 빈곤층 자신이 사회적으로 고립되어 최 종적으로 정신건강에 악영향을 미치는 점이 추측된다. 이번에 보고한 데이터의 분석에서는 밝힐 수 없었지만, 오사카 전체의 자기책임지향과 빈곤층의 사회적 고립, 정신 건강과의 관 계에 대하여 앞으로 더욱 상세한 분석이 필요할 것이다. [문헌] 青 木 秀 男 編 (21) ホームレス スタディーズ 排 除 と 包 摂 のリアリティ ミネルヴァ 書 房 大 阪 維 新 の 会 (211) 大 阪 秋 の 陣 市 長 選 マニフェスト (http://oneosaka.jp/pdf/manifest1.pdf#zoom=75) 原 口 剛 ほか 編 (211) 釜 ヶ 崎 のススメ 洛 北 出 版 Eurobarometer (21) Poverty and Social Exclusion, special eurobarometer 321 W.J.Wilson (21) Why both Social Structure and Culture Matter in Holistic Analysis of Inner-City Poverty, The Annals of the American Academy of Political and Social Science, vol.629. pp.2-219. - 16 -

도시 소외공간과 마을 사람들의 경험 - 부산 돌산마을을 중심으로 공윤경(부산대) [目 次] 1. 서론 2. 돌산마을의 형성 배경과 이주민 4. 마을 주민들의 경험 5. 결론 3. 소외공간과 주민들의 장소인식 1. 서론 일제시기, 광복, 한국전쟁 그리고 196년대 이후의 급격한 산업화, 근대화, 연이은 도시화 로 인해 많은 사람들이 부산에 몰려들게 되었다. 산과 바다로 둘러싸여 주거공간이 절대적으 로 부족했던 부산에서, 사회적 경제적으로 취약한 계층의 사람들은 일반인들이 거주하기 힘 든 공간으로 떠밀려 갈 수 밖에 없었다. 그래서 도심지 근처의 빈터, 개천 주변뿐 아니라 산 비탈, 공동묘지 등에 무허가 주거지를 형성하여 부산에는 유난히 산동네가 많다. 본 연구는 이렇게 형성된 산동네를 통하여 약자가 도시공간 속에서 어떻게 소외되고 배제 되었으며 그들의 삶터를 어떻게 변화시켜왔는가를 알아보고자 한다. 이를 위하여 부산의 산 동네 중 하나인 돌산마을을 대상으로 소외공간의 형성과 그곳에 살아야만 했던 사람들의 경 험에 대해 살펴본다. 특히 이주민들이 정착하면서 장소에 새로운 의미를 부여하고 자신들의 장소로 만들어가는 과정에 주목하려 한다. 2. 돌산마을의 형성 배경과 이주민 부산시 남구 문현1동에 위치한 돌산마을1)은 부산에서도 비교적 늦게 형성된 산동네이다. 현재 약 24가구, 약 95여명의 주민이 이곳에 거주하고 있으며 경제적, 사회적으로 가장 취약한 계층이 살고 있는 마을이기도 하다. 이 마을은 196년대 후반 몇몇 사람들이 무덤이 1) 실제 마을은 다양한 이름으로 불리어왔다. 마을 입구에 세워져 있는 마을 안내판과 벽화이야기 안내판에는 문현동 안동네 로 표기되어 있고 행정구역상의 명칭은 부산시 남구 문현1동 15통이다. 그리고 이 마을이 유 명해진 것은 벽화사업의 성공에 기인하므로 벽화마을 이라고도 많이 명명된다. 하지만 마을 주민들에 따르면 마을은 별칭 없이 그냥 문현1동, 공동묘지 라고 부르기도 하고 황령산 아래 있다고 해서 황령마을 이라고도 불렀다고 한다. 그래서 마을에 있었던 농악대 이름은 황령농악대 이다. 안동네 와 돌산마을 은 원래 마을을 칭하는 말이 아니었다. 안동네 는 마을 아래쪽에 위치한 아파트단지 주변을 가리키는 말이었고 돌산마을 은 원래 채석장이 있던 전포동쪽을 이르는 말이었다. 하지만 1년 전쯤부터 외부사람들에 의해 돌산마을 이라고 불리게 되었다. 박덕주, 공말선, 김순옥 증언. 161

있는 국공유지 산비탈에 불법으로 움막이나 판잣집을 짓고 정착하면서 시작되었다. 이들 초 기 정착민들은 빠르고 가파르게 진행된 산업화, 도시화 과정에서 경제적, 사회적으로 벼랑 끝으로 내몰린 사람들이었다. 이들은 무덤 옆 빈터, 밭, 오물터, 개나 돼지를 키우던 곳에 제대로 앉아 있을 수도 없고 누우면 발이 문에 닿을 정도로 작고 허름한 꼬깔집 을 짓고 살았다. 2) 그리고 197년대 후반 부산시는 이들 불법 정착민들을 재송동으로 강제 이주시켰 지만, 일부 주민들은 거주가 불편하고 노동시장으로의 접근성이 떨어져 이주를 거부하고 입 주권을 판 다음 이곳에 계속 살기도 하였다. 행정 당국은 이 마을 형성 초기부터 강력한 단속과 철거조치를 통해 불법건축물 확산을 억제하였고, 이 때문에 198년대 중반까지 돌산마을에는 1여 채 안팎의 작고 허름한 판잣 집만이 산재해 있었다. 198년대 중반 부산시는 공동묘지의 무덤 이장을 명령하였고 이 때 연고자들에 의해 많은 무덤들이 이장되었다. 1988년 중반부터 1989년 사이에 급속하게 판 잣집이 늘어나면서 지금의 마을 형태가 완성되었는데, 이는 당시 국내외의 환경 변화와 관련 이 있다. 198년대 미국은 만성적인 재정적자와 무역적자를 해소하기 위해 일본, 독일 등에 대해 금리인하, 통화절상, 수입개방을 요구하였고 이는 1986년부터 3저 현상 ( 三 低 現 象 : 달러 가 치, 원유가격, 국제금리의 하락)으로 나타났다. 3저 현상 덕분에 한국경제는 1986년부터 일본의 잃어버린 1년의 시작과는 달리 3년 동안 새로운 경제 도약의 시대를 맞았고 일부 경제학자들은 이 시기를 단군 이래의 최고 호황기 로 부르기도 한다. 한국의 수출은 1986년 28.3%, 1987년 36.4%, 1988년 29.%로 큰 폭으로 늘어났고 GNP도 1986년 12.9%, 1987 년 13.%, 1988년 12.4%나 증가하였다. 국내의 상황을 보면, 198년대는 베이비붐 세대의 핵가족화가 진행되면서 분가가 지속적 으로 이루어지던 시기였고 이 때문에 주택 수요는 꾸준하게 증가하고 있었다. 하지만 군사정 권은 산업투자에 주력한 나머지 주택투자에는 소홀했다. 198년대 중반 서울과 부산의 자가 주택 보유율은 6% 이하로서 대도시를 중심으로 주택수가 절대적으로 부족할 뿐 아니라 기 존 주택도 대부분 헐고 다시 지어야 할 형편이었다. 또한 수출과 GNP 증가 등에 따른 경기 호황과 민주화 등으로 임금이 상승하면서 1988년 가계순저축률은 32%로 세계 1위를 기록 하였는데, 가계의 풍부한 여유자금과 주택 욕구가 결합하면서 부동산 가격이 폭등하게 된 것 이다. 1988년 한 해 동안 소비자물가는 7% 올랐는데 주택가격과 토지가격은 전국적으로 각 각 21%, 28%나 폭등하였다. 부동산 가격 폭등은 1986년부터 199년까지 5년 동안 지속되었는데, 이를 억제하기 위한 다양한 노력이 동원되었다. 정부는 토지과다보유세 제도, 8 1 부동산종합대책 (1988.8.1), 신도시건설 구상을 담은 긴급 부동산투기억제대책 (1989.4.13)을 발표하였지만, 경기 호황 으로 인한 부동산 폭등을 막기에는 역부족이었다. 199년에도 부동산 투기억제 및 물가안정 을 위한 특별대책을 3차례나 더 발표하였지만 부동산 가격은 계속 올랐다. 당시 전세 가격 도 전국적으로 16.8%나 치솟았는데, 이 때문에 생활고를 비관한 가장들이 자살하는 일이 발 2) 윤말선, 김복식, 박삼순, 공말선 증언 - 162 -

생하였고 이것이 주요한 사회적 문제가 되기도 하였다. 3저 현상 으로 인한 경제적 호황 그 리고 부동산 가격 폭등의 영향을 크게 받은 지역들 중의 하나는 부산이었다. 돌산마을이 본격적으로 형성된 1988~89년은 대도시를 중심으로 부동산 가격이 폭등하던 시기였다. 치솟는 전세나 월세 값을 감당하지 못하는 가난한 사람들이 부산에서도 속출하였 는데, 이들은 대부분 2차와 3차 산업에서 저임금 노동을 하던 사람들이었다. 또한 한국사회 의 민주화가 진척되고, 올림픽으로 인해 행정 당국이 불법건축물에 대해 강력한 단속을 할 수 없게 된 시기였다. 이런 사회적, 경제적 상황 때문에 살 곳이 없었던 약자들은 사람들이 별로 살지 않았던 돌산마을과 같은 소외된 공간에 무허가 건축물을 짓고 살게 된 것이다. 1988~89년 사이에 자고 일어나 보면 집이 서너 채 들어설 정도로 급속하게 마을이 형성 되었다. 이주민들 대부분은 부산 인근 농촌지역에서 태어나 별달리 교육을 받지 못한 채, 급속한 산업화와 도시화로 일자리가 집중된 부산으로 이주하였고 값싼 임금을 받으며 셋집을 전전 하면서 살았었다. 돌산마을에 정착한 가구의 특징을 살펴보면 맞벌이보다는 외벌이, 그리고 여성이 주된 생계를 담당하는 경우가 인근 지역에 비해 상대적으로 많았다. 이들 중에는 신 발공장, 목재공장, 방직공장에 다닌 사람들도 있었고 노점상, 식당 주방, 건설 현장 등에서 낮은 임금의 노동을 하며 가족의 생계를 책임졌다. 196~7년대 초기 정착민들과 같이 절 대적 빈곤상태에 처한 사람들이 대부분이었다. 하지만 1988~89년에 정착한 사람들 중에는 초기 정착민보다 상대적으로 경제적 여유가 있어 재개발에 대한 기대감을 가지고 들어온 사 람들도 있었던 것으로 보인다. 공동묘지가 마을 한가운데 있고 길도 제대로 없을 뿐만 아니라 수풀만이 무성한 살기 흉 한 장소인 돌산마을을 이주민들이 선택한 이유는 비교적 시내 중심과 가까운 곳에 위치하는 데다 노동시장과의 접근성도 양호하였으며 비록 제한적이지만 물과 전기도 사용할 수 있었 고 나지막한 산등성이에 남향으로 자리 잡고 있었기 때문이다. 그리고 경제적, 사회적으로 비교적 동질적인 사람들이 모여살기 때문에 일자리에 대한 정보교환이 용이했고, 무엇보다 비좁은 셋집에서 물과 전기에 대한 주인의 잔소리를 듣지 않아도 되고, 내가 원하는 시간 에 자유롭게 들락거릴 수 있고, 비좁지만 내 집에서 살 수 있는 장점이 돌산마을에는 있 었던 것이다. 정부의 강력한 부동산 가격 억제정책과 국제적인 3저 현상 이 끝나면서 1991년부터 국내 부동산 가격이 급격하게 하락되기 시작하였다. 이에 연이어서 신국제노동분업 (New international division of labour)의 여파가 한국에도 영향으로 미치게 되었다. 특히 저임금 과 낮은 기술력을 기반으로 하는 부산 경제가 이로부터 더 큰 피해를 받았다. 경공업 중심의 산업이 경쟁력을 잃고 공장들이 해외로 이주하거나 또는 폐업하면서 부산 경기는 침체기로 들어섰다. 이 피해는 그대로 부산의 저임금 단순 노동자에게 전가되었는데, 잠시 몇 년 살다 떠날 마음으로 돌산마을에 이주했던 사람들은 이런 환경 변화로 인해 경제적, 사회적으로 더 큰 어려움을 겪게 되었으며 많은 이주민들이 그대로 이곳에 머무를 수밖에 없었다. - 163 -

3. 소외공간과 주민들의 장소인식 돌산마을은 북쪽으로는 황령산에 접해 있고 마을 앞쪽으로는 돌로 이루어진 절벽이 놓여 있다. 절벽과 경사가 급한 산비탈이라는 지형적 특징은 사람들이 돌산마을에 접근하는 것을 어렵게 했다. 1982, 83년경에도 이곳은 전부 포플러 나무 숲과 밭이어서 제대로 된 길조차 없었으며 차도 들어 올 수 없었다. 뿐만 아니라 토양에 황토 성분이 많아 비만 오면 진흙투 성이가 되어 걷기조차 힘들었다. 이러한 지리적 특성 때문에 돌산마을은, 부산의 도심지인 서면에서 2km 남짓한 거리임에도 불구하고 사람들이 쉽게 접근하지 못하는, 섬처럼 분리된 공간으로 남아 있었다. 돌산마을이라는 공간이 가지는 또 다른 특이점은 마을 속의 무덤이다. 1971년 부산시 도 시계획백서 에 의하면 문현동 공동묘지는 문현동 산15번지에 위치해 있었다. 3) 이 공동묘지 는 1898년 경 조성되기 시작한 것으로 보이는데, 1962년 당시 2,25평이 사용되고 있었다. 문현동 산15번지는 돌산마을에서 동쪽 방향의 황령산 자락이다. 아마 이곳이 공동묘지였고, 매장지가 부족하게 되자 돌산마을 쪽으로 묘지가 확장되었던 것으로 보인다. 초기 이 마을의 모습을 증언한 사람들에 의하면 무덤은 현재 6반 위치에 주로 있었으며 2 반 아래쪽에도 있었다. 많은 무덤들이 이장되어 갔지만 현재까지도 마을 속에는 83기의 무 덤들이 남아 있어 돌산마을은, 죽은 자와 산 자가 동일한 공간 속에서 어울려 있는 모습을 보인다. 이는 현대 한국의 공간 배치에서 찾아보기 어려운 특이한 모습이다. 현대 한국에서 는 삶의 공간과 죽음의 공간이 분리되어 삶의 공간은 도시에, 죽음의 공간은 도시 주변부 또 는 외곽지역에 위치해 있다. 죽은 자, 죽음에 대한 거리두기는 국가의 토지이용 정책에 따라 이루어진 것이다. 하지만 이러한 거리두기는 인간이 근원적으로 가진 죽음에 대한 공포와 융 합되면서, 죽음의 공간에 대한 부정적인 인식을 더욱 공고히 하고 확산시켰다. 죽음의 공간에 대한 인식은 무덤에 세워진 마을인 돌산마을을 바라보는 외부의 시선에서 도 예외가 아니었다. 외부인들이 바라보는 돌산마을은 무섭고 피해가고 싶은 곳이었다. 4) 돌 산공원 조성 사업에 참가했던 외부인은, 이전에는 이곳이 외부 사람들이 접근할 생각이 안 들 정도로 음침한 곳이었으며, 현재 돌산공원이 자리잡고 있는 곳에는 나무가 많았었는데, 이곳에서 자살한 사람도 있었다고 한다. 또한 마을 한 모퉁이에 산업폐기물을 투기해도 아무 도 탓하지 않는 공간, 즉 주인 없는 공간, 버려진 공간이었던 것으로 기억한다. 5) 이러한 인 식은 돌산마을을 도심 속의 이질적 공간, 외부인들이 찾지 않아 단절되고 소외된 공간으로 남아 있게 했다. 돌산마을에 대한 외부의 시선은 마을 내부의 주민들에게도 이식되었다. 소외되고 버려진 땅에서 산다는 인식은 마을 사람들에게 돌산마을은 내가 살아가는 장소로서 돌보고 가꾸어 야 할 공간이 아니라, 철저하게 익명성을 띤, 소외되고 유기된 공간으로 받아들이게 했다. 3) 부산시, 도시계획백서, 1971, 28쪽. 4) 한 블로그에 달린 댓글에서 다음과 같은 것을 확인할 수 있다. 문현초등, 여중, 여고까지 나왔습니다. 학교 뒷동네가 저렇게 달라졌나보네요. 밑에 분 말씀처럼 예전 엔 좀 무서운 곳이었는데 ㄷㄷㄷ 고등학교 졸업하고는 그쪽으론 도통 안 가봐서 몰랐습니다 (math****, 29.4.3 16:5). 5) 21년 돌산공원을 조성하는 과정에서 투기된 쓰레기를 처리하는 데만도 대형트럭 8대 분이나 되었다. - 164 -

그래서 집 주변에 쓰레기를 버리는 일을 아무렇지도 않게 여기고, 심지어는 외부에서 버리는 쓰레기마저 방치하는 등 공간과의 거리두기를 하였다. 무덤 또한 마을 사람들에게는 자신들 의 삶터를 무섭고 음울한 곳으로 기억하게 했다. 무덤이 무섭지 않았냐는 질문에 아이고 무 섭지요. 우리 아(이)들이 딸이 다섯인데 밖에 안 나갈라케. 울고불고 했는데. 라는 답을 통해 마을로 이주해 온 사람들에게도 그곳은 무서운 곳이었던 것으로 기억된다. 그들이 살아야 할 공간임에도 불구하고, 집 주변에 있는 무덤은 사람들에게 무서움을 불러 일으켰던 것이다. 하지만 이곳이 비록 무섭고 음울한 장소라 하더라도, 돌산마을 사람들은 이곳을 버리고 떠 나기가 쉽지 않았다. 이곳을 떠나 다른 곳으로 이주할 마땅한 터도, 경제적 여유도 없었기 때문이다. 머무를 수밖에 없는 상황 속에서, 사람들은 그들이 장소에 부여했던 부정적인 인 식을 변화시키려 한다. 대표적인 예가 무덤이 있어 무섭지 않냐는 물음에 대한 답에서 드러 난다. 경로당에서 만난 할머니의 메[묘]는 하나또 안 무서버예. 사람이 무서버. 라는 대답 이나, 무섭기는 뭐가 무서워? 우리가 귀신들한테 해코지 안 하면 귀신들도 우리들에게 해코 지 안 해. 그냥 같이 사는 거지, 뭐. 라는 대답들이다. 이러한 대답 속에는 장소에 대한 인식 의 변화가 포함되어 있다. 이곳이 자신이 살아가야 할 장소라면, 어떻게든 부정적인 인식을 지우는 것이 필요하다. 그래서 마을에 대한 부정적인 인식의 중심 경관인 무덤 을 무서운 것이 아니라고 부정함으로써, 자신의 삶의 장소에서 부정적 의미를 씻어내고자 하는 것이다. 이러한 또 다른 예는 주인 없는 무덤에 벌초를 해 주는 것이다. 마을 사람들의 무덤에 대한 태도 변화는 장소에 대한 의미의 변화이자 삶의 공간에 대한 장소애착의 출발로 받아들일 수 있다. 접근성이 떨어지고 주거지로 부적당했던 돌산마을은, 떠나지 못하고 남아야 하는 사람들에 게는 어떻게든 적응하고 살아야 하는 공간이었다. 이러한 적응의 과정에서 사람들은 스스로 공간에 새로운 의미를 부여하고, 그곳에 애착을 가지는 단계로 나아간 것이다. 4. 마을 주민들의 경험 1) 정착과 장소만들기 돌산마을 주민들은 소외된 공간을 자신들의 공간으로 만들어 가고자 했다. 이 과정은 개인 적인 노력, 마을 공동체의 활동, 마을 사람들과 외부인들의 협조 등 다양한 형식으로 이루어 졌다. 지형적으로 고립되고 무덤으로 대표되는 소외공간에 이주한 주민들에게 가장 필요한 것은 주거공간이었다. 주거지는 정상적인 주거형태가 아니라 대부분 판잣집이었다. 공간은 비좁았 고, 온돌이나 창문 등 기초적인 시설이 마련되지 않아 난방, 환기, 채광 등이 거의 이루어지 지 않았다. 마을로 진입하는 도로, 수도, 전기와 같은 도시기반시설도 제대로 갖추어지지 않 았다. 그러나 열악한 주거환경이었지만 좁은 주거공간을 한 칸씩 늘리기도 하고 마을 내에서 좀 더 나은 장소로 이사를 하는 등 개선하려는 노력은 꾸준히 진행되었다. 윤말선의 경우 이 주 당시 온갖 오물로 가득했던 조그마한 집터를 자신이 수집하는 재료와 여력에 따라 조금 씩 방의 수를 늘렸다. 박삼순, 공말선은 초기 정착했던 집에서 더 나은 조건의 집터로 옮겨 새로이 집을 지어 살았다. 대체로 개인의 힘으로 해결하였지만, 마을 주민들의 도움을 얻어 - 165 -

진행하기도 하였다. 안정된 주거공간을 확보하려는 노력으로 가장 중요한 것은 국가의 말단 행정기관인 동사 무소 공무원들의 철거 위협에 대응하는 일이었다. 이 마을 대부분은 국유지 위에 지은 건축 물로 무허가였다. 부산시의 무허가 건물 철거정책은 198년대 한창 진행되었으며 남구의 경 우도 마찬가지였다. 이러한 철거는 1988년을 기준으로 급격히 줄었는데 정치적인 요소가 작 용했던 것으로 보인다. 그렇다고 철거가 전혀 없었던 것은 아니다. 6) 철거는 동사무소에서 정 기적인 단속에 의한 경우도 있었으나, 내부 또는 외부 고발자에 의한 경우도 많았다. 철거에 대응하는 주민들의 태도는 기본적으로 저항이었다. 온 식구들이 철거 공무원에 맞 서 철거를 방해하였다. 그리고 안면 있는 담당 공무원과의 타협도 존재하였다. 권문조의 증 언에 의하면, 친하게 지내는 공무원이 철거하기 위해 마을에 오면 자리를 피해버리는 것이 다. 그러면 그 공무원은 적당히 건물을 훼손하고 사진만 찍어서 보고하는 형식이다. 그러나 마을 주민들의 개인적인 대응만이 있었던 것은 아니었다. 주민대표를 앞세운 조직적인 대응 도 있었는데 여기서는 마을의 공식적인 대표인 통장보다는 마을의 유력자를 앞세우는 방식 이었다. 이 과정에서 타협을 봤던 담당 공무원이 피해를 보는 경우도 있었다. 7) 주민들에게 주거지 확보 다음으로 중요한 것은 생계와 관련된 경제적인 문제였다. 마을 주 민들은 공장 노동자, 시장 행상, 건설 노동자 등으로 생계를 꾸려 나갔다. 특히 건설 노동자 의 경우, 마을이 한창 조성되던 198년대 말과 199년대 초 부산의 건설경기를 타고 많은 사람들이 여기에 종사했다. 생업과 관련한 마을 내 네트워크도 존재하였는데, 인부를 모으는 책임자는 마을의 이웃 주민들을 중심으로 한 노동팀을 만들기도 하였다. 마을공동체에서 가장 중요한 역할을 한 장소는 마을의 중요한 안건들이 논의되는 마을회 관이었다. 마을회관은 오늘날 89경로당과 함께 사용하고 있다. 마을 사람들의 기억에 의하면 마을회관이 만들어진 것은 약 2여 전이라고 한다. 마을에 주민들이 많아지고, 마을의 중요 한 문제를 논의해야할 필요성이 부각되는 시기와 맥을 같이한다. 마을회관은 마을 사람들이 모이는 공간이면서 마을의 중요한 일을 논의하는 공간이었다. 한편 마을의 중요한 업무를 이 끌어 가는 인물은 국가행정조직의 말단에 해당하는 통장이었다. 8) 돌산마을 통장은 행정업무 를 수행하는 역할만이 아니라 마을 내 대소사를 관장하면서 각 가정사까지 관여하였다. 또한 마을의 현안을 해결하고 주민들의 화합을 위해 많은 노력을 기울였는데, 마을 주민들의 의견 을 모으고 통일하기 위해 모임을 개최하고 놀이, 관광 등을 기획하기도 하였다. 물론 이 과 정에서 마을 주민들 사이의 이해관계가 부각되기도 해 의견충돌이 적지 않았다. 마을공동체에서 논의된 가장 중요한 사항은 마을 사람들의 생존에 필수요소인 전기와 수 도에 관한 것이었다. 전기는 약 3년 전에 이웃지역에서 몰래 끌어 사용하다가 약 2년 전 에 정상적인 전기가 들어왔다. 이 과정에서 마을 통장은 물론, 전기공사와 관련해 인맥이 있 는 개인의 참여도 있었다. 마을주민들이 전기를 들여오기 위해 다양한 정보를 수집하기도 했 으나 사기를 당하는 경험도 있었다. 그리고 산에서 내려오는 물과 지하수는 초기 마을 주민 6) 돌산마을 주민들의 철거경험은 1988년 이후에도 계속된 듯하다. 마을 사람 가운데 31회나 철거를 당한 경우 도 있다고 한다. 7) 김수철 증언. 8) 돌산마을은 행정적으로 남구 문현1동 15통이며 6개의 반으로 이루어져 있다. - 166 -

들의 중요한 식수원이었으나 늘어나는 주민들에게는 턱없이 부족하였다. 이후 새마을금고 이 사장, 국회의원과 같은 외부의 영향력 있는 인사의 도움으로 21년 상수도가 들어왔다. 이 과정에서 마을 주민들 사이에 갈등이 있었는데 상수도 보급을 국유지에 사는 주민으로만 제 한했기 때문이었다. 9) 이외에도 마을주민들의 단합은 199년 중반 황령산 터널 건설과정에서 발생한 지하수 고 갈, 199년대 후반 인근 아파트 건설공사로 인한 마을 건축물의 균열 등에서도 부각되었다. 하지만 이러한 마을 주민들의 공동대응이 모든 면에서 원활했던 것은 아니었다. 주민들이 생 계문제로 마을의 공동 대응에 적극적으로 참여할 수 없는 경우도 있었고, 공동의 이해관계가 주민들 개개인의 이해관계와 충돌할 때도 적지 않았다. 그러나 통장, 반장을 주축으로 한 통 상회, 반상회 그리고 부녀회 등을 통해 마을 주민들은 마을의 중요사항들을 함께 의논하며 마을공동체 활동을 이후로도 계속 이어갔다. 이처럼 돌산마을 주민들의 정착과 장소만들기는 주거지 확보와 생계를 위한 노력 그리고 열악한 도시기반시설을 획득하기 위한 마을공동체 의 활동을 통해서 가능하였다. 이러한 경험들은 이후 공공미술과 공원재생 등 새로운 사업을 추진하는 배경이 되고 주민참여를 유도하는 밑거름이 될 수 있었던 것으로 보인다. 2) 소통과 관계 맺기 (1) 벽화그리기 도시 및 주거환경정비법 으로 지정된 부산시 정비사업구역은 4여 곳에 이르지만 경기 침체로 재개발 재건축사업이 지연되거나 구역이 해제되는 사례가 늘어나고 있다. 그리하여 방치되고 있는 노후불량주거지인 산동네의 주거환경과 도시경관을 개선하기 위하여 다양한 공공미술사업이 진행되었다. 돌산마을에서도 이 사업의 일환으로 벽화그리기 프로젝트가 시 작된 것이다. 벽화프로젝트는 공무원, 학생, 시민 등 외부 주체들에 의해 주도되어 주민들의 직접적인 참여는 없었다. 사업이 시작될 때 일부 주민들은 반대하기도 하였고 또는 생업에 바빠 아무 런 관심도 보이지 않았다. 하지만 많은 주민들은 벽화가 열악한 마을의 현실을 널리 알리고 이것이 재개발사업에 유리할 것이라 판단하여 사업에 대해 긍정적으로 생각하게 되었다. 그 리고 프로젝트 과정 중에 벽화를 그리는 사람들에게 간식, 음료 등을 제공하며 고마움을 표 현하기도 하였다. 벽화사업이 28 대한민국 공공디자인 대상(주거환경분야) 을 수상함으로 써 돌산마을은 실제로 세상의 이목을 받게 되었다. 벽화사업 이후 마을에 낯선 사람들이 찾아오는 것에 대해 못마땅하게 생각하는 주민들도 있다. 남의 집 마당에도 불쑥 들어오고, 밤낮으로 온 동네를 돌아댕기고, 보여주기 싫 지. 사는 꼴이 창피해서 그리고 심지어 벽화를 찍는다고 남의 집 지붕에 올라가 판자지붕 이 뿌사짔지 1) 등의 일이 있었기 때문이다. 그러나 대부분의 주민들은 완성된 벽화에 대해 긍정적으로 생각하고 있다. 벽화가 이쁘잖아... 마을이 환해짔어, 젊은이들이 많이 와서 9) 윤말선의 경우, 집터의 일부가 사유지였기 때문에 대상이 되지 못했다. 그래서 상수도공사로 직접 찾아가서 해결할 수밖에 없었다고 한다. 1) 윤말선, 윤남순, 김화자 증언. - 167 -

좋아... 물이라도 한 잔 맥여서 보내야지 싶어, 벽화 때문에 마을이 유명해짔잖아, 손님 오는데 깨끗이 치워야지 라는 반응을 보였으며 우리 집에도 칠해줬으면 했는데 나무벽이라 고 안 칠해 주데 라면서 자신의 집 벽에도 벽화가 그려졌으면 하는 바람도 보였다. 11) 무채 색의 마을이 벽화로 인해 유채색의 마을로 변했고 많은 사람들이 찾아와 마을에 활기를 주 고 또한 쓰레기를 버리는 일도 줄어든 덕분이다. 벽화그리기 프로젝트는 소외된 공간을 알리 게 되는 중요한 계기가 되었다고 생각한다. (2) 공원 재생 이 소외된 공간에 벽화사업에 이어 돌산공원이 새롭게 조성되었다. 부산진구 전포동과 남 구 문현동의 경계에 있는 돌산공원은 211년 새롭게 조성된, 돌산마을의 뒷산에 위치한 소 공원이다. 12) 이 자리에는 196년경 포 부대가 있었고 부대 이전 후 무허가건물, 창고 등이 들어서고 또 밭, 쓰레기장 등으로 이용되었다. 그러다가 1999년 지금보다 작은 규모의 공원 이 부산진구 공공근로사업의 일환으로 조성되었지만 이용률도 낮았고 관리도 제대로 이루어 지지 않았다. 벽화 프로젝트가 큰 성공을 거두자 마을 뒤편에 버려지다시피 했던 공원의 재 생에 눈길을 돌리게 된 것이다. 부산진구, 남구, 부산시, 관련 전문가(건축, 조경, 공공미술 등) 등으로 구성된 추진위원회와 주민들이 함께한 돌산공원 가꾸기 사업 은 주민들에게는 세상 밖으로 노출되는 두 번째 사업에 해당된다. 초기에는 주민 참여보다는 한정된 예산으로 기존의 공원을 부분적으로 정비하는 관 주도 사업으로 추진되었다. 그리고 공원부지의 활용, 재개발사업과의 관련성, 공원 내에 있는 무 허가 건물이나 창고의 철거, 공원 옆 경사면 처리, 화장실 위치 선정 등으로 인해 일부 마을 주민들의 반대도 있었고 추진위원회, 이웃 마을, 인근 어린이집과의 갈등도 존재하였다. 이 런 여러 가지 문제들을 해결하기 위해 관련 공무원과 통장의 적극적인 노력이 선행되었고 이를 통해 주민들은 사업의 목적과 취지를 이해하게 되었으며 행정적 강제 집행보다는 자발 적인 참여에 의해 사업이 이루어지게 되었다. 실제로 사업이 진행되면서 쓰레기 치우기, 돌 계단 및 경사면 조경석 쌓기 등 많은 주민들이 자발적으로 공원 조성에 참여하였다. 그리고 돌산숲, 야외공연장이 조성되어 많은 주민들이 공원의 변화된 모습을 직접적으로 보게 되면 서 주민설명회가 더욱 활기를 띄었다. 또한 운동시설, 공중화장실, 장애인에 대한 배려 등 주민들이 공원에 대해 적극적으로 의견과 건의사항을 제시하여 주민들과 함께하는 사업으로 변하게 되었다. 지저분한 쓰레기가 억수로 많았는데 정리 돼서 좋아, 공원이 가까워서 운동하기 편해, 마을 사람들이 공원에 있으니까 나와서 같이 이야기하고 쉬고 놀아, 경로당에서 놀다가 또 바깥(공원)에 나와서 운동도 하고 산책도 하고, 경로당에는 회비를 내야하는데 여기는 그냥 와도 되니까, 시장님 오셨을 때도 여기서 했어, 이런 곳이 있으니까 밥차도 오잖 아, 공연장에 마을 모습이 박혀 있지. 그게 우리 마을이야 13) 등 대부분의 마을 주민들은 11) 박삼순, 배외순, 공말선, 김복식 증언. 12) 부산진구, 29, 살고 싶은 마을 만들기 사업계획서: 꿈을 심는 행복한 쉼터-따뜻한 사람들의 돌산공원 가 꾸기. 13) 황숙이, 이춘심, 김계순, 문정심, 공말선, 김순옥, 김복식 증언. - 168 -

공원이 새롭게 조성된 것에 긍정적인 반응을 보였으며 자랑스럽게 여기고 있었다. 또한 점차 공원을 이용하는 주민들이 늘어나면서 체육시설이 더 많았으면, 파손된 기물이 빨리 수리 되었으면, 모기, 벌레가 많아 살충제를 자주 뿌려줬으면, 개를 공원에 풀어놓고 뒤처리 도 잘 안하는 사람들이 있어.. 개를 데리고 오지 않았으면, 술 안 먹었으면, 담배 못 피 우게 해야 하는데, 야외 공연장에서 한 번도 (공연을) 한 적이 없어 등 공원 이용에 대해 다양한 의견들이 나오고 있다. 14) 대부분의 주민들은 누가 강요하지 않았지만 스스로 공중도 덕을 지키며 공원을 깨끗하게 유지하기 위해 노력하는 모습을 보이고 있다. 재생된 돌산공원은 운동, 휴식을 위한 공간을 제공할 뿐 아니라 이웃과 만남의 기회를 증 진시키고 주민들을 위한 소통과 공유의 공간을 만들어 가고 있다. 특히 시장과의 대화, 마을 잔치가 열리는 등 마을에 부족한 공공공간의 역할도 수행하고 있다. 돌산공원은 닫힌 공간에 서 열린 공간으로, 기피의 공간에서 어울림의 공간으로 변하게 되었다. (3) 할머니, 사진, 그리고 이야기 211년 9월 돌산마을에서는 할머니, 사진, 그리고 이야기 라는 제목으로 작은 행사가 진 행되었다. 15) 이 행사는 지역과 계층 면에서 이중의 소외를 경험하고 있는 돌산마을 노인들 에게 사진을 소통의 기재로 사용하여, 삶의 가치를 발견하고 또한 자신들의 삶에 대한 이야 기를 하게 함으로써 사회적 소통과 연대를 강화하기 위한 목적으로 시작되었다. 참여한 노인들은 카메라 작동법과 촬영방법을 배워 자신들의 삶과 삶터를 수백 장의 사진 으로 담아냈다. 자신의 집 안팎, 골목길, 벽화, 화초, 동물, 텃밭, 무덤, 공원, 그리고 이웃들 의 모습 등 참여자들의 일상이 이루어지는 곳이면 어디든지 그리고 관계되는 것이면 어떤 것이든지 그 대상이 될 수 있었다. 촬영이 끝난 후 참가자들은 찍었던 사진을 함께 보며 서 로의 사진에 대해 다양한 이야기를 나누었다. 사진을 통해 마을의 여러 사건, 행사들을 기억 하고 자신들의 삶을 되돌아보는 소통과 화합의 시간을 보냈다. 사진들 중 일부를 선별하여 부산광역시립시민도서관에서 일반 시민들에게 공개하였다. 참 여자들은 특별한 재능을 가진 작가들이나 할 수 있는 것으로 생각했던 사진 촬영과 작품 전 시를 했다는 것에 자랑스러워하였고 사진을 통해 본 마을의 모습 그리고 그 속에서 살아온 자신들의 이야기를 일반인들에게 함으로써 더욱 마을에 애착을 가지게 되었다. 이 행사는 마 을 주민들의 동의와 적극적인 협동 작업이 있었기에 가능하였다. 또한 마을 주민들뿐만 아니라 시청과 구청 공무원들도 이 사진전시회를 보기 위해 방문하 였는데 대부분의 방문자들은 이중으로 소외된 돌산마을은 물론, 노인들의 삶에 대해서도 새 롭게 이해하는 기회가 되었다고 하였다. 전시회는 언론에도 소개되어 돌산마을과 그곳에 살 고 있는 주민들의 상황과 문제점이 공론화되는 계기를 마련하기도 하였다. 16) 14) 문정심, 김계순, 공말선 증언. 15) 211 인문주간 행사의 하나인 할머니, 사진, 그리고 이야기 는 교육과학기술부와 한국연구재단의 주관으 로 부산대학교 한국민족문화연구소에 의해 수행된 것이다. 16) 부산일보, 돌산마을 할머니들 디카 들고 마을 누비다, 211.9.21. 대한민국 정책포털 공감코리아, 할머니들의 시각에서 본 세상은 이런 모습이군요, 211.9.27. 부산일보, 부산 현장 되짚어 보기 부산시민들 사유의 신세계 맘껏 유영하다, 211.1.1. - 169 -

5. 결론 돌산마을은 재개발사업이 예정되어 있지만 언제 이루어질지 알 수 없다. 산비탈에 기대어 살아가는 돌산마을 사람들, 이들의 이야기는 급격한 산업화를 겪은 한국사회에서는 흔히 볼 수 있는, 들을 수 있는 것인지도 모른다. 본 연구는 더 이상 찾을 수 없는 도시 소외공간의 외형과 이면을 돌산마을을 통해 이해하고자 하였다. 돌산마을에 대한 관심은 공동묘지를 주 민 자신들의 주거지로 만들면서 살아가는 굵직한 생존의 선에 대한 주목이었다. 또한 외부자 의 시선만이 아닌 주민과 함께 하는 마을만들기의 초석을 만들어보려는 시도였다. 돌산마을은 공동묘지 산동네 벽화마을+공원마을로 변모를 거듭하고 있다. 지형적, 지리 적으로 주거지로 부적당했던 곳이었지만 돌산마을은 떠나지 못하고 남아야 하는 사람들에게 는 어떻게든 적응하고 살아야 하는 공간이었다. 그래서 개인의 노력뿐만 아니라 마을공동체 의 주체적인 활동, 외부와의 협력 등으로 주민들은 소외된 공간에 새로운 장소의 의미를 부 여하고 외부와의 소통과 관계 맺기를 통하여 돌산마을을 새롭게 변화시키고 있다. 비가시적 (invisible)이고 닫힌 공간이었던 마을이 이제 가시적(visible)인 열린 공간으로 거듭나게 된 것이다. 이제 주민과 함께하는 또 다른 노력이 마을에서 진행되고 있다. 주민들이 자신들의 마을을 스스로의 목소리와 시선으로 찾고자 하는 과정에 대해 연구자는 객관적인 자세로 관찰자, 편 집자로서의 역할을 담당할 뿐이다. - 17 -

전후 재일조선인 집주지의 지역적 전개 우토로 마을의 장소의 기억을 통해 전은휘(오사카시립대학) [目 次] 1. 과제와 방법 2. 재일조선인 불법점유지로서의 우토로 마을과 사회운동 3. 우토로 마을 주변지역의 형성과정 4. 우토로 마을에 대한 장소의 기억의 변천과정 5. 맺음말 1 과제와 방법 본 발표에서는 재일코리안 집주지이며 불범점유지였던 우토로 마을 (교토부 우지시)을 사 례로 재일조선인이라는 국가적, 민족적 조건이 어떻게 지역이라는 생활 범위 속에서 정착, 변용해나가는가에 대해 장소의 기억 의 변천과정을 통해서 살펴본다. 199년대 이후 일본은 다문화사회에 진입하여 재일조선인 연구 또한 기존의 이문화적 관 점에서 재일조선인을 일본 사회의 구성 요소로서 파악하여 그 변용에 주목하는 통합적이며 트랜스내셔널한 관점으로 이동하였다. 그 중에서도 하층노동 으로서 재일조선인을 파악하는 시각이 대표적으로(*1), 재일조선인의 불법점거지는 근대 일본과 재일조선인의 형성이라는 사회경제적인 조건이 공간적으로 배치된 구체적인 예로서 주목되었다. 하지만, 그러한 연구 는 거대한 구조에 대한 일상적인 실천에 주안점을 두면서 이루어짐에도 불구하고 (*2) 그 내 용은 불법점거지 내부와 행정기관과의 관계가 중심이 되어 점거지역 주민들의 생활의 장으 로서의 지역, 그리고 주변 지역과의 관계는 연구대상에서 제외되어 있었다. 이 점에 착안하여, 재일조선인 불법점유지의 지역사회 속에서의 관계에 영향을 미치는 요 소로서 장소의 기억 을 이용하여, 장소=지역에 위치한 주체의 동향에 주목하면서 그 형성과 변천을 검토하고자 한다. 여기서 장소의 기억이란 (1)어떤 장소를 축으로 하여 만들어진, 제 도화 된 공동체의 기억, 그리고 (2) 장소에서 벌어지는 일상생활 속에서 형성된 공통적인 기 억이라는 두 가지 측면을 가진다. 2. 재일조선인 불법점유지로서의 우토로 마을과 사회운동 마을의 개요 191년의 한일합병 이후 일본국민 으로서 일본으로 이주하여 192년대를 기점으로 하층 171

노동으로서 정착, 전후에 일본 국적을 박탈당함에도 불구하고 영주의 길을 걷게 된 재일조선 인(*4)은 공간적으로는 도시하층에 속했다. 탄광노동, 건설노동 및 영세 도시경공업에 주로 배치된 직업적 특징을 가지고, 일반적인 주거 임대가 어려웠던 재일조선인은 주로 이너시티 의 슬럼 혹은 강둑, 저습지, 다리 밑, 공사현장의 함바 등을 점유하여 집주지를 형성했다. 하 지만 2차대전 후 많은 불법점유지가 고도성장기에 따른 도시화와 슬럼 클리어런스, 주환경 정비사업에 의해 해체, 소멸되어갔던 것과는 대조적으로, 재일조선인의 불법점유지는 2 년대까지 남아있는 경우가 존재한다. 그 중에서 우토로마을은 현존하는 마지막 불법점유 집 주지이다. 우토로 마을(교토부 우지시 이세다쵸 우토로 51번지)는 약 2.1헥타르의 넓이에 65세대 2명(211년 공표)이 거주하는 비교적 규모가 작은 집주지이다. 교토시로부터 남쪽 근교의 교외주택지에 위치하며, 24년에 동화문제연구소에서 발간한 자료집에 따르면, 그 인구의 8%이상이 한국, 조선국적으로 이루어져 있다(우지시 전체 평균은 29년 현재 1.5%). 마 을은 고령화가 진행되어 있으며(고령화지수 24.1%), 6대가 주민 전체의 2%를 점한다. 세 대의 반 이상은 무직으로 연금 수급 세대가 21%, 생활보호 수급세대가 18%이다. 주요 직종 은 건설업이 가장 많고, 회사원이 그 뒤를 이어 일용직, 건설노동, 운전수 등으로 이루어져, 주민들이 전체적으로 경제적으로 불리한 위치에 있음을 알 수 있다. 이에 더하여 마을은 저 습지에 위치해 상습적인 침수지역이며, 불법점유지인 탓에 현재까지 도시가스 보급률이 % 로 1988년 처음으로 상수도관이 매입될 때까지 우물을 사용하고 있었다. 우토로 문제 하지만 이러한 지역이 사회문제로서 세상에 알려진 것은 1987년 전후를 기점으로 하는 우토로 문제 발생 후의 일이다. 1985년, 마을 내에 발생한 화재로 수도관이 없다는 사실이 주변 지역에 알려지면서, 지역의 인권운동단체가 힘을 모아 수도 매설을 촉구하는 시민운동 을 일으켰다. 이 운동은 1987년 토지소유자인 닛산차체(이하 닛산)로부터 매설동의서를 얻는 것에 성공하지만, 같은 해 마을의 토지를 닛산이 (유)니시니혼식산에게 전매함에 따라 후자가 주민 전체의 철거를 요구하는 소송을 일으키게 된다. 이에 대해서 철거에 반대하는 운동이 앞서 벌어진 수도문제에 관여했던 시민들을 중심으로 일어나게 되었다. 이것이 우토 로 문제의 시작이다. 운동은 재판이 최종 패소하는 2년 이후에도 지속되어 현재까지도 지속되고 있다. 마을에서 일어난 사회운동과 그 공간적 변화 우토로 문제를 둘러싼 운동은 그 전략과 내용, 임팩트의 면에서 기존의 재일조선인의 인권 운동 및 불법점유지의 주민운동과는 구별되는 양상으로 진행되었다. 어느 쪽보다도 발생시기 가 늦은 우토로 마을의 운동은 외부의 일본인이 내부의 주민을 지원하면서, 그리고 사회 전 체로의 사회운동 으로서 이루어졌다. 그 운동 및 지원 내용은 초기에 이루어졌던 항의 촉구, 재판지원, 주민 조직의 지원 등 다방면에 걸치는 것이었으나(*5) 그 중에서도 주된 특징으로 서 전후보상 과 주거권 이라는 커다란 프레임을 이용한 광범위에 걸친 홍보활동을 들 수 있 - 172 -

다. 대기업과 일본정부라는 거대한 대상을 상대로 한 프레임은 마을의 운동을 주민 및 일본 사회 뿐 아니라 국경을 넘는 운동으로 만들었다. 프레임의 근거로서 시민운동가들은 주민의 라이프 히스토리, 즉 주거의 기억을 지속적으로 기록하여 전달하는 활동에 힘썼다. 기록(document)의 발행은 물론, 특히 중요한 것으로 마 을 안에서 다양한 이벤트 및 집회를 개최하였으며 그 안에는 반드시 답사 가 포함되었다. 우토로 문제가 거의 해결되어 가고 있는 현재에도 월 1~2회가 열리는 이 답사 활동은 주목 할만한 효과를 거두었다. 그것은 바로 이 마을에 공간적인 변화를 가져온 것이다. 1985년의 화재가 보도되기 이전까지 마을은 지역 안에서 고립되어, 지역주민과의 교류가 없었던 우토 로 마을에, 외부에서 많은 방문객 들이 출입하게 된 것이다. 그 변화는 27년, 한국 정부로부터 지원금이 결정됨에 따라 지구단위의 환경정비를 위한 논의 단계에 들어간 우토로 마을 주민의 지역 지향 에서도 보여진다. 29~21년 실시된 마치즈쿠리 의향조사에서 주민은 커뮤니티의 유지, 그리고 재일조선인 혹은 한국 풍 이 아 닌 지역 사람들에게 좋은 마치즈쿠리를 희망했다. 열악한 주거환경에 놓여진 빈곤 지구의 고립, 그리고 재일조선인 당사자가 아니라 외부 에 의해 이끌어져, 마을의 역사를 알리는 방 향으로 진행된 이 운동의 모습은 거꾸로 그러한 상황을 만들어낸, 지역을 둘러 싸고 있는 공 간적 조건의 존재를 반증한다. 3. 우토로 마을과 주변지역의 형성과정 그러한 공간적 조건, 즉 우토로 마을이 어떠한 공간적인 배경 하에서 형성되어 왔는지를 그 주변지역의 형성과 관련지어 살펴보기로 한다. 그림 1 이세다쵸_ 伊 勢 田 町 의 지형도(1927) 그림 2 이세다쵸_ 伊 勢 田 町 의 지형도(1961) 출처: 宇 治 市 史 6 宇 治 市 西 部 の 生 活 と 環 境 411~412쪽에 기재된 지도를 발표자가 가공. 그림 1의 음영은 교토비행장과 군사시설의 부지를 나타낸다. 전후~196년 무렵 우토로 마을이 현재의 장소에 형성된 것은 1943년으로 추정되어, 1951년에 시로 제정된 - 173 -

우지시보다 앞선다. 현재 이세다쵸라고 불리는 이 지역은 메이지의 정촌제부터 시역의 편성 전까지의 시기는 쿠세군 오구라촌에 속하며, 오쿠보촌의 경계에 위치한다. 그림 1에서 볼 수 있듯이 미개발된 농촌지역이었던 이 부근은 1941년 교토비행장과 군수공장의 건설이 주요 가 된 전쟁 하의 군사시설이 유치되면서 개발이 시작되었다. 우토로 마을은 그 건설에 종사 했던 단신 조선인 노동자의 함바에서 유래되었다. 전쟁이 격화됨에 따라 함바에는 그 노동자 를 연고로 하는 가족/친족들이 유입되어, 결국 건설이 중지된 전쟁 직후에는 재일 조선인의 정보센터 로 불릴 정도의 집주지를 형성했다(*6). 외국인 등록령 (1947발표1952 시행), 남북분단 (1948), 조선학교 폐쇄령 (1949), 한국전쟁 (195)등이 이어지는 와중에, 증감 이 많았던 마을 인구는 점차 안정되어 현재 살고 있는 세대의 반수 이상이 이 시기에 정착 했다. 하지만 마을의 상황은 매우 어려워, 원래 단신용으로 한 칸 한 칸 구분지어져 있었던 판잣집을 세대별로 분배한 주거지를 삶의 기반으로 하면서 실업상태가 계속되는 남성 대신, 여성이 공장노동 및 실업대책사업 참가, 양돈, 밀주, 폐품수집 등의 도시잡업을 겸업하면서 생계를 이어갔다. 한편, 이 시기의 주변지역은 전시의 군수공장이 기업(닛산)에 불하되어 조업이 시작된 것 을 제외하면 대규모의 개발에서 벗어나 있었다(그림 2). 그러한 정체는 당시의 인구증감에서 도 볼 수 있는데, 전쟁 전에서 196년대에 걸쳐 인구가 점차 증가하고 있었던 우지 시내의 다른 지역들과 달리 우토로 마을이 속하는 오구라촌은 전시에 인구가 배로 증가하고 전쟁 직후에 거꾸로 감소하여 정체하는 모습이 보여진다. 196년대~198년대 그림 3 이세다쵸 지형도(1975) 출처: 전게 413쪽 현재의 우지시는 인구 약 19만명의 중소도시로 교토부에서는 교토시 다음으로 인구가 많 은, 시의 베드타운적 성격을 가지는 지역이다. 이러한 도시구조는 고도성장기와 도시화에 따 른 주택단지의 조성, 즉 교토시의 스프롤 현상에 의한 것이었다(*7). 1953년, 이 지역은 주거용 지대로 지정되어 196년 초엽부터 주택개발러쉬로 불리는 개 - 174 -

발 붐이 지속된다. 이는 바로 유입인구에 의한 인구증가로 나타나, 특히 1965년부터 1975년 까지의 1년간, 우지시 전체에서 세대수가 16387세대에서 37443세대로, 인구는 68934명에 서 13345명으로 거의 배로 증가하였다(*8). 특히 이세다쵸 주변은 인구급증이 가장 극심했 던 지역으로, 우지시 전체의 인구가 약 4.4배 상승한 196~198년 새, 이세다쵸가 약 1 배, 오구라와 오쿠보쵸가 각각 16배, 9배 가량 증가했다. 이러한 급증은 도시문제로서의 과 밀화 현상을 야기했으나, 그 중에서도 젊은 부부세대가 많았던 이동인구에 의한 아동수의 증 가가 눈에 띄었다. 예를 들면 우지시의 아동수는 1965년 4783명이었던 것이 1976년에는 14458명으로 늘어나 1983년까지 계속 증가를 거듭하게 된다(*9). 이렇게 우토로 마을 주변지역은 196년대 이후의 교외도시화에 따르는 유동인구에 의해 단기적으로 지역커뮤니티로 형성되었다. 각각 다른 배경을 가진 주민들이 급격하게 모여서 생활범위를 만들고, 그 대부분은 주택을 기초로 한 가족 중심의 세대로 구성되었다. 주변지 역은 어떤 점에서 보아도 전쟁 중, 군사 개발에 의해 형성된 가장 주변적인 집주지인 우토로 마을과는 차이가 있었다. 이는 다시 말하면 우토로 마을과 그 주민은 지역 커뮤니티로서의 공통성이 결여된 주변 지역주민에게 물리적으로 그리고 담론적으로 가장 이질적인 장소로서 공통되었으리라 생각된다. 참고로, 이 시기의 우토로 마을은 건설업이 주된 직업으로 나타나 기 시작하였으며, 주택의 개축/증축이 진행되어 정착이 진행되고 있었다. 여기서 또 주목해야 할 점은, 현재의 우토로 마을의 중심 세대인 6대가 195년대부터 초/중학교를 통해서 지역사회와 접촉하기 시작했다는 점이다. 당시 초/중학교는 급격히 성장 한 지역 사회 내부의 충돌을 우지시민으로 통합하는 현장으로, 우투로 마을 주민과 지역 주 민이 서로 접하는 매우 드문 장소였다. 접촉의 결과는 차별과 그에 대한 물리적 저항으로 나 타나, 3~7대의 주민에게 그와 유사한 경험담을 들을 수 있었다. 이 단계에서 이미 우토로 마을에 대한 집단적 의식이 형성되어, 지역과의 기점이 얼마 없는 시기에도 이어져 있었던 것이다. 4. 우토로마을에 대한 장소의 기억의 변천과정 장소의 기억의 다중구조 그렇다면 우토로 마을에 대한 집단적인 의식, 이미지가 어떠한 것인지를 먼저 다음의 인터 뷰에서 확인해 보자. 중고생 때, 별로 아는 사람도 없고 해서 무섭다, 가 본 적은 없는데 무섭다는 이미지가 있었지. 이 름도 카타카나라서 좀 특수한 느낌도 들고. <우지시 거주, 남성, 일본인, 5대> 저번에 학교에서 친구가 우토로 무섭다고 그래서, 내 우토론데~ 했드만 어떻게 살아남았노, 에 이~ 니 일본사람이잖아. 라고 그러데. <우토로 주민, 여성, 재일4세, 1대> - 175 -

저도 그쪽에 이사가서 1년 정도 됐는데요, 역시 처음에는 오해하는 사람이 좀 많았죠. (중략) 역시 공포감이 제일 컸던 것 같네요. (중략) <전 우토로 주민, 남성, 재일4세, 5대> 세대와 마을내외를 막론하고 우토로는 공통적으로 무서운, 다가가서는 안되는 마이너스 이미지로 언급되며, 우토로에 대한 장소의 기억 이 마을과 마을 주민에 대한 레테르로서 존 재하고 있다는 점을 알 수 있다. 이러한 레테르는 사실 식민지시절부터 존재했던 재일조선인 에 대한 이미지와도 공통되는 점이다. 192년의 유입과정에서 매스미디어에 의한 이질적이고 차별적인 이미지가 보급되고 ( 山 中 23), 재일조선인인의 거주지였던 불량주택지구 역시 그 이미지를 확대재생산하는 것이었다( 姜 在 彦 22), 거기에 195년대 이후 클리어런스가 진행되면서 불법점유에 대한 불법적이고 비위생적인 이미지가 더해졌다( 本 岡 27). 하지만 아래의 인터뷰는, 우토로 마을에 대한 장소의 기억이 재일조선인 뿐만 아니라 우토로 라는 지명에 의해 지역적 으로 전개되었음을 보여준다. 알바 면접 볼 때 우토로라고 적으면 전부 짤린다. I지역이랑 O지역이랑 그렇다. 그래서 근처 다른 동네 산다고 거짓말하고 그랬지. <우토로 주민, 여성, 재일 3세, 3대> 앞서 언급한 것과 같이 우토로 마을의 주변지역은 농촌지역에서 교외주택지로 급격히 변 모했다. 그를 고려하면, 재일조선인으로서 농지지역에 돌발적으로 형성된 우토로 마을이 이 지역의 재일조선인 의 대표로서 인식되는 한편, 교외 지역에 불법점유지로서 존재하면서 지 역 범위 안에서 공유되는 우토로 로서 지역 내의 문맥을 형성하고 있었으리라는 추정이 가 능하다. 이를 지역 범위를 가지고 시간적으로 축적된 구체적인 자료를 축으로 하여, 그것을 주민의 인터뷰 등과 조합하면서 특히 지역적 차이에 주목하여 그 장소의 기억을 살펴보려 한다. 장소의 기억의 변천과정 지역신문의 분석을 중심으로 1946년 12월에 창간한 라쿠난 타임즈 지는 우지시를 포함한 6개의 시쵸에서 발행되는 지역 신문이다. 이 신문의 창간에서부터 21년 1월까지의 신문기사를 대상으로, 재일조선 인 전반, 그리고 우토로가 등장하는 총 529건의 기사를 추려내어 리스트화 한 후, 연대별, 종류별로 분류하여 기사 수의 증감을 분석하는 한편, 그 내용을 분석했다(표 1). 그리고 표 2는 전체적인 경향을 나타낸다. - 176 -

카테고리 구분1 구분2 구분3 사회③ 우토로 423 국가 법률 국가적 정책 외국인등록 건강보험등, 외국인정책 주변지역 9 지역정치 경제 지방자치단체, 기업, 도시문제 군사기지문제 ①범죄, 재해 ②도시생활 환경 수해, 빈곤, 토지, 복지 ③우토로 문제 재판 토지문제 수도문제의 재판관련 정보 신문사에 의해 쓰여진 정보성 기사 운동 우토로 내에서 개최된 이벤트, 행정교섭 사회 한국 한국 국회의원 방문 등 한국 관련 재일/ 정치 시의회, 정부 레벨에서 언급된 우토로 우 토 로 연대 다른 시민운동과 연계, 모금운동 사회⑥ 관련기사 지역 우토로문제 발생 후의 지역문화교류 문화 ④재일조선인 관련:총련 민단조직,민족교육, 차별 ⑤그 외 사건, 비화, 인물, 사건사고, 국제교류 ⑥사회운동 자치 노동 인권 정내회 사회③ 연대 문화교류 이벤트 스포츠 국제교류/사회③ 지역 문화 7년대 후반부터는 우토로 마을 중심만 집계 라쿠난 3 라쿠난타임스사의 특집기사 중에서 재일, 우토로를 언급한 것 국제정세 13 한국 북한의 국내정세 관련기사 예 김대중 납치사건, 일본인 피랍등 계 529 계 13 21 32 21 289 43 16 51 3 3 13 529 표 1 라쿠난타임즈 지를 통해 살펴본 재일/우토로 관련 기사내용 구분과 그 수 출처: 라쿠난타임즈 (1946~21.1)로부터 발표자 작성 표2 신문기사를 통해서 본 재일조선인(짙은 회색) 및 우토로마을(옅은 회색) 관련 기사량의 증감 출처 표1 전게 표 2에서부터 크게 2가지의 경향을 볼 수 있다. 먼저 기사 수의 증감이 시대에 따라 크게 변화한다는 점 그리고 전체 기사 중 우토로 마을 관련 기사가 수적으로, 그리고 영향력으로 큰 비중을 차지한다는 점이다. 기사 수를 봐도 전체 529건 중 423건(8%)를 차지하며, 후 자의 기사의 증감과 전체 기사의 증감이 거의 일치하고 있다. 또한 이러한 경향은 이 지역에 서 가장 발행부수가 많은 교토신문과는 다른 특징을 가지고 있다 *1. 다음으로, 그 내용 을 시대별로 살펴보겠다. 전후~196년 무렵 전후부터 196년 까지의 시기는, 재일조선인 조직 관련 기사가 다수 보도되어, 양자의 증 감이 비교적 일치되었던 시기이기도 하다. 당시는 재일조선인에 대한 정책적 변환이 급격하 게 진행되었으며, 외국인 등록령 1947, 1952, 남북분단 1948, 조선학교 폐쇄령 (1949), 한국전쟁 (195), 북조선 송환사업 (1959~)등의 빅 이슈가 우토로 마을을 중심으로 지역신문에 빈번하게 게재되었다. 그것이 가능했던 이유는 마을 내에 조선연맹계열(정확히는 민전) 지부가 위치하여 우지 근교의 반정부/반미운동의 거점으로 통했던 까닭이다. 이러한 경향은 표 3, 표 4로부터도 확인할 수 있는데, 재일/우토로 모두 1955년까지 재일조직관련 기사가 많으며 그 이후로는 격감을 보인다. 같은 해, 민전은 해체하여 공산당 계 운동에서부 터 이탈하게 되지만 이미 우토로 마을은 저항/범죄의 온상으로서 크게 보도된 뒤였다. 177

한편, 이 시기에는 우토로의 여성 주민에 의한 생활곤란 개선 요구도 크게 보도되어, 앞서 서술한 바와 마을의 물리적인 모습과 함께, 빈곤 지역으로서 신문지상을 통해 알려졌다. 결 국 전후부터 196년경의 시기에, 마을의 무서운 이미지, 그리고 빈곤하고 이질적인 이미지 가 형성된 것으로 생각되는데, 한가지 주목하고 싶은 것은 1957년에 게재된 주민간의 분쟁 에 대한 기사이다(*11). 집중호우로 지대가 낮은 우토로 마을이 침수되어, 마을과 경계된 제 방을 무너뜨려 북쪽의 논으로 물을 빼려고 했던 주민이 이세다쵸 주민에 의해 저지당한 이 사건은, 우토로 마을이 피해를 입음으로써 주민의 재산이 우토로 주민의 안전보다 우선하는 결과를 낳았다. 이는 상대적으로 취약한 우토로 지역과 주변 지역의 역학 관계를 개별 주민 역시 인식하고 있었음을 보여주는 케이스이다. 구분 시기 국가 법률 지역정치 닛산 경제 그외 사회① 사회② 범죄 화재 수해 환경 빈곤 복지 우토로문제 사회③ 사회④ 재일조직 사회⑤ 그외 사회⑥ 사회운동 사회 합계 문화 스포츠 국제정세 계 5 55 6 65 7 75 8 85 구분 시기 5 55 6 65 7 75 8 85 2 1 1 3 1 5 4 국가 법률 지역정치 경제 2 1 7 4 3 4 1 5 3 1 3 4 2 1 1 1 3 1 1 범죄 사회① 화재 수해 환경 사회② 빈곤 복지 3 4 5 3 2 1 3 4 2 1 1 1 사회③ 우토로문제 4 13 8 2 4 1 2 사회④ 재일조직관련 4 12 2 1 사회⑤ 그 외 1 1 2 2 사회⑥ 시민운동/연대 사회 합계 8 17 12 9 6 1 1 1 스포츠 1 4 지역교류 8 2 12 9 6 1 2 5 1 4 3 3 1 1 1 8 21 26 13 1 2 5 6 1 4 1 5 2 1 2 9 3 36 15 11 7 8 19 표 3 재일관련기사수의 시대에 따른 변천 문화 계 표4 우토로관련기사수의 시대에 따른 변천 출처: 라쿠난타임스 (1946~1985)로부터 발표자 작성 ( 시대별로 가장 기사수가 많은 부분을 굵게 표시) 196년대~198년대 이전 시기와는 달리 이 시기에는 그 증감과 내용에서 재일조선인 관련기사와 우토로 관련 기사의 차이가 나타나게 된다. 시의 확대와 함께 기사의 내용도 다양화되어 한일조약(1965 년)과 송환사업에 이어, 국민건강보험 가입, 공영주택 입거문제 등 197년대에 이루어졌던 전국적인 재일조선인의 인권운동, 그리고 197년대 후반부에는 한국사회의 동향도 이슈가 되었다. 하지만 우토로 관련 기사는 재일조선인 전체의 동향과는 별도로, 196년대에는 범 죄의 적발과 마을 내 화재에 관한 기사가 집중 보도되고, 197년대 이후부터는 거의 게재되 지 않게 된다(표 3,4). 이 시기는 우토로 주변지역이 급격히 확대되는 시기이기도 했다. 농촌사회에서 이전인구의 급증으로 교외도시화로 변한 이 시기에, 앞서 말한 대로 농촌 사회의 원주민에 의한 부정적 인 이미지에 우토로 라는 레테르와 함께 범죄/폭력사건과 관련된 기사가 매우 희박한 정보 로서 전달되었다. 이러한 이미지를 줄일 수 있는 것이 재일조선인의 인권운동이었으나, 이는 이전 시기와는 달리 지역 외의 사건으로 다루어져 우토로 에 대한 공백으로서의 장소의 기 178

억이 국지적인 범위 안에 정착하여, 그 전까지 신문지상에서 다루어졌던 마을의 여러 문제도 잊혀졌던 것이다. 1985년의 화재 사건과 그에 이어진 1986년의 수도매설운동이 큰 반향을 일으킨 것은 그 공백을 뒷받침한다. 여기까지 전후부터 1985년까지의 우토로 마을에 형성된 장소의 기억의 변천과정을 분석 하였다. 마지막으로 마을과 주변 지역의 상황, 매스미디어, 그를 통하여 형성된 장소에 기억 에 대해 주민이 어떻게 주민의 장소의 기억을 형성해 나갔는지에 대해 살펴보고자 한다. 다중구조 안의 주민의 장소의 기억 주민의 인식과 대응은 성별이나 세대, 입장에 따라 다르며, 우토로 주민이 지역주민과의 관계에 있어서 항상 일방적으로 불리한 입장에 빠져 있었다고 단언할 수는 없을 것이다. 예 를 들면, 1세 특히 여성 주민의 경우는 우토로를 재일 커뮤니티의 보금자리로서 인식하여, 외부의 차별로부터 안전한 장소이면서도 차별의 내용과 공통된 사람들이 모여 있는, 양의적 인 장소의 기억을 가지고 있는 경우가 많다(*12). 한 편, 인터뷰 중에서는 주로 어린 시절, 힘을 모아 학교 및 마을 주변에서 생기는 대립에 대해 물리적으로 저항했음이 3~8대의 주민들로부터 밝혀졌다. 하지만 이러한 저항은 유소년기이기에 할 수 있는 최소한의 저항에 가까운 것으로 보이며, 지역사회에서 일과 육아에 종사하고 있는 주민의 대부분은 저항을 겉으로 표현하지 않은 채 여러 가지 일이 있었는데, 옛날보다는 아, 생각한거랑 다르네 라고 저한테 말씀을 많이 하시죠. 같이 활동을 하면서. 처음 알았어요~ 라고. (*13)와 같이 부정적인 기억을 전제로서 받아들이면서, 일상생활의 실천을 계속해나간다. 이러한 계층적인 관계는 일본사회와의 관계뿐만이 아니다. 195~6년대에 마을로 시집온 여성들의 이야기를 들으면, 무서운 곳이라고 생각했지. 판자집이 많이 있어가지고 (*14)와 같은 감상을 공통적으로 이야기한다. 소규모의 불법점유지로서 다른 재일조선인의 집주지보 다 열악한 사회, 경제적 환경을 가지고, 조총련 계열이라는 조건을 가진 우토로 마을은, 재 일조선인 사회 안에서도 로컬적인 존재였을 가능성이 높다. 5. 맺음말 본 발표에서는 근대 일본, 재일이라는 배경 하에 형성/배치된 마을이 시간의 변화와 함께 생활을 지속함에 따라, 지역생활권에 있어서의 공간구조가 다시 형성되어 다중 구조 안을 살 아가는 주민의 상황이 생성되었음을 장소의 기억 과 그것이 영향을 미치는 사회관계를 통해 서 살펴보았다. 결국 재일조선인으로서 전쟁 중에 형성되어 전후 우지시에 정착한 우토로마을은 그 사회 경제적, 그리고 공간적 조건에 말미암아 전쟁 직후까지의 이민족의 이미지, 전쟁 직후의 반 사회적이고 폭력적인 이미지, 그리고 지역의 도시화에 반대되는 비근대적 이미지를 대표하는 지역 내의 장소로 표상되어, 그 축적은 다가가서는 안되는 장소 라는 비근접성을 형성하였 다. 이러한 구조를 극복하는 움직임 중 하나가 197년대 이후의 재일조선인에 의한 인권운동 - 179 -

이었으나, 우토로마을은 196년대 이후 그것으로부터도 분리되어, 확대되는 지역 사회 속에 서 외부에 알려지는 일 없이, 이전부터 전해져온 반사회적, 불법적 그리고 비근대적 인 장 소로서 철저하게 지역적인 장소로서 잊혀졌다. 주민은 지역정치에 접근하지 못한 채, 차별의 피해자가 되는 한 편, 재일이라는 커뮤니티에도 기대지 못한 채, 일상생활이 지속되는 범위 안에서 지역과 관계 맺으려고 해 왔다. 이것이 우토로 문제 발생 전까지의 우토로 마을과 주변 지역 주민이 가지고 있던 공간적 배경이다. 이러한 지역화의 과정은 우토로와 같은 집주지 의 문제를 접할 때, 이민이나 사회계층 등 의 일률적인 기준보다 항상 생활공간의 문제로서의 지역에 대한 인식을 병행해서 분석하는 것이 필요함을 보여준다. 한편, 하층사회이자 에스닉이라는 일본사회에 대한 전제, 그리고 그 2가지의 사회공간적인 담론이 지역 내에서도 정착한 우토로라는 다중구도는, 주민의 우토로에 대한 긍정적인 장소 의 기억 에서도 나타났다. 그들은 1세가 느끼는 아지트적인 편안함에 더하여 생활을 지속해 온 것에 대한 애착을 보이며, 또한 우토로에 모여 있는 것을 통해서 재일이나 한국을 생활감 각을 통해 대상화하는 모습을 보였다. 우토로에 관해서도 여기 우토로에 불쌍한 사람만 있 는거 아니데이. 생활보호 받아서 싹싹하게 사는 사람도 있다. 그냥 여기 남들 하는 대로 사 는 것 뿐이다. 좋은 사람도 있고, 나쁜 사람도 있어. 와 같이 객관적으로 바라보고 있었다. 일본인, 한국인, 재일조선인에 얽메이지 않는 그들은 동네 사람들이 알아줬으면 좋겠다 라고 소망하고 있었다. 이러한 객관화/대상화는 몇 중의 배제의 경험이 있기에 가능한 것인 지도 모르지만, 지역 화된 계층 관계를 알고 있으면서도, 장소에 구성된 사회적 관계를 계속해서 살아가는 우토로 주민에게는 현명함마저 느껴진다. 그리고 이것이 우토로'에 있는 것을 통해 가능했다는 점, 우토로 에서 계속된 운동에 의해 지역사회로 행동하기 시작했다는 점에 주목하여, 이후의 연구과제로 우토로 문제 이후의 변화를 더욱더 다양한 주체들에 주목해서 분석하고자 한다. [주] 1)니시나리타( 西 成 田 )의 이하의 연구가 선구적이다. 西 成 田 豊 在 日 朝 鮮 人 の 世 界 と 帝 国 国 家 東 京 大 学 出 版 会 1997 2)예를 들면, 효고현의 재일불법점유지를 사례로 한, 金 菱 清 生 きられた 法 の 社 会 学 新 曜 社 28이 있다. 3)필자는 주로 정치지리학에서 사용되는 장소의 정치 의 장소 개념을 사용했다. 공간을 통해 나타나 는 집단적 기억의 개념은 알박스(Maurice Halbwachs)의 집단적 기억(collective memory) (195=1989일역), 그리고 피에르 노라(Pierre Nora)의 기억의 場 (Les Lieuxde Memoire) (1984=22일역)를 바탕으로 한 사회학, 역사학의 논의를 참고했다. 장소의 정치에 대해서는, 山 﨑 孝 志 政 治 空 間 場 所 政 治 の 地 理 学 にむけて ナカニシヤ 出 版 21 32-33쪽을 참고. 4) 姜 在 彦 在 日 百 年 の 歴 史 環 11 22 152-164쪽 5)우토로 마을의 사회운동에 대한 분석으로는 - 18 -

유영국, 우토로 문제를 통해서 본 한/일시민사회의 연대와 과제,, 한국민족문화S4, 29, pp47-454를 참고하였다. 6) 斎 藤 正 樹 ウトロ: 強 制 立 退 きから 新 しいまちづくりへ コリアンコミュニティ 研 究 1 21 37-44 쪽 7) 宇 治 市 役 所 発 行 宇 治 市 史 4 近 代 の 歴 史 と 景 観 1978 598쪽 8) 宇 治 市 宇 治 市 統 計 諸 昭 和 55 年 度 1981 9)이하의 통계서를 참조하였다. 京 都 府 農 業 会 議 都 市 開 発 と 農 家 のくらしの 変 貌 京 都 府 宇 治 市 総 合 調 査 結 果 1969 前 掲 諸 宇 治 市 宇 治 市 統 計 諸 昭 和 62 年 度 1988 1)교토신문의 28년 1월 지역별 발행부수를 참조하였다. http://www.kyoto-np.co.jp/ad/profile/busuu_2.htm 또한 교토신문에 대한 재일관련기사의 경향에 대해서는 아래의 연구를 참조. 江 口 信 清 新 聞 記 事 を 通 じてみた 京 都 の 在 日 朝 鮮 韓 国 人 像 の 変 容 -1945~2 年 の 京 都 新 聞 の 記 事 から 京 都 地 域 研 究 17 28 17-34쪽 11) 洛 南 タイムス 1957 年 7 月 7 日 伊 勢 田 町 とウトロ 対 立 (이세다쵸와 우토로 대립) 12) 金 基 淑 チャングの 響 く 街 ウトロ 地 域 社 会 との 共 生 をめぐる 在 日 韓 国 朝 鮮 人 の 模 索 人 間 学 研 究 2 21 1-15쪽 13)우토로 전 주민 Y씨의 인터뷰에서부터. 29 年 11 月 1 日 실시 14)우토로 주민 K씨의 인터뷰에서부터. 21 年 8 月 17 日 실시 [참고문헌] M.アルヴァックス( 小 関 藤 一 郎 訳 ) 集 合 的 記 憶 行 路 社 1989 (알박스/코세키 후지이치로, 집단적 기억, 코지샤, 1989) P.ノーラ( 谷 川 稔 訳 ) 記 憶 の 場 全 3 巻 岩 波 書 店 (노라/타니가와 미노루, 기억의 장 전 3권, 이와나미쇼텐) 本 岡 拓 哉 戦 後 神 戸 市 における 不 法 占 拠 バラック 街 の 消 滅 過 程 とその 過 程 人 文 地 理 59 2 27 13-15 項 山 中 速 人 近 代 日 本 のエスニシティ 観 新 聞 の 朝 鮮 ( 人 ) 報 道 を 手 掛 かりに ( 中 野 秀 一 郎 今 津 孝 次 郎 編 エスニシティの 社 会 学 日 本 社 会 の 民 族 構 成 世 界 思 想 社 1993 86 17쪽 [보고서/통계자료] 龍 谷 大 学 同 和 問 題 研 究 委 員 会 同 和 問 題 研 究 資 料 高 瀬 川 を 歩 くⅣ ウトロと 日 本 の 戦 後 処 理 26 平 成 21 年 度 住 まい まちづくり 担 い 手 支 援 事 業 長 期 優 良 住 宅 等 推 進 環 境 整 備 事 業 在 日 コリアン コ ミュニティの 持 続 型 居 住 を 実 現 する 住 環 境 整 備 計 画 策 定 活 動 ウトロまちづくりに 関 する 住 民 意 向 調 査 (29)의 중간보고(21년 11월 14일 ( 社 )ウトロ 町 づくり 協 議 会 CASEまちづくり 研 究 所 로부터 사용허가를 얻었다.) 京 都 府 市 区 町 村 男 女 別 人 口 時 系 列 表 ( 平 成 2 年 1 月 平 成 22 年 9 月 ) http://www.pref.kyoto.jp/tokei/monthly/suikeijinkou/suikeitop.html(21 年 12 月 29 日 検 索 ) - 181 -

第 二 回 共 同 学 術 会 議 報 告 書 大 阪 市 立 大 学 都 市 文 化 研 究 センター + 釜 山 大 学 校 韓 國 民 族 文 化 研 究 所 都 市 移 住 民 と 空 間 変 形 大 阪 市 立 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 頭 脳 循 環 を 加 速 する 若 手 研 究 者 戦 略 的 海 外 派 遣 プログラム 東 アジア 都 市 の 歴 史 的 形 成 と 文 化 創 造 力 研 究 代 表 者 仁 木 宏 : 大 阪 市 立 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 教 授 編 集 責 任 者 伊 地 知 紀 子 : 大 阪 市 立 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科 准 教 授 頭 脳 循 環 プログラム 事 務 局 長 連 絡 先 大 阪 市 立 大 学 文 学 研 究 科 頭 脳 循 環 プログラム 事 務 局 558-8585 大 阪 市 住 吉 区 杉 本 3-3-138 TEL / FAX:6-665-2355 発 行 212 年 3 月 31 日