東 アジア 文 化 と 日 本 学 の 成 立 色 好 み と 日 本 文 化 論 日 本 國 學 院 大 學 辰 巳 正 明 1. 序 日 本 の 近 世 国 学 ( 日 本 学 )は 古 典 和 歌 を 中 心 としてその 学 問 を 形 成 した そうした 国 学 に 先 行 して 日 本 には 奈 良 時 代 (710-784)から 歌 学 が 出 発 し 平 安 (784-1183?) 鎌 倉 (1183?-1333) 室 町 (1336-1573)の 各 時 代 に 隆 盛 して 近 世 江 戸 国 学 の 学 問 形 成 に 大 きな 役 割 を 果 たした 奈 良 時 代 の 末 期 に 藤 原 浜 成 が 歌 経 標 式 (772)を 著 したのは 日 本 古 来 の 歌 を 中 国 六 朝 の 詩 学 を 以 て 論 理 化 することにあった 浜 成 歌 学 がここに 始 発 を 見 るのは 日 本 最 古 の 歌 集 である 万 葉 集 が 成 立 する 時 代 でもあったことによる 以 後 平 安 時 代 に 入 り 漢 詩 隆 盛 を 経 て 和 歌 復 興 の 時 代 を 迎 え 古 今 和 歌 集 の 仮 名 序 真 名 序 に 新 たな 歌 学 が 登 場 する 歌 の 本 質 や 効 用 を 毛 詩 序 に 求 め 和 歌 史 や 歌 人 批 評 を 鍾 嶸 の 詩 品 に 倣 い 加 えて 和 歌 を 通 して 君 臣 和 楽 のあるべき 政 道 を 説 くの である この 歌 学 が 以 後 の 日 本 歌 学 に 大 きな 影 響 を 与 えることになる また 平 安 時 代 以 後 に 歌 学 び のための 啓 蒙 書 も 多 く 産 生 され 枕 詞 歌 枕 などの 歌 語 の 用 い 方 や 古 歌 の 由 来 秀 歌 の 生 ま れた 故 事 歌 の 徳 などが 説 かれ さらに 仏 教 の 偈 頌 や 儒 教 的 修 身 道 徳 とも 接 続 して 和 歌 の 本 質 や 効 用 がそれぞれの 時 代 に 展 開 するのであり やまとうたは 人 の 心 を 種 ( 古 今 集 仮 名 序 )と すると 説 かれながらも 歌 学 の 上 では 個 人 の 詠 嘆 性 よりも 社 会 的 な 効 用 性 の 中 に 捉 えられて 行 っ たのである こうした 国 学 の 形 成 前 期 に 和 歌 の 研 究 を 学 問 として 成 立 させる 動 きも 現 れた 鎌 倉 中 期 の 僧 仙 覚 (1203-1272 以 降 )は 五 山 の 研 究 方 法 を 受 けて 僧 坊 で 万 葉 集 の 訓 注 に 取 りかかり 万 葉 集 註 釈 を 以 て 新 たな 訓 読 を 示 した 江 戸 時 代 (1600-1867)に 入 り 僧 契 沖 は 悉 曇 学 仏 教 学 を 修 めて 日 本 古 典 文 献 の 注 釈 に 取 り 組 み 徳 川 光 圀 の 依 頼 により 万 葉 代 匠 記 を 完 成 させる いわば 鎌 倉 から 江 戸 期 にかけて 五 山 の 学 問 の 方 法 が 受 容 され 江 戸 期 の 国 学 に 大 きな 影 響 を 与 えることにな る 日 本 国 学 の 四 大 人 と 呼 ばれる 国 学 者 は 荷 田 春 満 (1669-1736) 賀 茂 真 淵 (1697-1769) 本 居 宣 長 (1730~1801) 平 田 篤 胤 (1776-1843)であるが いずれも 古 典 和 歌 への 強 い 関 心 を 持 ち 春 満 は 万 葉 集 僻 案 抄 を 真 淵 は 万 葉 考 を 宣 長 は 万 葉 集 問 答 を 篤 胤 は 歌 道 大 意 を 著 す この 四 大 人 の 中 でも 日 本 国 学 の 大 成 者 と 目 される 本 居 宣 長 は 真 淵 の 学 問 を 継 承 する ことで 古 事 記 伝 により 古 道 の 学 としての 国 学 を 完 成 させた その 宣 長 の 学 問 の 基 盤 は 真 淵 の 説 くところに 従 い 万 葉 集 を 中 心 とした 古 代 和 歌 にあった 宣 長 が 古 代 和 歌 を 学 問 の 基 盤 とした のは 当 時 の 学 問 が 漢 学 優 先 にあることを 批 判 し 日 本 古 来 の 精 神 を 求 めようとしたところにある すでに 程 朱 学 や 陽 明 学 はそれぞれの 学 派 を 以 て 日 本 漢 学 に 展 開 し また 古 義 学 敬 義 学 古 注 学 水 戸 学 などもその 派 を 競 い 荻 生 徂 徠 たちの 古 文 辞 学 は 服 部 南 郭 を 通 して 真 淵 らの 和 歌 研 究 にも 影 響 を 及 ぼしていた そのような 状 況 下 で 宣 長 は 中 国 化 される 以 前 の 日 本 的 精 神 を 古 代 和 歌 である 万 葉 集 に 求 めることで そこに まこと の 心 ばえを 発 見 するのである この まこと の 心 とは 日 本 文 化 史 における 色 好 み や 物 のあはれ の 発 見 でもあった
132 동아시아 인문전통과 문화역학 2. 本 居 宣 長 の 古 典 和 歌 尊 重 論 宣 長 は 問 答 の 形 式 を 取 りながら 自 らの 考 えを 明 らかにして 行 く ここに 登 場 する 問 云 は 宣 長 が 仮 構 した 人 物 であり どちらかというと 中 国 の 学 問 に 馴 染 んでいる 知 識 人 である その 知 識 人 の 問 に 答 えて 行 くのが 宣 長 であり そうした 方 法 によりながら 中 国 文 化 の 受 容 がどのように 日 本 人 に 悪 い 影 響 を 与 えたかを 論 じるところから 始 める このような 問 答 形 式 は 中 国 の 学 問 形 式 に 見 られ るが おそらく 宣 長 を 廻 る 友 人 たちとの 問 答 が 基 盤 にあるように 思 われる 相 良 享 によると 宣 長 は 京 都 遊 学 にあって 得 た 友 人 たちと 手 紙 のやり 取 りをするが そこには 後 の 宣 長 の 学 問 の 萌 芽 が 見 え るという( 注 1) その 友 人 たちは 漢 学 志 向 の 者 であり その 往 復 存 問 の 中 にすでに 漢 学 を 批 判 す る 宣 長 の 和 学 が 芽 を 出 しているというのである まず 次 のような 問 答 から 始 まる 六 八 問 云 唐 の 詩 は 世 のうつりかはるにしたがひて 人 の 心 と 共 にさかしくなりもてゆき 又 此 方 も 万 の 事 みな 後 の 世 になりては さかしくのみなりぬるに たゞ 歌 のみはいかなれば 今 も 猶 上 ッ 代 にかはらず 物 はかなくて 雄 々しき 事 のまじらぬぞ 答 云 吾 御 国 は 天 照 大 御 神 の 御 国 として 佗 国 々にすぐれ めでたくたへなる 御 国 なれば 人 の 心 もなすわざもいふ 言 の 葉 も 只 直 くみやびやかなるまゝにて 天 の 下 は 事 なく 穏 に 治 まり 来 ぬれば 人 の 国 のやうにこちたくむつかしげなる 事 は つゆまじらずなむ 有 ける 然 るを 海 西 の 国 より 書 といふ 物 わたりまうで 来 て それをよみならひ 学 ぶことはじまりては 其 中 に 人 の 国 のやうをかけるを 見 るに 万 の 事 さかしく 心 ふかげに 見 ゆめるにめでて 此 方 の 人 もそれ をいみじき 事 におもひそめては いつとなく 其 心 ばへをしたひならふやうのみなりもてゆくほ どに ならの 京 のころほひになりては つひに 万 の 事 みな 唐 国 の 如 くになむなれりける され ど 歌 のみぞ 其 ころもなをよろづの 事 にたがひて 意 も 言 も 吾 御 国 のをのづからの 神 代 の 心 ばへ のまゝにては 有 ける ( 注 2) 中 国 では 時 代 が 下 ると 詩 も 人 の 心 もさかしらになり 日 本 でも 時 代 を 経 るとすべてさかしくなる のに 歌 のみにあっては 唐 風 のものが 交 じっていないというのはどうしてか というのが 問 の 主 旨 であるが それに 対 して 我 が 国 は 天 照 大 御 神 の 御 国 であるから 人 の 心 もなす 事 も 言 葉 も 直 くみや びやかなままであり それ 故 に 天 下 に 事 なく 平 穏 に 治 まってきたが 奈 良 の 都 あたりから 海 外 の 書 物 を 学 んだ 結 果 万 事 に 渡 って 唐 風 になってしまったこと ただ 歌 だけはほかとは 異 なって 神 代 の 心 ばえのままにあるのだというのである ここには 宣 長 の 論 理 展 開 における 根 源 的 な 非 論 理 性 が 存 在 する その 非 論 理 性 ( 或 いは 超 論 理 性 )とは 日 本 的 文 化 の 優 秀 性 の 論 拠 を 天 照 大 御 神 に 置 く ことにある そこから 導 かれるのは 神 代 の 心 ばえであり 神 代 の 心 ばえは 唐 風 なさかしらの 交 じ らない 直 い 心 であり 自 ずからなる 心 に 他 ならないというのである そうした 神 代 の 心 ばえの 前 に あっては 中 国 的 学 問 や 論 理 は 太 刀 打 ち 出 来 ない 宣 長 の 答 えた 歌 のみに 神 代 の 心 ばえが 残 されているという 指 摘 に 対 し それではなぜ 歌 にのみそ れが 残 されているのかという 問 いかけが 続 いてなされる 七 〇 問 云 ことさらにから 国 のやうをば 学 ばずとも 世 のうつりかはるにしたがひてはじね んに 歌 のやうもかはりもてゆくらんを などか 此 道 のみ 神 代 の 心 ばへのまゝなるとはいふぞ 答 云 まへにもいへるやうに 歌 とても 其 体 は 世 々に 変 ぬにはあらねど そは 只 ことばのいひ ざまのかはりぬるのみにて いふ 事 の 心 ばへは 神 代 も 今 も 同 じ 事 也 これはたかはれる 所 とか はらぬ 所 のある 事 をわきまへ 知 るべき 事 也 そのかはり 来 しやうは 後 にくはしくいふべし 今 そのかはらぬ 故 はいかにとならば さきざきもいへるごとく わが 御 国 はおほとかにやはらび たる 人 ごゝろにし 有 りければ よみ 出 る 歌 もたゞ 古 への 物 はかなげなるまことの 心 ばへのまゝ
第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 133 にしたがひ 来 て さらにわれかしこからんとさかしだつ 事 なき 故 に 今 迄 もなを 神 代 の 心 ばへ はうしなはぬ 也 さるはならの 京 のころほひなどのやうに ひたふるにもろこしをしたひて よろづにさかしがる 世 も 有 しかど さる 人 々は 深 くもてあそばず 又 其 ころとても 歌 よむ 人 の 心 は 猶 なつかしうやはらかになむ 有 ければ をのづから 歌 は 歌 の 心 ばへをうしなはで 後 の 世 にも 伝 はりし 物 なり さてさる 物 に 定 りては からめいて 詩 作 る 人 もよみけれど 歌 は 歌 にて すぢことにわかれ 来 ぬれば 詩 に 妨 げられて 心 ばへのかはる 事 はたなく 又 世 の 風 儀 にひかれ て 変 る 事 もなかりけり 歌 も 世 に 連 れて 変 わるものであるが それは 言 葉 の 言 い 方 の 変 化 に 過 ぎず 心 ばえは 神 代 と 同 じ なのだといい 奈 良 時 代 に 唐 風 の 影 響 を 受 けたといっても それを 深 くは 受 け 入 れることなく 柔 軟 であったから 歌 の 心 ばえを 失 うことはなかったのだという ここには 古 典 和 歌 こそが 日 本 的 な 精 神 を 求 めるための 真 のテキストだと 考 える 宣 長 の 戦 略 が 展 開 している それは 宣 長 の 学 問 の 基 盤 が まさに 和 歌 にあったことを 教 えるものである 3. 宣 長 の 色 好 み 論 と もののあはれ の 発 見 和 歌 に まこと の 日 本 的 精 神 を 取 り 出 そうとする 宣 長 の 立 場 にとっては 次 のような 難 問 を 解 決 しなければならなかった それは 和 歌 における 恋 歌 の 問 題 である 七 〇 又 とひていはく 恋 の 歌 のよに 多 きはいかに 答 云 まづ 古 事 記 日 本 紀 に 見 えたるいと 上 ッ 代 の 歌 共 をはじめて 代 々の 集 どもにも 恋 の 歌 のみことにおほかる 中 にも 万 葉 集 には 相 聞 とあるが 恋 にて すべての 歌 を 雑 歌 相 聞 挽 歌 と 三 ッに 分 ち 八 の 巻 十 の 巻 などには 四 季 雑 歌 四 季 相 聞 とわかりて かやうに 他 を ばすべて 雑 といへるにて 歌 は 恋 をむねとすることをしるべし そもいかなればかくあるぞと いふに 恋 は 万 のあはれにすぐれて 深 く 人 の 心 にしみて いみしく 堪 がたきわざなる 故 也 さ ればすぐれてあはれなるすぢは つねに 恋 の 歌 に 多 かる 事 なり ここに 和 歌 が 多 くの 恋 歌 を 詠 むことの 理 由 を 問 うのに 対 して すでに 万 葉 集 には 恋 歌 が 相 聞 として 分 類 され 多 く 集 められ 季 節 毎 の 分 類 までされていること これは 歌 が 恋 をむね( 旨 )とす るものであり その 恋 こそ 万 のあはれにすぐれて 深 く 人 の 心 にしみて いみしく 堪 がたきわざ なのだと 説 くように 恋 は あはれ という 感 情 を 導 くものであり あはれ という 感 情 は 恋 歌 において 最 も 良 く 現 れるのだと 答 えるのである いわば 宣 長 の もののあはれ 論 へと 展 開 する 核 心 にあたる 論 理 であり それこそが 日 本 的 精 神 の 発 露 であることを 確 信 するのである それは 次 の 問 答 において 明 らかにされる 七 四 問 云 恋 はから 書 にも 礼 記 には 人 の 大 欲 といひ すべて 夫 婦 の 情 とて 深 きことにす めれど それはをのれをのれが 妻 をこひ 夫 をおもふ 事 なれば さも 有 ぬべき 事 也 然 るに 歌 の 恋 はさだまりたる 夫 婦 のなからひのみにはあらず あるは 深 き 窓 のうちにかしづきて 親 もゆ るさぬ 女 をけさうじ あるはしたしき 閨 の 内 に 居 て 人 のかたらふ 妻 に 心 をかけなど すべて みだりがはしくよからぬ 事 のみなるに それをしもいみしき 事 にいひ 思 ふはいかに 答 云 前 にもいへるやうに この 色 にそむ 心 は 人 ごとにまぬがれがたき 物 にて 此 すぢにみだ れそめては 賢 きも 愚 なるもをのづから 道 理 にそむける 事 もおほくまじりて 終 には 国 をうし なひ 身 をいたづらになしなどして 後 の 名 をさへ 朽 しはつるためし 昔 も 今 も 数 しらず さる は 誰 も/\ 悪 しき 事 とはいとよくわきまへしる 事 なれば 道 ならぬけさうなどは ことに 心 か ら 深 くいましめつゝしむべき 事 なれども 人 みな 聖 人 ならねば 此 おもひのみにもあらずすべ
134 동아시아 인문전통과 문화역학 てつねになすわざも 思 ふ 心 も よきことばかりは 有 がたき 物 にて とにかくにあしき 事 のみお ほかる 中 にも 恋 といふものは あながちに 深 く 思 ひかへしても 猶 しづめがたく みづからの 心 にもしたがはぬわざにしあれば よからぬ 事 とはしりながらも 猶 忍 びあへぬたぐひ 世 におほ し まして 人 しれぬ 心 の 内 には たれかはおもひかけざらん たとひうはべはさかしらがりて 人 をさへいみしく 禁 むるともがらも 心 のそこをさぐりてみれば 此 思 ひはなき 事 かなはず 殊 に 人 のゆるさぬ 事 をおもひかけたるおりなどよ あるまじきこととみづからおさへ 忍 ぶにつけ ては いよいよ 心 のうちはいぶせくむすぼゝれて わりなかるべきわざなれば ことにあはれ 深 き 歌 もさる 時 にこそはいでくべけれ されば 恋 の 歌 には 道 ならぬみだりがはしき 事 の 常 に おほかるぞ もとよりさるべきことはりなりける とまれかくまれ 歌 は 物 をあはれとおもふに したがひて よき 事 もあしき 事 も 只 その 心 のまゝによみいづるわざにて これは 道 ならぬ 事 それはあるまじき 事 と 心 にえりとゝのふるは 本 意 にあらず すべてよからぬことをいさめ とゞむるは 国 をおさめ 人 を 教 る 道 のつとめなれば よこさまなる 恋 などはもとよりふかくい ましむべき 事 也 さはあれ 共 歌 はそのをしへの 方 にはさらにあづからず 物 のあはれをむね として すぢ 異 なる 道 なれば いかにもあれ 其 事 のよきあしきをばうちすてて とかくいふべ きにあらず さりとてそのあしきふるまひをよき 事 とてもてはやすにはあらず たゞそのよみ いづる 歌 のあはれなるをいみしき 物 にはする 也 すべて 物 語 文 なども みな 此 心 をもてよく/ \あぢはひて そのむねとする 心 ばへをしるべし さればこの 事 は 源 氏 の 物 語 につきて 巻 々 の 詞 をひき 譬 をあげて 別 にくはしくいひをければ あはせ 見 てかむがへてよ 大 かた 此 歌 の みちの 心 ばへは かの 物 語 のうへにてしらるべきことぞ 礼 記 に 恋 は 人 の 大 欲 だというのは 礼 運 にいう 飲 食 男 女 人 之 大 欲 存 焉 を 指 すのであろう 儒 教 基 準 に 基 づいて 男 女 の 猥 りがわしい 行 為 を いみしき 事 (すばらしい 事 )に 思 うのは 何 故 か という 問 である それに 対 する 宣 長 の 答 えは 色 にそむ 心 は 人 間 本 来 の 性 情 にして 免 れがたい ものだということにある 男 女 の 恋 愛 は 善 悪 を 弁 えている 者 にも 道 ならぬ 恋 を 悪 いことと 知 りな がらも 偲 ぶことが 出 来 ないものであって そこに 人 の 本 然 の 情 があるのだというのである 恋 は 是 非 善 悪 の 道 理 に 基 づく 判 断 を 不 可 能 とするというのは それが 人 の 自 ずからの 性 情 に 根 ざすもので あることによる 宣 長 論 理 の 重 要 性 は 人 の 自 ずからなる 性 情 を 説 くところにある それは 宣 長 の 普 遍 原 理 である むしろ この 自 ずからなる 性 情 がもたらす 効 用 として 見 出 されるものが ものの あはれ であり 忍 びがたく 堪 えがたい 時 にこそ 理 知 を 超 えたあわれ 深 い 歌 が 生 まれるのだとし それを いみしき 事 だとする それは 恋 歌 に 限 らずに 物 語 においてもこの 心 ばえを 知 るべきだ という すでに 源 氏 物 語 で 説 いたというのは 次 の 文 章 から 知 られるであろう さて 物 語 は 物 のあはれをしるを むねとはしたるに そのすぢにいたりては 儒 仏 の 教 ヘに は そむける 事 もおほきぞかし そはまづ 人 の 情 の 物 に 感 ずる 事 には 善 悪 邪 正 さま/\あ る 中 に ことわりにたがへる 事 には 感 ずまじきわざなれども 情 は 我 ながらわが 心 にもま かせぬことありて おのづからしのびがたきふし 有 て 感 ずることあるもの 也 源 氏 ノ 君 のう へにていはば 空 蝉 ノ 君 朧 月 ノ 君 藤 つぼの 中 宮 などに 心 をかけて 逢 給 へるは 儒 仏 などの 道 にていはむには よにうへもなき いみしき 不 義 悪 行 なれば ほかにいかばかりのよき 事 あら むにても よき 人 とはいひがたかるべきに その 不 義 悪 行 なるよしをば さしもたててはいは ずして たゞそのあひだの もののあはれのふかきかたを かへす/\ 書 のべて 源 氏 ノ 君 を ば むねよき 人 の 本 として よき 事 のかぎりを 此 君 のうへに とりあつめたる これ 物 語 の 大 むねにして そのよきあしきは 儒 仏 などの 書 の 善 悪 と かはりあるけぢめ 也 さりとて かのたぐひの 不 義 を よしとするにはあらず そのあしきことは 今 さらいはでもしるく さ
第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 135 るたぐひの 罪 を 論 ずることは おのづからそのかたの 書 どもの よにこゝらあれば 物 どほき 物 語 を 待 つべきにあらず 物 語 は 儒 仏 などの したゝかなる 道 のやうに まよひをはなれて さとりに 入 るべきのりにもあらず 又 国 をも 家 をも 身 をも をさむべきをしへにもあらず たゞ よの 中 のものがたりなるがゆゑに さるすぢの 善 悪 の 論 は しばらくさしおきて さしもかゝ はらず たゞ 物 のあはれをしれるかたのよきを とりたててよしとはしたる 也 ( 注 3) 源 氏 物 語 に 見 られる 源 氏 の 君 の 不 義 密 通 の 話 は 儒 仏 の 道 から 見 れば 背 ける 事 多 いのだが しかし 人 の 情 は 自 分 でも 抑 制 することは 困 難 であり 忍 び 難 いこともあるのだという むしろ 源 氏 の 君 のひどい 不 義 悪 行 を 良 いこととするものではなく そこに 見 えて 来 る もののあはれ を 以 て 源 氏 の 君 を むねよき 人 の 本 としているのだとする 和 歌 に 恋 歌 の 多 い 理 由 は そこに あは れ が 導 かれるからであるが 源 氏 の 君 の 物 語 も 同 様 の 論 理 で 物 のあはれ を 知 ることにあると する それは 儒 仏 の 教 えとは 根 本 的 に 異 なるものであり そこに 日 本 文 学 の 特 性 を 主 張 するのであ る ここには 宣 長 が 中 国 文 化 との 差 異 を 明 確 にすることで 日 本 文 化 の 独 自 性 を 説 く 態 度 が 見 られる が そこから 色 好 み に 関 する 日 中 比 較 論 を 展 開 する 七 五 問 云 から 国 のは 詩 もさらぬ 書 も 色 好 むすぢをいへる 事 いとまれなるに 此 間 の 書 どもには 恋 の 事 のみおほく 見 えて 上 も 下 もみだりがはしきこといとおほかるに それをあし き 事 にもいはぬは 国 の 風 俗 のすき/\しくあだなるゆへか 答 云 いろ 好 む 事 は 昔 も 今 もこゝかしこも 只 おなじ 事 といふ 中 に 歴 代 のからぶみを 見 るに かの 国 は 今 すこしみだりがはしき 事 おほく 見 えたり しかるを 前 にもいへる 如 くかの 国 は 万 のことに 人 の 善 悪 をのみこちたくいひさはぐならはしにて 色 このめる 事 などをば れいのさ かしらする 学 者 共 がつまはじきをしてあばめつゝ いみしくにくゝうとましげにかきしるし 又 詩 もをのづからさる 国 のならはしにひかれて たゞ 大 丈 夫 の 雄 々しき 心 ばへをのみ 好 みとゝ のへて 恋 する 情 の 女 々しく 人 わろきさまなどをばはぢていはず 是 みなつくろひかざれるう はべの 事 にて 人 の 心 のまことにはあらざるを 後 にそれをよむ 人 は 深 くたどらで かの 詩 文 のやうを 実 の 情 態 と 心 得 かの 国 の 人 は 色 にまよふふるまひすくなしとおもふはおろか 也 さ て 吾 御 国 はよろづおほとかにてさかしだゝぬゆへに 人 のよしあしをわづらはしくいひたつる 事 もなく たゞ 有 しまゝにいひつたへ 書 つたへたる 中 にも 歌 物 語 などはことに 物 のあはれな る 方 をむねとせる 事 なれば 色 このめる 人 のさま/\ 心 /\を 有 しまゝになだらかにかきのせ たる 物 也 中 国 の 詩 にも 書 にも 色 好 みのことが 希 であるのに 日 本 の 書 には 色 好 みの 事 が 多 く 見 え 上 も 下 も 猥 りがわしいのは 国 の 風 俗 だからかと 問 う これに 対 して 宣 長 は 中 国 では 万 事 が 善 悪 を 基 準 とす ること 色 好 みのことについては 学 者 たちが 排 除 したこと 恋 情 は 恥 ずべきものとしたことなどを 挙 げて だからといって 色 好 みが 少 ないと 判 断 するのは 愚 かなことだという むしろ 我 が 国 は 何 事 につけても 大 らかで あれこれと 論 うこともなかったから 色 好 みの 心 がありのままに 書 き 記 さ れたのであり そのことによって 反 って 物 語 などに 物 のあはれ が 書 き 残 されたのだと 主 張 する これらによって 知 られる 宣 長 の 日 本 文 化 論 は 一 に 恋 は 人 の 自 然 な 性 情 であり 抑 制 することは 困 難 であること 二 に 抑 制 困 難 な 恋 の 性 情 の 中 から まこと の 心 が 現 れること 三 はそうした 心 から 詠 まれる 恋 歌 に あはれ という 感 情 が 導 かれること 四 に 物 語 では 不 義 の 恋 愛 によって も ののあはれ が 主 題 として 成 立 したこと 五 にこの もののあはれ こそが 日 本 文 化 の 根 底 である こと ということにある 当 時 の 漢 学 隆 盛 を 鑑 みれば 宣 長 のこの 主 張 には 戦 略 としての 論 理 が 際 だっているように 思 われる その 手 法 は 中 国 の 儒 教 的 道 徳 規 範 との 比 較 対 照 であり そこから 導 か
136 동아시아 인문전통과 문화역학 れるのは 自 然 か 作 為 かの 優 劣 論 であった 儒 教 が 人 間 の 秩 序 や 道 徳 を 求 めることから それは 作 為 に 属 するものであり それに 対 して 男 女 の 仲 らいは 感 情 によることから それは 自 然 に 属 するもの である この 作 為 か 自 然 かを 以 て 戦 略 を 練 ったのが 宣 長 であった 自 然 の 感 情 により 導 かれるのは 男 女 の 恋 の 思 いであり それが 猥 りがわしく 見 えるとしても この 自 然 の 感 情 の 中 に まこと が あり そこからは もののあはれ という むね ( 本 旨 )が 見 出 されるのであり それこそが 日 本 文 学 の 本 質 であったとするのである 4. 宣 長 の 色 好 み 論 と 明 清 詩 学 和 歌 史 から 見 ると 恋 歌 は 必 ずしも 優 位 にあったわけではない 古 今 集 の 恋 歌 は 季 節 歌 よりも 数 を 誇 るが 仮 名 序 には 当 時 の 歌 は 色 好 み の 家 に 埋 もれたと 嘆 き 真 名 序 でも 至 有 好 色 之 家 以 之 為 花 鳥 之 使 と 恋 歌 が 花 鳥 の 使 いとなったことを 憂 えるのである それでありながら 多 くの 恋 歌 は 古 今 和 歌 の 特 色 である そうした 古 今 集 の 恋 歌 を 見 ると 作 者 未 詳 の 歌 を 除 くその 殆 どが 男 の 恋 歌 であるところに 特 色 がある このことに 基 づけば 勅 撰 の 恋 歌 とは 男 の 恋 歌 の 意 であった のであり これは 八 代 集 に 共 通 して 認 められるものであるから( 注 4) 勅 撰 和 歌 集 の 恋 歌 は 大 き な 矛 盾 を 抱 えながらも 編 者 の 恋 歌 排 除 のイデオロギーが 強 く 反 映 していると 見 るべきである( 注 5) 恋 歌 は 万 葉 集 を 経 ると 色 好 みや 花 鳥 の 使 いの 道 具 となり 公 式 な 場 に 出 すべきものでは なくなったというのも 仮 名 序 の 嘆 きであるが それにも 関 わらず 和 歌 や 物 語 に 恋 愛 が 多 く 見 られ その 疑 問 に 答 えたのが 如 上 の 宣 長 の 学 問 と 思 想 であった この 宣 長 の 思 想 において 最 も 重 要 な 鍵 語 は 自 ずからなる ことである それは 男 女 の 恋 愛 に 最 も 顕 著 に 表 れ そこから 恋 歌 の 多 く 詠 まれた 理 由 が 説 明 された 自 ずから とは 自 然 のことであ り 宣 長 が 老 子 を 認 める 立 場 があることからみれば( 注 6) 老 子 の 無 為 自 然 と 共 有 する 態 度 が 認 められよう いわば 宣 長 は 人 間 の 性 情 は 無 為 にして 自 然 なるを 良 しとするのであり それは 神 代 からの 日 本 の 伝 統 であったとする そうした 宣 長 の 考 えに 対 して 詩 と 歌 との 相 異 について 石 上 私 淑 言 で 次 のような 質 問 がなされる 六 五 問 云 詩 こそはむべ/\しくあざやかにうるはしき 物 にて 男 のかならずならひまね ぶべき 物 なれ 歌 はひたすらに 物 はかなくあだ/\しう 聞 えて たゞ 女 童 部 のもてあそびなど こそしつべけれ まことしういみじき 物 とは 見 えぬにや 答 ていはく 実 にさる 事 也 さはあれどもまことしくうるはしき 事 を 尊 ふとならば かの 経 学 などこそはさるすぢなれ 詩 はもとさやうにはか/\しうしたゝかなるべき 物 にはあらず か の 詩 経 のやうを 見 よ ただすなをにはかなだちて 後 の 世 のやうにさかしげなる 心 は 見 えず そこそは 詩 の 本 意 なるべきを あしう 心 得 てかの 経 学 の 心 ばへをもてとかくつき/\しう 説 な す 人 のみおほく 又 此 方 の 人 はその 詞 のからめきたるにまどひて みな 道 /\しき 事 ぞとのみ おもふ これらはみな 詩 の 義 にもたがひ 孔 子 の 心 にもそむけり 其 故 は 詩 はもと 人 の 性 情 を 吟 詠 するわざなれば たゞものはかなく 女 わらべの 言 めきてあるべき 也 ここに 詩 は 男 のものであり 歌 は 女 童 部 の 弄 びものとして 物 はかなく 聞 こえるのだというのに 対 して それは 詩 経 を 見 ても 知 られるように 詩 とは 本 来 素 直 にしてはかなげなものなのだとい う 何 よりも 詩 というのは 人 の 性 情 を 吟 詠 するわざ なのであり たゞものはかなく 女 わらべ の 言 めきてあるべき ものだというところには 和 歌 の 持 つ 性 質 を 見 事 に 言 い 当 てた 言 説 であるよ うに 思 われる 和 歌 の 心 は まこと にあるからで むしろ 歌 は 女 わらべの 言 葉 と 均 しくあるべ きだというのが 宣 長 の 主 張 である
第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 137 このような 宣 長 の 言 説 と 同 じくするのは 中 国 明 末 の 学 者 である 李 贄 (1527-1602)である 彼 は 当 時 の 古 文 辞 派 の 唱 える 擬 古 主 義 ( 注 7)に 対 し 童 心 説 を 主 張 した 李 贄 の 童 心 説 は 童 心 というのは 真 心 のことである もし 童 心 を 不 可 とするならば 真 心 もまた 不 可 ということになる 童 心 というのは 絶 対 的 な 純 真 にあり 一 番 最 初 の 心 である もし 童 心 を 失 えば 真 心 を 失 い 真 の 人 を 失 うこととなり そうすれば 人 は 真 ではない 存 在 となる ( 注 8)ということにある この 童 心 説 が 提 出 された 背 景 には 古 文 辞 学 を 主 唱 する 前 後 七 子 の 大 きな 文 学 運 動 があった 模 擬 模 倣 を 通 して 詩 文 の 創 作 を 提 唱 する 古 文 辞 派 は 明 時 代 に 大 きな 影 響 力 を 持 った そうした 古 文 辞 派 に 対 して 批 判 したのが 李 贄 であり また 袁 宏 道 たちの 公 安 派 と 呼 ばれる 一 派 の 文 学 運 動 であった( 注 9) こうした 運 動 を 受 けて 清 の 時 代 に 登 場 する 詩 人 が 袁 枚 (1716-1797)であり 彼 の 主 張 は 性 霊 説 にあった その 袁 枚 は 詩 というのは 情 により 生 まれるものである そこには 必 ず 不 可 解 の 情 というものがあり それによって 必 ず 不 可 朽 の 詩 があるのである 情 の 最 も 優 先 するものは 男 女 のそれに 及 ぶものはない 古 く 屈 原 は 美 人 を 君 に 譬 え 蘇 軾 や 李 白 は 夫 婦 を 友 に 喩 えたのであり 以 来 久 しいことである ( 注 10)と 述 べる ここに 見 られる 李 贄 の 童 心 説 袁 宏 道 や 袁 枚 の 性 霊 説 は 朱 子 学 や 古 文 辞 派 とは 立 場 を 異 にする 詩 の 創 作 にかかわる 運 動 体 であり この 運 動 体 を 青 木 正 児 は 所 感 所 見 を 自 由 に 且 つ 矯 飾 すること なく 自 然 に 述 べればよい 然 らば 自 己 の 格 律 はおのづから 其 の 中 に 備 はる ( 注 11)という 主 張 で あるとする 宣 長 もまた 江 戸 漢 学 者 である 荻 生 徂 徠 の 古 文 辞 学 派 を 批 判 した 一 人 である ここに は 明 清 の 詩 学 を 通 して 宣 長 の 学 問 と 思 想 が 成 立 する 軌 跡 が 認 められると 思 われる( 注 12) 漢 詩 漢 文 に 希 な 恋 愛 だが 宣 長 は 詩 はもと 人 の 性 情 を 吟 詠 するわざ なのであり その 性 情 は 恋 によ り 最 も 強 く 表 れるというのは 清 の 袁 枚 が 説 くように 男 女 の 情 に 及 ぶものはないのである 詩 の 童 心 説 から 恋 愛 による 情 の 発 露 その 流 れの 中 に 宣 長 の 学 問 と 思 想 があったのであり 宣 長 の 色 好 み の 問 題 もこのような 視 点 から 再 検 討 する 必 要 があるように 思 われる 注 (1) 相 良 享 本 居 宣 長 ( 東 京 大 学 出 版 会 ) 参 照 (2) 石 上 私 淑 言 本 居 宣 長 全 集 第 二 巻 ( 筑 摩 書 房 ) 旧 漢 字 は 新 漢 字 に 直 した 以 下 石 上 私 淑 言 は 同 書 による (3) 源 氏 物 語 玉 の 小 櫛 本 居 宣 長 全 集 第 四 巻 ( 筑 摩 書 房 ) 旧 漢 字 は 新 漢 字 に 直 した (4) 古 今 集 の 男 女 別 恋 歌 の 歌 数 は 巻 11( 男 12 女 0) 巻 12( 男 57 女 4) 巻 13( 男 30 女 7) 巻 14( 男 26 女 6) 巻 15( 男 30 女 11)である 以 下 八 代 集 の 総 体 を 示 すと 後 撰 集 男 196 女 83 金 葉 集 男 100 女 35 詞 花 集 男 65 女 11 拾 遺 集 男 144 女 21 後 拾 遺 集 男 149 女 62 千 載 集 男 259 女 52 新 古 今 集 男 305 女 83 である (5) 辰 巳 恋 歌 古 今 集 の 文 学 景 観 論 万 葉 集 と 比 較 詩 学 (おうふう) 参 照 (6) 宣 長 は たま/\かの 老 子 といふものの 言 と にたるところ/\のあるを 見 て ゆくりなく れ に よりていへるいへりとは 云 々 ( 玉 勝 間 本 居 宣 長 全 集 第 一 巻 ( 筑 摩 書 房 )のように 述 べて い る (7) 古 文 辞 派 は 文 は 秦 漢 詩 は 盛 唐 をスローガンとして その 徹 底 した 模 倣 を 主 義 とした 内 田 泉 之 助 中 国 文 学 史 ( 明 治 書 院 ) 参 照
138 동아시아 인문전통과 문화역학 (8) 焚 書 李 贄 全 集 巻 二 ( 中 華 書 局 ) (9) 公 安 派 中 国 学 芸 大 事 典 ( 大 修 館 書 店 )の 解 説 による (10) 答 蕺 園 論 詩 書 小 倉 山 房 続 文 集 袁 枚 全 集 二 ( 江 蘇 古 籍 出 版 社 ) (11) 青 木 正 児 清 代 文 学 評 論 史 青 木 正 児 全 集 第 一 巻 ( 春 秋 社 ) (12) 辰 巳 本 居 宣 長 の 阿 波 礼 論 と 袁 枚 の 性 霊 説 折 口 信 夫 東 アジア 文 化 と 日 本 学 の 成 立 ( 笠 間 書 院 ) 参 照 (Tatsumi Masaaki) < 要 旨 > 日 本 の 国 学 は 古 典 和 歌 を 中 心 としてその 学 問 を 形 成 した 特 に 日 本 国 学 の 大 成 者 とされる 本 居 宣 長 (1730~1801)は 古 事 記 伝 により 国 学 研 究 を 完 成 させたが しかし 宣 長 の 学 問 の 基 盤 は 和 歌 にあった (1) 本 居 宣 長 と 色 好 み 論 その 宣 長 は 和 歌 を 通 して 日 本 文 化 の 根 幹 に 色 好 み のある ことを 説 いた この 色 好 み とは 男 女 の 恋 愛 を 指 す 恋 愛 をテーマとする 日 本 文 学 は 和 歌 や 物 語 に 多 く 見 られる そのことから 次 のような 問 答 がなされる 問 云 恋 は 礼 記 に 人 の 大 欲 とある 日 本 の 歌 の 恋 は 他 人 の 妻 にも 懸 想 し 猥 りがわしいも のであるのに なぜ 大 切 なものと 思 うのか 答 云 この 色 に 染 まる 心 は 賢 人 も 愚 人 も 免 れがたく 自 然 と 道 理 に 背 き 国 を 滅 ぼし 名 を 汚 すことになる それは 昔 も 今 も 数 多 く 見 られる 道 ならぬ 恋 などは 誰 も 悪 いことだと 知 りな がらも 理 屈 で 心 を 抑 制 することは 不 可 能 であり まして 忍 ぶ 恋 であれば 一 層 のこと 不 可 能 で ある 立 派 な 態 度 で 人 を 叱 責 する 者 も 心 の 底 にはこのような 思 いがあるのだ そうした 道 な らぬ 忍 ぶ 恋 の 心 があるからこそ そこには あわれ 深 い 歌 が 生 まれる 道 ならぬ 忍 ぶ 恋 は 猥 りがわしいことであるが 故 に そこには もののあわれ が 生 じるのである それは 心 のままに 詠 んだからである もちろん それを 特 に 持 てはやすべきべきではない ( 石 上 私 淑 言 要 約 ) この 問 答 を 通 して 宣 長 は 日 本 文 学 文 化 の 基 本 美 学 としての もののあわれ を 導 くのである それを 中 国 との 比 較 から 次 のような 問 答 を 続 ける 問 云 中 国 の 書 物 には 色 好 みのことは 希 である 我 が 国 では 上 も 下 も 猥 りがわしいことが 多 い これは 日 本 という 国 の 風 俗 が もともと 色 好 みだからか 答 云 中 国 は 人 の 善 悪 を 特 に 取 り 上 げる 国 で 色 に 迷 うことが 少 ないと 考 えるのは 間 違 いであ る ただ 立 派 な 志 を 好 み 恋 の 心 は 女 々しいとして 言 わないだけである 日 本 ではすべてが 緩 やかであるから 色 を 好 む 者 の 心 を ありのまま に 書 き 残 したのであるが そこには 人 の 心 の 真 が 残 されているのだ ( 石 上 私 淑 言 要 約 ) (2) 中 国 清 代 詩 学 と 宣 長 の 色 好 み 論 宣 長 は 恋 の 歌 に 見 える 色 好 み を 通 して 日 本 人 の 真 を 導 いたのみではなく そこから もののあわれ という 日 本 文 化 論 を 提 起 した このよう な 宣 長 の 学 問 は 中 国 の 清 時 代 に 活 躍 する 袁 枚 (1716~1797)の 性 霊 説 と 呼 応 しているように 思 わ れる 袁 枚 は 古 文 辞 学 とは 立 場 を 異 にした 詩 人 であり 答? 園 論 詩 書 ( 小 倉 山 房 続 文 集 三 十 ) に 次 のように 説 いている
第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 139 夫 詩 者 由 情 生 者 也 有 必 不 可 解 之 情 而 後 有 必 不 可 朽 之 詩 情 所 最 先 莫 如 男 女 古 之 人 屈 平 以 美 人 比 君 蘇 李 以 夫 婦 喩 友 由 来 尚 矣 袁 枚 の 詩 者 由 情 生 者 は そのまま 宣 長 の 立 場 であり 情 の 中 でも 男 女 の 情 以 上 のものは ないという 宣 長 もまた 江 戸 漢 学 者 である 荻 生 徂 徠 の 古 文 辞 学 派 を 批 判 した 一 人 である ここに は 宣 長 の 学 問 と 思 想 が 成 立 する 状 況 が 存 在 したものと 思 われる < 摘 要 > 東 亜 文 化 与 日 本 学 的 成 立 好 色 与 日 本 文 化 論 日 本 国 学 院 大 学 辰 巳 正 明 日 本 国 学, 以 古 典 和 歌 为 中 心 建 立 了 其 学 问 被 称 为 日 本 国 学 大 家 的 本 居 宣 长 (1730--1801) 虽 然 以 撰 写 古 事 记 传 完 成 了 国 学 研 究, 但 是 宣 长 的 学 问 基 础 在 于 古 典 和 歌 (1) 本 居 宣 长 的 好 色 论 宣 长 通 过 和 歌, 提 出 好 色 才 是 日 本 文 化 的 根 基 这 里 所 说 的 好 色 指 男 女 恋 爱 我 们 在 日 本 文 学 里 经 常 能 看 到 以 恋 爱 为 主 题 的 和 歌 和 小 说 有 如 下 的 问 答 记 录 问 云 礼 记 曰 恋 情 乃 是 人 之 大 欲 日 本 和 歌 所 表 现 的 恋 情 是 爱 慕 别 人 妻 子 的 淫 乱 之 情, 何 以 重 要? 答 云 无 论 圣 贤 还 是 愚 人 都 无 法 逃 避 好 色 之 心, 可 是 它 违 背 自 然 规 律 和 常 理, 落 得 身 败 名 裂 甚 至 亡 国 从 古 至 今 这 样 的 例 子 很 多 不 道 德 的 恋 情, 谁 都 知 道 这 是 违 背 常 理 的, 但 是 以 道 德 难 以 控 制 人 之 性 情, 何 况 是 偷 情, 更 难 以 控 制 庄 严 的 态 度 斥 责 别 人 的 人, 他 在 心 里 肯 定 也 是 这 样 想 的 因 有 这 样 不 道 德 的 恋 情 和 偷 情, 故 而 产 生 怜 悯 哀 深 的 歌 正 因 有 不 道 德 的 偷 情 之 心, 故 而 产 生 不 可 解 之 情 这 是 如 实 吟 咏 自 然 情 感 的 结 果 当 然, 这 也 不 能 大 大 赞 扬 ( 石 上 私 淑 言 内 容 简 要 ) 在 这 问 答 里 宣 长 言 及 到 日 本 文 学 和 文 化 的 基 本 美 学 不 可 解 之 情, 并 与 中 国 作 比 较, 进 行 如 下 的 问 答 问 云 在 中 国 的 古 籍 文 献 里, 好 色 极 为 罕 见 而 我 国 从 上 到 下 淫 乱 之 物 甚 多 这 是 因 为 日 本 的 风 俗 本 身 带 有 好 色 的 关 系? 答 云 中 国 是 一 个 重 视 人 性 善 恶 的 国 家, 认 为 好 色 极 少 是 误 解 只 是 崇 尚 言 志, 认 为 恋 爱 没 有 大 丈 夫 的 气 概 不 言 罢 了 而 日 本 将 好 色 之 心 实 事 求 是 地 记 录, 因 为 它 记 录 人 的 真 情 ( 石 上 私 淑 言 内 容 简 要 ) (2) 中 国 清 代 诗 学 和 宣 长 的 好 色 论 宣 长 通 过 恋 歌 的 好 色 看 到 了 日 本 人 的 真 情, 由 此 提 出 了 不 可 解 之 情 的 日 本 文 化 论 宣 长 的 学 问 与 活 跃 在 中 国 清 代 的 袁 枚 (1716-1797) 的 性 灵 说 是 相 应 的 袁 枚 是 批 评 古 文 辞 学 的 诗 人, 他 在 答 蕺 园 论 诗 书 小 仓 山 房 续 文 集 二 十 中 这 样 说 到 : 夫 诗 者 由 情 生 者 也 有 必 不 可 解 之 情, 而 后 有 必 不 可 朽 之 诗 情 所 最 先, 莫 如 男 女 古 之 人, 屈 平 以 美 人 比 君, 苏 李 以 夫 妇 喻 友, 由 来 尚 矣 袁 枚 的 诗 者 由 情 生 者 和 宣 长 的 真 情 流 露 的 观 点 是 一 致 的 袁 枚 还 说 情 莫 过 于 男 女 恋 情
140 동아시아 인문전통과 문화역학 宣 长 也 是 批 判 江 户 汉 学 家 荻 生 徂 徕 提 倡 的 古 文 辞 学 的 一 人 由 此 能 看 到 宣 长 的 学 问 和 思 想 的 形 成 过 程 <요약> 동아시아문화와 일본문화의 성립- 호색취향 과 日 本 文 化 論 日 本 国 学 院 大 学 辰 巳 正 明 日 本 의 国 学 은 古 典 和 歌 를 中 心 으로 하여 그 学 問 이 形 成 되었다 특히 일본국학의 대성자라 고 할 수 있는 本 居 宣 長 (1730ー1801)는 古 事 記 伝 으로 国 学 研 究 를 완성 시겼지만, 그러 나, 宣 長 学 問 의 基 盤 은 和 歌 에 있었다. (1) 本 居 宣 長 와 色 好 취향 論 宣 長 는 和 歌 를 통해서 일본문화의 근간에 色 好 취향 이 존재 하 는 것을 설파 하였다. 이 色 好 취향 이란, 남녀의 연애를 지칭한다. 연애를 테마로한 일본문 학은, 和 歌 나 物 語 에서 많이 볼 수 있다.이와 같은 점에서 다음과 같은 문답이 이루워진다 問 云 사랑은 礼 記 에 사람의 大 欲 이라 기술 되어 있다 日 本 의 和 歌 의 恋 은 他 人 의 아내에게 도 懸 想 하고 음란한 것인데, 왜 중요하다고 생각하는가. 答 云 이 호색에 빠지는 마음은 현인도 우둔한 자도 피할 수가 없고, 자연과 도리에서 벗어 나고, 나 라를 쇠망하게 하고, 이름을 더럽히게 하는 것이다. 그것은 옛날도 지금도 수없이 볼 수가 있다. 도에서 벗어난 사랑 따위는 누구든지 나쁜 것 이라는 것을 알면서도, 구실을 달아 마음을 억제 하는 것은 불가능하고, 하물며 몰래하는 사랑 은 더더욱 불가능하다. 덕망 있는 채하는 태도로 타인을 질책하는 사람도 마음속으로는 이러한 마음이 있는 것이다. 이러한 도리에 어긋난 사랑의 마음이 있기 때문에,비로소 거기에는 (자 비심이 깊은 歌 ) 가 탄생하게 된다. 도리에 벗어난 사랑은 음란 하기 때문에 거기에(ものの あわれ)가 발생하게 되 는 것이다. 그것은(마음)대로 읊었기 때문이다. 물론, 그것을 특히 칭찬 할 바가 못 된다.( 石 上 私 淑 言 要 約 ) 이 문답을 통해서 宣 長 는 일본문학 문화의 기본미학으로서 もののあわれ(깊숙히 파고드는 정 취) 를 끌어낸 것이다. 그 것을 중국과의 비교를 해 보면 다음과 같은 문답이 이어진다. 問 云 중국의 서적에는 호색이란 의미는 극소수이다. 우리나라에는 위도 아래도 음탕한 것이 많이 있다. 그것은 일본의 풍속이 원래 호색인 때문일까. 答 云.중국은 사람의 선악을 특히 강조하는 나라이고, 호색에 빠지는 경향이 적다고 생각하는 것은 틀린 것이다. 다만, 훌륭한 뜻을 품고, 사랑이란 너무 여성스러운 것이기 때문에 말 하지 않는 것 일 뿐이다. 일본에서는 모두가 온화하기 때문에, 호색하는 마음을 (ありのまま/있는 그 대로)로 기 록하였지만, 거기에는 (사람의 진심) 이 내재 되어 있는 것이다.( 石 上 私 淑 言 要 約 ) (2) 中 国 清 代 詩 学 宣 長 好 色 論 宣 長 는 色 好 み/호색취향 을 통해서 日 本 人 의 真 를 표출 했 을 뿐만아니라 이를 통하여 もののあわれ 라는 日 本 文 化 論 를 提 起 했다 이와 같은 宣 長 의 学 問 은 中 国 의 清 代 에 活 躍 한 哀 枚 (1716ー1797)의 性 霊 説 과 呼 答 하고 있는 것으로 생각된 다 哀 枚 는 古 文 辞 辞 과는 立 場 을 달리한 詩 人 이고 答 蕺 園 論 書 ( 小 倉 山 房 続 文 集 三 十 ) 에 다음과 같이 설파하고 있다.
第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 141 夫 詩 者 由 情 生 者 也 有 必 不 可 解 之 情 而 後 有 必 不 可 朽 之 詩 情 所 最 先 莫 如 男 女 古 之 人 屈 平 以 美 人 比 君 蘇 李 以 夫 婦 喩 友 由 来 尚 矣 哀 枚 의 詩 者 由 情 生 者 은 그대로 宣 長 의 立 場 이고 情 가운데서도 男 女 의 情 以 上 은 없다고한다 宣 長 도 또한 江 戸 한학자인 荻 生 徂 徠 의 古 文 辞 学 派 를 批 判 한 한사람이다. 여기에 宣 長 의 学 問 과 思 想 이 成 立 하는 状 況 이 存 在 한 것이라고 생각 된다
東 アジアを 渡 り 歩 いた 文 化 人 釈 弁 正 日 本 埼 玉 学 園 大 学 教 授 胡 志 昂 一 はじめに 懐 風 藻 詩 人 弁 正 法 師 は 俗 姓 を 秦 氏 という 秦 氏 は 秦 の 始 皇 帝 の 末 裔 を 名 乗 り 朝 鮮 半 島 を 経 由 して 日 本 に 渡 来 した 渡 来 系 の 氏 族 である 日 本 書 紀 応 神 天 皇 十 四 年 に 始 皇 帝 三 世 孫 の 孝 武 王 に 出 る 弓 月 君 が 百 済 から 来 朝 し 同 十 六 年 に 百 二 十 県 の 百 姓 を 率 いて 新 羅 から 来 着 した その 後 山 背 国 葛 野 郡 ( 今 の 京 都 市 右 京 区 太 秦 )や 河 内 国 讃 良 郡 ( 今 の 寝 屋 川 市 太 秦 )など 各 地 に 土 着 した 秦 氏 は 土 木 養 蚕 機 織 などの 技 術 により 強 大 な 経 済 力 を 築 いたが 推 古 天 皇 十 一 年 (603) に 聖 徳 太 子 に 仕 えた 秦 河 勝 が 蜂 岡 寺 ( 広 隆 寺 )を 建 て 仏 教 の 伝 来 に 深 く 関 わった 豪 族 であっ た 弁 正 法 師 は 大 宝 二 年 (702)に 派 遣 された 第 七 回 遣 唐 使 に 従 い 恐 らく 請 益 僧 として 唐 に 渡 った 伝 によれば 長 安 に 辿 り 着 いた 弁 正 は 囲 碁 の 嗜 み 認 められ 後 の 玄 宗 皇 帝 李 隆 基 の 知 遇 を 得 る そして 唐 で 還 俗 し 二 人 の 息 子 の 朝 慶 と 朝 元 を 儲 けた 弁 正 は 朝 慶 と 唐 に 留 まったが 朝 元 は 日 本 に 帰 朝 し 医 術 と 語 学 で 朝 廷 に 仕 え 天 平 五 年 (734)ふたたび 遣 唐 判 官 として 入 唐 し 父 弁 正 の 縁 故 で 玄 宗 皇 帝 から 特 に 厚 く 賞 賜 を 承 ったという 弁 正 と 朝 元 の 二 代 にわたる 遣 唐 の 記 録 は 古 代 東 アジアの 盛 んな 文 化 交 流 を 象 徴 する 遣 隋 唐 使 の 研 究 において 大 いに 注 目 を 引 いたが 唐 に 住 み 着 いた 弁 正 の 事 跡 については 史 料 に 乏 しいこともあ って 更 なる 研 究 が 進 んでいるとは 必 ずしもいえない 本 稿 は 懐 風 藻 に 収 められた 詩 人 の 伝 記 と 弁 正 の 漢 詩 二 首 に 光 を 当 て 詩 人 の 性 格 と 学 芸 の 造 詣 を 明 らかにすると 共 に 作 品 の 成 立 背 景 と 詩 人 の 素 養 を 手 掛 かりに 唐 の 文 化 人 わけても 玄 宗 皇 帝 との 関 係 について 考 察 を 試 みる そして 長 安 に 活 躍 する 弁 正 の 存 在 が 最 盛 期 の 遣 唐 使 の 活 動 に 果 たす 役 割 にも 言 及 したい 二 滑 稽 の 意 味 するところ 懐 風 藻 に 四 篇 を 数 える 詩 僧 伝 が 特 別 な 扱 いを 受 け 中 国 の 高 僧 伝 類 との 間 に 影 響 関 係 が 認 め られることは 既 に 指 摘 されている その 中 で 弁 正 伝 が 異 なる 特 色 を 見 せる 辨 正 法 師 者 俗 姓 秦 氏 性 滑 稽 善 談 論 少 年 出 家 頗 洪 玄 學 太 寶 年 中 遣 學 唐 国 時 遇 李 隆 基 龍 潛 之 日 以 善 圍 棊 屡 見 賞 遇 有 子 朝 慶 朝 元 法 師 及 慶 在 唐 死 元 歸 本 朝 仕 至 大 夫 天 平 年 中 拜 入 唐 判 官 到 大 唐 見 天 子 天 子 以 其 父 故 特 優 詔 厚 賞 賜 還 至 本 朝 尋 卒 ( 正 法 師 は 俗 姓 は 秦 氏 性 滑 稽 にして 談 論 に 善 し 少 年 にして 出 家 し 頗 る 玄 学 を 洪 にす 太 寶 年 中 に 唐 国 に 遣 学 す 時 に 李 隆 基 が 龍 潛 の 日 に 遇 ふ 圍 棊 を 善 くするを 以 ちて しばしば 賞 遇 せらる 子 に 朝 慶 朝 元 有 り 法 師 及 び 慶 は 唐 に 在 りて 死 す 元 は 本 朝 に 歸 り 仕 へて 大 夫 に 至 る 天 平 年 中 に 入 唐 判 官 に 拜 せらる 大 唐 に 到 りて 天 子 に 見 ゆ 天 子 その 父 の 故 を 以 ちて 特 に 優 詔 し 厚 く 賞 賜 す 本 朝 に 還 り 至 る 尋 ぎ て 卒 す ) 右 に 掲 げた 伝 記 を 見 れば 前 半 に 法 師 の 事 跡 を 記 述 し 後 半 は 秦 朝 元 の 事 を 記 すが 仏 教 については 僅 か 出 家 にしか 触 れていない それは 弁 正 が 唐 に 渡 って 間 もなく 還 俗 したためであろ う 伝 記 の 中 心 は 囲 碁 を 通 して 玄 宗 の 知 遇 を 得 たことにあり 最 近 明 皇 会 棋 図 なる 古 画 も 知 ら れている だが 弁 正 の 詩 文 を 解 読 し 詩 人 の 才 性 から 長 安 での 活 動 を 推 論 するには 伝 記 に 記 し 伝 えられた 性 滑 稽 善 談 論 の 意 味 を 検 討 する 必 要 がある
144 동아시아 인문전통과 문화역학 史 記 滑 稽 列 伝 に 司 馬 遷 は 滑 稽 について 次 のように 述 べる 孔 子 曰 : 六 芸 於 治 一 也 礼 以 節 人 楽 以 発 和 書 以 道 事 詩 以 達 意 易 以 神 化 春 秋 以 道 義 太 史 公 曰 : 天 道 恢 恢 豈 不 大 哉 談 言 微 中 亦 可 以 解 紛 儒 学 六 経 ( 礼 楽 書 詩 易 春 秋 )はそれぞれ 異 なる 分 野 を 対 象 とするが 治 世 に 資 する 点 では 同 じであると 孔 子 はいう 従 って 太 史 公 が 続 けて 言 う 世 を 導 く 天 道 は 広 く 大 きく あらゆ るものを 包 含 する 談 笑 の 中 で 世 事 を 正 しく 対 処 する 方 法 を 仄 めかす これも 世 の 紛 糾 を 解 く 有 用 な 才 能 なのである ここで 司 馬 遷 は 滑 稽 の 意 味 を 主 に 談 笑 ( 談 言 )で 世 事 に 対 処 する 正 道 を 婉 曲 に 言 い 出 す( 微 中 )ことに 見 出 し これも 世 の 紛 乱 を 解 決 し 治 世 に 資 する 点 で 六 経 の 才 学 に 等 し いという 滑 稽 の 字 意 および 方 法 に 関 して 索 隐 は 滑 は 乱 をいい 稽 は 同 であるから 滑 稽 は 弁 舌 が 上 手 く 非 を 是 のように 言 い 包 め 是 を 非 のようにふざけていったり 巧 みにものの 異 同 を 混 交 するも のをいう と 説 明 している が 太 史 公 が 滑 稽 列 伝 を 立 てた 意 図 は 機 転 の 利 く 弁 舌 だけでなく あくまで 世 の 混 乱 を 解 き 治 世 に 資 する 点 に 主 旨 を 置 くこと 大 変 に 重 要 である これが 性 滑 稽 善 談 論 といわれる 弁 正 の 滑 稽 ということについての 認 識 でもあったに 違 いな い 冗 談 半 分 だから 直 接 的 には 言 えないこともいうことができ 時 には 巧 妙 な 言 い 回 しで 世 の 混 乱 を 解 決 する 道 を 語 るのが 史 記 のいう 滑 稽 であった 三 在 唐 憶 本 郷 に 見 る 文 才 と 滑 稽 在 唐 憶 本 郷 ( 唐 に 在 りて 本 郷 を 憶 ふ) 日 辺 瞻 日 本 雲 裏 望 雲 端 遠 遊 労 遠 国 長 恨 苦 長 安 ( 日 辺 より 日 本 を 瞻 雲 裏 より 雲 端 を 望 む 遠 遊 して 遠 国 に 労 し 長 恨 して 長 安 に 苦 しむ ) この 絶 句 は 詩 語 を 巧 みに 使 い かつ 平 仄 も 近 体 詩 律 に 合 致 すること 懐 風 藻 中 でも 優 れた 出 来 栄 えといわれる ここで 特 に 注 目 したいのは 一 首 の 首 尾 に 用 いられる 日 辺 と 長 安 の 取 合 せが 世 説 新 語 夙 惠 篇 に 見 る 晋 の 明 帝 の 故 事 を 踏 まえることである 晋 明 帝 数 嵗 坐 元 帝 膝 上 有 人 従 長 安 来 元 帝 問 洛 下 消 息 澘 然 流 涕 明 帝 問 : 何 以 致 泣? 具 以 東 渡 意 告 之 因 問 明 帝 : 汝 意 謂 長 安 何 如 日 逺? 荅 曰 : 日 逺 不 聞 人 従 日 辺 来 居 然 可 知 元 帝 異 之 明 日 集 群 臣 宴 㑹 告 以 此 意 更 重 問 之 乃 荅 曰 : 日 近 元 帝 失 色 曰 : 爾 何 故 異 昨 日 之 言 邪? 荅 曰 : 挙 目 見 日 不 見 長 安 世 説 夙 惠 篇 は 早 熟 した 機 知 を 物 語 る 小 説 である 晋 の 明 帝 がまだ 幼 い 時 父 の 膝 の 上 に 座 りな がら 日 辺 と 長 安 とどちらが 遠 いかと 聞 かれると 掌 を 返 すように 異 なる 答 えを 出 し そ れぞれにもっともらしい 理 由 を 付 けた 機 知 が 注 目 の 的 であった このような 機 知 は 魏 晋 六 朝 の 清 談 にあって 不 可 欠 なものであり その 非 を 言 うに 是 の 若 く 是 を 說 くに 非 の 若 し という 点 で 滑 稽 の 才 に 通 じるものであった 従 って この 故 事 を 踏 まえた 一 篇 の 構 想 も 全 体 として 滑 稽 の 機 知 を 狙 うものと 考 えられる この 意 味 で 望 郷 の 意 の 切 なるものもあるが 語 戯 に 堕 した 結 果 諧 謔 的 な 情 緒 が 読 者 をして 微 笑 せしめる 逆 効 果 をなしてはいないか との 指 摘 が 的 を 射 ている 諧 謔 性 こそ 作 者 の 狙 う 自 己 表 現 であり 性 滑 稽 善 談 論 なる 性 格 を 余 すところなく 発 揮 するものといっても 過 言 ではない 詩 中 日 辺 も 雲 裏 も 帝 都 の 長 安 仙 人 の 目 指 す 帝 郷 を 表 すが 自 分 は 帝 都 にいながら 雲 端 にある 日 本 を 望 み 偲 んでいる 遠 遊 は 俗 世 の 憂 苦 を 忘 却 しあるいは 解 脱 する 行 為 であ ったはずなのに 自 分 は 遥 遥 と 遠 国 へ 遊 学 に 来 て 逆 に 長 安 で 生 離 死 別 を 憂 う 俗 世 の 長 恨
第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 145 に 苦 しんでいる ここに 長 安 で 遥 か 彼 方 にある 故 郷 の 日 本 を 思 う 望 郷 の 念 とともに 世 間 諸 苦 を 離 脱 する 修 行 のために 渡 唐 しながら 還 俗 して 生 離 死 別 の 憂 愁 に 付 き 纏 われるという いわば 異 国 の 還 俗 僧 の 諧 謔 を 表 現 している 日 日 雲 雲 遠 遠 長 長 といった 同 字 重 複 の 表 現 は 単 に 言 葉 のテクニ ックに 止 まらず その 間 に 対 比 と 逆 転 を 盛 り 込 むことで 異 国 人 で 他 と 異 なる 世 界 に 住 む 自 らの 立 場 を 滑 稽 に 紛 れて 表 現 していると 見 られる 四 與 朝 主 人 制 作 の 背 景 と 特 色 鐘 鼓 沸 城 闉 戎 蕃 預 国 親 神 明 今 漢 主 柔 遠 靜 胡 塵 琴 歌 馬 上 怨 楊 柳 曲 中 春 唯 有 關 山 月 偏 迎 北 塞 人 ( 鐘 鼓 城 闉 に 沸 き 戎 蕃 国 親 に 預 る 神 明 今 の 漢 主 柔 遠 胡 塵 を 靜 む 琴 歌 馬 上 の 怨 楊 柳 曲 中 の 春 ただ 關 山 の 月 有 り 偏 へに 北 塞 の 人 を 迎 ふ ) この 詩 は 前 半 に 今 上 も 漢 帝 と 同 じく 皇 女 を 異 民 族 の 王 に 嫁 がせる 懐 柔 策 を 取 って 世 の 太 平 が 保 たれたと 歌 う ちなみに 和 親 策 で 異 民 族 に 嫁 いだ 皇 女 は 漢 武 帝 の 時 烏 孫 (ウイウル 族 ) 王 に 嫁 い だ 劉 細 君 と 元 帝 の 時 匈 奴 王 に 嫁 いだ 王 昭 君 が 楽 府 によく 歌 われるが 唐 初 には 太 宗 の 時 吐 蕃 (チベ ット) 王 に 文 成 公 主 中 宗 の 時 も 吐 蕃 王 に 金 城 公 主 が 嫁 いでいる わけても 金 城 公 主 の 外 嫁 は 神 龍 三 年 (707) 四 月 に 雍 王 守 礼 の 女 をもって 金 城 公 主 と 為 し 吐 蕃 贊 普 に 出 降 す ることが 決 定 され 景 龍 三 年 (709) 十 月 に 吐 蕃 の 迎 親 大 使 が 来 京 し 翌 年 正 月 に 公 主 一 行 が 吐 蕃 に 向 かって 発 った 時 に 中 宗 が 自 ら 始 平 縣 に 行 幸 し 涙 を 流 しながら 公 主 を 送 別 するとともに 従 臣 たちに 命 して 餞 别 の 詩 を 賦 せしめた そのさい 修 文 館 大 学 士 の 李 嶠 をはじめ 文 学 従 臣 の 作 った 応 製 詩 は 全 唐 詩 に 十 五 首 も 残 っている 試 みに 李 嶠 の 一 首 を 掲 げておく 奉 和 送 金 城 公 主 適 西 蕃 應 制 李 嶠 漢 帝 撫 戎 臣 絲 言 命 錦 輪 還 將 弄 機 女 逺 嫁 織 皮 人 曲 怨 関 山 月 粧 消 道 路 塵 所 嗟 穠 李 樹 空 對 小 榆 春 詩 中 粧 は 道 路 の 塵 に 消 ゆ とはすなわち 馬 上 で 演 奏 される 琴 曲 王 昭 君 をいうので 詩 の 趣 旨 は 弁 正 の 作 と 全 く 同 じであること 一 読 して 明 白 である 従 って 弁 正 詩 は 景 龍 三 年 十 月 から 翌 年 正 月 にかけて 作 られたものと 推 定 される その 頃 中 宗 の 朝 廷 では 事 ある 毎 に 大 勢 の 文 学 従 臣 に 応 制 詩 を 作 らせる 風 流 が 流 行 っていたから たとえ 景 龍 三 年 の 作 であっても 予 め 李 嶠 らの 應 制 詩 を 擬 し たものと 考 えられる 従 って 李 嶠 ら 奉 和 送 金 城 公 主 適 西 蕃 應 制 詩 群 と 比 較 すれば 弁 正 與 朝 主 人 の 特 色 は 後 半 に 多 くの 楽 曲 を 連 げたのにあったことが 見 て 取 れる すなわち 琴 歌 とは 琴 曲 昭 君 怨 をい い 漢 の 皇 女 を 異 民 族 に 嫁 がせる 時 馬 上 で 演 奏 して 道 中 の 寂 寥 を 慰 める 楽 曲 だが 哀 怨 の 声 多 し ( 石 崇 王 明 君 辞 序 )といわれる また 楊 柳 曲 は 南 朝 梁 の 横 吹 曲 関 山 月 は 漢 の 横 吹 曲 で いずれも 戦 乱 による 別 離 を 悲 しむ 楽 曲 さらに 北 塞 も 同 じく 横 吹 曲 出 塞 を 踏 まえるか ら 詩 の 後 半 に 歌 われた 別 離 の 悲 傷 はすべて 楽 曲 から 織 り 出 していることが 知 られる このことは 作 者 に 豊 かな 音 楽 の 嗜 みをもつことを 物 語 るのもさりながら 詩 の 与 える 相 手 も 音 楽 の 達 人 であることを 意 味 する ここに 詩 の 与 える 朝 主 人 を 解 く 鍵 が 隠 されている 五 與 朝 主 人 と 玄 宗 皇 帝 この 弁 正 詩 の 與 える 朝 主 人 とは 誰 なのか これまで 諸 説 あり 未 だ 定 説 を 見 ない 前 節 で 見 てきた 詩 の 制 作 動 機 と 表 現 特 色 から 結 論 を 先 に 言 うならば この 詩 は 李 嶠 らの 応 製 詩 と 前 後 して 作
146 동아시아 인문전통과 문화역학 られ 李 隆 基 に 献 上 したものだと 考 える 弁 正 がその 知 遇 を 得 た 玄 宗 こそ 尤 知 音 律 と 称 せられ る 当 代 随 一 の 音 楽 名 人 であって 中 宗 皇 帝 の 次 に 嘱 望 される 皇 位 継 承 者 だったからである 李 隆 基 が 朝 主 人 と 称 せられる 理 由 を 三 点 挙 げて 置 く 第 一 垂 拱 元 年 (685) 秋 八 月 東 都 の 洛 陽 に 生 れた 李 隆 基 は 天 授 三 年 (692) 十 月 に 出 閤 して 府 を 開 き 始 めて 官 屬 を 置 くが 年 僅 か 七 歳 の 彼 が 朝 廷 を 吾 家 の 朝 堂 と 言 い 切 った 年 始 七 歳 朔 望 車 騎 至 朝 堂 金 吾 將 軍 武 懿 宗 忌 上 厳 整 訶 排 儀 仗 因 欲 折 之 上 叱 之 曰 : 吾 家 朝 堂 干 汝 何 事 敢 迫 吾 騎 従 則 天 聞 而 特 加 寵 異 之 ( 旧 唐 書 玄 宗 紀 ) 時 にまだ 七 歳 の 李 隆 基 が 車 騎 を 整 えて 朝 廷 に 出 たら 金 吾 將 軍 の 武 懿 宗 がその 儀 仗 があまりに 整 然 としているのを 忌 み 嫌 い 上 奏 して 彼 を 弾 劾 しようとしたら 李 隆 基 はそれを 叱 りつけて わ が 家 の 朝 堂 だから お 前 と 何 の 関 係 がある 吾 の 騎 従 にとやかく 口 を 出 すなんてとんでもない と 言 いきった 祖 母 の 則 天 女 帝 もこのことを 聞 くと 至 って 驚 き 特 に 寵 愛 を 加 えたという それは 紛 れもなく 朝 堂 の 主 人 たる 態 度 にほかならない 第 二 中 宗 は 弘 道 元 年 (683) 十 二 月 髙 宗 が 崩 ずる 時 の 遺 詔 により 即 位 したが 翌 年 二 月 に 早 くも 皇 太 后 により 廃 せられ 廬 陵 王 に 左 遷 された 代 わりに 睿 宗 が 立 てられ 天 授 元 年 (690)まで 皇 位 にあった 則 天 武 后 が 自 ら 皇 帝 となった 後 も 睿 宗 は 皇 嗣 として 東 宫 に 移 り 皇 太 子 であった 聖 歴 元 年 (698) 中 宗 が 左 遷 先 の 房 陵 から 帰 京 すると 睿 宗 が 何 度 も 皇 嗣 の 位 を 中 宗 に 讓 り たいと 申 し 出 たから 中 宗 が 皇 太 子 に 立 てられたのである 従 って 神 龍 元 年 (705) 中 宗 が 復 位 すると 睿 宗 は 皇 太 弟 に 封 じられ 固 辭 して 受 けなかったが 朝 廷 で 重 きを 成 したことに 変 わ りない 特 に 神 龍 三 年 (707) 七 月 に 皇 太 子 重 俊 の 変 を 起 ってから 中 宗 後 宮 の 跋 扈 が 目 に 余 る ものがあり 次 は 睿 宗 諸 子 を 見 込 むものが 少 なしとしない 第 三 李 隆 基 は 神 龍 元 年 に 衛 尉 少 卿 に 任 じられ 景 龍 二 年 (708) 四 月 に 潞 州 别 駕 を 兼 任 して から 州 の 境 に 白 日 昇 天 の 黄 龍 が 現 れ 狩 猟 に 出 たら 紫 雲 がその 上 を 覆 うなどの 符 瑞 が 十 九 件 も 数 えた 加 えて 李 隆 基 は 中 宗 の 末 年 王 室 に 多 事 のため 密 かに 材 力 の 士 を 招 いて 有 事 に 備 えていた この 集 団 は 李 隆 基 を 次 の 皇 位 継 承 者 と 考 えるのは 当 然 であろう 弁 正 は 正 しくその 知 遇 を 得 た 一 人 であった それにしても 李 隆 基 に 対 して 詩 を 与 える とは 当 を 失 するといわれてしかるべきであろう しかし 中 宗 末 年 に 皇 后 一 派 が 睿 宗 諸 子 に 対 する 警 戒 が 相 当 に 強 かったことを 思 えば 応 制 詩 と 同 じ 内 容 の 作 品 を 李 隆 基 に 奉 るということは 到 底 できない 従 ってここはやはり 滑 稽 の 才 を 発 揮 して かかったほうが 最 も 適 切 であろうと 判 断 されたのである すなわち 異 国 の 客 人 で 俗 世 の 外 に 処 す る 僧 侶 であった 弁 正 は 李 隆 基 とあくまで 主 客 の 関 係 にあったから 我 家 朝 堂 の 故 事 を 踏 まえ 群 臣 が 中 宗 に 奉 った 応 制 詩 に 擬 して 李 隆 基 に 従 う 知 勇 の 士 人 集 団 の 気 持 ちを 代 弁 したものと 考 え られるのである 従 って 與 朝 主 人 と 題 するこの 一 首 は 正 しく 滑 稽 な 擬 作 であったといえる そして 談 笑 の 芸 を 発 揮 して 治 世 に 関 わる 発 言 をするのは 史 記 に 滑 稽 列 伝 が 立 てられた 大 きな 理 由 でもあり 滑 稽 の 本 道 といっても 過 言 ではないものである 六 むすび 弁 正 が 李 隆 基 の 知 遇 を 得 たのは 囲 碁 の 芸 だけではなく 彼 の 詩 文 音 楽 の 嗜 みや 滑 稽 の 才 も 大 きな 理 由 であった わけても 滑 稽 談 笑 の 才 に 求 められる 機 知 は 弁 正 に 様 々な 発 言 の 機 会 をも たらし かつて 朝 廷 の 外 交 政 策 に 関 わったこともあることを 考 えれば その 存 在 が 玄 宗 朝 の 遣 唐 使
第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 147 に 大 きな 影 響 を 及 ばすのは 必 至 であろう 旧 唐 書 日 本 伝 に 弁 正 の 加 わった 粟 田 眞 人 ら 第 七 回 遣 唐 使 を 始 めて 記 し 真 人 の 冠 位 装 束 素 養 を 細 かく 書 きとどめたほか 使 節 の 活 動 について 特 に 記 すところはなかった 対 して 養 老 元 年 (717 開 元 5 年 )の 第 八 回 遣 唐 使 ( 多 治 比 県 守 押 使 )は 博 士 による 経 典 の 授 業 を 要 請 したり 皇 帝 の 恩 賜 を 叩 いて 大 量 に 図 書 を 購 入 して 持 ち 帰 った そして 時 の 留 学 生 からは 阿 倍 仲 麻 呂 や 吉 備 真 備 など 史 上 に 大 きな 足 跡 を 遺 した 秀 才 を 輩 出 させた そうした 事 跡 の 背 後 に 玄 宗 の 側 近 に 弁 正 が いたことも 大 きな 影 響 を 及 ばしたことは 想 像 に 難 くない このことは 天 平 五 年 (733 開 元 21 年 )の 第 九 回 遣 唐 使 に 加 わった 秦 朝 元 に 対 して 玄 宗 がその 父 弁 正 のために 特 に 優 詔 し 厚 く 賞 賜 したのみならず 大 使 の 多 治 比 広 成 らが 帰 路 海 難 に 遭 ったことに 対 してしたためられた 與 日 本 国 王 書 に 見 られる 真 摯 な 懇 情 にも 裏 付 けられる のである 参 考 文 献 小 島 憲 之 校 注 懐 風 藻 文 華 秀 麗 集 本 朝 文 粋 ( 岩 波 書 店 一 九 六 五 年 ) 杉 本 行 夫 注 釈 懐 風 藻 ( 弘 文 堂 書 房 一 九 四 三 年 ) 林 古 渓 懐 風 藻 新 注 ( 明 治 書 院 一 九 四 八 年 ) 坂 本 太 郎 他 校 注 日 本 書 紀 ( 岩 波 書 店 一 九 七 三 年 ) 司 馬 遷 史 記 ( 中 華 書 局 一 九 八 二 年 ) 劉 昫 旧 唐 書 ( 中 華 書 局 一 九 七 五 年 ) 劉 義 慶 世 説 新 語 ( 中 華 書 局 一 九 九 九 年 影 印 ) 蕭 統 文 選 ( 中 華 書 局 一 九 九 五 年 ) 彭 定 求 全 唐 詩 ( 中 華 書 局 一 九 六 〇 年 ) 小 島 憲 之 漢 語 逍 遥 ( 岩 波 書 店 一 九 九 八 年 ) 辰 巳 正 明 編 懐 風 藻 漢 字 文 化 圏 の 中 の 日 本 古 代 漢 詩 ( 笠 間 書 院 二 〇 〇 〇 年 ) 王 勇 明 皇 会 棋 図 解 説 ( 遣 隋 使 遣 唐 使 一 四 〇 〇 周 年 記 念 国 際 シンポジューム 配 布 資 料 二 〇 〇 七 年 九 月 ) 村 上 哲 見 懐 風 藻 の 韻 文 論 的 考 察 ( 中 国 古 典 研 究 第 四 二 集 二 〇 〇 一 年 三 月 ) 高 潤 生 懐 風 藻 と 中 国 文 学 釈 与 朝 主 人 詩 考 ( 皇 学 館 論 叢 第 二 七 巻 五 号 一 九 九 四 年 十 月 ) 柴 田 清 継 懐 風 藻 所 載 釈 弁 正 の 詩 二 首 の 解 釈 ( 武 庫 川 女 子 大 学 文 学 部 五 十 周 年 記 念 論 文 集 一 九 九 九 年 十 一 月 ) < 摘 要 > 周 游 东 亚 的 文 人 弁 正 日 本 埼 玉 学 园 大 学 教 授 胡 志 昂 弁 正 法 师 是 经 由 朝 鲜 半 岛 到 日 本 定 居 的 秦 氏 后 裔 大 宝 二 年 (702) 他 作 为 留 学 僧 随 第 八 次 遣 唐 使 前 往 唐 朝 以 其 精 湛 的 围 棋 技 艺 博 得 了 尚 未 即 位 的 李 隆 基 的 赏 识 后 来 得 到 了 玄 宗 的 厚 爱
148 동아시아 인문전통과 문화역학 本 次 发 表 主 要 着 眼 于 怀 风 藻 所 收 弁 正 的 传 记 以 及 他 的 两 首 汉 诗 以 此 来 剖 析 诗 人 的 性 格 及 学 问 的 造 诣 并 通 过 对 作 品 的 时 代 背 景 以 及 诗 人 的 性 格 素 养 的 分 析 来 考 察 弁 正 与 唐 朝 文 人 尤 其 是 与 玄 宗 皇 帝 的 关 系 同 时 对 活 跃 于 长 安 的 弁 正 给 最 盛 时 期 的 日 本 遣 唐 使 活 动 所 产 生 的 影 响 作 些 推 考 <요약> 동아시아를 떠돌아 다닌 문화인 석변정( 釋 弁 正 ) 日 本 埼 玉 學 園 大 學 教 授 胡 志 昂 弁 正 법사는 한반도를 거쳐 일본에 정착한 진씨( 秦 氏 ) 후예이다. 그는 다이호( 大 寶 )2 년(702)에 파견된 제 8 회 견당사( 遣 唐 使 )를 따라 유학승려로서 당에 건너가, 바둑을 시작해 그 재능이 인정되어 현종 황제의 극진한 대접을 받았다. 이 발표는 카이후소( 懷 風 藻 ) 에 수록된 弁 正 의 전기와 그 한시 2 수에 초점을 맞추어 시인의 성격과 학문 문예의 조예를 분명히 함과 동시에, 작품의 성립 배경과 시인의 소양을 토대로 弁 正 과 당의 문화인, 특히 현종 황제와의 관계에 대해 고찰하고자 한다. 아울러, 長 安 에서 활약한 弁 正 의 존재가 번성기의 일본 견당사 활동에 미친 영향에도 언급하고 싶다.
方 法 としてのアジア の 再 検 討 日 本 東 京 大 学 東 洋 文 化 研 究 所 ウェッブ ジェイスン < 要 旨 > 地 域 を 固 定 の 学 問 対 象 とする 場 合 には 多 数 の 問 題 が 発 生 する 西 洋 を 経 由 して アジ ア を 理 解 するという 試 み あるいは アジア を 経 由 して 西 洋 を 理 解 するという 試 みは そのどちらにしても 両 方 の 地 域 が 文 化 的 歴 史 的 言 語 的 政 治 的 などの 安 定 した 独 自 のアイ デンティティを 持 っていることを 大 前 提 にして 比 較 を 行 おうとするものである これは 例 え ば 西 洋 人 がイメージする アジア とアジア 人 がイメージする アジア との 間 に 視 点 が 異 なることに 伴 うイメージ 内 容 の 相 違 があるというような 問 題 以 上 に 根 本 的 なものである 問 題 の 所 在 は 視 点 の 違 いではなく むしろ 両 側 が 比 較 文 明 学 を 行 うために まず 地 域 を 単 位 とし なければならないという 固 定 的 な 概 念 からの 出 発 点 が 共 通 していることにあると 思 われるのであ る そして そのような アジア と 西 洋 という 固 定 的 な 概 念 を 対 立 した 概 念 として 定 義 しない 限 り 始 まらないという 認 識 に 基 づいた 比 較 文 明 論 の 構 築 も アジア 欧 米 ともに 共 通 して いるのではなかろうか そこで 方 法 としてのアジア というフレーズを 借 りて 現 在 のアジア 学 を 支 えている 思 想 的 な 根 拠 をいくつか 取 り 上 げ 21 世 紀 のアジア 学 のあり 方 を 検 討 してみたい 方 法 としてのアジア は 魯 迅 をはじめとする 中 国 文 学 を 専 門 にし 思 想 家 でもある 竹 内 好 氏 (1910-1977)が 付 けたフレーズである 氏 は 自 分 の 中 に 独 自 なものがなければならない そ れは 何 かというと おそらくそういうものが 実 態 としてあるとは 思 わない しかし 方 法 として は つまり 主 体 形 成 の 過 程 としては ありうるのではないかと 思 ったので 方 法 としてのアジ ア という 題 をつけたわけですが それを 明 確 に 規 定 することは 私 にもできないのです という 興 味 深 い 同 時 に 謎 めいた 言 い 方 で 講 義 後 の 質 疑 を 締 めくくっている では そのような 明 確 に 規 定 するのが 難 しい 方 法 としてのアジア というフレーズは 21 世 紀 に 生 きる 我 々にどう 役 に 立 つのであろうか 竹 内 氏 の 意 図 からやや 離 れてしまうかもしれない が 私 には それが 現 在 の 地 域 研 究 の 分 野 を 考 え 直 すきっかけを 提 供 してくれるように 思 われ る 方 法 というのは ある 目 的 を 達 するための 現 状 に 応 じた 臨 時 的 な 手 段 であるということで あるだろう そのように 仮 定 すれば 従 来 固 定 されてきた 地 域 の 概 念 は もっと 能 動 性 のある 多 相 的 な 方 法 として 捉 えることができるのではないか そしてそうした 捉 え 方 によって 地 域 研 究 の 形 態 も 変 質 していくのではないか 可 能 性 として 考 えられることは 多 数 あるが おそら く 中 でも 一 番 重 要 なのは グローバル 化 地 域 化 ローカル 化 の 同 時 進 行 を 全 体 として 理 解 でき ることである つまり 学 問 地 域 としての アジア の 中 のボーダレス 化 を 認 めると 同 時 に アジア と 西 洋 の 二 元 的 な 概 念 の 分 断 を 克 服 し より 多 元 的 多 線 的 な 文 明 の 描 き 方 を 可 能 にするであろう 東 アジア を 地 域 としてではなく むしろ 概 念 として 認 識 して みた 場 合 にどのような 新 しい 方 法 が 生 まれるかについて 考 えてみたい
150 동아시아 인문전통과 문화역학 < 摘 要 > 对 方 法 としてのアジア 之 再 探 讨 日 本 東 京 大 学 東 洋 文 化 研 究 所 ウエッブ ジェイスン 把 地 域 作 为 一 个 固 定 的 对 象 来 研 究 会 引 发 很 多 问 题 尝 试 着 通 过 西 洋 去 理 解 亚 洲 或 是 通 过 亚 洲 去 理 解 西 洋, 都 是 以 这 两 个 地 域 在 文 化 历 史 语 言 政 治 等 方 面 各 自 具 有 稳 定 独 立 的 主 体 性 (identity) 为 大 前 提 来 进 行 比 较 研 究 更 具 体 来 说, 就 好 比 西 方 人 眼 中 的 亚 洲 与 亚 洲 人 眼 中 的 亚 洲 不 同, 并 不 是 由 于 双 方 的 视 点 不 同 所 以 印 象 不 同, 更 根 本 的 问 题 在 于, 双 方 在 进 行 比 较 文 明 学 研 究 时, 都 持 有 一 个 必 须 把 地 域 作 为 研 究 单 位 的 固 定 概 念, 并 都 从 这 个 概 念 出 发 来 进 行 研 究 像 这 样 认 为 应 该 把 亚 洲 和 西 洋 这 两 个 固 有 概 念 作 为 相 对 立 的 概 念 来 定 义 的 认 识, 以 及 以 这 种 认 识 为 基 础 而 建 立 的 比 较 文 明 论 的 构 筑, 无 论 在 亚 洲 还 是 在 欧 美 都 是 共 通 的 吧 在 此 想 借 用 作 为 方 法 的 亚 洲 这 一 标 题, 以 几 个 支 撑 着 当 今 亚 洲 学 的 思 想 根 据 为 事 例, 对 21 世 纪 亚 洲 学 的 方 式 进 行 一 下 探 讨 作 为 方 法 的 亚 洲, 是 以 研 究 鲁 迅 及 中 国 文 学 而 闻 名, 同 时 也 是 思 想 家 的 竹 内 好 (1910-1977) 提 出 的 一 个 标 题 他 用 以 下 意 味 深 长 却 又 令 人 难 以 理 解 的 一 番 话 回 答 了 讲 座 后 的 质 疑 : 自 身 内 部 一 定 有 各 自 独 特 的 东 西 要 说 这 是 什 么, 恐 怕 其 并 非 以 实 态 而 存 在, 然 而 以 方 法 即 主 体 形 成 的 过 程 这 样 的 形 式 而 存 在, 却 是 有 可 能 的, 因 此 题 名 为 作 为 方 法 的 亚 洲, 可 是 即 使 是 我, 也 不 能 将 其 明 确 定 义 那 么, 作 为 方 法 的 亚 洲 这 一 难 以 明 确 定 义 的 标 题, 对 于 生 活 在 二 十 一 世 纪 的 我 们 又 能 发 挥 出 怎 样 的 作 用 呢? 也 许 与 竹 内 好 的 初 衷 稍 稍 有 些 偏 离, 可 是 对 于 我 来 说, 认 为 这 个 标 题 可 能 正 在 为 现 在 的 地 域 研 究 提 供 一 个 重 新 思 考 的 契 机 所 谓 方 法, 应 该 就 是 为 了 达 到 某 一 目 的 而 采 用 的 一 种 适 时 的 临 时 性 手 段 若 是 这 样 假 定, 就 可 以 将 以 往 固 定 的 地 域 的 概 念 作 为 更 具 有 能 动 性 多 样 性 的 方 法 来 看 待 有 了 这 样 的 视 角, 地 域 研 究 的 形 态 也 会 发 生 蜕 变 吧 可 能 性 有 很 多, 其 中 最 重 要 的 一 个 可 能 性, 也 许 是 将 全 球 化 地 域 化 本 地 化 的 同 时 进 行 作 为 一 个 整 体 来 理 解 也 就 是 说, 在 承 认 作 为 研 究 对 象 的 亚 洲 进 行 着 无 国 界 化 的 同 时, 克 服 将 亚 洲 和 西 洋 分 断 成 二 元 概 念, 使 对 文 明 进 行 更 多 元 更 多 层 次 的 描 述 成 为 可 能 将 东 亚, 不 是 作 为 地 域, 而 是 作 为 概 念 来 理 解 时 会 诞 生 怎 样 的 新 的 方 法 呢? 本 文 将 尝 试 对 这 个 问 题 进 行 探 讨 <요약> 방법으로서의 아시아 일본 동경대학동양문화연구소 웹 제이슨 지역을 고정적 학문대상으로 하는 경우에는 다수의 문제가 발생한다. 서양 을 통해서 아시아 를 이해하려고 하는 시도, 혹은 아시아 를 통해서 서양 을 이해하려고 하는 시도는, 양방의 지역이 문화적 역사적 언어적 정치적 등의 안정된 독자적 주체성을 가지고 있다는 것을 대전제로 비교하려고 하는 것이다. 이것은, 예를들면, 서양인이 생각하는 아시아 와 아시아인이 생각하는 아시아 간에, 시점이 다름으로 인해 생각하는 내용에 상위가 있다고 하는 것보다, 근본적인 것이다.
第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 151 문제의 소재는, 시점의 다름이 아니고, 양측이 비교 문명학을 하기 위해서는, 먼저 지역을 단위로 해야한다는 고정적 개념으로서의 출발점이 공통되는 것에 문제의 소재가 있다고 생각된다. 그리고 그와같은 아시아 와 서양 이라고 하는 고정적 개념을, 대립된 개념으로 정의해야만 한다는 인식에 의한 비교 문명론의 구축도, 아시아 서양 양측 모두에게 공통점이 있는 것은 아닐까? 그런 점에서 방법으로서의 아시아 라고 하는 프레이즈를 빌려, 현재의 아시아학을 지탱하고 있는 사상적 근거를 몇가지 들어, 21 세기의 아시아학 본연의 모습을 검토해 보고 싶다. 방법으로서의 아시아 는 魯 迅 을 시초로 한 중국문학의 전문가이며, 사상가이기도 한 竹 内 好 씨(1910~1977)가 붙인 프레이즈이다. 씨는 자신안에 독자적인 것이 없으면 안된다. 물론 그런것이 실질적으로 있다고는 생각하지 않는다. 그러나 방법으로서는, 말하자면, 주체 형성의 과정으로서는 있을 수 있는 것이 아닐까? 라고 생각돼서 방법으로서의 아시아 라는 타이틀을 붙였지만, 그것을 명확히 규정하는 것은 나자신에게도 불가능하다 라는 흥미롭고, 동시에 수수께끼 같은 어조로 강의 후의 질문을 매듭짓고 있다. 그러면, 그와같이 명확히 규정하는 것이 어려운 방법으로서의 아시아 라고 하는 프레이즈는, 21 세기를 살고 있는 우리들에게 어떻게 유용한 것일까? 竹 内 好 씨의 의도에서 다소 벗어날지 모르겠지만, 그것이 현제의 지역 연구 분야를 다시한번 생각해 보는 계기를 제공해 준다고 생각된다. 방법이라고 하는 것은, 어떤 목적을 달성하기 위한 현상에 따른 임시적인 수단일 것이다. 그렇게 가정하면 종래의 지역 개념은, 보다 가능성이 있는, 多 相 的 인 방법 으로서 이해할 수 있지 않을까? 그리고 그러한 이해 방식에 의해 지역 연구의 형태도 변할 것이다. 가능성으로서 생각되는 것은 다수 있지만, 그 중에서도 제일 중요한 것은, 글로벌화 지역화 지방화의 동시 진행을 전체적으로 이해하는 것이다. 학문 지역으로서의 아시아 의 비국경화를 인정함과 동시에, 아시아 와 서양 의 二 元 的 인 개념의 분리을 극복하고, 보다 多 元 的 이고 多 線 的 인 문명의 묘사를 가능하게 할 것이다. 동아시아 를, 지역 으로서가 아닌, 개념 으로서 인식할 경우 어떤 새로운 방법이 생길 것인가에 관해서 생각해 보고 싶다.
후쿠자와 유키치와 다루이 토키치의 아시아인식 조선인식을 중심으로 중일어문학과 중일비교문화전공 김 남은 1. 들어가며 후쿠자와 유키치( 福 沢 諭 吉, 1835 1901) 와 다루이 토키치( 樽 井 藤 吉, 1850 1922) 는 동시대의 인물로서, 19세기 후반 서세동점의 국제정세에 직면하여 서양열강의 아시아침략에 대응하고 일본 의 독립과 발전을 위해 아시아문제를 어떻게 설정할 것인가라는 공통된 과제를 해결하게 위해 근 대일본의 국가진로와 방향설정에 많은 노력을 기울였다. 후쿠자와는 일본근대화 과정에 있어 우선 유럽제국과 동등하게 미합중국을 최상의 문명국 1) 으로 설정하였으며, 반개국( 半 開 國 ) 에 해당하 는 일본이 독립을 보전하는 길은 문명 이외에서는 찾아서는 안 될 것이다 2) 라는 방식, 즉 서양열 강으로부터 일본의 독립을 위해 서양문명을 수용해야 한다는 방식으로 출발하였다. 이후 그의 아 시아정책은 여전히 전근대국제질서에서 벗어나지 못하는 아시아부터 이미 문명국의 진열에 들어 선 일본을 분리하는 것, 이른바 탈아( 脫 亞 ) 로 발전하였다. 다시 말해서 탈아입구( 脫 亞 入 歐 ) 라는 일본의 근대화 과정은 일본을 포함하지 않는 동양을 타자로서 설정함으로써 자기와 차이화 하는 과정이기도 하였으며, 특히 후쿠자와의 脫 亞 論 속에 이미 내제되어 있던 일본을 맹주로 하여 아 시아를 방위적으로 재구성 한다는 전략은 곧 조선에 대한 일본의 전략을 표명한 것이기도 하였다. 다루이는 일신( 一 身 ) 을 가지고 국본으로 하는 일개인제도( 一 個 人 制 度 ) 에 입각한 구미 제국과는 달리 일가( 一 家 ) 로써 국본을 삼는 가족제도를 기반으로 하는 동아의 제국이 연대를 하는 것은 자연 의 도리일 뿐만 아니라 천하의 지고의 덕인 화( 和 ) 를 국치의 지표로 하는 일본의 3) 이상에 부합한 다고 주장하였다. 즉 다루이의 아시아연대론 의 주장은 아시아로 밀려오는 서양세력에 대응하기 위하여 일본은 아시아의 국가들과 함께 아시아의 일체화를 이루어야 한다는 것이었다. 후쿠자와의 동방의 악우를 사절 한다는 입장과 대조적으로 다루이는 동아시아 3국의 연대라고 하는 입장에서 일본의 전략적 수단을 제시하였으며, 이것은 탈아 와 연대 라는 서로 대조적인 논리가 당시 일본 의 아시아관을 대표하고 있었음을 나타내는 것이기도 하다. 본 발표에서는 후쿠자와와 다루이의 아시아인식, 특히 조선인식을 주목함으로써 동아시아의 전 근대국제질서에서 근대로의 이행이라고 하는 전환기에 대응하여 두 사람은 어떠한 새로운 국제질 서를 구축하고자 하였는가 에 대해 검토해 보고자 한다. 본론에 들어가기에 앞서, 본 발표문은 후쿠 자와와 다루이의 아시아인식 또는 조선인식을 비교 대조하는 것을 목적으로 하는 것이 아니라, 19세기 후반 근대 일본의 국가진로의 방향성을 구체적으로 제시하고 실천하고자 했던 대표적 두 인물을 소개함으로써 당시 일본의 제국주의와 팽창주의의 원형을 살피고, 그 전략적인 수단으로써 그것이 어떻게 위장되어지고 보강되어졌는지를 밝히는 것을 목적으로 하였다. 2. 후쿠자와와 다루이의 대외인식 1) 福 沢 諭 吉 西 洋 の文 明 を目 的 とする事 文 明 論 之 概 略 (1875), 岩 波 書 店, 1999, p.25 2) 同 上, 自 国 の独 立 を論 ず 文 明 論 之 概 略 p.297 3) 樽 井 藤 吉 大 東 合 邦 論 ( 竹 内 好 編 アジア主 義 現 代 日 本 思 想 大 系 9, 筑 摩 書 房, 1963 에 수록 ), 1893 p.116
154 동아시아 인문전통과 문화역학 (1) 위기의식과 약육강식의 논리 후쿠자와는 文 明 論 之 概 略 (1875) 에서 문명의 상태를 야만( 野 蠻 ) 반개( 半 開 ) 문명( 文 明 )의 세 단계로 나누고 있으며, 일본은 국가체제는 어느 정도 정비되었고 농업이 성하며 문학은 번성되었 지만, 실학에 힘쓰는 것은 대단히 적고 사물의 원리를 추구하는 자세가 없으며 모방은 잘하지만 창 조성은 결핍되어있으며, 습관에 압도되어 있다고 하여 반개 의 상태에 있는 것으로 규정하였다. 4) 그리고 반개의 상태에 있는 일본이 해결해야 할 가장 시급한 과제는 유럽이나 미국과 같은 문명의 단계로 진입하는 것임을 강조하였다. 이것은 그가 이미 書 翰 集 一 (1874) 에서 이 시대의 일본인 의 의무는 오직 우리의 국체를 유지하는 것 뿐임을 주장하며 서양의 문명이 우리의 국체를 튼튼 히 함과 동시에 우리의 황통을 빛낼 수 있는 유일한 길이라면 무엇 때문에 이를 취하기를 주저하겠 는가? 단연코 서양의 문명을 택해야만 한다 5) 라고 서양문명을 수용해야하는 이유를 명확히 한 것 과 같이 후쿠자와에게 있어 문명은 나라의 독립을 이루기 위한 수단이었으며, 단순한 서양문물의 수용이 아니었다. 1975 년 후쿠자와는 우리 일본도 동양의 한 나라라는 것을 감안할 때, 지금까지는 외국과의 교제 에서 비록 커다란 피해를 입지 않았지만 훗날의 화를 두려워하지 않을 수 없다 6) 라고 하여 당시 일 본이 직면한 위기를 실감하고 있었으며, 1878 년에 발표한 通 俗 國 權 論 에서는 서양열강이 아시 아를 식민지화하려는 국제정세에 대한 강한 위기의식을 드러내면서 그것을 백 권의 만국공법도 몇 대의 대포만 못하고, 여러 권의 화친조약도 한 상자의 탄약만 못하다 7) 라는 약육강식의 논리로 설명하였다. 한편 다루이는 후쿠자와가 당시 서양의 아시아 진출의 성격을 백 권의 만국공법도 한 대의 대포 보다 쓸모없다 고 말한 것에 대해 유럽인의 심정을 깊이 통찰한 말 이라 하여 동조하였으며 유 럽인의 신의는 대호 사이에 존재하고 조약은 다만 한 장의 종이 조각에 불과하다 라고 하여 동아시 아의 위기는 실로 중대하고도 절실함을 경고 하였다. 8) (2) 부국강병에서 국권확장으로 당시 일본을 둘러싼 국제관계는 죽이느냐, 아니면 죽느냐, 멸하느냐, 아니면 멸함을 당하느냐의 두 길밖에 없다 9) 라는 약육강식의 논리에 의해 이해되어졌으며, 이것은 1880년대에 들어서면서부 터 내부의 안녕을 유지하여 외부에서 경쟁 한다 라는 방침, 즉 부국강병에서 일본의 국권확장의 논리로 발전하였다. 후쿠자와는 1881 년에 발표한 時 事 小 言 에서 국내정치의 기초가 확고해지 고 안녕이 이루어지면 눈을 해외로 돌려 국권을 진흥할 계책을 강구해야 할 것 이라고 강조하며, 국권의 대외확장은 우리들의 필생의 목적 이라고 주장하였다. 10) 또한 1883 년 外 交 論 에서는 세계 각국이 대치하고 있는 것은 마치 금수가 서로 잡아먹으려는 형세와 같은 것 으로써 사냥꾼 이 되어 토끼와 사슴을 사냥할 것인가, 아니면 토끼와 사슴이 되어 사냥을 당할 것인가? 둘 중에 한 를 선택해야만 한다 11) 라는 제국주의적 논리를 적극적으로 수용하고 있었다. 4) 福 沢 諭 吉 西 洋 の文 明 を目 的 とする事 文 明 論 之 概 略 pp.26 27 5) 同 上, 書 翰 集 一 (1874 년 10 월 12 일 ) 福 沢 諭 吉 全 集 17 권, 1961, p.175 6) 同 上, 自 国 の独 立 を論 ず 文 明 論 之 概 略 p.291 7) 同 上, 通 俗 國 權 論 (1878) 福 沢 諭 吉 全 集 4 권, 1959, p.637 8) 樽 井 藤 吉 著 大 東 合 邦 論 影 山 正 治 訳 大 東 塾 出 版 部, 1963, pp.30 31 9) 福 沢 諭 吉 通 俗 國 權 論 p.637 10) 同 上, 時 事 小 言 (1881) 福 沢 諭 吉 全 集 5 권, 1959, p.167
第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 155 한편 다루이는 大 東 合 邦 論 12) 에서 오늘의 세계는 생사가 걸린 치열한 경쟁이 각 인종 사이에 진행되고 있다. 인종이 같다는 것은 나라의 형편 또한 반드시 유사한 것이 있게 마련이다. 같은 인 종의 국가들은 어떠한 일이 있어도 열심히 화합하고 깊이 제휴하여 다른 인종의 국가들을 상대할 수 있는 길을 강구하지 않으면 안 된다 13) 라고 하여 아시아의 연대를 내세우면서 아시아의 같은 인종은 굳게 하나로 단결할 것을 강조하였다. 당시 일본을 둘러싼 국제관계는 국가와 국가 사이의 약속이나 법률에 의해서 운영되는 것이 아니라, 오직 무력에 의하여 결정되어진다는 강한 위기의 식을 후쿠자와와 다루이는 각각 탈아 와 연대 라는 논리로 극복하고자 하였다. 3. 후쿠자와와 다루이의 조선인식 (1) 일본 우월의식에서 아시아 맹주로 후쿠자와는 메이지초기 당시, 자신의 문명론의 관점에서 조선을 반개( 半 開 ) 내지 하나의 작은 야만국( 一 小 野 蠻 國 ) 으로 인식하고 있었다. 또한 일본은 조선과 교류해서 얻을 것이 하나도 없으며 조선의 교제가 이루어진다 해도 일본의 독립을 위한 권세를 강화하는데 조금도 도움이 되지 않는 다고 평가하였다. 14) 그러나 1880년대에 들어서면서 정한논쟁 때 보여준 수동적인 자세와는 달리 일본이 독립을 확보하기 위해서는 조선을 일본의 영향권 아래 두어야 한다는 보다 적극적인 논조 를 전개해나갔다. 특히 주목해야할 것은, 후쿠자와는 조선을 개국시킨 최초의 나라로써 일본은 조선에 대한 기득권 을 가지고 있다는 것을 강조하면서 미개국 인 조선을 문명세계에 인도해야 할 권한과 책임이 일본 에 있다고 주장한 것과, 더욱이 조선과 중국이 서양의 세력권에 들어가기 전에 이들을 힘으로 보 호 하고 글로 유도 하며 필요하다면 힘으로 협박 하여야 한다고 내세우고 있는 점이다. 15) 또한 1882 년 朝 鮮 の交 際 を論 ず 에서는 이 시기에 이르러 아시아가 협심동력 해서 서양인의 침략을 막기 위하여, 어느 나라가 두목이 되고, 맹주가 될 수 있는가. 나는 감히 스스로 자국을 자랑하는 것 이 아니고 허심하게 이것을 보는데, 아시아동방에 있어서 두목, 맹주에 임명될 수 있는 자는 우리 일본이라고 할 수 밖에 없다. 우리는 벌써 맹주이다 16) 라고 주장하였다. 이 시기만 하더라도 후쿠 자와는 서양의 세력을 막기 위한 의미하는 연대는 3 국의 연대를 더 기대하고 있었던 것으로 보여진다. 그러나 그가 3 국의 이익을 위한 대등한 입장의 연대가 아니라 수직적 관계의 연대 를 뜻하고, 또한 일본이 아시아를 보호하고 책임져야 한다는 맹주론적 연대 의 의미하는 것이었다. 후쿠자와와 마찬가지로 다루이의 大 東 合 邦 論 의 중요한 이념은 이민족에 대한 일본민족의 배 11) 同 上, 外 交 論 (1883년10월1 일) 福 沢 諭 吉 全 集 9 권, 1960, pp.195 196 12) 大 東 合 邦 論 이 간행된 것은 1893 년인데, 다루이가 이 책의 초고를 쓴 것은 10년 정도를 거슬러 올라가 는 1885 년이었다. 1885년은 조선에서 갑신정변이 청의 무력간섭으로 실패로 돌아가고 이에 일본은 청의 무력 앞에 무릎을 꿇어 일본의 위신을 그게 실추한 때였다. 이러한 맥락에서 서양열강의 방식에 따른 후쿠 자와의 탈아론적인 주장이 크게 공감을 얻고 있었다. 한편 당시의 일본은 청과의 아시아 맹주다툼 을 위한 군비 확장에 주력하고 있었으므로 그러한 사회적 분위기에서 전쟁을 치르지 않고 평화적인 방법으로 동양 의 패권을 장악하여야 한다는 다루이의 주장은 일본사회 일각의 다른 분위기를 대변하는 것이기도 하였다. 그러한 점에서 平 石 直 昭 는 大 東 合 邦 論 가 서양열강에 대응하여 식민지화도 서구화도 거부하면서 동양 의 한 나라로서 국제정치상에 독자적인 위치를 점하기 위한 방책으로서의 구상을 제시한 것으로써 평가하 고 있다( 平 石 直 昭 近 代 日 本 のアジア主 義 - 明 治 期 の諸 理 念 を中 心 に ( 溝 口 雄 三 編 ) アジアから考 える 5 東 京 大 学 出 版 会,1994, p.271). 13) 影 山 正 治 訳 大 東 合 邦 論 p.43 14) 福 沢 諭 吉 亜 細 亜 諸 国 との和 戦 は我 栄 辱 に関 するなき説 (1875년10월7 일) 福 沢 諭 吉 全 集 20 권, 1963, p.148 15) 同 上, 時 事 小 言 (1881) pp.186 187. 16) 同 上, 朝 鮮 の交 際 を論 ず (1882년3월11 일) 福 沢 諭 吉 全 集 8 권, 1960 년, pp.28 31
156 동아시아 인문전통과 문화역학 타적 우월의식 이다. 그는 일본국이 세계에서 가장 축복받은 나라 라고 강조하고, 일본이 가진 8 가지 장점을 내세우고 있다. 이에 반하여 중국은 고루 하고 그 민족은 오만불손 하며 국민은 정부 를 적대시 하고 기근 시에는 인육을 먹는 짐승의 행동 을 보이는 야만족이라 하여 천시하였고, 조 선은 빈약한 국가 이고 문화는 미개 하고 정치는 부패 하고 기후는 불순 하며 국민은 독립심이 결여 된 희망 없는 민족이라고 평가하였다. 17) 이러한 주장에서 볼 때 다루이의 아시아연대는 후쿠 자와의 수직적 관계의 연대 또는 일본의 맹주론적 연대 와 일맥상통하고 있음을 알 수 있다. (2) 연대와 탈아의 논리 1882년6 월 임오군란의 발발은 일본의 아시아정책의 전환을 가져다 준 커다란 계기가 되었다. 사 건의 결과, 청은 조선과의 종속관계를 내세워 종주권을 확립하려 하였고, 이로 인한 일본의 조선진 출이 어려워지자 후쿠자와는 조선과 청을 대한 일본의 아시아 침략을 공개적으로 주장하고 나섰 다. 임오군란 직후, 그는 일본정부가 조선문제를 처리함에 있어 도덕 이나 대의명분 에 구애받지 말고 강경한 조치를 취하여 조선정부를 응징할 것을 요구했고, 조선을 배후에서 조정하고 있는 중 국과도 전쟁을 수행하여 주장하였다 18). 동양의 늙고 커다란 고목을 일격에 꺾어 버려야 한다 는 아시아 침략을 후쿠자와의 해외팽창이론은 1885 년 脫 亞 論 에서 보다 공개적이고 정교하게 나타났으며, 그 내용은 다른 아시아 국가들보다 먼저 문명화를 이루어 서양열강으로부터 독립을 달성하려는 일본 의 자부심을 담았다고 할 수 있다. 동시에 중국과 조선을 가리켜 문명화를 결코 이룰 수 없는 나라 로 낮추어 보고 이러한 비문명화가 일본외교에 악영향을 끼친다는 멸시와 실망을 나타내고 있다. 그러나 脫 亞 論 은 후쿠자와의 아시아정책의 포기를 표명하는 것이 결코 아니었다. 서양과 진퇴 를 같이하여 중국과 조선을 접수해야 한다 는 내용은 그 강경성으로 보아 아시아 침략론 으로 해 석해도 무리가 아닐 것이다. 더욱이 1885년에는 머지않아 닥쳐올 조선의 멸망은 조선정부를 위해 서는 애석한 일이지만 조선국민을 위해서는 축하할 일이다 19) 라는 내용의 사설을 발표함으로써 조선에 대한 일본의 침략을 더욱더 구체적으로 표명하였다. 다루이의 연대의 논리는 서양열강의 아시아 진출이라는 국제현상에 대응하기 위해서는 아시아의 단합이 필요하다는 대전제 위에서 첫째, 조선과 일본이 대등한 입장에서 합방 을 이룩하고 둘째, 새로운 합방국 은 중국과 긴밀한 동맹관계를 형성하고 셋째, 나아가서 아시아 여러 나라와 연대하 여 대아시아 연방 을 구축해야 한다는 것이었다. 20) 그는 조선과 일본의 합방 은 대단히 자연스러 운 것이며 또한 쉽게 이루어질 수 있다고 주장하였으며, 조선과 일본의 합방 으로 형성되는 대동 국 은 동쪽에서 태양이 떠오르는 것과 같이 축복받은 국가로 번성할 것 이라고 강조하였다. 21) 17) 첫째, 기후가 온화하여 인간의 생식에 가장 적당하고 ( 중략) 둘째, 지질이 풍요하여 농사짓기에 가장 알맞 고 평야는 넓지 않으나 의식에 충분하고 셋째, 산과 바다에는 맹수나 괴어의 해가 전혀 없고, 광물과 삼림 그리고 바다의 자원이 풍부하고 넷째, 국토풍광은 수미하고 ( 중략) 다섯째, 사면이 바다로 둘러싸여 자연 적인 대요새를 이루어 침입하는 외적은 패퇴 당하고 여섯째, 국민은 완전한 한 종족으로서 해외로부터의 귀하민도 오랜 세월이 흐르는 동안 완전히 동화되었고 국민전부가 민족의 대종가인 황실의 피를 나누어 받 았다. 그러므로 나라의 정세는 완전히 화합되어 있고, 일곱째, 모든 국민은 황실을 민족의 총자본가로서 마 음속으로부터 존중하고, 만세일계( 萬 世 一 系 ) 의 황통이 이천육백여년을 계속해서 국가를 통치했고 여덟째, 건국 이래 단 한 번도 다른 나라에 굴복하지 않은 것은 세계 만국 중 우리나라뿐이다( 影 山 正 治 訳 大 東 合 邦 論 pp.60 61) 18) 福 沢 諭 吉 日 支 韓 三 國 の關 係 (1882 년 8 월 25 일 ) 福 沢 諭 吉 全 集 8 권, 1960, p.305 19) 同 上, 朝 鮮 人 民 のために其 国 の滅 亡 を賀 ず (1985 년 10 월 13 일 ) 福 沢 諭 吉 全 集 10 권, 1960, p.381 20) 그는 조선과 일본 두 나라를 합친 국가의 새 국호를 대동 ( 大 東 ) 이라고 칭하고 東 이라는 문자는 예부터 조선과 일본이 함께 공통으로 사용한 또 다른 이름이었다고 명시하고 있는 것과 같이 합방론의 핵심은 조 선과 일본이 합방 한다는 즉 대동국 건설 에 있었다( 影 山 正 治 訳 大 東 合 邦 論 p.13). 21) 覆 刻 大 東 合 邦 論 長 陵 書 林, 1975, pp.1 2
第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 157 그렇다면 이와 같이 빈약하고 미개한 조선과 합병함으로써 그가 얻으려고 한 일본의 이익은 무엇 이었을까? 일한합방이 성취되면 일본은 한반도를 통해서 중국, 러시아 등의 대륙과 편하게 통상 을 할 수 있다. 이것이 일본이 기대하는 첫째 이익이다. 한인( 韓 人 ) 들은 일본인에 비해 몸이 강대하 고 완력이 강하다. 그러므로 그들을 일본식 군사 제도로 훈련을 시키고, 우리의 병기를 쓰게 한다면 러시아의 침략을 막기에 충분할 것이다. 이것이 두 번째 이익이다 라고 다루이는 지적하고 있다. 더욱이 합방으로 인하여 조선이 얻는 이익은 일본의 그것보다 훨씬 크다고 강조하였다. 22) 그러나 다루이의 연대론은 만일 오늘 공정한 협의를 통하여 평화적으로 두 나라를 합방할 수 있으면 일본 은 군대를 쓰지 않고서도 조선을 취하게 된다 23) 라는 팽창주의적 발상을 내재하고 있는 것이었으 며, 더욱이 서양과의 불평등조약 체제 속에서 군사력을 동원하여 영토를 확장한다는 것은 현실적 으로 실현성이 희박한 것이었으므로, 이러한 상황을 고려하여 일본의 지배권을 조선에는 물론 중 국 대륙으로까지 확대하여 평화적 으로 식민지를 확보하기 위한 한 방안이었다고 말 할 수 있다. 4. 나가며 1870 년대 초기 문명개화를 통하여 일본의 근대화를 모색하고자 했던 후쿠자와의 일국독립 은 서양제국과 맺은 불평등조약에서부터 벗어나 독립을 확보한다는 것에서부터 출발하였다. 그러나 1880 년대의 일국독립 은 위기의식과 약육강식이라는 상황논리를 적극적으로 수용하여 부국강병 을 주장함으로써 대외팽창으로 발전하였으며 그것은 후쿠자와의 아시아 정책에서 세 가지 특징을 나타내고 있다. 첫째로, 당시 후쿠자와는 서양열강에 의한 아시아제국의 식민지화의 위협을 일본 혼자의 힘으로는 극복할 수 없기 때문에 동아시아3국이 연대하여 서양열강의 침략을 막으려는 것 이른바 방어적 내셔널리즘 24) 에 입각하고 있었다. 둘째로, 아시아의 연대는 일본의 지도와 보호를 전제로 하는 맹주론적 연대 이어야 하며, 그것은 일본이 먼저 문명화, 즉 서양화를 열었기 때문이 라는 이른바 지도자적 우월의식 에 입각한 것이었다. 셋째로, 일본을 포함하지 않는 아시아를 타자 로서 설정 즘 에 입각하고 있었다. 차이화하면서 일본이 아시아를 방위적으로 재구성 한다는 이른바 일본형 오리엔탈리 다루이는 아시아의 단결과 통합을 위하여 세 단계의 구체적 방안을 제시하였다. 첫 단계는 조선 과 일본이 대등한 입장에서 통합하여 대동국 이라는 합방국 을 세우는 것이다. 둘째 단계는 대동 국 이 중국과 긴밀한 동맹관계를 수립하는 것이다. 중국과는 합방이 아니라 동맹을 제시하고 있는 것은 중국은 영토가 대단히 방대하고 또한 이민족 등 국내사정이 복잡하게 얽혀 있기 때문에 합방 을 추진할 단계가 아니라는 것이다. 그러나 최종적 단계는 대동국 과 중국, 그리고 남양의 여러 섬 들을 포함한 대아시아 연방 을 실현하는 것이었다. 그러나 당시 다루이의 일차적 관심과 大 東 合 邦 論 의 핵심주제는 첫째 단계인 대동국 을 건설하는 것이었다. 25) 표면적으로 다루이의 大 東 合 邦 論 은 후쿠자와의 脫 亞 論 과 달리 아시아연대를 여러 형태로 담고 있지만, 그 본질은 조선의 안정, 독립, 개화, 그리고 번영은 조선이 일본에 통합되어 조화를 이 루고 일본의 통치를 받을 때에만 비로소 이루어질 수 있다는 논리였다. 따라서 다루이가 구상한 대 동국 에서의 두 나라는 대등한 위치가 아니라, 일본은 지배국 이 되고 조선은 종속국 이 되는 이른 22) 影 山 正 治 訳 大 東 合 邦 論 pp.77 79 23) 同 上, p.78 24) 김영작은 후쿠자와의 내셔널리즘을 방어적 내셔널리즘 과 팽창적 침략적 내셔널리즘 어 설명하고 있다( 김영작 한말 내셔널리즘 연구- 사상과 현실 청계연구소, 1989, p.125). 의 두 가지로 나누 25) 한상일 일본 지식인과 한국- 한국관의 원형과 변형 오름, 2002, pp.90 91
158 동아시아 인문전통과 문화역학 바 주종관계의 연대 를 의미하는 하는 것이었다. 즉 대동국 건설은 일본이 직면한 위기를 극복하 기 위한 하나의 수단이었으며 조선을 일본에 흡수통합하고 나가서 국력을 대륙으로 확대하기 위한 첫 단계였던 것이다. 이상과 같이, 후쿠자와와 다루이는 조선 문제에 대한 일본의 방법적 전략으로써 각각 탈아 와 연 대 를 내세우고 있었으나, 결국 그것이 의미하는 것은 일본의 조선 진출 이었으며, 더욱이 그들은 일본의 조선 진출 을 조선에 대한 일본 민족적 우월감으로 정당화하였다. 탈아 와 연대 의 주장은 당시 두 사람에게 있어서는 자국의 독립이라고 하는 시대적 과제를 해결하기 위한 수단이었으나, 하지만 그러한 그들의 아시아 정치정략에 의한 나의 근원이 되었다고 볼 수 있다. 조선 진출은 근대 이후의 한일관계를 암시하는 하 < 摘 要 > 福 泽 谕 吉 和 樽 井 藤 吉 的 亚 洲 观 对 朝 鲜 的 认 识 为 中 心 中 日 语 言 文 学 科 中 日 比 较 文 化 专 业 金 男 恩 本 论 文 以 福 泽 谕 吉 (1835 1901) 和 樽 井 藤 吉 (1850 1922) 的 亚 洲 观 特 别 是 对 朝 鲜 的 认 识 观 为 重 点, 考 察 19世 纪 后 半 期 也 就 是 东 亚 从 前 近 代 国 际 秩 序 过 渡 到 近 代 的 这 一 转 变 期, 上 述 两 个 人 为 了 日 本 的 独 立 和 发 展 想 要 构 造 的 新 的 国 际 秩 序 福 泽 和 樽 井 的 日 本 近 代 化 过 程, 出 发 点 是 为 了 阻 止 西 方 列 强 的 亚 洲 侵 略, 企 图 通 过 脱 亚 和 连 带 的 理 论 打 破 肉 弱 强 食 的 国 际 秩 序 但 是 日 本 脱 亚 入 欧 的 近 代 化 过 程 中, 把 东 洋 设 定 为 他 者, 与 自 己 区 别 开 来, 当 然 这 里 的 东 洋 概 念 里 面 不 包 括 日 本 特 别 是 福 泽 的 脱 亚 论 里 蕴 含 的 亚 洲 盟 主 的 日 本 要 全 方 位 重 构 亚 洲 的 战 略 是 针 对 朝 鲜 的 福 泽 的 谢 绝 东 方 的 恶 友 的 立 场 和 樽 井 的 大 东 合 邦 论 虽 然 把 东 亚 三 国 视 为 一 个 连 带, 但 本 质 上 表 明 朝 鲜 的 安 定, 独 立, 开 化 以 及 繁 荣 只 有 融 合 到 日 本 里 面, 在 日 本 的 统 治 下 才 能 达 到 即 樽 井 构 想 的 大 同 国 里 的 两 国 关 系 并 非 是 对 等 的 关 系, 日 本 是 支 配 国 朝 鲜 是 从 属 国, 这 一 关 系 是 主 从 关 系 的 连 带 表 面 上 看 起 来 福 泽 和 樽 井 的 脱 亚 和 连 带 的 主 张 相 悖, 但 他 们 共 同 意 味 着 日 本 向 朝 鲜 进 出 这 一 政 治 战 略, 而 且 用 日 本 民 族 优 越 于 朝 鲜 的 思 想 正 当 化 他 们 的 战 略 对 于 福 泽 和 樽 井, 脱 亚 和 连 带 的 主 张 只 是 解 决 自 国 独 立 这 一 时 代 课 题 的 一 个 手 段 而 已, 但 是 依 他 们 的 亚 洲 政 略 达 成 的 朝 鲜 进 出 是 暗 示 近 代 以 后 的 韩 日 关 系 的 一 个 根 源 <要 旨 > 福 沢 諭 吉 と樽 井 藤 吉 のアジア認 識 -朝 鮮 認 識 を中 心 に- 中 日 語 文 学 科 中 日 比 較 文 化 専 攻 金 男 恩 本 発 表 文 は 19世 紀 後 半 東 アジアが新 たな国 際 秩 序 へと編 入 されていく その 転 換 期 におい て 日 本 の国 内 の改 革 を主 導 した福 沢 諭 吉 ( 1835 1901) と 樽 井 藤 吉 ( 1850 1922 )のアジア認
第 10 次 東 아시아 比 較 文 化 國 際 會 議 159 識 とりわけ朝 鮮 認 識 について検 討 するものである その際 両 者 にとって 近 代 的 国 際 秩 序 と はいかなるものであったか また彼 らはこれらに対 応 して いかなる新 しい国 際 秩 序 を構 築 す べきだと考 えたか という二 つの側 面 に注 目 している 福 沢 と樽 井 の日 本 近 代 への過 程 は 西 洋 列 強 のアジア侵 略 に対 する強 い危 機 意 識 から出 発 しており 当 時 の弱 肉 強 食 の国 際 関 係 をそれぞ れ 脱 亜 と 連 帯 の論 理 をもって克 服 しようとした しかし 脱 亜 入 欧 という日 本 近 代 へ の過 程 は 日 本 を含 まない東 洋 を他 者 として設 定 することで自 己 と差 異 化 するものであり 特 に 福 沢 の 脱 亜 論 に内 在 されている日 本 を盟 主 とし アジアを防 衛 的 に再 構 成 するという戦 略 は まさに朝 鮮 に対 する日 本 の戦 略 を表 明 するものであった 福 沢 の 亜 細 亜 東 方 の悪 友 を謝 絶 す る という立 場 とは対 照 的 に樽 井 の 大 東 合 邦 論 の中 には東 アジア三 国 の連 帯 の意 味 がさまざ まな形 態 に孕 まれている しかし 朝 鮮 の安 定 独 立 開 化 そして繁 栄 は朝 鮮 が日 本 に統 合 さ れ また日 本 に統 治 されることによってはじめて成 し遂 げられるものであった 福 沢 と樽 井 は表 面 的 には 脱 亜 と 連 帯 という対 照 的 な論 理 を打 ち出 しているが それが意 味 するところは 日 本 の朝 鮮 進 出 であり また彼 らはそれを日 本 民 族 の優 越 感 をもって正 当 化 しようとした これらは 福 沢 と樽 井 にとっては自 国 が直 面 していた 近 代 という時 代 的 課 題 において選 ばざ るを得 なかった選 択 だったのであろうが しかし彼 らのアジア政 略 による朝 鮮 進 出 は 結 局 のと ころ 近 代 におけるその後 の日 韓 関 係 のあり方 を決 定 付 ける一 つの所 以 であったといえよう