經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ち 得 たとはいえ 独 立 後 の 政 治 的 主 導 権 をめぐって 混 乱 が 続 いたのみなら ず その 後 勃 発 した 朝 鮮 戦 争 によって 国 土 は 荒 廃 し ようやく 経 済 再 建 に 向 かい 始 めるのは

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1 전후 60년 한 일 기업가 활동의 비교사적 검토 경영사학 제20집 제5호 (통권40호) 한국경영사학회 第 15 回 國 際 學 術 大 會 : 전전 60년 한한한한한 이이이 온 기기기기 그기그 기기기 정정 基 調 演 說 - 戦 後 60 年 日 韓 企 業 者 活 動 の 比 較 史 的 検 討 - 鳥 羽 欽 一 郎 戦 後 60 年 の 日 本 と 韓 国 との 企 業 者 活 動 を 比 較 経 営 史 という 視 点 から 考 察 してみると 類 似 点 とともに 大 きな 相 違 点 もある まず 類 似 点 から 考 えてみよう 第 一 に 両 国 とも 経 済 的 に 荒 廃 した 状 況 から 出 発 したということであ る 日 本 は 敗 戦 による 経 済 的 荒 廃 のみならず 米 軍 よる 占 領 と 統 治 とい う 異 常 な 事 態 の 下 にあった 爆 撃 による 主 要 工 業 施 設 の 破 壊 のみならず 賠 償 による 残 存 設 備 の 撤 去 などによって その 生 産 力 は 戦 前 最 盛 期 の2 0% 近 くにまで 低 下 していたばかりでなく さらに 企 業 者 活 動 という 点 から 見 れば 財 閥 の 解 体 のみならず 主 要 な 財 界 人 官 僚 政 治 家 など 大 量 の 人 材 の 公 職 追 放 によって その 活 力 を 根 底 から 奪 われるに 至 ってい た ようやくこれが 回 復 の 兆 しをみせるのは 1952 年 の 日 米 平 和 条 約 発 効 以 後 のことである 他 方 韓 国 では 日 本 の 敗 戦 によって 独 立 を 勝 早 稲 田 大 学 名 誉 教 授 日 本 経 団 連 顧 問 7

2 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ち 得 たとはいえ 独 立 後 の 政 治 的 主 導 権 をめぐって 混 乱 が 続 いたのみなら ず その 後 勃 発 した 朝 鮮 戦 争 によって 国 土 は 荒 廃 し ようやく 経 済 再 建 に 向 かい 始 めるのは1953 年 の 南 北 休 戦 条 約 の 調 印 以 後 のことである したがって 戦 後 の 企 業 者 活 動 のスタートは 日 韓 ともほぼ 同 時 期 に 始 まったと 言 えよう 第 二 には 両 国 ともに 米 国 の 統 治 と 影 響 下 にあったという 点 である このことは 企 業 者 活 動 とは 直 接 の 関 係 はないとも 言 えるが これを 取 り 巻 く 政 治 的 社 会 的 さらには 文 化 的 環 境 という 意 味 では 重 要 である 両 国 ともに 政 治 的 にはアメリカ 型 民 主 主 義 が 定 着 し 経 済 的 には 自 由 競 争 型 社 会 が 形 成 される 基 礎 となったからである とくに 韓 国 の 場 合 には 社 会 主 義 国 ソ 連 邦 の 管 理 下 におかれた 北 朝 鮮 共 和 国 と 比 較 することで もこれは 明 瞭 である また 戦 後 両 国 から 多 数 の 留 学 生 や 企 業 人 がアメリ カに 渡 り その 社 会 文 化 環 境 のみならず 企 業 活 動 から 学 ぶことが 多 か ったのは その 後 の 両 国 の 企 業 者 活 動 にすくなからぬ 影 響 を 与 えたと 思 われる 第 三 は 活 発 な 企 業 者 が 出 現 し 得 るような 社 会 層 の 存 在 である 日 本 も 韓 国 も 上 昇 志 向 が 旺 盛 な 社 会 層 の 幅 が 広 く 基 礎 教 育 のレベルも 高 か った また 韓 国 では 良 かれ 悪 しかれ 日 本 統 治 時 代 の 影 響 で 官 僚 制 度 もお おむね 制 度 化 されており 北 朝 鮮 でこうした 人 材 が 粛 清 され 活 用 されな かったのに 対 して 軍 事 政 権 が 長 く 続 いたとはいえ 官 僚 機 構 は 有 効 に 活 用 された これは 近 代 化 を 進 めた 明 治 以 降 の 日 本 の 場 合 と 同 様 であり 開 発 独 裁 型 ではあったとしても 企 業 者 活 動 にとってプラスに 作 用 したこ とは 間 違 いない 漢 江 の 奇 跡 はこうして 実 現 したのであり これま た 北 朝 鮮 のケースと 比 較 して 考 えて 欲 しい 逆 に 言 えば 財 閥 のような 企 業 グループの 排 出 を 積 極 的 に 支 援 したのは 開 発 独 裁 型 の 政 権 と 官 僚 組 織 であり 明 治 初 期 と 同 様 の 政 経 癒 着 型 の 企 業 者 活 動 が 展 開 された 8

3 전후 60년 한 일 기업가 활동의 비교사적 검토 以 上 類 似 点 のいくつかを 指 摘 したが 相 違 点 もまた 少 なくない まず 第 一 には 韓 国 の 場 合 は 財 閥 を 中 核 として 経 済 発 展 のスタートが 切 られ たが これは 日 本 の 戦 前 のタイプと 同 一 であろう しかし 日 本 の 場 合 は 逆 に 財 閥 の 解 体 から 戦 後 の 企 業 者 活 動 が 始 まっている 今 回 の 報 告 者 の 取 り 上 げたケースをみても 日 本 側 は 松 下 トヨタ マクドナルドと 戦 前 の 財 閥 とは 無 関 係 の 企 業 が 取 り 上 げられているのに 対 し 韓 国 側 か らは 現 代 三 星 といった 財 閥 系 企 業 が 取 り 上 げられている 確 かに 最 近 の 現 代 三 星 の 躍 進 は 目 を 見 張 るものがあるが 日 本 のケースは 松 下 トヨタといった 戦 前 からの 中 堅 企 業 から 発 展 したものであり マクド ナルドに 至 っては 戦 後 の 外 資 系 企 業 からの 出 発 である このあたりに 韓 国 と 日 本 の 企 業 発 展 におけるスタート 時 点 での 資 本 技 術 蓄 積 の 段 階 の 差 異 がみられる 第 二 には 海 外 からの 技 術 経 営 手 法 の 積 極 的 な 導 入 である 日 本 も 韓 国 も 企 業 者 活 動 の 大 きな 源 泉 のひとつは 海 外 の 経 済 発 展 に 学 ぶとい う 真 摯 な 姿 勢 と 積 極 的 な 技 術 導 入 またそれに 必 要 な 外 資 の 導 入 と 自 主 的 な 提 携 である 欧 米 を 別 にしても 韓 国 が1965 年 以 降 日 本 から 導 入 した 技 術 は 決 して 少 なくない この 日 本 からの 企 業 進 出 はひと 昔 前 に は 日 本 の 経 済 的 帝 国 主 義 的 進 出 とアジア 各 国 で 批 判 されたものであ るが 現 在 では 外 資 導 入 によって 経 済 発 展 をはかる 国 は 少 なくない と くに 技 術 はともかく 経 営 手 法 の 移 入 とその 成 功 はそれぞれの 国 の 文 化 社 会 環 境 によって 異 なるので アメリカから 日 本 に 入 りさらに 日 本 化 さ れた 上 で 韓 国 に 導 入 されて 韓 国 型 化 し 成 功 したものも 少 なくないはずで ある たとえば 財 閥 という 形 態 にしても 韓 国 と 日 本 のそれはきわめて 近 似 していて アジアの 他 の 国 には 見 られない 特 徴 である 第 三 には60 年 以 前 の 韓 国 では 零 細 中 小 企 業 は 多 数 存 在 していた としても 京 城 紡 績 とか 和 信 百 貨 店 といった 強 固 な 土 着 資 本 とよべるよ 9

4 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) うな 中 堅 企 業 は 殆 ど 存 在 しなかった それゆえ 今 日 大 企 業 と 呼 ばれてい る 企 業 や 企 業 グループの 多 くは 旧 日 本 からの 接 収 企 業 や 米 軍 や 政 府 の 仕 事 の 下 請 けで 初 期 資 本 を 蓄 積 さらに 政 府 の 輸 出 産 業 基 幹 産 業 の 育 成 に 機 会 を 得 て 発 展 した 財 閥 を 源 流 としたものが 主 流 である これは 日 本 でいえば 明 治 から 大 正 時 代 を 思 わせるものであり したがってその 経 営 手 法 も 創 業 者 時 代 のトップ ダウン 型 の 影 響 が 強 く これまた 日 本 の 財 閥 の 初 期 の 発 展 手 法 を 思 わせる これに 対 して 日 本 の 戦 後 の 発 展 を 牽 引 した 企 業 家 は 戦 前 に 蓄 積 した 資 本 技 術 を 基 礎 に 大 量 生 産 への 移 行 海 外 からの 新 技 術 の 導 入 と 改 良 改 善 さらには 新 製 品 の 開 発 と 輸 出 産 業 を 中 心 に 発 展 を 遂 げていった 事 例 が 多 い したがって 戦 後 の 日 本 の 企 業 は 戦 前 の 三 井 三 菱 などと 異 なり トヨタ ホンダ 松 下 ヤマ ハ ヤンマーといった 創 業 者 名 を 冠 した 企 業 が 多 数 に 上 っているのはそ のよい 事 例 である 以 上 のような 日 韓 の 企 業 者 活 動 の 大 雑 把 な 差 異 と 類 似 点 を 前 提 に そ のプラス 面 とマイナス 面 について 考 察 を 進 めよう まずプラス 面 に 目 を 向 けると 両 国 ともその 経 済 発 展 が 急 速 だったということである とく に 韓 国 の 場 合 には 日 本 のそれの 三 倍 以 上 のスピードで 発 展 した 朴 政 権 以 降 政 治 的 安 定 が 達 成 されると 道 路 鉄 道 工 業 団 地 の 建 設 などイン フラの 整 備 が 急 速 に 進 むとともに 活 力 ある 企 業 家 群 が 輩 出 し 優 秀 な 官 僚 の 経 済 計 画 の 下 鉄 鋼 造 船 など 基 幹 産 業 国 策 産 業 の 建 設 と 並 行 して 建 設 セメント 繊 維 電 気 器 械 造 船 機 械 といった 諸 産 業 が 急 速 に 発 展 した これが 韓 国 型 財 閥 形 成 の 基 盤 であり 言 ってみれば 開 発 独 裁 型 であると 同 時 に 後 発 国 型 利 益 をフルに 享 受 した 後 発 国 型 の 発 展 の 典 型 と 言 えるものであった 他 方 日 本 の 場 合 には 財 閥 解 体 により 戦 前 の 大 企 業 は 解 体 分 割 されたためその 復 活 は 見 られず また 戦 災 による 10

5 전후 60년 한 일 기업가 활동의 비교사적 검토 基 幹 産 業 の 打 撃 が 大 きかったため 平 和 条 約 の 締 結 以 降 次 第 に 経 済 の 再 建 復 興 が 見 られたとはいえ 戦 前 の 資 本 系 列 に 基 づいてグループ 化 す る 方 向 にと 進 みはしたが 財 閥 形 態 によるトップ ダウン 型 経 営 は 弱 体 化 し 官 僚 による 統 制 の 下 で 基 幹 的 産 業 の 再 編 成 が 進 められた このような 日 本 の 戦 後 経 済 の 発 展 のなかで 顕 著 なのは 新 興 企 業 家 の 躍 進 である 財 閥 系 基 幹 産 業 や 金 融 といった 戦 後 官 僚 の 強 い 統 制 化 にお かれた 産 業 分 野 以 外 では 戦 時 中 統 制 下 におかれて 逼 塞 していた 中 小 の 企 業 家 たちが 政 府 の 輸 出 振 興 策 のしたで 戦 時 中 に 蓄 積 した 技 術 や 海 外 から 移 入 したノウハウを 基 に 兵 器 関 連 産 業 を 除 いた 新 しい 消 費 者 市 場 輸 出 市 場 をめざして 陸 続 と 進 出 した 繊 維 造 船 機 械 自 動 車 から カメラ 楽 器 百 貨 店 スーパーマーケット コンビニエンスストア といった 小 売 業 にいたるまで まさにアメリカ 型 の 企 業 者 活 動 が 花 咲 い たのはこの 分 野 であった もちろん 日 本 の 三 倍 のスピードで 発 展 した 韓 国 においても 事 情 は 同 様 であった 日 本 との 違 いは 資 本 と 技 術 とくに 人 材 の 集 積 度 の 高 い 財 閥 が 多 数 の 分 野 に 手 を 拡 げる 傾 向 が 強 く 企 業 家 における 二 極 分 化 の 度 合 いが 大 きいということであろう ではこの 時 期 における 企 業 者 活 動 にとってのマイナス 面 とはなんであ ろうか もっとも 企 業 活 動 のおけるマイナス 面 とプラス 面 とは 企 業 発 展 の 段 階 の 差 異 でいずれにも 作 用 するということを 前 提 に 考 えてみなけれ ばならない まず 第 一 に 企 業 経 営 における 血 縁 の 問 題 すなわち 同 族 支 配 の 問 題 がある 産 業 資 本 発 生 期 の 欧 米 においても 同 様 であったが も ともと 企 業 が 成 立 するための 重 要 な 条 件 のひとつは 同 族 的 結 合 にある 財 閥 というのは 後 発 国 におけるその 企 業 的 表 現 であり 韓 国 の 企 業 発 展 を 財 閥 がリードしたということは それ 自 体 同 族 経 営 が 色 濃 かったとい うことである この 性 格 は 現 在 でも 持 続 しており 新 興 国 としての 民 族 主 義 を 背 景 としてその 活 力 は 強 い これに 対 し 日 本 の 場 合 には 養 子 制 11

6 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 度 の 普 及 のように 江 戸 時 代 から 資 本 と 経 営 の 分 離 がある 程 度 行 われてい たため 戦 前 の 財 閥 経 営 においても 所 有 と 経 営 の 分 離 がかなりの 程 度 進 んでいた それゆえ 戦 後 成 長 した 創 業 者 型 企 業 においても 所 有 と 経 営 の 分 離 は 比 較 的 速 やかに 進 んだように 思 われる ただ 問 題 は 日 本 文 化 に 根 ざす 伝 統 的 な 家 族 主 義 温 情 主 義 に 基 づく 年 功 序 列 制 度 など 非 合 理 主 義 的 諸 制 度 の 存 続 によって 時 代 が 進 むとともにその 活 力 が 損 なわれ てきた 点 がマイナスとして 指 摘 できる 以 上 日 韓 の 企 業 者 活 動 の 差 異 を 比 較 検 討 してきたが 進 んで 将 来 の 展 望 について 述 べてみたい 最 近 の 日 本 では 郵 政 民 営 化 をめぐって 総 選 挙 が 行 われ 民 営 化 を 主 張 する 自 由 民 主 党 の 大 勝 利 で 終 わったが これによ って 今 後 官 業 の 民 営 化 と 官 僚 統 制 の 規 制 緩 和 が 大 幅 に 進 むものと 考 えら れる 経 済 界 はこれを 歓 迎 しており 今 後 の 企 業 者 活 動 にも 大 きな 影 響 を 及 ばすことは 間 違 いない ほぼ10 年 間 続 いたバブル 崩 壊 の 影 響 で 沈 滞 した 日 本 の 産 業 界 も すでに 新 たな 発 展 にと 向 かいつつある 最 近 の IT 関 連 通 信 流 通 産 業 などに 見 られる 新 しいうねりは 長 らく 政 府 の 保 護 政 策 に 守 られてきた 金 融 業 界 の 再 編 を 促 したばかりでなく 既 存 の 大 企 業 の 整 理 統 合 など 産 業 構 造 の 変 革 をも 加 速 させている またこれに 応 じて 人 材 の 流 れも 官 から 明 へと 移 動 しつつあり 新 たな 企 業 者 活 動 の 芽 生 えが 各 産 業 分 野 においてみられる 今 日 本 は 産 業 構 造 の 一 大 転 換 期 にあるといって 差 し 支 えない またこうした 変 化 に 伴 って 日 本 的 な 家 族 主 義 に 基 づくトップ ダウ ン 型 経 営 年 功 序 列 型 制 度 にも 大 きな 変 革 を 余 儀 なくさせている 最 近 の 西 武 王 国 の 崩 壊 や 戦 後 の 流 通 革 新 を 主 導 したダイエーの 破 綻 などは 同 族 主 義 的 経 営 の 行 き 詰 まりのよい 例 であり かつては 乗 っ 取 り とし て 嫌 われた 企 業 の 吸 収 合 併 も 今 日 ではM&Aと 呼 ばれてごく 普 通 の 企 業 12

7 전후 60년 한 일 기업가 활동의 비교사적 검토 行 動 となるに 至 っている また 最 も 保 守 的 な 集 団 と 考 えられていた 政 界 や 学 界 においてすら 能 力 主 義 の 浸 透 がみられるようになった このよ うな 変 化 は 人 口 減 少 高 齢 化 社 会 の 到 来 といった 今 後 予 想 される 日 本 での 社 会 的 変 化 に 対 応 するものであり 産 業 社 会 が 成 熟 期 を 経 て 先 進 国 型 社 会 にと 変 貌 しようとしている 現 れと 言 えるものである 言 い 換 える ならば 独 占 的 大 企 業 による 大 量 生 産 の 時 代 から 寡 占 化 へ またより 洗 練 された 技 術 や 経 営 ノウハウに 基 づく 中 堅 企 業 を 中 心 とした 産 業 社 会 へ と 大 きく 転 換 していく 過 程 にあると 言 ってよい これに 対 して 韓 国 の 場 合 には 政 官 の 主 導 の 下 に 財 閥 を 中 核 として 急 速 なスピードで 発 展 してきたために 財 閥 企 業 の 浮 沈 や 整 理 統 合 など がその 時 々の 政 治 状 況 によって 左 右 されることが 多 く 不 安 定 な 経 営 を 強 いられる 局 面 も 少 なくなかった それにも 拘 わらず 今 日 の 発 展 を 遂 げ たことは 財 閥 自 体 の 強 力 な 同 族 的 結 合 と 先 進 国 とくに 隣 国 日 本 に 対 す る 強 烈 な 民 族 的 競 争 心 に 支 えられるところが 大 きかったと 思 われる し かし 日 本 と 比 較 した 場 合 急 速 な 発 展 に 応 じられるほどの 企 業 者 的 人 材 の 供 給 が 遅 れ そのため 中 堅 企 業 の 発 展 においてはまだかなりの 立 ち 遅 れが 見 られる しかし 日 本 の 家 族 主 義 的 経 営 とは 逆 に 個 人 主 義 的 独 立 性 の 傾 向 が 強 い 韓 国 の 企 業 家 風 土 においては 中 小 企 業 の 発 展 もまた 速 やかであろう こうした 傾 向 は 韓 国 企 業 家 の 海 外 での 活 動 の 活 発 さに もよく 示 されている 企 業 者 活 動 の 特 徴 は 不 況 といった 社 会 経 済 の 環 境 変 動 の 時 期 に 最 もよく 発 揮 される いわゆるヨゼフ シュンペーターの 言 う 企 業 者 に よる 創 造 的 破 壊 である その 意 味 で 現 在 の 日 本 の 環 境 は 戦 後 の 戦 火 による 荒 廃 から 立 ち 直 った 企 業 者 活 動 活 発 期 に 比 肩 される 第 二 の 大 き な 環 境 変 化 の 時 代 に 入 りつつある コスト 削 減 のための 技 術 の 改 善 改 13

8 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 良 新 たな 市 場 向 けの 新 製 品 の 研 究 開 発 さらには 新 たな 経 営 ノウハウの 導 入 各 産 業 分 野 で 新 企 業 の 台 頭 など 企 業 者 活 動 の 新 たな 波 が 生 まれ つつある 他 方 若 年 人 口 の 相 対 的 減 少 高 齢 化 社 会 の 到 来 といった 意 味 ではこれ また 日 本 を 急 迫 している 韓 国 にあっても 同 様 の 新 たな 企 業 者 活 動 の 活 発 化 が 緊 急 に 必 要 とされている そのためには 政 治 からの 影 響 を 可 能 な 限 り 少 なくして 企 業 の 安 定 を 図 るとともに 官 による 規 制 の 緩 和 によ って 新 たな 企 業 者 活 動 の 場 を 拡 大 する 必 要 がある 今 日 の 韓 国 には 新 しい 産 業 分 野 を 担 いうる 有 為 な 人 材 が 既 に 広 く 育 成 されており これま で 大 企 業 によって 支 配 されてきた 産 業 の 合 間 を 埋 めるニッチ 産 業 部 門 で 新 たな 企 業 者 活 動 が 勃 興 する 余 地 が 極 めて 大 きい 14

9 전후 60년 한 일 기업가 활동의 비교사적 검토 전후 60년 일ㆍ한 기업가 활동의 비교사적 검토 토바 킨이치로* ) 目 次 1. 한일 기업가 활동(정신)의 유사점 2. 한일 기업가 활동(정신)의 상위점 3. 유사점의 플러스 면과 마이너스 면 4. 한일 기업가 활동의 전망 5. 기업가 활동의 특징 전후 60년 일본과 한국의 기업가 활동을 비교경영사라는 시점에서 고찰해 보면 유사점과 함께 큰 상위점을 찾을 수 있다. 1. 한일 기업가 활동(정신 정신)의 유사점 우선 유사점을 생각해 보기로 하자. 첫째 양국 공히 경제적으로 황폐한 상황에서 출발했다는 점이다. 일본은 패전으로 경제적 황폐함 뿐만 아니라 미군에 의한 점령과 통 ) *와세다 대학 명예교수, 전 일본 經 團 連 고문 15

10 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 치라는 이상사태하에 있었다. 폭격에 의해서 주요 공업 시설이 파괴 되었을 뿐만 아니라 배상에 따른 남은 시설을 철거 함으로써 그 생산 력은 전쟁 전 최전성기의 20%가까이 까지 저하 됐을 뿐만 아니라, 기업가 활동이라는 점에서 보면 자이바쯔( 財 閥 ) 해체와 더불어 주요 재계인, 관료, 정치가 등의 인재를 대량 공직에서 추방 함으로 써 그 활력을 밑바닥부터 빼앗겼다. 이 같은 상황으로부터 회복의 징 조가 보이기 시작한 것은 겨우 1952년 미일 평화 조약발효 이후였다. 한편 한국은 일본의 패전으로 독립했고 독립 후에는 정치 주도권을 둘러싼 혼란이 계속 되었다. 그 후 발발한 한국전쟁으로 국토는 초토 화되었고 겨우 경제 재건이 시작 한 것은 1953년 남북 휴전 조약이 조인된 이후였다. 따라서 전후 기업가 활동의 시작은 한일 공히 거의 같은 시기에 시작 했다고 말할 수 있을 것이다. 둘째 양국 공히 미국의 통치와 영향하에 있었다는 점이다. 이점은 기업가 활동과는 직접 관계는 없다고 할 수 있지만 이것을 둘러싼 정 치적ㆍ사회적ㆍ문화적 환경이라는 의미에서는 중요하다. 양국 공히 정치적으로는 미국형 민주주의가 정착 하였고 경제적으로는 자유경쟁 형 사회가 형성 기반이 되었다. 특히 한국의 경우에는 사회주의 국가 인 소련관리하의 북한과 비교하더라도 그것은 매우 명료하다. 또한 전후 양국으로부터 다수의 유학생이나 기업인이 미국에 건너가 미국 의 사회ㆍ문화ㆍ환경 뿐만 아니라 기업가 활동으로부터 배운 점이 많 았던 점은 그 후 양국 기업가 활동에 적지 않은 영향을 미쳤다. 셋째 활발한 기업가가 출현 할 수 있는 사회 계층이 존재 했다. 일 본도 한국도 상승지향성이 왕성한 사회층이 폭넓었고 기초교육 수준 도 높았다. 또한 한국에서는 좋든 싫든 일본 통치 시대의 영향으로 관료 제도도 어느 정도 제도화 되었고, 북한에서는 그러한 인재가 숙 청되므로 활용되지 않았던 것에 비해, 남한에서 비록 군사 정권이 오 16

11 전후 60년 한 일 기업가 활동의 비교사적 검토 래 계속 되었다고는 하지만 관료 기구가 유용하게 활용 되었으며, 이 것은 근대화를 추진한 메이지( 明 治 ) 이후의 일본 경우와 같다. 개발 독재형 이었다고는 하지만 기업가 활동에 있어서 플러스로 작용했다 는 것은 틀림이 없다. 한강의 기적 은 이렇게 실현 되었으며 이는 또한 북한의 경우와 비교 해서 생각해 보기 바란다. 바꾸어 말하면 재벌과 같은 기업 그룹의 배출을 적극적으로 지원한 것은 개발독재형의 정권과 관료 조직이며 메이지 시기와 같이 정경 유착 형의 기업가 활동이 전개 되었다. 2. 한일 기업가 활동(정신 정신)의 상위점 이상의 유사점에 대해서 몇 가지를 지적 했지만 상위점도 또한 적지 않다. 우선 첫째로는 한국의 경우는 재벌을 중핵으로 경제 발전을 시작 했지만 이것은 일본의 전쟁전 타입과 동일하다. 그러나 일본의 경우 는 반대로 재벌 해체로부터 전후 기업가 활동이 시작 되었고 오늘 발 표자들이 취급한 사례를 보더라도 일본 측은 마쯔시다, 도요타, 맥도 널드 등과 같이 전쟁전의 자이바쯔와( 財 閥 )와는 관계가 없는 기업들 이다. 이에 대해 한국 측은 현대, 삼성 등 재벌계 기업을 취급하고 있다. 확실히 최근 삼성, 현대의 약진은 눈 부시지만 일본의 케이스 는 마쯔시다, 도요타 등 전쟁전부터 중견 기업으로 발전 해 왔던 기 업이며 맥도널드는 전후 외자계 기업으로부터 출발한 것이다. 이점에 서 한국과 일본의 기업 발전에 있어서 시작 시점에의 자본ㆍ기술 축 적의 단계에 차이가 보여 진다. 둘째로는, 해외로부터 기술ㆍ경영 방법의 도입이다. 일본도 한국도 17

12 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 기업가 활동의 큰 원천의 하나는 해외의 경제 발전에서 배운 진지한 자세와 적극적인 기술 도입 또한 그것에 필요한 외자 도입과 자주적 인 제휴 이다. 구미를 별도로 하더라도 한국이 1965년 이후 일본으 로부터 도입한 기술은 결코 적지 않다. 이 일본으로부터 기업진출은 예전에는 일본의 경제 제국 주의의 진출 이라고 아시아 각국이 비판했지만 현재는 외자 도입에 의해서 경제 발전을 꾀하는 나라는 많다. 특히 기술은 물론이려니와 경영 방법의 도입과 그 성공은 각 나라의 문화ㆍ사회 환경에 의해서 다르기 때문에 미국으로부터 일본 에 들어와 일본화된 것이 한국에 도입되어 한국형화 해서 성공한 것 도 적지 않을 것이다. 예를 들면 재벌이라는 형태에 있어서도 한국과 일본은 매우 유사해서 아시아의 다른 나라에서는 볼 수 없는 특징이 다. 셋째로서는 60년 이전의 한국에서는 영세 중ㆍ소 기업은 다수 존재 하였 어도 경성방직, 화신 등을 제외하면 토착자본이라고 부를 수 있는 중견 기업 은 거의 존재하지 않았다. 그 때문에 오늘날 대기업이라고 부르고 있는 기업 이나 기업 그룹의 대부분은 구 일본으로부터 접수된 귀속재산 기업이나 미 군이나 정부의 일을 하청 받아 초기에 자본을 축적한, 나아가 정부의 수출산 업ㆍ기간 산업의 육성정책에 힘입어 발전한 재벌이 주류이다. 이것은 일본에 서 말하자면 메이지로부터 다이쇼( 大 正 ) 시대를 생각하게 한다. 따라서 그 경영방법도 창업자 시대의 톱 다운 형의 경향이 강하고 이것은 또한 일본의 자이바쯔 초기의 발전 수법을 생각케 한다. 이에 대해서 일본의 전후 발전을 이끌어온 기업가는 전쟁 전에 축적한 자본ㆍ기술을 기반으로 대략 생산의 이행, 해외로부터 기술도입과 개량ㆍ개선된 신제품의 개발과 수출 산업을 중 심으로 발전을 해온 사례가 많다. 따라서 전후 일본 기업은 전쟁전의 미쓰이, 미쓰비시와는 달리 도요타, 혼다. 마쯔시다, 야마하, 얀마 등 창업자 명을 앞 세운 기업이 다수의 이르는 것은 그 좋은 예이다. 18

13 전후 60년 한 일 기업가 활동의 비교사적 검토 3. 유사점의 플러스 면과 마이너스 면 이상과 같은 한일 기업과 활동의 차이와 유사점을 전제로 그 플러 스 면과 마이너스 면을 고찰해 보도록 하자. 우선 플러스 면으로 눈에 들어오는 것은 양국 공히 그 경제발전이 급속했다는 것이다. 특히 한국의 경우에는 일본의 3배 이상의 스피드 로 발전했다. 박정권 이후 정치적 안정이 달성되면서 도로, 철도, 공 업단지, 건설 등 인프라 정비가 급속히 진전됨과 더불어 활력 있는 기업가들이 배출되었고, 우수한 관료의 경제계획 하에 철강, 조선 등 기간산업, 국책산업의 건설과 나란히 건설, 시멘트, 섬유, 전기기계, 조선, 기계 등 제산업이 급속히 발전했다. 이것이 한국형 재벌형성의 기반이며 말하자면 개발 독재형인 동시에 후발형 이익을 풀로 향유한 후발형 발전의 전형이라고 할 수 있다. 한편 일본의 경우에는 자이바 쯔 해체에 따라 2차 대전 전에 대기업은 해체ㆍ분해 되었기 때문에 그 부활은 찾아 볼 수 없다. 또한 전쟁으로 기간산업의 타격이 컸기 때문에 평화조약 체결 이후 점차적으로 경제 재건ㆍ부흥이 보여졌다 고 할 수 있다. 2차 대전 전 자본계열의 기초를 둔 그룹화의 추진도 있었지만 자이바쯔 형태에 따른 톱 다운형 경영은 약체화하였고, 관 료에 따른 통제하에서 기간적인 산업의 재편성이 진행되었다. 이 같은 일본의 전후 경제의 발전 속에 현저하게 나타난 점은 신흥 기업가의 약진이다. 자이바쯔계 기간산업이나 금융산업과 같이 전후 관료의 강한 통제화에 놓여졌던 산업분야 이외, 전시중 통제하에 놓 였던 중소기업가들이 정부의 수출진흥정책에 따라 전시중에 축적한 기술이나 해외로부터 도입한 노하우를 기초로 병기관련 산업을 제외 한 새로운 소비자 시장ㆍ수출 시장을 목적으로 계속 진출했다. 섬유, 조선, 기계, 자동차로부터 유리, 악기, 백화점, 슈퍼마켓, 컴비니언스 19

14 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 스토어 등 소매점에 이르기까지 마치 미국형 기업가 활동이 활짝 핀 것은 이 분야였다. 물론 일본의 3배의 스피드로 발전한 한국에 있어 서도 사정은 마찬가지였다. 일본과는 달리 자본과 기술, 특히 인재의 집적도가 높은 재벌이 다수 분야에 손을 넓히는 경향이 강했고, 기업 가에 있어서 2극 분화의 정도가 크다고 할 수 있다. 그러면 이 시기에 있어서 기업가활동으로 마이너스 면은 무엇일까? 원래 기업가활동에 있어서 마이너스 면과 플러스 면은 기업발전 단계 의 차이에서 이미 작용했다고 전제하면서 생각해야만 한다. 먼저 첫째로 기업경영에 있어서 혈연의 문제 즉 동족지배의 문제가 있다. 산업자본 발생기 유럽에 있어서도 똑같았지만 원래 기업이 성 립하기 위해서는 중요한 조건의 하나는 동족적 결합이다. 재벌이라는 것은 후발국에 있어서 그것의 기업적 표현이며 한국 기업발전을 재벌 이 리드했다는 것은 그 자체 동족경영 색체가 농후했다는 것이다. 이 성격은 현재에서도 계속되고 있으며 신흥국으로서 민족주의를 배경으 로 해 그 활력은 대단히 강하다. 이에 대해서 일본의 경우는 양자제 도의 보급과 같이 에도( 江 戶 )시대부터 자본과 경영의 분리가 어느 정 도 행해졌기 때문에 2차 대전 전 자이바쯔 경영에 있어서도 소유와 경영의 분리는 비교적 빠르게 진전되었다고 생각된다. 단지 문제는 일본 문화의 뿌리깊은 전통적인 가족주의, 온정주의를 바탕으로 연공 서열제도 등 비합리주의적 여러 제도에 의해 시대의 흐름과 더불어 그 활력이 줄어들었다는 점에서 마이너스로 지적할 수 있다. 4. 한일 기업가 활동의 전망 이상 한일 기업가 활동의 차이를 비교검토 했지만 장래 전망에 대 해서 이야기해 보기로 하자. 최근 일본에서는 우정 사업 민영화를 둘 20

15 전후 60년 한 일 기업가 활동의 비교사적 검토 러싼 총선거가 실행되어 민영화를 주장하는 자유민주당의 대승리로 끝났지만 이에 따라 금후 관업의 민영화와 관료통제의 규제완화가 대 폭적으로 진행될 것이다. 경제계에서는 이를 환영하고 있으며 앞으로 기업가 활동에도 큰 영향을 줄 것은 틀림이 없다. 거의 10년 간이나 계속된 버블붕괴의 영향으로 침체된 일본 산업계에도 이미 새로운 발 전과 방향이 보여지고 있다. 최근 IT관련 통신, 유통산업 등에서 볼 수 있는 새로운 현상은 오랫동안 정부의 보호정책으로 지켜졌던 금융 업계의 재편을 촉진했을 뿐만 아니라 기존의 대기업의 정리통합 등 산업구조의 변혁을 가속시켰다. 또한 이에 대응해서 인재의 흐름도 관으로부터 분명하게 이동되고 있으며 새로운 기업가 활동의 새싹이 각 분야에서 보여진다. 오늘날 일본은 산업구조 일대 전환기에 있다 고 할 수 있다. 또한 이러한 변화는 일본적인 가족주의에 기초를 둔 톱다운형 경영, 연공서열형 제도에도 큰 변화를 가져오지 않을 수 없다. 최근 세이브 ( 西 武 ) 왕국의 붕괴나 전후 유통혁신을 주도한 다이에의 파정은 동족 주의적 경영이 부침된 좋은 예이다. 이제까지는 남의 기업을 탈취한 다고 모두들 저주했던 흡수합병도 오늘날에는 M&A이라고 부르며 극 히 보통 기업활동이 되고 있다. 또한 가장 보수적인 집단이라고 생각 되는 정계나 학계에 있어서도 능력주의의 침투를 볼 수 있게 되었다. 이러한 변화는 인구의 감소, 고령화 사회의 도래에 의해서 금후 예상 되는 일본 사회적 변화에 대응하는 것이며 산업사회가 성숙기를 거쳐 선진국형 사회로 변모해 나가고 있다는 모습이라고 할 수 있다. 바꾸 어 말하면 독점적 대기업에 따른 대량생산 시대로부터 과점화, 또는 보다 세련된 기술이나 경영 노하우를 바탕으로 중견기업을 중심으로 한, 산업사회로 크게 전환해 나가는 과정에 있다고 할 수 있다. 이에 대해서 한국은 정ㆍ관 주도하에 재벌을 중핵으로 빠른 스피드 21

16 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 로 발전해 왔기 때문에 재벌기업의 부침이나 정리 통합 등이 그때 그 때 정치상황에 의해서 좌우되는 경우가 많았고, 불안정한 경영이 강 조되는 국면도 적지 않았다. 그럼에도 불구하고 오늘날 발전을 계속 해 왔다는 점은 재벌자체의 강력한 동족적 결합과 선진국 특히 인근 일본에 대한 강렬한 민족적 경쟁심이 뒷받침 되었다고 생각된다. 그 러나 일본에 비해 급속한 발전에 대응할 기업가적 인재공급이 늦어져 그로 인해 중견기업의 발전이 아직 매우 뒤떨어짐이 보여진다. 그러 나 일본의 가족주의적 경영과는 반대로 개인주의적ㆍ독립성의 경향이 강한 한국의 기업과 풍토에 있어서는 중소기업의 발전도 또한 빨라졌 다고 할 수 있다. 이러한 경향은 한국기업가의 활발한 해외 활동상에 서 자주 나타난다. 5. 기업가 활동의 특징 기업가 활동의 특징은 불황이라는 사회ㆍ경제 환경 변동의 시기에 가장 잘 발휘되고 소위 요샙 슘페터(J. Schumpeter)가 말한 기업 가에 따른 창조적 파괴 이다. 그 의미에서 현재 일본의 환경은 전쟁 에 따른 황폐로부터 다시 일어섰고 기업가 활동 활발기에 비견되는 제 2의 큰 환경변화시대로 들어가고 있다. 비용삭감을 위해 기술의 개선ㆍ개량, 신 시장을 위한 신제품 연구개발 나아가 새로운 경영의 노하우 도입, 각 산업분야에서 신 기업의 대두 등 기업가 활동의 새 로운 파도가 일고 있다. 한편 젊은 층 인구의 상대적 감소, 고령화 사회의 도래라는 의미에 서는 이것은 또한 일본을 급속히 압박하고 있는 한국에서도 똑같은 기업가 활동의 활발화가 긴급히 요구되고 있다. 그 때문에 정치로부 22

17 전후 60년 한 일 기업가 활동의 비교사적 검토 터의 영향을 가능한 적게 하고 기업의 안정을 꾀함과 동시에, 관에 따른 규제의 완화에 의해서 새로운 기업가 활동의 장을 확대해 나갈 필요가 있다. 오늘날 한국에는 새로운 산업 분야를 담당하기 위한 인 재가 매우 이미 널리 육성되고 있으며 이제까지 지배되어 온 산업의 간격을 매꿀 수 있는 Niche 산업 분야에서 새로운 기업가 활동이 발 흥할 여지가 매우 크다고 하겠다. 23

18 경영사학 제20 집 제5 호 ( 통권40 호) 한국경영사학회 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업 활동 황 명 수* 1) 1) 박) 目 次 1. 머리말 2. 湖 巖 의 기업 활동 1). 湖 巖 의 사상 ( 생활신조) 2). 기업동기 3). 산업발전단계설과 기업현황 4). 경영스타일 5). 시련의 극복 6). 사회적 책임 3. 湖 巖 의 경영이념 1) 사업보국 2) 인재제일 3) 합리추구 4) 창조정신 5) 도덕정신 6) 제일주의 7) 완전주의 8) 공존공영 4. 湖 巖 에 대한 사회적 평가 5. 삼성그룹의 2세 계승 6. 맺는 말 * 전, 단국대학교 총장 단국대학교 명예교수

19 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) Ⅰ.머리말 三 星 그룹의 창업자 湖 巌 李 秉 喆 회장이 서거한 이후 거의 20년이 지난 오늘날 에 있어서도 그는 한국의 기업 거성, 기업영웅, 기업명장 등으로 세인의 話 題 에 자주 오른다. 지난 해에는 湖 巖 은 현대그룹의 鄭 周 永 회장과 함께 한국기업의 영 웅으로서 MBC 의 드라마 영웅시대 에서 방영되기도 하였다. 湖 巖 이 사업에 투신한 것은 1936 년 協 同 精 米 所 의 설립 때부터 이며, 그 2년 후 에는 삼성그룹의 뿌리로 간주되는 은 시련과 역경을 극복하면서 三 星 商 会 를 설립 하였다. 그 후 삼성그룹은 많 1950년대 중반기 이후 한국재계의 정상을 차지하게 되고, 오늘날까지 삼성그룹은 재계정상을 점하고 있다. 최근에는 세계의 첨단산업 인 반도체, 컴퓨터, 산업용전자기기, 유전자공학, 휴대전화 등을 생산 및 개발 하 면서 세계를 先 導 하는 기업으로서 세계의 주목을 받고 있다. 삼성그룹의 70 년의 역사는 한국기업의 역사라고 할 수 있다. 湖 巖 은 삼성의 역 사는 바로 시대와 사회가 요구하는 사업을 찾고 도전해 온 시련과 변신의 역사 라고 말하고 있다. 8ㆍ15 해방 후 격동하는 정치사회의 환경 속에서 湖 巖 은 기업 인으로서 외길의 인생을 살아 왔다. 湖 巖 은 한국기업인의 선두에 서서 경제발전 의 견인차 역할을 해 온 것이다. 기업의 浮 沈 이 심한 한국적 풍토에서 삼성그룹이 꾸준히 성장하여 재계장상을 점해 온 것은 기적이라고도 할수 있는 것이다. 1965년의 한국의 100 대 기업( 매출 액기준) 중 1991년까지 100대권에 남은 기업은 16 개 뿐이며, 1) 특히 1960년도 10 대 재벌기업 중 1992년까지 10위권에 남은 기업은 삼성그룹과 LG그룹 뿐이라는 연구도 있다. 2) 삼성그룹의 발전은 湖 巖 의 창조적 기업 활동과 경영이념의 소산이라고 할 수 있다. 湖 巖 은 시대가 요구하는 새로운 업종을 과감하게 선택하여 성공하는 등3) 업계의 선두에 서서 기업을 성장 시켜 나갔다. 그는 강력한 리더십과 창조적 활 동으로 삼성을 한국 최대의 기업으로 성장 시켜 온 것이다. 湖 巖 이 갖는 전통적 유교윤리와 근대적인 합리경영은 그의 家 風, 교육경역, 성 장환경 등에 크게 영향을 받고 있으며, 그의 기업 활동은 그의 경영이념 내지 경 영철학에 의거하여 추진되었던 것이다. 일찍이 M. 웨버( Max Weber) 는 이념이 기업을 움직인다 (Ideology(Value) 1) 공병호, 21 세기 기업변신을 위한 한국기업흥망사, 명진출판, 1993, pp ) 同 上, p ) 三 星 秘 書 室, 三 星 五 十 年 史, 1988, p

20 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 drives the Business) 고 하였다. 湖 巖 의 경영이념이 삼성그룹을 움직이게 한 것이 다. 삼성그룹은 한국의 기업그룹 중 유일하게 사업보국을 社 訓 으로 제정하고 있 는 기업이며, 이것은 湖 巖 의 사업보국에 대한 심념이 얼마나 확고한 것인가를 나 타내고 있는 것이다. 삼성그룹은 전통적인 한국적 회사공동체이다. 즉 삼성그룹은 한편으로는 유교 적인 가족적 회사공동체이면서, 다른 한편으로는 회사 내외적으로 경쟁체제를 갖 춘 합리경영체제의 공동체인 것이다. 삼성공동체의 종업원은 삼성맨(Samsung Man) 으로서 회장을 중심으로 가족적인 유대를 강하게 가지는 한편, 대외적으로는 격렬한 경쟁을 하면서 합리경영을 하고 있는 회사공동체인 것이다. 삼성그룹은 국적이 없거나 애매한 소위 다국적기업 혹은 글로벌기업이 아니고, 한국적 社 風 을 가진 한국 국적의 회사공동체인 것이다. 본고에서 삼성그룹의 창 시자 湖 巖 李 秉 喆 을 중심으로 연구를 하려는 것은 湖 巖 이 삼성그룹을 한국적 회 사공동체로서 국적을 앞세운 세계적 기업이기 때문이다. 1. 湖 巖 의 사상 ( 생활신조 ) Ⅱ. 湖 巖 의 기업 활동 湖 巖 李 秉 喆 은 1910년 2월 12일 경산남도 의령군 정곡면 중교리에서 출생 하였 다. 그는 유교적 가정에서 출생하여 유교적 가풍에서 성장했다. 4) 그의 조부는 유 학자였고 그의 부친 역시 유학을 숭배하였다. 湖 巖 은 5세 때부터 5년간 그의 조 부가 설립한 文 山 亭 ( 서당) 에서 한학을 배웠다. 湖 巖 은 항상 논어를 좌우에 두고, 논어를 애독하였다고 한다. 湖 巖 은 회견장이나 교육장에서 논어를 자주 인용하고 있다. 湖 巖 自 傳 에는 道 義 는 天 倫 의 始 初, 孝 는 萬 徳 의 根 源, 事 必 帰 正 등의 논어에 관한 인용문이 많이 보인다. 5) 湖 巖 은 내 생각이나 생활은 논어의 세계에서 벗어 날수 없다 고 말하고 있다. 6) 논어를 생활신조로 하고 있 는 湖 巖 의 철학, 사상, 인생관, 경제관, 세계관은 유교사상이나 유교윤리에 뿌리를 두고 있는 것이다. 그는 유교적 사고의 소유자였던 것이다. 삼성그룹이 전통적인 가족적 회사공동체를 유지하고 있는 것은 삼성그룹의 창 4) 李 秉 喆, 湖 巖 自 傳, 1986, pp ) 同 上, p ) 同 上, p

21 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 업자 湖 巖 의 유교적 사고에 입각하고 있다. 삼성그룹의 임직원을 비롯한 모든 종 업원은 삼성가족으로서, 또는 삼성맨(Samsung Man) 으로서, 삼성공동체에 종사하 고 있는 것이다. 그들은 삼성그룹 발전의 초석이 되어 있으며 한국 제일의 삼성 그룹에 종사한다는 자부심을 갖고 있다. 湖 巖 은 유교적 사고 뿐만 아니라 근대적 합리주의 사고의 소유자이기도 하다. 그의 사고가 유교에 뿌리를 두고 있다고 하더라도 그의 현실생활 특히 기업경영 의 활동에 있어서는 근대적 합리적 사고가 그의 생활신조로서 견지 되어 있다. 湖 巖 의 근대적 합리주의 사고는 그가 수학을 한 근대적 교육의 영향이 크다. 湖 巖 은 12 세 때부터 진주의 지수보통학교 ( 소학교), 서울의 수송보통학교, 7) 중동중 학교 그리고 일본 동경의 와세다대학 ( 早 稲 田 大 学 ) 에서 수학을 하였다. 그는 졸업 을 한 학교는 없으나 근대적 교육을 받은 소위 인텔리계급에 속하는 인물이며 (< 표 1> 참조), 기업경영에 있어서 합리추구를 강조하고 있는 것도 근대교육의 영향이다. 년도 학력 경력 수상 1910년 2월 12일 慶 南 宜 寧 郡 正 谷 面 中 橋 里 723番 地 에서 출생 1915년-1920년 祖 父 가 설립한 文 山 亭 ( 書 堂 ) 에서 漢 學 수학 1922년 4월 진주의 智 水 普 通 學 校 3학년 편입 1922년 9월 서울 壽 松 普 通 學 校 3학년에 편입 1923년 서울 中 東 中 學 校 입학(4학년 1 학기 중퇴) 1930년 4월 1938년 3월 三 星 商 會 설립 동경 早 稻 田 大 學 전문부 정경과 입학 (3학년 2 학기 때 脚 氣 병으로 중퇴하고 귀국) 1951년 1월 三 星 物 産 株 式 會 社 사장 1961년 8월 韓 國 經 濟 人 協 會 회장 1965년 4월 三 星 文 化 財 團 이사장 1968년 4월 中 央 日 報 회장 < 표 1> 湖 巖 李 秉 喆 약력 1982년 4월 미국 보스턴 대학에서 명예경영학박사 학위 수여 1979년 4월 미국의 맵슨대학 세계 최고 경영자상 수상 1969년 정부 급탑산업훈장 수상 1987년 정부 무궁화장 추서 1987년 일본 정부 勳 一 等 瑞 宝 章 추서 7) 李 秉 喆 의 석차는 50명 중 35등 내지 40등을 오르내렸으나 산수는 항상 학급 에서 상위여서 자신이 있었다고 한다( 湖 巖 自 傳, p. 8). 28

22 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 삼성그룹은 동양의 유교윤리와 서양의 합리주의라는 두 개의 기둥을 축 으로 기업을 경영하고 있는 것이다. 이상에서 본바와 같이 湖 巖 은 전통적 유교적 사고에 근대적인 합리적 사고를 접목하여 현실생활을 영위하고 있는 것이다. 삼성그룹은 가족주의 적 회사공동체이면서 합리적으로 기업경영을 행함으로써 한국 재계정상의 기업으로 성장하였고, 나아가 세계의 주목을 받고 있는 대기업으로 성장 하고 있다. 또한 삼성그룹은 한국적 기업풍토를 유지하면서 세계의 기업 으로 성장한 한국을 빛내고 있는 기업인 동시에 한국국적을 자랑하는 거 대한 회사공동체인 것이다. 그것은 국적이 없거나 국적이 애매한 소위 다 국적 기업이나, 글로벌기업과는 다른 것이다. 2. 기업동기 湖 巖 은 26세 때 어느 날 밤 귀가하여 창문에 비치는 달빛을 통하여 세 아이가 잠자고 있는 얼굴을 보는 순간, 심기일전하여 그 때까지의 무위도 식( 無 爲 徒 食 ) 의 생활을 끝내고 사업을 하기로 결심하였다고 한다. 8) 그리 하여 湖 巖 은 자기의 적성에 맞고, 자기가 가장하고 싶고, 또 할 수가 있다 고 생각 한 것이 사업이었다고 한다. 그는 독립운동가가 되는 길, 관리가 되는 길도 있지만은 그것은 자기의 적성에 맞지 않는다고 생각 했다고 한 다. 湖 巖 이 사업보국이라는 기업동기를 가지고 사업을 본격적으로 시작한 것은 1945년 8ㆍ15 해방 이후이다. 湖 巖 은 8ㆍ15해방으로 나라가 독립을 찾은 후 그의 생각에 큰 변화가 일어났다고 한다. 그는 일제시대에 나라 잃은 설움 9) 과 6ㆍ25동란으로 공산군 지배 하에서 겪은 설움이 그로 하여 금 국가는 강하고 부유한 나라( 富 國 ) 가 되어야 한다는 생각을 갖게 하였 8) 湖 巖 自 傳, p ) 湖 巖 은 도일 도중 부관연락선에서 동향인 안호상 박사와 함께 배멀미가 심해 서 일등실로 자리를 옮기려고 할 때 일본인 형사에게 모욕을 당했다. 일인 형 사는 너희들 조선인이 무슨 돈으로 일등실을 기웃거리느냐, 건방지다 고 하며 일등실 입실을 저지하였다. 多 感 한 청년 湖 巖 은 그 때 나라가 망했다는 사실의 참뜻을 처음으로 실감했다고 한다. 후년 그가 사업에 몰두하게 된 것은 식민지 지배하에 놓인 민족의 분노를 가슴깊이 새겨두게 했던 그 부관연락선상의 사건 이 있었기 때문이라고 술회하고 있다( 湖 巖 自 傳, p. 14). 29

23 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 다고 한다. 그리하여 기업을 설립하여 국가와 국민에게 봉사해야겠다는 생각을 굳히고 사업보국이라는 이념을 기업동기로 하여, 매진하게 되었던 것이다. 기업의 설립에 湖 巖 은 6ㆍ25 때 정부 말만 믿고 서울에 머무르고 있다가 공산군에게 서 울이 점령 되자 숨어서 살았는데 이때 나라 없는 설움을 뼈저리게 느꼈다 고 한다. 그리하여 그는 사업보국의 이념을 갖게 된 것이다. 또한 그는 이 승만 대통령을 만났을 때, 이승만 대통령의 확고한 국가 건설의 신념을 듣고 사업보국에 대한 신념을 더욱 굳혔다고 한다. 湖 巖 은 사업보국을 기업동기로 갖게 됨에 따라서 경영이념을 형성하게 되었다. 즉 그는 경영이념으로 사업보국ㆍ 인재제일ㆍ 합리추구 를 결 정하였다. 그의 경영이념은 삼성 全 종업원이 공감하고, 공유하는 이념이 된 것이다. 그의 경영이념에 따라 1950년대 이후 삼성은 급속하게 발전해 나갔다. 3. 산업발전단계설과 기업현황 湖 巖 은 자신의 산업발전단계설에 입각하여 삼성의 여러 계열기업을 단 계적으로 설립ㆍ육성하였다. 그는 한나라의 기업은 생필품 등 소비재생산 을 하는 경공업단계에서 중공업단계로 이행하고 그 다음에는 중화학공업 단계로 이행한다고 보았다. 10) 그리고 그 다음단계는 첨단기술산업으로 이행할 것으로 내다본 것이다. 그가 1950년대의 삼성물산공사의 종합무역업에서 생필품 등 소비재생산 을 하는 경공업인 제일제당 과 제일모직의 설립 쪽으로 사업전환을 한 것 은 그의 산업발전단계설에 따른 것이었다. 그리고 1960 년대의 중공업, 1970년대의 중화학공업으로의 진출 역시 산업발전단계설에 따른 것이라고 할 수 있다. 1980년대에는 미국을 시찰 하는 등 세계정세를 분석하는 가 운데서 당시의 미래첨단산업은 반도체산업이라는 것을 알게 되어 반도체 산업에 뛰어들게 되었다고 한다. 湖 巖 이 산업발전단계에 따라 기업을 설립하고 발전시켰다고 하더라도, 10) 조기준, 湖 巖 의 삶의 철학과 기업의 역정, 경영사학 제 15 집, 1997년 11 월, p

24 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 그는 아무 산업이나 선택한 것이 아니다. 50년대의 한국사회가 요구하는 산업이 설탕이나 양복 등 생필품이었기 때문에 그는 제일제당과 제일모직 을 설립하였던 것이다. 제일제당과 제일모직은 그 당시의 선도산업이었다. 그는 누구보다도 앞서서 시대가 요구하는 새 산업을 선택하여 기업을 설 립하여 경제발전의 경인역할을 하게 하였다. 그가 설립한 60년대의 중공 업, 70년대의 중화학공업 및 80년대의 반도체산업은 그 당시의 선도산업 으로서 한국 경제발전의 견인차 역할을 한 것이다. 지금 반도체 산업에 대한 湖 巖 의 노력의 일단을 소개하면 다음과 같다. 1982년에 21 년 만에 미국을 방문하여, 앞으로는 반도체산업이 세계의 주 도산업이 된다고 믿게 된 湖 巖 은 귀국 후 반도체 산업에 착수하게 된다. 그리하여 그는 1983년 10 월에 삼성전자 내에 반도체, 컴퓨터사업팀을 조 직하고, 다음 해인 1984년 3월에는 중앙일보 매스컴에 이 사업을 광고하 였다. 또한 수원 기흥단지 내에 내외자 1,000억원을 투입하여 공장 건설에 착수했다. 1984년 5 월에는 삼성반도체, 통신기 및 VLSI 공장을 준공했 다. 11) 12) 이렇게 하여 설립된 삼성반도체통신 기흥공장에서 가동과 더불어 64 KD램이 제1 라인에서 생산되기 시작했고, 1985년 5월에는 다시 1,900억원 을 투입하여 256 KD램을 주축으로 하는 제2 라인을 준공시켰다. 이 256 KD 램은 삼성반도체 자체 내에서 독자적으로 개발해 낸 것이다( 삼성반도 체산업추진관계에 대해서는 < 표2 > 를 참조 바람). 삼성의 반도체 분야에서의 급속한 발전에는 세계업계에서도 한국의 기 적이라고 하면서 경악하였다고 한다. 삼성의 반도체 생산에서의 성공은 湖 巖 의 제일에 대한 집념과 불굴의 정신의 소산인 것이다. 12) 사실 반도체 산업은 한국경제 뿐만 아니라 세계경제를 선도하는 최첨단산업이었던 것 이다. 11) 반도체 생산의 기술은 미국 마이크론과 일본의 샤프 것을 중심으로 도입했다. 한편 이 사업에서는 미국에서 연구하고 이 분야에 재직하고 있던 여러 우수한 한국인 전문가들의 협력을 얻었다고 한다. 그 뿐만 아니라 湖 巖 은 1983년 7월 에 미국 산타클라라에 현지법인을 설립하고 여기서 반도체의 기술인 연수를 맡 기기로 했다. 또한 미국 현지 법인 외에 국내에도 개발연구소를 두고 기술인력 의 계속적인 연구를 도모했다( 조기준, 상게서, p. 13). 12) 同 上, p

25 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 일자 주요내용 일자 주요내용 한국반도체 ( 주) 인수 반도체 전문가로 자문단 구성 동경정보센타 출범 ~ ~ 기흥공장 2라인 착공 및 준공 연구소 메가라인 착공 및 준공 달라스 지방법원에 모스텍 제소 ~ 및 협상 타결 VLSI사업 계획 확정 TI사의 특허 침해 소송 제기 미국현지 법인 설립 마이크론사의 아이다호 지방법원에 제소 및 협상타결 K D램 개발 성공 K D램 양산 개시 ~ 기흥공장 1라인 착공 및 준공 K D램 수출 개시 ~ 국내 연구소에서 1M D램개발 성공 미국 현지법인 시작라인 착공 및 준공 K D램 개발 성공 기흥공장 3라인 착공 ~ < 표 2> 삼성반도체 사업 추진 약사 부천공장 C라인 착공 및 준공 M D램 양산 개시 자료 : 삼성경제연구소 편, 湖 巖 의 經 營 哲 學, 중앙일보사, 1989, p 년대까지 湖 巖 이 설립 내지 인수합병한 기업은 < 표 3 > 과 같다. 이 표에서 보이듯이 湖 巖 은 소비재산업, 제조업, 금융업, 반도체 등의 첨 단산업에 이르기까지 광범위하게 그 시대가 요구하는 산업을 개발ㆍ개척 하였다. 그것은 이미 언급한 대로 그의 산업발전단계설과 관련이 있는 것 이다. 32

26 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 < 표 3 > 삼성그룹 ( 湖 巖 ) 의 주요사업 (1936 ~ 1985) 창립연도 회사명 업종 비고 협동정미소 곡물도정 일출자동차 자동차 트럭 10대 인수하여 사업시작 주식회사 삼성상회 무역, 제분, 제면업 청과물, 건어물 중국 수출 1939 조선양조주식회사 양조 해산 주식회사 삼성물산공사 무역업 삼성물산주식회사 무역업 종합무역상사 지정 1953 제일제당 제당, 식품가공 1954 제일모직 제모, 제봉 1957 동방생명 생명보험업 동양화재, 동화백화점 과 함께 인수 1958 안국화재해상보험 손해보험 중앙개발 지하수개발, 관광 동화부동산 인수 ( 주) 신세계 백화점 동화백화점 인수 1964 한국비료공업주식회사 비료생산 정부 헌납 중앙일보주식회사 신문잡지 전주제지 제지, 신문제지 세한제지 인수 고려병원 종합병원 삼성전자 전기제품, 전자 1970 삼성전관 전관(TV 용 브라운관 ) 1970 코리아엔지니어링 엔지니어링 제일합섬 폴리에스텔 합섬 제일모직에서 분리 1973 삼성전자부품 전자부품 삼성코닝주식회사 전자브라운관용밸브 코닝사와 합작 1973 ( 주) 호텔신라 호텔 관광 제일기획 광고 삼성석유화학 PTA, 석유화학 외국사와 합작 삼성중공업 중공업, 발전설비 일본IHI 와 합작 1977 삼성반도체 전자교환기, 반도체 한국반도체 인수 삼성정밀공업 항공기엔진, 정밀기계 방위사업체 1977 삼성종합건설 건설 통일건설 인수 삼성조선 조선 우진조선 인수 삼성시계 전자, 시계 삼성의료기기 의료기기 삼성유나이티드항공 항공 미국 UTC그룹과 합작으로 설립 삼성데이타시스템 정보통신 자료 : 三 星 五 十 年 史 ; 이한구, 韓 國 財 閥 史, 大 明 出 版 社, 2004, pp. 465~474 ; 金 柄 夏, 財 閥 의 形 成 과 企 業 活 動 -韓 國 財 閥 經 營 史 -, 한국능률협회, 1991, pp. 24~29 등에서 인용. 33

27 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 4. 경영스타일 삼성그룹이 한국재계의 정상을 차지하게 된 것은 창업자 湖 巖 李 秉 喆 의 강력한 리더십과 제일주의 의 신념에 의한 것이다. 湖 巖 은 한국 제일 의 기업을 설립ㆍ 발전시키는 데 노력해 왔으며 제일이 아니면 만족하지 않았다. 湖 巖 은 사업보국의 이념 아래 제일주의에 입각하여 기업을 설립 ㆍ발전시키기 위하여 평생 기업경영의 외길을 걸어 온 것이다. 湖 巖 은 제일에 대한 집념이 강하고, 자신감이 강하며, 先 見 観 이 뛰어난 경영자였다. 그의 강력한 리더십은 그의 제일에 대한 집념, 자신감, 선견 관을 토대로 실현되었던 것이다. 湖 巖 은 비서실과 사장단회의를 통하여 그의 리더십을 발휘하고 있다. 13) 비서실은 15팀 200 여명의 엘리트사원으로 구성되어 있다. 14) 비서실에서 는 국내외의 각종 정보를 수집 분석하고 또 각 계열사의 문제점 등을 분 석하여 湖 巖 에게 보고하게 된다. 湖 巖 은 비서실의 보고를 받아, 이를 검토 한 후 각 계열사의 사장단이나 관계임직원에게 지시를 내린다. 15) 비서실 은 단순히 湖 巖 에게 각종 정보를 제공하고 湖 巖 의 지시를 전달하는 기관 에 지나지 않는다는 견해도 있지마는 湖 巖 의 지시는 信 賞 必 罰 의 원칙이 적용되기 때문에 가볍게 넘길 수 없는 것이었다. 湖 巖 은 비서실이 공전 하면 그룹전체가 공전한다 고까지 말했다. 16) 비서실의 요청은 아무리 정 중하게 나타나도 곧 湖 巖 의 명령으로 받아들여져 각 임직원에게는 만사를 제쳐 놓고 우선 처리할 만큼 비중이 높았다. 삼성의 계열사의 사장단 회의는 20 명의 사장들에 의하여 구성되며, 보 13) 황명수, 한국기업가사연구, 필산 황명수교수 정년퇴임행사준비위원회 발행, 1998, pp 참조. 14) 삼성비서실은 1956 년에 우리나라에서는 처음 설치되었다. 1968년 1월에는 럭 키그룹이 기획조정실 을 설치했으며, 60년대 후반에서 70년대에 걸쳐 각 재 벌들이 종합기획실 ( 현대), 종합조정실 ( 쌍용, 효성) 등의 명칭으로 비서실을 설치하고 있다. 삼성비서실은 비서실장을 축으로 15개팀 200여명의 정예요원 으로 구성되어 있다. 15) 삼성비서실이 작성하는 리포트는 바로 그룹내 각 사의 사장단에게 전달돼 새 로운 지식을 흡수시킨다, 또 이 회장 스스로가 많은 양의 리포트 등을 읽으 며 전문가들을 초청해 이야기를 듣는다, 이와 같이 湖 巖 은 비서실을 폭넓게 활용하였다( 이코노미스트, , p. 21). 16) 황명수, 상게서, p

28 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 통 월2 회 회의가 개최되지만 湖 巖 은 보통 연말에 개최되는 회의에 참석한 다. 湖 巖 은 각 사장단의 보고를 들은 후 논평을 하여 업적이 우수한 사장 에게는 칭찬 을 하고, 업적이 부진한 사장에게는 질책 을 한다고 한 다. 17) 경우에 따라서는 다음해 2 월의 인사발령 때 해임하기도 한다. 湖 巖 은 엄격하게 신상필벌을 적용하였다.(< 그림 1> 참조). < 그림 1 > 삼성그룹 조직 ( 약도 ) 그룹회장 회장비서실 (인원 15개팀, 약 200명) 그룹사장단회의 (연 2회) 그룹사장단회의 (월 2회, 사장급 약 40명) 전 자 계 열 중 공 업 계 열 금 융 서 비 스 계 열 화 학 계 열 무 역 계 열 제 조 계 열 사장 사장 사장 사장 사장 사장 자료 : 小 玉 敏 彦, 韓 國 工 業 化 と企 業 集 團 - 韓 國 企 業 の社 會 的 特 質, 學 文 社, 1995, p. 139에서 인용 17) 사장단회의 때의 브리핑시간은 대개 한 회사당 10분 정도로서 각 사의 중점사 항만 요약해 보고되며, 이에 대한 강평이 내려진다. 1984년 회의에서는 비교적 평온했고, 반도체 부분에서 특히 칭찬 이 있었다고 한다( 이코노미스트, , p. 21) 35

29 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 위와 같이 제) 하였다. 湖 巖 은 비서실과 사장단회의를 통하여 삼성그룹을 컨트롤( 통 湖 巖 은 소위 동경구상 을 사장단에게 전달( 지시) 하기도 한다. 18) 동경 구상이란 湖 巖 이 연말에 일본 동경에 체류하여 그 곳 매스컴 등을 통하여 정보를 수집 분석하여 다음 해의 경영방향을 구상하는 것을 말한다. 그는 동경구상을 사장단에게 전하거나 또는 직접 관계임원에게 전하기도 한다. 湖 巖 의 전달은 바로 지시와 같은 것이기 때문에 곧 실행되는 것이다. 湖 巖 은 일단 지시를 내린 후에는 모든 책임을 관련 임원( 사장단) 에게 맡 긴다. 湖 巖 은 완전 책임경영제를 실시하고 있으며, 결제 같은 것도 한 일 이 없다고 한다. 사장단의 실적에 대하여 湖 巖 은 비정하다고 들을 정도로 신상필벌을 엄격하게 적용하였다. 湖 巖 의 경영스타일은 비서실이나 사장 단회의를 통한 경영실적의 평가, 경영방침의 전달( 지시) 및 사장단의 책임 경영과 신상필벌의 엄격한 적용이라고 할 수 있는 것이다. 19) 5. 시련의 극복 湖 巖 은 기업경영에 있어서 많은 시련과 역경을 극복하면서 재계의 정상 에 오른 것이다. 湖 巖 은, 자기의 역사는 시련과 변신의 역사라고 말하고 있다. 湖 巖 은 일제시대에는 조선식산은행에서 借 金 하여 토지사업에 투자를 하 였다가 실패를 하였다. 1937년 7월 중일전쟁이 발발하자 조선총독부의 경 제통제령( 임시자금조정법) 이 내려지고, 그 결과 조선식산은행등 금융기관 들의 대출자금 회수가 강행되었다. 湖 巖 은 조선식산은행에서 빌린 돈을 갑자기, 강제적으로 회수당하게 되었고, 설상가상으로 토지 값은 급락하여 파산하게 되었다. 湖 巖 은 협동정미소, 일출자동차회사 등 모든 재산을 처 분하여 은행 빚을 갚고, 토지도 헐값으로 처분하였으며, 결국 그는 도산하 고 말았다. 20) 湖 巖 은 토지 투기에서 많은 돈을 벌었으나 은행의 강제 차금회수로 일시 18) 湖 巖 은 연말에는 동경에 가서 동경구상 뿐만 아니라 때로는 신간서적을 구입 하여 각 임원에게 보내고, 또 그 책을 읽었는지를 확인하기도 하였다고 한다 ( 同 上, p. 151). 19) 사장단회의는 閣 僚 會 議, 御 前 會 議 로 비유되기도 한다( 조선일보 경제부, 한국재벌 25시 제5 장 三 星 グルー プ 李 秉 喆, 1985, p. 154( 日 譯 版 ) 20) 湖 巖 自 傳, p

30 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 에 도산한 것이다. 그는 이 때의 쓰라린 경험으로 다시는 투기나 요령으 로 또는 부정한 행위로 사업을 하지 않겠다고 자신에게 다짐하게 되었 다. 21) 그가 재기하는 것은 1945년의 8ㆍ15 해방이후이다. 1961년의 5ㆍ16군사정부에 의하여 湖 巖 李 秉 喆 은 부정축재자 제 1호로 지명수배를 받았는데, 그 때 그는 동경에 머물고 있었기 때문에 당장 체 포되지는 않았으나 얼마 후에 귀국하여 군사정부에 전재산을 헌납한다는 각서를 쓰기도 하였다. 그러나 그는 정부의 경제개발개혁에 참여하고, 벌 금은 사업을 하면서 갚는 것을 조건으로 풀려났다. 그는 벌금을 갚음으로 써 부정축재의 문제는 해결되었다. 그와 동시에 그가 소유하고 있던 은행 주식(1958년 상업은행주식 33% 소유. 1959년 조흥은행주식 55% 소유) 은 모두 국가에 헌납하였다 녀대에 湖 巖 은 정부의 요청에 의해 한국비료공업주식회사를 설립하 였는데, 그 공사과정에서 소위 한비사건이라고 불리는 사카린(OTSA) 밀 수사건이 발생하였는데, 일단 이 사건은 사카린의 압수와 벌금으로 해결 을 본 듯하였으나, 정치권과 시민의 비난이 거세여 결국 한국비료주식회 사를 정부에 헌납함으로써 해결되었다. 정부헌납도 강제로 공장을 완공하 여 헌납하라는 정부의 명령에 따라 공장을 완공하여 헌납하였다. 그는 한 비사건으로 한 때 회사를 떠나기도 하였다. 위에서 논한바와 같이 湖 巖 은 일제시대의 토지사업의 실패, 박정희 군 사정부에 의한 부정축재자 지명에 의한 벌금형과 소유금융기관의 전주식 헌납, 한국비료공장의 헌납 등 뼈아픈 시련을 경험하였던 것이다. 湖 巖 은 이러한 시련을 극복하고, 또 그 시련을 거울삼아 正 道 의 길을 걷게 되었 다고 한다. 그는 요령이나 부정한 거래나 부실한 경영은 실패하고 만다는 교훈을 삼성인에게 주지시키고 있는 것이다. 6. 사회적 책임 사회적 책임은 기업이윤의 사회환원을 의미한다. 湖 巖 은 기업의 사회적 책임의 일환인 사회문화사업으로 1965년 2월 4일에 삼성문화재단을 설립 하여 장학사업, 육영사업, 문화복지사업, 도의문화진흥사업 등을 실시하고 21) 그는 이 때 실패하지 않았더라면 엉뚱한 길로 나갔을 것이다. 지금의 길에는 도달하지 않았을 것이다" 고 했다( 矢 島 鈞 次, 韓 國 經 濟 の挑 戰 -三 星 企 業 集 團 にみ るそのエネルギ- の秘 密, 日 本 經 濟 通 信 社, 1977 年, pp ). 37

31 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 있다. 22) 장학사업으로는 삼성장학회 설립, 육영사업으로는 대구대학교 인수( 후 에 박정희 대통령에게 양도), 성균관대학교 인수 등을 하였고, 문화복지사 업으로는 삼성공제회의 설립, 湖 巖 미술관의 설립, 학술ㆍ문화재단지원 등 을 행하고 있다. 23) 도의문화진흥사업으로는 도의문화제작상, 소설상, 논문상( 희곡상), 효도 상, 도의문화영화제작, 삼성문고발간 등을 전개하고 있다. 이 외에도 湖 巖 은 용인자연농원( 현 에버랜드 유원지) 을 개장하여, 어린 이들의 유원지로서, 레크레이션 場 으로서 활용하고 있다. 위의 사회문화사업은 삼성그룹의 사회적 책임의 일환으로 실행되고 있 는 것이다. 湖 巖 이 운영하는 삼성그룹은, 고객을 위하여 고품질의 제품을 생산하여 판매하고, 종업원에게는 높은 임금을 지급하며, 주주에게는 높은 배당을 하며, 국가에 대해서는 많은 세금을 납부하고 있는 것이다. 이와 같이 사 회적 책임의 대상인 고객, 종업원, 주주 및 국가에 대하여 삼성그룹은 사 회적 책임을 실행하고 있는 것이다. Ⅲ. 경영이념 湖 巖 의 경영이념이 成 文 化 된 것은 1973 년이다. 즉 사업보국ㆍ인재제일 ㆍ 합리추구 의 세 가지 항목으로 되어 있는 湖 巖 의 경영이념이 성문화 된 것은 1973 년에 수립된 제2차 삼성경영 5 개년계획 에서이다. 그러나 湖 巖 의 경영이념은 삼성의 창업 때부터 삼성의 기업활동에 내재, 전승되 어 온 기업정신을 단지 요약, 공식화 시켰을 뿐인 것이다. 24) 22) 삼성비서실, 三 星 五 十 年 史, 1988, p ) 湖 巖 은 1970년 국보 133 호로 지정된 청자진사연화문표형주자( 靑 磁 辰 砂 蓮 華 文 瓢 形 注 子 ) 를 일본에서 3,500 만원에 구입하여 국내에 가지고 왔다. 일본에 밀반 출된 것을 비싼 값으로 구입하여 국내에 들여왔던 것이다. 또 국내 유일의 고 려불화였던 국보 218 호인 아미타삼존도 ( 阿 彌 陀 三 尊 圖 ) 를 수집하였다. 湖 巖 이 1976~1981 년간에 구입한 미술품은 토기, 청자, 분청백자, 금속공예품 및 고서 화 등 고미술품 977 점, 한국화, 양화, 조각 등 근현대미술품 379점 등 모두 1,356 점이었으며, 그 구입금액은 부대경비를 포함하여 15억원에 달하였다고 한다( 三 星 五 十 年 史, pp. 238~250). 이러한 고미술품이나 현대미술품을 대량 구입하여 전시하고 있다. 38

32 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 다시 말해서 8ㆍ15 해방 후의 湖 巖 의 기업 동기는 사업보국이었으며, 그 의 경영이념은 사업보국, 인재제일, 합리추구였다. 湖 巖 은 그의 경영이념 에 입각하여 삼성그룹 산하의 각종 기업을 설립해 왔던 것이다. 삼성그룹 은 湖 巖 의 경영이념에 입각하여 기업을 성장시키고, 기업성장을 토대로 하여 고용을 확대하고 생산의 증진을 꾀함으로써 국민경제의 발전에 이바 지해 온 것이다. 湖 巖 의 경영이념은 삼성그룹의 이념으로서 기업경영의 지침이 되었으 며, 그것은 삼성맨이 공감하는 삼성정신이 되어 삼성그룹의 정신적 支 柱 가 되어 있는 것이다. 한편 1984 년에는 삼성정신이 정립되었는데, 이것은 삼성그룹의 경영이 념을 일상생활 속에서 실천해 나가기 위해 좀 더 구체적이고 명백하게 제 시된 삼성인의 생활 지표이다. 삼성정신은 삼성그룹이라는 집단속에서 오 랫동안 공동생활을 영위해 오는 동안에 쌓여 온 정신을 社 風 관리 차원에 서 정리한 것으로서, 1984년에 그룹관계사의 임원 및 부장의 중지를 모으 고 그룹 全 임원 세미나를 거쳐 삼성정신으로 정립된 것이다. 25) 다시 말해서 삼성정신은 성문화되기 이전인 삼성그룹의 창업 때부터 삼 성의 경영이념과 함께 지켜져 왔던 것이다. 즉 삼성정신은 경영이념의 실 천이념으로서 삼성맨의 정신적 支 柱 가 되어 있다. 따라서 경영이념에는 삼성정신까지 포함하게 되는 것이다. 한편 경영이념은 사훈, 社 是, 좌우명, 26) 생활신조, 경영철학, 창업이념, 경영정신 등 여러 가지 형태로 표시될 수 있으며, 그것이 明 示 되고 실천 되었을 때 경영이념이라고 규정할 수 있는 것이다. 이러한 개념에 따르면 삼성의 경영이념은 삼성정신까지 포함 된다고 할 수 있다. 삼성( 湖 巖 ) 의 경영이념은 사업보국ㆍ 인재제일ㆍ 합리추구 와 삼성 정신인 창조정신ㆍ도덕정신ㆍ 제일주의ㆍ 완전주의ㆍ 공존공영( 정신) 까지 포함 된다고 할 수 있다. 이와 같이 湖 巖 의 경영이념은 확대 해석되 어 있다. 이는 경영이념은 기업환경의 변화에 따라 확대 및 변천하는 것 을 의미 하고 있는 것이다. 경영이념(Management Ideology, Business Ideology) 은 기업가의 철학 24) 三 星 五 十 年 史, p ) 삼성인의 상식 200, 1992, p ) 1971 년 李 秉 喆 회장은 좌우명으로 다음과 같이 말하고 있다. 목적있는 생활 : 사업보국의 정신 : 잘못을 시정하는 용기 양심대로 행동하는 용기 가 그것이 다( 한국생산성본부 편, 사장100 인좌우명, 1971, p

33 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) (Managemen Philosophy) 이나 경영신조(Management Creed, Business Creed) 가 기업의 이념으로 明 示 될 때 이를 경영이념이라고 하며 경영이 념은 기업환경의 변화에 따라 변화 내지 확대 되는 이른바 미래지향적인 것이다. 27) 경영이념은 사훈, 社 是, 좌우명, 생활신조, 창업이념, 경영정신 등 여러 가지 형태로 표시되지만 그것이 경영이념으로서 공인받기 위해서는 명확 하게 明 示 되어야한다. 경영이념은 명시될 뿐만 아니라 실천으로 옮겨져서 실행되었을 때 사회적 평가를 받을 수 있게 되는 것이다. 경영이념은 기업이 공유하고 추구하고자하는 가치나 신념체계이며 임직 원의 의사결정 및 행동양식의 기준이 되는 것이다. 경영이념은 구성원들 이 공유하고 있는 핵심가치로서 구성원들의 생각과 회사의 특징을 집약하 고 있다. 그러므로 경영이념은 구호가 아니라 실제의 의사결정과 경영행 동의 기준이 되어야 하고 개인적인 실천의 나침반이 되어야 하는 것이다. 앞서 본 바와 같이 湖 巖 李 秉 喆 의 경영이념은 창업기의 사업보국ㆍ인재 제일ㆍ합리추구에서 점차 삼성정신인 창조정신ㆍ도덕정신ㆍ제일주의ㆍ완 전주의ㆍ공영공존정신으로 확대 해석되어 있는 것이다. 더욱 湖 巖 의 경영 이념인 사업보국은 삼성그룹의 社 訓 이 되어 있다. 삼성그룹의 경영 이념 은 삼성인이 공유해 왔으며, 삼성인의 의사결정과 경영행동의 기준이 되 어 있다. 또한 그 경영이념은 삼성인의 나침반 같은 것이기도 하다. 1. 사업보국 삼성그룹의 경영이념은 창업자 李 秉 喆 회장의 경영철학을 요약 정리한 것으로 사업보국, 인재제일, 합리추구의 세 가지 항목으로 되어 있으며, 그것은 8ㆍ15 해방이후에 형성되었다. 28) 湖 巖 은 8ㆍ15 해방 전까지는 사업이 자기의 적성에 맞고, 자기가 하고 싶은 일이 사업이었기 때문에 특별한 이념 없이 사업을 하였으나, 8ㆍ15 해방 후에는 사업을 일으켜 국가와 민족에게 보답한다는 신념으로 사업에 종사하게 되었다. 즉 8ㆍ15 해방 이후의 湖 巖 의 기업동기는 사업보국이었 27) 渡 辺 喜 七, 經 營 理 念 の源 流 -18 世 紀 のアメリカと日 本, 經 營 史 學, Vol. 25, No. 4, 東 京 大 學 出 版 會, 1991, pp. 2~ 3 참조) : 間 宏, 日 本 における産 業 化 初 期 の經 營 理 念, 經 營 史 學, Vol. 25, No. 2, 東 京 大 學 出 版 會, 1990, pp. 4~5 참조. 28) 湖 巖 自 傳, p

34 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 던 것이다. 湖 巖 은 기업을 성장시켜 고용을 확대시키고, 경제생활을 안정 시킴으로써 국가와 민족에게 보답하는 것이 사업보국이며, 기업동기라고 보았다. 29) 그것이 그의 湖 巖 은 기업을 도산시키는 것은 罪 悪 이라고 까지 말하고 있다. 湖 巖 이 富 国 을 이룩하기 위해 사업에 매진한 것은 사업보국의 신념 때문이며, 나 아가서 선진 외국과 당당히 맞서서 이길 수 있는 새로운 기업을 개척하려 는 노력도 사업보국의 신념 때문이라는 것이다. 30) 湖 巖 은 사업보국의 경영이념에 입각하여 삼성물산, 제일제당, 제일모직, 한국비료, 삼성전자, 삼성중공업, 삼성정공, 삼성선박, 삼성석유, 삼성반도 체 등을 설립하였던 것이다. 2. 인재제일 인재제일도 湖 巖 이 강조하는 이념이다. 인재제일은 유능한 인재를 확보 하여 기업을 발전시키려는 것이다. 湖 巖 은 기업은 사람이다 라고 말하 고 있다. 31) 또한 그는 나는 일생을 통해서 한 80% 는 인재를 모우고, 기 르고, 교육시키는데 보낸 것 같다 고 회고하고 있다. 32) 이러한 말들은 그 가 인재확보를 얼마나 중요하게 생각하는 가를 시사하고 있는 것이다. 사실 湖 巖 은 用 人 의 達 人 이라는 評 도 받고 있다. 湖 巖 은 疑 人 勿 用 用 人 勿 疑 즉 의심이 가거든 고용하지 말고 일단 고용하면 의심하지 말고 일을 맡기는 것이 그의 용인 철학이다. 33) 그는 인재양성을 위하여 1977년 에 국내 최초로 연수원을 건립했다. 이것이 오늘날의 三 星 綜 合 研 修 院 (1982년 6월 24 일 개원) 이다. 34) 湖 巖 이 양성하여 배출한 인재가 유능한 사원으로서, 전문경영인(CEO) 으로서 활동하고 있다고 그가 자랑하는 것 도 과장된 말 아니다. 29) 사업보국이면의 실천은 국가, 국민 그리고 인류에 봉사하는 것이며, 기업의 사 회적 봉사는 세금, 임금, 배당을 통해 국가운영의 기초를 튼튼히 하면서 기업자 체를 유지 발전시킴으로서 국가, 국민 그리고 인류에 봉사하는 것이다( 삼성정 보센터, 삼성인의 상식 200, pp. 3~4) 즉 기업의 발전과 기업의 사회봉사 ( 기업이윤의 사회환원 등) 가 사업보국의 실천이념이라는 것이다. 30) 삼성비서실, 繁 榮 과 福 利 에의 염원-李 秉 喆 회장 經 營 語 錄 集 2, p ) 이원수, 李 秉 喆 - 사상과 철학, 경영아카데미, 1978, p ) 三 星 五 十 年 史, p ) 湖 巖 의 經 營 哲 學, p ) 三 星 五 十 年 史, p

35 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 湖 巖 은 1957 년에 우리나라 기업으로서는 최초로 사원공채를 하였는데, 이 때 공채된 제1기생 27명 중 5명이 전문경영인으로서 삼성계열의 사장 직까지 승진한 바 있다. 35) 湖 巖 은 기업이 성장하기 위해서는 먼저 사람부터 키워야한다면서 1년 의 計 는 곡물을 심는데 있고, 10 년의 計 는 나무를 심는데 있으며, 100년의 計 는 사람을 심는데 있다 36) 고 말하고 있다. 이 말은 인재육성의 중요성 을 나타내는 것이다. 湖 巖 이 기대하는 인재상은 창의적이고 적극적이며 성실한 성품을 갖춘 삼성인 37) 이라고 할 수 있다. 湖 巖 은 기업가는 인재육성에 온갖 정성을 쏟아야 한다. 인재양성에 대한 기업가의 기대와 정성이 사원 한 사람 한 사람의 마음에 전달되고 있는 한 그 기업은 무한한 번영의 길을 걸어갈 것이다 38) 라고 인재육성 에 대한 기업인의 책무를 강조하고 있다. 湖 巖 은 채용자에 대해서는 책임경영과 공정인사 및 교육강화를 통하여 기업의 성장과 경영이념의 실천에 충실한 사람이 되도록 배려를 해 왔다. 그러나 湖 巖 은 사내의 기강확립을 위하여 인사에는 신상필벌 의 원칙 을 엄격히 적용하고 있는 것이다. 3. 합리추구 합리추구는 창조적인 기술 개발과 함께 기업이 국내 뿐만 아니라 국제 사회에서 경쟁에 이기기 위한 필수조건이다. 湖 巖 이 기업경영에 성공한 것은 기업을 합리적으로 운영하였기 때문이다. 기업이 경쟁에 이기는 길은 합리화를 통하여 원가 절감으로 값 싸고 질이 좋은 물건을 생산 하 는데 있습니다. 따라서 끊임없이 선진제도를 도입하고 기술을 개발해서 경영쇄신을 이루어가야 한다 39) 고 湖 巖 은 말하고 있다. 합리추구는 모든 일을 함에 있어서 합리를 바탕으로 끊임없는 발전을 추구해야 한다는 정신으로, 구체적으로는 경영효율 극대화와 합리적 의사 결정, 혈연ㆍ지연ㆍ학연 등 비합리적 관행추방, 깨끗하고 부정부패와 私 와 邪 가 없는 기업문화 등으로 나타난다. 40) 합리적으로 사업을 경영하기 위 35) 박동순, 한국재벌의 창업사상, 공평출판사, 1981, pp. 87~88. 36) 同 上, pp. 638~ ) 湖 巖 의 經 營 哲 學, p ) 三 星 五 十 年 史, p ) 삼성비서실, 번영과 복리에의 염원-李 秉 喆 회장 경영어록집 2, p

36 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 해서는 철처한 사업성 검토가 필요하다. 삼성이 일하는 방법은 여러 가 지 사업을 기획해 오면서 사업정세를 보고, 버릴 것은 버리고 시기, 기술, 자금, 인력, 시장 등이 갖추어지면 사업에 착수하는 것이다. 당장 사업을 확장할 필요가 있는가 없는가, 규모는 어떠한가, 세계시장은 어떠한가, 자 금관계는 어떠한가, 모든 분야에 걸쳐서 엄격하게 검토한 다음 사업에 착 수하고 있다 41) 고 湖 巖 은 말하고 있다. 이러한 말은 삼성에서는 합리추 구의 원칙에 입각하여 기업을 운영 해 온 것을 나타내고 있는 것이다. 의 이하에서는 창조정신, 도덕정신, 제일주의, 완정주의 및 공존공영( 정신) 5 개 항목으로 구성되어 있는 삼성정신, 42) 즉 경영이념의 실천이념에 대하여 논하기로 한다. 4. 창조정신 창조정신은 새로운 것을 탐구하고 개척하는 정신을 말한다. 창조정신으 로서 창조적 의욕과 책임감, 탐구정신과 불굴의 의지가 강조된다. 湖 巖 은 50여년의 기업활동에 있어서 항상 창조적 정신을 발휘하여 시대에 앞선 새로운 선도산업을 개척해 왔다 년대의 제일제당과 제일모직, 60년대 의 한국비료, 70 년대의 삼성전자, 삼성정공, 삼선선박, 삼성석유 등 그 시 대가 요구하는 중화학공업을 새로운 산업으로 개척하였던 것이다. 그는 또 80년대에는 21 세기를 향한 첨단산업인 반도체 산업을 개발하였다. 이 와 같이 하였던 것이다. 湖 巖 은 창조적 정신을 발휘하여 시대를 앞서 새로운 산업을 개발 삼성에서는 창조적이고 탐구정신이 강하며. 동시에 책임감이 강한 삼성 인을 양성하기 위하여 기업내 교육을 강화하고 있다. 5. 도덕정신 도덕정신으로서는 정직한 마음, 신상필벌, 페어플레이정신, 도의문화의 진작 등이 강조되고 있다. 湖 巖 은 생활신조로서 윤리도덕을 강조하고 있 다. 그는 삼강오륜, 장유유서, 수신제가치국평천하 등 유교적인 윤리도덕 40) 삼성인력개발원, 나의 꿈 세계일류 - 삼성인의 상식 200, 1995, p ) 삼성비서실, 번영과 복리에의 염원-李 秉 喆 회장 경영어록집 2, p ) 同 上, pp

37 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 을 정신적 支 柱 로 하면서 기업을 경영해 온 것이다. 특히 그는 논어를 좌 우에 두면서 논어에 담긴 다. 名 言 들을 회견장이나 교육장에서 피력하고 있 삼성그룹이 전통적인 가족 회사공동체를 유지하고 있는 것은 湖 巖 의 논 어를 기반으로 한 유교적 윤리정신이 삼성맨에게 공유되어 있기 때문이 다. 기업의 목적은 영리추구만이 아니라 궁극적으로는 사회정의를 실현하는 것이기 때문에 기업이 正 道 를 걷기 위해서는 그 기업을 구성하고 있는 종 업원이 정직해야 하는 것이다. 따라서 삼성에서는 正 直 을 기업정신으 로써 강조하고 있다. 요령이나 부당, 부정한 행위를 방지하고, 정도의 길 을 걷게 하기 위해 신상필벌을 엄격히 적용하고 있다. 6. 제일주의 제일주의는 삼성그룹의 기본적인 목표가 되어 있다. 湖 巖 은 기업활동에 있어서 언제나 제일을 강조해 왔다. 그는 1 등 ( 제1) 에 대한 집념이 강 하였다. 제일제당, 제일모직 등 그가 제일을 회사명으로 사용하고 있는 것 은 그의 일등( 제일) 에 대한 집념을 나타내는 것이다. 43) 湖 巖 의 일등( 제일) 의 집념에 의해 삼성그룹이 한국재계의 정상을 점하게 되었다고 평가되기 도 한다. 제일주의는 하면 된다 는 강한 신념을 가지고 목표에 도전함으로써 각자는 맡은바 분야의 제1인자 가 되어 선구적 사명감을 가지고 국가 와 인류사회에 이바지 하겠다는 뜻이다. 제일주의는 ᄀ 목표에 있어서의 제일 ᄂ 사업보국에 있어서의 제일 ᄃ 인재에 있어서의 제일 ᄅ 신용에 있어서의 제일 등 모든 분야에 있어서의 제일을 내용으로 하고 있는 것이 다. 목표는 의욕적이어야 한다. 작은 목표는 작은 사람을 만들고 큰 목표는 큰 사람을 만든다. 삼성에서는 항상 큰 목표를 세운다. 목표는 힘을 솟게 하는 자력이기 때문이다. 44) 43) 삼성이란 말은 크다 는 의미를 가진 삼 과 항상 변하지 않는다는 뜻의 성 을 합친 것이다. 항상 크고 변하지 않는 삼성의 정신은 제일주의로 나타난다고 한다. 중앙일보의 제호인 중앙 도 제일 크다는 뜻이 담겨져 잇다고 한다( 湖 巖 自 傳, p. 186). 44) 三 星 五 十 年 史, p

38 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 사업보국에 있어서의 제일에 관하여 보면, 삼성은 사업보국을 社 訓 으로 정하여 국가와 민족에게 기업을 설립하여 봉사한다는 정신으로 일관하여 왔다. 현대그룹, LG 그룹, SK그룹 등에서는 사업보국을 사훈으로 하고 있 지 않다. 45) 인재에 있어서의 제일에 대하여 보면, 제일의 목표를 제일의 인재들이 추진하여 제일의 결과를 만들어 낸다는 것이 실적 제일주의이다. 삼성의 발전요소는 기계나 자금이 아니라 사람, 그것도 정신력이 투철한 사람이 다. 삼성은 최상의 인재가 가장 많이 모여 최량의 대우를 받으며 최고의 능력을 발휘하는 곳이라고 알려져 있다. 신용에 있어서의 제일에 관하여 보면, 최고의 인재들이 모여서 만든 최 고의 품질과 서비스는 최고의 신용을 낳으므로 기업이건, 사람이건 신용 이 뒷받침되지 않고서는 거래를 유지할 수 없는 것이다. 이와 같이 삼성 에서는 신용이 무엇보다 중요함을 주장하고 있다. 7. 완전주의 완전주의란 주인의식을 가지고 확실하게 저마다의 책임을 다하여 건실한 삼성을 이끄는 정신을 말한다. 46) 완전하다는 것은 계획단계에서부터 그 계획을 철저하고 확실하게 실행하는 것이다. 확실하게 일 한다 고 하 는 것은 곧 저마다의 책임을 다 한다는 말이다. 책임의식은 어떤 일이 남 의 일이 아닌 나의 일 이라는 의식, 내가 맡은 일은 내가 전문가이며, 내가 곧 최종 결재자라는 주인의식에서 나오는 것이다. 완전주의는 건실경영에서도 볼 수 있다. 부실기업을 만드는 것은 범죄와 다름없다고 기업으로서 경영을 잘못하여 湖 巖 은 말하고 있다. 47) 기업 45) 三 星 의 經 營 理 念 을 現 代, 럭키金 星 (LG) 및 鮮 京 재벌 등과 비교할 때, 삼성의 사업보국은 특이한 것이라고 할 수 있다. 삼성은 기업설립의 동기가 사업보국 에 있다는 것을 명시하고 있다. 철학 이념 모토(m otto) 삼성 현대 럭키금성 선경 인화, 연구개발 근면 (1987 년) 검소 친애 사업보국 인제제일 합리성의 추구 삼성정신 (1987 년) 고객을 위한 가치창조 인간존중의 경영 (1990) 제일주의 하면 된다 애사심과 협동정신 패기 46) 三 星 五 十 年 史, p 인간중심의 경영 합리적 경영 현실적 경영 45

39 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 은 항상 건실하지 않으면 안 되고 건실한 경영을 하기 위하여서는 사장은 물론 말단사원에 이르기까지 제각기 주어진 책임을 완벽하게 수행하지 않 으면 안 된다는 것이다. 완전주의는 전사적 품질관리에 있어서는 제품의 품질 뿐만 아니라 서비 스의 질, 기업경영의 질도 넓은 의미에서 품질이라고 할 수 있다. 따라서 품질관리는 곧 과학적, 합리적 경영관리 활동이며 생산부서만이 아니라 판매, 관리, 구매 등 全 社 的 인 관리활동을 의미하는 것이다. 이상에서 본 바와 같이 완전주의는 책임정신과 主 人 의식, 철저한 계획, 건실경영, 전사적 품질관리 등을 주요내용으로 하고 있다. 완전주의라는 삼성정신의 철저한 실천으로 삼성은 부실화를 모르는 기업으로 성장한 것 이다. 8. 공존공영 공존공영의 정신은 안으로는 종업원 서로가 인격과 능력을 존중하고 도 우며, 밖으로는 소비자, 거래선, 주주 그리고 국가사회에 봉사함으로써 신 뢰 받는 삼성인이 되자는 정신이다. 48) 공존공영은 바로 인간 존중과 상호신뢰에서 출발한다. 동료와 상하관계, 사내와 거래선, 기술자와 관리자, 즉 삼성과 삼성을 둘러싼 모든 사회구성 요소를 존중하고 신뢰하며 더불어 발전한다는 정신이다. 공존공영은 相 生 相 和 의 정신이기도 하다. 상생상화는 相 克 相 反 의 반대 개념으로서 대립보다는 화합을 추구하며 선의의 경쟁을 통해 어느 이해집 단과도 상반되지 않은 공익을 우선한다는 정신이기도하다. 공존공영의 정신은 대기업과 중소기업와의 관계에서도 적용되어야 하 며, 노사관계에서도 적용 되어야 하는 것이다. 湖 巖 은 대기업의 옹호자였지만 그것은 대기업도 중요하다는 뜻이지 대 기업만이 중요하다는 뜻은 아니다. 대기업은 대기업의 특성이 있고, 중소 기업은 중소기업의 특성이 있어서 상호ㆍ보완적이어야 한다고 전제하고, 국민경제적 입장에서 보더라도 공존공영하여야 한다고 논하였다. 대기업 과 중소기업의 보완 관계는 마치 톱니바퀴의 관계처럼 한 덩어리가 되어 함께 굴러가야 서로 제 기능을 발휘할 수 있다는 것이다. 49) 47) 湖 巖 의 經 營 哲 學, p ) 三 星 五 十 年 史, p ) 중앙일보( 국부론), 일자. 46

40 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 노사관계에 대해서는 기업이 솔선해서 종업원들에게 최대한의 성의를 가지고 좋은 복지와 후생을 제공하고, 종업원은 내 회사라는 신념으로 최 선을 다하면 노사는 공존공영할 수 있다 50) 고 말하고 있다. 사실 삼성에 는 노조가 없고, 따라서 노동쟁의도 없는 그룹이다. 湖 巖 은 공존공영을 무시한 노동쟁의는 노사쌍방에 아무런 도움을 주지 않고 국가발전에 큰 손실을 가져올 뿐이라고 역설하고 있으며, 또한 노동 쟁의에 의해 기업이 운용하는 자금ㆍ자재ㆍ인재는 공적 성질의 것이므로 그 귀중한 국민적 자원을 낭비한다는 것은 국민에 대하여 무책임한 행위 라고 비난까지 하고 있다. 51) 결국 湖 巖 은 노동쟁의는 노사협력으로 전환 되어야 한다고 생각하였던 것이다. 위에서 논한 삼성정신( 창조정신, 도덕정신, 제일주의, 완전주의, 공존공 영정신) 은 경영이념의 실천이념으로서 삼성인이 공유하는 정신적 支 柱 로 서 지켜지고 있는 것이다. Ⅳ. 湖 巖 에 대한 사회적 평가 1988년 서울 올림픽을 앞두고 삼성에서는 창업 50주년 행사를 준비 하 고 있었는데, 이 창업행사 3개월 전인 1987년 11월 19 일 湖 巖 李 秉 喆 회 장은 87 세를 일기로 서거하였다. 1979년 4월 17 일 湖 巖 은 세계가 공인하는 탁월한 기업가로서 미국의 명 문 맵슨대학에서 세계최고 경영자상을 수상 하였다. 이 상은 탁월한 경 영인으로서 기업 업적을 통하여 세계경제 발전에 공헌한 인물에게 주어지 는 賞 이다. 52) 동양인으로서는 일본 本 田 自 動 車 工 業 의 창업자인 郎 에 이어 두 번째의 수상이었다. 本 田 宗 一 湖 巖 은 1982년 4월 2 일에는 미국 보스톤대학(Boston University) 에서 명예경영학박사학위를 수위하였다. 보스톤대학은 150년의 역사와 전통을 자랑하는 미국 동부의 명문대학이다. 이 대학에서는 한국경제 성장의 견 인차적 역할을 한 湖 巖 의 탁월한 능력을 높이 평가하여 명예경영학박사학 위를 수여한 것이다. 보스톤대학에서는 학위수여식의 날을 李 秉 喆 의 50) 同 上. 51) 同 上. 52) 湖 巖 自 傳, p

41 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 날 (B.C. Lee Day) 로 지정 하였다. 53) 이들 유수의 명문대학에 의한 최고경영자상 및 명예경영학박사한위 수 여는 세계적인 시야에서 평가한 증거이다. 湖 巖 의 탁월한 경영능력과 개척자적 정신을 높이 湖 巖 은 일찍이 1969 년에는 정부로부터 금탑산업훈장 을 받았으며, 1987년 11월 19 일의 서거 시에는 한국최고의 훈장인 무궁화장 을 추서 받았다. 또 일본 정부로부터도 勳 一 等 瑞 宝 章 을 추서받았다. 한국정부 와 일본정부로부터 수여된 훈장은 달에 기여한 공로가 인정되었기 때문이다. 湖 巖 의 탁월한 경영 능력과 기업의 발 湖 巖 은 한국의 부국건설을 위하여 수많은 기업을 설립함으로써 국가경 제발전에 공헌하였을 뿐만 아니라, 육영, 문화 학술지원, 언론문화창달 등 을 위해 기업이윤의 사회환원을 실천함으로써 기업의 사회적 책임을 실행 하였던 것이다. 위에서 본 바와 같이 湖 巖 이 미국, 일본, 한국정부 등에서 최고의 경영 자상과 명예경영학박사학위를 받고 있는 것은 그가 한국 국내 뿐만 아니 라, 세계적인 학계에서 높이 평가받고 있다는 것을 입증하는 것이다. 湖 巖 은 슘페터( J. A. Schumpeter) 가 말하는 개척자형의 창조적 기업가이며, 사업보국의 경영이념을 실천한 탁월한 기업가이며, 한국을 빛낸 기업 거 성인 것이다. Ⅴ.. 삼성그룹의 2 세 계승 湖 巖 李 秉 喆 의 경영이념은 2 세 李 健 煕 현 회장에게 계승되어, 새로운 환경에 대응하는 새로운 경영이념으로 변화하고 있다. 이건희 회장의 경영이념은 인간존중, 기술중시, 자율경영의 3항목으로 구성되어 있다. 그는 先 代 의 경영이념을 창업이념으로 규정하고, 삼성그룹 의 기본이념으로 견지하는 한편 새로운 이념을 형성하고 있다. 湖 巖 李 秉 喆 의 사망 후 삼성그룹의 2代 회장으로 취임한 이건희 회장은 1988년 3월 20일 창립 5주년을 맞이하여 제 2 의 창업정신을 선포하였다. 제 2의 창업정신으로서 당초 9 항목( 위기의식, 인식의전환, 업의개념, 전략 적기회경영, 기술중시의경영, 인간존중의경영, 구매의 예술화, 자율경영의 53) 湖 巖 의 經 營 哲 學, p

42 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 실천, 그룹공동체의식) 이 선포되었으나, 이들 중 실천되어야 하는 핵심 徳 目 으로서 자율경영, 기술중시, 인간존중 의 3 항목이 선택되어, 1993년 3월의 창립 55 주년( 제 2창업 5 주년) 에 삼성의 경영이념으로서 정 식으로 채택되었다. 54) 湖 巖 의 經 營 理 念 李 健 熙 會 長 의 創 業 理 念 事 業 報 國 人 材 第 一 合 理 追 求 < 그림 2> 삼성그룹 경영이념의 변화 새 經 營 理 念 經 營 理 念 ( 人 類 社 會 貢 獻 ) 自 律 經 營 技 術 重 視 人 間 尊 重 三 星 精 神 創 造 精 神 道 德 精 神 第 一 主 義 完 全 主 義 共 存 共 榮 三 星 人 의 精 神 顧 客 과 함께 世 界 에 挑 戰 未 來 創 造 자료 : 삼성인력개발원, 나의 꿈 세계일류, 1995, pp 다시 말해서 이때 채택ㆍ 선포된 새 경영이념은 인재와 기술을 토대로 하여 최고의 제품과 서비스를 창출하여 인류사회에 공헌한다 는 것과 함 께 자율경영ㆍ기술중시ㆍ 인간존중 의 3 항목이 채택 된 것이다. 그리고 삼성인의 정신으로 고객과 함께한다, 세계에 도전한다. 미래를 창조한 다 가 채택 되었다. 55) (< 그림 2> 참조). 자율경영은 자기업무의 一 人 者 가 되는 경영, 현장을 중시하는 경 영, 사람을 키우는 경영 을 주요 내용으로 하고 있다. 그리고 인간존 중의 경영은 대화의 경영, 신바람의 경영, 공존공영의 경영 을 주요내용으로 하고 있다. 이건희 회장은 先 代 湖 巖 李 秉 喆 회장처럼 독특한 리더십에 의해 삼성 그룹을 한국 재계 최고의 기업으로 발전시키고 있다. 그는 선대 湖 巖 과 54) 삼성인력개발원, 나의 꿈 세계일류, p ) 同 上, pp. 95~

43 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 같이 제일( 일등) 에 대한 집념이 강하고, 자심감이 강하며, 그리고 위기감 ( 위기에 대한 대응) 이 강하다고 한다. 또한 그는 미래를 내다보는 先 見 観 이 뛰어나다고 한다. 이건희 회장은 위기 를 예견하여, 위기의식을 조성하여 종업원을 이 끌고, 세계일류의 기업을 목표로 삼성그룹을 이끌고 있다. 그의 경영지침 은 사장단을 통하여 전종업원에게 전달된다. 56) 이건희회장은 위기경영론, 질경영문화 의 창출자로 알려저 있다. 이건희회장은 1988년의 회장취임 이래 거의 5 년마다 독특한 危 機 論 을 제 시하면서 삼성그룹을 이끌고 있다. 그는 1993 년에는 바꾸자 ( 처와 자 식을 빼고 모두 바꾸자), 1998 년에는 버리자 (IMF 위기극복을 위하여 구조조정이 불가피 하기 때문에 과감히 버리자), 그리고 2002 년에는 찾 아라 (5~10 년 후 무엇을 먹고 살수 있는가를 찾아보자) 라고 강조하면서 급변하는 사회ㆍ경제환경 등에 대응하고 있다. 57) 이건희회장이 주장하는 구호( 語 録 ) 는 삼성그룹의 본사는 물론 각 계열 회사의 사장( 간부) 을 통하여 전종업원에게 전달된다. 이건희 회장은 선대 湖 巖 李 秉 喆 회장과 마찬가지로 경영에는 거의 간섭하지 않고 사장단을 중심으로 책임경영제를 실시하고 있다. 삼성의 유교를 토대로 한 가족주의적 회사공동체의 사상은 삼성가 족 을 형성하고, 삼성가족의 구성원은 삼성맨(Samsung Man) 으로서 삼 성그룹 발전의 초석이 되어 있는 것이다. 이건희 희장은 선대 湖 巖 李 秉 喆 회장의 후계자로서 삼성그룹을 착실하 게 성장시키고 있다. 湖 巖 李 秉 喆 의 人 才 발굴에 있어서 가장 성공한 것은 2 世 이건희 회장을 후계자로 선택한 것이라는 評 마저 받고 있다. 삼성그룹은 한국의 전통사상과 서구의 합리사상을 접목한 한국적 회사 공동체로서 세계시장을 누비고 있는 기업집단이며, 그것은 국적이 없거나 국적이 애매한 글로벌기업인 다국적 기업과는 다른 것이다( 이건희 회장의 연구는 본고의 연구범위가 아니기 때문에 그에 대한 연구는 다른 기회로 미루기로 한다). 56) 이건희 회장은 위기감, 자신감, 일등감, 현장감 에 뛰어난 인물이라고 한다( 중앙일보, 일자). 이건희 회장은 위기의식 을 부각시키면서, 또 일의 추진에 자신감 을 보이면서, 특히 일등의 지위 를 유지해야 한다는 신 념을 보이면서 삼성그룹의 발전을 이끌고 있는 것이다. 57) 중앙일보, 일자. 50

44 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 Ⅵ. 맺는말 삼성그룹을 재계의 정상기업으로 성장시킨 것은 湖 巖 李 秉 喆 의 경영철 학에 의한 것이다. 湖 巖 은 사업보국의 이념에 입각하여 기업을 설립하고 운영하여 왔으며, 기업을 성장 발전시키기 위하여 유능한 인재를 발탁 및 육성하여 기업경영에 종사하게 하고, 하여 기업의 위상을 높혀 왔던 것이다. 또 합리적으로 기업을 운영하도록 삼성그룹은 전통적인 한국적 회사공동체라고 할 수 있다. 삼성그룹의 종업원은 삼성맨으로서 가족적인 유대정신을 유지하면서 삼성그룹발전에 매진하고 있다. 삼성그룹은 창업자 湖 巖 李 秉 喆 회장의 유교적 사고에 기반을 두면서, 철저한 경쟁원리에 입각한 합리추구 경영을 실천하고 있는 기업집단이다. 다시 말해서 삼성그룹은 동양의 유교윤리와 서구의 합리윤리라는 두 개의 기둥을 축으로 기업을 운용하고 있는 것이다. 그것은 또한 李 秉 喆 회장의 생활신조이기도 하다. 삼성그룹이 한국재계의 정상을 차지하게 된 것은 창업자 湖 巖 李 秉 喆 의 제1 주의 의 신념에 의한 것이다. 湖 巖 은 한국 제일의 기업을 설립하여 발전시키는데 노력해 왔으며, 제일이 아니면 만족하지 않았던 것이다. 그 는 일생동안 기업 경영의 외길을 걸어 온 것이다. 湖 巖 의 경영이념은 사업보국, 인재제일, 합리추구이며, 삼성정신은 창조 정신, 도덕정신, 제일주의, 완전주의, 공존공영( 정신) 이다. 湖 巖 의 경영이 념과 삼성정신은 삼성맨이 공유하고 공동으로 지키고 있는 정신적 支 柱 이 다. 삼성에서는 유능한 인재를 고용하고 또 고용한 인재를 계속 교육하여 삼성인으로서 유능한 임직원으로 발탁 하는 등 인재 양성에 힘을 쓰고 있 다. 湖 巖 은 자기 인생의 80% 를 인재 양성을 위해 보냈다고 말하고 있는 정도다. 湖 巖 은 완전 책임경영체제를 채택하여 경영을 계열회사 임직원의 책임 하에서 행하도록 하고 있다. 湖 巖 은 결제를 한 적이 없다고 한다. 그 러나 계열 사장단의 실적에 대하여는 비정하다는 말을 들을 정도로 엄격 하게 信 賞 必 罰 을 적용하였다. 湖 巖 은 한편에서는 유교적인 가족주의적 온정으로 그룹공동체를 이끌면 서, 다른 한편으로는 경쟁체제와 책임경영체제를 실시하였다. 즉 湖 巖 은 유교적인 전통사상과 근대적인 합리주의사상을 접목하면서 기업을 경영하 였다. 그러나 그는 기업은 국가와 국민에게 봉사해야 한다는 신념하에 경 51

45 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 영하였기 때문에 기업의 경영방향을 사업보국의 방향으로 이끌었다. 그는 기업이 도산하면 국가와 국민에게 죄를 짓는 것이라고 말할 정도였다. 湖 巖 은 환경의 변화를 예측하여, 그 시대가 요구하는 사업을 개척하여, 그 시대의 선도산업으로 육성하였다. 그가 설립한 기업은 그 시대의 선도 산업으로서 경제발전의 견인적 역할을 하였던 것이다. 그는 한국을 빛낸 개척자형의 기업가였다. 湖 巖 李 秉 喆 의 경영이념은 2 세인 李 健 煕 현 회장에게 계승되어, 새로운 환경에 대응하는 새로운 경영이념으로 변화하고 있다. 이건희 회장의 경 영이념은 인간존중ㆍ기술중시ㆍ 자율경영 이다. 그리고 삼성정신은 고객과 함께ㆍ세계에 도전ㆍ 미래창조 이다. 이건희회장은 先 代 湖 巖 李 秉 喆 회장의 경영이념을 창업이념으로 규정하 고, 그것을 삼성그룹의 기본이념으로서 견지하고 있다. 이건희 회장은 先 代 湖 巖 처럼 독특한 리더십에 의해 삼성을 한국재계최고의 기업으로 발전 시키고 있다. 그는 선대 湖 巖 과 같이 1 등( 제일) 에 대한 집념이 강하고, 자 심감이 강하다. 또한 그는 위기감( 위기에 대한 대응능력) 이 강하며, 미래 를 보는 先 見 観 이 뛰어나다. 이건희 회장은 다가오는 미래의 선도산업을 예견하고, 종업원에게 위기 의식을 조성하면서 삼성그룹을 이끌고 있으며, 세계일류의 기업을 목표로 삼성그룹을 육성하고 있다. 그의 경영지침은 사장단을 통하여 전종업원에게 전달된다. 그는 사업에 는 거의 관여하지 않고 사장단에게 경영을 일임하는 등 철저한 책임경영 제를 유지하고 있다. 삼성그륩의 유교에 입각한 가족주의 사상은 삼성가족을 형성하고, 삼성 가족의 구성원은 삼성맨(Samsung Man) 으로서 삼성그룹의 발전을 유지하 는 초석이 되어 있다. 삼성은 한국적 기업그룹으로 한국의 정체성을 굳건 히 지키고 있는 것이다. 이건희 회장은 미래 정보산업, 특히 컴퓨터, 반도체산업 등 최첨단사업 을 개척하면서 세계의 정상 기업으로 삼성그룹을 육성하고 있다. 그는 항 상 기업을 1 등( 제일) 기업으로 성장시키는데 앞장서고 있다. 이건희 회장은 선대 장시키고 있다. 李 秉 喆 회장의 후계자로서 삼성그룹을 착실하게 성 ( 본 논문은 湖 巖 李 秉 喆 회장에 관한 연구이기 때문에 2세 이건희 회장 에 대한 연구는 다른 기회로 미루기로 한다). 52

46 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 참 고 문 헌 공병호, 21 세기 기업변신을 위한 한국기업흥망사, 명진출판, 金 柄 夏, 호암의 생애와 경영이념, 경영사학 제3 집, 1988, 12., 財 閥 의 形 成 과 企 業 活 動 -韓 國 財 閥 經 營 史 -, 한국능률협회, 1991., 한국경영이념사, 계명대학교출판부, 김성수, 성공한 창업자의 기업가 정신- 세계를 움직인 경영자들, 삼영사, 박동순, 한국재벌의 창업사상, 공평출판사, 삼성경제연구소 편, 湖 巖 의 經 營 哲 學, 중앙일보사, 삼성미술문화재단, 문화의 향기 30 년, 서울. 三 星 秘 書 室, 繁 榮 과 福 利 에의 念 願 -李 秉 喆 會 長 經 營 語 錄 集 1, ~ , 繁 榮 과 福 利 에의 念 願 -李 秉 喆 會 長 經 營 語 錄 集 2, ~ , 繁 榮 과 福 利 에의 念 願 -李 秉 喆 會 長 經 營 語 錄 集 3, ~ , 三 星 五 十 年 史, ( 한국) 경영능률연구소, 삼성クル ー プ, 한국の 50 대재벌, 한국일보사, 이병철, 재계회고 ( 원로기업인 편), 삼성인력개발원, 나의 꿈 세계일류 - 삼성인의 상식 200, 李 秉 喆, 湖 巖 自 傳, 이원수, 李 秉 喆 - 사상과 철학, 경영아카데미, 이한구, 韓 國 財 閥 史, 大 明 出 版 社, 2004., 한국재벌형성사, 비봉출판사, 조기준, 湖 巖 의 삶의 철학과 기업의 역정, 경영사학 제 15 집, 1997년 11 월. 조동성, 한국재벌연구, 매일경제신문사, 조선일보 경제부, 한국재벌 25시 제5 장 三 星 グルー プ 李 秉 喆, 1985( 日 譯 版 ). 중앙일보사, 중앙일보 20 년사. 황명수, 한국기업가사연구, 필산 황명수교수 정년퇴임행사준비위원회 발행, 黃 明 水, 韓 國 の經 營 理 念 - その史 的 變 遷, ( 日 本 ) 經 營 史 學 第 25卷 第 2 號, 東 京 大 學 出 版 會, 1990年 7月 30 日., 韓 國 企 業 의 發 達 (1910 ~1945), 論 文 集 第 14 輯, 檀 國 大 學 校, 1980 年 11 月, pp. 301~

47 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ), 韓 國 의 代 表 的 企 業 家 湖 巖 李 秉 喆 硏 究, 韓 日 經 商 學 會 第 4 卷, 1988 年 8 月., 湖 巖 의 經 營 理 念 再 照 明, 經 營 史 學 제 15 집, 間 宏, 日 本 における 産 業 化 初 期 の經 營 理 念, 經 營 史 學, Vol. 25, No. 2, 東 京 大 學 出 版 會, 高 宮 普, 占 部 郡 美, 山 城 章, 白 木 他 石 共 著, 現 代 の經 營 責 任 者, 稅 務 經 理 協 會, 1972 年. 渡 辺 喜 七, 經 營 理 念 の源 流 -18 世 紀 のアメリカと 日 本, 經 營 史 學, Vol. 25, No. 4, 東 京 大 學 出 版 會, 小 玉 敏 彦, 韓 國 工 業 化 と企 業 集 團 - 韓 國 企 業 の社 會 的 特 質, 學 文 社, 矢 島 鈞 次, 韓 國 經 濟 の挑 戰 -三 星 企 業 集 團 にみるそのエネルギ - の秘 密, 日 本 經 濟 通 信 社, 1977 年. 54

48 삼성그룹과 李 秉 喆 회장의 기업활동 A study on Lee, Byung-chull of Samsung Group and his Entrepreneurship Hwang, Myung-Soo Former President Dankook University Abstract Making Samsung group grow up as a top company group in Korean business circles was originated from Lee, Byung-chull's management philosophy. Lee, Byung-chull established and expanded the group under the spirit of making the country strong through doing a business. Employees of Samsung group are retaining the spirit of family-like relationship as Samsung-men and concentrating their minds on the growth of Samsung. Meanwhile, Samsung group is a reasonable community of companies introducing the principle of thorough competition and a community of having two types of characteristic. Those are appeared in the life principle and business philosophy of Lee, Byung-chull, the founder of Samsung group. That is, Lee, Byung-chull's traditional Confucianism and modern rationalism are observed in the management of Samsung group. Like this, Samsung group is a community of companies having traditionalism and modernism because the management culture of Korea, in general, is a culture that traditional and modern cultures are combined. Making the country strong by doing a business, talented people first and pursuing rationality which are Lee, Byung-chull's business principles are sympathized and shared among all employees of 55

49 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) Samsung group. Thus, those principles are worked as the compass of management direction. Samsung group is different from other multinational companies whose nationalities are ambiguous. Samsung spirit of Samsung group are creative spirit, ethic spirit, the firstism, perfectionism and prosperity together, and its management principle is understood as an action principle. As the scale of Samsung group is getting bigger, the Samsung spirits are included in its management principle. Lee, Byung-chull's management direction shows a chrateristic that presidents of affiliated companies are fully responsible for the management. His order in the management of the group is usually delivered through more than 200 secretaries or through annual meeting consisted of 20 presidents of affiliated companies. According to controling the group by the principle of sure penalty and certain reward, his order was being obeyed even though he never signed on the papers. Lee, Byung-chull grows Samsung group to a top company group in the Korean business circles and furthermore a worldwide company group by developing new markets and products with excellent management ability. Key Word : Lee, Byung-chull, Entrepreneurship, Management philosophy 56

50 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 경영사학 제 20 집 제 5 호 (통권 40 호) 한국경영사학회 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 事 業 部 制 と 分 社 制 下 谷 政 弘 目 次 はじめに 1 松 下 電 器 産 業 の 歴 史 (1) 第 二 次 大 戦 前 (2) 第 二 次 大 戦 後 2 組 織 の 分 権 と 統 合 事 業 部 と 分 社 (1) 事 業 部 制 と 分 社 制 (2) 幸 之 助 による 事 業 部 分 社 の 造 語 3 販 売 店 網 の 形 成 おわりに 経 営 の 神 様 の 限 界 その 幸 之 助 が 今 では なんでナショナル ナショナルのパソコン パソコンやワープロ ワープロは 売 れんの や と 嘆 く だが だが 松 下 電 器 の 誰 も それは あなたが あなたがコンピュータ コンピュータから の 撤 退 を 決 断 したためです と 言 って 彼 を 諭 すようなことはしない 松 下 幸 之 助 が 生 きた 家 電 ブームの 時 代 は 終 わった 彼 を 必 要 とした 時 代 が 終 焉 したことを 時 代 はすでに 告 げている 京 都 大 学 敎 授 57

51 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 立 石 泰 則 復 讐 する 神 話 松 下 幸 之 助 の 昭 和 史 ( 文 春 文 庫 ページ) はじめに 松 下 電 器 産 業 は Panasonic あるいは National などのブランド 名 で 世 界 的 に 知 られる 巨 大 な 家 電 エレクトロニクス 企 業 である 同 社 の 創 業 者 は 松 下 幸 之 助 (1894~1989)である 幸 之 助 はわずか 10 歳 で 丁 稚 奉 公 に 出 たあと 一 代 で 世 界 的 な 大 企 業 を 築 き 上 げたのであり しかも その 卓 抜 なる 経 営 手 腕 によっ て 経 営 の 神 様 とも 呼 ばれてきた 彼 こそは まさしく 第 二 次 大 戦 後 の 日 本 経 済 における 大 衆 消 費 社 会 を 象 徴 する 人 物 であった あるいは 高 度 経 済 成 長 の 繁 栄 の 時 代 を 象 徴 する 存 在 でもあった 日 本 の 産 業 人 の 中 で 彼 ほどに 多 く を 語 られた 人 物 はいないであろう 松 下 幸 之 助 について 論 じられた 書 物 は 数 多 い 幸 之 助 が 経 営 の 神 様 と 讃 えられたのは 彼 の 水 道 哲 学 1 ) や 労 使 協 調 ( 終 身 雇 用 )などの 理 念 の 中 に あるいはまた 販 売 戦 略 に 関 するアイディアな どに 独 特 のものがあったことによる いわば 日 本 的 経 営 の 根 幹 部 分 を 自 らの 経 営 理 念 と 重 ね 合 わせて 表 明 し また 実 践 してきたのである したがって 幸 之 助 に 関 するこれまでの 書 物 のほとんどすべては 彼 のいわゆる 経 営 哲 学 や 経 営 理 念 を 中 心 に 論 じられたものであった たしかに 彼 の 哲 学 や 理 念 から 学 ぶべきことは 多 い しかしながら 幸 之 助 について 語 る 場 合 に もう 一 つ 忘 れ てはならないことがある それは 企 業 組 織 のデザイン という 領 域 において 彼 が 果 たした 重 要 な 貢 献 である 2 ) そこで 本 稿 では とくに 幸 之 助 のアイディアによって 生 まれた 独 特 の 企 業 組 織 の 面 に 主 要 な 焦 点 を 合 わせながら 見 ていくこととしよう つまり その 事 1) 水 道 の 水 のように 無 尽 蔵 で 安 価 な 製 品 を 大 量 に 供 給 し 社 会 生 活 の 水 準 を 向 上 させ たいという 願 い 2) 松 下 電 器 グループの 組 織 の 変 遷 について 集 権 と 分 権 のバランス という 視 点 から 述 べたものとして 下 谷 政 弘 松 下 グループの 歴 史 と 構 造 - 分 権 統 合 の 変 遷 史 - 有 斐 閣 1998 年 58

52 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 業 部 制 や 分 社 制 あるいは 全 国 的 に 展 開 した 系 列 販 売 店 の 形 成 など の 意 義 について 考 察 してみることとしたい また 戦 後 の 大 きなIT 技 術 の 変 革 の 波 の 中 で 経 営 の 神 様 と 呼 ばれた 彼 が 陥 ってしまった 意 思 決 定 の 混 乱 に ついてもふれてみたい 1. 松 下 電 器 産 業 の 歴 史 (1) 創 業 から 第 二 次 大 戦 期 最 初 に 同 社 の 歴 史 的 な 発 展 プロセスについて 簡 単 にたどっておこう 松 下 電 器 産 業 が 大 阪 に 誕 生 したのは 1918 年 第 一 次 大 戦 のブーム 期 のこ とであった 最 初 の 製 品 は 簡 単 な 配 線 器 具 だけであり 幸 之 助 は 妻 とそ の 弟 のわずか 3 名 で 松 下 電 気 器 具 製 作 所 をスタートさせた つまり ごく 零 細 な 配 線 器 具 の 町 工 場 にすぎなかった しかしながら 幸 之 助 は 努 力 と 創 意 工 夫 の 人 であった また 1920 年 代 の 日 本 は 彼 にとって 幸 いな ことに ようやく 生 産 現 場 や 家 庭 生 活 における 電 化 の 動 きがスタートした 頃 でもあった 自 ら 開 発 したプラグや 電 灯 ランプなどの 製 品 が 当 時 の 大 衆 によって 迎 えられたのであり 表 -1 に 示 したように 早 くも 1930 年 代 の 前 半 には 従 業 員 数 は 1000 人 から 2000 人 規 模 へ 工 場 数 も 15 を 数 える 企 業 へ と 急 成 長 を 遂 げたのである 製 品 数 も 表 -2 に 示 したように 順 調 に 増 加 していった 幸 之 助 の 事 業 が 大 きな 飛 躍 を 見 せはじめるのは 1930 年 代 からであった ラジオ 乾 電 池 電 気 アイロンなど 事 業 規 模 の 拡 大 と 製 品 の 多 角 化 の 波 に 乗 って 彼 の 松 下 電 器 製 作 所 は 急 成 長 を 遂 げた そして 後 にも 詳 しく 述 べるように 33 年 には 幸 之 助 が 独 自 に 考 案 した 事 業 部 制 を 取 り 入 れたのである これは 戦 前 期 の 日 本 における 最 初 で しかも 唯 一 の 試 み であった 松 下 幸 之 助 の 名 前 は 日 本 における 事 業 部 制 の 考 案 者 として 記 59

53 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 憶 されてきたのである < 表 -1>oooooooooooooo < 表 -2> 2>oooooooooooooo 60

54 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 これ 以 降 第 二 次 大 戦 後 の 高 度 経 済 成 長 の 時 期 にかけて 幸 之 助 は 企 業 を 取 り 巻 く 環 境 の 変 化 に 応 じて 表 -3 に 一 覧 したように さまざまな 組 織 デザインを 編 み 出 していくこととなる すなわち 企 業 組 織 の 集 権 と 分 権 の 度 合 い を 巧 みに 調 節 しながら 事 業 を 展 開 していったのである 中 でも 事 業 部 制 は 自 主 責 任 経 営 の 事 業 単 位 として 同 社 の 歴 史 におい て 最 重 要 の 管 理 単 位 としての 役 割 を 果 たしてきた < 表 -3> 3>oooooooooooooo 彼 の 松 下 電 器 製 作 所 が これまでの 個 人 企 業 から 株 式 会 社 ( 松 下 電 器 産 業 資 本 金 1000 万 円 )へと 組 織 転 換 したのは 1935 年 のことであった 事 61

55 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 業 の 急 拡 大 によって 社 会 の 公 器 としての 体 裁 を 整 えたのである ここ で 興 味 深 いのは 株 式 会 社 への 改 組 と 同 時 に 同 社 は 2 年 前 にスタートさ せたばかり 事 業 部 制 を 廃 止 してしまったことである すなわち 内 部 の 事 業 部 をそれぞれ 分 社 化 して 子 会 社 とし 本 体 の 方 は 純 粋 持 株 会 社 (グルー プ 内 部 では 産 業 本 社 と 呼 ばれた)となったことである いわゆる 分 社 制 への 移 行 であった その 後 も 事 業 はさらに 拡 大 を 続 けて 製 品 分 野 も 増 大 した とくに 1930 年 代 後 半 からの 戦 時 統 制 経 済 への 移 行 にともなって 民 需 製 品 の 生 産 を 中 心 としてきた 同 社 も しだいに 軍 需 関 連 の 部 門 へと 進 出 せざるを 得 なかっ た 同 社 が 初 めて 兵 器 部 品 の 生 産 を 手 がけたのは 1938 年 のことであった ま た 本 来 は 民 需 品 であるラジオや 乾 電 池 などの 製 品 も しだいに 軍 部 向 け に 生 産 されはじめた 1940 年 代 に 入 ると 幸 之 助 は 軍 部 の 命 令 にしたが って 軍 需 会 社 を 設 立 し 木 造 の 船 舶 や 飛 行 機 すら 製 造 したのである この 間 において 特 徴 的 であったのは 同 社 が 製 品 の 多 角 化 に 応 じて あるいはまた 植 民 地 への 進 出 などにともなって その 後 も 次 々と 数 多 くの 分 社 を 設 立 したことである 表 -4 に 示 したように 産 業 本 社 の 傘 下 に 設 立 された 分 社 の 数 は 敗 戦 までに 累 計 48 社 を 数 えた 当 時 の 人 々は こうして 形 成 された 企 業 グループを 松 下 産 業 団 とも 呼 んだのである < 表 -4> 4>oooooooooooooo 62

56 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 (2) 第 二 次 大 戦 後 1945 年 の 日 本 の 敗 戦 は 松 下 産 業 団 を 瓦 解 させてしまった 46 年 には 占 領 軍 (GHQ)によって 松 下 家 は 財 閥 家 族 の 指 定 を 受 けた また 幸 之 助 自 身 も 軍 需 会 社 の 役 員 であったことを 理 由 として 公 職 追 放 の 指 定 を 受 けることとなった 財 閥 家 族 の 指 定 の 方 は 幸 之 助 自 身 のGHQとの 粘 り 強 い 交 渉 によって 49 年 には 指 定 を 解 除 された また 公 職 追 放 の 指 定 についても 本 来 的 に 松 下 産 業 団 が 民 需 製 品 中 心 の 企 業 グループであったことがようやく 理 解 され 47 年 には 解 除 された その 際 同 社 の 労 働 組 合 が 指 定 解 除 に 向 け ての 運 動 に 率 先 して 尽 力 したことは 興 味 深 い 当 時 労 働 組 合 が 戦 争 中 の 経 営 者 を 反 民 主 主 義 的 指 導 者 として 追 放 する 運 動 を 起 こす 例 が 少 なくな かった 中 で 松 下 電 器 労 働 組 合 は 社 主 幸 之 助 が 創 業 以 来 一 貫 し て 社 会 生 活 の 向 上 のために 尽 力 してきた 事 実 を 説 明 ねばり 強 く 交 渉 を 続 けた という 3 ) さて 第 二 次 大 戦 後 は 松 下 電 器 産 業 がさらに 大 きく 飛 躍 発 展 を 遂 げた 時 代 であった 表 -5 は 同 社 の 成 長 の 過 程 を 数 字 で 示 したものである 敗 戦 後 幸 之 助 が 再 び 三 つの 事 業 部 を 設 けて 事 業 活 動 を 本 格 的 にスタ ートさせたのは 1950 年 のことであった 52 年 には オランダのフィリップ ス 社 と 提 携 して 両 社 合 弁 の 子 会 社 ( 松 下 電 子 工 業 )を 設 立 した この 事 業 提 携 は これまでもっぱら 電 気 を 中 心 に 成 長 を 続 けてきた 松 下 電 器 グループに 新 たに 電 子 産 業 の 根 を 植 えつけたことを 意 味 したのであ り その 後 のエレクトロニクス 事 業 の 展 開 にとってきわめて 大 きなインパ クトを 与 えることになった 53 年 には 中 央 研 究 所 もスタートさせている 3) 松 下 電 器 松 下 電 器 50 年 の 略 史 1968 年 ページ 63

57 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) < 表 -5> 5>oooooooooooooo 表 -6 は 第 二 次 大 戦 後 に 松 下 電 器 グループが 発 売 した 主 要 な 製 品 を 一 覧 64

58 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 したものである さまざまな 家 庭 電 器 製 品 音 響 機 器 エレクトロニクス 部 品 情 報 通 信 機 器 そして 産 業 機 械 にいたるまで 次 々と 新 製 品 を 市 場 に 提 供 してきたことがわかる 実 に 戦 後 日 本 経 済 の 復 興 と 高 度 成 長 は あの 明 るいナショナル という 同 社 の 軽 快 なテーマソングの 響 きとと もに 達 成 されたといっても 過 言 ではなかった 戦 後 の 日 本 における 大 衆 消 費 社 会 の 到 来 は 家 庭 生 活 の 電 化 によってもたらされたのである < 表 -6> 6>oooooooooooooo 65

59 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) こうした 新 製 品 や 新 分 野 の 相 次 ぐ 開 拓 は 製 品 ごとに 次 々と 設 置 された 事 業 部 ( 製 品 別 事 業 部 )によって 行 われた 当 初 3 事 業 部 だけで 再 出 発 した 同 社 は 表 -7 に 示 したように その 後 新 製 品 が 誕 生 するごとに 新 た な 事 業 部 を 付 け 加 えていった まさしく 事 業 部 が 新 事 業 部 を 細 胞 分 裂 させていく 歴 史 であった このような 事 業 部 の 数 のすさまじい 増 大 は 必 然 的 に 経 営 管 理 上 の 非 効 率 と 混 乱 を 招 かざるを 得 なかった そこで 関 連 する 事 業 部 を 一 つにまとめて 統 括 するために 事 業 部 の 上 に 事 業 本 部 が 設 立 されはじめた 54 年 にスタートした 事 業 本 部 制 である < 表 -7> 7>oooooooooooooo 66

60 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 たとえば 当 初 の 3 事 業 部 は 1956 年 末 までには 15 事 業 部 にまで 細 胞 分 裂 を 重 ねていたが その 後 も 59 年 末 になると 4 事 業 本 部 20 事 業 部 となり さらに 64 年 末 には 8 事 業 本 部 36 事 業 部 へと 急 増 した そして 事 業 本 部 制 がいったん 廃 止 されることになった 72 年 末 の 時 点 では 17 事 業 本 部 59 事 業 部 へと 急 増 した 事 業 本 部 制 が 廃 止 された 後 も 事 業 部 の 数 は さらに 増 え 続 けたのであり そのピークは 74 年 の 65 事 業 部 にまで 達 した のである このような 事 業 部 の 数 の 増 大 は いうまでもなく 事 業 部 制 本 来 の 意 味 を 疑 わせるほどのものであった 54 年 にスタートしていた 事 業 本 部 制 はそうした 問 題 を 解 決 しようとした 試 みであったが 屋 上 屋 を 重 ねる 組 織 であったため かえって 経 営 管 理 上 の 別 問 題 を 生 じさせ 72 年 に 廃 止 を 余 儀 なくされたのである 幸 之 助 は したがって 今 度 はこれらの 事 業 部 を 関 連 分 野 ごとにまとめて 産 業 本 社 の 外 へ 分 社 化 しはじめたのである すなわち 表 -8 に 示 したように 1970 年 代 の 後 半 には 4 つの 分 社 を 新 たに 設 立 し 複 数 の 事 業 部 がそれぞれの 分 社 へと 移 された 産 業 本 社 から 4 分 社 へ 移 動 した 事 業 部 は 合 計 23 事 業 部 であった < 表 -8> 8>oooooooooooooo その 詳 細 はともかくも 第 二 次 大 戦 後 には 松 下 電 器 産 業 はこのように 67

61 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 多 種 多 様 な 事 業 に 多 角 化 していったのである そして それらの 事 業 を 混 乱 なく 効 率 的 に 管 理 していく 上 で 幸 之 助 が 考 案 した 事 業 部 制 と その 延 長 線 上 に 展 開 された 分 社 制 とは 両 者 相 まって 同 社 の 発 展 に 大 きな 貢 献 を してきたのである 2 組 織 の 分 権 と 統 合 事 業 部 と 分 社 (1) 事 業 部 制 と 分 社 制 ここで 再 び 1930 年 代 に 戻 って 幸 之 助 が 日 本 で 初 めて 事 業 部 制 を 採 用 す ることとなった 経 緯 を 追 ってみよう また 事 業 部 制 の 延 長 線 上 に 展 開 さ れることとなった 分 社 制 との 関 係 についても 考 察 してみよう 表 -9 は 1933 年 に 幸 之 助 が 日 本 で 初 めて 導 入 した 事 業 部 制 の 組 織 図 である 当 初 は 3 事 業 部 の 体 制 すなわち 第 一 事 業 部 (ラジオ) 第 二 事 業 部 ( 乾 電 池 ランプ) 第 三 事 業 部 ( 配 線 器 具 電 熱 器 )であった < 表 -9> 9>oooooooooooooo 68

62 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 翌 年 には 第 三 事 業 部 の 電 熱 器 部 門 が 分 離 して 4 事 業 部 体 制 となった こ れらの 事 業 部 はそれぞれが 自 主 責 任 経 営 の 事 業 単 位 であった つまり 各 事 業 部 は 翼 下 に 工 場 と 出 張 所 をそれぞれ 持 って 製 品 の 開 発 から 生 産 販 売 収 支 までを 一 貫 して 担 当 する 独 立 採 算 の 事 業 体 となった 4 ) ので ある 幸 之 助 がこのように 先 駆 的 に 事 業 部 制 を 採 用 することとなったのは 彼 のかねてからの 分 権 化 理 念 に 添 うものであった つまり 事 業 部 制 と いうアイディアは 誰 からもヒントをもらわずに 独 自 に 考 案 したもので あったという 彼 が 生 来 病 弱 な 体 質 であったため すべての 事 業 を 一 人 で は 切 り 盛 りできなかった という 事 情 もあった しかしながら 同 社 が 事 業 部 制 へと 改 組 することとなる 直 接 の 契 機 を 与 えたのは 他 でもない 新 事 業 たるラジオ 事 業 や 乾 電 池 事 業 への 進 出 であった ラジオ 放 送 が 日 本 で 開 始 されたのは 1925 年 のことであった 当 時 ラジ オの 生 産 は 文 化 伝 達 の 新 しい 媒 体 として 急 速 な 成 長 を 遂 げており 零 細 な ラジオ 専 業 のメーカーが 多 数 生 まれていた 1930 年 代 の 初 頭 にはすでに 年 間 20 万 台 のラジオが 生 産 されていたという 幸 之 助 も 新 たにラジオ 生 産 に 参 入 したが ラジオは それまでの 彼 の 事 業 における 主 要 製 品 であったラ ンプ 配 線 器 具 電 熱 器 ( 電 気 アイロン)などとは まったく 異 質 の 製 品 系 列 に 属 するものであった 異 質 の 新 製 品 であったからこそ 当 時 のラジ オメーカーの 多 くも 専 業 メーカーとして 生 産 していたのである また 幸 之 助 は 同 じ 頃 に 乾 電 池 事 業 へも 進 出 した すでにランプの 生 産 では 幸 之 助 は 大 きな 位 置 を 占 めるようになっていたが ランプ 用 の 乾 電 池 はこれまで 他 所 から 購 入 し 販 売 していた 幸 之 助 は 31 年 には 乾 電 池 の 供 給 先 を 買 収 して 直 営 しはじめたのである ただし 実 際 の 経 営 実 務 につ いては 旧 経 営 者 に 委 ねたままにした 結 局 これらの 新 規 の 事 業 への 進 出 ( 多 角 化 )ということが 同 社 の 中 4) 松 下 電 工 松 下 電 工 60 年 史 1978 年 12 ページ 69

63 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) に 異 質 の 事 業 単 位 を 持 ち 込 むこととなり 幸 之 助 は 新 たな 組 織 デザインを 考 案 せざるを 得 なかったのである それが 日 本 で 初 めての 事 業 部 制 の 採 用 へと 導 いたのである しかしながら 戦 前 の 事 業 部 制 の 時 代 は 短 かった それらの 事 業 部 は 1935 年 にはすべて 分 社 化 されてしまったからである せっかくの 事 業 部 制 をな ぜ 短 期 間 で 廃 止 してしまったのか その 理 由 は 必 ずしも 明 らかではない しかし 各 分 社 はこれまでの 事 業 部 制 のときよりも 一 層 徹 底 した 自 主 責 任 経 営 の 立 場 で 生 産 販 売 を 行 うことになった 5 ) といわれている その 理 由 は ともかくも このようにすべての 事 業 部 を 分 社 化 してしまった 結 果 抜 け 殻 となった 本 体 ( 松 下 電 器 産 業 )は 純 粋 持 株 会 社 となって グループ 内 では 産 業 本 社 と 呼 ばれるようになった その 後 も 表 -10 に 示 したよう に 同 グループは 積 極 的 に 次 々と 分 社 を 設 立 したのであり その 結 果 とし て 新 たに 形 成 された 松 下 電 器 グループ は 当 時 の 人 々によって 松 下 産 業 団 とも 呼 ばれたのである (2) 幸 之 助 による 事 業 部 分 社 の 造 語 以 上 見 てきたように 日 本 で 初 めて 事 業 部 制 を 導 入 したのは 幸 之 助 であった また 彼 は その 後 には 事 業 部 を 分 社 化 して 産 業 本 社 ( 持 株 会 社 )および 傘 下 の 子 会 社 とから 成 る 松 下 産 業 団 を 形 成 したのである 同 産 業 団 を 構 成 した 子 会 社 のほとんどは 親 会 社 から 分 社 化 する 形 で 誕 生 したいわゆる 分 社 であった また さきに 見 たように 第 二 次 大 戦 後 においても 松 下 電 器 グループは 事 業 部 制 と 分 社 制 とを 組 み 合 わせて 成 長 してきたのである 5) 前 掲 松 下 電 器 50 年 の 略 史 138 ページ 70

64 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 < 表 -10> 10>oooooooooooooo 71

65 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 今 日 企 業 組 織 の 集 権 や 分 権 に 関 連 して 事 業 部 や 分 社 という 用 語 が 広 く 用 いられている 企 業 は 成 長 するにしたがい 規 模 を 拡 大 させる また 事 業 経 営 の 多 角 化 の 進 展 や 垂 直 的 プロセスの 深 化 は 組 織 の 内 部 に 多 数 の 錯 綜 した 事 業 単 位 をもたらすことになる すなわち 企 業 の 成 長 と は 遅 かれ 早 かれ 規 模 の 不 経 済 と 経 営 の 非 効 率 性 を 必 然 的 にもた らさざるを 得 ないのである それらを 解 決 するためには 意 思 決 定 の 分 権 化 を 図 るしかない そして 分 権 化 を 組 織 構 造 の 面 から 保 障 するのが いわ ゆる 事 業 部 や 分 社 という 組 織 デザインなのであった よく 知 られているように 事 業 部 制 ( multidivisional system:m-form ) とは 1920 年 代 の 米 国 において 誕 生 した 新 しい 理 念 にもとづく 企 業 組 織 で あった それまでの 企 業 組 織 は 各 種 の 職 能 ( functions )を 個 別 の 単 位 とし て 管 理 する いわゆる 職 能 別 組 織 ( functional or unitary system:u-form ) が 一 般 的 であった 6) 事 業 部 制 は 伝 統 的 な 職 能 別 組 織 とは 異 なり それぞ れの 事 業 部 が 開 発 製 造 販 売 などの 職 能 を 一 括 して 持 つ 自 律 的 な 事 業 単 位 から 構 成 されたのであり また それぞれの 事 業 部 は 独 立 採 算 制 の 分 権 的 な 事 業 単 位 でもあった このように 事 業 部 制 はすでに 1920 年 代 の 米 国 において 誕 生 していたが さきに 述 べたように 幸 之 助 は 米 国 の 事 業 部 制 とはまったく 無 縁 に 1933 年 に 自 らの 必 要 に 迫 られた 結 果 として 独 自 に 作 り 出 したのである したが って この 複 数 事 業 部 制 の 組 織 ( M-form )のことを 日 本 語 で 事 業 部 と 名 付 けたのは もちろん 幸 之 助 である 日 本 において 事 業 部 制 が 広 く 企 業 に 採 用 されはじめるのは 戦 後 の 1960 年 代 以 降 のことであるが 今 日 幸 之 助 は それを 日 本 で 初 めて 導 入 したパイオニアであるだけではなく ま た 名 付 け 親 としての 栄 誉 をも 同 時 に 担 っているのである 他 方 さきに 松 下 産 業 団 の 形 成 について 述 べたが 日 本 経 済 におい て 企 業 がその 傘 下 に 数 多 くの 分 社 をもちグループ 化 をスタートさせた 6) A.Chandler Jr., Strategy and Structure, The MIT Press,

66 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 のは 1930 年 代 のことであった 7 ) したがって 分 社 という 用 語 そのもの も 同 じ 1930 年 代 から 使 われはじめたものと 思 われる そして 管 見 の 限 りでは 明 確 に 分 社 という 用 語 を 初 めて 用 いたのも やはり 幸 之 助 で あったと 思 われる すなわち 前 述 したように 幸 之 助 は 1935 年 にそれまでの 個 人 企 業 形 態 を 株 式 会 社 へと 組 織 変 更 するとともに 事 業 部 制 をとりやめて 当 時 のす べての 事 業 単 位 (4 事 業 部 )を 子 会 社 として 分 社 化 した いわゆる 分 社 制 のスタートである その 際 に 松 下 電 器 産 業 は 松 下 電 器 組 織 及 基 本 内 規 を 作 成 して 産 業 本 社 と 分 社 との 間 の 関 係 について 定 めている 以 下 そ の 要 点 だけを 拾 ってみると 次 のようになる 8) まず 組 織 部 分 については 幸 之 助 は 明 確 に 本 社 と 並 んで 分 社 (さらには 友 社 )という 用 語 を 用 いて 分 けていることがわかる また... 基 本 内 規 部 分 においても 本 社 ハ 其 ノ 必 要 ニ 応 ジ 分 立 会 社 ヲ 設 立 経 営 シ 又 ハ 他 ニ 投 資 ヲ 為 スモノトス ( 第 1 条 )などとあるように 分 立 会 社 という 言 葉 が 分 社 と 同 意 義 に 使 われていた むしろ 条 文 の 中 では 分 立 会 社 を 省 略 して 分 社 という 用 語 が 使 われている また... 具 体 的 に 分 社 に 関 する 取 り 決 めとしては たとえば 分 立 各 社 ノ 経 営 ハ 本 規 及 幹 部 会 議 ニテ 決 定 セル 基 本 経 営 方 針 ヲ 基 調 トシテ 之 レヲ 行 フモノト.. ス ( 第 9 条 ) あるいは 本 規 ニ 於 テ 分 社 ト 称 スルハ 本 規 制 定 時 現 在 表 示 ノ 各 社 ノ 外 投 下 資 本 二 分 ノ 一 以 上 ニシテ 本 社 店 員 ヲシテ 直 接 経 営 ニ 当 ラシ ムル 会 社 ヲイフ ( 第 10 条 ) などとされている ちなみに ここで 店 員 とは 当 時 の 松 下 電 器 産 業 では 本 社 々 員 ヲ 店 員 ト 称 シ ( 第 13 条 )てい.. たのであり 店 員 ハ 凡 テ 本 社 ニ 於 テ 採 用 シ 籍 ヲ 本 社 ニ 置 キ 便 宜 分 社 ニ 派 遣 ヲ 命 ジ 各 担 任 業 務 ニ 当 ラシムルモノトス ( 第 18 条 )とされていた また.. 翌 年 になると 本 社 及 各 分 社 ノ 経 理 事 務 ノ 統 一 ヲ 目 的 トシ て 経 理 事 務 処 理 準 則 が 制 定 されている 7) 日 本 の 1930 年 代 における 分 社 化 と 企 業 グループの 形 成 については 下 谷 政 弘 日 本 の 系 列 と 企 業 グループ-その 歴 史 と 理 論 - 有 斐 閣 1993 年 など 参 照 8) 詳 しくは 松 下 電 器 松 下 電 器 社 史 資 料 (7) 1962 年 73

67 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) このように 分 社 という 用 語 もまた 幸 之 助 の 造 語 であるように 思 わ れるのである 3. 販 売 店 網 の 形 成 幸 之 助 の 事 業 が 順 調 に 成 長 した 背 景 には 戦 前 に 彼 が 作 り 出 した 独 特 の 販 売 店 網 の 展 開 がある すなわち 製 品 を 販 売 するための 積 極 的 な 販 路 開 拓 の 努 力 そして 全 国 的 な 営 業 所 網 の 構 築 は 大 きな 意 味 を 持 っていた 彼 が 作 り 出 した 営 業 所 網 は 戦 後 の 高 度 成 長 期 においても 大 衆 消 費 社 会 の 時 代 の 流 通 チャネルとして 貢 献 した 世 に 販 売 の 松 下 ともいわれたよう に とくに 家 電 製 品 の 大 量 生 産 は その 大 量 販 売 によってこそ 支 えられた のである 同 社 の 販 売 網 の 特 色 は 産 業 本 社 内 の 営 業 部 署 の 整 備 や 専 売 代 理 店 の 確 保 もさることながら 全 国 的 な 系 列 小 売 店 の 展 開 にあった 小 売 店 の 系 列 化 ( 専 属 化 )は 1935 年 の 連 盟 店 制 度 からスタートした 当 時 家 電 製 品 をめぐる 市 場 では 激 しい 値 引 き 競 争 と 顧 客 争 奪 戦 があっ た 幸 之 助 が 作 り 出 した 連 盟 店 制 度 は メーカー 代 理 店 小 売 店 の 三 者 間 の 共 存 共 栄 を 積 極 的 に 図 ろうとしたものであった つまり 代 理 店 ごとに 主 要 な 取 引 小 売 店 をそれぞれリストアップし それらを 連 盟 店 として 登 録 した 登 録 された 小 売 店 ( 連 盟 店 )は 一 代 理 店 だけから 仕 入 れ ることになり 代 理 店 単 位 での 小 売 店 の 系 列 化 を 目 指 したのである この 連 盟 店 制 度 の 確 立 によって 代 理 店 は 取 引 先 が 安 定 し 小 売 店 もまた 経 営 が 安 定 して 顧 客 サービスや 販 売 増 進 に 傾 注 できるようになったという 幸 之 助 は 代 理 店 からの 報 告 にもとづいて 優 良 な 連 盟 店 に 対 しては 年 2 回 感 謝 配 当 金 を 贈 呈 した 連 盟 店 の 数 は 全 国 的 に 増 大 していき 1941 年 末 には 1 万 店 を 越 えるまでになった しかし 時 代 はすでに 戦 時 経 済 に 突 入 していた 販 売 系 列 網 が 実 質 的 に その 役 割 を 果 たすようになるのは 戦 後 のことであった 74

68 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 つまり 第 二 次 大 戦 後 幸 之 助 が 販 売 系 列 網 の 再 建 に 取 りかかったのは 早 くも 1946 年 のことであった 松 下 が 戦 後 ただちに 販 売 組 織 ( 代 理 店 小 売 店 )の 強 化 を 始 めたことは 驚 くべきことであった なぜなら 多 くの メーカーは 生 産 態 勢 をどう 再 建 するかに 手 一 杯 だったからである 9) 幸 之 助 はすでに 戦 前 に 作 り 上 げていた 遺 産 の 上 に 戦 後 はさらに 精 緻 な 販 売 網 を 構 築 していった 折 しも 戦 後 日 本 の 1950 年 代 には ラジオなど 主 要 製 品 の 他 にも 冷 蔵 庫 ( 白 黒 )テレビ ( 噴 流 式 ) 洗 濯 機 などの 新 製 品 が 登 場 し これらは 三 種 の 神 器 と 呼 ばれた 戦 後 の 家 電 ブーム のスタートであり 家 電 製 品 の 生 産 高 は 急 速 に 増 大 していった 51 年 からはラジオの 民 間 放 送 も 開 始 され 53 年 にはテレビ 放 送 も 始 まり この 1953 年 は 電 化 元 年 とさえい われたのである こうしたブームは 必 然 的 に 家 電 メーカーの 間 での 激 し い 販 売 競 争 を 招 いた これに 加 えて 同 じ 頃 には 日 立 製 作 所 三 菱 電 機 東 芝 などの 重 電 機 メーカーが 巨 大 な 資 本 や 技 術 力 をもって 家 電 部 門 に 本 格 的 に 参 入 してき た 競 争 はいっそう 激 しくなり より 強 固 な 販 売 体 制 を 構 築 することは 焦 眉 の 課 題 であった 幸 之 助 は 代 理 店 を 選 択 する 際 には 販 売 力 旺 盛 にして わが 社 に 対 する 協 力 度 の 高 い 代 理 店 のみを 厳 選 し 10) た 具 体 的 に 1949 年 には 代 理 店 を 会 員 と する ナショナル 共 栄 会 を 結 成 した 表 -11 に 示 したように 当 初 その 会 員 数 は 240 店 であったが 55 年 には 580 店 にまで 増 大 した 幸 之 助 は 言 っている 今 後 の 発 展 を 目 指 すためには 代 理 店 と 松 下 電 器 とが 一 心 同 体 にならなけれ ばならない メーカーは 代 理 店 の 工 場 であり 代 理 店 はメーカーの 支 店 出 張 所 である 11) なお この 代 理 店 制 度 は すぐ 後 には 新 たな 販 売 会 社 制 度 へと 姿 を 変 えて より 大 きな 発 展 を 遂 げていくこととなる 9) 岡 本 康 雄 日 立 と 松 下 ( 下 ) 中 公 新 書 1979 年 5 ページ 10) 松 下 電 器 松 下 電 器 営 業 史 ( 戦 後 編 ) 1980 年 53 ページ 11) 松 下 電 器 松 下 電 器 営 業 史 ( 戦 前 編 ) 1979 年 131 ページ および 前 掲 松 下 電 器 営 業 史 ( 戦 後 編 ) 58 ページ 75

69 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) < 表 -11> 1>oooooooooooooo 他 方 小 売 店 制 度 については 49 年 には 本 格 的 に 復 活 しはじめることと なった 各 種 の 利 益 還 元 や 優 良 店 の 表 彰 などの 制 度 が 導 入 され その 結 果 連 盟 店 の 数 は 当 初 は 6 千 店 ほどであったものが 50 年 代 の 後 半 には 約 4 万 店 にまで 急 増 した 連 盟 店 制 度 の 復 活 と 前 後 して 小 売 店 をメンバーとす る ナショナル 会 が 結 成 されて 販 売 促 進 研 究 会 技 術 講 習 会 工 場 見 学 会 などがさかんに 開 かれ メーカー 代 理 店 小 売 店 の 三 者 間 における 密 接 な 交 流 が 図 られた さらに より 確 実 性 の 高 い 販 売 系 列 網 を 確 立 するために 幸 之 助 は 57 年 から 販 売 会 社 制 度 をスタートさせた これは 原 則 的 に 一 地 域 一 社 と いう 担 当 地 域 制 (テリトリー 制 )の 確 立 を 目 指 したものであった 当 然 の ことであったが これまでの 小 売 店 はもちろん 代 理 店 もまた 松 下 電 器 に 76

70 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 とってみれば 外 部 の 企 業 であった しかし この 販 売 会 社 には 主 要 なも のには 松 下 電 器 も 部 分 的 に 資 本 参 加 し 販 売 系 列 全 体 をより 強 固 なものに 仕 上 げようとしたのである あ た み 以 上 のような 幸 之 助 の 販 売 網 形 成 にかける 情 熱 において いわゆる 熱 海 会 談 のエピソードを 抜 かすわけにはいかないであろう 1964 年 日 本 経 済 は 高 度 成 長 の 曲 がり 角 にあり 景 気 は 悪 化 していた 松 下 電 器 も 戦 後 初 めての 減 収 減 益 の 苦 境 の 中 にあった 販 売 会 社 や 代 理 店 もほとんどが 赤 字 経 営 に 陥 っており 幸 之 助 が 築 き 上 げてきた 販 売 体 制 は 深 刻 な 状 況 に 見 舞 われていた 幸 之 助 は 同 年 7 月 に 全 国 の 販 売 会 社 や 代 理 店 の 社 長 たちを 熱 海 のホテルに 招 待 し 3 日 間 の 懇 談 会 をもったので ある 懇 談 会 では 社 長 たちの 松 下 電 器 に 対 する 日 ごろの 不 平 不 満 が 噴 出 した 松 下 の 製 品 に 特 徴 がなくなってきた 製 品 を 無 理 やり 押 し 付 けられた 松 下 の 社 員 が 官 僚 的 になってきた 12 ) などの 苦 情 が 相 次 いだ これを 聞 いて いた 幸 之 助 は 延 べ 13 時 間 にわたり 涙 とともに 販 売 会 社 が 儲 からない のは 松 下 が 儲 からないのと 同 じである このままにしておくことは 許 され ない 販 売 会 社 を 責 める 前 に まず 松 下 電 器 自 身 が 改 めるべき 点 を 改 め なすべきことをしなければならない 13) として 懇 談 会 の 後 自 ら 翌 月 には 営 業 の 第 一 線 に 立 ち 戻 ったのである 当 時 70 歳 となりすでに 会 長 職 に 退 いていた 経 営 の 神 様 の 直 接 の 説 得 に 社 長 たちは 大 いに 鼓 舞 されて 松 下 電 器 は 戦 後 初 の 深 刻 な 危 機 的 状 況 を 脱 したのである 以 上 見 てきたように 幸 之 助 は 企 業 組 織 の 改 革 において 斬 新 なアイディ アを 提 供 し それを 自 ら 実 践 してきたのである それは 家 電 産 業 を 中 心 とする 同 社 の 事 業 が 膨 大 な 種 類 の 製 品 を 生 み 出 し つねに 経 営 管 理 上 の 諸 問 題 の 解 決 を 彼 に 強 く 迫 ったからでもあった 幸 之 助 が 実 践 した 事 業 部 制 や 分 社 制 そして 系 列 販 売 網 の 構 築 などは 事 業 の 多 角 化 と 製 品 の 大 量 生 12) 前 掲 松 下 電 器 50 年 の 略 史 333 ページ 13) 同 上 77

71 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 産 とがもたらす 経 営 管 理 上 の 難 問 に 対 する 彼 なりの 必 然 的 な 解 答 でもあっ たろう 幸 之 助 のこうした 企 業 組 織 のアイディアは とくに 第 二 次 大 戦 後 には 彼 に 続 いた 諸 企 業 によって 広 められていき 戦 後 日 本 経 済 の 発 展 に 結 びついたのである おわりに 経 営 の 神 様 の 限 界 松 下 電 器 にとって 現 在 でも 創 業 者 松 下 幸 之 助 の 存 在 感 はまさに 絶 大 である その 後 の 松 下 電 器 の 経 営 者 たちにとって 幸 之 助 の 語 録 は 今 日 でもバイブルと 同 様 に 扱 われている 同 社 の 建 物 のどの 部 屋 に 入 って も 幸 之 助 の 写 真 とともに 自 筆 の 言 葉 が 飾 られている いわば カリ スマと 化 した 幸 之 助 の 存 在 は 松 下 電 器 の 今 後 の 成 長 にとってつねに 省 み られるべき 対 象 であるとともに その 偉 大 なる 存 在 をいかに 乗 り 越 えるか が 大 きな 課 題 となっている 1964 年 当 時 の 松 下 電 器 産 業 は 大 きな 路 線 転 換 をした 子 会 社 の 松 下 通 信 工 業 において 試 行 錯 誤 を 繰 り 返 してきたコンピュータの 開 発 事 業 から 撤 退 することを 表 明 したのである それまで 同 社 では すでに 5 年 の 歳 月 と 十 数 億 円 もの 研 究 開 発 費 をかけ コンピュータ 事 業 の 成 功 に 向 けて 種 々の 努 力 が 重 ねられていた 当 時 ようやく 試 作 品 の 実 用 段 階 にまで 漕 ぎ 着 けていたのである しかし 同 社 は そこから 撤 退 すると 宣 言 したの である 撤 退 の 宣 言 は 幸 之 助 の 決 断 によるものであった かつて 幸 之 助 は 戦 前 の 一 時 期 家 庭 内 で 使 用 されるモータの 数 が 一 国 の 文 化 のバロメーターになる と 述 べたことがある 14 ) つまり 社 会 生 活 の 発 展 は 家 庭 内 にいくつモータがあるかにかかっている と 述 べたので ある 今 日 では 実 際 に 掃 除 機 や 冷 蔵 庫 など 家 電 製 品 の 多 くに 小 型 のモ ータ( 電 動 機 )が 組 み 込 まれるようになっている 幸 之 助 はこのように 述 14) 松 下 電 器 松 下 電 器 社 史 資 料 (10) 1963 年 78

72 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 べて 当 時 の 周 りの 反 対 を 押 し 切 って 小 型 モータ 部 門 へ 進 出 したのであ る 小 型 モータ 部 門 への 進 出 は たんに 家 電 製 品 部 門 だけではなく 同 社 の 産 業 機 械 部 門 への 多 角 化 にもつながることとなった まさに 慧 眼 であっ たというべきである しかしながら 反 面 コンピュータ 事 業 からの 撤 退 という 決 断 は その 理 由 がどうであれ その 後 の 松 下 電 器 の 発 展 にとって 現 実 に 大 きな 足 枷 と なってしまった 今 日 同 社 は 総 合 エレクトロニクス 企 業 への 発 展 を 目 指 している 同 社 のエレクトロニクス 関 連 のさまざまな 製 品 の 内 部 には 周 知 のように 大 小 のコンピュータ 技 術 が 組 み 込 まれるようになっている 今 日 の 日 常 生 活 の 全 般 においても もはやコンピュータを 抜 きにしては 語 れない 状 況 となっていることはいうまでもない 幸 之 助 のコンピュータ 事 業 からの 撤 退 宣 言 は 同 社 のその 後 のコンピュータ 関 連 技 術 の 発 展 に とっても 大 きな 代 償 を 求 めたのである しかし 問 題 は たんに 同 社 のコンピュータ 関 連 技 術 の 発 展 への 影 響 う んぬんなどにあるのではなかった すなわち 幸 之 助 のこの 決 断 に 対 して 当 時 の 経 営 者 の 誰 一 人 として 明 白 な 異 議 を 唱 えることができなかっ た ということにこそある 一 代 で 世 界 的 な 規 模 の 巨 大 企 業 を 築 き 上 げ 戦 後 日 本 の 経 済 発 展 と 国 民 生 活 の 向 上 に 多 大 の 貢 献 を 成 し 遂 げた 経 営 の 神 様 の 存 在 は それほどにまで 大 きかったのである 79

73 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 參 考 文 獻 1) 岡 本 康 雄 日 立 と 松 下 ( 下 ) 中 公 新 書 1979 年 2) 下 谷 政 弘 日 本 の 系 列 と 企 業 グループ-その 歴 史 と 理 論 - 有 斐 閣 1993 年 3) 松 下 電 器 松 下 電 器 50 年 の 略 史 1968 年 4) 松 下 電 器 松 下 電 器 営 業 史 ( 戦 後 編 ) 1980 年 5) 松 下 電 器 松 下 電 器 営 業 史 ( 戦 前 編 ) 1979 年 6) 松 下 電 器 松 下 電 器 社 史 資 料 (7) 1962 年 7) 松 下 電 器 松 下 電 器 社 史 資 料 (10) 1963 年 8) 松 下 電 工 松 下 電 工 60 年 史 1978 年 9) A.Chandler Jr., Strategy and Structure, The MIT Press,

74 松 下 幸 之 助 と 企 業 組 織 改 革 Konosuke Matsushita and His Corporate Innovation Masahiro Shimotani Professor Kyoto University ` Abstract Konosuke Matsushita, the founder of the Matsushita Electric or the Panasonic, is one of the most revered entrepreneurs, well known not only in Japan but in worldwide business circles. He started a small business in 1918, manufacturing simple electric plugs and bicycle lamps. Though rapidly grown up to a large enterprise by the 1930s with making diversified electricity-related products, his business would symbolically represent the development of the postwar mass-consumer society to build up the so-called Matsushita Kingdom in the field of various home appliances, electronics devices, AV and information instruments, and some industrial equipment. Nowadays he has become recognized as the first designer of his own decentralized organization, the multidivisional system, the first and only case in prewar Japan, that was introduced in his company as early as in His name should also be remembered as the builder of his nationwide sales network as well, through which he 81

75 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) could integrate mass-production and mass-sales. Because of his brilliant success story and his distinguished philosophy as well, he has been frequently called the Maestro of Management. A lot of books have been published so far about his own life, career, achievements, and ideas. This paper will especially focus on his contribution in the field of designing a corporate organization, rather than his philosophy. While he was such an influential giant that no one denies his significance as an entrepreneur, the following sides should also be recognized. Given his towering influence no top executives of Matsushita Electric after him dared to oppose his decisions. In 1964, for instance, the company declared to exit from computer hardware business despite the massive investment in R&D and the serious commitment for 5 years. This retreat would bring about so much strategic and competitive damages to the company. In retrospect, even the Maestro of Management could not foresee the future trends of IT, when he made a decision to withdraw. Key words : Corporate Innovation, Konosuke Matsushita, Maestro of Management 82

76 경영사학 제20 집 제5 호 ( 통권40 호) 한국경영사학회 전후 한국경제성장을 이끌어온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 金 聖 壽 * 1) I. II. III. IV. 서 론 目 次 현대 정주영 회장의 생애와 경영활동 출생기와 시대적 배경 소년기의 교육과정 청년기 생애 최초의 상업 활동 청년기 혁신적 경영활동 시작 현대건설의 창립과 발전 장년기 현대건설의 성장과 재벌 형성 7. 86세의 생애말기의 주요한 결과 현대 정주영 회장의 경영이념과 사상 경영이념의 정의 현대의 기업정신 현대 정주영 회장의 경영이념과 사상 현대 정주영 회장의 성공적 경영전략 경영전략의 개념 정주영 회장의 성공적 경영전략 V. 결 론 : 전후 한국경제성장의 공헌 참고문헌 * 慶 熙 大 學 校 國 際 經 營 大 學 敎 授 ( 現 ) 韓 國 企 業 經 營 綜 合 硏 究 院 院 長 ( 現 ) 韓 國 企 業 經 營 學 會 會 長 83

77 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) I 서 론 본 연구는 도전과 개척, 그리고 창조의 반세기와 대한민국 전후 한국경제성장 을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 峨 山 鄭 周 永 의 生 涯 와 經 營 理 念 그리고 經 營 戰 略 을 중심으로 고찰하는 데 目 的 을 두었다. 한편으로는 지난 수년 동안 ( 사) 한국 경영사학회에서 정기적으로 진행되어온 창업자 연구, 기업가연구 사업의 일환으 로 실시되었으나 이번에는 국제학술대회에 전후 한국과 일본의 경제성장을 이끌 어온 기업가 라는 주제 발표에 현대그룹의 정주영 회장의 연구 가 선정된데 이 연구의 의미를 두었다. 지난 1915년 11월 강원도 통천군 아산리라는 작은 농촌마을에서 북청 물장수의 기질을 타고난 아산 정주영 회장은 2001년 3월 86세의 생애를 지나는 동안 불굴 의 개척정신과 창의적 노력, 진취적 기상으로 1999년 기준으로 매출액 80 조원, 종 업원 20 만 명을 거느린 한때에는 한국 제일의 현대그룹을 창조한 自 手 成 家 型 의 代 表 的 企 業 家 이다. 현대그룹의 사훈은 勤 勉, 儉 素, 親 愛 등 三 大 要 素 로서 이는 아산 정주영 회장의 경영철학이다. 그리고 현대그룹 정신으로 계승하고 있는 創 造 的 예지, 積 極 意 志, 强 忍 한 推 進 力 은 바로 아산 정주영회장의 經 營 思 想 이다. 현대 창업자 아산 정주영 회장은 말하고 있다. 現 代 創 立 50 년 을 회고하면서 다음과 같이 현대는 단순히 장사를 하는 기업이 아니라 국가의 경제발전을 위해서 분투하 는 중추적 역할을 하는 집단이다. 나는 자신 있게 말하는 데 현대그룹의 과거 50 년 동안의 성장은 우리 현대 자신을 위해서 노력했을 뿐만 아니라, 한국의 경제 성장을 일으키는 데 先 導 的 役 割 을 담당했다고 생각 한다. 나는 사업보국주의 이 념을 경영철학으로 삼았다. ( 정주영, 1997) 파란만장하고 패기만만한 아산 정주영 회장은 현대그룹의 성장사를 반전에 반 전을 거듭하는 鄭 周 永 式 事 業 展 開 法 으로 개도국 자본주의 시장경제에서 살아남는 법을 가르처 주는 신손자병법이다라고 까지 평가하고 있다.( 고동률, 1997) 본 연구방법은 경영사학적 접근방법으로 활용했다. 즉 기업사, 기업가사, 문헌 사 등의 사료 중심으로 미국 Harvard University 의 Gras Norman Scott Brien 교수가 개발한 하버드經 營 史 硏 究 所 의 연구방법을 도입하여 활용하였다. 그리고 본 연구의 구성은 크게 4 개 부분으로 구분하여 고찰하였다. 첫째, 서론 부문으로 연구의 목적과 방법, 둘째, 아산 정주영 회장의 생애와 경영활동, 셋째, 정주영의 경영이념과 전략, 넷째, 결론 부문 등으로 구성하였다. 84

78 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 II. 현대 정주영 회장의 생애와 경영활동 월 아산 장주영 회장은 그가 지은 이 땅에 태어나서 의 글을 보면 그는 1915년 일 강원도 통천군 송전면 아산리의 가난한 농가에서 부친 정봉식, 모친 한 성실의 6남 1 녀 중 장남으로 태어났다. 그의 조부가 정주영의 아호를 아산 이라고 지은 것은 그의 출생지명에서 딴 것이라고 하였다. 그는 그가 태어난 아산리는 50호 정도의 작은 농촌 마을로 송전 해수욕장과 가 까운 풍광이 아름다운 곳으로 표현하고 있다.( 정주영 1998) 그는 그의 고향풍경을 아름답게 표현하고 있어 많은 사람들이 정주영 회장의 금강산 개발 목적은 남북 화해, 평화통일의 밑거름이 되는 목적도 있겠으나, 순수한 고향의 아름다움을 개 발하여 자신의 족적을 남기기 위한 위대한 인간의 자연적 속성에서 비롯되었다고 한다. 정주영의 출생기와 시대적 배경은 < 표1> 로 대신하여 설명하고자 한다. 정주영의 출생과 가계 출생시기 전후 시대적 배경 * 1915년 11월 25 일 출생: 강원도 통천 군 송전면 아산리, 가나한 농가(50 호) 부친 : 鄭 捧 植, 모친 : 韓 誠 實 * 집안은 함경북도 명천에서 11 대, 길주 에서 4 대, 한때 북청 물장수, 증조부 때 아산으로 옮겼으며, 조부는 한 학, 서당선생, 부친은 7 남매의 장손, 부지런한 농사꾼. * 부친 : 검약정신, 끈기와 집념, 인간의 도리 를 가르쳐 준 큰 스승 ( 정주영 술회) * 국제 : 1914년 8월 제1차 세계대전 시작 1918년 11 월 종전(30 여국이 참전, 3천5 백억불의 전비 손실) * 국내 : 1910년 일제 강압에 의한 한일합 * 병이 시작된 5 년후, 1919년 3.1운동 5살 때 일본제국주의 기초공작기 일제의 식민지지배 통치정책이 기승을 부 리는 일본강점기의 시기 -> 조선총독부 토지조사사업의 전개, 식민지수탈정책, 조선회사령 공포: 민족기업 억압 시작, 산업권의 착취와 토지독점의 수탈이 본격화되었던 시기 자료 : 김성수 (1999) 외, 아산 정주영 연구, 수서원, pp.12~14. 참조. 85

79 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 아산 정주영의 소년기 전개과정을 여기에는 크게 2 기로 구분하여 고찰한다. 첫째는 교유과정의 시기이고 둘째는 고향을 탈출하는 가출의 시기이다. 정주영의 소년기 교육과정을 < 표 2> 로 대신하고 자 한다. 교육과정의 시기 고향을 탈출하는 가출의 시기 * 4회의 가출 - 정주영 소년의 꿈 : 변호사 이유 : 이광수 작품 흙 의 주인공처럼 변호사가 되어 가난하고, 힘없는 농민의 편이 되어 주기 위함. * 6세가 되던 해 1921년 3.1민 사실확인 발견 : 법률통신, 육법전서, 족독립운동이 우리강토 구석구 보통고시 친 사실 발견 석 전파되고 있는 시기 제1회 가출 -> 청진, 나진 건설공장-2개월 제2회 가출 -> 서울, 부친에게 붙잡힘 * 정주영 소년은 서당에 들어가 제3회 가출 -> 소 판돈 70원 -> 서울 상경 3 년간 글을 배움 : 조부가 훈장 덕수궁 옆 경정실전부기학원 선생님 제4회 가출 -> 19 세 봄, 인천 부두하역 -> 千 字 文, 童 蒙 先 習, 小 學, 大 노동자, 보성전문학교( 고려 學, 孟 子, 論 語, 唐 詩 등을 공부 대학교) 건물 신축공사장 노동자로 일함. 함 * 소년 정주영이 4번의 가출로 당시 동네에 서 부모님의 속을 무던히도 썩이는 망나니 * 서당 수학후, 송전공립보통학 자식이라고 비난 받았으며, 실제로 그의 모 교 입학, 우수하여 3학년에 월 친은 그가 벗어놓고 간 옷을 찢으면서 소리 반, 5년 만에 초등학교 졸업 내어 우시기도 했다고 그는 술회하고 있다. * 초등학교 졸업 후 부친은 정 ( 정주영,1998) 주영 소년을 농부로 키우기 시 * 소년 정주영의 가출의 의미 작, 정착시키고자 함 -> 소년 정주영의 가출은 생존의 극복을 위한 문제로서 오늘날 흔히 일어나고 있는 청소년의 비행 가출과 동일시로 보는 견해는 문제의 차이가 있음을지 적( 김성수, 1999) 자료 : 정주영 (1998), 이 땅에 태어나서, 솔 출판사, pp.15~20. 김성수 (1999), 정주영의 생애와 경영이념, 수서원,14~17. 여기에서 한 가지 소년 정주영이 왜 가출하게 되었는 가? 에 대하여 정주영 회장은 이 땅에 태어나서 -그리운 고향 통천- ( 정주영, 1997) 이라는 글에서 당시 비참한 생활의 배경을 설명하고 있다. 86

80 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 첫째, 농사일은 새벽부터 밤늦도록 까지 계속되었다 둘째, 조금만 흉년이 들어도 아침에 강냉이 밥, 저녁에는 죽을 먹는 1일 2식으 로 연명 하였다. 따라서 점심을 굶으며, 저녁에는 콩죽을 쑤어 먹는 것이 다반사이며, 흉년이 들 때는 모두가 굶는 것은 참을 수 없었다. 셋째, 봄이 되면 양식이 떨어져 초근목피로 끼니를 때우곤 하였다. 넷째, 향상 가슴이 답답하고 앞날이 막막한 생각이 들었다. 다섯째, 농사일은 고된 노동에 비해 소득이 너무 적은 게 불만이었다. 여섯째, 소년 정주영의 꿈, 즉 변호사가 되어 도시에서 생활하겠다는 희망. 따라서 무엇인가 농사일이 아닌 다른 일을 해보고 싶었으며, 무슨 일을 하든 농사에 들이는 노력 만큼이면 농사보다 소득이 나을 것 같았다고 생각하였다. 그 의 고향으로의 탈출은 집요하였다고 전한다.( 김병하, 1999) 고향을 탈출하는 가출 의 시기의 내용은 < 표2> 를 참조하기 바란다. 1934년 19세의 청년이 된 정주영은 쌀 가게 복흥상회에 배달원으로 취직하게 되었다. 그는 비로소 노동과 방황의 청소년기를 지나고 안정된 직장생활을 하게 되었다고 한다. 그 후 그는 복흥상회를 인수한 후 경일상회로 상호를 변경하여 최초의 상업활동을 시작한다. < 표3. 참조> 시 기 상 업 활 동 내 용 1934 (19 세) -> 쌀 가게 복흥상회 배달원 취직 3년이 지난후 1 년 월급, 쌀 20 가마/ 부친인정 -> 시골에서 농사짖는 것보다, 서울에서 취직하는 것이 좋다 (23 세) -> 福 興 商 會 인수( 주인집 아들의 노름과 방만한 생활에 살 가게 문 닫음, 주인의 권유에 따라 성실한 청년 정주영에게 복흥상회 인수 하게됨 ) 1938년 1 월 신당동에 상호 京 一 商 會 로 변경 최초 상업 활동 시작 (24 세) -> 조선총독부 전시동원체제 -> 쌀 배급제 실시 경일상회 폐쇠, -> 고향에 논 2천평 부친에게 사드림 -> 고향 면장의 장녀, 변중석 (17 세) 과 결혼 -> 경일상회에서 축적한 자본 이부로 고향 논 6천평 매입 투자 자료 : 김성수(1999), 아산 정주영 연구, 수서원, p

81 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 청년 정주영은 1940년 3월 25 세 때, 아도서비스 자동차 수리공장을 3천5 백원, 운전자금 5백원을 합하여 5 천원으로 사업을 시작한다. 그러나 개업한지 20일만에 불이 나서 고장이 전소 되었다. 그러나 청년 정주영은 죄절하지 않았다. 다시 3천5 백원을 빌려 신설동 뒷골목에서 재기하였다. 정주영의 성실한 신용과 신의로 정신없이 밀려드는 일감으로 많은 돈을 벌었다. 따라서 단시일 내에 빌린 돈도 물론 이자까지 모두 갚았다. 여기에서 정주영이 단시일 내에 많은 돈을 벌 게 된 원인을 제시해 본다. 1940~1942년 당시에는 자동차 보급률이 지극히 낮은 관계로 자동차를 빨리 수 리하여 고객을 매우 기쁘게 하였다. 다른 수리공장에서는 수리비를 더 받기 위해 서 시간을 끄는 것이 일쑤였으나 정주영은 수리시한을 단축하였다. 이와 같은 노 력의 결과는 당시에 일본인조차 칭송을 아끼지 않았으며 경영은 순조로워 많은 수익을 올릴 수 있었다. 오직 신용과 신의의 정신으로 일구어낸 결과라고 평가하 고 있다.( 김병하, 1999) 상세한 내용은 < 표4> 를 참조하기 바란다. 시 기 혁신적 경영활동 내용 (25 세) (28 세) (30 세) 해 방 -> 아도서비스 자동차 수리공장 설립 5천원의 자본금으로 사업 시작 ( 당시 전문학교 졸업, 은행원 월급 70 월) -> 1940~1942 년/ 단시일에 많은 돈을 벌음( 信 用 과 信 義 가 원인) -> 일제의 기업통제정책 -기업정바령 실시 아도서비스 일한공업소 흡수 합병/ 자동차 수리업 문닫음 -> 조선식산은행 총재 아들이 경영하는 보광광업주식회사 와 하청계약 / 황해도 수안군 홀동금광의 광석운반 ( 새 트럭 30 여대, 중고트럭 10 여대 보유) -> 초기의 상업자본 축적 (1) 일제 말기 쌀장사 (2) 자동차 수리업 (3 년) (3) 자동차 운수업 (2 년) 자료 : 김성수 (1999), 상게서. P.19~20. 참조 88

82 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 1945년 8월15 일 해방을 맞고 정주영은 고향으로부터 다시 상경하여 지동차 수 리업을 구상하였다. 자동차는 문명의 이기로서 자동차 관계사업은 전망이 좋다고 판단하였다.( 정주영. 1990). 당시는 정치적으로 혼란한 시기에 미 군정청으로부터 서울 중구 106번지의 적산 200여 평을 불하받아 1946년 4 월 現 代 自 動 車 工 業 社 를 설립하였다. 처음에는 30여명의 종업원으로 시작하여 1년후 에는 70~80명으로 증가하였다.( 정주영, 1990). 정주영이 최초의 현대건설을 창업하는 과정을 살펴보 면 < 표 5> 에서 보는 바와 같다. 시 기 (31 세) (32 세) (35 세) 최초 현대건설의 창업과정 현대 자동차 공업사 설립 * 종업원 30명 시작 * 미군 부대 불하 받은 낡은 자동차로 사업 * 1년만에 종업원 수 70~80명으로 증가 * 고객 -> 미군부대 -> 공사청부업 * 현대토건사 설립 * 건설업 시작 -> 미군관계공사 * 현대 자동차 공업사와 현대 토건사 합병 -> 현대건설주식회사 설립 * 사장 정주영 취임 * 공칭자본금 : 3천만원 * 불입자본금 : 750만원 * 서울 중구 필동 1가 41번지 * 정주영의 의욕 : 좋다, 이제부터 제대로 한번 사업을 해 보자 6개월만에 6.25전쟁 자료 : 정주영 (1997), 이 땅에 태어나서, 솔출판사, p.55. 참조. 김성수 ((1999) 외, 아산 정주영 연구, 수서원. pp. 21~22 다음은 1950년 6.25전쟁으로 거처 1960년대까지 현대건설의 발전과정을 다음 < 표6> 에서 살펴보고자 한다. 89

83 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 시 기 현대 건설의 발전과정 1950~ ~1959 (1) 부산피난 시절 / 정주영 현대건설 사장은 전쟁에 관련된 공사 수주 앞장 건설이란 平 和 시에는 평화를 건설하고, 전쟁시에는 그에 따른 공사를 하게 되니까 일이 있는 것 이라는 것 신념 ->시장적 기회포착 (2) 창의력과 불굴의 도전정신으로 미국공사 독점 사례 : 미국공사 독점 계기 * 1952년 12월 추운 혹한기 - 첫째, 미국 대통령 아이젠하워 한국 방문 -> 애로점 : 대통령 묵을 숙소( 운현궁)-> 화장실과 난방공사문제 대두/ 불가능한 공사를 단기간 완공(15일밖에 없는기간에 3일간 앞당겨 완공) / 이 공사로 미 8군관계자 신용 - 둘째, 부산 UN 군 묘역단장 공사 성공 사례 / 극적인 정주영의 기발한 아이디어, 추진력이 돋보이는 공사 -> 낙동강 연안의 파란 보리밭과 30대의 트럭으로 묘역 잔디공사 성공 - 셋째, 그 후 현대건설은 미군공사를 독점하면서 신의와 아이디 어, 성공, / 전시에도 일거리가 있다는 정주영의 신화를 남 기게 됨 (1) 1953년 4월 낙동강 고령교 복구공사 착공 공사기간 중 물가폭등으로 막대한 적자/ 회사의 존립마저 위태로움. / 부도위 기 / 동생의 집을 팔아 사업자금 충당/ 시련과 재기 과정. (2) 1957년 9 월, 최대 단일공사 한강인도교 복구공사 성공 이후 정부의 전쟁복구공사와 미군공사 수주로 급성장. -> 주한미국으로부터 : 인천제일도크공사, 오산비행장 활주로 포장공사 등 많은 공사 수주 년(45 세) (1) 정주영의 폭넓은 교분, 신의, 성실한 인간관계 (2) 동생 정인영의 미군측 인맥으로 공사 수준 급속히 성장. (3) 1960 년, 현대, 국내도급한도액 1위 차지 (4) 미국 Amsden, A 교수 평가 / Asia's Next Giant, " 정주영의 혁신적 경영활동 : 실패의 학습과정을 통하여 이룩함 실패의 경험, 공부가 된 학습과정을 통한 경영기법의 창출. 대표적사례 : 낙동강 고령교 공사의 시련, 미국공사의 철저하고, 엄격한 품질감독 검사를 통과 -> 현대건설의 시공능력 제고의 결정적 계기 자료 : 김성수 (1999) 외, 아산, 정주영 연구, 수서원, pp.22~25. 90

84 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 아산 정주영의 장년기(45 세~61 세) 시절 현대를 재벌로 성장시키고 그룹으로 형 성하였다. 그룹으로 형성한 과정에서 가장 큰 영향을 준 몇 가지 사업만을 제시 해 보고자 한다. 첫째, 1961년 장년기를 맞은 정주영은 창사 14 년 만에 사옥을 완공하고 ( 서울 중구 무교동), 1962년 7 월 단양 시멘트 공장을 착공하고, 1962년 12월에는 건설에 대한 공로로 대통령 표창장을 받는 등 사업에 대한 최대의 열정을 바친다. 둘째, 1965년 9월 30일 한국 역사상 최초로 해외진출을 하는 개가를 올리는 날 로서 기록된다. 태국의 파타니 나라티왓 (Pattani-Narathiwat) 고속도로 공사를 맡 게 되었고, 1966 년 본격적으로 월남에 진출하여 캄란 메콩(Com Rahn) 준설공사를 착공하였다. 그후 태국에서 6건의 고속도로 공사와 1 건의 매립 공사를 시행 하였다. 월남에 서 미해군 시설공병단이 발주한 캄란만 준설공사도 3 년만에 완성하였고, 그후 괌, 알라스카, 오스트리아, 파푸아 뉴기니어, 인도네시아, 중동 등지로 확대하여 자본 을 축적해 갔다. 우리나라에서 해외공사로서도 가장 큰 건설업체로 성장하였다. < 정주영이 해외진출을 적극화 한 이유> 4.19와 5.16 등 역동의 세월 속에 정부와 유착하여 공사를 따낸다는 비난을 받 게 된 정주영은 그 충격으로 해외 진출을 적극화하였다고 술회하고 있다.( 정주영, 1998) 당시에는 기술 축적이 빈약한 상황에서 정부의 큰 공사는 대기업에 지명 입찰 혹은 수의계약으로 공사를 하게 되어 말서의 소지가 있었으므로 정주영은 태국, 월남, 동남아 등 해외로 진출하게 되었다고 기술하고 있다( 정주영, 1999). 정주영은 1967년 4월 소양강다목적댐 공사 착수하여 1973 년에 완성하였으며, 그해 전국경제인연합회 부회장으로 피선되고, 동년 12월 29 일 현대자동차주식회 사 를 설립하였다. 1968년 2월 경부고속도로를 착공하여 1970년 6월 27일 세계 고속도로 사상 가 장 빠른 공기로 경부고속도로 전 공정 5분의 2 를 현대건설이 완성하였다.( 전장 428km 의 경부고속도로 개통). 그해 11 월 경부고속도로 건설공사 공로로 대한민 국 동탑산업훈장 을 받았다. 이 경부고속도로의 건설공사는 정주영 회장의 3 가지 성공법칙을 만들어 내었다. 첫째, 경부고속도로 견적 공사비를 단 20일 만에 산출한 것 91

85 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 둘째, 당제터널공사를 막대한 손해를 보면서도 오직 사업보국주의 정신으로 완 성하였다는 점-> 주판알을 뒤엎고 사업을 해야 할 때도 있다는 정신 셋째, 경부고속도로 공사현장에서는 작업과 관련된 인력, 장비, 차량이 최우선 되어야 한다는 법칙 -> 공사현장에서는 노동자가 대통령이다라는 소신 등이다. 정주영 회장은 1970년 10월 9일 고리원자력 1 호기를 착공하고, 1971년 2월 현 대그룹회장으로 취임한다. 그의 나이 56세 드디어 현대재벌 회장으로서 현대재벌 시대가 형성되었다.( 김성수, 2003) 우리는 여기에서 정주영 회장의 또 소개하고자 한다. 세계조선사 의 기록에 남길 업적 한 가지를 1972년 3월 23일 8천만 달러라는 막대한 자금이 소요되는 현대조선소를 건설하 였으며, 1973년 울산조선소 1 호기 기공식, 동년 12월 28일 현대조선중공업주식회 사 설립, 1974 년 현대엔지니어링주식회사 설립, 동년 2월 26일 현대자동차서비스 회사 설립 등으로 사업을 다각화하여 재벌형성의 성장가도를 가고 있으면서, 동 년 6월 26만톤급 유조선 2척 건조와 울산조선소의 1단계 준공을 마침으로서 2년 3개월만에 조선소 건설에서부터 배를 건조 진수하기까지 조선건조역사상 전무후 무한 기록을 남기게 되었다.(Richard M, Steers. 1999). < 여기에서 정주영 회장은 조선소를 건립하는 데 백사장 사진 한 장으로 영국 버클 레이즈 은행으로부터 차관을 성사시켰으며, 그리이스 선박왕 오니시스의 조카와 유조선 2 척을 계약하였으며, 우리 돈으로 환산하여 당시 14억을 수표로 받아 한국은행에 입금시킨 사례는 유명하다. 특히 계약과정에서 나타난 에피소드 를 소개하면, 당시 영국의 A&P 에풀도어사의 롬바통 회장은 정주영 회장에게 아 직 선주도 나타나지 않고, 한국의 상환능력과 잠재력도 믿음직스럽지 않아 자금 지원이 곤란하다는 대답을 듣게 된다. 이때 정주영 회장에게 번뜩 떠오르는 기지 가 하나 있었다. 거북선이 그려진 당시 한국의 돈 500원짜리 지폐를 생각하게 되 었다. 그는 이 지폐를 책상위에 올려놓고, 이것이 우리의 거북선이요, 영국의 조 선건조역사는 서기 1800 년경이라고 알고 있는 데, 우리는 이미 서기 1500년경에 이런 거북선 모양의 철갑선을 만들어 조선을 침략하는 일본을 혼낸 민족이요. 우 리가 당신네 보다 300 년이나 선박건조역사 가 앞서 있었오, 그 후 쇄국정책으로 산업화가 늦어져 국민의 능력과 아이디어가 녹슬었을 뿐 우리의 잠재력은 그대로 있소, 도와주시오 결국 롬 바통 회장은 선박건조의 가능성을 인정하였다는 것이 다. 정주영 회장의 CEO 로서의 기지와 열정 그리고 번뜩이는 아이디어. 도전과 개 척정신이 그대로 나타난 사례이다.> 92

86 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 - 가출한 막노동꾼에서 대한민국 재계의 총수 전국경제인연합회 회장이 되다 - 현대 그룹의 회장이 된 이후 1976 년 한국 최초의 자동차 고유 모델 포니 를 생 산하고 고려산업개발주식회사 설립, 동년 6월 17일 공사비 9억3천 14만 달러의 세 계 최대의 초대형 심해공사인 사우디아라비아 주베일 산업항 공사를 수주 일명 주베일드라마 라고 불릴 정도로 세계건설업계의 20세기 최대의 대역사로 지칭되 었던 공사가 성공하였다. 1976년 12월 현대종합상사주식회사와 아산 사업복지재단을 설립하여 이사장으 로 취임하였으며, 사회적 공헌으로 사회적 책임을 다할 것을 결심한다. 그리고 드 디어 1977년 2월 한국경제의 총수 자리인 제13 대 전국경제인연합회 회장 으로 피선되었다. 그 뒤 제14 대, 15 대, 16 대, 17대 등 전국경경제인연합회 장수 회장으 로 재직하였다. 가출한 막노동꾼에서 대한민국 재계의 총수 자리인 경제인연합회 회장 이 되는 성공시대의 표본이 되였다. 그리고 1981년 4 월 국민훈장 동백장을 수여받고, 그해 9월 IOC에서 열리는 바 덴바덴에서 올림픽의 서울유치를 위해 활동하였으며, 그해 9월 30일 제24회 세계 올림픽 개최지 서울 확정을 성공시키는 데 기여하였다. 1983년 2월 현대전자산업 주식회사를 설립하고, 1984년 2월 25일 서산 천수만 간척사업의 A지구 최종 물막 이 공사에 이른 바 鄭 周 永 工 法 으로 불리우는 폐유조선공법을 시도하여 4천7만 평을 간척하였다. 그 결과 연산 5 만톤의 쌀을 수확하였으며, 이 면적은 여의도의 33 배로서 우리나라 최대의 곡창지대인 김제평야보다 넓다. 이 유조선공법으로 절 약된 공사비는 290 억원이었으며,< 뉴스위크 > 와 < 타임> 지까지 유조선공법이 소개 되었고, 런던 뎀즈강 하류 방조제공사 를 성공시켰다. 특히 세계적인 철구조물회 사에서는 이 유조선공법 에 대한 자문을 구하기도 하였다. 현대그룹은 모기업인 현대건설의 성장이 현대자동차와 현대조선공업으로 이어 지면서 1967 년에 재벌로서 성장하였으며, 1996 년말 매출액은 69조7 천2백 57 억원( 약 70 조), 경상 GNP는 18%, 수출액은 152억4천 6 백만 달러, 한국 수출총액의 12% 를 점유하고 있었다. 자동차는 1995년 기준으로 1,218,766 대를 판매함으로써 국내점유 률 48.2%, 세계점유률 2.6%, 해외건설 18 억 달러, 조선 2,260천 GT로서 전 세계 11.1%, 반도체 4,001 백만 달러로서 전 세계 2.6%, 냉동콘테이너 18,160 대, 전 세계 42.7% 등으로 성장하였다. 93

87 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 아산 정주영 회장은 1982년 미국 조지워싱턴대학교 명예경영학박사 학위를 비 롯하여 존스홉킨스대학교 명예인문학박사, 연세대학교에서 명예경제학박사, 고려 대학교에서 명예철학박사, 경희대학교에서 명예공학박사, 충남대학교에서 명예경 제학박사, 이화여자대학교에서 명예문학박사, 서강대학교에서 명예정치학박사 등 모두 12 개의 국내외 대학에서 명예박사학위를 받았다. 1) 통일 민주당 창당과 대통령 출마 1990 년대 들어와서 전반기는 대선에 참여하고, 고위원으로 노익장을 과시하기도 하였다. 통일민주당을 창당하여 대표최 2) IMF 구조조정때 재벌 해체 1997년 11월의 IMF 관리경제하에서 현대의 구조조정으로 재벌해체를 시도하였 으며, 세계적 초우량기업으로 교두보 확보에 총력을 기울였다. 3) 황소 1001 마리 이끌고 판문점 통과 1998 년에서 1999 년으로 이어지는 20세기 말에 85세의 정주영 회장은 황소 1001 마리를 이끌고 판문점을 통하여 북한에 전달하기 위하여 직접 방문하는 대담성과 용기를 보여주었다. 4) 금강산 유람선 관광사업 성공 남북 통일관은 금강산개발 목적으로 이어지면서 금강산유람선 관광사업을 성공 적으로 시행하였다. 5) 20세기말의 대표적 기업가 가출한 막 노동자에서 대한민국 재계의 총수가 되기까지, 자주성가형 기업가, 정치가 또는 외교관으로서의 탁월한 능력을 가지고 있었으며, 특히 20세기의 대 표적 기업가로서 정주영 경영학을 탄생시킨 재벌총수경영학의 대표적 사례이다. 94

88 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 III. 현대 정주영 회장의 경영이념과 사상 기업이념 (management creed / management idealogy) 이라 함은 창업자나 전문경영 자가 기업경영에 대해 가지는 정신적 지주, 기본적 가치, 실천적 행동지침, 신념, 태 도 등의 도덕적, 윤리적 기준을 말한다 (John F. Mee. 1964, 김성수, 1995). 다시 말하 면 기업의 경영자가 기업활동을 통하여 지켜야 할 정신적 및 실천적 행동지침이며, 경영철학, 경영사상 등과 미래지향적인 행동원리, 지도원리를 의미한다. 그것은 기업 총수의 가치관이나 경영철학, 사상 등을 강령으로 구성원의 실천적 경영지침을 경영 이념으로 명시한다. 따라서 대부분 경영이념은 사훈, 좌우명, 생활신조, 사시, 경영철학, 경영사상, 창업 이념 등 정신적 가치관과 경제환경 변화에 대응하는 미래지향적인 경영행동 실천강 령 등 여러 가지 형태로 표시되지만 그것이 경영이념으로 인정받기 위해서는 명확하 게 명시되어야 한다. 이와 같은 경영이념을 유형에 따라 (1) 경영자의 개인적 신조 명시, (2) 기업경영활동의 방향 설정 명시 (3) 경영권 행사의 기본적 지침명시 등으로 구분된다. 현대의 기업정신은 (1) 창조적 예지 (2) 적극의지 (3) 강인한 추진력 등으로 요약된 다. 이를 제시하면 다음< 표7> 과 같다. 기업정신 창조적 예지 적극 의지 강인한 추진력 기업정신의 내용 미래지향적 사고로 고객 및 사회가 원하는 바에 부응, 항상 새롭고 신선함을 추구하는 지혜, 정신. 투철한 주인의식, 능동적으로 대처하는 자세 도전과 의욕의 정신 하면된다는 Candoim 정신, 개척정신, 목표달성의 노력, 성공을 위한 강인한 추진력과 정신적 배양의 체질화 자료: 김성수외 (1999), 아산 정주영 연구, pp.34~35 95

89 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 현대그룹 정주영 회장의 경영이념은 이미 1999 년 한국경영사학회 아산 정주영 연구팀 의 경희대학교 김성수 교수에 의해서 새롭게 발굴됐다. 그 내용을 요약하며 < 표8> 과 같다. 經 營 理 念 과 思 想 경영이념의 내용과 사상 -> 근면, 검소, 절약, 저축 등의 신념/ 근검절약의 제1인자 * 구두 한 켤레로 10 년을 신고, 10년 입은 헤어진 양복바지 (1) 勤 儉 節 約 主 義 * 장작값 10 전 아끼기 위해, 저녁불로 한번에 이튿날 아침과 점심도시락까지 지음. ( 勤 儉 思 想 ) * 전차삯 5전을 아끼려고 걸어서 출퇴근 * 마른 수건도 비틀면, 쥐어짜면 쓸 수 있다는 정신 * 영국 근대화과정의 요만리 정신 흠모 -> 인간존중과 사원들의 자기 실현, 사원복지 최우선 정신 * 인간중시정신과 사상의 실현 (2) 人 間 尊 重 主 義 * 인재육성을 위한 인재개발의 실현 ( 人 間 重 視 思 想 ) 一 年 之 計 -> 곡식 심는 일 十 年 之 計 -> 나무심는 일 百 年 之 計 -> 사람을 기르는 일 -> 현대그룹의 성장 원동력 : 쓰러지더라도 신용을 지켜라 * 신용은 재산 -> 정직을 무기로 한 신용 미 8군 관계공사의 철칙 (3) 信 用 第 一 主 義 < 사례> * 낙동강 고령공사 ( 信 義 思 想 ) * 경부 고속도로 공사 * 세기의 대역사 주베일산업항공사 세계 최대 조선소 설립 (4) 顧 客 滿 足 主 義 ( 消 費 者 主 權 思 想 ) (5) 創 意 와 技 術 主 義 ( 創 造 와 匠 人 精 神 ) * * 대외건설시장 개척 -> 고객 최우선정신으로 고객 만족을 극대화 한다. * 품질, 공기, 납기엄수, 친절봉사 등 천명하고 실천 * 고객을 만족하고, 신용을 판다 / 고객은 왕이라는 신념 * 소비자 주권사상, 소비자권리주의 정신 * 현대자동차 미국시장 진입의 성공적 사례 -> 고객만족 1순 위 = 미국 환경보존국 합격인증서 로 보장 -> 기술경쟁력과 신 분야의 개척이 기업발전은 물론 국가발전 의 원동력이 된다는 신념을 항상 가지고 있음 * 1960 년대 : 다각화 시도와 해외건설에 창의와 기술제일주 의 표방 / 자동차공업시대 개막 * 1970 년대 : 중화학공업체제 구축에 기술 우선정책 주장 * 1980 년대 : 전자산업진출과 첨단기술경쟁의 천명과 전사원 기술자화, 관리자화 * 1990 년대 : 전자, 정보사업의 세계화 / 공격적 경영=> 최우선 기술선도사업 지향 조선기술의 고도화 / 반도체 기술 / 정보화기술 * 항공산업기술 등 내재된 현대정신 접목=> 기술중시경영, 장 인정신과 혁신기술주의 사상 심화 96

90 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 經 營 理 念 과 思 想 경영이념의 내용과 사상 -> 처음부터 학력, 지력, 체력 등에서 남들보다 불리한 대신 인내와 끈기, 근검과 절약, 신념을 덕목으로 한 정신 주효. * CAN-DOISM => 신념의 산물, 신념의 정신, 사상 (6) 忍 耐 와 信 念 主 義 ( 忍 耐 의 精 神 )) -> Norman Vinsent Peale : 신념을 가진 경영자에게 성공 과 기적의 사건이 가능하다는 것을 믿고 있었다. * 정주영의 신년의 힘=> 시련이 스스로를 강하게 한다. => 긍정적, 적극적 사고방식 * 현대재벌을 형성한 것=> 신념의 사상과 정신, 철학이다. (7) 産 業 平 和 主 義 ( 對 等 思 想 과 和 合 精 神 ) (8) 挑 戰 과 開 拓 主 義 ( 開 拓 者 精 神 ) (9) 事 業 報 國 主 義 ( 國 益 思 想 ) -> 정주영의 노사분규 원인 중시=> 임금, 복지, 권력파워적, 정리해고, 부당노동행위, 정치적 갈등인가? 최대의 관심사 왜 => 가출한 노동자 출신이 바로 정주영 자신이기 때문. 부두노동자, 건설노동자, 막노동자 등을 거친 경영자, 배고픈 노동자, 즉 근로자의 고통을 이해하는기업가 * 1:1의 대등관계에서 노사화합 경영을 제1주의로 생각 * 노사는 적대의 관계가 아니라 한솥밥을 먹는 가족의 입장 => 노사화합주의 경영의 1인자 -> 1997 년 / 현대 창업 반세기 한국경영사학회 평가 4 번째의 출사표가 모두 도전과 개척주의 정신 에서 이룩됨 * 희망의 내일을 던진 50년 전의 제1 의 출사표, * 해외건설을 위해 던진 제2의 출사표 * 통일국민당을 창설한 제3의 출사표 * 금강산 관광 개발사업의 제4의 출사표 -> 나의 살아온 이야기 (1998년 7 월, 정주영 ) * 50년 반세기 동안 국익사상과 사업보국주의 사상으로 일관 => 현대의 성장 : 한국의 국익에 보탬, 경제발전에 기여한다. 따라서 현대의 50 년사는 사업보국 반세기 라고 지적 * 현대그룹은 기업활동으로 애국애족 / 기업가는 애국자의 신념 * 사업보국주의 사례 제시( 정주영 제시/ 1998) (1) 세금창출에 큰 몫으로 기여 (2) 고용창출 및 일자리 창출에 기여 (3) 아산사회복지사업재단 -> 의료사업 및 장학사업, 연구개 발지원사업, 사회공헌사업 (4) 세계를 누빈 국산 승용차 -> 고유모델 개발 포니 등 (5) 중동진출의 교두보 역할-> 사우디아라비아 주베일 산업 항공사 성공 (6) 유조선 공법 -> 서산 대단위 농지 확보 (7) 세계 10대 우수 항공사업국가로의 도약 등 (8) 경제개발 5개년계획에 참여하여 성공시킴 이상과 같은 사례는 풍요로운 국가건설과 인류사회 발전에 크게 공헌한 것으로 평가된다.=> 기업가는 애국자이다. 자료 : 김성수외 (1999). 아산 정주영 연구, 경영사학 ( 특집, 제19 집), 한국경영사학회,pp.5~46. 참조. 97

91 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) IV. 현대 정주영 회장의 成 功 的 經 營 戰 略 經 營 戰 略 (Business Strategy)이라 함은 기업의 경영목적을 달성하기 위한 포괄적인 수단으로서 기업의 외부 및 내부의 환경변화에 대응하여 전체적 또는 부분적 경영활 동을 계획하고 능동적으로 적응시키기 위한 결정방식을 말하는 데, 장단기에 걸쳐 기 업이 당면하고 있는 방안이라고 할 수 있다( 김성수, 2003) 한편 Ansoff(H.I) 는 경영전략이란 장기에 걸쳐 기업이 당면하고 있는 예상할 수 있 는 중요한 기회, 리스크, 문제해결 과제 등에 대하여 체계적으로 대처할 수 있는 것 을 말한다. 정주영 회장은 전략이란 전쟁수행상의 계략을 뜻하는 것으로서 그 본질은 어디까 지나 인간의 지혜에서 유래되는 것이다. 따라서 힘으로 승리를 획득하는 것이 아니라 지혜로 승리를 얻어 목적을 달성하려는 것이다. 전략이란 그런 의미에서 장기적이며 대국적인 기업의 전략으로 이해되어야 한다. 기업은 전략을 통해서 이윤을 내고 전술 을 통해서 사업별로 이익을 내어야 한다.( 정주영, 1999) 이에 따라 정주영 회장은 창업기 경영전략을 3 대 전략적 요소로 창출하고 있으며, 자금 확보, 벤처업종 선정, 창업정신 등으로 규정하고 있다.( 이건희, 1999) 자금 확보는 아도서비스 공장 인수당시 어려운 구입자금 확보와 고령교 공사 실패 후 신용자금 확보 등을 경험으로 자금 확보의 어려운 해결이 중요한 전략적 요소로 생각하였으며, 벤처업종 선정은 자동차 수리업 아도서비스를 통한 현대자동차공업사 설립과 당시로는 경험부족, 자본금 부족, 경제 환경의 불안, 토건업의 위험 등을 안고 부가가치가 큰 토건업을 선택했다는 데 전략적 요소로 하고 있다. 그리고 개척과 도 전정신, 신의와 신용 등을 포함한 Candoism 사상의 창출 등 투철한 창업이념의 요소 를 전략적 요소로 보고 이것을 실현시키는 데 성공할 수 있었다고 한다. 이러한 창업 기 3대 전략적 요소를 창출하면서 정주영 회장은 1960 년대부터 1990 년대까지 시대적 으로 경영전략을 수립하여 성공할 수 있었으며, 한국경제의 성장을 이끌어 왔다. 현대그룹의 정주영 회장의 성공적 경영전략은 현대그룹의 경영전략이며, 한국경제 성장을 이끌어 온 원동력이 되었다고 한다( 이건희, 1999) 정주영의 성공적 경영전략을 시대별로 규정해 보면 1960 년대는 기반구축기 경영전 략, 1970 년대는 그룹화의 경영전략, 1980 년대 구조조정 및 수출중심의 경영전략,

92 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 년대는 글로벌 경영전략 등으로 구분한다. 그의 성공적 경영전략을 시대별로 살펴보면 다음< 표9> 와 같다. < 표 9> 시대별 경영전락 1960년대 기반구축기 경영전략 현대그룹 정주영 회장의 성공적 경영전략 성공적 경영전략의 내용 1) 창조주의 전략 * 無 에서 有 를 창조하는 신념 * 서산 물막이공사 - 폐유조선공법 / 정주영공법으로 전대미문의 토목공법 개발 2) 개척주의 전략 * 길이 없으면 길을 만들고, 길이 막히면 길을 뚫는다 - 하면된다 는 Candoism 전략 3) 책임과 신용제일주의 전략 * 쓰러지더라도 신용을 지켜라 정직이라는 무기 -신용을 창출 * 미8 군공사, 고령교공사 -> 물가폭등, 부도위기, 적자공사 완공 * 사우디주베일항 건설공사 : 책임과 신용의 축 해외사업 등등. * 세계최대의 조선소 건립-신용의 무기 4) 기술우선주의 전략 * 기술도입의 토착화 방안 마련-모방의 기술 도입 -> 기술개발 및 창의성 발휘 * 경쟁력우선정략 -기술제일주의 표방 5) 노사화합전략 * 노사 한솥 밥 먹는 가족주의 경영정신 실현 -> 자신이 막 노동자 출신임을 인식 -> 노사공동체전략 수립 사우디주베일항 건설공사 때 노사분규 사례 * - 산업평화 인력관리지침 제정 (1) 근로자와 관리자의 평등개념 도입 근로자의 욕구실현과 자기발전 함양 1970년대 그룹의 경영전략 (2) (3) 성실한 대화로 노사이슈 해결 (4) 관리자의 권위의식 버릴 것 (5) 적정한 임금수준 유지 등 - 정주영 ( 왕) 회장 중심체제 경영- 1) 중화공업중심의 경영전략 * oil shock 이후-중동수주 전략 -oil money 전환 * 정부의 중화학공업화 정책으로 인한 중화학공업전략 체제 2) 다각화 경영전략 (1) 건설, 자동차, 조선공업을 축으로 한 경영전략 성공 (2) 종합무역, 해운업, 금융업 등 수출지원전략 정립 (3) 30여개 계열화 기업의 성장촉진 방안 수립 성공 3) 본부체제 경영전략 ( 세종로 시대) (1) 본부제의 운영 -> 그룹전략 기획실시 사례 : 새벽의 중동전략 회의 유명 (2) 조직세분화 및 전문화전략 -> 기획, 생산, 영업(Marketing Mix 전략 등), 구매, 인적자원 ( 사원교육, 훈련), 재정 및 회계, 자료처리 등 -> 동향분석반 가동 = 국내외 환경변화 대응전략 수립 -> 통합구매전략 -> 회장직속의 통합구매실 운영 99

93 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 시대별 경영전락 1980년대 구조조정의 경영전략 1990년대 글로벌시대 경영전략 성공적 경영전략의 내용 - 수출경영전략 ( 계동 시대) 1) 세계화 전략 (1) 건설업, 조선업 등 세계적기업의 부상전략 실현 (2) 대외이미지전략 실현-> 지명도, 조직력, 정보력 활용 특히 올림픽 유치 등 기여 (3) 북미자동차시장 선점 2) 책임경영전략 (1) 계열사별 회장제 도입 (2) 회장의 책임경영제 실시 (3) 정세영회장 책임 일임 3) 해양경영전략 및 원자력 설비전략 (1) 선박해양연구소 설립, 완공 (2) 조선, 해양기술연구개발 전략 (3) 원자력 설비전략 -> 고리1 호기, 영광원전 7,8호기 공사 완공 (4) 남극기지 건설 4) 석유화학전략 * 현대석유화학 -> 원유확보 및 에너지 확보 전략 수립 5)동구권진출전략 * 소련, 중국, 베트남, 북한 등 동구권 본격 진출전략 실시 6) 제품수명주기 (PLC) 전략 * 적자회사, 적자산업, 사양산업 등 구조조정 -> 퇴출실시 * 성장산업, 첨단산업 등의 업종전환 실시 * 전산화, 정보화실시 -> 기술, 정보기술 위주의 수출전략산업화 1) 세계화시대 대응한 수출경영전략 -> 이익위주의 수출경영체제 돌입 2) 북방진출확대전략 -> 중국, 베트남, 동구, 몽고, 소련, 북한 등 선점 수출액 14% 점유에서 확대 경영정책 실시 3) 선진국개방 대응전략 -> 통상마찰 제거, 고비용. 저효율 등 경영혁신 4) 기술혁신형전략 -> 조선, 기계, 반도체, 엔지니어링, 원자력, 석유화학 등 기술혁신형 산업체제 구축 -> 우주항공, 정보통신 등 미래지향형 기술개발 및 선도전략 구축 계획. 자료 : 현대 50 년사, 현대그룹, 김성수외 (1999), 아산 정주영 연구, 경영사학, 제19 집, 한국경영사학회. 참조. 100

94 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 V. 결 론 : 전후 한국경제성장의 공헌 지금까지 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장의 생 애와 경영활동, 경영이념과 사상, 그리고 현대그룹 성장사에서 그가 생산한 경영 전략을 시대적으로 살펴보았다. 전후 한국 경제성장의 공헌을 한 자수성가형 기업가 현대그룹의 정주영 회장, 그는 4번 씩이나 가출한 막노동자꾼에서 대한민국 재계의 최고인 한국경제인연합 회 회장으로 현대를 그룹의 재벌로 성장시킨 이 시대의 최고의 기업가이다. 특히 말년에는 정치가로까지 변신하였으며, 저명한 국내외 대학에서 명예경제 학박사, 명예경영학박사, 명예공학박사 학위 등 무려 12개의 명예박사학위를 받는 등 파란만장한 한 세기를 살아온 20 세기말의 거인이다라고 평가하고 싶다. 불굴의 개척정신과 창의적인 노력, 진취적인 기상으로 도전과 창조의 한 세기 를 온갖 고생과 어려움을 극복하고, 사업보국주의 사상과 민간주도형경제론, 인내 와 신념주의, 책임과 신용제일주의, 고객만족주의, 산업평화주의 등의 경영이념과 카리스마적 리더십이 뛰어난 지도력의 경영사상으로 한국 경제개발계획을 성공시 키는 데 크게 공헌해 왔다. 그가 지적하였듯이 학력도, 지식도, 몸도, 인물도, 언변도, 돈도, 다른 사람보다 훨신 못한 자신이 오직 창업정신인 (1) 창조적 예지, (2) 적극 의지, (3) 강인한 추진 력 등과 시대별 경영전략이 주효하여 현대를 재벌그룹으로 성공시켰으며, 한국경제 성장에 크게 기여한 기업가로서 평가되어 감사하다고 술회하고 있다.. 전후 따라서 본 연구의 결론으로 다음과 같은 몇 가지 시사점을 제시하면서, 문제점 도 규명해보고자 한다. 첫째, 정주영 회장의 생애와 경영활동을 통해 발견된 경영이념과 기업가정신, 그리고 사상 등은 9 가지로 정리 될 수 있다. (1) 근검절약주의 - 근검사상, (2) 인간존중주의 - 인간중시사상, 신용제일주의, (3) 신용제일주의 - 신의사상, (4) 고객만족주의 - 소비자주권사상, (5) 창의와 기술 주의- 창조와 장인정신, (6) 인내와 신념주의 - 인내의 정신과 신념사상, (7) 산업평 화주의- 대등사상과 화합정신, (8) 도전과 개척주의 - 개척자 정신, (9) 사업보국주의 - 국익사상 등이다. 둘째, 정주영 회장이 현대를 창업하고 성장시키면서 시대별 경영전략을 추진 하였는 데 (1) 일제하에서는 창업기 경영전략을 자금 확보, 벤처기업 선정, 창업 101

95 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 정신 등으로 성공시켰으며, 1960년대는 기반구축기 경영전략으로 경영이념 및 기 업가정신 중심으로 경영전략을 수립하였으며, 1970년대는 현대가 재벌형성의 시 기로 정부의 70년대 중화학공업정책에 부응하여 현대의 경영전략을 중화학공업화 전략 및 산업 다각화전략을 수립하여 성공하였다 년대는 산업구구조정 경영전략으로 특히 수출경영전략을 (1) 세계화전략 (2) 책임경영전략, (3) 해양경영전략 및 원자력 등 설비전략 (4) 석유화학전략 (5) 동구권 진출전략 (6) 제품수명주기 (PLC) 전략 등으로 성공하였다., 1990 년대는 글로벌시대 경영전략으로 (1) 세계화시대 대응한 수출경영전략 (2) 선진국진출 확대전략 (3) 선진국개방 대응전략 (4) 기술혁신형 전략 등이 현대를 성장으로 이끌었다. 셋째, 현대 정주영 회장 근검절약정신인 요만니(yeomany) 정신의 실현이 경제 성장을 주도하는 정신이 되었음을 발견할 수 있었다. 정주영 회장은 생애를 통해 내 의식 속에 부자라는 단어는 없다 는 동양적 청 교도 정신, 그리고 영국의 근대화 시대 근검절약의 행동정신 요만니 정신을 한국 경제에 도입, 평생 동안 기업을 성장시키는 동인으로 가지고 있었다. 그는 현대그룹이 내 재산이라는 생각이 들었던 시절은 쌀 가계 할 때 뿐 이며, 나는 회사에 돈이 얼마나 있는 지 상관하지 않았다. 내 호주머니에 들어있는 돈 만이 내 돈이고 집으로 타가는 생활비만이 내 돈이며, 오직 근검과 절약이 내 철 학이다. 라고 할 정도로 청빈한 사상을 가지고 있었다. 넷째, 정주영 회장은 1947년 5월 25일 현대자동차공업사 건물에 현대토건사의 소기업 간판을 걸고 건설업을 시작한지 반세기만에 종업원 20 만명, 연간매출액 80 조원, 수출 200 억 달러의 대 기업군으로 성장시켰으며, 1950년 이후 한국 경제를 이끌어온 기업가로 평가한다. 다섯째, 현대 정주영 회장은 창업정신을 그룹의 기업정신으로 승계하여 기업을 발전시키는 촉진제 역할을 하였다. 즉, 미래지향적인 사고로 새롭고 신선함을 추 구하는 창조적 예지, 투철한 주인의식과 능동적으로 대처하는 적극의지, 그리고 목표를 달성하기 위해 온힘을 기울이는 자세와 강인한 추진력 등이 주효하였다. 여섯째, 현대 정주영 회장은 전후 경제개발과정에서 크게 공헌하였음에도 불구 하고 역대 정권이 바뀔 때마다 각종 부조리 문제 등 곤욕을 치루면서 심지어는 부정축재자의 당사자로서 지목까지 받았다는 사실을 규명할 수 있다. 즉, 비합리적 정부의존형 차입경영구조, 정경유착, 경영투명성 결여, 정실주의 인사관리, 기업공개의 미비, 재무구조의 취약성 문제, 각종 부조리 등 많은 문제점 102

96 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 을 가지고 있었던 것이다. 따라서 전후 개도국 경제성장과정에서 전형적으로 나타나는 창업자의 행동양 식, 비윤리적인 점도 발견 되였으며, 사업보국주의와 국익사상을 우선한다는 기업 경영형태도 전형적으로 나타나고 있었다. 그러나 이러한 문제점들을 극복할 수 있었던 점도 정주영 회장의 창업정신과 경영사상 그리고 경영이념의 실현이라는 것을 발견 할 수 있었다. 103

97 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 참 고 문 헌 고동률(1997), 성공과 실패는 법칙이 있다. 자유문학사, p.56~57 김병화(1991), 재벌의 형성과 기업가 활동, 한국능률협회, p.252~258. 김성수(1999), 아산 정주영 연구, 수서원, pp.9~56. (2004), 성공한 창업자의 기업가정신, 삼영사, pp.185~222 (2003), 21 세기형 글로벌 경영전략, 삼영사, pp.338~346. 이건희(1999), 현대그룹의 발전과 경영전략, 경영사학, 제19 집, 한국경영사학회, pp.47~96. 안병욱(1984), 신념의 힘, 삼육출판사, p.115 정주영(1990), 이 아침에도 설래임을 안고, 현대기획, pp.23~25. (1997), 이 땅에 태어나서 - 나의 살아온 이야기 -, 솔출판사 -,pp.25~325. 현대 (1997), 현대건설 50 년사, pp.207~ ~ ~1082. 한국일보사(1986), 한국의 50 대 재벌, 경제부편, p.32. 松 木 邦 輔 (1994), 顧 客 本 位 經 營 理 念,, 生 産 性 出 版, 日 本. pp.156~222. Amsden Alice(1989), Asia's Next Giant : South Korea and Late Industrialization, NewYork : Oxford University Press. pp.56~67. Chappel, T(1993), The Soul of a Business, Bantan Book, New York, pp.23~97. Richard M, Steers(1999), Made in Korea-Chung Ju Yung and The Rise of Hyundai, Rotledge, U.S.A. pp.1~3. John F. Mee(1964), Management Thought in a Dynamic Economy, NewYork University Press, 2nd 이하. 참조. Higginson M. V(1966), Management Policy, AMA, Research Study, 76. p.15. Chappel, T(1993), The Soul of a Business, Bantam Book, New York, p.89. Vogel Ezra. F(1991), The Four Little Dragons : The Spreed of Industrialization in East Asia. Cambridge, Mass, Harvard University Press. pp.34~

98 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 A Study on Ju-Young Chung and Hyundai Group regarding Contribution to the Economic Development of Postwar Korea Kim, Sung-Soo Professor Kyung Hee University Abstract The current study aims to examine Hyundai Group, the former president Ju-Young Chung's life, management principle and enterpriser's spirit and the management strategy of Hyundai Group, which have lead the economic development of postwar Korea. Ju-Young Chung, a representative self-made enterpriser, founded Hyundai Group and contributed to the economic development of postwar Korea. He was born as the eldest son among seven brothers and sisters at a poor farming house in Asan-ri, Tongcheon-gun, Gangwon-do in November His childhood was so poor that he left home four times after graduating from elementary school and earned money while working as longshoreman, construction worker, delivery man of a rice store, etc. Then, at the age of 23, he earned a lot of money with confidence and trust after taking over Bokheung Mart, the rice store where he worked, and founding Ado Service, a car repair factory, in He began to expand his business through establishing Hyundai Motors Industrial in April 1946 and Hyundai Construction Co., Ltd. in January

99 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) The former president Ju-Young Chung made Hyundai Construction Co., Ltd. the top ranking subcontractor in the nation by monopolizing constructions of the U.S. forces and receiving orders related postwar restoration constructions. At the age of 40 in 1965, he found the overseas construction market for the first time in the nation with management philosophy of challenge and the pioneer spirit, and management principles of honesty and confidence first. He also completed constructing highway in Korea with the shortest construction period among the history of world's highway. In 1975, at the age of 50, he established Hyundai Dockyard Co., Ltd. and succeeded in producing "Pony", the Korea's first car. In 1970s, he formed a conglomerate and was inaugurated as the president, and in 1977 when he was 62 years old, he was inaugurated as the president of the Federation of Korean Industries, the leader of Korean economy. When he was young, he was so poor that he left home four times and worked as a physical laborer though, eventually he became the president of the Federation of Korean Industries, the highest position of Korean economy. In 1997 at the age of 82, his Hyundai Group occupied 18% of Korea's current GNP by reaching approximately 70 trillion won of sales. Also Hyundai Group exported 12% of Korea's total export amount as USD 20 billion and sold 1,250,000 cars while occupying 48.2% of domestic market share and 2.6% of overseas market share. Besides, he greatly contributed the development of Korea's heavy industry by promoting overseas construction, shipbuilding, semi-conductor, reefer container, etc. as the world class industry. Particularly in 1990, he organized Unification People Party during his latter years and announced that he would run for the presidency by transforming himself to a politician. He was the enterpriser in the late 20 century who gained property and honor at the same time since he acquired 12 honorary doctorial degrees in economics, business administration and engineering from universities both at home and abroad including Yonsei University. 106

100 전후 한국경제성장을 이끌어 온 현대그룹의 창업자 정주영 회장 연구 He overcame hardships and difficulties of a century of challenge and creation with indomitable pioneer spirit, creative effort and progressive nature. In addition, he had management principles such as enterprise-based patriotism, a theory of private initiative economy, patience and belief, responsibility and credit first idea, customer satisfaction, industrial pacifism, etc. As he pointed out, although he had worse condition in terms of education, knowledge, health, appearance, speech and money compared with others, he made Hyundai a conglomerate with spirits of foundation including (1) creative prediction, (2) active will and (3) strong driving power, and management strategies by times, and was evaluated as a enterpriser who greatly contributed to the development of postwar Korean economy. Although he led economic growth while realizing Yeomany Spirit of English, a mind related with thrift and saving, for his lifetime, he also had a founder's behavioral pattern and non-ethical aspect which are typically noticed in the economic development of postwar Korea. In particular, he confronted problems like the cozy relations between politics and economics, etc. as an accumulator of wealth by illicit means whenever political powers changed. However, his managemental patterns focusing on enterprise-based patriotism and national interests offset these problems, and realization of his spirits of foundation, management ideology and management philosophy became the bases of economic growth. Key word : Ju-Young Chung, spirits of foundation, management ideology, management philosophy 107

101 豊 田 家 の 企 業 者 活 動 경영사학 제 20 집 제 5 호 (통권 40 호) 한국경영사학회 豊 田 家 の 企 業 者 活 動 豊 田 喜 一 郎 と Toyota Motor を 中 心 として Entrepreneurship of the Toyoda Family Toyoda Kiichiro and Toyota Motor * 由 井 常 彦 目 はじめに 1. 豊 田 佐 吉 と 自 動 織 機 2. 豊 田 自 動 車 設 立 者, 喜 一 郎 の 経 歴 と 力 織 織 の 発 明 年 代 の 自 動 車 工 業 と 喜 一 郎 の 挑 戦 4. 豊 田 自 動 車 の 創 業 と 喜 一 郎 の 経 営 活 動 5. 戦 時 経 済 統 制 下 の 企 業 者 活 動 の 挫 折 と 戦 後 の 再 生 結 論 次 文 京 学 院 大 学 財 団 法 人 三 井 文 庫 はじめに 109

102 110 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ) Introduction Henry Ford( )による Ford Motor Co.の 創 立 と Ford System の 創 造 (creation)は,20 世 紀 初 頭 を 飾 る American industrial business の 発 展 の 成 果 であり, 新 しい 世 紀 の 産 業 文 明 (industrial civilization)の 到 来 の 象 徴 であった ここでは, 乗 用 車 という 高 価 な 耐 久 消 費 財 (consumer durable)の 大 量 生 産 (mass production)と 同 時 に, 高 い 収 益 性 (profitability)と 雇 用 が 実 現 したのである これにたいし, 豊 田 喜 一 郎 (Toyoda Kiichiro, )が 創 業 した Toyota Motor Co.の Toyota System の 創 造 は,20 世 紀 の 後 半 に 実 現 した Japanese industrial business の 発 展 の 成 果 であり,20 世 紀 の 産 業 文 明 の 一 つの 到 達 点 とい える というのは,Ford System が 量 (quantity)の 次 元 における business の 理 想 の 実 現 とすれば,Toyota System は, 良 に 加 えて,おびただしい type の 自 動 車 の 提 供 という, 質 (quality)の 提 供 に 成 功 したからである 両 者 ともに,H.Ford と K.Toyoda という 産 業 人 (industrial man)の 企 業 者 活 動 の 努 力 の 成 果 であった H.Ford の 伝 記 や 研 究 書 は 非 常 に 多 く,その 企 業 者 活 動 については, 十 分 に 研 究 され, 様 々に 論 じられてきたところである これにたいし,K.Toyoda につい ては,これまで 本 格 的 な 伝 記 がなく, 彼 の 企 業 者 活 動 について 十 分 な 研 究 もなさ れなかった 本 報 告 は,America における H.Ford を 念 頭 におきつつ, 日 本 (Japan) の 豊 田 喜 一 郎 の 生 涯 と 企 業 者 活 動 を 考 察 し,その 特 質 を 検 討 しようとするもので ある それは,20 世 紀 初 期 の America の 企 業 者 活 動 と, 戰 間 期 (interwar period) 以 後 の Japan の 企 業 者 活 動 の 比 較 を 試 みるものでもある ただし,topic が 非 常 に 大 きいので, 本 報 告 は, 最 近 の 研 究 成 果 にもとづき,essay 的 論 述 にとどめ, 詳 細 な 研 究 は, 最 近 公 刊 の 諸 文 献 (Japan Business History Institute, Toyota, A History of the First 50 Years, 1988; K. Wada and T. Yui, Challenge and Change, Biography of Toyota Kiichiro, 2003)および 将 来 の 機 会 にゆずること ししたい 1 1) 豊 田 自 動 車 の 創 業 についての 文 献 自 体 は 少 なくない とくに トヨタ 自 動 車 30 年 史 (ト ヨタ 自 動 車 工 業 株 式 会 社,1967 年 )は, 詳 細 で 研 究 上 も 有 用 である 本 稿 も, 上 述 の 2 書 のほか 同 書 に 依 拠 している 110

103 1. 豊 田 佐 吉 と 自 動 織 機 2 豊 田 家 の 企 業 者 活 動 Toyoda Sakichi and Invention of the Water Loom 豊 田 喜 一 郎 は, 織 機 (Water Loom)の 発 明 家 かつ 企 業 家 として 日 本 で 有 名 な 豊 田 佐 吉 (Toyoda Sakichi, )の 長 男 である 彼 は 父 の 創 業 の 織 機 事 業 の 後 継 者 であり, 自 動 織 機 (automatic loom)を 完 成 したのち 自 動 車 工 業 に 挑 戦 したのであるから, 佐 吉 についても 簡 単 に 触 れなければなら ない 豊 田 佐 吉 は, 愛 知 県 に 隣 接 する 静 岡 県 の 愛 知 県 寄 りの 農 村 の 出 身 である 日 本 の 近 代 化 の 起 点 となった 明 治 維 新 (Meiji Restoration)の 年 にうまれ, 少 年 時 代 から 日 本 に 輸 入 された 近 代 工 業 に 異 常 なほど 関 心 をもち,1890 年 東 京 で 開 かれた 勧 業 博 覧 会 (Industrial Fair)を 見 学 してから, 当 時 近 隣 の 農 家 が 副 業 としていた 手 動 の 織 機 (loom)の 改 良 に 熱 中 した そして 気 狂 い (mad) と 呼 ばれるほどの 多 大 の 労 苦 の 結 果, 愛 知 県 の 豊 橋 で 1894 年 に 木 鉄 製 の 豊 田 式 動 力 織 機 (Toyota Power Loom)の 製 作 に 成 功 した 1895 年 に 名 古 屋 に 豊 田 商 店 (Toyota Shop)を 開 業, 小 幅 の 動 力 織 機 (power loom)の 実 用 化 を 試 みた この 発 明 は, 綿 製 品 の 輸 出 につとめてい た 三 井 物 産 (Mitsui Trading Co.)の 知 るところとなり,1899 年 三 井 物 産 の 出 資 の 井 桁 商 会 (Igeta Co.)が 設 立 された だが, 動 力 織 機 としてはいまだ 不 備 が 多 く, 同 社 の 経 営 は 成 功 には 至 らなかった ついで 彼 は,2 人 の 弟, 平 吉 (Heikichi)と 佐 助 (Sasuke)の 協 力 のもとに 年 に 改 良 型 を 次 々 と 発 明 し,とくに 軽 便 (portable) 小 幅 の 動 力 織 機 は,100 円 以 下 の 低 価 格 で, 名 古 屋 地 方 はじめ 全 国 の 機 業 地 に 歓 迎 された 1907 年, 再 び 三 井 物 産 の 藤 野 亀 之 助 (Fujino Kamenosuke)が organizer となり, 彼 の initiative の 2) 以 下 の 記 述 は, 主 として, 下 記 の 文 献 に 依 存 している Japan Business History Institute, Toyota: A History of the First 50 Years, manuscript by M.Tatsuki, T.Yui and others, 1988.K.Wada and T.Yui, Challenge and Change: Biography of Toyoda Kiichiro, Toyota Motor Co. (English edition), Nagoya University Press (Japanese edition), 豊 田 自 動 車 の 歴 史 についての 諸 文 献 については, 上 記 の Toyota(1988)の Toyota, English edition(pp )を 参 照 されたい 111

104 112 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ) もとに, 名 古 屋, 大 阪 の 財 界 の 有 力 者 の 出 資 をえて, 豊 田 式 織 機 株 式 会 社 (Toyota Type Loom Co., 資 本 金 100 万 円 )が 設 立 され, 佐 吉 は executive director に 就 任 した しかし, 創 立 時 が 日 露 戦 争 後 の 不 況 期 であったことも あって, 同 社 も 必 ずしも 成 功 せず, 株 主 からの 批 判 をうけ,まもなく 彼 は 辞 任 を 余 儀 なくされた ついで 佐 吉 は, 三 井 物 産 の 支 援 で, 欧 米 を 訪 問 した 海 外 の 織 物 工 場 を 見 学 して 彼 は, 織 機 について 自 分 の 発 明 に 自 信 をもち, 研 究 のかたわら 1914 年 に 自 身 の 紡 織 および 織 機 工 場 を 名 古 屋 駅 前 に 建 設, 経 営 し, 第 一 次 大 戦 の ブームに 際 会 して 大 いに 成 功 した そこで 彼 は, 豊 田 家 および 藤 野 のみの 出 資 で, 豊 田 紡 織 株 式 会 社 (Toyota Weaving Co., 資 本 金 300 万 円, 従 業 員 は 約 1,000 人 )を 1917 年 に 設 立, 名 古 屋 を 代 表 する 有 力 な 実 業 家 ( 企 業 家 ) となった ただし 過 去 の 経 験 から, 豊 田 Family の 家 族 資 本, 家 族 経 営 たるこ とに 固 執 しつづけ,2 人 の 弟 たちにはそれぞれ 織 物 会 社 を 経 営 させたが,そ れらの 工 場 も 豊 田 紡 織 と 密 接 不 可 分 の 関 係 下 におかれた 1920 年 代 は 中 国 ( 上 海 )に 豊 田 家 出 資 の 豊 田 紡 織 廠 を 経 営 するかたわら 自 動 織 機 の 研 究 と 製 作 を 継 続 した 3 晩 年 は 工 業 の 発 明 家 として 尊 敬 され,1930 年 に 死 去 した 豊 田 佐 吉 の 発 明 家 かつ 企 業 家 としての 成 功 の 特 徴 は, 家 族 企 業 たることに 加 えて, 第 一 に, 対 象 を 戦 前 日 本 の 工 業 化 の 基 軸 たる 繊 維 工 業,とくにもっ とも 普 遍 的 な 綿 織 物 の 機 械 化 に 終 始 したことに 求 められる 第 二 に,もっと も 簡 単 な 木 製 から 木 鉄 混 成,そして 鉄 製, 小 幅 から 広 幅 へ,さらに 自 動 織 機 へ( 最 後 は, 究 極 的 な 大 型 環 状 織 機 にとりくんだ)と, 生 涯 を 通 じて 構 想 を 徐 々に 進 化 させたことにある 4 第 三 には,つねに 実 用 型, 改 良 型 を 考 案 し, 利 用 者, 需 要 家 の needs や requirements に 応 じた 製 品 の 製 造 に 専 念 する, incremental な 発 明 家 であったことにある 要 するに, 日 本 の 工 業 化 の 発 展 に 即 した 発 明 家 型 の 企 業 家 であった 5 3) 豊 田 佐 吉 の 企 業 家 活 動 については, 最 近 発 表 された, 由 井 常 彦 三 井 物 産 と 豊 田 佐 吉 およ び 豊 田 式 織 機 の 研 究 ( 上 )( 中 )( 下 ) ( 三 井 文 庫 論 叢 34 号 (2000 年 12 月 ),35 号 (2001 年 12 月 ),36 号 (2002 年 12 月 ))を 参 照 4) 前 掲 の 由 井 論 文,とくに( 中 )の 主 要 な 論 点 として 論 述 されている 5) 脚 注 3 に 同 じ 112

105 豊 田 家 の 企 業 者 活 動 2. 豊 田 自 動 車 設 立 者, 喜 一 郎 の 経 歴 と 力 織 織 の 発 明 Founder of Toyota Motor Co., Kiichiro Toyoda, Career and Invention of Toyota Automatic Loom 豊 田 自 動 車 株 式 会 社 (Toyota Motor Co., 以 下 TMC と 略 称 )の 設 立 者 の 豊 田 喜 一 郎 ( )は, 佐 吉 の 長 男 である 彼 は 技 術 者 たることを 志 し, 東 京 大 学 工 学 部 で 機 械 工 学 (mechanic engineering)を 学 んだ ここで 彼 は, 高 等 技 術 教 育 (finest technological education) を 受 けるとともに, technological なことに 自 然 な 近 親 感 (natural affinity)を 持 つようになった 年 に 東 大 を 卒 業 すると,1922 年 に 数 カ 月 間 当 時 の 先 進 地 の Manchester の Platt Brothers で, 紡 績 と 織 物 (spinning and weaving)を 工 場 の 実 地 で 学 んだのち, 父 の 経 営 する 名 古 屋 の 豊 田 紡 織 の 工 場 に 勤 務 した つねに 工 場 を 歩 きまわり, 油 にまみれて(set covered with oil), 仕 事 の 改 善 にはげんだ 喜 一 郎 は, 技 術 知 識 (technological know-how)は, 実 務 能 力 として 修 得 してのみ 有 用 と 信 じた こうした 態 度 において, 喜 一 郎 は 父 ゆず りであった 第 一 次 大 戦 後 の 日 本 において, 機 械 工 学 の 学 生 の 関 心 は, 自 動 車 と 航 空 機 そして engine であり,かれの 卒 業 論 文 の topic は, 繊 維 工 業 における engines の 研 究 である 7 彼 は, 豊 田 紡 織 において 数 年 間, 紡 績 業 と 織 物 業 の 機 械 工 学 的 技 術 の 向 上 にうちこみ,とくに 父 の 努 力 を 継 承 して,1924 年 に 完 成 度 の 高 い, 無 停 止 抒 換 装 置 (automatic schattle instrument)をもつ 豊 田 自 動 織 機 G 型 (Toyota Automatic Loom, Type G)を 発 明 し, 特 許 を 取 得 した G 型 織 機 は, 従 来 父 の 佐 吉 の 発 明 とされていたが, 和 田 一 夫 教 授 の 6) 豊 田 喜 一 郎 の 出 身, 経 歴 および 半 生 については,K.Wada and T.Yui(2003)の 第 2 章 を 参 照 されたい 7) かつて 刊 行 された M. Ozakis work, Mr.Kiichiro Toyoda (Biography)によれば, 彼 の 論 文 は Problems with Leblanc Air Pump Experience と 記 されているが(no source is given), これは 誤 りである 113

106 114 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ) 研 究 によって, 喜 一 郎 の 発 明 たることが 確 認 された 8 自 動 織 機 は, 複 雑 な 加 工 組 立 製 品 で, 受 注 製 品 であるが,G 型 の 発 明 で 月 産 300 台 以 上 が 可 能 となった またこの 織 機 の 工 作 機 械 には, 利 用 者 の 需 要 の 相 違 に 応 ずるように 精 巧 な 工 夫 も 加 えられた 年 11 月, 豊 田 自 動 織 機 製 作 所 (Toyota Auto Loom Works Co.)が 名 古 屋 の 近 郊 の 刈 谷 (Kariya) に 設 立 された 資 本 金 200 万 円 は, 豊 田 紡 織 の 出 資 で, 義 兄 の 豊 田 利 三 郎 ( 妹 の 婿, 三 井 物 産 出 身 )が 社 長, 喜 一 郎 が 常 務 取 締 役 に 就 任 した かくて 1920 年 代 末 以 降, 精 度 の 高 い 機 械 の 量 産 において, 豊 田 自 動 織 機 (TLC)は, 日 本 有 数 の 企 業 の 一 つとなった 10 G 型 織 機 の 発 明 は, 世 界 的 に 有 名 な Manchester の Platt Brothers の 注 目 するところとなり, 同 社 によって, 特 許 の 買 収 が 行 われた かくて 1929 年 12 月 に Toyota Platt Agreement が 締 結 された この agreement 締 結 のため に, 喜 一 郎 はふたたび 英 米 両 国 を 訪 問 し,1930 年 4 月 に 帰 国 した 最 初 の 訪 問 とちがって 彼 は 驚 いたのは,England の 繊 維 工 業 が 構 造 的 に 深 刻 な 不 況 に 陥 っていたこと,それにたいし America では 自 動 車 が 普 及 し,big three が 著 しく 繁 栄 していることであった 彼 は 織 機 産 業 の 将 来 について 慎 重 にな るとともに, 自 動 車,とくに 大 衆 車 の 社 会 の 到 来 を 信 ずるようになった 11 かつては, 豊 田 佐 吉 が, 豊 田 家 にたいし 国 のために 自 動 車 の 製 造 を 遺 言 し, 必 要 な 資 金 を Platt からの 特 許 料 をもってあてるようにと 指 示 し,そ れが 喜 一 郎 の 自 動 車 進 出 の 動 機 となったとされてきた しかし,こうした 見 方 は, 最 近 の 研 究 では 支 持 されていない 8) 和 田 一 夫 由 井 常 彦 豊 田 喜 一 郎 伝 名 古 屋 大 学 出 版 会,2003 年,pp ) 前 掲 豊 田 喜 一 郎 伝 p ) 1920 年 代 の 日 本 においては, 国 際 競 争 力 をもつ 産 業 機 械 製 造 業 者 はいまだ 非 常 に 少 な く,ほかには 三 菱 造 船, 石 川 島 造 船 などの, 造 船 関 係 以 外 には, 芝 浦 製 作 所 ( 東 芝 )などに とどまった 11) 前 掲 豊 田 喜 一 郎 伝 pp

107 年 代 の 自 動 車 工 業 と 喜 一 郎 の 挑 戦 豊 田 家 の 企 業 者 活 動 Automobile Industry and Challenge by K.Toyoda in 1930s 豊 田 喜 一 郎 は,Toyota Platt 協 定 から 帰 国 したのち,1930 年 春 に TLC の 工 場 内 の 一 隅 に 自 動 車 研 究 室 を 設 け, 紡 績 機 械 の 製 造 のかたわら 自 動 車 工 業 の 調 査 と 研 究 に 着 手 した そして 同 年 10 月, 汎 用 型 で 小 型 の Smith Motor を model として,small motor を 試 作 し, 完 成 した( 同 じ 10 月 に, 父 の 佐 吉 が 死 亡 ) ついで 1931 年 3 月,Hybrid Spinning Machine を 発 明 したのち, 1933 年 9 月, 喜 一 郎 は, 社 長 の 利 三 郎 を 説 得 して,TLC の 中 に 自 動 車 部 (motor division)を 設 立 した 12 従 来 は, 喜 一 郎 の 自 動 車 製 造 の 決 意 にたいし, 社 長 の 利 三 郎 が 真 向 から 反 対 し, 利 三 郎 の 妻 で 彼 の 妹 の 愛 子 が 懇 願 して(implore) 許 された,と 関 係 文 献 でいちように 伝 えられてきた これにたいし 和 田 一 夫 教 授 の 研 究 によれば, 上 述 の 通 説 は 誤 りで, 喜 一 郎 の 意 見 にたいし, 日 本 の 繊 維 産 業 の 将 来 に 不 安 を 持 っていた 利 三 郎 は,むしろこれに 同 意 した,と 論 じている 和 田 の 説 が 正 しいであろうが, 豊 田 家 の 人 々はじめ 従 業 員 の 多 くが, 豊 田 の 自 動 車 業 進 出 を 非 常 に 危 険 と 考 えたのは 当 然 のことであった 1923 年 の 関 東 大 震 災 ののち, 日 本 の 自 動 車 市 場 は 急 速 に 拡 大 しはじめて いた これをみて Ford は,1925 年 に 横 浜 に,GM は 1927 年 大 阪 にそれぞ れ assembly plant を 建 設 し(8,000-10,000 yearly units), 国 内 の 自 動 車 数 は,bus と truck を 中 心 に 1927 年 の 50,000 台 (units)から,1930 年 には 100,000 台 に 増 加 した 日 本 国 内 でも, 自 動 車 製 造 の 起 業 が 相 ついだ しか し 多 くがまもなく 破 綻 し,1930 年 頃 には,ダット 自 動 車 (Dat Motor), 東 京 ガス 電 気 (Tokyo Gas & Electric)および 石 川 島 自 動 車 (Ishikawajima Automobile)の 3 社 となり, 生 産 高 もようやく 合 計 1,000 台 に 達 した 当 時 政 府 は, 自 動 車 輸 入 の 急 増 そして truck のもつ 軍 事 的 役 割 りに 注 目 し はじめた 1931 年 から 国 産 化 と 標 準 的 な 自 動 車 の mass production を 奨 励 12) 豊 田 自 動 車 工 業 株 式 会 社 豊 田 自 動 車 50 年 史 同 社,1988 年 115

108 116 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ) し, 国 内 の domestic makers の 合 併 を 促 進 した 合 併 は 容 易 に 実 現 しなかっ たが,America 帰 りの 当 時 の 代 表 的 企 業 家, 鮎 川 義 介 (Ayukawa Yoshisuke, )の 強 い leadership のもとに, 彼 の 経 営 する 戸 畑 鋳 物 (Tobata Steel Co.)の 自 動 車 部 と Dat Motor Co.の 合 併 が 実 現 し,1933 年 12 月 に 自 動 車 製 造 (Japan Automobile Co.) が 設 立 された 13 ( 翌 年 5 月,Nissan Motors と 改 称 ) Nissan は, 東 京 の 有 力 な 実 業 家 の 支 持 をえた 当 時 に 大 会 社 ( 資 本 金 1,000 万 円,1938 年 に 3,000 万 円 )で, 鮎 川 は, 開 発 に 成 功 した 小 型 車 Datsun の mass production を 目 標 に 掲 げた もっとも 実 際 には, Nissan は Ford と GM の 部 品 生 産 も 行 った 14 年 輸 入 完 成 車 数 , , ,063 付 表 1 自 動 車 の 供 給 状 況 ( ) 国 内 生 産 輸 入 組 立 車 輸 入 組 立 車 内 訳 ( 単 位 : 台 ) ( )は 小 型 車 ( )は 輸 出 日 本 フォード 日 本 GM その 他 ,765 3,437 3, , ,677 8, , ,668 7,033 5, , ,341 8,850 15, , ,338 10,674 15,745 1, , ,678 10,620 8,049 1, , (2) 20,199 11,505 7,478 1, (184) 14,087 7,448 5, ,681 (626) 15,082 8,156 5, ,247 (1,170) 33,458 (349) 17,244 12,322 2, ,094 (3,913) 30,787 (626) 14,865 12,492 3,612 ( 注 1) 輸 入 組 立 車 とその 内 訳 は, 資 料 の 関 係 で 台 数 に 相 違 がある ( 注 2) 年 に 至 る 国 内 生 産 台 数 は 不 明 ( 出 所 ) 四 宮 正 親 日 本 の 自 動 車 産 業 日 本 経 済 評 論 社,1998 年,p.21 13) 四 宮 正 親 日 本 の 自 動 車 産 業 日 本 経 済 評 論 社,1998 年,p.21 14) 日 産 自 動 車 株 式 会 社 日 産 自 動 車 30 年 史 同 社,1965 年, 第 1 章 116

109 豊 田 家 の 企 業 者 活 動 参 考 までに 年 代 前 半 の 日 本 の 自 動 車 数 ( 輸 入, 国 内 生 産, 輸 入 組 立 )の 推 移 をみれば, 付 表 1 のとおりである こうした 状 況 のもとで, 豊 田 喜 一 郎 は, 自 動 車 製 造 に 先 立 ち, 精 密 機 械 化 (precision machining)を 実 施 し, 量 産 に 通 じた technology を 習 得 しなければならないと 考 え, 高 級 な 工 作 機 械 (machine tools)をドイツとアメリカから 輸 入 した また 東 京 大 学, 鉄 道 省 などに 自 動 車 についての experts を 精 力 的 に 訪 問 し, 学 習 につとめた experts のなかには, 喜 一 郎 の 計 画 を 軽 率 な 行 動 (acting rashy)として 批 判 する 者 が 多 かったが, 彼 の 決 意 は 固 く,debating には 関 心 がなかった 15 豊 田 喜 一 郎 の 強 固 な 意 思 の 背 後 には, 自 動 車 の 将 来 性 とともに technology にたいする 信 仰 があったことは 明 らかである technology については, 自 動 織 機 (automatic loom)の 製 作 の 成 功 により, 複 雑 な mechanical engineering に 通 暁 したという 自 信 が 身 についていたことであろう 16 事 実,engine を 除 けば, 金 属 加 工 と 組 立 を 中 心 とする 自 動 車 の 製 造 の technology は 彼 にと って,それ 程 困 難 とは 考 えていなかった 豊 田 喜 一 郎 の 当 初 の 構 想 は,Chevorlet type(3,000cc)の 乗 用 車 であった 多 分,Nissan の 小 型 車 製 造 にたいし, 大 型 乗 用 車 の 構 想 によって, 政 府 の 認 可 ( 当 時, 自 動 車 工 業 法 が 立 案 されていた)を 得 ようと 考 えたことであろう 17 喜 一 郎 は,1935 年 に 名 古 屋 から 東 20km の 挙 母 (Koromo, 現 在 の 豊 田 市 ) に 広 大 な 用 地 (58 万 坪 )を 買 収 し, 自 動 車 の 製 造 の plant の 建 設 の 準 備 をし た こうした 決 意 をみて, 政 府 ( 商 工 省 )は, 日 産 自 動 車 のほか,Local な Family enterprise の 豊 田 の 自 動 車 部 に 注 目 するようになった 18 America の Ford の entrepreneurship は,20 世 紀 初 頭, 工 作 機 械 工 業 ( machine tool ) を 基 盤 に 発 展 し た こ れ に 対 し 日 本 の Toyota の entre-preneurship は 繊 維 工 業 を 基 盤 として 登 場 したことは, 注 目 に 値 いす 15) 前 掲 日 産 自 動 車 30 年 史 第 1 章 16) 前 掲 豊 田 喜 一 郎 伝 pp ) ここでは 立 ちいらないが, 豊 田 の G 型 自 動 織 機 にしても high draft 織 機 にしても, 当 時 としてはきわめて 複 雑 な technology と mechanism からなるものであることが 留 意 されね ばならない 18) 豊 田 喜 一 郎 がきわめて 合 理 的 な 思 考 の 持 ち 主 であったことを 考 えれば,Chevorlet を 範 としたことには, 単 なるマニア 的 理 想 を 超 えたものを 感 じさせる 117

110 118 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ) る 1936 年 5 月, 政 府 は 自 動 車 の 製 造 事 業 法 を 制 定 し( 同 法 は 国 防 上 の 必 要 から, 自 動 車 製 造 を, 日 本 国 内 の 指 定 業 者 に 限 定 するという,きわめて 異 例 の 法 律 であった) 9 月 に 日 産 自 動 車 と 豊 田 自 動 織 機 の 2 社 を 許 可 会 社 に 指 定 した(その 際, 商 工 省 の 指 定 の 経 緯 の 詳 細 については, 資 料 も 乏 しく, 必 ずしも 十 分 な 研 究 が 行 われていない) 日 産 自 動 車 は,その 実 績 から 指 定 をう けることは 当 然 と 考 えられたが,そのほかに 豊 田 以 外 に 名 古 屋 でも 日 本 車 輌 グループなどの 申 請 企 業 があり,TLC が 十 分 な 候 補 者 というわけではなかっ た したがって, 前 年 の 1935 年 の 挙 母 (Koromo)の 広 大 な 用 地 の 買 収 や 36 年 の 春 の AA 型 乗 用 車 および GA 型 truck の 完 成 発 表 は, 政 府 の 許 可 をう るための 豊 田 喜 一 郎 の 積 極 的 な 行 動 であったであろう 彼 は,その 目 的 とす る 乗 用 車 について, 中 型 の Chevorlet type の 大 量 生 産 を 標 榜, 固 執 したが, 商 工 省 の 側 からも, 日 産 の 小 型 車 にたいし, 豊 田 に 中 型 車 の 製 造 を 勧 奨 し, 許 可 の 条 件 としたことも, 十 分 にありうることである 4. 豊 田 自 動 車 の 創 業 と 喜 一 郎 の 経 営 活 動 Founding of Toyota Motor Co. and activities of Kiichiro 1936 年 早 々に,Koromo に plant 建 設 の 準 備 に 着 手 してから, 豊 田 喜 一 郎 の 自 動 車 製 造 の 活 動 は,きわめて 創 造 的 で energy に 溢 れるものがあった この 年 5 月, 東 京 に 転 居 し, 東 京 の 芝 浦 に 自 動 車 研 究 所 を 設 け, 従 弟 の 英 二 (Toyoda Eiji,のち 喜 一 郎 の 後 継 者 となり, 戦 後 社 長 )に 勤 務 させるととも に,6 月 には TLC の 工 場 の 近 くに 自 動 車 の 組 立 工 場 を 建 設 した そして,7 月 には トヨタ 大 衆 車 (AA 型 )を 大 々 的 に 発 表 し,9 月 に 自 動 車 製 造 事 業 法 の 許 可 会 社 の 指 定 をうけると, 自 動 車 販 売 の 経 験 をもつ 神 谷 正 太 郎 (Kamiya Shotaro, 前 GM の 販 売 担 当 )を 招 聘, 販 売 活 動 を 準 備 させた 豊 田 自 動 車 工 業 (TMC)は,1937 年 8 月 設 立 され( 資 本 金 1200 万 円, TCL および 豊 田 家 の 出 資 ),TLC から 自 動 車 製 造 事 業 ( 資 産 825 万 円 )が 移 118

111 豊 田 家 の 企 業 者 活 動 転 された 同 時 に 新 しい 量 産 工 場 の 起 工 式 が 行 われた( 付 表 2) 付 表 2 豊 田 自 動 車 工 業 の 豊 田 自 動 織 機 からの 事 業 譲 受 価 格 の 明 細 ( 単 位 : 円 ) 資 産 の 部 負 債 の 部 科 目 譲 受 金 額 科 目 譲 受 金 額 土 地 151, 法 定 退 職 手 当 準 備 積 立 金 8, 建 物 532, 支 払 手 形 3,500, 機 械 6,885, 買 掛 代 金 8,966, 工 具 1,319, 預 り 金 190, 什 器 152, 仮 受 金 384, 有 価 証 券 205, 用 度 品 8,763, 材 料 品 1,859, 仕 掛 品 264, 製 品 40, 売 掛 代 金 8, 退 職 手 当 準 備 積 立 預 金 752, 仮 出 金 21,300, 合 計 合 計 13,050, 差 引 譲 受 金 額 8,250, 新 会 社 の 社 長 は 利 三 郎 で, 喜 一 郎 は 副 社 長 に 就 任 したが, 事 実 上 は 社 長 で ある(1941 年 社 長 ) ほかに TLC 出 身 の 大 島 里 三 郎 (Ohoshima Risaburo) と 竹 内 賢 吉 (Takeuchi Kenkichi)が 常 務 取 締 役,そして 神 谷 正 太 郎 が 取 締 役 に 就 任 した 従 業 員 は 約 3000 人 ( 翌 年 末 )で,この 年 に truck, passenger の 製 造 が 開 始 された 発 足 にあたって, 喜 一 郎 自 身 は, 自 動 車 製 造 を 許 可 さ れたこと 自 体, 外 国 の 自 動 車 maker と 対 抗 できる 実 力 を 持 たなければならな い 使 命 がある,という 不 安 を 感 ぜずに 居 られない と, 自 戒 している 19 資 金 調 達 と 人 事 は,ほとんど TLC に 依 存 した 喜 一 郎 自 身 いぜん 同 社 の 専 務 取 締 役 を 兼 任 し, 紡 機, 織 機 の 改 良 にも 従 事 しており(1937 年 に super 19) この 間 の 政 府 と 事 業 者 間 の 関 係 と 交 渉 については, 問 題 が 重 要 であるのにかかわらず, 史 料 の 不 足 もあって, 詳 細 は 必 ずしも 明 らかではない 事 業 法 と 認 可 の 経 緯 自 体 については, さしあたり, 前 掲 日 本 の 自 動 車 産 業 pp.39-48,を 参 照 119

112 120 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ) hide-craft を 完 成 している), 同 社 の 高 収 益 があげて 自 動 車 部 門 に 投 入 された 創 業 当 時 の 喜 一 郎 の 構 想 では, 月 産 200 台 の 乗 用 車 生 産 から, 徐 々に 量 産 を 拡 大 し, 月 産 500 台,ついで 1,000 台 と 増 加 する 予 定 であった これ 自 体 は 特 別 なことではないが,しかし, 彼 によって 実 施 された,TMC の 工 場 設 計, 組 織 そして management は,いずれもきわめて 特 徴 あるものであった TMC の 組 織 について 彼 は, 管 理 ( 事 務 ), 販 売, 製 造, 設 計, 監 査 改 良, 技 術 および 研 究 の 7 部 からなるものとした 彼 は, 自 動 車 は 数 千 の 部 品 から なり,その 1 つでも 欠 ければ, 完 全 な 自 動 車 を 1 台 も 製 造 することはできな い したがって 綿 密 な 調 整 的 業 務 とが 不 可 欠 とし,とりわけ 製 造 と 設 計 との 密 接 な 協 力 による 徹 底 した 努 力 が 必 要 された 研 究 部 は,はじめから 重 視 さ れた 部 門 で, 喜 一 郎 自 身 が 部 長 をつとめた ここでは 海 外 の 先 進 技 術 と plant 施 設 の 研 究 と 採 用 を 行 うが,それ 以 上 に 日 本 の 諸 条 件 に 適 した 基 礎 技 術 (basic technology)の 開 発 の 促 進 を 主 眼 とする,とされた 20 東 京 の 研 究 所 には, 各 分 野 の 第 一 級 の 研 究 者 たち, 隈 部 一 雄 (Kumabe Kazuo, 東 大 助 教 授, 自 動 車 ), 三 島 徳 七 (Mishima Tokushichi, 東 大 教 授, 金 属 ), 抜 山 四 郎 (Nukeyama Shiro, 東 北 大 教 授, 熱 力 学 ), 成 瀬 政 男 (Naruse Masao, 東 北 大 教 授, 歯 車 )らが 集 められた 豊 田 英 二 は,ここで 航 空 機 や rocket の 研 究 がおこなわれ,それが 自 動 車 製 造 にも 有 用 であった と 回 想 している 21 有 名 な Just in Time がまもなく motto として 提 唱 された それは, 時 間 どおりにすることが 基 本 的 に 重 要 なばかりでなく, 余 剰 (excess)も 浪 費 に ひとしい ことが 強 調 され,Toyota Production System の 重 要 な 柱 となった Just in Time と 同 時 に, 喜 一 郎 は, 従 業 員 にたいし 現 場 shop-floor の 創 造 性 と skill との 向 上 の 必 要 を, 訴 えつずけた 技 術 者 は,academic な 知 識 よ りも, 機 械 の 操 作 に 通 ずることが 評 価 され, 語 学 力 がなくても 輸 入 した 機 械 を 実 地 に 組 立 てる 能 力 が 賞 賛 された それが, 良 い 品 良 い 工 夫 という 戦 後 の Toyota のもう 1 つの motto となったのである 20) この 点 については, 前 掲 豊 田 喜 一 郎 伝 pp ,に 詳 しく 記 されている 21) 前 掲 Toyota: A History of the First 50 Years,pp

113 豊 田 家 の 企 業 者 活 動 豊 田 喜 一 郎 は,England の job の demarkation について 知 っており,その 普 及 が 産 業 の efficiency の 向 上 にとって, 障 害 ともなることに 気 ずいていた, と 思 われる 現 地 の 従 業 員 の 採 用 にさいしては,job の 選 択 をしないことを 条 件 とした それが,Toyota の multifunction の 労 働 system のはじまりとい えよう また 彼 は, 製 造 される 自 動 車 各 10 台 ごとに 一 連 番 号 をわりつけ, 部 品 にいたる 自 動 車 の 組 み 立 てのすべてに 印 をつけ, 製 造 の 進 捗 が monitor できるような 工 夫 をした ここに Kanban Syetem の 実 現 の 途 がはかられた のである 22 Just in Time は 必 ずしも 喜 一 郎 の idea ではなく,Ford の Liver 工 場 の 視 察 から time と process の 同 時 化 の 着 目 から 発 想 したという だが Ford system が 作 業 の 標 準 化, 単 純 化 のみを 追 求 し,economy of scale を 追 求 したのにた いし, 喜 一 郎 は 必 要 じた 製 品 を, 必 要 な 時 に, 必 要 な 量 のみ 確 保 する こ とに 向 けられた この 相 違 は 経 営 史 の 研 究 者 によって 明 らかにされている 23 工 場 の 設 計 について,unique な 方 針 が 採 用 されたことも 留 意 される 30 以 上 の 工 場 の 建 物 は, 画 一 的 でなく, 様 々な 規 模 とタイプで 設 計 され, 資 材 の 供 給 から 完 成 車 の 運 搬 までの 円 滑 な 流 れがおこなわれるように, 建 設 され た これらの TMC の 自 動 車 製 造 の 経 営 革 新 は, 当 時 の 日 産 自 動 車 と 比 較 すれ ば,より 明 らかである 日 産 の 場 合 は, 山 下 興 家 (Yamashita Okiie)ら 経 営 者 は,America の scientific management の 追 従 者 であって, 製 造 と 労 務 に ついて 通 念 をこえるものでなかった それにたいし,Ford system を 十 分 に 学 びつつ,それをこえたところに 豊 田 喜 一 郎 の 挑 戦 の 本 領 をみることができ る Koromo plant は( 喜 一 郎 の 詳 細 な 原 価 計 算 によって), 完 成 後 5 ケ 年 の 操 業 で, 日 産 1,500 台, 年 産 20,000 台 ( 乗 用 車 が 50%, truck の chassis 50%) が 見 込 まれていた 24 22) Ibid,p.68 23) 下 川 浩 一 フォードシステムからジャストインタイムの 生 産 システム ( 中 川 敬 一 郎 編 企 業 経 営 の 歴 史 的 研 究 岩 波 書 店,1990 年,p.286) 24) 前 掲 Toyota,pp

114 122 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ) 5. 戦 時 経 済 統 制 下 の 企 業 者 活 動 の 挫 折 と 戦 後 の 再 生 Setback of preneurship by the War and its regeneration in the post war 豊 田 喜 一 郎 は, 上 述 のように TMC を 創 立 し, 自 身 の 構 想 にもとずき 乗 用 車 の 製 造 にのり 出 した Koromo plant は 1938 年 に 操 業 を 開 始 し, 乗 用 車, truck の 販 売 は, 神 谷 が 担 当 し,dealer の network による 販 売 が, 業 績 をあ げ 始 めた しかし, 客 観 条 件 は 間 もなく 急 速 に 悪 化 し, 喜 一 郎 の 企 業 者 活 動 は 重 大 な 困 難 に 直 面 するようになった 客 観 条 件 の 変 化 は, 日 中 戦 争 の 長 期 化 にともたう 政 府 の 物 資 需 給 統 制 の 実 施 で, 自 由 経 済 を 前 提 とした 喜 一 郎 の 構 想 は, 年 とともにか 転 換 をよぎなく された 1938 年 末,TMC は 商 工 省 から 1940 年 までに 年 間 20,000 台 の truck の 製 造 を 要 請 された これは 当 初 の 計 画 を 大 幅 に 変 革 させるものであった 25 TMC は,あらためて 設 備 拡 大 のため, 資 本 金 を 3,000 万 円 に 増 資 したが, この 資 金 は 豊 田 家 と TLC でまかなえず, 三 井 物 産 を 通 じて 東 洋 紡 績 など 外 部 から 資 本 出 資 を 乞 うことになった TMC は, 特 殊 鋼 と malleable iron foundry の 設 備 の 建 設 にこれを 充 てた 喜 一 郎 にとって TMC は, 乗 用 車 製 造 が 目 的 なので,truck の 増 産 につとめ ると 同 時 に, 乗 用 車 の 研 究 開 発 を 継 続 し,AA 型 についで 600cc displacement の 小 型 車,front-wheel drive および rear-wheel drive の model EA, EB が 開 発 された そして 1940 年 の 初 めに, 中 型 の 2,200cc の Model AE が 開 発 さ れ, 喜 一 郎 は test-drive に dealers を 招 待, Shin Nippon Goh と 命 名 した しかし, 政 府 の 乗 用 車 製 造 の 制 限 と, 資 材 の 不 足 によって,Shin Nippon Goh の 本 格 的 製 造, 販 売 は,ついに 実 現 しなかった 26 乗 用 車 製 造 の 外 部 条 件 が 好 転 しないまま, 大 平 洋 戦 争 が 始 ると,TMC は 陸 軍 省 の 指 定 工 場 となり, 自 主 的 な 運 営 はほとんど 不 可 能 となった ついで, 25) 前 掲 日 本 の 自 動 車 産 業 p.43 26) 前 掲 豊 田 喜 一 郎 伝 p

115 豊 田 家 の 企 業 者 活 動 1943 年 から 生 産 設 備 の 大 半 は 航 空 機 の engine など, 陸 軍 の 航 空 機 の 部 品 の 製 造 に 転 用 することなった こうして 戦 争 末 期 には 豊 田 喜 一 郎 の 自 動 車 製 造 の 企 業 者 活 動 は 挫 折 したまま 敗 戦 を 迎 えている 戦 争 が 終 ると, 豊 田 喜 一 郎 は 1945 年 秋 直 ちに 乗 用 車 の 製 造 と 販 売 活 動 に 着 手 した 彼 は, 乗 用 車 の 大 量 生 産 の 時 代 がまもなく 到 来 すると 確 信 し, 日 本 に 適 する 車 として, 今 度 は 1,000 1,500cc,body は 4.5m,かつ 燃 費 (fuel consumption)が 最 少 の 小 型 車 を 目 標 とした 開 発 と 製 造 には 多 くの 技 術 者 が 必 要 と 考 え, 戦 時 中 航 空 機 の 製 造 に 従 事 していた 多 数 の 技 術 者 を TMC に 採 用 した 神 谷 は, 短 期 間 のうちに truck の dealers の 販 売 組 織 を 再 編 した 27 しかし, 喜 一 郎 による 戦 後 の TMC の 再 建 は, 非 常 に 困 難 であった ここ では 詳 しく 記 することができないが,1946 年 7 年 にかけて, 財 閥 の 解 体 ( 豊 田 は 三 井 系 とされた),および 設 備 の 賠 償 の 指 定 をうけ, 従 業 員 の 半 数 は, 前 途 を 見 限 って 退 社 した また 占 領 軍 は,TMC の 小 型 乗 用 車 生 産 を 許 可 しなか った( 許 可 は 47 年 7 月 のことである) 28 それでも, 喜 一 郎 は 小 型 乗 用 車 および engine の 開 発 に 努 力 し,1947 年 1 月 には 小 型 Model SA (Type S engine,995cc),3 月 には, 小 型 truck SB を 開 発 し,TMC は 後 者 は 量 産 を 開 始 した 29 9 月 にはこれら 小 型 vehicles に TOYOPET の nickname が 定 められた もっとも,こうした 小 型 乗 用 車 開 発 の 執 念 が, 喜 一 郎 の 技 術 製 造 中 心 の 経 営 という 批 判 を, 内 外 によびおこ したことも 否 定 できない 1947 年 秋 に 乗 用 車 Toyopet の 製 造 と 販 売 を 開 始 したのちも,TMC の 苦 境 は 緩 和 されなかった 小 型 乗 用 車 SA についで SC が 開 発 されたが, 技 術 的 な 難 点 があり,Nissan の Datsun には 性 能 において 及 ばなかった 経 済 情 勢 についても,1947 年 48 年 には inflation が 加 速 し, 自 動 車 は 価 格 が 統 制 さ れていたこともあって,TMC の 経 営 は 好 転 せず, 戦 前 と 違 って Mitsui の 支 援 をうけられなかったから, 資 金 不 足 が 甚 だしかった 1949 年 春 に 政 府 の 27) 前 掲 Toyota: A History of the First 50 Years,p.74 戦 時 中 の 詳 細 は,pp を 参 照 28) 戦 争 直 後 については, 前 掲 Toyota: A History of the First 50 Years,pp ) Ibid,p

116 124 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ) 緊 縮 金 融 政 策 が 推 進 されると,TMC の 経 営 は 危 機 に 直 面 するようになった また, 労 使 関 係 においても,TMC は 困 難 な 状 況 を 迎 えた 戦 争 直 後 の 日 本 は, 労 働 組 合 が 全 国 的 に 設 立 され, 戦 後 の 労 働 者 の 生 活 難 を 背 景 に 労 働 争 議 が 頻 発 した TMC でも,1949 年 8 月, 組 合 に 解 雇 をしないことを 条 件 に 賃 金 の 10%の 削 除 を 行 ったが,それでも 経 営 危 機 が 解 決 されず,1960 年 4 月 に 1600 人 の 解 雇 を 発 表 し,それとともに 組 合 は 長 期 的 な strike に 突 入 する にいたった 豊 田 喜 一 郎 は, 解 雇 をしないことを 約 束 していたので, 同 年 6 月 社 長 を 辞 任 し, 同 時 に strike も 中 止 された 30 TMC 救 済 については, 名 古 屋 地 方 の 7 つの 金 融 機 関 により consortium が 組 織 され, 販 売 会 社 の 設 立 ( 神 谷 が 社 長 に 就 任 )と, 販 売 主 導 の 製 造 を 条 件 として, 協 調 融 資 が 決 定 した TMC の 社 長 には 石 田 退 三 (TLC 社 長 )が, 経 営 が 好 転 するまでの 暫 定 的 な 在 任 のつもりで, 就 任 した 31 ところで,その 後 間 もなく Korean War を 契 機 に 好 景 気 が 到 来 し,TMC の 経 営 は 1951 年 後 急 速 に 好 転 した しかし,1952 年 3 月 豊 田 喜 一 郎 は 死 亡 した 結 論 Conclusion 豊 田 喜 一 郎 の retirement ののちの TMC は, 社 長 の 石 田 退 三 (Ishida Taizo, 前 TLC の 社 長 ), 副 社 長 豊 田 英 二 (Toyoda Eiji, 前 TMC 副 社 長,cousin of Kiichiro), 大 野 修 二 (Ohno Shuji, 前 TMC 副 社 長 ), 取 締 役 の 豊 田 章 一 郎 (Toyoda Shoichiro, son of Kiichiro),TMC 社 長 の 神 谷 章 太 郎 (Kamiya Shotaro)らの top executive によって 経 営 された 1951 年 に 豊 田 英 二 と 斉 藤 修 一 によって,Five years plan for Modernizing Production Facilities が 樹 立 され, 経 営 の 近 代 化 が 推 進 された ここで 重 要 なことは,1950 年 代 にお 30) Ibid,p ) 前 掲 豊 田 喜 一 郎 伝 pp

117 豊 田 家 の 企 業 者 活 動 いて, 基 本 的 な 製 造 技 術 については,TMC はすでにほとんど master してい たことである 1950 年 秋 に, 豊 田 英 二 と 章 一 郎 は,はじめて 渡 米 し,Ford's River Rouge Plant を 訪 問 したが, 彼 らはとくに 驚 くものはなかった かく て 設 備 の 近 代 化 は,1960 年 代 にはほぼ 目 標 を 達 成 したのであった 1960 年 代 から 70 年 代 にかけて, 豊 田 英 二 社 長 のもとで,いわゆる Toyota System といわれる 諸 practices が 実 施 された これらの 諸 practices 多 機 能 の 労 働 者 (multi-functional labourer), 下 請 にたいする kanban-card system, 工 場 現 場 の 自 主 性 (initiative on shop-floor),line の 自 動 化 と flexible な operation などは,いずれも 喜 一 郎 の Just in time の ideas の 具 体 化 に ほかならないものであり,かつ 喜 一 郎 の 時 代 に 部 分 的 に 着 手 されたものであ る ま た, こ う し た Toyota System が, 製 品 の 徹 底 し た 差 別 化 (differenciation)ないし 品 揃 え(wide selection, proliferation)の 戦 略 に 結 びついていることに 注 目 しなければならない そしてこうした 製 品 戦 略 は, 豊 田 佐 吉 の 織 機 いらいの 豊 田 の entrepreneurship の 顧 客 先 (client first)の 伝 統 であることも 認 識 すべきであろう 本 論 文 は, 今 や 世 界 一 の 生 産 高 となった 豊 田 自 動 車 の 競 争 力 と 収 益 力 が, 織 機 の 豊 田 の 進 化 的 成 長 ないし 経 営 発 展 の 成 果 であることを, 示 唆 するもの である 125

118 126 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ) 參 考 文 獻 1) トヨタ 自 動 車 30 年 史, トヨタ 自 動 車 工 業 株 式 会 社,1967 2) 豊 田 自 動 車 工 業 株 式 会 社 豊 田 自 動 車 50 年 史, 豊 田 自 動 車 工 業 株 式 会 社,1988 3) 中 川 敬 一 郎 編 企 業 経 営 の 歴 史 的 研 究 岩 波 書 店,1990 4) 由 井 常 彦 三 井 物 産 と 豊 田 佐 吉 および 豊 田 式 織 機 の 研 究 ( 上 )( 中 )( 下 ) 三 井 文 庫 論 叢 34 号 (2000 年 12 月 ),35 号 (2001 年 12 月 ),36 号 (2002 年 12 月 ) 5) 和 田 一 夫 由 井 常 彦 豊 田 喜 一 郎 伝 名 古 屋 大 学 出 版 会,2003 6) Japan Business History Institute, Toyota: A History of the First 50 Years, manuscript by M.Tatsuki, T.Yui and others, ) K.Wada and T.Yui, Challenge and Change: Biography of Toyoda Kiichiro, Toyota Motor Co. (English edition), Nagoya University Press (Japanese edition),

119 豊 田 家 の 企 業 者 活 動 Entrepreneurship of the Toyoda Family Toyoda Kiichiro and Toyota Motor Tsunehiko Yui Professor Bunkyo Gakuin University Abstract 1. Toyoda Sakichi, inventor entrepreneur S. Toyoda( ), father of K. Toyoda, as well known distinguished industrial inventor and entrepreneur in Japan. After visiting Industrial Exhibition in the 1880, He became mania of invention, and being successful in improving and inventing small power loom in the 1890s-1900s. Although Mitsui gave assistance to him to establish Toyota Loom Co., S. Toyada was thoroughly personal entrepreneur in his life. 2. Career of Toyoda Kiichiro K. Toyoda( ), an eldest son of S. Toyoda, after graduation from Tokyo University, Engineering Department, entered into father s business. He joined with invention of power loom, finally invented Toyota Automatic Loom in the late 1920s. Visiting England in 1929, K. Toyoda was shocked by seeing decline of textiles industry. 3. Challenge to making passenger car In the 1829 s import of automobile made in USA, had been rapidly 127

120 128 經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ) increasing in Japan. Believing in coming of the age of car, he made his decision to advance into passengers car production in the early 1930 s. Government gave licence on motor vehicle production to Toyoda and Nissann. He persuaded T. Risabuto (brother in low. Toyota Loom Co.) on this. 4. Founding Toyoda Motor Co. In 1937, K. Toyoda established TMC, financed by Toyoda s assets, and constructed the large Koromo(present Toyoda) plant near Nagoya. He advocated the original ideas of Just on Time. Creation on Shop Floor and Adaptation on Management, from which the definite practices of Toyada Stystem have developed. Management of TMC was contrasting to Nissan, emulated American management. 5. Set-back of K. Toyoda s entrepreneurship in the War Initial development of TMC was broken down by the coming of economic control. Since 1939, production of military truck was forced by allocated materials. 6. Reconstruction of TMC after the Second War In 1948, passenger car production in TMC under the leadership of K. Toyoda reconstructed. But, TMC faced serious difficulties, such as short of materials as well as capital and labour disputed, K. Toyada was forced the resign in 1950 and passed away in However TMC has rapidly successfully its Toyota System. Key word : Toyoda Kiichiro, Just on Time, Creation on Shop Floor, Adaptation on Management 128

121 경영사학 제20 집 제5 호 ( 통권40 호) 한국경영사학회 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 A Study on the Management Philosopy of Ilhan New as an Innovation Management Creator * 朴 光 緖 1) 目 次 Ⅰ. 序 論 Ⅱ. 柳 一 韓 思 想 의 形 咸 背 景 Ⅲ. 樹 -韓 의 經 營 哲 學 1. 柳 一 韓 의 實 用 主 義 思 想 과 청지기 정신 2. 柳 一 韓 의 국익사상 Ⅳ. 柳 一 韓 의 社 會 的 責 任 觀 V. 要 約 및 結 論 參 考 文 獻 Ⅰ. 序 論 本 硏 究 는 柳 一 韓 의 經 濟 思 想 과 革 新 經 營 에 관한 硏 究 이다. 硏 究 의 目 的 은 一 韓 思 想 의 形 成 過 程 을 究 明 하고, 그 源 流 를 分 析 하여 一 韓 思 想 의 獨 創 性 을 밝히고, 그것이 하나의 주의(ism) 으로 승화될 수 있느냐의 문제와, 나아가 世 界 化 를 거쳐 세계적 思 想 으로 定 立 될 수 있는가를 硏 究 한 것이다. 柳 一 韓 은 1895년 平 壞 에서 부친 基 端 公 과 모친 金 基 福 사이에 9남매 중 장남으 * 順 天 鄕 大 學 被 社 會 科 學 大 學 經 濟 金 融 保 險 學 部 敎 授 129

122 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 로 태어났다. 9살 때인 1904 년 美 國 으를 건너가 고학으로 미시간大 學 을 졸업하고, 제너럴 일렉트릭회사의 회계원으로 재직하다 사직하고 립하였다. 라초이 식품회사 를 설 뜻한바 있어 1926 년 귀국하여 柳 韓 洋 行 을 창설하고, 사업에 성공하여 柳 韓 洋 行 을 국내 굴지의 제약회사로 만들었다. 1971년 향년 77 세를 일기로 서거하고, 遺 言 狀 을 통하여 그의 全 財 産 을 사회에 환원함으로써 企 業 의 社 會 的 責 任 을 완수한 企 業 家 이며 敎 育 家 이고 또한 社 會 奉 仕 者 었으며 獨 立 運 動 家 였다. 본 硏 究 의 결과 다음과 같은 結 論 을 얻을 수 있었다. 첫째, 一 韓 思 想 의 形 成 은 부모로부터의 遺 傳, 특히 부친의 商 人 精 神 에서 잉태된 바 지대하며, 나라를 싫은 민족의 슬픔에서 愛 國. 愛 族 의 사상을 인지했고, 美 國 에 건너가 침례교 신자인 이사벨 과 에리자베드 자매를 통하여 진정한 人 類 愛 인 博 愛 思 想 을 배웠으며, 미국에서의 초중고등학교 및 대학교육과 企 業 活 動 을 통하여 美 國 的 實 用 主 義 를 터득했다고 볼 수 있다. 둘째, 一 韓 恩 想 의 源 流 ( 母 胎 ) 는 弘 益 人 間 의 理 念, 東 洋 的 儒 敎 思 想, 博 愛 思 想 과, 實 學 思 想, 開 化 思 想, 實 用 主 義, 合 理 主 義 및 파이오니아와 프론티어 精 神 이며, 이런 것들이 利 他 主 義 思 想 과 利 己 主 義 思 想 을 잉태하고, 또한 調 和 를 이루어 一 韓 思 想 의 本 質 인 共 存 共 榮, 愛 國 愛 族, 公 先 私 後, 革 新 主 義, 毋 自 欺, 施 惠 思 想, 청지기思 想 및 正 道 經 營 의 理 念 을 出 産 할 수 있었다고 본다. 셋째, 一 韓 思 想 은 獨 創 的 이라는 결과를 얻었다. 즉 그의 기도문에서 밝혔듯이 삶을 살아감에 있어서 무엇이 더 중요한가를 인식할 수 있고 무엇보다도 온 人 類 가 참된 목적을 위하여 일하고, 평화로운 마음으로 이 세상을 살아 갈 수 있 고 이웃을 아끼고 사랑하는 마음으로 가득 채워 주소서 에서 보듯이 그는 철 저한 인류애의 소유자였다. 또한 愛 國 的 이면서도 打 算 的 인 기업가이고, 合 理 主 義 者 이며, 기업의 사회적 책임을 수행함에 있어서도 法 的, 制 度 的 및 社 會 的 壓 力 에 서 행한 것이 아니고 오직 그의 自 意 的 行 動 에서 이룩한 것이며, 全 財 産 의 社 會 環 元 은 資 本 主 義 歷 史 上 그 類 例 를 찾아 볼 수 없다는 데에서 獨 創 的 이라 할 수 있고, 기업을 한 개인이나 일부집단의 소유물로 보는 것이 아니고 게속 기업으로 서 사회로부터 부여받은 역할을 수행하기 위해서 존재한다고 생각하였다는데 있 다. 넷째, 柳 一 韓 의 經 營 理 念 은 애국 애족적인 민족기업가의 좁다란 차원을 초월하 여 世 界 觀 的 인 입장에서 영위되었다는데, 또 다른 독창성이 있으며, 이는 一 韓 이 즘의 하나의 哲 學 으로서 世 界 化 할 수 있다는데 그 가치가 있다고 본다. 一 韓 이 즘은, 특히 經 濟 發 展 과 經 濟 倫 理 의 트레이드 오브(trade-off) 관계를 초월하여 양 자를 합리적으로 조화시킨 실천가라는데 世 界 化 의 가능성이 충분하며, 끝으로 그 130

123 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 는 1930 년대에 이미 世 界 化 를 실현시킨 기업가였던 것이다. 따라서 柳 一 韓 의 恩 想 은 博 愛 思 想, 實 用 主 義, 合 理 主 義, 弘 益 人 間 의 理 念 등이 한데 어우러져, 柳 一 韓 특유의 사상, 즉 청지기 정신을 바탕으로 더불어 함께 살 며, 함께 행복하며, 무엇보다도 온 인류가 참된 목적을 위하여 일하고 평화로운 마음으로 이 세상을 살아 갈 수 있도록 하는 人 間 愛 의 숭고한 정신을 잉태했고, 이것이 출산하여 일한이즘 (llhanism) 의 本 體 를 형성하였다고 보며, 특히 柳 一 韓 은 그의 理 想 과 信 念 을 그 누구보다도 행동으로 옮기고만 유감없이 실천한 행동가이 며 實 踐 家 라는데 큰 의미가 있다고 보겠다. 이하 제2 장에서는 柳 一 韓 思 想 의 形 成 背 景, 제3장에서는 經 營 哲 學 으로서 유일 한의 실용주의 사상과 청지기정신, 국익사상을 논하고, 제4장에서는 유일한의 사 회적 책임관을 살펴본 후 제5 장에서 결론을 구하고자 한다. Ⅱ. 柳 一 韓 思 想 의 形 成 背 景 柳 一 韓 은 1895 년 平 南 平 壤 에서 父 親 晋 洲 柳 氏 基 淵 公 과 母 親 金 基 福 ( 一 名 確 實 이라고도함 ) 의 8 男 妹 중 長 男 으로 태어났다. 晋 洲 柳 氏 大 同 族 譜 에 의하면 그의 始 祖 握 은 中 書, 令 上, 將 軍 을 지냈고 二 世 淑 은 中 郎 將, 三 世 敦 植 은 上 將 軍, 친 관 洪 林 은 戶 部 尙 書 를 역임했다. 基 洲 은 26代 孫 이고 일한은 27代 孫 이다. 1) 일한이 출생할 당시의 시대적 배경을 보면 淸 日 戰 爭, 甲 午 更 張 등으로 朝 鮮 의 政 治 社 會 는 불안하고 민심은 동요되고 日 本 의 朝 鮮 에 대한 內 政 干 涉 은 날로 우심 해 가고 있었다. 부친 기연은 慶 北 榮 洲 에서 가난한 집안의 아들로 태어나 글도 제대로 배우지 못했으나 각고 끝에 돈을 모아 평양에 와서 김기복과 結 婚 하고 西 門 거리에 비단 가계를 차렸으며, 그 후 싱거미싱의 代 理 店 을 경영하면서 自 手 成 家 한 人 物 이었다. 그는 비록 많이 배우지 못해 유식하지는 못하였으나 信 仰 心 이 굳은 독실한 기 독교신자로서 미래를 내다보는 혜안과 큰 포부를 가진 정의감에 불타는 투철한 愛 國 者 였다. 그는 무작정 가출할 정도로 冒 險 心 이 강한 野 心 家 이기도 했으며 계 산에 철투철미한 商 人 이였다. 다시 말해 모든 價 値 尺 度 를 돈으로 삼되 그 돈은 응분의 노력의 대가이어야 한다는 生 活 信 條 였다. 2) 일한은 어려서 동리 아이들과 서당에 가서 千 字 文 과 童 蒙 先 翟 등을 배우 1) 晋 州 柳 氏 大 同 族 譜 참조. 2) 黃 明 水, 企 業 家 史 硏 究 檀 大 出 版 部, 1982, p

124 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 는 한편 아버지를 따라 비단가계에 나가 장사하는 것도 보았고 가족을 따라 교회 에 나가 목사님의 설교와 주일학교 선생님의 가르침도 받으면서 자랐다. 어려서 부터 정신과 신체도 건강하였으며 아버지의 각별한 가정교육도 잘 받았다. 부친 의 교육방법은 상벌제도를 적용하여 善 惡 의 구분과 동시에 商 道 를 가르쳤다. 예 를 들어 유기연의 상벌제도는 가령 심부름을 잘못했을 때는 벌금이 一 錢 이어서 일한은 상벌제도에 여간 민감하지 않을 수 없었다. 가혹하리 만큼 엄격한 아버지 의 判 斷 如 何 에 따라 때로는 심한 고생을 치러야만 했던 것이다. 만약벌금이 부족 하면 매년 주는 세배돈에서 추가 증수했고, 그래도 모자라면 一 錢 에 물 한동이를 뒤집어 쓰는 것으로 대신하기도 했다고 한다. 3) 이러한 부친의 엄격하고도 계산적인 교육 아래서 자란 그는 계산에 밝은 성격 을 가지게 되었고, 이 상벌제도에 읽힌 사연은 일한으로 하여금 돈에 대한 철저 한 價 値 觀 을 인식시켜 주었고 훗날 그대로 일한의 골수에 젖어 들어 마침내 공짜 를 바라지 않는 철두철미한 성품으로 결실되었다고 보아야 할 것이다. 4) 시대적 혼란과 엄격한 가정환경 속에서 자라났다. 일한은 그의 성격형성과 인생관의 확립에 있어서 이러한 시대적 혼란과 부친의 개인적 사상 및 행동양식에서 오는 영향이 지대하다고 하겠다. 그가 항상 애국애족의 정 신을 견지하고 공익과 선공후사 ( 先 公 後 私 ) 를 우선으로 생각한 것은 어릴 때 일제 침략에 의한 정치적 혼란과 나라 없는 민족의 슬픔을 몸소 체험하였을 뿐만 아니 라 애국심에 불타는 부친의 영향이 켰기 때문이라 생각된다. 또한 그가 철저한 계산주의에 입각한 사업가로서 시종행동한 것은 어릴 때 받은 부친의 영향이 크 다고 하겠다. 柳 基 測 은 교회에서 수많은 외국의 간의 존엄성에 대하여 설교를 들었으며 당시 소위 宣 敎 師 들로부터 선진국의 발달된 문명과 인 삼만 이 라 불리워지던 李 承 晩, 정순만, 朴 容 萬 등 당시의 애국지사들이 젊은 사람들을 많이 외국에 보내어 새 교육을 시켜야 빨리 나라가 개화되고 그러므로써 나라가 온전히 설 수가 있는 것이다 라고 부르짖으며, 독립협회를 만들었던 徐 載 脚 博 士 도 일찍 미국에 건너가 서 공부를 한바 있으며, 또 濟 物 浦 條 約 이후 開 泳 翊 公 을 따라 미국에 건너갔던 兪 吉 濬 선생도 미국에 남아 대학을 다니면서 보고 듣고 매웠던 것을 西 遊 見 聞 이라는 책에서 자세히 밝히고 있다고 선각자들의 예를 일일이 열거하면서 역 설하였던 것이다. 5) 그는 이에 감동하여 9살인 철부지 소년 一 韓 을 1904년 이역만 리 미국으로 보냈던 것이다. 3) 오재호, 인간 柳 一 韓, 인천상의보, 일자 참조. 4) 오재호, 상게서, 일자. 5) 이종한, 버드나무 길, 태성, 1992, p

125 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 一 韓 을 渡 美 시킨 6년 후에 韓 日 合 邦 이 되자 柳 基 洲 은 平 壤 을 떠나 北 間 島 로 가 서 독립군의 재정적 지원을 맡아 抗 日 獨 立 鬪 爭 에 투신했다. 그가 아들을 渡 美 시 킨 것도 新 天 地 美 國 에서 견문을 넓히고 經 倫 을 쌓아 누구보다도 크게 나라를 사 랑하는 사람으로 성장해 주기를 바랐기 때문이었다. 6) 한편 一 韓 은 제물포를 떠나 火 輪 船 을 타고 日 本 의 후꾸오까 ( 福 岡 ), 고베( 神 戶 ) 그리고 하와이의 호놀루루를 거쳐 미국 샌프란시스코에서 하선하여 대한제국이 발행한 執 照 ( 오늘날의 旅 券 ) 를 내보이고 무사히 입국하여 미국 중부의 네브라스 카州 커니(KEARNEY) 라는 조그마한 마을에 도착했다. 이곳에는 주로 유럽의 逸 系 와 스웨덴系 統 의 사람들이 살고 있었는데 그들은 낮선 땅으로 이민 온 사람 들답게 근면하고 성실했다. 7) 一 韓 은 커니에서 침례교 신자인 이사벨 과 에리자베드 자매에게 양아들로 맡겨졌다. 이들 자매는 직장여성들로서 철저한 독신주의자였으나 一 韓 을 친아들 처럼 맞아들인 것이다. 이들 두 처녀는 틈만 있으면 一 韓 에게 영어를 비롯하여 갖가지 새로운 西 洋 風 習 을 가르쳐 주는 것을 커다란 즐거움으로 생각했으며, 또 한 그도 무엇이던지 닥치는 대로 배우려고 노력했다. 그는 아버지의 영향을 받아 호기심이 많고 昌 險 的 이며 正 義 感 에 불타는 성품을 지니고 있어 무엇이던지 배우고 그것을 자기지식으로 만들려고 노력하였던 것이 獨 다. 8) 一 韓 은 苦 學 으로 네브라스카국민학교를 거쳐 커니중학교를 졸업하고 1915년 네 브라스카고등학교를 마쳤다. 그는 고교 재학시절에는 이름난 미식축구 선수였으 며 선수장학금을 받아 공부했다. 고등학교 미식축구선수 시절에 형성된 저력과 돌파력은 후일 그가 기업가가 되었을 때 진취적이고 개척자적인 기업경영자가 되 게 하는데 있어서 중요한 원동력이 된 것으로 짐작된다. 1919년 미시간대학을 졸 업하고 제너랄 일렉트릭 會 社 (General Electric G. E) 의 유일한 東 洋 人 회계사로 취직되었으며 학창시절에 알게된 중국 광동 출신의 화교이며 상당한 가문의 규수 인 소아과의사 胡 美 利 女 史 와 결혼했다. 사실 제너럴 일렉트럭 社 는 一 韓 을 장차 동양시장 개척을 위한 總 支 配 人 職 을 맡길 계획이었다고 한다. 9) 그러나 그는 동양 인에 적합한 사업을 경영하여 자금을 마련한 후 귀국하기로 결심하고 회사를 그 만두고 사업에 착수했다. 그가 선택한 사업은 중국요리에 쓰이는 숙주나물을 길 러서 판매하는 것이었다. 숙주나물은 중국인의 음식인 만두의 맛을 제대로 내는 6) 고범서, 基 督 敎 와 企 業 倫 理, 범화사, 1992, p ) 이종한, 전게서, pp.36~41. 8) 황병수, 전게서, PP.431~432. 9) 고범서, 전게서, p

126 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 구실을 하는 중국음식에 꼭 들어가야 하는 재료였다. 그런데 당시 미국에서는 숙 주나물의 원료인 녹두를 구하기가 매우 힘들어서 많은 화교들이 제 맛이 나지 않 는 만두를 먹고 있었다. 또한 숙주나물이 들어 간 중국요리를 좋아하는 미국인들 이 많아졌으나 위생이 불결하여 중국 요리집에 가기를 싫어하였다. 一 韓 은 이러 한 점에 착안하여 신선한 숙주나물을 공급하면 사업에 성공할 수 있으리라는 이디어 를 얻었다. 그는 부족한 녹두는 조선, 일본, 중국 등 동양삼국에서 수입하 였으나 문제는 어떻게 하면 신선한 숙주나물이 그것을 필요로 하는 사람들 곁에 항상 있게 하는 점이었다. 그는 처음에는 숙주나물을 투명한 유리병에 넣어서 잘 들여다 보일 수 있게 하였으나 유리병은 파손되기 쉽고 또한 보다 치명적인 것은 유리병 속의 숙주나물이 오래 가지 않아서 마르거나 썩는 것이었다. 그래서 그는 밤낮을 가리지 않고 연구와 실험을 한 결과 드디어 마르지 않고 썩지도 않으며 더욱이 쉽게 파손되지도 않는 숙주나물 통조림 을 개발하는데 성공했다. 그는 대학시절의 친구인 릿체랄드 를 장시간 설득하여 資 金 源 을 확보하고 또한 대학 화공학과교수로 근무하던 아 라리 의 조언을 받아 사업상 트리오를 이룩하고 삼인 의 공동투자로 드디어 1922 년 라초이식품회사 10) 을 창립하고 一 韓 은 동사의 부사장으로 취임하였다. 라초이 란 원래 중국어로 숙주나물이란 뜻이다. 어찌 했던 라초이 社 의 창립은 한마디로 말해서 一 韓 의 끈질긴 스데미너 와 비상한 아이디어 에서 탄생한 것이다. 11) 그는 또한 1923년 7 월에는 디트로이트 紙 에 동양의 神 秘 을 맛보려면 라초 이회사의 상품을 구입합시다 등의 광고를 게재하여 라초이 회사의 선전도 하 였다. 12) 그러나 설립 초기에는 생각과는 달리 판매가 부진하여 破 産 之 境 까지 이르렀으 나 기발하고 당찬 柳 一 韓 의 아이디어 13) 로 역경을 극복하고 성공할 수 있었던 것이다. 여하간 이 화물자동차의 사고로 라초이 會 社 는 매일 네 트럭의 통조림 을 생산해야만 했고 주문을 감당치 못하여 야간작업을 해야 했으니 회사의 형편 10) 오재호, 전게서, 참조. 11) 오재호, 전게서, 일자 참조. 12) 황명수, 전게서, p ) 즉 1923년 8 월 어느날 一 韓 은 라 초이 회사의 각종 상품을 유리병에 넣어 트 럭에 싣고, 계획적으로 필요이상의 속력으로 오하이오주에서 가장 번화한 거 리, 가장 좋은 건물의 넓은 유리창을 들여받아 全 破 하였는 바 유리병이 길거리 에 산산이 내둥굴고 구경꾼과 교통경찰, 신문기자, 카메라맨 등이 몰려와 구 경거 리를 이루었고 결국 一 韓 은 경찰에 연행됐다. 그러나 이번의 사고로 그의 숙주 나물은 식품위생국의 분석 결과 영향가치가 대단히 많은 우량식품으로 판명 되 어 엄청난 판매실적을 올렸다. ( 황명수, 상게서, p.435.) 134

127 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 은 하루아침에 급전환 되었던 것이다. 이러한 성공은 그가 갖은 열성, 스테미너, 아이디어 및 인내에 의해 이루어진 것이다. 그 결과 一 韓 은 1925년 귀국시까지 3~4년 동안에 50 여만 달러의 거금을 벌어들일 수 있었던 것이다. 14) 후일 우리나 라서 최초로 현대적인 광고방법을 시도하여 성공한 것이 가 바로 柳 一 韓 이었던 것도 우연한 일이 아닌 것이다. 柳 韓 洋 行 이며 그 창시자 1925년 7월 25 일, 즉 一 韓 은 30세 때 20 여년만에 귀국길에 올랐다. 그의 귀국 목적은 고향의 부모형제도 만나보고 또한 라초이 식품회사의 원료사정도 살펴 보기 위해서였다. 그러나 그는 고국에 도착하자마자 日 警 의 심한 감시를 받게 되어 조국을 잃은 민족의 쓰라림을 실감했으며 부모마저 고국을 떠나 북간도로 가 독립투쟁의 선봉 에 서 있는 것을 보고 다시 한번 일제의 만행을 피부로 느꼈다. 북간도까지 찾아 가 부모형제를 만나고 경성에 돌아온 그는 다시 미국으로 돌아갔다. 그가 귀국했 던 당시의 조선사회는 마침 創 氏 改 名 段 階 에 들어갔고, 總 督 府 에서는 일본 본토내 의 산업자본을 조선에 적극적으로 유치하기 시작하고 있었던 것이다. 특히 그의 눈을 끈 의약품의 후진성은 비참한 것이었다. 즉 철마다 찾아드는 돌림병, 거기다 가 난무하는 돌파리 의사들, 좌우간 돌림병에 한번 걸렸다고 하면 영낙없이 죽는 수 밖에 없는 참담한 실정이었다. 즉 기생충, 결핵, 학질, 임질, 이질, 피부병환자 들이 부지기수였으며 그것을 적절히 치료할 수 있는 약이 없는 것을 一 韓 은 똑똑 히 목격할 수 있었다. 15) 이러한 비참한 현상은 청년 실업가 柳 一 韓 에게 뜨거운 조국애와 동포애의 감상을 불러일으킨 셈이 되었다. 16) 그리하여 그는 제약회사의 설립에 관심을 기울인 것이다. 즉 굶주린 동포에게 일자리를 주기 위해 기업을 창설하려 했고 기업 중에서도 제약업을 선택한 것은 건강한 국민만이 장차 교육 도 받을 수 있고 나라도 찾을 수 있다고 믿었기 때문이었다. 다시 말해 헐벗고 굶주리며 질병에 허덕이는 동포를 구하기 위하여는 제약회사의 설립이 시급하다 고 생각했으며 이것이 곧 一 韓 의 기업등기이자 목적이며 행동양식이 되었던 것이 다. 22 년 만에 조국에 돌아 온 一 韓 의 마음 속에는 사업보다도 더 중요한 그 무 엇이 이 싹트고 있었다. 그것은 다름아닌 나라사랑 이요, 조국발전에 기여보비하 는 것이었다. 사실 그는 미국에서 학생시절부터 애국독립운동에 깊이 관여하고 있었다. 3.1독 립만세운동이 일어났던 1919년 4월 14일부터 16일까지 3일간 미국독립운동의 발 생지인 필라델피아 에서 역사적인 대회가 열렸다. 이것은 조국에서 일어났던 ) 황명수, 전게서, ) 이근우, 柳 一 韓 博 健 康 人 生, 1974, 7월호 p ) 오재호, 전게서, 일자. 135

128 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 운동에 호응하여 재미 한국인이 미국 각주에서 대표를 뽑아 대대적으로 궐기한 미국에서 열린 또 하나의 3.1 운동이었다. 이 대회의 명칭은 韓 人 自 由 大 會 였으며 一 韓 은 李 承 晩, 徐 載 弼, 趙 炳 玉, 林 炳 稷 등과 함께 주요인사로 참가했다. 여기에서 그는 한국민이 민족자결을 쟁취했을 경우, 즉 한국민이 자신의 정부를 가질 경우 나라와 민족을 위해 무엇을 할 것인가를 世 界 萬 邦 에 선포하기 위한 韓 國 民 의 목 적과 열망을 석명하는 決 議 文 기초문안 작성을 위한 代 議 員 의 한사람으로 선출 되었으며 그 決 議 文 을 기초의원들을 代 表 하여 대회에서 낭독했다. 17) 그 당시 一 韓 은 미시간大 學 에 재학중인 학생 신분이었다. 학생 一 韓 으로 하여 금 투철한 신념과 원대한 이상을 지닌 특출한 애국자로 성장케한 여건으로 柳 韓 五 十 年 은 다음과 같은 네 가지를 지적하고 있다. 즉 첫째는 나이 9세에 渡 美 行 을 감행할 때 나라를 사랑하는 큰 사람으로 성장해 주기를 바란 부친의 간절한 염원이 어린 소년의 가슴에 깊이 새겨져 지워지지 않했던 것이고, 둘째는 감성과 지성이 가장 신선하고 발랄하게 눈뜨고 신장하는 청소년기를 미국의 가정과 사회 에서 지내면서 접하고 수용한 기독교정신과 개척정신이며, 셋째는 뜻을 같이하는 한국유학생들과의 교분이며, 네째는 이것이 가장 중요한 것으로 지적되어야 하는 것이겠지만 두터운 우애와 존경으로서 친교를 이루었던 感 化 였다18)고 기술하고 있다. 徐 載 弼 博 士 로부터 받은 1925 년 다시 미국으로 돌아간 一 韓 은 당시 세브란스의학전문학교의학장 에비 슨 박사로부터 초청을 받았는데 그 내용은 柳 一 韓 은 延 福 專 門 學 校 商 學 科 敎 授 로서 가르치고, 부인 柳 胡 美 利 女 史 는 세브란스 病 院 의 소아과 과장으로 奉 職 해 달 라는 것이었다. 이 초청에 응하여 귀국하기로 결정한 一 韓 은 徐 載 弼 博 士 를 찾아 가 그의 결심을 개진한 바 그는 격려와 함께 후일을 기약하며 한국인임을 잊지 마시오라는 말과 함께 영애가 손수 제작한 목각의 그림을 주었다. 柳 一 韓 의 柳 에서 착상된 이 목각화에는 고국에서 나라와 민족을 위해 한 그루의 큰 버드나무 처럼 끈질기고, 무성하게 대성하기를 바란다는 깊은 뜻이 잠겨 있었을 것으로 짐 작되는 것이었다. 이 버드나무 그림은 柳 韓 洋 行 초창기의 마아크 로 사용되어 지금에 이르고 있다. 一 韓 은 귀국하여 곧 바로 행동을 개시하지 않고 그가 나아갈 길을 신중하게 재 검토하였다. 즉 에비슨 학장의 초청대로 延 專 의 교수가 되어 교육가가 되느냐 아니면 기업을 운영하는 사업가가 되느냐의 두 가지 길 중 어느쪽을 택할 것인가 결정하지 못하고 망설였다. 전자가 한국의 얼과 능력을 지키고 키움으로써 내일 17) 고범서, 전게서, p ) 柳 韓 洋 行, 柳 韓 五 + 年, p

129 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 을 담당할 젊은 동포에게 꿈과 의지 그리고 용기와 자주정신을 심어 주는 길이라 면, 후자는 민족의 자산을 키워 일제의 경제적 奴 隸 에서 구출하는 길이었다. 그는 후자 곧 사업의 길을 택하였다. 19) 意 思 決 定 을 한 후 一 韓 은 1926년 12월 10일 현재 鍾 路 2가에 위치한 德 元 빌딩 에 社 屋 을 정하고 柳 韓 洋 行 을 출범시켰다. 회사의 마아크 로는 徐 博 士 의 깊은 뜻이 담긴 목각화의 버드나무 그림으로 정하고 社 名 은 柳 一 韓 의 가운데 이름자인 一 字 를 빼고 柳 韓 에 洋 行 을 붙여서 柳 韓 洋 行 으로 결정하였다. 柳 는 창업 자 柳 一 韓 의 姓 이고 韓 은 그의 이름자이기도 하지만 韓 國 을 상징하는 깊은 뜻이 담겨져 있었던 것 이 다. 이렇게 해서 창립된 柳 韓 洋 行 은 1971년 3월 柳 一 韓 이 향년 77세를일기로 타계 할 때까지 계속 발전에 발전을 거듭했다. 그 동안 柳 韓 洋 行 은 일제하의 억압과 수난, 해방기의 혼란, 6.25동란과 4.19혁명 및 5.16군사혁명 둥 정치적 혼란의 온갖 시련을 극복하면서도 발전을 거듭했다. 특히 그의 기업이 정직과 성실, 그리고 민 족의 참된 이익과 복지에 이바지하는 것을 목적으로 이처럼 발전과 번영을 지속했다는 것은 정신이 이룩한 하나의 기적에 가까운 사실이라고 하겠다. 20) 正 道 를 걸었음에도 불구하고 柳 一 韓 의 강한 기업추진력과 창조적 개척 이상에서 우리는 柳 一 韓 출생기의 시대적 배경과 가정환경, 교육환경 및 사회 적 환경을 개관하면서 一 韓 사상의 형성과정을 살펴보았다. 우선 그가 출생한 한 말의 시대적 배경에서 그는 어렴풋이나마 조국과 동포의 개념을 깨닫고 무엇이 애국이며 무엇이 동포애인가를 부친 柳 基 淵 을 통하여 감지하였다. 또한 그는 비 록 짧은 기간과 깊지 않은 공부지만 서당에서 동양사회의 전통적 사상과 효의 사 상을 배웠으며 부친의 상술을 통하여 철저한 계산주의와 타산주의를 배웠고 상벌 제도를 통하여 선악의 구분과 노력의 대가 없이는 어떠한 과실도 받아서는 아니 되고 돈을 가치척도로 삼는 생활신조를 배웠던 것이다. 미국에 건너가면서 船 上 에서 노예로 팔려 갈 뻔하면서 다시 한번 약소민족의 서러움을 절감했다. 미국에 가서 커니 란 작은 마을에 사는 침례교신자인 독신녀 자매집에 양아들로 들어가 함께 살면서 그녀들이 베푸는 인류애에서 참다운 博 愛 精 神 과 철저한 청교도적 윤 리 및 근검, 절약, 성실, 신용이라는 자본주의적 덕목을 체득했으며, 미국적 실용 주의(Pragmatism) 사상과 합리적 사상을 배웠으며 11 살의 어린 나이로 養 母 의 만 류를 뿌리치고 신문배달을 하면서 신문사의 간부로부터 너야말로 유능한 사원이 자 우리 신문사의 보배다라는 말을 듣고 유능한 사람이야말로 최대의 자본이란 19) 고범서, 전게서, p ) 柳 韓 洋 行, 전게서, pp.74~

130 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 교훈을 얻어 이것을 평생의 좌우명으로 삼았으며 이것은 그가 훗날 너무나 많은 사람들에게 역설했던 명언이기도 하였다 네브라스카 고등학교의 미식축구선수로 발탁되어 스타프레이어 로써 활약하면서 장학금을 받아 공부했고 이 운동을 통 하여 그는 정직성의 원천으로서 Rule의 중요성을 깊이 인식했고 Fair Play 정신 을 체질화시키고 그로 인해 장학금을 받아 공부하였으므로 정직과 정의가 결코 무가치한 것이 아니고 최대의 가치를 가친 것이라고 인식했던 것이다. 이때 형성 된 저력과 무서운 돌파력은 후일 기업가가 되었을 때 진취적이고 개척적인 기업 가로 성장하는데 원동력이 되었으며 광활한 대륙 新 天 地 에서 무한한 가능성을 기 른 浩 然 之 氣 思 想 을 섭취했고 韓 民 族 의 얼이 담긴 弘 益 入 間 의 理 念 과 무자기( 毋 自 欺 ) 사상을 기를 수 있었던 것이다. 이와 같이 東 酒 洋 의 思 想 과 博 愛 精 神, 責 用 主 義 思 想, 合 理 的 思 考 方 式, 浩 烈 之 氣, 弘 益 人 間 의 理 念 등이 한데 어우러져 그 누구 도 모방할 수 없는 柳 一 韓 특유의 唯 一 하고도 독특한 사상 즉 청지기精 神 을 바탕 으로 하여 더불어 함께 살며, 함께 건강하게, 함께 행복하고, 무엇보다도 온 人 類 모두가 참된 목적을 위하여 일하고, 평화로운 마음으로 이 세상을 살아 갈 수 있 도록 하는 인간애의 崇 高 한 精 神 이 잉태되었고 이것이 출산되어 Ilanism의 본체 (Essence) 를 형성하였고 나아가 柳 韓 의 精 神 과 信 條 라는 Yuhanism 으로 승화되지 않았나 한다. Ⅲ. 經 營 理 念 1. 柳 一 韓 의 實 用 主 義 思 想 과 청지기 정신 發 達 心 理 學 (Developmental psychology)에서 보면 인간은 교육적으로 볼 때 환 경에는 외부적인 조건을 들고 있다. 외부적인 환경조건은 자연적 환경 외에 사회 적 환경에는 傳 統 이 있고, 歷 史 와 文 化 가 있다고 한다. 개체는 싫든 좋든 간에 이 와 같은 영향을 받고 있으며, 때로는 환경의 힘에 지배당하는 경우가 많다고 보 고 있다. 개체는 성장하면서 여러 가지 환경적인 영향을 받아 성장하며, 여러 계 층의 인물, 사회적 존재를 알며, 그것에 대한 인식흥미 호의에 의하여 개체의 행동이 규정되게 된다는 것이다. 그러므로 인간의 신체적지적 정신적 사회 적 발달은 유전과 환경이 서로 작용함으로써 자극과 영향에 따라 나타난다고 보 고 있다. 21) 21) 金 濟 漢, 發 達 心 理 學, 學 友 社, 1976, pp.12~

131 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 따라서 柳 一 韓 의 경우도 이와 같이 유전과 환경과의 교호작용 속에서 그의 독 특한 인격과 사상과 행동양식이 배태되었다고 보아야 할 것이 다. 실용주의 (Pragmatism) 는 1870 년대 미국에서 생긴 철학사상으로, 뉴우잉글랜드 지방 마사츄세츠 州 케임브리지 에 존재했던 形 而 上 學 클럽 이라 불리우는 하바드 大 學 出 身 으로 철학연구회의 중심적 인물인 피어스 (C.S.Peirce) 와 제임 즈 (W. James) 가 그 제창자이다. 프래그마터즘 이라고 하는 명칭은 칸트 (I. Kant) 의 프라그마티쉬 (Pragmatisch) 라고 하는 개념에서 유래하며 실용주의라 고도 번역되기 도 한다. 인식론적으로는 純 理 論 的 觀 念 的 認 識 을 배격하고 개념을 지각에 의해 착상되 며 행동에 의해 검토되는 의식을 위한 가설 및 도구라고 하는 경험주의에 입각하 며, 이 개념의 진리성을 실제적인 행위의 세계에 있어서의 그 실용성 및 실제적 인 효과에 의해 판단한다. 피어스 에 의하면 어떤 대상의 개념은 그 대상이 갖 는 실제적인 효과의 총계에 불과하다고 한다. 이와 같이 이념이나 개념의 진리성 을 그 실용성으로부터 파악하는 것이 둘째로 프라그마티즘 의 첫째의 특징이다. 그러나 프타그마티즘 은 실재를 우리들로부터 독립해서 존재하는 완결체라 생각 하지 않고 우리들이 현재 그 속에서 행동하고 끊임없이 그 생성에 협력하고 있는 미완의 것으로 취급하는 유동적인 실제관에 입각해 있다. 따라서 기계적 결정른 을 배격하고 과학의 법칙을 蓋 然 的 可 謬 的 이라고 보는 可 謬 主 義 에 입각, 다원론 과 상대주의를 채용한다. 이 철학은 사회학심리학교육학 등 다방면에 영향을 미쳤으며, 그 중에서도 교육개혁자인 듀이(J.Dewey) 의 이름이 드높다. 그러나 원 래는 산업과 과학의 발달에 따른 과학적 사고방식과 완고한 퓨리턴 의 윤리를 조정하는 역할을 맡고져 등장했던 것이다. 22) 이와 같은 실용주의사상은 미국에서 공장제도가 궤도에 오르면서 테일러 (Taylor) 의 과학적 경영법(Scientific Management) 이 확산 보급되었다. 그것은 동 작연구(Motion Study) 를 통하여 동작 하나 하나를 시간을 재서 분석하고 생산공 정 시간의 단축에 초점을 맞추었다. 따라서 생산성은 놀랍게도 증가되었다. 그러 므로 이것은 데일러 와 같은 경영 선각자들이 제조업의 혁신을 일으키는데 촉진 제 역할을 하였다. 동작연구의 정신을 살펴보면 합리적인 실용주의 정신 (Pragmatism) 이 저변에 깔려 있음을 알 수 있다. 한 개의 물자와 1초의 시간도 낭비하지 않는 근면절약하는 철학적 사고방식 위에서 합리적 경영방법이 싹 트 게 되었던 것이다. 현재는 便 利 主 義 사고로 바뀌어 감에 따라 더 이상 이 이론이 오늘날에는 수용되고 있지 않으나 그 당시에는 지배적인 학문 이었다. 그러한 22) 經 濟 學 大 辭 業 敎 育 書 館, p

132 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 동작연구를 비롯하여 모든 부품의 표준화와 규격화 및 부품간의 교체성을 강조함 으로써 이른바 대량생산의 체계가 확립되었다. 23) 아울러 미국인 개개인에게 창의력과 발명심을 북돋우기 위해서 발명법이 제정 되었고 또한 폭 넓게 실시되었으며 법의 강력한 보호하에 특허권은 17년 동안의 독점이 보장되기도 했다. 이와 같은 실용주의사상과 특허법은 젊은이들의 새로운 발명심과 과학적 기초지식도 없는 무명인들이 자기 나름대로 연구하여 진공청소 기, 재봉틀, 전축, 라디오, TV 등 혁신적인 상품을 발명케 하는데 일조 하였던 것 이다. 이러한 사실들은 다른 어느 나라에서도 볼 수 없는 모험심과 창의성이 미 국 문화에서 완성되었음을 입증하고 있다. 24) 또한 이와 같은 실용주의적 사상은 미국사회에 슘페터가 말하는 소위 (Innovation) 25) 을 가져왔다. 革 新 합리적 실용주의 사상이 팽배해 있던 미국에서 국민학교, 중학교, 고등학교 그 리고 대학까지의 과정을 거치면서 교육받은 고가 체질화된 것이 사실일 것이다. 柳 一 韓 의 체질 속에는 실용주의적 사 柳 一 韓 이 실용주의사고에 입각하여 행동한 첫 번째 시도는 그가 제너랄 일렉 트릭 會 社 에 東 洋 人 으로서는 唯 一 하게 會 計 士 로 취직하여 근무하였으며 특히 회 사는 그를 장차 동양시장의 개척자적인 총책으로서 중히 임용하려 하였음에도 불 구하고 동양인의 적성에 맡는 사업을 구상하여 장차 사업가로 발돋움하려 했던 것도 역시 실용주의적 사고의 발로라 볼 수 있으며, 급기야는 同 社 를 사직하고 숙주나물 장사를 시작했던 것이다. 숙주나물 역시 아직까지도 미국인에는 생소한 동양식품이였으며 오직 중국인이 나 즐겨 먹는 만두의 재료에 불과한 것이었으나 그는 모험을 무릅쓰고 장차 동서 양인이 즐겨 먹을 식품으로 개발하기 위하여 다분한 모험을 실행했던 것이 아닌 가 한다. 그가 만일 진취적이고 실험적이 아니며 실용적 사고가 없었다면 제너 럴 일렉트릭 과 같은 대회사의 직원으로 남아 주어진 업무를 수행하며 주어진 급 료에 만족하는 평범한 관리자로 일생을 보냈을 지도 모른다. 또한 그는 숙주나 물을 썩지도 않고 마르지도 않고 더욱 오래 보존할 수 있는 식품으로 개발하고자 밤과 낮을 가리지 않고 연구와 실험을 통하여 드디어 숙주나물 통조림을 개발한 23) H.Ford, Mass Production, Encyclopedia Britanica, 12th ed, Vol 2.(London 1926), p ) 주명건, 미국경제사, 박영사, 1983, pp.251~ ) 슘페터는 革 新 을 다음의 5 종류로 나누고 있다. 즉 1 新 商 品 의 생산, 2 新 生 産 方 法 의 도입, 3 新 市 場 의 開 拓, 4 新 供 給 源 泉 의 획득, 5新 組 織 의 形 成 이라 고 하였다.( 황명수, 經 營 史 學 日 新 社, 1986, p.222.) 140

133 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 연구심과 끝없는 인내심도 장래를 위한 몸부림이었다고 볼 수 있으며, 더욱이 라초이 식품회사를 설립하고 상품을 생산하여 판매하였으나 초기에는 판매가 부진하여 도산의 위기에까지 이르게 된 단계에서 기발하고도 독특한 아이디어 를 개발하여 성공하여 이것미 전기가 되어 거금을 별 수 있었던 것도 그의 실용 주의적 사고의 일단이라고 볼 수 있다. 정리하고 귀국하여 다음으로 일취월장하는 미국에서 사업을 에비슨 학장의 권유대로 교수라는 사회적 신분의 위치와 명 예를 택하지 아니하고 이 땅에서 불모나 다름없는 제약회사의 업종을 택한 것도 어찌보면 무에서 유를 창조하는 다분히 도전적이고 모험적인 행동으로서 을 위한 창조적 사고라 볼 수 있다. 혁신 柳 一 韓 은 프론토설 (Prontosil) 의 도입을 비롯하여 각종의 우수의약품을 제조 판매하였던 것이다 그는 제품의 품질개선을 위하며 실험연구실을 강화하여 국내 최대의 시설과 연구진을 확보하였으며 자본- 경영, 인사- 행정, 생산 연구의 분리와 더불어 연구부내의 구매검수품질검사 둥의 삼권분립을 도모하여 品 質 改 善 에 최대의 노력을 경주한 것도 다름 아닌 혁신적 사고에 입각한 실용주의적 철학의 발상이며, 그가 1934 년 독일의 도마크 (Gerhard Domagk) 博 士 에 의하여 개발된 프론토실 (Prontosil) 을 재빨리 도입하여 柳 韓 洋 行 의 면목을 일신케 하였을 뿐만 아니라 韓 國 藥 業 史 上 획기적인 전기를 마련하였고 일본은 물론 동앙에서 제일 먼 저 도입할 수 있었던 것도 그의 실용주의 사상에 혁신적이고도 개척자적인 정신 에서였다고 평가 할 수가 있다. 柳 韓 洋 行 이 프론토실 의 품명으로 GU 사이드 라는 상표를 붙이고, 켓치플 레이즈 ( 標 語 ) 는 종래의 그것과는 전연 다르다! 고 내걸고 선전한바 이 표어와 상표는 탁월한 약효와 함께 일반에게 대환영을 받았으며 이 표어는 전국 방방곡 곡을 풍미하여 일약 유명해졌을 뿐만 아니라 멀리 滿 洲, 北 中 國 과 東 南 亞 의 하 노이, 사이공 등에까지 이 제품이 수출되었으며 이들 藥 品 은 佛 語 로 번역된 문헌과 함께 수출되었으니 이 또한 그의 실용주의적 사고가 아닌가 한다. 뿐만 아니라 아븟, 스키브, 파크데이비스 등 외국의 유명한 제약회사를 비 롯하여 제미슨, 시므레스, 존슨 앤드 존슨 등과 제휴하여 의약품과 위생재 료를 수입 판매하였고, 2차례에 걸친 세계일주여행을 통하여 시장정보의 입수와 신시장 개척을 위한 교두보를 구축하고, 중국의 大 蓮, 上 海, 天 津, 東 京, 滿 洲 둥지 에 支 店 및 사무소를 설치하여 사세를 크게 확장함으로써 東 北 亞 일원에 걸치는 방대한 시장을 확보한 26) 것도 다름 아닌 의 사상의 한 단면이라고 볼 수 있다. 新 市 場 開 拓 이라는 혁신을 수행한 실용주 26) 황명수, 企 業 家 史 硏 究, 檀 犬 出 版 社, 1982, p

134 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 다음으로 柳 一 韓 의 청지기 思 想 을 살펴보자. 一 韓 의 경영이념은 정성껏 좋은 상품을 만들어 국가와 동포에게 봉사하고 정 직 성실하고 양심적인 인재를 양성 배출하며, 기업이익은 첫째 기업을 키워 일자 리를 만들고, 둘째는 정직하게 납세하며, 셋째는 그리고 남은 것은 기업을 키워준 사회에 환원한다 27) 라고 되어 있다. 이러한 柳 一 韓 의 기업이념 속에는 산업사회 속의 청지기의 윤리와 기본진리가 거의 모두 내포되어 있다. 미국에 있어서 사회적 책임의 윤리가 형성된 것은 카네기(Andrew Carnegie : 1835~1919) 에서 시작된다는 견해가 있다. 즉 카네기의 논문 富 의 福 音 (Gospel of Wealth, 1889) 에서 管 財 人 ( 청지기 : Steward-ship Trusteeship) 에 대한 새로운 해석이 주장되고, 카네기의 행동도 종래의 경영자와 다른 새로운 윤리성을 보이 게 되어 그것이 미국사회에 있어서의 사회적 책임의 윤리를 형성하는 기점이 되 었다는 것이다. 28) 즉 고유의 管 財 人 의 사상에 의하면 富 는 神 의 것이며, 부호는 부의 사용을 일 시적으로 神 으로부터 신탁받고 있으므로 그들은 관재인으로서 神 을 위하여 富 를 사용해야 한다. 즉 사회를 위하여 富 를 사용해야한다 는 것이다. 다시 말해 富 는 사회와 사회 전체의 것이기 대문에 경영자는 관재인으로서 비단 주주를 위해서 뿐만 아니라 종업원, 소비자( 고객), 지역사회 및 일반대중을 위하여 이를 운용해 야 한다는 것이 29) 청지기 사상이다. 정직과 성실은 柳 韓 洋 行 의 사훈이라고 말 할 수 있다. 一 韓 은 정직, 이것은 柳 韓 의 영원한 전통이 되어야 한다 30)고 말했다. 이러한 정직과 성실은 청지기의 윤리의 기본적 진리라고 하여야 할 것이다. 왜냐하면 기독교정신에 의하면 직업 은 하느님이 불러서 맡긴 召 命 (Beruf 혹은Calling) 이요, 소명으로서의 직업의 책임 수행에는 정직과 성실이 본질적으로 속하여야 함이 의심의 여지가 없기 때문이 다. 31) 一 韓 의 기업이념으로서의 정직과 성실은 하나의 어려운 문제를 제기한다. 그것은 다름이 아니라 정직이 무능과 우둔이 되고 협잡과 부패가 유능으로 통하 는 부조리가 지배하는 사회 속에서 과연 정직과 성실에 의해서 기업이 유지될 수 있으며, 더욱이 기업이 성공할 수 있을까 하는 점이다. 그러나 그는 해방 후의 부 패와 혼란 속에서도 정직과 성실을 신조로 삼았음에도 불구하고 기업에 성공했다. 이렇게 해서 그는 정직하고 성실한 기업가도 성공할 수 있다는 하나의 매우 중요 27) 柳 韓 洋 行, 柳 韓 五 十 年, 1976, pp.74~91 참조. 28) T.A. Petit, The Moral Crisis in Management, 1967, p ) 황명수, 企 業 家 史 硏 究, 檀 大 出 版 社, 1882, p ) 柳 韓 洋 行, 전게서, p ) 고범서, 전게서, p

135 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 한 본보기를 우리 사회에 보여 주었던 것이다. 일한의 청지기 사상 즉 空 手 來 空 手 去 의 精 神 은 서거후 유언에 의하여서 뿐만 아니라 생전에도 기업에서 얻은 이익을 사회에 환원하고 있다. 그들 중 몇 가지 를 예시하면 다음과 같다 년 延 世 大 學 校 에 柳 韓 洋 行 全 洙 式 의 5% 에 해당 하는 47,944 株 를 기증하였으며 2 保 健 獎 學 會 에 19,990 株 기증 3 柳 韓 社 友 會 에 31,602 株 4 韓 國 社 會 및 敎 育 援 助 信 託 基 金 에 110,820 株 5 學 校 法 人 柳 韓 財 團 ( 柳 韓 工 高, 全 員 全 額 獎 學 生 ) 에 46,088 株 6 其 他 1969 년부터 몇몇 大 學 ( 서울大 學 校 및 高 麗 大 學 被 ) 의 재학생 중 우수한 실력을 가지면서도 곤궁한 학생을 선발하여 등록금 전액과 교통비까지 포함한 장학금을 지급하고 있으며 언장을 통해 일생일대에 이룩한 유한양행의 자기 소유주식전부를 7 서거 후에는 유 한국사회 및 교육원조신탁기금 32) 에 기증하였다. 빈손으로 왔다가 빈손으로 가는 것이( 공수래, 공수거) 부정할 수 없는 인간사회의 진리이다. 하지만 대부분의 사람들은 끊임없 이 그것을 거부한다. 어쩌면 공수래 공수거하는 것은 틀린 말일지도 모른다. 인간 은 죽음으로서 모든 것이 끝나는 것이 아니기 때문이다. 비록 육신의 삶은 끝나 게 되나 정신만은 사람이 죽고 난 다음에도 이 세상에 남아있기 때문이다. 일생동안 勤 儉 節 約 하면서 살았던 유일한, 그는 죽음 뒤에도 화려함을 거부하려 하는 듯 자신이 평소에 입던 양복을 깨끗이 세탁해 壽 衣 로 입혀 달라는 遺 言 을 남겼다. 결국 그는 자신의 遺 言 대로 마지막 가는 길마저 평소에 즐겨 입던 양복 과 수선한 구두를 신고 떠났다. 100 년 韓 國 企 業 史 33) 뿐만 아니라 세계의 企 業 史 에서도 찾아보기 힘든 청지기 였다. 내가 모은 재산은 모두 여러 사람을 위하는 일에 쓰여져야 합니다. 34) 라는 명 구를 남겼다. 참고로 柳 韓 財 團 出 捐 者 와 出 捐 內 譯 과 柳 韓 洋 行 의 공익기관 주식 분포도 및 柳 韓 財 團 목적사업 집행실적을 보면 다음 표 I~3 과 같다. 32) 한국사회 및 교육원조신탁기금 은 1977년 공익법인의 설립운영에 관한 법률 규정에 따라 소유주식의 일부를 柳 韓 學 園 과 분할하여 財 團 法 人 柳 韓 財 圓 으로 명칭을 변경 오늘에 이르고 있다. 柳 韓 財 團 은 기업가로서 뿐만 아니라 교육자로 서 또한 사회사업가로서 평생을 봉사와 희생으로 일관한 柳 一 韓 博 士 의 뜻에 따 라 故 人 이 작고하기 6개월 전인 1970년 9월 17 일에 설립되었다. ( 柳 韓 財 團, 본 冊 子 는 발행년도와 페이지가 없음) 33) 유한재단, 청지기의 삶 34) 유일한 어록 중에서 143

136 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) < 표 1> 유한재단출연자 및 출연금 내역 년월일 출연자 출연내역 주식수 액면가 출연당시 금액 유 일 한 유한양행주식 83, ,793, 유 일 한 유한양행주식 205, ,969, 유 일 한 제일은행주식 ,000 3,000, 유 일 한 산업금융채권 37,388, 히라오까 유한양행주식 , 홍 병 규 상업은행주식 20,000 1,000 20,000, ~ 기타관계인출연금 ( 유승옥, 박준관) 현 금 17,320,000 < 자료 : 유한재단제공> 출연금계 222,520,500 유무상증자 1,117,545,500 현 자금 1,340,066,000 유한재단 유한학원 연세대 보건장학회 유한사우공제회 유공주식관리기금 서울대약대 기타 총계 ( 유한양행 발행주식수 1,764,000 주) < 자료 : 유한재단제공> < 표 2> 유한양행의 공익기관 주식분포도 ( 월 현재) 217,331주 12.3% 214,134주 12.1% 66,188주 3.8% 30,175주 1.7% 16,427주 0.9% 8,037주 0.5% 3,879주 0.2% 10,822주 0.6% 566,993주 32.1% 144

137 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 기간 교육사업지원 장학금 < 표 3> 유한재단 목적사업 집행실적 지원금 Boy Scout 의연금 ( 단위 : 원) 70년도 7,720, ,800 20,000 8,666,793 71년도 19,737,858 72년도 80,783,400 73년도 54,630,000 74년도 49,250,000 75년도 85,000,000 76년도 373,000,000 77년도 170,500,000 78년도 137,000,000 79년도 80,000,000 80년도 70,000,000 81년도 105,208,290 82년도 99,169,920 83년도 32,000,000 84년도 30,000,000 85년도 40,600,000 86년도 50,000,000 87년도 42,220,000 (15 명) 570,900 (15 명) 1,456,300 (15 명) 1,526,650 (17 명) 2,217,200 (17 명) 2,955,500 (17 명) 3,619,570 (39 명) 8,136,600 (38 명) 9,185,830 (40 명) 10,696,280 (43 명) 13,755,530 (27 명) 13,278,260 (45 명) 37,330,080 (40 명) 40,455,400 (31 명) 33,712,700 (18 명) 19,567,000 (16 명) 17,821,000 (18 명) 22,003,800 계 920,000 50,000 21,278,758 1,000,000 83,239,700 1,000,000 57,156,650 1,000,000 52,467,200 2,162,000 2,500,000 82,617, , ,419, , , ,836, , , ,405, , ,000 91,546, ,000 1,000,000 85,625,530 1,000,000 5,000, ,486, ,000 5,000, ,100, ,00 3,344,600 76,500, ,000 1,500,000 65,862, ,000 60,817,000 3,600,000 71,421,000 3,700,000 2,000,000 69,923,

138 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 기간 교육사업지원 장학금 88년도 49,240,000 89년도 47,130,810 90년도 45,901,400 총 계 1,669,092,671 < 자료 : 유한재단제공> (64 명) 41,375,270 (73 명) 46,140,150 (73 명) 55,402,800 (661 명) 381,226,820 지원금 Boy Scout 의연금 계 4,000,000 2,000,000 96,615,270 4,000,000 3,000, ,270,960 5,000,000 5,000, ,304,200 34,327,800 31,914,600 2,1116,561, 柳 - 韓 의 國 益 思 想 柳 一 韓 의 경영이념 중 국가와 동포에게 봉사하다 라는 구절과 정직하게 납세 한다는 귀절이 있다. 이것은 그의 애국애족의 정신, 즉 애국사상 내지는 국익사상의 정신을 단적으 로 표현한 것이라 볼 수 있다. 즉 그는 부정직이나 불합리성과는 타협하지 않는 반면 애국애족의 사업이면 주 저하지 않고 이의 실천에 노력하였다. 그가 柳 韓 洋 行 을 창업한 기업동기도 애국 애족의 정신에서였다. 그는 교육자도 정치가도 될 수 있는 기회가 있었으나 기업 의 길을 택했다. 그것은 당시 기업의 창설이 무엇보다도 시급을 요하며 국가와 민족을 위하는 직접적이고도 직선적인 길이라고 판단되었기 때문이다. 또한 창업 당시 조선에서는 모든 기업이 미개척단계에 있어 제약업 이외에도 얼마든지 다른 유망한 업종을 선택할 수가 있었으나 그는 제약업을 택하였던 것이다. 이는 국민 의 건강관리를 통하여 직접적으로 국민에게 봉사하는 것이 제약회사라고 생각했 기 때문이다. 즉 건강한 국민이라야 건전한 교육을 받을 수 있고 건전한 국가를 만들 수 있다고 믿었기 때문이다. 다시 말해 健 康 立 國 과 健 康 報 國 의 사상에 입각 해서 이다. 그의 애국애족의 정신은 다음 몇 가지의 에피소드 에서도 여실하게 엿 볼 수 있다. 초창기의 일이지만 하주는 영업사원 ( 全 恒 燮 ) 이 만주를 거쳐 여러 지방의 출장 에서 돌아와 유일한에게 전국적으로 마약 붐이 돌고 있으니 이것을 제조 판매하 면 상당한 이익이 남을 것이라고 보고했다. 이 보고를 받은 一 韓 은 내가 지금까 지 자네 머리에 넣어준 것이 그런 것이냐, 내 앞에서 썩 물러가라 35) 고 격노하면 35) 홍현오, 韓 國 藥 業 史, 韓 濁 藥 品 工 業 ( 株 ), 1972, p

139 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 서 나는 불쌍한 동포들에게 도움이 되는 일, 사회에 유익한 일을 하고져 약업을 하는 것이고 이는 사업을 시작할 때나 지금이나 앞으로도 변함없는 일이다. 어찌 날 보고 국민에게 그런 어마어마한 해악을 끼치는 일을 하라고 감히 말하는 겁니 까 36). 그가 애국하고 사회에 봉사해야 한다는 것은 생활신조를 통해서 실천하는 것이라야 한다는 것이었다. 또한 이러한 일화도 있다. 어느 때인가 서울시 약업자협회의 회원들이 이익을 더 얻기 위해 약값을 자기네들과 같이 싸게 하자는 제안을 柳 一 韓 社 長 에게 하였 던 것이다. 그러나 그는 이를 거절했다. 그것은 약을 무리하게 싸게 해서 약을 함 량대로 만들지 못하면 상품의 품질이 떨어지고 결국 신용도 잃게 된다는 이유에 서였다. 柳 韓 의 제품은 동양에서나 서양에서나 어디를 가던지 손색없게 한다는 것이 그의 신조였다고 한다. 37) 또한 다음과 같은 일도 있었다. 언젠가 그의 직원들이 드링크 류의 제조를 건 의한 적이 있었다. 왜냐하면 당시 드링크 제품은 날개 돋힌듯 팔리기 시작할 무렵이기 때문이었다. 그러나 유사장은 드링크 류의 제조를 단호하게 거절했다. 한강물에 설탕을 넣어서 팔자는 것이오 하면서 격분하였다고 하다. 柳 韓 洋 行 에서 는 의학적으로 확실한 약효가 보증되는 그런 약품이 아니면 절대로 만들 수 없다 는 것이 그의 생각이었다. 국민의 건강을 지키겠다는 제약업자들이 국민의 건강 을 좀먹어 가면서 돈이나 뜯어낸다는 것은 강도보다도 더 나쁜 짓이요. 그는 드 링크 류를 만들 바에는 차라리 공장문을 닫고 버들표의 간판을 내려야 한다고 강 조한 것이다. 38) 이상과 같은 몇 개의 예를 보아도 그가 애국애족의 정신이 얼마나 철저했던가 를 알 수 있을 것이다. 고는 아무리 수익성이 높아도 그의 정신( 신조) 에 위배되는 일은 허용치 않았다. 다음으로 그의 국익사상은 柳 韓 洋 行 은 모범납세 업체로 선정되어 産 業 勳 章 을 받은 바 있으며 그밖에도 정직하게 납세한다 는 귀절에서도 찾을 수가 있다. 1968년 대통령으로부터 국내 최초의 銅 塔 1년간 세무사찰의 면제를 받기도 하고 수차 의 표창을 받기도 하여 한국 유일의 자진납세업체 또는 한국 유일의 장부공개업 체란 세평을 받았던 것이다. 39) 다시 말해서 유한은 국내 최고납세자의 하나로 정 직하고 신속한 납세를 회사의 지상정책으로 하여 왔다. 이러한 정책적 이념은 국 가는 세금없이 운영이 불가능하고 기업은 세금으로 운영 유지되는 국가의 법적 36) 상게서 37) 李 大 偉, 추도사, 특별기고문 중에서. 38) 황명수, 상게서 pp.461~ ) 황명수, 상게서, p,

140 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 보호없이 존립할 수 없다는 데에 그 정책적 이유가 있는 것이다. 이와 같이 그의 납세관은 곧 그의 애국관과 직결되는 국익사상의 발로이다. 이러한 납세관을 가 진 그는 납세기일이 하루만 늦어도 경리책임직원을 문책, 시말서를 받고 일회의 보너스 지급을 중지시켰다는 일화는 너무나도 유명하다. 요컨데 柳 會 長 은 기업활동의 성공은 곧 국력의 신장이며 기업가가 애국하는 방 법은 충실한 납세에 있다는 신념을 가지고 있었던 것이다. 따라서 그에게는 흔히 볼 수 있는 분식결산에 의한 부정, 부당한 납세는 용납되지 않았던 것이다. 40) 마지막으로 柳 一 韓 의 국익사상의 한 예를 더 들어 보자. 1962년 서울시에서는 제2 한강교를 건설하기 위해 합정동 일대의 땅을 수용했다. 그러나 시가 지급한 토지보상금은 시가의 절반도 못되는 금액이었다. 당연히 토지소유자들의 반발이 뒤따랐다. 그때 柳 韓 洋 行 의 땅도 800여평 정도가 시의 토지수용에 포함되어 있었 다. 재산권을 침해 당했다고 생각한 토지 소유자들은 토지보상가격인상투쟁위원 회를 구성하고 柳 韓 洋 行 도 참가하라는 통지를 보냈다. 회사의 재산을 관리하는 총부부장은 위원회에 참가해 향후 대책을 함께 논의했다. 그러나 이런 사실을 뒤 늦게 안 柳 會 長 은 충무부장을 회장실로 불러 호통을 쳤다. 지금 임자 정신이 있는거야 없는거야? 도대체 우리 회사에서 그렇게 오랫동안 일하면서 무엇을 배웠어? 총무부장은 영문을 모른채 회장의 얼굴만 바라다 보았다. 서울시에서 시민의 교통편의를 위해서 다리를 건설한다는데 토지소유자들이 저렇게 반발하고 있으면 어떻게 되겠어? 다리가 제 날짜에 건설될 수 있을 것 같 애? 그렇게 되면 결국은 누구의 손해야? 회장님 아무리 그렇지만 은행의 감정가가 평당 14,000 원으로 책정되어 있는 땅 을 평당 4,500 원에 강제 수용하겠다는 것은 엄연한 공권력의 횡포입니다. 서울시 에서도 토지 소유자들에게만 일방적인 손해를 강요할 수 없다고 생각합니다. 그 것도 어느 정도라야 말이죠. 아마 지금 時 價 는 은행감정가보다도 더 높을 겁니다. 그런데 그런 가격이라니 재산권 침해입니다. 임자 말도 일리는 있어. 국민을 위한다는 정부라면 국민의 재산권도 정당하게 보상해 줘야겠지, 하지만 임자도 알다시피 지금 우리 정부의 사정은 보통 어려운 것이 아니잖나, 다리는 시급히 건설해야 되는데 예산은 모자라서 제대로 보상을 해주지 못하는 형편인데 그렇다고 해서 무조건 반발만 한다면 결국 불편한 것은 죄없는 시민들 뿐일세. 그린데 그런 사람들을 깨우치지는 못할 망정 같이 어울려 투쟁을 하겠다고? 당장 그 위원회라는 것을 때려치우게. 나라에서 필요하다는 것 40) 황명수, 상게서, p

141 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 은 많은 국민들이 필요로 한다는 것과 마찬가지야 임자 우리가 그 땅을 살 때 얼마주고 왔어? 평당 30 원을 주고 왔습니다. 뭐라고 평당 30원에 사서 4,500원 에 팔면 됐지, 그 이상 더 뭘 바래. 그것도 시민의 교통편의를 위한 다리를 건설 하는 데 쓰이는 땅을 말야. 지금 당장 서울시에 전화 걸어 토지수용에 응하겠다 고 하시오. 총부부장은 아무리 국가와 사회도 좋지만 時 價 의 절반에도 미치지 못 하는 가격으로 어떻게 토지수용에 응한단 말인가 처음에는 회장의 뜻을 이해하지 못했지만 곰곰히 생각해 본 결과 그의 깊은 뜻을 이해 할 수가 있었다고 한다. 41) 예와 같이 柳 一 韓 의 국익사상은 자신보다 회사, 회사보다는 사회와 나라를 먼 저 생각했었다. Ⅳ. 柳 - 韓 의 社 會 的 責 任 觀 경영 흑은 기업의 사회적 책임(Soclal Responsibility of Business) 이라고 할 때 그 사회성 혹은 사회적 이라는 것은 기업의 사회화(Socializing, Nationalization) 혹은 所 有 의 社 會 化 를 의미하는 것이 아니며 또는 경영 자체의 사회적 성격을 의미하는 것도 아니다. 우리가 말하는 사회적 책임이란 인간가치 의 존중에 입각한 경영체( 혹은 경영자) 의 이해집단을 포함한 사회 및 국민에 대 한 사회적 공헌(Social Contribution) 혹은 사회적 봉사(SociaI Service) 를 의미한 다. 42) 그러면 사회적 공헌 혹은 봉사의 내용과 범위는 어떻게 되는가. 이점에 대 하여 山 城 章 교수는 사회성 공익성공공성의 세 가지 측면에서 해결하려고 하고 있다. 43) 여기서 사회성이란 전문가가 자기의 전문적인 일을 훌륭하게 수행함으로 써 사회적 책임을 완수한다는 것이다. 즉 전문적 기능적 책임을 말한다. 공익성이 란 경영체의 활동에 의하여 얻어진 수익의 분배와 귀속에 관한 문제이다. 즉 경 영체의 수익을 그 이해자 집단의 이익이 되도록 균형있게 분배를 하자는 것이다. 따라서 공익성이란 분배면에 있어서 사회적 책임을 수행한다는 것이다. 공공성이 란 인간성의 존중에 관한 사회적 책임을 말한다. 다음으로 경영자의 사회적 책 임의 대상에 관하여 보면 경영자는 누구에게 사회적 책임을 져야 할 것인가. 이 에 대하여 메릴(Merrill) 은 다음과 같이 6 가지를 지적하고 있다. 즉 To the Public( 大 衆 ), Employee( 從 業 晨 ), Government( 政 府 ), Consumers( 소비자), 41) 이종한, 전게서, PP. 329~ ) 황명수, 경영사학, 일신사, pp.183~ ) 高 官 晋, 占 部 郎 美, 山 城 章 共 著 現 代 の 經 營 責 任 者, 稅 務 經 理 協 會, 1972, p

142 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) Stockholder( 株 主 ) and to the World( 외계 = 전체사회 ) 가 그것이다. 44) 이러한 대상자- 이해자집단 (Interest Group) 에 대하여 사회적 책임이 어떻게 실 현되느냐에 대하여는 다음과 같은 방법이 지적된다. 즉 1 경영자( 혹은 기업가) 의 정신적 봉사공헌 2 외부집단의 지배 내지 압력에 의한 사회적 공헌 3 경영내 외의 상호신뢰에 의한 사회적 공헌이 그것이다. 이들 중 1과 2의 경우가 많으 나 3의 경우가 가장 바람직스럽다고 하겠다. 기업의 사회적 책임은 그 대부분이 외부집단의 압력 혹은 영향에 의해서 실현되어 왔다고 볼 수 있다. 그러나 사회 성, 공익성 및 공공성을 종합적으로 조정하여 내외의 이해관계자집단의 상호신뢰 에 의해 실현하는 것이 가장 소망스럽다고 하겠다. 따라서 기업의 사회적 책임 이라는 것은 인간가치의 존중에 입각한 기업의 사회적 공헌( 혹은 사회적 봉사) 를 말하며, 그것을 실현함에 있어서 기업가는 사회성공익성 및 공공성을 종합 및 조정하여 사회에 대해서나 이해자집단 ( 종업원주주소비자일반대중지역사 회 전체사회 등) 에 대하여 편파적으로 되지 않도록 균형책을 강구해야 하며, 그러 기 위해서는 사회의 내외 이해집단의 상호신뢰에 의하여 실현하는 것이 가장 바 람직스럽다고 하겠다. 45) 따라서 이상과 같은 시각에서 유일한의 사회적 책임관을 살펴보기로 하겠다. 이미 柳 一 韓 의 청지기 사상 에서 살펴 본 바와 같이 그의 경영이념은 남은 것은 기업을 키워 준 사회에 환원한다 는 귀절에서 잘 나타나있다. - 韓 은 일찍이 주식을 공개함으로써 우리나라 기업의 근대화 내지 합리화에 있 어서 선구적인 역할을 수행한 바 있다. 즉 1936 년 柳 韓 洋 行 은 법인체인 주식회사 로 발족하였으며 이에 따라 주식의 일부를 종업원에게 공로주로 분배하고 이른바 종업원 지주제 실시의 선구적 역할을 한 것이다. 즉 그는 충주식의 52% 이상을 사원들에게 나누어주었던 것이다. 이 주식의 대부분은 액면가액의 불과 10% 의 가 격으로 사원들에게 양도하였는데 주의 배당금은 연 당과 함께 해방되던 한 것이다. 8% 로 당초 규정되어 특별배 1945 년까지 계속 실시되었다. 이와 같이 거의 무상으로 배당 1939년의 주주총회에서 밝혀진 바에 의하면 총주식수 15,000 주, 주주수 22명으 로 그 중 柳 社 長 의 소유주식은 7,650 주에 불과했고 全 恒 燮, 芮 東 植 등 사원도 주 식을 소유하고 있었다. 46) 이와 같은 종업원 지주제는 당시의 조선사정으로서는 44) H.F. MerriL The Responsibilities of Business Leadership, 1918 (H.U.P.) 45) 황명수, 전게서, pp.183~186 참조. 46) 주식분포를 보면 총주식 15,000주중 柳 一 韓 7,650 주, 부인 柳 胡 美 利 1,200 주, 全 恒 燮 2,000 주, 芮 東 植 200준 柳 明 韓 840 주, 金 容 浩 400 주, 洪 容 善 240 주, 姜 漢 仁 100 주, 柳 順 韓 100 주 및 기타로 되어 있다. ( 洪 鉉 五, 상게서, p.69.) 150

143 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 상상조차 할 수 없었던 것이다. 해방 후에도 우리나라에서는 주식공개가 거의 없 었으나 1970년대 중반 5.29 大 統 領 特 別 指 示 ( 企 業 公 開 촉구) 에 의 해 기업공개가 겨우 추진되었던 것이다. 이와는 달리 柳 韓 洋 行 은 1962년 京 城 紡 績 株 式 會 社 에 이어 두 번째로( 국영기업 및 공기업제외 ) 주식을 공개했으며 이에 따라 자본과 경영을 분리했다. 유한의 주식은 공개 당시 주당 100원 이었는데 상 장하자마자 그 가격이 6 배로 상승하였다. 그가 주식을 상장한 직접적인 목적은 우리나라의 기업이 한 두 사람의 손에 의해서 운영되어져 가지고는 발전할 수가 없으며 여러 사람이 참여함으로써 회사가 다소 귀찮을지 모르지만 회사 발전에 도움이 될 수 있다는 생각에서였다. 47) 그는 결코 자기자본이 부족해서 주식을 공 개한 것이 아니다. 주식의 대중소유는 회계의 공개와 함께 기업의 민주화를 의미 하는 바 柳 一 韓 은 바로 기업의 민주화를 위해서 결단을 내린 것이다. 오늘날 한 국의 재별 또는 기업인들이 여전대 사리사욕의 미몽에서 탈피하지 못하고 있는 현실을 직시할 때 그의 기업윤리는 더 한층 이사회에서 계고되어야 할 것이다. 柳 韓 洋 行 의 주식분포를 보면 柳 一 韓 會 長 의 서거 직후인 1972년 2월1일 현재로 30 개의 법인투자 ( 보건장학회, 재단법인 한국사회 및 교육원조신탁기금 (1977 년 柳 韓 財 團 으로 개명) 둥의 9개의 비영리기관과 21개의 법인투자가와 538인의 개인투 자(35 인의 외국인 포함) 합계573인의 주주가 있었으며 총주식수는 127 만주였다. 즉 주식의 41% 를 비영리법인이 소유하교 개인주주 중 최고의 주주는 柳 載 羅 (Miss Janet New) 의 14% 였다 년도 현재의 柳 韓 洋 行 의 공익법인 주식소유표는 앞서의 ( 표2) 를 참조하기 바란다. 이상에서 본 바와 같이 1972년 2월 1 일 기준으로 하여 柳 韓 의 주식을 공의법인 에서 41% 나 소유하게 된 것은 기업의 이윤은 사회에서 발생한 것이니 당연히 그 이윤을 다시 그 기업을 키워준 사회에 환원해야 한다는 회적 책임수행에 발전을 기한 것이라 볼 수 있다. 48) 柳 一 韓 의 기업신조인 사 유일한은 종업원 복지는 물론 교육장학 둥 다방면에 걸친 사회적 봉사를 하 였다. 종업원 복지에 관해서 보면 이미 1937년 5 월 素 砂 工 場 의 완공과 함께 종업원의 사택기숙사홀운동장각종 위생시설 및 문화시설을 마련하였다. 이러한 일 은 종업원의 복지후생에 대한 법제도나 행정조치가 전혀 제도화되지 않았던 당시 로서는 실천하기 어려운 것이었다. 49) 더욱이 종업원 복지 및 후생은 회사에서 기 47) 李 根 雨, 柳 一 韓 傳 健 康 人 生, 1974, 7 월호, p ) 주식회사 柳 韓 洋 行, ( 팜프렛), 1974 참조. 49) 황명수, 전게서, p

144 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 증한 많은 주식과 후원으로 자체자금을 조성한 사우공제회를 통하여 실시되고 있 었다. 50) 또한 교육장학사업에 대하여 보면 유일한은 기업경영에 못지 않게 인재양성 을 중히 여겨 왔으며 그 중에서도 우리나라에 특히 부족한 기능공 양성을 위한 전문교육기관 설립의 필요성을 절감하고 1954 년 사재( 자기소유 개인주식 30% 를 신탁재원으로 하여) 로 소사에 고려공과학원을 설립, 전원 학비와 숙식비를 무료로 제공하면서 기능공 양성에 전념했고, 1957 년 교명을 한국직업학원으로, 다시 1963 년 한국고등기술학교로 개칭하고, 1964년 항동에 교사를 신축하고 유한공업고등 학교로 새로 발족하여 학생전원을 장학금 지급에 의해 기능공으로 육성 배출하고 있으며 1967 년부터는 유한중학교를 병설 운영하고 있다. 51) 이와 같이 柳 一 韓 은 회사는 개인이나 가족을 위하여 존재하는 것이 아니고 국가와 동포를 위하여 존 재한다고 생각하고 기업경영을 통하여 국가와 사회에 봉사하고 또한 기업이익에 서 남은 것은 국가와 사회에 환원한다는 기업이념 ( 철학) 을 가지고 있었던 것이다. Ⅴ. 要 約 및 結 論 따라서 이상을 요약하여 결론지어 보면 그의 사상은 동서양의 사상과 박애사상, 실용주의, 합리주의, 호연지기, 홍익인간의 이념 등이 한데 어우러져 그 누구도 모 방할 수 없는 유일한 특유의 독특한 사상 즉 청지기 정신을 바탕으로 하여 더불 어 함께 살며, 함께 건강하고, 함께 행복하며 무엇보다도 온 인류가 참된 목적을 위하여 일하고, 평화로운 마음으로 이 세상을 살아 갈 수 있도록 하는 인간애의 숭고한 정신 을 잉태했고 이것이 출산하여 유한의 정신과 신조 라는 Ilhanism 의 본체를 형성하였고, 나아가 Yuhanism 으로 승화시켰다고 볼 수 있으며, 또한 그는 思 考 하는 기업가이며 이를 직접 행동으로 실천하는 행동주의 기업가상을 이 땅에 근착( 根 着 ) 시켰다. 柳 一 韓 사상은 모방적이거나 추종적이 결코 아니며 다분히 독창적인 사상이라 고 말 할 수 있으며, 이러한 그의 철학적 사고의 원류( 근원) 는 그의 기도문에서 표현된 바와 같이 삶을 살아감에 있어 무엇이 더 중요한 것인가를 인식할 수 있 고 무엇보다도 온 인류 모두가 참된 목적을 위해 일하고, 평화로운 마음으로 이 세상을 살아갈 수 있도록 저희들 마음을 겸손함과 이웃을 아끼고 사랑하는 마 50) 1974 년도 발행 주식회사 柳 韓 洋 行 팜프렛 참조. 51) 柳 轄 洋 行 발생 전게 팜프렛 참조 152

145 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 음으로 가득 채워 주시옵소서 52) 라는 마음의 祈 求 에서 연원되었다고 보여진다. 柳 一 韓 의 기업동기 내지 행동양식은 민족주의 특히 애국애족의 정신에 입각하였 으며 한편 그는 철저한 계산주의 즉 타산주의에 따라 기업의 이윤추구에 있어서 도 적극적인 태도를 보였다. 이윤은 기업의 성장에 필수불가결한 것이며 기업의 성장은 고용의 중대를 가져오고 나아가서는 국민경제의 발전에 공헌한다고 믿었 기에 기업의 이윤추구에 적극적이었다. 柳 一 韓 이 생각하는 기업이윤은 합법적이며, 우량제품의 제조판매에서 얻어지 는 사회가 지불하는 정당한 대가로 생각하였다. 따라서 그는 국민의 건강을 해치 거나 사회악을 조장하는 행위로서 얻어지는 이윤추구는 절대 용납하지 않았던 것 이다. 즉 그의 기업정신은 첫째는 애국애족, 둘째는 합리적인 계산주의에 입각한 것이다. 그의 이와 같은 사상은 구한말의 민족기업가가 애국애족 ( 反 日 排 日 ) 정 신에 입각하면서도 수지타산을 생각하지 않았던 것과 다르다는 점에서 그의 독창 성이 있는 것이며, 또한 서구의 자본주의 초기에 보았던 퓨리턴 의 직업적 윤리 정신, 즉 막스베버 가 말하는 자본주의 정신과도 다른 자본주의정신에 애국이 란 나라사랑 의 얼이 담겨져 있다는데 또 다른 독창성이 있는 것이다. 柳 一 韓 은 애국적이면서도 타산적인 기업가 라는 새로운 기업가형을 이 땅에 남겼다. 그것은 일본의 기업가들이 집( 家 ) 혹은 가문( 家 門 ) 의 명예를 위하여, 나아 가서는 군주 내지 국가에 대한 충성을 위하여 타산적인 기업경영에 임한 것과는 다르며 또한 신의 영광 을 위하여 일하는 퓨리턴 의 직업적 윤리정신과도 다르 다. 즉 그의 기업이념은 家 보다는 회사를 회사보다는 사회와 국가를 위한다는 공 익적 애국애족적 사고라는 점에서 다르다는 제3 의 독창성이 있는 것이다. 柳 一 韓 의 청지기 사상이나 사회적 책임의 실천에 있어서도 독창적이라 할 수 있다. 미국의 사회적 책임의 효시라 할 수 있는 富 의 福 音 사상도 그 배경이 19세기 말에 미국에서 보였던 철도 및 대기업의 주식에 있어서의 부정행위 등에 격분한 혁신주의자나 사회적복음파 (Social gospeler) 에 의하여 재주장되는 사회적 압력하 에서 이룩된 것이며 미국적 사회적 책임이 다분히 외부집단의 지배 내지는 압력 에 의한 공헌인데 반하여, 유일한의 사회적 책임은 당시 종업원 지주제도나 종업 원 복지시설에 대한 법적제도적 및 행정적 장치가 전혀 없었던 조선 실정하에 서는 상상조차 할 수 없는 획기적인 일로 오직 그의 자의적이고 자발적인 의도에 서 결행되었다는 데 또한 그의 독창성이 존재하는 것이다. 또한 유일한은 기업을 한 개인이나 일부집단의 소유물로 보는 것이 아니고 계 속기업(Going Concerns) 으로서 사회로부터 부여받은 역할을 수행하기 위해서 존 52) 창설자 유일한 박사 기도문중에서 153

146 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 재한다고 생각하며 이것은 고용의 중대와 생산성을 제고하여 국민경제 발전에 기 여해야 한다고 믿고 있다. 따라서 그는 그가 타계한 후 소유주식의 전부를 사회 에 환원하고, 또한 혈연도 지연도 아무런 관계가 없는 타인( 간부사원 ) 에 그가 평 생동안 쌓은 기업의 모든 권한과 재산을 아낌없이 위양하였다. 이러한 일은 이 땅에 전례가 없는 일로 한국적 기업윤리 형성에 새로운 전례를 보여 주였다. 물 론 柳 一 韓 이라고 해서 가족이나 혈족이 없었던 것은 결코 아니다. 미망인 柳 胡 美 利 여사, 장남이자 독자인 柳 逸 善, 가장 아끼고 사랑하던 딸 載 羅 가 있으며 형제들 도 있었지만 그가 그의 기도문에서 밝혔던 삶에 있어서 무엇이 더 중요한가를 인식할 수 있고 의 구절대로 이것이 최상의 그리고 최선의 길이라고 믿었기 에 실천한 것이라 볼 수 있다. 이와 같은 예는 자본주의 초기, 즉 영국의 산업혁명기의 기업가들을 보아도 이 러한 예는 흔치 않다. 아크라이트, 볼들, 제임즈왓트, 네이 스미스 등 영 국 산업혁명기의 기업가들은 근면하고 성실하였으나 기업활동에서 얻은 이익은 사회에 환원하지 않았으며, 그것으로서 만년에 토지를 구입하고 화려한 저택을 건축하여 여생을 편안하게 취미를 즐기면서 보냈던 것이다. 즉 그들은 산업기업 가에서 토지귀족으로 변신했던 것이다. 이와 같이 볼 때 柳 一 韓 의 청지기 정신은 완전히 독창적인 사상의 발로라는데 의심의 여지가 없다고 하겠다. 柳 一 韓 의 기업이념은 애국애족적인 민족기업가의 좁다란 차원을 초월하여 세계 관적 입장에서 영위되었다는 데 또 다른 그의 독창성이 있으며 이는 一 韓 思 想 이 하나의 철학으로서 세계화할 수 있다는데 그 가치가 있다고 하겠다. 즉 그는 일 제시대 사업을 경영하면서도 장부의 조작, 경리의 부정, 자본의 누수 등과 같은 방법에 의하여 탈세함으로써 일제에 반항한다는 편협한 애국관을 버리고 기업이 처한 환경 속에서 회계의 원칙에 따라 기장하고 결산하여 추호도 비리를 범하지 않았으며, 이것은 애국애족이나 항일적 독립투쟁정신이 결여된 영합적 기업가가 아니라 누구에게도 자신의 정직과 성실을 숨기지 않겠다는 한차원 높은 세계관과 인생관에서 연유되었다고 보아야 할 것이다. 끝으로 이와 같은 숭고한 一 韓 思 想 의 청지기 정신이 우리 사회에 보다 확산되 고 제고되지 못하고 오히려 훅거 의 賤 民 的 資 本 主 義 (Paria Kapitalismus) 로 흘 러간다는데 아쉬움이 있으며 이제 우리는 一 韓 思 想 을 개인이나 회사적 차원에서 탈피하여 좀 늦은 감은 없지 않으나 사회적 내지는 범국가적 차원에서 보다 깊이 연구하여 세계적 사상으로 승화시키는 것이 오늘의 우리들의 공통된 과제라고 강 조하고 싶다. 154

147 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 參 考 文 獻 黃 明 水, 企 業 家 史 硏 究, 檀 大 出 版 社, 1982., 經 營 史 學, 日 新 社, 趙 職 潛, 韓 國 資 本 主 義 成 立 史 論, 大 旺 社, 1982., 韓 國 企 業 家 史, 博 英 社, 金 炳 夏, 財 關 形 成 과 企 業 家 活 動, 韓 國 能 率 協 會, 1992., 韓 國 經 濟 經 營 思 想 史, 啓 明 大 出 版 部, 金 宗 域, 工 業 化 와 企 業 家 活 動, 비봉出 版 社, 1993., 經 濟 史, 經 文 社, 黃 明 水, 韓 國 企 業 經 營 의 歷 史 的 性 格, 新 陽 社, 주명건, 美 國 經 濟 史, 博 英 社, 朴 載 錄, 金 信 雄 現 代 經 營 史, 유풍출판사, 朴 載 錄, 經 營 史 論, 유풍출판사, 1981, 愼 侑 根, 企 業 과 社 會, 經 文 社, 金 濟 漢, 發 達 心 理 學, 學 友 社, 洪 鉉 五, 韓 國 藥 業 史, 韓 獨 藥 品 工 業 ( 株 ), 이종한, 버드나무 길, 태성, 李 鐘 宰, 財 閥 履 曆 書, 한국일보사, 柳 韓 洋 行, 柳 韓 五 年 史, 1976., 柳 韓 財 團, 청지기의 삶, 柳 韓 洋 行 略 史, 柳 韓 洋 幸 (YUHAN Corporation), 각종 팜프랫 및 홍보자료. 오재호, 人 間 柳 一 韓 傳 ( 仁 川 商 議 報 ) 李 根 雨, 柳 一 韓 傳 健 康 人 生, 李 敎 南, 柳 一 韓 韓 國 의 企 業 家, 平 凡 社, 1988., 黃 金 은 흐른다, 매일경제신문사, ~ 고범서, 기독교와 사회윤리, 범화사, 김교식, 유일한편 한국재벌, 계성 출판사, 晋 洲 柳 氏 族 譜 朴 光 緖, 資 本 主 義 精 神 에 관한 考 察 순천향대학논문집 155

148 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 순천향대학교 제9권 제2 호, 經 營 史 學 會, 經 營 史 學, 1 권~8권 敎 育 書 館, 經 濟 學 大 辭 典, 大 河 內 堯 男, 經 營 史 講 座, 東 京 大 學 出 版 會, 高 官 晋, 占 部 郎 美, 出 城 章 現 代 の 經 營 責 任 者 稅 務 經 理 協 會, Ford. H. Mass Production, Encyclopedia Britanica, Petit, T.A, The Moral Crisis in Management, Merrill, H.F, The Responsibility of Business Leadership, Weiss. J.W. California,1994. Business Ethics, Wadsworth Publishing Company, Belmont 156

149 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 A Study on the Social Responsibility of Business of Ilhan New as a donation Management Creator Park, Kwang-Sur Professor Sunchunhyang University Abstract The aims of this study are to examine on the ceonomic thoughts of Ilhan New, also analyze on the formation process of his thoughts in order to find-out his origiralities. As a matter of fact, this paper want to try build-up his thoughts as an ism. Ilhan New was horn an eldest son of Mr. Kee-Ryun, Yoo in Pyungyang. Where is now a capitol city of North Korea, in When he was only 9years old, he was sent by his father to America where only original purpose was education his son as a great man. In America, he studies byself-supporting his pay from primary school, middle school, and highschool to University of Michigan, and after he was adopted as an accountant of The General Electric Company which is one of the biggest electric company in the world. After one year he resigned the General Electric Co., he established La Choi Food Company in America in La Choi means small green peas in Chines speaking. Came back to mother land, Korea, in 1926, 31 years old, he founded Yuhan Cooperation in Seoul, Korea. His business and Yuhan Cooperation have estabilished greet success, eventually his Yuhan Cooperation has achieved one of the biggest Pharmacy company in Korea. In 1971, he died at his age 77 years old. Restorting his whole fortune for the society, He was 157

150 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) completely accomplished his social responsibility of business. He was the greatest entrepreneure, educator, social contributor and an independator of Korea, Korea has produced. After studing, I gained a felt results as following: First, Formation of Ilhan thoughts were greatly owing to his Parent's heredities, especially his father's commercialism, and also recognized a patriotism from losing mohter land, understood true humankind from Miss. Isabel and Elizabeth, and after learned American Pragmatism. Second, Mainsprings of Ilhanism was Hongik Thought, 0riental Confucianism, Philanthropysm, SiIhak, Enlightmentism, Pragmatism. Rationalism Pioneerism, and Frontier from Spirit Such thoughts and spirits could be pragnanted the Altrism and Self-inierestism inside Ilhan New's heart. At last, Hamornizing these thoughts, consisted of the essence of Ilhanism, that is, a thoughts of coexistance and coprosperity, patriotism, Before public and after priviate, Innovationism, Non-self deception, Philanthropysim, Stawardship, and Justice management. Third, I can obtained some conclusions that Ilhanism is completely Originalities, that is, as we can read his pray, he always prayed to God that we, all human beings in the world can recognize What is more important matter earring-out our human life anything else our all human beings work hard only for the purpose of true aims and help our neighbourhoods with love and dear. As we can see above, he was a throughly human kind, calculative entrepreneure, and rationalist. Carring-out social responsibility of business, he didn't contributed his whole fortune for the society by lair and social pressure, but donated by his own-willings. we can't find out such examples on the process of capitalism history, and he recognized that his business is not belongs to a certain individual or any group, it is only a going-concerns. Fourth, Ilhan New's entrepreneureship was not a narrow national business man, but only was the globalizative entrepreneureship especially his thoughts and actions has harmonizing a difficult problom related to the economic development and economic ethic's trade-off-relation. And he was a pioneer of globalization which if is now our economic goals as he was completely accomplished globalization at that times. 158

151 革 新 經 營 의 創 始 者 柳 一 韓 의 經 營 哲 學 Thus it is obious that Ilhan thoughts can be estabilished an ism and it can be contained a posibility of globalization. Key word : Ilhan New, Ilhanism, entrepreneureship 159

152 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 경영사학 제 20 집 제 5 호 (통권 40 호) 한국경영사학회 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 野 中 いずみ 目 次 序 論 1 章 日 本 マクドナルドの 創 業 と 成 功 :1970 年 代 ~1980 年 代 でん 1 節 日 本 マクドナルドの 創 業 者 藤 田 田 2 節 セットで 販 売 することによって 成 功 体 験 を 続 けていった 日 本 マクドナルド:1980 年 代 2 章 環 境 の 変 化 :1990 年 代 初 頭 1 節 多 角 化 とシナジー 効 果 を 狙 う: 日 本 マクドナルド&トイザ ら ス&ブロックバスター 2 節 バブル 崩 壊 と 次 の 競 争 相 手 の 出 現 :コンビニ 中 食 アメリカ 企 業 2 社 の 日 本 参 入 3 節 米 飯 メニューの 開 始 3 章 低 価 格 大 量 販 売 大 量 出 店 の 高 速 加 工 食 品 販 売 :1990 年 代 後 半 結 論 1 節 低 価 格 な 高 速 加 工 食 品 販 売 を 支 えたシステム 2 節 低 価 格 戦 略 3 節 成 功 の 中 の 失 敗 の 種 城 西 大 学 経 済 学 部 助 教 授 161

153 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 序 論 1970 年 代 日 本 にマクドナルドのハンバーガーを 持 ち 込 んだ 人 物 が 藤 田 田 であ る 日 本 のファーストフードのハンバーガー 業 界 において マクドナルドが 業 界 第 1 位 なりえたのは 藤 田 田 の 企 業 家 精 神 によるところが 大 きい 彼 以 外 の 人 物 がマ クドナルドの 社 長 であったら もしくは 日 本 マクドナルドが 日 本 の 複 数 企 業 との 合 弁 であったら 現 在 までの 発 展 はなかったかもしれない 2003 年 藤 田 田 はマクドナルドを 退 き 翌 年 逝 去 したが 藤 田 田 社 長 在 任 期 間 約 30 年 を 本 稿 では 1971 年 から 1980 年 代 前 半 の 日 本 マクドナルド 創 業 発 展 時 期 1980 年 代 後 半 のセットメニューの 展 開 時 期 1990 年 代 初 頭 の 多 角 化 とフルラインの 時 期 そしてそのつまずき 1990 年 代 半 ば 以 降 の 低 価 格 大 量 出 店 時 期 に 分 けて 論 じていきたい 輸 入 業 者 の 社 長 だった 彼 が なぜハンバーガーという 外 国 製 食 品 のビジネスを 始 めるに 至 ったのか 日 本 マクドナルドの 成 功 理 由 はどこにあったのか 藤 田 田 は マクドナルドのビジネスを 高 速 加 工 食 品 販 売 業 であると 看 破 していた 注 文 を 受 ければただちにハンバーガーが 提 供 され 早 く 提 供 されるためのシステムを ア メリカから 日 本 に 導 入 した 大 量 生 産 大 量 販 売 が このビジネスの 根 幹 であった しかし マクドナルドのハンバーガーを 日 本 に 導 入 するには そのシステムだけで は 成 功 しなかったであろう 導 入 時 にどこに 店 舗 を 建 設 し 外 資 系 の 一 企 業 として の 日 本 マクドナルドが どこまで 現 地 裁 量 権 が 持 てるのかが 問 題 となってくる 店 舗 展 開 を 策 定 したのは 企 業 家 藤 田 田 であり アメリカのマクドナルドから アドバ イスは 受 けるが 命 令 は 受 けない と 言 い 切 れた 人 物 が 藤 田 田 であった しかし 彼 のビジネスがまったく 順 調 に 現 在 まで 進 んだわけでもなかった 1990 年 代 初 頭 と 2000 年 代 初 頭 は 日 本 マクドナルドにとって 困 難 な 時 期 であった 本 稿 162

154 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 では この 1990 年 代 初 頭 に 日 本 マクドナルドで 何 があったのかを 解 明 したい そし て 1990 年 代 中 盤 以 降 低 価 格 大 量 出 店 をしていった 日 本 マクドナルドは 勝 ち 組 ともてはやされたにもかかわらず なぜ 2000 年 代 に 業 績 悪 化 となったのか 同 社 の バブル 崩 壊 後 のデフレ 時 代 における 戦 略 をたどることによって 同 社 の 成 功 と そ の 成 功 の 影 にあった 失 敗 の 種 を 明 らかにしたい 1 章 日 本 マクドナルドの 創 業 と 成 功 :1970 年 代 ~1980 年 代 で ん 1 節 日 本 マクドナルドの 創 業 者 藤 田 田 1969 年 第 二 次 資 本 自 由 化 により 日 本 の 飲 食 業 界 の 外 資 比 率 が 100%まで 認 めら れるようになった これにより 外 資 系 のファーストフードと 日 本 企 業 は 次 々に 日 本 のファーストフード 市 場 に 参 入 した 1970 年 5 月 ダイエーの 食 堂 部 門 であるダイエーフーズが 東 京 都 郊 外 の 町 田 市 にあるダイエー 内 にドムドム1 号 店 を 11 月 にはケンタッキー フライド チキン (KFC)が 名 古 屋 郊 外 で1 号 店 を 12 月 にはイギリスのハンバーガーショップであ るウィンピーが 大 阪 で1 号 店 を それぞれ 開 店 した 1971 年 7 月 日 本 マクドナル ド1 号 店 が 東 京 銀 座 に 開 店 し 同 年 4 月 には 大 阪 でミスタードーナツが 同 年 6 月 にはアメリカ 合 衆 国 インディアナポリスに 本 社 のあるバーガーシェフが 神 奈 川 県 に 同 年 9 月 には 東 京 銀 座 にダンキンドーナツがそれぞれ1 号 店 を 開 店 した 翌 1972 年 には 2 月 創 業 のロッテリアが 9 月 に 東 京 日 本 橋 高 島 屋 百 貨 店 に 最 初 の 店 をオープンさせ 同 年 3 月 には 東 京 成 増 でモスバーガーが 産 声 を 上 げた この ように 1970 年 代 は 日 本 のファーストフード 元 年 とも 言 える 時 代 だった 1971 年 に 日 清 食 品 からカップヌードルが 発 売 され 1970 年 代 には 素 早 く 食 事 ができる フ ァーストフードやインスタントラーメンが 発 売 され 人 々に 受 け 入 れられていった 163

155 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 1974 年 にはセブンイレブン1 号 店 が 開 店 し 1976 年 には 大 和 運 輸 ( 当 時 の 社 名 現 ヤマト 運 輸 )が 宅 急 便 を 始 めるなど 1970 年 代 の 日 本 では 食 事 買 い 物 輸 送 に スピード を 付 加 価 値 とするビジネスが 誕 生 した 藤 田 田 は 自 らのビジネスで ある 日 本 マクドナルドを 称 して 高 速 加 工 食 品 販 売 業 とよく 言 っていたが まさ に 待 たせずに すばやくハンバーガーが 販 売 されるということが 日 本 のこの 時 代 に 合 致 していたと 言 えよう まず 最 初 に 彼 の 略 歴 にふれ 次 になぜ 彼 はマクドナルドを 始 めたのかを 論 じてい きたい 1926 年 大 阪 で 生 まれた 藤 田 田 は 東 京 大 学 在 学 中 に GHQ の 通 訳 のアルバイ トをし ユダヤ 人 の 商 売 のやり 方 から 強 い 影 響 を 受 けることになる ユダヤ 人 から 彼 が 学 んだことは 女 性 と 口 ( 食 事 ) を 商 売 とせよ ということだった 1950 年 大 学 在 学 中 に 24 才 で 藤 田 田 は 輸 入 業 者 の 藤 田 商 店 を 設 立 した( 翌 年 の 1951 年 に 東 京 大 学 法 学 部 卒 業 ) それから 20 年 後 の 1970 年 アメリカ 合 衆 国 にあるマクド ナルド ホールディングス( 以 下 本 稿 では 米 マクドナルドと 略 す)は 藤 田 田 に マクドナルドの 合 弁 企 業 設 立 を 持 ちかけた 藤 田 商 店 の 仕 事 が 忙 しいからと 断 る 藤 田 に 米 マクドナルド 社 長 のレイ クロックは わかったから 早 く 条 件 を 言 え と 応 じたと 言 う 藤 田 田 がクロックに 出 した 条 件 は3つ フィフィティフィフティ の 日 米 対 等 な 合 弁 社 長 は 藤 田 で 人 事 権 は 日 本 利 益 は 日 本 に 再 投 資 する そして アドバイスは 受 けるが オーダー( 命 令 )は 受 けない と 締 めくくった クロッ クは 意 外 にもすべて 受 け 入 れた そこまで 言 う 人 はいない 気 に 入 った こっちの 条 件 は 一 つ 必 ず 日 本 で 成 功 させること 1 こうして 藤 田 は 45 歳 で 日 本 マクドナ ルドを 創 業 し 社 長 となった 日 本 マクドナルドの 1971 年 の 出 資 比 率 は マクドナ で ん ルド コーポレーション 50% 藤 田 田 25% 第 一 製 パン 25%であった なぜ 藤 田 田 は 日 本 マクドナルドを 成 功 させることができたのか その 理 由 として 彼 が 米 マクドナルドのシステムを 導 入 しつつ 日 本 の 風 土 に 合 わないものは 拒 否 で きる 意 思 決 定 権 があった 所 にあると 考 える マクドナルドの 優 秀 なシステムを 生 か 1 日 経 流 通 新 聞 1995 年 10 月 19 日 24 頁 164

156 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 しつつ 日 本 に 合 わないものは 変 化 変 容 させていったのである アメリカのマク ドナルドのやり 方 を 変 えなかったものとして 次 の4 点 があげられる (1) 米 マク ドナルドの 品 質 (Quality) サービス(Service) 清 潔 (Cleanliness) そして 価 値 (Value)の 原 則 と 米 マクドナルドで 蓄 積 されたシステム (2)マクドナルドの 商 標 であるゴールデンアーチを 日 本 マクドナルドではそのまま 用 いる (3)アメ リカのマニュアルを 日 本 でも 生 かす (4)アメリカのマクドナルドの 社 員 の 教 育 機 関 であるハンバーガー 大 学 を 日 本 にも 設 置 し 日 本 マクドナルドの 社 員 教 育 を 実 施 する メニューも 当 初 は 日 本 風 のメニューにするのではなく アメリカで 出 されて いるのと 同 じメニューにしていた 米 マクドナルドから 受 けた 指 導 も 見 逃 せない 例 えばメニューのひとつであるポ テトを 取 っても オープン 前 にマクドナルド コーポレーションのポテトの 専 門 家 が 来 日 して 1ヶ 月 間 にわたって 北 海 道 でじゃがいもの 加 工 工 程 を 全 部 手 直 しして いる 年 出 店 当 初 からアメリカのやり 方 と 変 えたのが (1) 店 の 呼 び 方 と (2) フランチャイズではなく 直 営 店 で 展 開 していく 方 法 と (3) 出 店 場 所 である マク ドナルドの 英 語 の 発 音 McDonald s(マクダーナルズ)では 日 本 人 が 発 音 しにく いとして 社 名 と 店 名 を5 音 節 のマクドナルド(マ ク ド ナル ド)に 変 更 し た 店 舗 展 開 でも アメリカではフランチャイズ 方 式 で 店 舗 数 を 拡 大 していったが フランチャイズでは 店 長 の 裁 量 がかなり 入 るとして たとえ 出 店 のスピードは 遅 く なっても 教 育 がゆきとどく 直 営 店 方 式 を 日 本 マクドナルドは 採 用 した ちなみに マクドナルド1 号 店 オープン 前 年 の 12 月 に フランチャイズで1 号 店 を 開 店 したウ ィンピー 心 斎 橋 店 は 大 阪 そごう 百 貨 店 裏 という 好 立 地 に 店 を 構 えたにもかかわら ず 売 上 減 少 によってわずか1 年 で 閉 店 している 3 しかし 何 といっても アメリカ 側 が 主 張 した 郊 外 から 出 店 すべきという 強 い 2 月 刊 食 堂 1971 年 9 月 号 116 頁 3 月 刊 食 堂 1971 年 11 月 号 68 頁 165

157 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) アドバイス 4 を 退 け 都 心 の 中 心 から 日 本 マクドナルドの 出 店 を 開 始 したことが アメリカのやり 方 を 変 えた 大 きな 点 である 日 本 マクドナルド1 号 店 の 前 年 三 菱 商 事 がヒューブライン 社 とパートナー( 出 資 比 率 両 社 50%)となってオープンした ケンタッキーフライドチキン1 号 店 は 出 店 場 所 について 三 菱 商 事 は 宣 伝 効 果 が 高 い 繁 華 街 一 等 地 への 出 店 を 主 張 したが その 主 張 はアメリカ 側 に 言 下 に 退 けられ 5 名 古 屋 の 郊 外 立 地 から 店 舗 展 開 を 開 始 した このケンタッキーフライドチキン1 号 店 は 開 店 からわずか3 年 後 の 1973 年 に 売 上 不 調 で 閉 店 した ケンタッキーフライ ドチキンの 例 が 示 すように 郊 外 店 を 展 開 するほどまでに 日 本 のモータリゼーシ ョンは 1970 年 代 初 頭 には 進 んではいなかった 車 でファーストフードを 買 いに 行 く 郊 外 店 での 店 舗 展 開 は アメリカでは 普 通 であっても 1970 年 代 初 頭 の 日 本 にはま だ 時 代 が 早 すぎたのである ファーストフードを 1970 年 代 の 日 本 で 展 開 するなら 郊 外 から 店 舗 展 開 するので はなく 都 心 部 から 展 開 すべきであると 藤 田 田 は 考 えていた 当 時 の 文 化 の 中 心 は 銀 座 であり 文 化 は 高 い 所 から 低 い 所 へと 流 れるのだから 文 化 の 中 心 東 京 銀 座 に 日 本 マクドナルドの1 号 店 を 開 店 すべきである こうして 日 本 マクドナルド1 号 店 は 銀 座 4 丁 目 にある 三 越 デパート 内 の 道 路 沿 いにオープンした そして 同 社 は 1973 年 までに 23 店 舗 中 15 店 舗 を 三 越 松 屋 大 丸 伊 勢 丹 などの 百 貨 店 の1 階 にテナント 出 店 していった 年 代 初 頭 に 百 貨 店 内 にマクドナルドを 開 店 して いったのは マクドナルドのブランド 名 を 高 めるのに 大 いに 役 立 ったと 筆 者 は 考 え る デパートの 来 店 客 が 買 物 後 にマクドナルドに 立 ち 寄 る 機 会 を 増 やすというだ けでなく 現 在 百 貨 店 内 にもある 高 級 ブランド 品 のように マクドナルドのブラン ド 力 を 訴 求 する 効 果 も 持 っていたと 考 えるからである 1970 年 代 初 頭 日 本 でハンバーガーはまったく 販 売 されていなかったわけではな 4 日 本 マクドナルド 株 式 会 社 日 本 マクドナルド 20 年 のあゆみ 1991 年 46 頁 5 玉 谷 純 作 編 日 本 の 外 食 産 業 柴 田 書 店 1991 年 118 頁 6 日 本 経 済 新 聞 社 日 本 の 外 食 産 業 日 本 経 済 新 聞 社 1974 年 45 頁 166

158 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 かったが ほとんどの 日 本 人 にとってはまだ 食 べたことのない 商 品 だった 日 本 の ハンバーガー 業 界 各 社 は ハンバーガーの 認 知 度 を 日 本 人 に 広 めていかなければな らなかった しかもハンバーガーを 食 べることが 先 進 のファッションとして 日 本 人 に 広 く 知 られることも 1970 年 代 の 日 本 では 必 要 であった ハンバーガーはフ ァッションである これからのフードはファッションとしてある 7 これは 藤 田 田 の 1971 年 の 発 言 である そのために 宣 伝 広 告 は 欠 かせないものであった 1973 年 から 同 社 は 味 なことやるマクドナルド をキャッチコピーに 広 告 キャンペー ンを 開 始 している また 藤 田 田 のマスコミへの 露 出 度 も 高 く 彼 自 身 も 広 告 塔 と しての 役 割 を 果 たした 日 本 マクドナルドの 認 知 度 が 高 まった2つ 目 の 理 由 として 藤 田 商 店 での 貿 易 業 者 としての 経 験 蓄 積 を 元 に 藤 田 田 がハンバーガーという 食 べ 物 そのものを 輸 入 商 品 として 販 売 するノウハウに 長 けていたことがあげられる ここで 藤 田 商 店 における 輸 入 業 者 としての 藤 田 田 の 経 験 蓄 積 について 論 じておこう 藤 田 商 店 とは 同 氏 が 東 大 在 学 中 に 設 立 した 会 社 で アクセサリーや ディオール 等 のバ ックなど 世 界 の 高 級 雑 貨 の 輸 入 を 行 っていた 1976 年 の 日 経 流 通 新 聞 のイン タビューにおいて 同 氏 は もちろん 米 国 マクドナルドの2 万 5 千 にも 及 ぶノウハ ウが 成 功 の 原 因 だったことは 確 かだが 私 ( 藤 田 田 筆 者 注 )は 20 年 間 舶 来 品 を 売 っていましたからね 舶 来 品 には 舶 来 品 の 売 り 方 があるんですよ 私 はディオー ルなんかでも 日 本 で 誰 も 知 らない 時 に 売 った 経 験 があります 8 として 舶 来 品 販 売 の 際 は アメリカ フランスといった 国 名 を 出 してはいけない 星 条 旗 本 場 などと 出 してはいけない マクドナルドという 名 前 だけで 十 分 だと 語 っている 以 上 大 々 的 広 告 活 動 を 早 い 時 期 から 行 ったこと 輸 入 業 者 としてのノウハウを 藤 田 田 が 持 っていたこと アメリカのマクドナルドの 完 成 されたシステムを 日 本 マ クドナルドに 導 入 したこと 都 心 部 の 一 等 地 から 出 店 を 開 始 し 出 店 スピードがた 7 外 食 産 業 新 聞 1981 年 2 月 25 日 2 頁 8 日 経 流 通 新 聞 1976 年 7 月 26 日 号 16 頁 167

159 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) とえ 遅 くとも 直 営 店 中 心 に 出 店 していったこと 日 本 の 風 土 に 合 わせて 変 えたもの 変 えなかったものが 当 時 の 日 本 の 状 況 にマッチしていたことが 1970 年 代 の 日 本 マクドナルドの 成 功 要 因 だったと 考 える 日 本 マクドナルドは 都 心 部 一 等 地 への 出 店 が 一 巡 した 後 は 都 心 から 地 方 都 市 へ そして 郊 外 へと 店 舗 展 開 を 広 げていった 郊 外 から 都 市 へではなく 日 本 では 都 市 から 郊 外 への 出 店 だったのである 日 本 におけるモータリゼーションの 進 展 に 伴 い ドライブスルーを 備 えた 店 舗 展 開 がしだいに 可 能 になっていくと 日 本 マク ドナルドは 郊 外 店 ドライブスルー 店 を 展 開 し 客 層 を 若 者 だけでなく 子 供 ファミリー 層 へと 広 げていった 1978 年 には POS(point of sales 販 売 時 点 情 報 管 理 )を 導 入 し 1979 年 に 専 門 の 食 肉 工 場 を 完 成 させた( 当 時 の 名 称 はゼンチク 冷 食 千 葉 工 場 現 スターゼン 株 式 会 社 マクドナルド 千 葉 工 場 ) 同 工 場 における 牛 肉 の 加 工 は 米 マクドナルドの 所 有 するノウハウをそのまま 採 り 入 れ 9 設 備 の 主 力 はアメリカ フォーマックス 社 製 のハンバーガーパティ 連 続 自 動 製 造 器 で 1 秒 間 に8 枚 のパティ(ハンバーガー の 肉 の 部 分 )が 製 造 できる 10 というものであった 2 節 セットで 販 売 することによって 成 功 体 験 を 続 けていった 日 本 マクドナルド:1980 年 代 1975 年 森 永 ラブ( 日 本 企 業 )1 号 店 出 店 1980 年 ウェンディーズ(アメリカ 企 業 ) 出 店 といった 新 たな 競 争 会 社 の 参 入 にもかかわらず 日 本 における 外 食 産 業 売 上 高 で 1976 年 に 初 めてベスト 10 入 りした 日 本 マクドナルドは 1977 年 から 1979 年 ま 9 外 食 産 業 新 聞 1977 年 1 月 1 日 2 頁 10 外 食 産 業 新 聞 1979 年 11 月 15 日 8 頁 168

160 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 で 第 3 位 1980 年 から 1981 年 まで 第 2 位 そして 1982 年 以 降 外 食 産 業 売 上 第 1 位 の 座 を 占 め 11 順 調 な 成 長 を 遂 げていった 1980 年 から 単 発 的 に 期 間 限 定 で 行 われていた 割 引 セールは 1980 年 代 後 半 になる と 日 本 マクドナルド ロッテリアによって 積 極 的 にセットメニューによる 割 引 が 行 われるようになった この 割 引 メニューは 日 本 マクドナルドが 1987 年 1 月 から 始 めたセットメニュー サンキューセットが 引 き 金 となった サンキューセットと は ハンバーガー(もしくはチーズバーガーか フィレオフィッシュと ポテト ドリンク)をセットにしたもので これらのセットを 390(サンキュー) 円 で 販 売 するものであった これは 円 高 によりポテトが 安 く 輸 入 できたため 可 能 であった 日 本 マクドナルドに 対 抗 すべく ロッテリアでは 1987 年 から 1989 年 まで マクド ナルドより 10 円 安 い 380 円 (サンパチトリオ)で ハンバーガー ポテト ドリン クのセット 販 売 を 開 始 した マクドナルド ロッテリアの 動 向 により ハンバーガ ー 各 社 は 次 々と 安 売 り 販 売 を 行 うようになった ドムドムでは 直 営 店 200 店 で ジュース コーラなど S サイズのコールドドリンク( 通 常 価 格 120 円 )を 一 杯 5 円 12 で 販 売 ウェンディーズは ハンバーガー 類 をすべて 100 円 引 きで 販 売 するなど 単 品 の 値 下 げを 行 った 明 治 サンテ オレでは 1987 年 のサンキューセットの 影 響 を 受 けて 減 収 減 益 決 算 となった 日 本 マクドナルドはロッテリアの380 円 のセ ットに 対 抗 するため サブロクセット(サンキューセットと 同 じ 組 み 合 わせのセッ トが360 円 )を 1988 年 10 月 から 開 始 した この 日 本 マクドナルドが 引 き 金 を 引 いたセットメニューに 対 する 日 本 企 業 の 対 応 は 3つに 分 かれた マクドナルドの 価 格 に セットメニューの 割 引 で 追 随 しよう としたロッテリア 単 品 割 引 もしくは 割 引 セットメニューで 追 随 しようとしたロッ テリア モスバーガー 以 外 のハンバーガー 各 社 割 引 メニューには 参 入 しない 意 思 11 日 本 マクドナルド 株 式 会 社 日 本 マクドナルド 20 年 のあゆみ 1991 年 頁 12 日 経 流 通 新 聞 1987 年 5 月 25 日 1 頁 169

161 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 決 定 をしたモスバーガーである 1980 年 代 後 半 の 日 本 のハンバーガー 業 界 各 社 は この 値 引 きメニューによって 疲 弊 し マクドナルド ロッテリア モスバーガーの 3 社 寡 占 状 態 が 形 成 された この 360 円 のセットメニューによる 競 争 は 急 激 な 円 安 によって 1989 年 5 月 に 終 焉 を 告 げた 1980 年 代 後 半 に 日 本 マクドナルドにはセット 販 売 の 成 功 体 験 が 蓄 積 された すなわち 円 高 の 時 の 輸 入 ポテト 利 益 を 原 資 として セットメニューを 販 売 する 粗 利 の 大 きいポテトと 飲 み 物 をハンバーガーと 一 緒 に 販 売 する 競 争 相 手 がセットを 380 円 で 販 売 したら それより 安 い 価 格 のセットメニューを 販 売 し 常 に 一 番 安 い 価 格 で 勝 負 することである 以 上 が 日 本 マクドナルド 藤 田 田 の 成 功 である しかし 1990 年 代 初 頭 になると 成 功 しているかに 見 えるものが 失 敗 の 種 となっていくのである 2 章 環 境 の 変 化 :1990 年 代 初 頭 1 節 多 角 化 とシナジー 効 果 を 狙 う: 日 本 マクドナルド&トイザ トイザ ら ス&ブロックバスター 1989 年 日 本 マクドナルドは 米 トイザラス( 玩 具 )との 合 弁 企 業 日 本 トイザ ら スを 設 立 した( 日 本 トイザ ら ス1 号 店 の 開 店 は 1991 年 ) 1991 年 には 藤 田 商 店 とブロックバスター(レンタルビデオ 店 )との 合 弁 会 社 日 本 ブロックバスターが 設 立 された この2つの 合 弁 会 社 は 何 を 目 的 としたものだったのか マクドナルド トイザ ら ス ブロックバスターの3 店 舗 のシナジー 効 果 を 狙 ったものであった マクドナルド トイザ ら ス ブロックバスターの 店 舗 を 同 一 敷 地 内 につくり トイザ ら スにおもちゃを 買 いに 来 た 親 子 が マクドナルドに 寄 る そしてアダ ルトもののビデオを 置 いていないブロックバスターで 子 供 用 ビデオを 借 りる 借 170

162 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 りたビデオは 返 さなければならないから またブロックバスターに 客 は 来 る 運 が 良 ければ 客 は 再 びマクドナルドかトイザ ら スに 寄 ってくれる 3 店 舗 同 一 敷 地 内 に 建 設 する 目 論 見 はここにあった (しかし 現 実 には3 店 舗 同 一 敷 地 内 は 難 しく 2 店 舗 同 一 敷 地 内 あるいは1 店 舗 の 近 くに 別 の 店 舗 が 建 設 された 結 局 日 本 ブ ロックバスターは 業 績 悪 化 のため 日 本 ブロックバスターの 38 店 舗 は 1999 年 に 別 の 日 本 のレンタルビデオ 店 であるゲオに 買 収 された ) 2 節 バブル 崩 壊 と 次 の 競 争 相 手 の 出 現 : コンビニ 中 食 アメリカ 企 業 2 社 の 日 本 参 入 日 本 でバブル 経 済 が 崩 壊 すると ハンバーガー 市 場 は 従 来 の 主 要 顧 客 だった 小 中 高 校 生 および 子 供 連 れ 主 婦 の 親 もしくは 配 偶 者 の 収 入 減 に 伴 う 客 単 価 減 少 あるいは 来 店 頻 度 の 減 少 をもたらすこととなった さらに 日 本 にハンバーガーが 本 格 的 に 導 入 されて 20 年 を 経 過 し ハンバーガーという 単 品 商 品 に 対 して 商 品 の 飽 きが 日 本 の 消 費 者 に 生 まれてきた 問 題 はこれだけではなかった 1990 年 代 に 入 ると ハンバーガーを 取 り 巻 く 競 争 なかしょく 市 場 も 変 化 していった ハンバーガーの 顧 客 が 中 食 と 呼 ばれるコンビニ 弁 当 などに 取 られ ハンバーガー 業 界 のみならず バブル 崩 壊 によって 外 食 産 業 全 体 が 頭 打 ちになる 状 況 になっていった そのためファミリーレストランでは 低 価 格 を 売 りにした ガスト や サイゼリア などが 年 から 台 頭 していくように なる 1993 年 になると コンビニ 各 社 はおにぎりを 20 円 から 50 円 値 下 げし ロー ソン ファミリーマートで 100 円 のおにぎりが 販 売 されるようになった (1993 年 の 日 本 マクドナルドのハンバーガーは 210 円 ハンバーガー1 個 の 値 段 で おにぎ りが2 個 買 えた ) ハンバーガー 業 界 に 目 を 転 じると 1990 年 代 に 新 たな 外 資 系 ファーストフードが 日 本 市 場 に 参 入 した サブウェイとバーガーキングである 1991 年 サントリー70% 171

163 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ファーストキッチン 30%の 出 資 比 率 によって 日 本 サブウェイが 設 立 され 1992 年 に 日 本 サブウェイ 直 営 1 号 店 が 東 京 ( 赤 坂 )に 開 店 した 翌 1993 年 バーガーキング コーポレーションは 西 武 商 事 と 業 務 提 携 して 1993 年 バーガーキング1 号 店 が 埼 玉 県 入 間 市 の 駅 ビル 内 にオープンした サンドイッチ 主 体 のサブウェイは マクドナ ルドとハンバーガーという 商 品 では 直 接 競 合 しないが マクドナルドと 覇 権 を 争 う アメリカ 第 2 位 のハンバーガー 企 業 バーガーキングがいよいよ 日 本 市 場 に 参 入 してきたのである 3 節 米 飯 メニューの 開 始 日 本 マクドナルドは 1990 年 代 前 半 に 新 たな 戦 略 を 策 定 した 同 社 では 初 めての 米 飯 メニューを 含 む 新 商 品 の 販 売 である ハンバーガー ポテト シェイク ドリ ンクといった 従 来 の 商 品 アメリカと 同 じメニューから 総 合 ファーストフードチェ ーンの 展 開 へと 1990 年 代 初 頭 に 同 社 は 転 換 していこうとした それが 可 能 になったのは 米 マクドナルドの 方 針 転 換 にあった それまで 日 本 マ クドナルドでは 設 立 当 初 から 1980 年 代 末 のサンキューセット サブロクセット の 時 代 に 至 っても 米 マクドナルド 仕 様 の 商 品 販 売 しか 許 されてはいなかった サ ンキューセット サブロクセットに 日 本 で 開 発 したハンバーガーをつけることは 許 可 されていなかったのである 1980 年 代 まで 米 国 マクドナルドで 開 発 された 新 商 品 が 日 本 に 登 場 することはありうるが 日 本 独 自 の 商 品 開 発 は 従 来 通 り 行 わな い 13 方 針 が 貫 かれていた 米 マクドナルドの メニューを 現 地 の 裁 量 に 任 せるロー カルマーケット 重 視 への 方 針 転 換 により 日 本 マクドナルドでは 1987 年 に 運 営 統 括 本 部 に 商 品 開 発 部 を 設 置 1990 年 に 商 品 開 発 本 部 を 設 置 して 日 本 で 企 画 開 発 し た 新 メニューを 米 マクドナルドに 了 解 を 取 る 方 式 を 採 り 始 めた 1991 年 11 月 8 日 日 本 マクドナルドは 記 者 会 見 を 行 い 1991 年 12 月 期 決 算 の 売 13 藤 田 田 の 発 言 日 経 流 通 新 聞 1988 年 6 月 2 日 17 頁 172

164 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 上 目 標 2000 万 円 達 成 が 確 実 になったことを 発 表 し 創 立 20 周 年 売 上 2000 万 円 達 成 記 念 パーティーを 開 催 した その 席 上 日 本 マクドナルドが 開 発 した 新 商 品 であ るチキンタツタが 好 評 であること マクドナルド トイザ ら ス ブロックバス ターの 複 合 店 で 集 客 を 増 加 させること 夕 方 5 時 以 降 のディナーメニューのひとつ として マックチャオ( 後 述 )を 導 入 したことなどを 発 表 した 日 本 マクドナルド 初 の 米 飯 メニュー 開 発 その 肝 心 のメニューだが 日 本 のハン バーガー 各 社 は すでに 米 飯 を 使 ったメニュー 展 開 をしていた モスバーガーは パンの 代 わりにごはんを 使 った 日 本 独 自 のメニューも 出 したことで 有 名 で 1987 年 にモスバーガーはライスバーガーを 発 売 し 1990 年 にはきんぴらライスバーガー 焼 き 肉 のライスバーガー(それぞれパンの 代 わりに ごはんで 具 をはさんだハンバ ーガー)を 出 していた 森 永 ラブは 1991 年 5 月 にサケライスバーガーを 発 売 ケン タッキーフライドチキンは 1992 年 焼 きおにぎりのセット(フライドチキンとおに ぎり)を 全 店 で 展 開 明 治 サンテ オレも 1992 年 から 焼 きおにぎりセットなど3 種 類 のオリジナル 弁 当 の 販 売 を 開 始 した 日 本 マクドナルドのライバル 企 業 が 米 飯 メニューに 参 入 していた 状 況 下 において 米 飯 への 取 り 組 みに 関 してマクドナルド は 最 先 発 企 業 ではなかった 日 本 マクドナルドの 21 世 紀 の 主 力 商 品 にすればいい と 思 っている( 藤 田 田 の 発 言 ) ほど 力 の 入 った 米 飯 メニューは モスバーガー 同 様 パンの 代 わりに 米 飯 を 使 ったメニューを 出 して モスバーガーのライスバーガーの ような 商 品 を 販 売 するか 日 本 マクドナルドでおにぎりを 販 売 するか 第 3の 道 を 選 ぶかであった 日 本 マクドナルドは 第 3の 道 を 選 んだ すなわち チャーハン(マックチャオ) とカレー(お 昼 のカツカレー)を 販 売 したのである サンキューセットを 生 み 出 し て 成 功 を 収 めた 藤 田 田 の 息 子 取 締 役 開 発 本 部 長 14 が マックチャオ カレーを 生 み 出 していった 1991 年 12 月 から 一 部 地 域 を 除 く 全 国 のマクドナルドで 販 売 され たマックチャオ シューマイチャオは 2つの 紙 製 せいろに 入 った 中 華 風 弁 当 で 14 外 食 レストラン 新 聞 1999 年 3 月 1 日 26 頁 173

165 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 1つの 紙 製 せいろには 卵 チャーハン もう1つの 紙 製 せいろにはシューマイ チャ ーシュー 筍 の 甘 魚 煮 ゴマ 入 り 昆 布 ザーザイが 入 っていて 730 円 夕 方 5 時 から 閉 店 まで 販 売 する 15 時 間 帯 限 定 メニューであった 1992 年 1 月 からは エビ 衣 フライ チンジャオリースを 中 心 としたおかずのバリエーション エビチャオ 740 円 を 追 加 発 表 し マックチャオ シューマイか マックチャオ エビチャオの2 種 類 から 選 べるようにした 16 さらに 同 年 5 月 には おかずの 中 身 を 変 えたマックチャ オ ハンバーグチャオと マックチャオ カツチャオを 販 売 し 従 来 のシューマイ とエビチャオの 販 売 は 休 止 した 合 計 4 種 類 のマックチャオが 1991 年 12 月 から マックチャオ 販 売 中 止 となる 1992 年 8 月 まで 発 売 された 周 到 な 事 前 のテスト 販 売 が 行 われ そのテスト 販 売 での 評 判 は 好 調 マックチャオの 販 売 は 当 初 は 順 調 であ った しかし 材 料 に 冷 凍 食 品 を 使 っていることもあって 1 度 食 べた 人 が 次 も 購 買 するというリピーターにはなりづらかった マクドナルドの 戦 略 商 品 であるマッ クチャオを 食 べた 人 のうち 期 待 はずれ と 答 えた 人 が おいしい と 答 えた 人 を 大 きく 上 回 って 評 価 が 低 かった 価 格 が 高 すぎる この 程 度 ならコンビニで 買 う といった 消 費 者 の 声 も 目 立 つ 17 結 果 となった 1991 年 大 型 商 品 として 鳴 り 物 入 りで 販 売 したマックチャオは マクドナルド 初 の 米 飯 メニューとして 注 目 を 浴 び たが 失 敗 した 冷 凍 食 品 の 米 飯 をマクドナルド 店 内 のグリルで 炒 めるのではなく 店 内 で 炊 飯 器 を 使 って 炊 いた 炊 きたてのご 飯 と 別 添 えのカレーを 添 えたお 昼 のカツカレーが 1992 年 から 同 社 で 発 売 された 日 本 マクドナルド 米 飯 メニューの 第 2 弾 である 1992 年 3 月 から 東 京 都 内 4 店 舗 のマクドナルドで お 昼 のカツカレーのテスト 販 売 を 行 い 各 店 とも 好 調 な 売 れ 行 きを 見 せていたため 同 年 5 月 から 全 店 舗 でお 昼 のカツ カレーを 期 間 限 定 で 650 円 で 販 売 した お 昼 のカツカレーは 午 前 11 時 から 午 後 2 15 外 食 ジャーナル 1991 年 12 月 18 日 9 頁 16 日 本 外 食 新 聞 1992 年 1 月 25 日 3 頁 17 日 経 流 通 新 聞 1992 年 4 月 25 日 1 頁 174

166 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 時 に 販 売 するランチメニューでとして 販 売 された 同 年 同 社 は 8 月 に 朝 食 終 了 後 から 閉 店 時 間 までと お 昼 に 限 定 せずに 全 国 でビーフカレー(550 円 )とチキン カレー(520 円 )をそれぞれ 販 売 した 18 このように 日 本 マクドナルドは 1991 年 から 1992 年 にかけて チャーハン カ レーを 店 舗 で 販 売 した これらの 新 商 品 は 最 初 は 評 判 を 呼 んだがその 後 売 れ 行 き が 鈍 り マックチャオ カレーともに 定 番 商 品 とはならなかった 米 飯 メニューへ の 同 社 の 試 みは 頓 挫 した 何 故 マックチャオやカレーは モスバーガーのライス バーガーのような 現 在 でも 販 売 されている 定 番 商 品 にはならなかったのだろうか どれだけの 人 が ハンバーガーを 代 表 するマクドナルドの 店 舗 に チャーハンやカ レーを 目 的 に 食 べに 来 るだろうか マクドナルドがマックチャオやカレーを 出 し どのようなものか 試 しに 購 入 する 人 がいても 1 度 食 べてみてそれが 冷 凍 ピラフや いくら 温 かいご 飯 でもレトルト 状 のカレーをかけるものであれば 消 費 者 はチャー ハンやカレーが 食 べたくなった 時 次 からは 中 華 料 理 やカレー 専 門 店 に 行 ったり あるいはコンビニで 購 入 するのではないだろうか マックチャオ 購 入 の 70%がテ 19 イクアウト 利 用 だったそうだが 会 社 の 残 業 で 近 くにマクドナルドがある 人 は マックチャオを 購 入 するであろうし 会 社 帰 りや 学 校 帰 りにマクドナルドに 寄 って 夕 方 にマックチャオを 購 入 するかもしれない しかしマクドナルドに 行 かなくても 日 本 のコンビニでも 購 入 できるのが チャーハンやカレーである 他 のハンバーガ ー 競 争 相 手 と 商 品 で 差 別 化 を 図 ったマックチャオとカレーは コンビニ 弁 当 という 別 業 態 の 商 品 にうち 勝 つことはできなかった マックチャオ カレーの 投 入 は マ クドナルドの 現 場 でも 新 タイプのメニューの 乱 発 がオペレーションの 低 下 を 招 く 結 果 となり 藤 田 田 も 1992 年 に 全 社 員 に 向 け 今 後 は 現 場 の 状 況 を 考 慮 した 商 品 開 発 を 行 う という 趣 旨 の 手 紙 を 送 ったとされている 1996 年 次 期 社 長 は 現 在 7 人 いる 副 社 長 の 中 から 選 び 息 子 に 跡 を 継 がせる 考 18 日 本 外 食 新 聞 1992 年 8 月 25 日 6 頁 19 月 刊 食 堂 1992 年 2 月 号 149 頁 175

167 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) えはない 当 分 は 私 ( 藤 田 田 )が 社 長 を 続 ける 考 えだ 20 と 語 り 藤 田 田 の 社 長 続 投 と 次 期 社 長 の 候 補 者 は 同 族 からは 選 ばないことを 表 明 した 3 章 低 価 格 大 量 販 売 大 量 出 店 の 高 速 加 工 食 品 販 売 : : 1990 年 代 後 半 1 節 低 価 格 な 高 速 加 工 食 品 販 売 を 支 えたシステム 1992 年 12 月 決 算 の 日 本 マクドナルドの 売 上 高 は 2126 億 468 万 円 同 年 同 期 比 の 伸 び 率 は 2.4%と 71 年 の 創 業 以 来 最 低 となった 経 常 利 益 も 103 億 329 万 円 同 20.9% 減 という 結 果 となった 年 度 12 月 決 算 は 売 上 高 2125 億 9467 万 円 経 常 利 益 105 億 1406 万 円 22 で 創 業 以 来 急 速 な 発 展 をとげてきた 同 社 の 成 長 にブレー キがかかったのである バブル 崩 壊 は 日 本 マクドナルドだけでなく 外 食 産 業 全 体 の 右 肩 上 がりの 成 長 に 終 わりをもたらし 厳 しい 時 代 となった バブル 崩 壊 米 飯 メニューの 失 敗 これ らの 危 機 を 打 開 すべく 1994 年 から 日 本 マクドナルドは 本 格 的 な 低 価 格 販 売 それ 23 を 支 えるための 経 費 削 減 大 量 販 売 するためのサテライト 店 を 中 心 とする 大 量 出 店 という 戦 略 転 換 をしていく 低 価 格 大 量 販 売 大 量 出 店 の 高 速 加 工 食 品 販 売 業 を 加 速 していったのである そもそも 最 初 から 日 本 マクドナルドのハンバーガー は 安 かったわけではなかった 20 日 経 流 通 新 聞 1996 年 11 月 7 日 18 頁 21 日 本 食 糧 新 聞 1993 年 3 月 26 日 2 頁 22 日 本 食 糧 新 聞 1994 年 3 月 9 日 7 頁 23 サテライト 店 とは 従 来 の 大 規 模 な 店 舗 の 近 くに 設 置 される 店 舗 で 駅 ショッピングセンター 大 学 会 社 の 社 内 食 堂 などにあるマクドナルドの 店 である 小 規 模 店 舗 で すべてのマクドナルドのメニューが 揃 っている わけでなない 176

168 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 表 年 日 本 におけるハンバーガー1 個 の 価 格 マクドナルド ファーストキッチン ロッテリア 森 永 ラブ 明 治 サンテ オレ モスバーガー ドムドム 180 円 180 円 170 円 170 円 170 円 170 円 150 円 出 典 : 月 刊 食 堂 1981 年 7 月 号 170 頁 より 作 成 表 1 のように 1980 年 代 初 頭 日 本 マクドナルドのハンバーガーは 決 して 安 いわけではなく 日 本 の 他 のハンバーガーより 高 価 格 だったのである また 1980 年 代 後 半 には すでにセットメニューで 低 価 格 を 訴 求 していた その 意 味 で 1990 年 代 後 半 から 初 めて 低 価 格 を 売 りにしたわけでもない 1990 年 以 降 は 続 けざまに 次 々と 商 品 の 価 格 を 下 げていったのである 1994 年 12 月 8 日 藤 田 田 は 全 社 員 に 檄 文 を 発 する 今 般 1994 年 のセールス 利 益 状 況 は 如 何 なる 理 由 があろうとも 当 社 従 来 の 発 展 よりみて 極 めて 不 満 足 であ ると 判 断 し 1995 年 のマーケティング プランを 全 面 的 に 変 更 し バリュー すな わち 価 格 破 壊 の 大 旗 の 下 緊 急 に 奇 襲 作 成 を 執 拗 に 繰 り 返 し 実 施 し 1995 年 を 輝 ける 年 にすることを 決 定 した 24 価 格 破 壊 のもと 低 価 格 を 執 拗 に 繰 り 返 す 1990 年 代 半 ばから 日 本 マクドナルド は 低 価 格 戦 略 を 続 けていくが なぜハンバーガーの 価 格 を 引 き 下 げることができ たのか 安 くできるメカニズムとしてよく 知 られているのが (1)グローバル パ 24 山 口 廣 太 マクドナルド 驚 異 の 低 価 格 高 利 益 戦 略 経 林 書 房 1996 年 31 頁 177

169 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ーチェシング インフォーメーション アンド アナリシスである 今 世 界 で 何 の 食 材 が 一 番 安 いのか 世 界 各 国 の 原 材 料 の 値 段 がただちにわかるコンピュータ シ ステムで 世 界 でその 時 一 番 安 い 食 材 や 袋 などのラッピング 器 材 を 世 界 のマク ドナルドチェーンで 一 括 大 量 購 入 するシステムである (2) 次 に 店 舗 を 安 く 建 設 するためのシステムである 店 舗 のモジュール 化 をはかる 厨 房 をアジアから 輸 入 してコストを 引 き 下 げる 簡 略 軽 量 化 した 店 舗 を 建 設 するなどの 他 に 最 初 は3 種 類 後 に5 種 類 の 店 舗 を 開 発 し 予 測 されうる 売 上 月 商 に 合 わせた 店 舗 を5 種 類 の 中 から 展 開 していく (3)コンピュータを 使 ったマック ジス(McGIS マクド ナルド 地 理 情 報 システム)によって 新 規 開 店 した 場 合 の 売 上 予 測 がわかるように なった このマック ジスで 新 規 開 店 しようとする 地 域 をクリックすると 既 存 店 の 商 圏 情 報 マクドナルドが 出 店 した 場 合 の 商 圏 未 出 店 圏 が 一 目 でわかり 競 合 店 の 位 置 情 報 もわかるというものである (4)サテライト 店 の 大 量 出 店 サテラ イト 店 の 近 くには 母 店 となる 標 準 型 店 舗 (トラディショナル 店 )があり サテライ ト 店 の 社 員 アルバイトは 母 店 となる 標 準 型 店 舗 から3~4 名 出 張 する サテラ イト 店 の 食 材 は 母 店 となる 既 存 店 の 倉 庫 に 保 管 されている こうしたサテライト 店 の 概 念 は 日 本 で 独 自 に 開 発 されたのではなくて 米 マクドナルドで 1990 年 代 に 行 われていた 店 舗 展 開 の 導 入 である 米 マクドナルドは 石 油 大 手 のシェブロン ア モコと 1995 年 に 提 携 を 結 び ガソリンスタンドにマクドナルドを 開 店 させ 2 社 の ガソリンスタンドの 併 設 店 の 他 に 空 港 病 院 などにマクドナルドのサテライト 店 を 展 開 していた 日 本 マクドナルドはサテライト 店 によって 1990 年 代 後 半 から 店 舗 数 を 大 幅 に 増 加 させることができた 日 本 マクドナルドの 1970 年 代 の 出 店 スピードは 決 して 早 か ったわけではなく ロッテリアの 店 舗 数 より 少 なかった 時 期 も 1970 年 代 にはあった その 後 ハンバーガー 業 界 で 店 舗 数 日 本 1になるが 1987 年 には 店 舗 数 でモスバーガ ーに 抜 かれ 1995 年 に 日 本 マクドナルドはモスバーガーを 店 舗 数 で 抜 き 第 1 位 と なったのである 日 本 マクドナルドの 1995 年 から 2000 年 にかけての 店 舗 数 増 大 は 178

170 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 急 激 であった 2 節 低 価 格 戦 略 1994 年 から サテライト 店 の 本 格 的 推 進 とともに セットメニューの 値 下 げと ハンバーガー 単 品 の 値 下 げが 繰 り 広 げられていた 日 本 マクドナルドでは 1994 年 にバリューセットと 称 して ダブルバーガーと ポテトの S サイズと 飲 み 物 のセットで 450 円 同 じくダブルバーガーと ポテトの M サイズと 飲 み 物 のセットを 500 円 で 販 売 していた 同 年 ダブルバーガー ダ ブルチーズバーガーを 単 品 で それぞれ 50 円 値 下 げしている さらに 通 常 は 210 円 だったハンバーガーを 1994 年 9 月 には 期 間 限 定 で 100 円 で 販 売 した この 100 円 バーガーは 1992 年 にも 期 間 限 定 で 販 売 したが その 時 には 予 定 を 上 回 る7 倍 が 売 れたため 販 売 時 間 を 制 限 する 混 乱 があった この 反 省 を 踏 まえ 1994 年 の 100 円 バーガー 売 り 出 し 時 に 売 れ 切 れが 出 ないようにした 日 本 マクドナルドの 1994 年 12 月 期 は 1991 年 12 月 以 来 3 年 ぶりの 増 収 増 益 になったのである しかし この 結 果 では 極 めて 不 満 足 とし 同 社 の 価 格 破 壊 は 続 いた 1995 年 になると さらに4 品 が 値 下 げされた 同 社 のハンバーガー210 円 が 130 円 に チーズバーガー240 円 が 160 円 ダブルバーガー300 円 が 240 円 ダブルチー ズバーガー300 円 が 270 円 となったのである 日 本 マクドナルド 創 立 25 周 年 にあた る 1996 年 1 月 には 期 間 限 定 で 創 業 当 時 のハンバーガー チーズバーガーを それ ぞれ 80 円 と 100 円 で 販 売 した デフレ 不 況 の 中 で 同 社 は 価 格 破 壊 の 旗 手 とまで 言 われ その 後 もハンバーガーの 価 格 を 下 げていった 3 節 成 功 の 中 の 失 敗 の 種 2001 年 に 店 頭 市 場 (ジャスダック)に 上 場 した 日 本 マクドナルドは 従 来 のハン 179

171 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) バーガーの 作 り 置 きをやめ 注 文 を 受 けてから 30 秒 で 調 理 できるメイド フォー ユーを 本 格 導 入 し 2005 年 までに 全 店 に 広 げる 計 画 を 立 てた 2001 年 BSE( 狂 牛 病 牛 海 綿 状 悩 症 )の 影 響 により 既 存 店 の 売 り 上 げは 落 ち 込 んだが 新 聞 雑 誌 パンフレット HP(ホームページ) テレビCMなどを 通 じて マクドナルドのハ ンバーガーの 牛 肉 は 安 全 であることを 消 費 者 に 伝 え 同 社 の 牛 肉 はBSEの 出 たア メリカ 産 ではなくて 豪 州 産 であることをアピールした 2001 年 12 月 藤 田 社 長 が 翌 年 に 会 長 に 就 任 することが 発 表 され その 記 者 会 見 の 席 上 現 場 の 指 揮 を 副 社 長 の 八 木 康 行 氏 にゆだね 自 らは 事 業 戦 略 の 構 築 に 専 念 25 し これからもCEOとして 自 ら 戦 略 を 立 てていく と 語 った 八 木 康 行 副 社 長 は 社 長 補 佐 役 関 西 地 区 本 部 長 社 長 補 佐 役 購 買 本 部 長 営 業 本 部 長 を 経 て 副 社 長 に 就 任 した 藤 田 田 の 長 男 と 同 じ 大 学 を 卒 業 後 ずっと 日 本 マクドナルドに 勤 務 してい た 日 本 マクドナルドをよく 知 る 人 物 であった 社 長 の 座 を 譲 るとはいえ CEO としてまだまだ 続 投 を 考 えていた 藤 田 田 であった 2000 年 から 2002 年 まで 日 本 マクドナルドでは 平 日 半 額 キャンペーンを 実 施 し 祭 日 を 除 く 月 曜 日 から 金 曜 日 までのハンバーガーの 価 格 を 65 円 としていた 2002 年 2 月 には この 平 日 半 額 キャンペーンを 中 止 して 平 日 は 65 円 祝 祭 日 には 130 円 だったハンバーガーを 2002 年 2 月 から 常 時 80 円 へと 価 格 変 更 した 同 社 には 予 期 せぬ 顧 客 の 反 応 だったと 思 われるが 平 日 に 65 円 で 販 売 されていたハンバーガ ーが 80 円 になったことを 消 費 者 は 値 上 げと 受 けとめた 祝 祭 日 には 130 円 で 販 売 されていたハンバーガーが 80 円 になったのだから 祝 祭 日 に 限 れば 値 下 げだったの だが その 点 が 消 費 者 にはよく 理 解 されなかった 通 常 価 格 の 80 円 は 消 費 者 が 高 い と 感 じていることを 受 けて 同 年 3 月 に 会 長 に 就 任 した 藤 田 田 は 2002 年 8 月 ハ ンバーガーの1 個 の 値 段 を 1971 年 から 現 在 までの 最 安 値 である 59 円 にした こ 25 八 木 康 行 元 日 本 マクドナルドホールディングス 社 長 は 2004 年 5 月 に 同 社 を 退 き 2005 年 からリンガーハット 社 長 に 就 任 している 180

172 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 の 意 思 決 定 は 誰 がしたのか? 藤 田 田 自 身 だったとされている 26 ハンバーガー59 円 によって 8 月 第 2 週 の 総 来 客 数 は 週 間 来 客 数 の 過 去 最 高 記 録 を 更 新 8 月 の 対 前 年 同 月 売 上 高 は 0.5%のプラスと 順 調 な 滑 り 出 しだったが 翌 9 月 には 7.5%のマイ ナスとブームが 過 ぎ 去 るのも 早 かった 以 後 10 月 11 月 はマイナス 続 きで 年 6 月 に 59 円 バーガーは 中 止 され 80 円 でハンバーガー( 単 品 )は 販 売 された ここで 1994 年 から 2004 年 までの 日 本 マクドナルドのハンバーガーの 価 格 を 整 理 しておこう 同 じ 会 社 で 提 供 されるハンバーガーという 商 品 1 個 の 価 格 が 210 円 期 間 限 定 100 円 1995 年 130 円 1996 年 期 間 限 定 80 円 2000 年 平 日 は 65 円 祝 祭 日 は 130 円 2002 年 平 日 祝 祭 日 かかわらず 80 円 2002 年 59 円 2003 年 80 円 と 変 わっている それまでの 日 本 マクドナルドは 安 くすることで 成 功 体 験 を 蓄 積 してきた 今 ある 価 格 よりさらに 引 き 下 げることで 売 上 は 伸 び その 成 功 体 験 がくずされることはなかった それが 2002 年 のハンバーガー1 個 59 円 という 最 安 値 の 時 には 従 来 の 成 功 体 験 が 通 用 しなかったのである 日 本 マクドナルドホールディングス(2002 年 7 月 会 社 分 割 による 持 株 会 社 体 制 に 移 行 した 日 本 マクドナルドは 商 号 を 日 本 マクドナルドホールディングス 株 式 会 社 に 変 更 し 同 社 の 100% 子 会 社 として 日 本 マクドナルド 株 式 会 社 を 新 設 した ) の 2002 年 12 月 期 決 算 は 売 上 高 326 億 7200 万 円 ( 前 年 比 11% 減 ) 経 常 利 益 は 17 億 5400 万 円 ( 同 91% 減 ) 2003 年 12 月 期 の 最 終 損 益 は 71 億 円 の 赤 字 と2 期 連 続 の 赤 字 となった 26 日 経 産 業 新 聞 2003 年 3 月 6 日 24 頁 米 国 流 の 精 緻 なマーケティング 手 法 をもとに 販 売 計 画 などを 策 定 していた 日 本 マクドナルドだが 価 格 の 決 め 方 など 重 要 な 事 項 は 藤 田 氏 の 勘 に 頼 ることが 多 かった ( 同 社 OB) 話 題 にはならなかった 59 円 バーガーも 藤 田 氏 のひと 声 で 決 まったとされ る 27 財 界 2003 年 1 月 21 日 号 78 頁 181

173 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 2002 年 の 業 績 不 振 の 原 因 として 2つの 大 きな 要 因 が 考 えられる 前 述 したよう にめまぐるしく 変 わったハンバーガーの 価 格 59 円 バーガーが 消 費 者 に 受 け 入 れ られなくなっていったところに 原 因 のひとつがある 価 格 設 定 は いくらなら 消 費 者 は 値 頃 感 を 感 じるのか 事 前 にマーケティング 調 査 を 行 った 上 で 決 定 された 同 社 では4 半 期 ごとにマーケティング 調 査 を 実 施 し 消 費 者 の 顧 客 満 足 食 生 活 の 実 態 調 査 を 行 っている その 調 査 を 元 に 価 格 設 定 をしていったのだが 59 円 バーガー は 成 功 しなかった 安 ければ 買 う 消 費 者 は 増 えていく 同 社 のハンバーガー 価 格 引 き 下 げによって 新 たな 顧 客 層 であるサラリーマン 層 を 引 きつけることに 成 功 した しかし 一 度 下 げてしまった 価 格 は その 価 格 より 高 い 価 格 で 販 売 した 時 それは 値 上 げと 受 けとめられてしまう 一 度 下 げた 価 格 は 下 げ 続 けなければ 意 味 がない しかし マクドナルドのハンバーガーの 場 合 円 高 でなければ 材 料 は 安 く 購 入 でき ないし セットで 販 売 されなければ 利 益 は 出 ないのである そこにこのビジネスの 足 かせがある ハンバーガーは 粗 利 の 大 きいポテトや 飲 み 物 とのセットで 購 入 さ れることと 通 常 の 数 倍 の 販 売 量 があるという 前 提 条 件 が 満 たされて 初 めて 利 益 に 貢 献 するのである 安 ければ 売 れる 時 代 は 過 ぎた と 藤 田 田 自 身 も 語 っていたに もかかわらず 彼 は 安 くすることによって 必 ず 客 は 来 るという 過 去 の 成 功 体 験 から 逃 れられることはできなかった 同 じハンバーガー 店 の 同 じ 商 品 が たびたび 価 格 が 変 わることによって 消 費 者 が 離 れていったことまでは 読 めなかったのではない だろうか 業 績 不 振 の 原 因 として 考 えられる 2つ 目 の 要 因 がサテライト 店 である 不 採 算 店 の 多 くがこのサテライト 店 だと 言 われており サテライト 店 の 大 量 出 店 によって サテライト 店 の 母 店 となる 標 準 型 店 舗 (トラディショナル 店 )と 自 社 競 合 してしま った ショッピングセンターに 店 を 構 えるサテライト 店 は コストに 占 める 固 定 費 比 率 が 高 い 多 くのサテライト 店 の 損 益 分 岐 点 がマイナスとなった 現 状 を 踏 まえ 2002 年 には 既 存 店 のうち 不 採 算 店 115 店 舗 を 閉 店 させた 藤 田 田 会 長 兼 CEOは 2003 年 3 月 に 日 本 マクドナルドホールディングスを 退 任 182

174 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 した 米 マクドナルドは 日 本 マクドナルドホールディングスにパット ドナヒュ ーを 同 年 5 月 にCEOとして 送 りこんだ ドナヒューは 日 本 マクドナルドホール ディングスの 主 要 株 主 の1つである マクドナルド カナダの 元 会 長 兼 CEOで 2002 年 から 米 マクドナルドで 日 本 マクドナルドの 担 当 責 任 者 だった 人 物 である 彼 の 日 本 マクドナルドホールディングスCEO 就 任 によって 59 円 のハンバーガーは 7 月 に 80 円 に 戻 され 同 年 9 月 大 規 模 なリストラが 実 施 された 40 歳 以 上 の 本 部 社 員 を 対 象 に 130 人 の 希 望 退 職 者 が 創 業 以 来 初 めて 募 集 された 2004 年 3 月 には 元 アップルコンピュータ 社 長 原 田 泳 幸 ( 元 米 アップルコンピ ュータ マーケティング 担 当 副 社 長 兼 任 )が 日 本 マクドナルドホールディングス の 再 建 を 託 されて 同 社 の 代 表 取 締 役 兼 CEOに 就 任 した 翌 月 藤 田 田 が 逝 去 し 日 本 マクドナルドのひとつの 時 代 が 終 わった 原 田 泳 幸 日 本 マクドナルドホールデ ィングスCEOは 同 社 のブランド 再 構 築 のために 高 価 格 商 品 の 販 売 を 行 ったが それも 2005 年 に 販 売 中 止 となっている 日 本 マクドナルドホールディングスは ア ルバイトの 勤 務 時 間 を 1 日 あたり 30 分 未 満 切 り 捨 てにしていたことを 2005 年 労 働 基 準 監 督 署 から 指 摘 され 過 去 2 年 に 遡 って 未 払 い 分 を 支 払 うことが 決 定 し 店 長 のサービス 残 業 に 関 しても 現 在 話 し 合 いが 続 いている 結 論 こうした 結 果 をもたらしたとはいえ そしてだからこそ 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 を 振 り 返 ってみよう 藤 田 田 の 米 マクドナルドから アドバイスは 受 けるが 命 令 は 受 け ることはなかったところが 日 本 マクドナルドの 成 功 の 要 因 でもあった それ はケンタッキーフライドチキンの 立 地 戦 略 の 例 でも 明 らかであろう 日 本 マクドナ ルド 初 期 の 百 貨 店 の 中 にマクドナルドを 開 店 させる 戦 略 は マクドナルドのブラ ンド 力 を 高 めるのに 大 きな 貢 献 をした 日 本 マクドナルドの 成 功 は 藤 田 田 が 輸 入 183

175 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 業 者 として 円 相 場 に 強 かったこと バックを 輸 入 するように 米 マクドナルドのシ ステムを 輸 入 したことによる 彼 のビジネスは 米 マクドナルドのシステムが 時 代 にマッチしている 時 には 成 功 した 1971 年 から 1980 年 代 後 半 までは 成 功 の 局 面 だったのである しかし 1990 年 代 初 頭 の 多 角 化 フルライン 化 は 成 功 ではなかった 独 自 メニュ ーの 開 発 では 弱 さを 露 呈 した その 後 新 メニュー 開 発 のために 適 材 を 大 量 に 新 規 雇 用 することなく 高 速 加 工 食 品 を 安 く 大 量 に 販 売 し サテライト 店 を 増 加 させることが 藤 田 田 の 戦 略 となった 低 価 格 戦 略 は 1990 年 代 の 日 本 のデフレ 時 代 には 適 した 対 応 であり 同 社 の 低 価 格 路 線 は 成 功 した そして 勝 ち 組 デフレ 時 代 の 勝 者 ともてはやされた しかし 一 度 安 くした 商 品 を 値 上 げしたり 値 下 げすることによって 消 費 者 はどんな 反 応 を 示 すのか 次 々と 安 くすることがブラン ドを 低 下 させ たとえ 最 安 値 にしても 消 費 者 の 購 買 意 欲 がいつまでも 続 くことで はないことを 同 社 のケースは 教 えてくれる 184

176 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 The Success and Failure of Den Fujita : Founder of McDonald s Japan Izumi Nonaka Professor Josai University Abstract McDonald s Company (Japan) Ltd. was introduced to Japan in 1971 by Den Fujita. He introduced McDonald s system directly: quality, service, cleanliness and value, trademark, manuals, and education systems. On the other hand, he changed the American way of management of McDonald s: the Japanese pronunciation of McDonald s, the location of the shops, not using the franchise system but having McDonald s Company (Japan) Ltd. operate them directly. Den Fujita has a right to change the American management method of McDonald s from the beginning. When he met Ray Kroc, 185

177 經 營 史 學 第 20 輯 5 號 ( 通 卷 40 號 ) Den Fujita attached conditions to open McDonald s Company (Japan) Ltd. Firstly, the Japanese and American joint enterprise should be on equal partnership. Secondly, the profit of McDonald s Company (Japan) Ltd. would be re-invested in McDonald s Company (Japan) Ltd. And finally, Den Fujita will accept advice from McDonald s U.S.A but will not accept orders. Ray Kroc accepted Fujita s three conditions. For this reason, Fujita has a right to choose the location of shops in Japan, and he opened his shops in town, centers near train stations, and sometimes in department stores in Japan. These location strategies gave the name of McDonald s Company (Japan) Ltd a high reputation. He also understood the substance of this business; McDonald s is fast cooked, high-speed service sales system. This fast cooked, high-speed idea suited the Japanese in the 1970 s. In the 1980 s McDonald s Company (Japan) Ltd. gradually opened their shops in the suburbs furnished with drive-in window. In late 1987, McDonald s Company (Japan) Ltd. started a discount set menu (hamburger, drink and potatoes). Soon, Lotteria followed McDonald s Company (Japan) Ltd.; they served set menus at a cheaper price than McDonald s. To compete with Lotteria, McDonald s Company (Japan) Ltd. again reduced their set menu prices. At this time, other hamburger shops followed McDonald s and Lotteria to reduce prices but they couldn t make a profit. But MOS Burger (Japanese company, MOS means noble as a Mountain, employees minds should be as deep and wide as the Ocean, and employees should have passion as bright as the 186 Sun) did not

178 日 本 マクドナルド 創 業 者 藤 田 田 の 成 功 と 失 敗 followed these discount menu at that time. In the early period of 1990 s the collapse of Japan s overheated stock and real estate markets (the bubble economy), the Japanese hamburger business was influenced by this disintegration. Before the collapse of the Japanese economy, MOS Burger developed rice burger menu beginning from Other hamburger shops followed this Japanese rice menu. McDonald s Company (Japan) Ltd. served fried rice and curry and rice in their hamburger shops, but this was not successful. After this failure, McDonald s Company (Japan) Ltd. developed a strategy of lowest having the lowest price hamburgers, and opened a lots of small satellite shops. Den Fujita s strategy was low-price, fast cooked, high-speed service sales system. His strategy seems successful during the collapse of the bubble economy and deflation. After the mid 1990 s, McDonald s Company (Japan) Ltd. changed their price many times. In 2002 and 2003, the income of McDonald s Company (Japan) Ltd. was at a loss, and Den Fujita retired his business in Key word : Den Fujita, McDonald s Japan, strategy 187

179 경영사학 제20 집 제5 호 ( 통권40 호) 한국경영사학회 * 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 1) - 市 中 銀 行 女 性 勤 勞 者 의 雇 用 形 態 를 중심으로 - A Study on Time Series Change about Organizational Commitment of Regular and Temporary Women Employees of city banks 임달호, 이미진 ** 2) 目 次 Ⅰ.서 론 Ⅱ. 선행연구 Ⅲ.연구가설 Ⅳ.실증연구 Ⅴ.결론 및 향후과제 Ⅰ. 서 론 국내 금융기관의 취업구조와 고용형태는 노동시장의 변화와 더불어 크 게 변화하였다. '98년 금융위기 이후 급격히 진행된 노동시장의 유연화 정책은 금융기관의 비정규직화를 가속화 시켰고 급기야는 금융기관의 총 인원 중 비정규직 비율이 30% 를 육박하기에 이르렀다. * 이 논문은 2003 년도 충북대학교 학술연구지원 사업의 연구비 지원에 의하여 연구되었음. ** 임달호( 충북대학교 국제경영학과 교수), 이미진( 국민은행 직원만족부) 189

180 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 아울러 신규인력을 비정규직으로 대체함에 따라 정규직 신규채용이 줄 어 정규직원 중에서도 책임자수가 57% 를 넘어서는 비효율적 인력구조가 심화되고 있다. 이러한 비효율적 인력구조를 들여다보면 그 변화의 핵심 에는 여성인력이 위치하고 있다는 것을 알 수 있다. 정부의 주도하에 이루어진 은행산업의 구조조정은 개방화 와 시장화 라는 두 가지 논리로 추진되었으며 이는 은행기관의 인수, 합병 등을 통 한 대형화, 겸업화와 함께 비용의 효율성 제고와 우수인력 양성 이라는 인사관리제도의 대대적인 개편을 가져왔다. 여기에서 새로운 인사관리제도를 통한 비용 효율성 제고와 우수인력양 성 전략은 내부 노동시장의 이중화 전략 1) 에 다름 아닌 것으로 창구 단순 업무 및 콜센터 업무 등 하위 업무를 중심으로 저임금의 비정규직화를 가 속화시켰고, 그 과정에서 상대적으로 하위 업무에 종사하던 대다수의 여 직원들은 명예퇴직의 방법으로 퇴직하거나 비정규직으로 재취업하기에 이 르렀다. 이와 같은 변화는 구조조정 본래의 목적인 효율성 제고와는 별개로 인 원감축 몇 % 등 가시적인 구조조정의 목표를 달성하는 효과를 가져왔으 나 그 과정에 해당은행의 상황이나 내부 직원의 정서 등이 반영되지 못하 였다. 특히 정부의 일방적인 지침을 획일적으로 시행하는 과정에서 발생 한 반 강요적 퇴직은 결과적으로 고용자의 조직에 대한 충성도에 부정적 영향을 끼쳤다 2). 이에 본 논문에서는 금융위기 직후 국내 금융기관의 고용형태별 여성 근로자 간의 조직몰입도의 차에 관한 동일 조사를 1999년 선행연구3)를 바탕으로 하여 2004년도 재 실시하여 시간의 경과에 따른 고용형태 간 여성 근로자의 조직몰입도의 변화과정 등을 살펴보고 시중은행 여성근로자의 생산성향상을 위한 실천방안을 찾아보고자 하였다. 1) 전국금융산업노동조합 한국 비정규직노동센터(2003), 금융 산업 비정규직 노동자 실태 와 조직화방안 p32. 2) 임달호(2002), 韓 国 都 市 銀 行 における女 性 労 働 者 の雇 用 形 態 別 組 織 コミットメントの差 に 関 する 研 究 한일경상논집 제25 권. 3) 2002년도 게재된 상기 논문의 설문조사는 1999년 8월 이루어 졌으며 2004년도 실시된 동일항목의 조사를 통하여 시중은행 여성근로자의 조직몰입도에 관련한 변화를 살펴보 고자 함. 190

181 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 Ⅱ. 선행연구 1. 조직몰입도의 개념 우선 side-bet이론이라고 불리는 Becker(1960) 의 생각은4) 종업원의 공 리적 행동의 측면을 강조하고 있다. 즉 급여와 노동조건의 면에서 나은 일이 있음에도 불구하고 현재의 일을 그만두지 않을 때 그것을 조직몰입 도의 결과라 하고 있다. 이 경우 해당 근로자의 업무 자체가 급여나 노동 조건 이외의 면에서 혜택이 있다고 생각할 수 있다. 포터(1974) 5) 는 조직몰입도를 조직구성원의 특정조직에의 동일화나 관 여의 상대적 강도 라고 정의한다. Porter의 조직몰입도에 관한 연구가 높 게 평가받는 이유는 애착을 강조하기 때문이다. Backer의 행동적인 조직몰입도에 대비하여 정서적 한편, Alvi와Ahmed(1987) 6) 는 교환적, 공리적 측면을 강조한 Becker의 조직몰입도와 Porter 가 강조한 심리적, 정서적 조직몰입도를 믹스한 브랜 드어프로치를 주장하였다. 조직몰입도의 개념에 대한 접근은 위의 3가지 어프로치 이외에 O'Reilly와 Chatman 7) 가 제창한 다원적 어프로치의 입장이 있다. 그것은 지금가지 폭넓게 사용되었던 Porter의 정의에서 탈피하여 조직몰입도를 다차원적으로 다루어 그것이 어떤 요소로 구성되어 있는가에 대하여 깊게 고찰하고 있다. 그 이외에 関 本 와 花 田 는 실중연구를 통하여 조직몰입도( 귀속의식) 를 1 조직의 목표, 규범, 가치의 내재화, 2 조직을 위하여 일하겠다는 적 극적인 의욕, 3 조직에 머물겠다는 잔류의식, 4 조직에서 얻을 것이 있 는 한 조직에 귀속하는 공리적 귀속의식이라고 정의하였다. 4) Becker, H. S., Notes on the Concept of Commitment, American journal of sociology, Vol. 66, ) Porter, L. W., Steers, R. M., Mowday, R.T., & Boulian, P. V., Organizational Commitment, Job Satisfaction, and Turnover among Psychiatric Technicians, Journal of Applied Psychology, Vol. 59, ) Alvi, S. A., & Ahmed, S. W., Assessing Organizational Commitment in a Developing country: Pakistan, a Case study, Human Relations, Vol. 40, ) O'Reilly, C. & Chatman, J., Organizational Commitment and Psychological Attachment: The Effect of Compliance, Identification, and Internalization on Prosocial behavior, Journal of Applied Psychology, Vol. 71,

182 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 2. 고용형태에 따른 조직몰입도의 차에 관한 기존의 연구 조직몰입도의 결정에 구성원의 직무형태가 커다란 영향을 주고 있다고 보여 진다. 그러나 기존의 연구에서는 정규직과 비정규직 사이의 조직몰 입도, 혹은 직무만족에 차이가 있다는 일관적인 연구결과를 제시하고 있 지는 않다. 정규직과 비교하여 비정규직의 조직몰입도 연구는 정규직에 비교하여 비정규직의 조직몰입도와 직무만족도가 낮다는 결과와 정규직에 비교하여 비정규직의 조직몰입도와 직무만족도가 높다는 결과, 또한 별 차이가 없 다는 일관성 없는 여러 가지 연구결과가 존재한다. 우선 Miller 와 Terborg 8) 는 소매업에 종사하는 근로자를 대상으로 한 연구결과 파트타임 근로자는 풀타임근로자에 비하여 담당하고 있는 업무, 복지후생, 그리고 직무전반에 대하여 만족하고 있지 않다는 사실을 확인 하였다. Hall과 Gordon의 연구결과9)에 의하면 비정규직 여성들이 정규직 여성보다 업무에 관한 만족도가 낮고 역할갈등을 느끼고 있으며 직무에 부담을 느끼고 있다. 일본의 연구에서는 오일쇼크 이후 경쟁력 강화를 위하여 인건비삭감이 진행돼, 파트타이머와 임시직 근로자가 급증하였고 비정규직 노동자의 조 직몰입도 연구의 중요성이 대두되었다. 渡 辺 10)는 인재파견기업으로부터 파견된 파견근로자의 조직몰입도에 대 해 정규직 사원과 비교를 통하여 그 특징을 발견하였다. OCQ를 사용한 조직몰입도의 비교에서 예상대로 파견사원은 정사원보다 조직몰입도가 약 하고 기술에 대한 자신감의 정도가 조직몰입도에 강하게 작용하는데, 그 영향을 정사원보다 파견사원의 편이 보다 강하게 받는 것으로 나타났다. 함혜선 11) 은 파트타이머와 풀 타이머의 조직몰입도의 차이를 일본 백화 점 2 사를 중심으로 실증 연구하였다. 그 결과 파트타이머는 풀타이머와 8) Miller, H. E. & Terborg, J. R., Job Attitudes of Part-Time and Full-Time Employee, Journal of Applied Psychology, Vol. 64, ) Hall, D. T. & Gordon, F. E., Career choices of Married women: Effects on conflict, role behavior, and satisfaction, Journal of Applied Psychology, Vol. 58, ) 渡 辺 直 登 水 井 正 明 野 崎 嗣 政 人 材 派 遣 会 社 従 業 員 のストレス 組 織 コミットメント キャリアプラン 経 営 行 動 科 学 ) 咸 恵 善 パー トタイマー の組 織 コミットメントに関 する実 証 分 析 経 営 行 動 科 学

183 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 비교하여 조직몰입도에 부의 영향을 미치는 것으로 나타났다. 한국노동연구원 조인수 12) 의 연구에 의하며 업무에 대한 만족도 측면에 서 비정규근로자( 파견노동, 파트타이머, 임시직, 일일고용) 가 정규직근로자 에 비하여 만족도가 낮다는 결과가 도출되었다. 그러나 병원의 파트타이머와 풀 타이머를 대상으로 한 Eberhardt와 Shani 13) 의 연구결과에서는 비정규직이 정규직에 비하여 전반적으로 업무 에 대한 만족도가 높고 조직에 대하여서도 호의적인 태도를 가지고 있다 는 상반된 연구결과가 발표되었다. 또한 Lee와Johnson 14) 의 임시고용과 정규고용, 파트타이머와 풀 타이머 의 비교연구에서도 임시고용의 근로자가 정규고용의 근로자 보다 조직몰 입도와 업무에 대한 만족도가 높은 것으로 나타났다. 양병화의 연구 15) 에서도 조직몰입과 직무만족에서 비정규직 근로자들이 정규직근로자들 보다 유의미하게 높은 것으로 나타났으며, 비정규직의 직 종에 따라 조직몰입과 직무만족에 유의미한 상호작용효과가 있다고 밝히 고 있다. 다음으로 파트타이머와 풀 타이머의 조직몰입도를 비교하면 자신의 근 무일정을 선택할 수 없는 비 선호 근무 일정 하에서의 임시고용의 경우 파트타이머의 편이 풀 타이머 보다 높은 조직몰입도를 보이고 있다. 한편, 비정규직과 정규직간의 조직몰입도에 차가 없다는 연구도 있다. McGinnis와Morrow 16) 는 병원의 파트타이머와 풀 타이머를 대상으로 한 회귀분석 결과 파트타이머와 풀 타이머간의 조직몰입도, 업무에 대한 만 족도, 조직분위기 인식, 직무태도에 차가 없고 조직원간의 관계의 차가 인 정되었다고 밝히고 있다. 비정규직의 고용안정과 조직몰입에 관한 국제비교 수행한 구혜란의 연 12) 조인수 취업형태다양화와 정책과제 한국노동연구원 ) Eberhardt, B. J. & Shani, A. B., The Effects of Full-time Versus Part-time Employment Status on Attitudes Toward Specific Organizational Characteristics and Overall Job Satisfaction, Academy of Management Journal, Vol. 27, ) Lee, T. W., & Johnson, D. R., The Effects of Work Schedule and Employment Status on the Organizational Commitment and Job Satisfaction of Full versus Part Time Employees, Journal of Vocational Behavior, Vol. 38, ) 양병화(2001), 비정규 계약직 근로자와 정규직 근로자의 조직몰입과 직무만족에 대한 연구, 한국 심리학회지 산업과 조직 Vol.14 No.2 16) McGinnis, S. K., & Morrow, P. C., Job attitudes among full and part-time employees, Journal of Vocational Behavior, Vol.36,

184 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 구 17) 에서 한국과 스웨덴에서는 비정규직의 고용안정성과 조직몰입이 정 규직과 비교하여 유의미하게 낮게 나왔으나 일본과 미국에서는 두 집단 간의 차이가 유의미하지 않았다. 이상의 연구결과로부터 알 수 있는 것 은 정규직과 비정규직간의 조직몰입도의 차가 있다는 결론은 아직 도출되 지 않았다는 점이다. 이후 비정규직이 증가하리라고 예상되는 시점에서 추가적인 연구가 필요하다 할 것이다. Ⅲ. 연구가설 업무와 관한 만족도와 조직몰입도를 결정하는 요인은 여러 가지 있지만 본 연구에서는 기존의 선행연구로부터 직무만족도 및 조직몰입도의 결정 요인에 관한 이론적 배경을 토대로 본연구의 목적을 달성하기 위하여 다 음과 같은 연구가설을 설정한다. 우선 직무만족에 영향을 미치는 변수로서 개인특성, 고용형태, 직무의 욕, 일에 대한 만족도를 설정하였다. 구체적으로 개인특성으로서는 연령, 학력, 결혼여부, 근무기간, 업무경험이 있고 고용형태로는 정규직과 비정 규직 변수가 있다. 조직몰입도에 영향을 주는 변수는 개인특성, 고용형태, 직장의식 이외 에 업무에 관한 만족변수가 포함되며 그 구체적인 내용은 업무자체에 대 한 만족도, 상사 만족, 동료만족, 급여만족, 승진만족의 변수가 있다. 변수 간의 관계를 실증적으로 명확히 하기 위하여 다음 다. 3가지 가설을 설정하였 가설1 : 직무만족도 및 조직몰입도는 조직구성원의 개인특성에 따라 유의한 차가 있다 가설2 : 고용형태에 따라 직무만족도, 조직몰입도는 유의한 차가 있다 가설3 : 직장의식 및 직무만족도가 조직몰입도에 미치는 영향은 고용 형태에 따라 유의한 차가 있다 17)구혜란(2005), 비정규직의 고용안전성과 조직몰입에 관한 국제비교연구, 한국사회학 Vol.39 No

185 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 Ⅳ. 실증연구 1. 조사대상 선정 및 조사 실시 이번 조사는 국내 시중은행 중 정규직 비정규직 여성 근로자를 대상으로 실시되었다. 4곳의 대형은행에 현재 근무하고 있는 조사기간은 2004년 8월 10일부터 8월 25일까지 실시하였으며 총 600부 를 서울 및 지방의 지역지점 등에 배포하여 265 부를 회수하였다. 회수현 황은 정규직 93 부, 비정규직 172부였으며 회수율은 44.2% 이다. 회수된 설 문지는 SPSS 10.0 을 이용하여 통계 처리하였다. 아울러 응답내용의 배경 파악 및 업무환경 등을 이해하기 위해 은행 영 업점에 근무하는 정규직원 및 비정규직 각 다. 10인의 면접조사를 실시하였 2. 조사 대상자의 일반적인 특성 응답자의 고용형태는 93명이 정규직이고 172명이 비정규직이었으며 성 별은 전원 여성이었다. 연령별로는 정규직의 경우 26~30세가 23.7%, 31 세~35세가 48.4% 36~40세가 27% 이었으며 비정규직의 경우는 20~25세 가 21%, 26~30세 48.5%, 31~35세 22.8%, 35~40세가 4% 였다. 이는 99년 연구와 비교하여 볼 때 정규직은 20~30대가 70% 였던 것에 비해 2004년에는 평균연령이 31~40 대(75.3%) 가 주가 되었으며 비정규직 의 경우는 26~30 세의 직원의 수가 증가하였다. < 표 1> 조사대상자의 연령별 분포 ( 단위 %) 구 분 20~25세 26~30세 31~35세 36~40세 41~45세 정규직 비정규직 99년 년 년 년 학력별 분포는 정규직은 고졸이 54.8% 인데 반해 비정규직은 전문대 졸 195

186 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 이상이 73.9% 를 차지하였다. 결혼유무는 정규직은 기혼직원이 60.% 인데 반해 비정규직은 미혼이 67% 였다. 이와 같은 조사대상자의 일반적 특성 은 국내 일반은행의 여성인력이 구조가 정규직의 신규 채용을 억제하는 대신 비정규직의 채용을 확대해왔기 때문이다. < 표 2> 국내은행의 연도별 인원 추이 ( 단위: 명) 2000년 2001년 2002년 2003년 2004년 정규직 92,545 89,731 88,261 89,511 89,960 비정규직 18) 27,436 26,682 30,389 36,633 36,166 ( 출처: 2004 년도 금융감독원, 은행경영 통계자료) 평균근속연수는 정규직이 12 년, 비정규직이 4.5 년이었으며 99년 연구 시 나타난 정규직 7.9 년, 비정규직 1.1년과 비교해 볼 때는 양 직군 모 두 근속연수가 증가하였다. 금융권의 비정규직이 99년 이후 증가하였다는 것을 감안하면 비정규직 역시 계약기간의 갱신을 통해 계속 근무하고 있 는 경우가 많다는 것을 알 수 있다. 임금의 경우는 99 년 연구결과와 유사하게 나타났다. 정규직의 임금이 근속연수와 비례적으로 상승한데 반해 비정규직의 경우는 근속연수와 큰 관계를 보이지 않고 같은 수준의 임금(100~150 만원) 을 받고 있는 것으로 나타났다. 3. 결과분석 본 연구에 사용된 통계분석은 1 질문지의 요인의 구성타당성이 있는가 를 파악하는 인자분석, 2 인자의 측정항목의 내적 일관성 있는가를 살펴 보는 Cronbach's α계수를 이용한 신뢰도분석, 3 2 개, 혹은 3개 그룹의 평균치의 차를 파악하기 위한 T 검정분석과 일원배치분산분석, 4 정규직 과 비정규직의 조직몰입도에 영향을 주는 관련변수를 파악하기 위한 중회 귀분석 등이 사용되어졌다. 18)비정규직은 파트타이머, 용역청경, 기사, 계약직 포함 196

187 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 < 표 3> 조직몰입도의 인자분석 이 은행의 일원인 것을 자랑스럽게 여긴다.823 이 은행에 취업하길 잘했다.758 이 은행에 충성심을 느낀다.739 은행을 위해 할 수 있는 최선을 다한다.664 이 은행의 인적관리 방식에 찬성한다.663 이 은행의 미래에 대해 걱정하고 있다.620 주변 사람에게 정말 좋은 은행이라고 자랑한다.612 이 은행은 업무 면에서 최선을 다할 수 있게 도와준다.610 제 1인자 제2인자 은행을 계속 다니기 위해서 라면 어떤 업무도 할 수 있다.721 이 일을 계속한다면 이 은행보다 나은 곳이 없다.640 이 은행에 계속 근무하면 나에게 도움이 될 것이다.637 다른 은행에 옮기고 싶지 않다.547 고유치 기여율(%) 누적기여율(%) Cronbach s α 계수 ) 조직몰입도의 인자분석 시중은행의 정규, 비정규직여성근로자의 인자구조에 관한 검토를 하기 위하여 12 개 항목의 회답에 관하여 인자분석을 하였다. 주성분법, 배리막 스회전에 의하여< 표3> 과 같이 2 가지 인자가 적절하다고 판단하였다. 각 인자의 내부일관성을 확인하기 위하여 Cronbach's α계수를 산출하였다. 2가지 인자까지의 설명율은 59% 이다. 항목에 관한 부하량이 0.40이 넘는 것을 채용하였다. 제1인자를 애착요인 제2인자를 존속요인이라 하였다 197

188 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) < 표 4> 직장의식의 인자분석 제 1인자 제2인자 담당업무에 흥미를 느낀다.852 담당하는 일에 보람을 느낀다.851 내 일처럼 여기며 적극적으로 처리하고 있다.833 담당업무에 자긍심을 느낀다.800 충실히 업무를 하기위해 많은 노력을 기울인다.744 정규직( 비정규직 ) 은상호단결력이있다고생각한다.865 정규직( 비정규직 ) 과 좋은 관계를 유지하고 있다.860 업무효율을 위해 정규직 ( 비정규직 ) 은 서로 격려하며 최선을 다한다.847 업무상 필요한 경우, 정규직 ( 비정규직 ) 은 귀하를 잘 도와준다.654 고유치 기여율(%) 누적기여율(%) Cronbach α 계수 ) 직장의식의 인자분석 직장의식을 측정하는 9 항목의 인자분석을 행하여 < 표4> 와 같이 고유치 1.0 이상의 인자를 두가지 추출하였다. 제1인자의 고유치는 4.44, 설명율은 38.3% 였고 제2인자는 1.81, 31.2% 였다. 1 인자는 업무 중시, 2인자는 동료 중시로 보았다. 3) 직무만족도의 인자분석 업무에 대한 만족도를 측정하는 15항목에 대한 회답을 대상으로 인자분 석을 실시하였다. 고유치 1.0 이상의 인자가 4 개 추출되었다. 이러한 인자 분석의 결과 1 인자를 업무 만족, 2 인자를 동료만족, 3 인자를 상사 만족, 4 인자를 급여 승진만족이라 하였다< 표5>. 198

189 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 < 표 5> 직무만족도 인자분석 제 1인자 제2인자 제3인자 제4인자 담당업무에 재량권이 있다.870 현재 무에 흥미를 느낀다.850 업무에 열성적으로 임한다.817 담당업무에 자긍심을 느낀다.727 동료와 커뮤니케이션이 잘된다.807 동료가 곤란에 처했을 때 서로 돕는다.754 동료를 항상 신뢰한다.731 업무 외에 동료와 적극 어울린다.651 상사와 커뮤니케이션이 잘 된다.851 상사는 당신의 능력을 인정한다.768 상사는 부하직원에게 공평하게 대한다.731 현재급여는 나의 능력과 노력에 합당하다.821 능력발휘하면 승진기회가 주어진다.729 이 은행의 근무는 경력과 성장에 도움이 된다.662 이 은행은 안정적 직장이다.525 고유치 기여율(%) 누적기여율(%) Cronbach s α 계수 가설의 검정 1) 가설 1 의 검증 가설1. 직무만족도 및 조직몰입도는 조직구성원의 개인특성에 따라 유의 한 차가 있다 (1) 연 령 본 가설을 검증하기 위해 조직몰입도 2 인자, 직장의식 2 인자, 직무만족 도 4 인자에 대해 각각 연령, 결혼 유무, 학력, 근속연수를 변수로 일원배 치 분산분석을 통하여 검토하였다. 정규직의 경우는 연령이 높아질수록 계속 근무를 희망하는 존속요인이 높게 나타났으나 유의한 차이는 보이지 않았다. 199

190 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 비정규직은 애착요인과 존속요인에서 유의한 차이가 인정되었고 정규직 과 달리 연령이 높아질수록 직장에 대한 애착과 계속근무의 욕구가 적어 지는 것으로 나타났다. 그 이유는 비정규직 근로자들이 대부분 1년 이하 나 1년 단위의 계약을 하고 있어 ( 본 조사 결과 응답자의 98.3% 를 차지) 재고용이 안 될지 모른 다는 고용불안감에 늘 시달리고 있고 비정규직의 채용이 미혼의 저 연령 층으로 이루어지고 있어 상대적으로 고 연령층의 직원이 이에 대한 우려 가 크기 때문으로 보인다. < 표 6> 정규직 비정규직 여성근로자의 조직몰입도와 연령과의 관계 19) 정 규 직 비 정 규 직 구분 25세 미만 평균치 애착요인 표준 편차 F 치/Sig 평균치 존속요인 표준 편차 26~30세 ~35세 ~40세 n.s 세 이상 25세 미만 ~30세 ~35세 *** ~40세 세 이상 F 치/Sig n.s ** (2) 결 혼 결혼 유무에 대하여 조직몰입도는 정규직과 비정규직 모두에 유의한 차 가 인정되지 않았다. 그러나 99년 연구조사에서는 정규직과 비정규직 모 두 기혼이 미혼보다 조직몰입도가 높게 나타났으나 이번 조사에서는 미혼 이 기혼보다 조직몰입도가 높게 나타나는 결과를 보였다. 그 이유를 면담조사로부터 살펴볼 때 99년 연구조사 당시 보다 현재의 19) 이하의 표에서 사용하는 * 는 90%, ** 는 95%, *** 는 99% 의 유의수준을 의미함 200

191 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 노동 강도가 높아졌고 퇴근시간이나 업적강요 등 근무환경이 더욱 악화돼 기혼직원이 가사와 육아를 담당하면서 일을 하는 것이 힘들어졌다는 상황 이 영향을 끼친 것으로 파악된다. (3) 학 력 학력은 고졸과 전문대졸, 대졸, 대학원졸 4개로 구분하여 조직몰입도 및 직무만족도 6 개의 요인에 대하여 일원배치분산분석을 실시하였다. 그 결 과 정규직에 대하여 애착요인, 존속요인, 업무만족요인에서 고졸자가 가장 높은 만족도를 보인 것에 유의한 차가 인정되었다. 비정규직에 있어서는 업무만족에 대하여만 유의한 차가 인정되었으며 전 문대졸자가 다른 학력의 소지자보다 높은 만족도를 보였다. 정규직에 있어 고졸자가 상대적으로 높은 만족도를 보인 것은 은행 영업 점의 경우, 정규 여직원의 업무가 상품판매 창구라는 단일 업무에 거의 국한되어 있어 타 업무로의 이동이나 변화가 적은 관계로 업무에 익숙해 진 이후에는 업무에 대한 흥미가 낮아지는 것도 하나의 이유라는 것을 면 접조사 결과 알 수 있었다. < 표 7> 정규직 비정규직 여성근로자의 조직몰입도와 학력과의 관계 구분 평균 치 애착요인 존속요인 업무만족요인 표준 편차 고졸 F치 /Sig 평균 치 표준 편차 F치 /Sig 평균 치 표준 편차 F치 /Sig 정 규 직 전문대졸 대졸 * ** 대학원졸 * 고졸 비 정 규 직 전문대졸 대졸 n.s n.s 대학원졸 *

192 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) (4) 근무기간 정규직의 근속연수는 5년 미만 9 명, 6년~10년 25 명, 11년~15년 39 명, 15년 이상 17명으로 나누어 조직몰입도와 직무만족도에 대한 일원배치 분 산분석을 실시하였다. 그 결과 존속요인과 업무만족요인, 상사 만족요인에 유의한 차를 보였다. 근속년수 별로는 6~10년의 근무자가 가장 낮은 조 직몰입도와 만족도를 보였으며 이후에는 다시 높아지는 특성을 나타냈다. 이는 입행 후 6년 정도가 경과하면 업무 면에서 숙련도가 높아져 매너리 즘을 느낄 수 있는 시기이고, 승진가능 시한에 들어서면서 상대적으로 남 자 직원보다 늦어지는 승진 등으로 갈등을 느끼는 시기이기 때문에 상대 적으로 다른 시기보다 몰입도가 낮아지는 것으로 보인다. 비정규직은 애착요인, 업무만족, 급여만족 등에 유의한 결과가 나타났으 며 근속연수별로는 근무년수가 경과할수록 조직몰입도 및 직무만족도가 낮아졌다. 그 이유는 1년 단위 계약 갱신을 통해 계속 근무는 하고 있으 나 근무년수가 경과할수록 언제 재계약이 안되어 해고를 당할지 모른다는 고용불안이 커지기 때문인 것으로 보인다. < 표 8> 정규직 비정규직 여성근로자의 조직몰입도와 근무기간과의 관계 구 분 평균 치 애착요인 존속요인 업무만족요인 표준 편차 F치 /Sig 평균 치 표준 편차 F치 /Sig 평균 치 표준 편차 F치 /Sig 5년 미만 정 규 직 6~10년 * ** ~15 년 년이상 * 애착요인 업무만족요인 급여만족요인 비 정 규 직 1년미만 ~3년 * * ~5년 년 이상 **

193 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 2) 가설 2 의 검증 가설2: 고용형태에 따라 직무만족도, 조직몰입도는 유의한 차가 있다 가설 2를 검증하기 위해 우선 조직몰입도 전체에 대한 정규직 비정규직 의 차를 T-검정에 의해 검토한 후 2개의 인자에 대하여 고용형태간 차를 분석하였다. 그 결과 조직몰입도와 직무만족도 모두 정규직이 비정규직보다 평균치가 높았다. 인자별 분석에서도 애착요인과 존속요인 두 요인 모두에서 정규직의 평 균치가 비정규직의 평균치보다 높게 나타났다. 직무만족도의 4가지 요인에 대하여는 일 자체에 만족하는 업무만족요인 과 급여 승진만족요인에 유의한 차가 나타났다. 특히 급여승진에 대한 만족도를 살펴보면 정규직과 비정규직간 평균치의 차이가 가장 크게 나타 나 비정규직이 급여 승진에 대한 불만이 가장 큰 것으로 나타났다. 실제 비정규직에 대한 인터뷰 시에도 대상자 모두가 하고 있는 업무에 비해 받고 있는 급여의 수준이 낮다고 답변하였다. 또한 정규직의 급여승진 만족의 수준도 다른 요인의 평균치와 비교할 때 비교적 낮은 수치로 나타나, 이는 응답자인 여직원이 승진 등에서 남 성직원 보다 상대적으로 불이익을 당하고 있는 현실에 영향을 받고 있는 것으로 파악된다. < 표 9> 고용형태별 조직몰입도 및 직무만족도 구 분 조직몰입도 직무만족도 평균치 표준편차 T 치/Sig 평균치 표준편차 T 치/Sig 정 규 직 ** 비 정규직 *** < 표 10> 조직몰입도 인자에 대한 고용형태별 차 구분 평균치 애착요인 표준편차 존속요인 T치 평균치 표준편차 Sig T치 Sig 정규직 n=167 비정규직 n= *** **

194 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) < 표 11> 직무만족도 인자에 대한 고용형태별 차 구분 정규직 n=167 비정규 n=91 구분 정규직 n=167 비정규 n=91 평균치 업무만족 표준편차 T치 Sig 평균치 동료만족 표준편차 ** 평균치 상사만족 표준편 차 T치 Sig 평균치 급여 승진 만족 표준편 차 n.s T치 Sig n.s T치 Sig *** ) 가설 3 의 검증 가설3. 직장의식 및 직무만족도가 조직몰입도에 미치는 영향은 고용형태 에 따라 유의한 차가 있다 (1) 정규직의 조직몰입도에 영향을 끼치는 요인 정규직의 조직몰입도에 영향을 미치는 관련변수를 파악하기위해 중회귀 분석을 실시하였다. 정규직은 동료만족의 독립변수를 제외하고 대부분의 변수가 조직몰입도에 영향을 끼치고 있는 것이 특징이다. 그 중 가장 큰 영향을 끼치고 있는 것이 직장 내 상사관계를 비롯한 인간관계중시 요인 이다. 이는 정규직 여성근로자의 경우 담당하고 있는 업무보다는 어떤 사람들 과 함께 근무하고 있는가, 함께 근무하고 있는 상사에 대한 만족도가 어 떤가에 의해 조직몰입도가 차이를 보인다고 할 수 있다. 이와 함께 업무에 대한 만족도와 급여 승진에 대한 만족도도 조직몰입도 에 중요한 요인이 되고 있다. 204

195 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 < 표 12> 정규직의 조직몰입도와 관련변수 간 중회귀 분석 독립변수 직장의식 직무만족도 종속변수 업무중시 관계중시 업무만족 동료만족 상사만족 임금, 승진만족 R=0.667 R²=0.444 조직조직몰입도 표준편회귀계수 T 치/ 유의수준 * *** * n.s *** ** (2) 비정규직의 조직몰입도에 영향을 끼치는 요인 < 표 13> 비정규직의 조직몰입도와 관련변수 간 중회귀 분석 독립변수 직장의식 직무만족도 종속변수 업무중시 고용형태 간 인간관계중시 업무만족 동료만족 상사만족 임금, 승진만족 R=0.753 R²=0.567 조직조직몰입도 표준편회귀계수 T 치/ 유의수준 * n.s n.s n.s n.s *** 205

196 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 비정규직에 대해서도 정규직과 동일한 방법으로 중회귀분석을 실시하였 다. 비정규직의 조직몰입도에 영향을 끼치는 요인은 정규직과 비교할 때 수적으로는 적은 변수가 영향을 끼치고 있는 것을 알 수 있다. 비정규직의 조직몰입도에 영향을 끼치는 것은 급여승진요인과 업무만족 요인이었다. 그 중 가장 큰 영향을 끼치고 있는 것은 급여승진 만족으로 이는 비정규직이 현상에 대해 가장 불만족하는 부분이기도 하다. 결국 비정규직의 업무가 채용당시부터 단순 입 지급 업무로 제한된 점 을 감안한다면 조직몰입도는 급여를 얼마나 받느냐에 달려 있다고 할 수 있다. Ⅴ. 결론 및 향후 연구과제 99년 조사에 이어 2004년 동일한 조사를 실시한 배경은 1999년의 시점 이 금융기관 비정규직이 급격히 늘어난 시기로 혼란 시기였으며 이로 인 해 비정규직의 의식이 안정적이지 못했을 가능성이 예상되었기 때문이다. 아울러 1999년의 비정규직은 희망퇴직을 통해 정규직이 고용형태만을 달 리하여 동일한 업무를 수행하였던 구성적 특성이 있어 객관적인 의식조사 가 불가능했을 것이라는 판단을 했기 때문이다. 본 논문에서는 5년이 경과한 현 시점에서 금융권 내 비정규직이 제도적 으로 안정되었다고 보고 동일한 조사를 한번 더 실시하여 정규직과 비정 규직 간 의식의 차이를 비교하고자 하였다. 실제 조사 결과 금융기관에서 정규직으로 일한 경험이 있는 비정규직은 99년 71.8% 에서 2004년에는 31.2% 로 감소하였다. 그러나 분석 결과 99년 연구조사와 비교할 때 가설 1의 일부를 제외하 고는 두드러진 큰 변화는 보이지 않았다. 정규직과 비정규직 모두 조직몰 입도에 미치는 요인이 과거와 동일하거나 유사하였다. 이는 비정규직의 인적구성이 과거에 비해 미혼의 비율이 늘고 연령대가 낮아 졌으며 학력수준이 높아졌다고 하여도 조직몰입도 및 직무만족도의 수준은 과거와 동일한 행태를 보이고 있다는 것을 의미한다. 아울러 비정 규직에 대한 처우 및 환경이 여전히 개선이 되지 않았다는 것을 알 수 있 다. 물론 일부 은행에서 비정규직의 정규직화를 통해 조직몰입도를 높이려 206

197 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 는 시도를 하고 있으나 비정규직의 인원수에 비해 선발인원이 적어 형식 에 지나지 않는다는 비판을 받고 있기도 하다. 비정규직이 여전히 불만족한 부분은 급여에 대한 것이었으며 1년 단위 의 계약으로 고용불안을 크게 느끼고 있었다. 동일임금, 동일노동의 시비 로 정규직과의 업무를 형식적으로 구분한 관계로 99 년 조사에 비해 정 규직과 업무차이가 없다 라고 응답한 직원은 44.4% 로 다소 줄었으나( 99 년 조사 당시 55%) 면담조사 결과, 대부분의 직원이 거의 동일한 업무를 하고 있다고 답하였으며 업무량에 비해 급여가 현저히 적다고 답하였다. 정규직의 경우 역시 인적 특성에 큰 차이는 보이지 않았으나, 99년의 연 구조사 당시는 근무년수가 길수록 조직몰입도 및 직무만족도가 높았던 것 에 비해 금번 조사에서는 6~10년 사이에 근무하는 정규직원의 조직몰입 도가 현저히 낮아졌다는 것이 특징이다. 이는 이시기가 어느 정도 업무에 능숙해 지고 승격 등에 대한 기대 수준이 높아지는 시기이기 때문이다. 그러나 면접조사 결과, 이 시기가 여직원의 경우 결혼 출산 등과 맞물려 두 가지를 양립하는 것이 현실적으로 어려워 퇴직을 고려하는 시기이기도 하다는 것이 밝혀졌다. 실제 면접을 통해 파악한 바로는 99년에 비해 점 포의 퇴근시간이 평균 2시간이상 늦어졌다고 느끼고 있었으며 실적강요 및 업무 강도 역시 현저히 강화된 것으로 나타났다. 시중은행 여성근로자들의 직무만족도에 관한 99년 조사와 2004년 조사 에서 나타난 것처럼 각 시중은행이 계속적으로 비정규직의 고용을 늘리고 있는 현실에서 비정규직 여성 근로자의 직무만족도 및 조직몰입도의 향 상은 시중은행의 경쟁력 및 생산성 향상에 중요한 요인이라 할 것이다. 따라서 비정규직 여성근로자들의 조직몰입도 향상을 위한 구체적 방안 의 마련이 필요하다 할 것이다. 즉 업무에 상응하는 급여인상, 급여수준에 맞는 근무환경( 적절한 업무 분담과 퇴근시간 보장 등) 제공이 필요하며 궁극적으로 현재 일부 은행에서 시행하는 정규직 전환제도 등의 확대 같 은 적극적 조치가 필요할 것이다. 207

198 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 참 고 문 헌 < 韓 国 語 文 献 > 강우란 이정일(1999), 고용방식의 다양화와 한국기업의 선택, Samsung Economic Research Institute 구혜란(2005), 비정규직의 고용안전성과 조직몰입에 관한 국제비교연구, 한국사회학 Vol.39 No.2. 금융감독원(2004), 은행경영 통계자료. 김성환(1992), 비정규노동에 관한 연구, 한국노동연구원. 김성환(1992), 비정규노동에 관한 연구, 한국노동연구원. 김소영(1995), 고용형태의 변화에 따른 노동법적 대응, 한국노동연구원. 박동운(1997), 한국노동시장의 유연성, 자유기업센터. 신용수(1991), 여성노동력의 중장기전망과 과제, 한국노동연구원. 양병화(2001), 비정규 계약직 근로자와 정규직 근로자의 조직몰입과 직무 만족에 대한 연구, 한국 심리학회지 산업과 조직 Vol.14 No.2 전국금융산업노동조합 한국 비정규직노동센터(2003), 금융 산업 비정규직 노동자 실태와 조직화방안 p32. 정인수(1997), 취업형태 다양화와 정책과제, 한국노동연구원. 조인수(1997) 취업형태다양화와 정책과제 한국노동연구원. 최경수(1997), 단시간 근로실태 정책과제, 한국노동연구원. 한국여성노동자회 협의회(1998), 비정규 여성노동자의 조직화 방안. < 日 本 語 文 献 > 古 郡 鞆 子 (1997) 非 正 規 勞 働 の経 済 分 析 東 洋 経 済 新 報 社 渡 辺 直 登 水 井 正 明 野 崎 嗣 政 (1990) 人 材 派 遣 会 社 従 業 員 のストレス 組 織 コ ミットメント キャリアプラン 経 営 行 動 科 学 5 林 達 鎬 (2002) 韓 国 都 市 銀 行 における 女 性 労 働 者 の雇 用 形 態 別 組 織 コミットメント の差 に関 する 研 究 韓 日 經 商 論 集 第 25卷 桑 田 耕 太 郎 田 尾 雅 夫 (1988) 組 織 論 有 斐 閣 城 戸 彰 (1980), 日 本 企 業 における 組 織 コミットメント 三 田 商 学 研 究 No23 208

199 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 二 神 枝 保 (1999) 日 本 における 派 遣 勞 働 者 の分 析 雇 用 形 態 の多 様 化 と勞 働 市 場 の 変 容 日 本 勞 働 研 究 機 構 日 本 勞 働 研 究 機 構 (1995) 集 団 帰 属 意 識 の変 化 と職 業 生 活 ; 組 織 帰 属 意 識 研 究 の ための理 論 と 方 法 3 田 尾 雅 夫 会 社 人 間 の研 究 組 織 コミットメントの 理 論 と実 際 京 都 大 学 出 版 会 1997 田 尾 雅 夫 編 (1997) 会 社 人 間 の研 究 ; 組 織 コミットメントの 理 論 と実 際 京 都 大 学 学 術 出 版 会 佐 藤 厚 (1998) 雇 用 管 理 日 本 勞 働 研 究 機 構 咸 恵 善 (1990) 女 性 の組 織 コミットメントに 関 する一 考 察 -Still および Bhagat & Chassie のモデルを 中 心 として - 早 稲 田 商 学 336, 咸 恵 善 (1991) パー トタイマ ー の組 織 コミットメントに 関 する実 証 分 析 経 営 行 動 科 学 6( 1 ),1-13 関 本 昌 秀 花 田 光 世 (1985), 11社 4539 名 の調 査 分 析 にもとづく 帰 属 意 識 の研 究 ( 上 ) ダイヤモンド ハー バー ド ビジネス 10(6),84-96 関 本 昌 秀 花 田 光 世 (1986) 11社 4539 名 の調 査 分 析 にもとづく 帰 属 意 識 の研 究 ( 下 ) ダイヤモンド ハー バー ド ビジネス 11(1),53-62 < 英 文 文 献 > Alvi, S. A., & Ahmed, S. W.(1987), Assessing Organizational Commitment in a Developing country: Pakistan, a Case study, Human Relations, Vol. 40. Becker, H. S.(1960), Notes on the Concept of Commitment, American journal of sociology, Vol. 66. Eberhardt, B. J. & Shani(1894), A. B., The Effects of Full-time Versus Part-time Employment Status on Attitudes Toward Specific Organizational Characteristics and Overall Job Satisfaction, Academy of Management Journal, Vol. 27. Hall, D. T. & Gordon, F. E.(1973), Career choices of Married women: Effects on conflict, role behavior, and satisfaction, Journal of Applied Psychology, Vol. 58. Lee, T. W., & Johnson, D. R.(1991), The Effects of Work Schedule 209

200 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) and Employment Status on the Organizational Commitment and Job Satisfaction of Full versus Part Time Employees, Journal of Vocational Behavior, Vol. 38. McGinnis, S. K., & Morrow, P. C.(1990), Job attitudes among full and part-time employees, Journal of Vocational Behavior, Vol.36. Miller, H. E. & Terborg, J. R.(1979), Job Attitudes of Part-Time and Full-Time Employee, Journal of Applied Psychology, Vol. 64. O'Reilly, C. & Chatman, J.(1986), Organizational Commitment and Psychological Attachment: The Effect of Compliance, Identification, and Internalization on Prosocial behavior, Journal of Applied Psychology, Vol. 71. Porter, L. W., Steers, R. M., Mowday, R.T., & Boulian, P. V.(1974), Organizational Commitment, Job Satisfaction, and Turnover among Psychiatric Technicians, Journal of Applied Psychology, Vol

201 組 織 沒 入 度 의 時 間 的 變 化 에 關 한 硏 究 A Study on Time Series Change about Organizational Commitment of Regular and Temporary Women Employees of city banks in Korea Lim, Dalho Professor Chungbuk National University Lee, Migin Kookmin bank Abstract Under such labor environments, in this paper, I have analyzed the differences of organizational commitment in accordance with two types of Women workers of bank : regular and temporary. This study aims at explaining characteristics of time series change about temporary employees by assessing their organizational commitment and examining the effects on regular versus temporary employment status toward organizational commitment research The empirical data has been collected from regular and temporary tellers of six city banks located in the vicinity of Seoul area in Korea. 600 tellers have been successfully participated our survey. However, the valid questionnaires were 335 in which regular tellers were 93, and temporary tellers were 172. The data has been analyzed using t test, one-way layout ANOVA, and multiple regression analysis. Accordingly, the following conclusions are derived in this study. 211

202 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) The study results acquired by testing of the three hypotheses show that regular employees have higher level of organizational commitment and job satisfaction, whereas temporary employees have lower level of organizational commitment and job satisfaction than regular employees in terms of their explicit discontent with the organization and company, job satisfaction, lower compensation and job security. In conclusion, city banks will be forced to more depend on the temporary employees for further cost reduction and higher organizational efficiency. Notwithstanding such corporate personnel policy, companies need to be more concerned in relation to salary, welfare benefits, training program and personnel policy for the temporary employees in order to reshape the organizational integrity. Keyword : organizational o commitment, women labor Market, regular employees, temporary employees 212

203 경영사학 제20 집 제5 호 ( 통권40 호) 한국경영사학회 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 * 1) 조규진, 최용민 ** 2) 目 次 I. 서론 II. 세계경제체제에 편입되기 전의 외환정책 III. 페레스트로이카에서의 외환정책 IV. 경제체제전환 이후의 외환정책 V. 모라토리엄선언과 관련한 외환정책 1. 모라토리엄선언의 성격 2. 모라토리엄선언 이후의 외환정책 VI. 결론 I. 서 론 약 1 세기에 가깝게 유지되었던 동서냉전 체제가 무너지면서, 과거의 사 회주의적 계획경제체제이었던 국가는 대부분 세계시장경제체제에로 편입 되는 경제체제의 체제전환이 이루어졌다. 이 중 러시아는 기업 등의 생산 수단을 국가가 소유하고 국가계획에 생산수단을 사유화시키고 시장에 의 해 경제가 조정되게 하는 자본주의적 시장경제체제로의 체제전환을 하였 다. * 이 논문은 광운대학교 2005 년도 학술연구비에 의하여 지원되었음. ** 조규진 ( 광운대학교 ), 최용민 ( 한국무역협회 ) 213

204 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 러시아는 특히 급격한 경제체제의 전환과 최근의 세계적인 금융위기로 말미암아 98 년부터 극심한 외환위기를 경험하였지만, 높은 기술력과 풍부 한 자원을 가지고 있으며 거대한 잠재 시장규모로 인해, 조만간 경제대국 으로 다시 부상할 것이라는 예측과 함께 우리니라 기업의 진출대상국으로 서의 매력은 아직도 상당하다고 할 수 있다. 따라서 러시아에 진출하려는 한국기업은 급격한 경제체제 개혁과 최근 의 세계적인 금융위기로 인한 러시아의 외환위기와 관련하여, 러시아의 독특한 자본주의적 시장경제체제의 기업과 시장에서의 개혁을 이해하여야 할 것이다. 그리고, 양국간의 교역활성화를 도모하기 위해서라도, 모라토 리엄의 발생과 관련한 러시아에 대한 외환관리체제에 대한 이해는 필수적 이라 하겠다. 더욱이 러시아의 외환관리제도를 제대로 이해하지 못해 수 출대금을 제대로 받지 못하거나 투자 및 과실송금에 문제가 발생하는 경 우도 빈발하고 있다. 이와 같이 한국기업이 러시아 시장에 진출하는데 있 어서, 러시아의 외환정책의 이해는 한국기업에게 필수적이라 할 수 있겠 다. 이와 관련하여 본문에서는 러시아의 대외정책에서 발생하는 모라토리엄 발생을 포함한 러시아 외환정책의 변천과정을 살펴보고자 한다. 이를 위 해 1 장의 서론에 이어, 2장에서는 구소련 시대의 세계경제체제에 편입되 기 전의 외환정책을 먼저 살펴보고자 한다. 그 후 3장에서는 고르바초프 의 세계경제체제에 편입되는 페레스트로이카의 외환정책을 살펴보고, 4장 에서는 옐친의 자본주의적 시장경제체제로의 경제체제개혁과 관련된 외환 정책을 살펴 볼 것이다. 그리고 5장에서는 모라토리엄의 발생에서부터 푸 틴 정권까지의 외환정책을 살펴보고, 6장에서는 이 논문의 학문적 및 실 무적 유용성을 살펴보면서 결론을 내릴 것이다. II. 세계경제체제에 편입되기 전의 외환정책 구소련의 기본적인 외환정책은 사회주의적 계획경제체제의 이론에 따른 자급자족의 원칙에서 나온다. 자급자족의 원칙에 의하면, 자본주의적 시장 경제체제의 국가는 제품의 수출을 세계적으로 확대함으로써 자연히 제국 214

205 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 주의적 착취를 하게 되기 때문에, 구소련은 자급자족의 원리로서 제국주 의적 착취의 세계적 확대에 대한 피해를 받지 않으려고 한다는 것이다. 이 뿐 아니라, 수요자와 공급자가 동시에 고려되는 시장가격이라는 자본 주의적 시장경제체제의 가치와 공급자의 노동시간만이 고려되는 사회주의 적 계획경제체제의 가치가 근본적으로 다르기 때문에, 구소련은 적어도 초창기에는 자본주의국가와 가능하면 교역을 하지 아니하고 자급자족의 원리를 고수하려고 하였다. 국내에서 자원이 부족한 경우에는, 사회주의국 가와의 무역을 통하여 해결하려 하였다. 이러한 자급자족정책은 구소련 초창기에 해당하는 레닌의 전시공산체제 에 시작하였지만, 이로 말미암아 많은 비효율성이 발생하자 레닌은 후기 에 이를 극복하고자 일시적인 자본주의적 정책을 받아들인 신경제정책 (NEP: New Economic Plan) 을 발표하면서, 자급자족정책을 중지하였다. 그러나 레닌 사후 정권을 잡은 스탈린의 일국사회주의체제에서는 다시 자 급자족의 원칙이 다시 부활되었다. 스탈린은 사회주의국가간의 경제협력 기구인 코메콘(COMECON: Council for Mutual Economic Aid) 을 창설하 였으나, 제 2차 대전 후 실시된 미국의 마샬프랜에 대항하고자 만들었다 는 설립 자체의 비효율적인 취지와 스탈린의 다른 사회주의구가에 대한 위압적인 태도로 인해 별로 실시되지 아니하였다. 그리하여, 이러한 때에 는 외환정책의 필요성이 별로 부각되지 아니하였다. 그 후 흐루시쵸프에 서 브레즈네프의 시대까지는 철저히 냉전체제를 유지하면서도 사회주의 발전을 위한 기업개혁을 수행하였다. 그러기 위해서, 사회주의국가는 이에 필요한 선진자본주의국가의 우수한 생산설비 및 첨단기술 등의 자본주의 제품을 수입하여야 하였다. 물론 사회주의국가와의 협력은 더욱 강화되었 고, 이에 더하여 제3 세계와의 공조도 나타나게 되었다. 이러한 관계로 이 당시 구소련의 무역결제방식은 4가지 형태로 다양하 게 나타났다. 첫째, 코메콘국가와는 5년마다 장기무역협정을 체결한 뒤 매 년 무역규모를 구체적으로 정하여 무역을 하는데, 이의 결제통화는 구소 련 루블과는 다른 코메콘체제의 공동화폐단위인 이체가능루블 (Transferable Ruble) 이며, 결제는 코메콘국가의 국제협력은행인 코메콘은 행(The International Bank for Economic Cooperation: IBEC) 과 투자은행 (The International Investment Bank: IIB) 이었다. 둘째, 중국, 북한, 유고 와 같이 코메콘에 가입하지 않은 사회주의국가와는 5년마다 장기무역협정 215

206 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 을 체결한 뒤 매년 무역규모를 구체적으로 정하여 무역을 하되, 결제만은 1 년 단위의 청산결제를 실시하였다. 셋째, 자본주의적 시장경제체제의 국 가와는 동일한 액수의 물품이 교환되게 함으로써 가능하면 화폐가 지급되 지 아니하는 구상무역방식을 취하였으나, 차이가 나는 경우에는 달러 등 의 국제적으로 통용가능한 태환성 화폐가 고정환율로 계산되어 지급되었 다. 넷째, 자본주의적 시장경제를 가지는 제3세계국가와는 가능하면 청산 결제를 하려하나, 무역액의 차이로 결제를 할 때에는 상대국의 통화를 사 용하게 하거나 무상원조의 형태를 취하였다. 1) 이 때의 환율제도는 고정환율제도였는데, 고정환율은 외환시장의 수급 이나 정부의 개입에 의해 결정되는 것이 아니라, 정부의 발표와 각종 규 제에 의해 유지되었다. 사회주의적 계획경제체제에서의 고정환율은 국내 국가계획과 관련된 수출입 계획과 여러 가지 효율성 계산척도에 의해 결 정되기 때문에 환율로서의 실질적인 의미를 갖기 못하였다. 특히 무역독 점회사가 국가계획의 틀 속에서 독점적으로 대외무역을 하고, 수출의 경 우는 보조금에 의하고 수입의 경우에는 세금에 의해 환율을 인위적으로 유지하였기 때문에, 환율은 장기간 고정되는 특징을 지니게 되었다. 구소련에서 환율을 장기간 고정시킨 이유는, 사회주의발전을 위해 사회 주의권 내에 부족한 자원과 우수제품을 구입하기 위해 자본주의국가와 교 류는 하되, 그들이 비판하는 이른바 제국주의적 착취의 세계적 확대에서 는 벗어나자는 취지였다. 또한 러시아내 자본의 대외유출을 억제하고, 외 화에 대한 가수요를 사전에 차단하여 외환수급의 균형과 루블화의 안정이 라는 일석이조의 성과를 거두기 위함이었다. 2) 이와 같이 정부의 외환거래독점제도는 레닌에서부터 흐루시쵸프시대까 지 이어지면서 일시적이나마 한번의 예외를 가지는 시기가 있었다. 앞에 서 말한 레닌 후기의 신경제정책에서는 정부가 외환거래를 독점하지 아니 하고, 국립은행이 발행한 금태환권인 통화나 외화 및 환어음 등이 모스크 바, 레닌그라드, 키에프와 같은 10개 대도시에 있던 외환거래소를 통하여 이루어졌다. 국내적으로 시장경제와 소규모의 재산취득을 허용하고 외국 1) 참조: 주정옥 (1988), pp 67-78; Damus (1979), pp ) 참조: 박제훈 (1991), pp 80-86; Bohunovsky (1977), pp

207 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 에 대해서는 대외개방을 실시한 신경제정책의 시대에는, 외환거래소 뿐만 아니라 증권거래소도 설립하여 여기서 국채나 주식 등의 매매가 이루어졌 다. 경제가 취약한 상태에서 사회주의를 설립한 레닌은 사회주의발전을 위해 일시적이나마 선진자본주의의 제품을 수입하는 대외개방정책을 적극 적으로 추진하게 되었는데, 효율적인 대외개방정책을 수행하기 위해 정부 가 외화를 독점관리 하지 아니하고 여러 도시에 있던 외환거래소를 통하 여 외환의 매매를 하도록 허용하였던 것이다. 물론 각 도시간의 환율 및 거래규모가 상당히 상이하게 나타났었는데, 이는 광대한 국토에도 불구하 고 그 당시에는 통신 및 전산시설의 미비로 인한 당연한 결과로 볼 수 있 다. 3) III. 페레스트로이카에서의 외환정책 고르바초프는 사회주의적 계획경제체제는 법적으로 유지하는 상태에서 페레스트로이카( 개혁) 를 실시하여, 실질적으로 구소련 경제는 세계시장경 제체제에 상당히 편입되는 결과를 가져왔다. 사회주의적 계획경제라는 경 제체제를 법적으로 유지하면서 실질적으로는 자본주의적 세계시장체제와 자유로이 수출입과 해외직접투자를 하자는 페레스트로이카를 시행하는 데 에는 상당한 괴리가 존재하였는데, 이러한 괴리를 극복하기 위해 87년 1 월부터는 무역규제의 완화와 병행해 환산계수제도가 도입되었다. 환산계 수(Conversion Coefficient) 란 대외무역권을 가진 기업에 대해, 국내 가격 과 대외무역 가격간의 차이를 조절하기 위해 정하여주는 계수를 말하는 것이다. 이러한 환산계수는 재화에 대한 국내외 가격차를 조절하면서 대 외무역의 국가관리체제를 존속시키려는 의도에서 나온 것이다. 또한 무역 에 대한 행정규제를 지속적으로 유지하면서도 환율의 기능을 축소함으로 써, 대외경제로부터 받는 영향을 최소화하려는 의도가 깔려 있다고 볼 수 있다. 당시 러시아에는 여러 종류의 환산계수가 있었는데, 코메콘 국가간 무 역, 경화무역, 청산거래, 쿠바 및 베트남과의 무역 등이 그 예이다. 일반적 3) 참조: Heller/Neklich (1981), pp ; 이성규 (1995), pp 9-10; 알렉 노브 (1998), pp

208 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 으로 경화무역에 사용되는 환산계수는 코메콘 국가나 기타무역에 사용되 는 계수보다 컸다. 또한 1991년에는 국영기업에 한해 100% 마진의 환산 계수를 부여하기도 하였는데, 이는 국영기업에 많은 특혜를 주어 사회주 의는 유지한 채 개방은 철저히 하려는 정책이었다. 그 당시의 환율제도는 일반적인 사회주의 국가와 마찬가지로 이원적 가 격체제를 채택하고 있었다. 먼저 고정환율은 무역거래에 적용되는 것으로 안정된 상태를 유지하나 일반적으로 과대평가 되어 있었다. 또한 외국 여 행자에게 유리하게 적용되는 비상업적 환율도 통용되고 있어, 환율제도를 운용하고 있었던 것이다. 이원적인 고르바초프의 시기에도 전 시대에 존재하였던 사회주의국가와의 무역 및 제3세계와의 무역도 존재하기는 하 였으나, 고르바초프의 자본주의국가에 대한 개방정책으로 세계시장경제체 제에 편입된 관계로, 이들 국가와의 무역은 오히려 미미한 상태에 그치게 되었다. 4) 개방을 하면서 환율제도와 병행하여 의무매각제도를 실시하였는데, 제도는 기업이 대외거래를 통해 획득한 경화소득 중에서 일부를 중앙은행 과 국내 외환시장에 의무적으로 매각하여야 하는 제도이다. 1986년 초에 는 수출로 획득한 경화의 10-90% 를 국가에 의무매각하는 기업의 비율이 50% 에 달하였다. 러시아 정부가 이러한 의무매각제도를 도입한 것은, 국 내에 필요한 물자를 수입하는데 필요한 경화를 확보하고 루블화 가치를 안정시키기 위한 것이다. 이 상품수출 및 기타 대외거래로 획득한 경화 중에서, 기업은 해외에서 지급 한 운송비용, 보험비용 등 제반비용을 공제하고 남은 금액의 일부를 러시 아 수임은행의 임시외화계정에 반드시 예치해야 하는데, 이로 인해 정부 로서는 충분한 외환보유고를 조성할 수 있는 것이다. 이리하여, 러시아 외 환관리제도의 변천은 경화에 대한 의무매각비율의 변천과정이라고 할만 큼, 의무매각비율은 외환관리제도에서 중요한 위치를 차지하고 있다. 경화 매각비율을 위반한 경우 외환관리기관에 의해 해당 금액에 대해 벌과금이 부과되기 때문에, 의무매각제도는 급격한 개방에 대한 통제방법으로 실시 되었다. 그 비율은 재화에 따라 많이 달랐는데, 실제로 라이센싱 거래에서 4) 참조: 박현우 (1993), pp ; Seidenstecher (1988), pp

209 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 는 100% 경화보유가 가능했던 반면, 대부분의 원자재는 5% 에 불과했다. 90년 11 월에는 부문별, 품목별, 지역별로 다르게 적용하던 환산계수제도 가 폐지되고, 소위 말하는 관리변동환율제도로 이행되었다. 루블화의 대외 가치가 궁극적으로 외화환율의 변화에 기초하여 움직이도록 고안된 이 환 율제도 하에서는, 루블 환율을 고정환율, 상업환율, 특별환율 및 외환매각 환율 등으로 세분화하되 환산계수는 없앰으로써, 하기 위한 과도기적 체제를 갖게 된다. 단일변동환율제로 이행 그러나 여기에서의 관리변동환율 제는 아직 시장경제에서 말하는 완전한 변동환율제가 아니므로, 많은 제 한이 있었다. 이 제도에서는 무역결제 및 소련에서의 외국인 투자 등 경 제행위와 관련되어서는 주로 상업환율이 적용되었다. 5) 새로운 환율제도의 도입은 환율의 가격결정 기능을 제고하고 수출기업 에 대한 루블화로의 수입을 증대시키는 대신, 각종 보조금을 축소하는 동 시에 수입단가도 인상시켜 수입수요를 제한하자는 데에, 그 목적이 있었 다. 이 과정에서 정부수입을 증대시키는 부수적인 효과도 노렸다. 그러나 실질적으로 관리통제적 성격이 강하여, 환율인상률이 물가상승률을 밑돌 면서 러시아 경제의 대외경쟁력은 약화되는 결과를 가져왔다. 제품에 대 한 가격개혁이 이뤄지지 않고 원유수출업자 등 일부에게만 이득이 돌아갈 뿐, 제조업 수출업자에게는 손실을 안겨주는 결과를 낳았던 것이다. 이와 같이 페레스트로이카에 의한 대외 대외에 대한 기업의 경제활동 및 자본이동의 자유화 조치이후, 제품의 수출입이나 외국인투자 및 자본 의 이동이 급격히 증가하고 있었다. 그런데, 러시아 정부는 이와 같이 적 극적인 대외개방정책을 추진하는 가운데에서도, 국내자본의 해외반출을 가능한 한 억제하고 지나친 외화에의 필요성으로 인한 가수요현상을 방지 하기 위하여, 외환관리에 대해 상당한 통제를 하였다. 왜냐하면, 페레스트 로이카의 과제는 이러한 대외개방 속에서도, 기업 등의 생산수단을 국가 가 소유하는 사회주의체제를 유지하고 발전시켜야 하기 때문이다. 6) 5) 참조: 박제훈 (1991), pp 41-42; Timmermann (1988), pp 5-15; Gӧtz-Coenenberg (1990), ) 참조 이상준 윤찬혁 정여천 김석환 : (1988), pp ; (1992), pp 10-20; / (2004), 38-47; Brahm (1989), pp

210 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) IV. 경제체제전환 이후의 외환정책 러시아는 옐친 이전에 시작한 고르바쵸프의 페레스트로이카 영향으로, 실질적으로는 세계시장경제체제에 일부 편입되어 있었지만, 국내 국영기 업에 대한 사유화를 실시한 옐친의 시대에는 대외정책 면에서 더욱 진일 보한 면을 찾을 수 있다. 특히 기존에 도입한 변동환율제도는 관리통제적 인 성격을 매우 짙게 가지고 있었는데 반해, 옐친 시대에는 변동환율제도 에 대한 통제가 크게 완화되어 환율은 외환의 시장기능을 상당히 발휘하 게 되었다. 페레스트로이카 정책 이 후의 계속되어 온 급격한 대외개방으 로 인하여, 고르바초프 시대의 말기에서 옐친 시대의 초기에는 취약한 국 내경제의 수준에 비해 외국제품이나 외국기업 및 외국자본이 너무 들어와 는 계기가 되었다. 페레스트로이카 시대에도 외국인기업의 본국에 대한 과실송금 문제와 관련하여 외국인기업은 러시아내에서 경제활동을 통해 획득한 수입에 대해 원칙적으로 본국송금이 전적으로 가능하였다. 옐친 시대에 와서는 외국인투자기업이 경화소득을 전액 사내에 유보하는 것을 허용하게 하여 외국인투자를 더욱 유도하였는데, 이러한 외환정책은 취약 한 국내경제 수준을 생각할 때 오히려 국내경제가 혼란의 경지에 이르고 외환사정이 매우 악화되는 결과를 가져오게 되었다. 또한 기업의 외화소득에 대한 의무매각비율을 40% 로 통일시키고 나머 지 60% 경화도 연방공화국과 지방의 외화기금으로 편입하게 한 것도, 그 당시의 이러한 외환사정 악화를 반영한 것이라고 할 수 있다. 이러한 의 무매각비율의 변화는 사회주의적 계획경제체제에서 자본주의적 시장경제 로 전환되면서 발생한 심각한 외환사정과 깊은 관련을 가지고 있었던 것 이다. 단순히 환율제도의 변화를 의미하는 것에 그치지 않았던 것이다. 이 러한 와중에서도 외국인지분이 30% 이상이 되는 회사가 상품이나 서비스 를 수출하는 경우에는, 앞의 의무매각비율이 적용되는 대상에서 제외되어 관련규제로부터 상당히 자유로울 수 있었는데, 이는 외국인투자를 우대하 기 위해 조치로 해석된다. 루블화 계좌와 외화계좌를 개설할 수 있는 외국인기업은 외화계좌를 이용 하여 러시아 내에서 상품이나 서비스를 구입할 수 있으며, 채무상환은 물 론 러시아 내의 투자도 할 수 있는 우대를 받았다. 그러나, 실제에 있어서 220

211 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 외국인기업들은 러시아은행들의 경험부족으로 인한 업무지연 및 열악한 러시아 외환사정으로 자금순환에 상당한 애로를 겪었으며, 통화당국의 심 한 외환규제로 인해 외화계좌내의 자금의 자유로운 인출도 쉽지 않았다. 그리하여, 외국인기업들은 러시아내 외국은행 등에 그들의 계좌를 개설하 려고 하였는데, 이러한 경우에도 외화인출이 그렇게 용이하지 않고 외환 거래 시 높은 수수료를 요구하기 때문에, 외국인기업들은 외화계좌를 유 럽에 있는 자국의 지점에 개설하는 경우가 많았다. 특히 기업과 관련된 부분에 대한 높은 세율과 행정직원의 자의적인 업무처리는, 외국인기업에 게 상당한 불편을 주었다. 7) 특히 러시아는 외국인투자기업들이 적법한 경제활동을 통해 획득한 소 득에 대해 과실송금을 보장하고 있으나 10% 의 송금세를 물게 하였는데, 이러한 과실송금문제와 관련하여서는 이윤 및 지분 등에 의한 투자수익, 지불청구서나 계약서에 의해 발생한 소득, 투자액 전체나 일부를 청산하 면서 발생한 소득, 외국인 투자손실에 대한 배상 및 보상 등이 포함되었 다. 그러나, 외국인기업들은 러시아 내 필요한 외화자금에 대해서 자체조달을 하도록 되어 있어, 현지금융조달을 선호하고 있는 외국인기업들은 러시아 내에서의 생산설비의 건설은 물론, 제품생산에 필요한 원재료나 부품의 구입을 위한 외화를 확보하는 데에도 많은 어려움을 겪고 있다. 특히 자 본주의적 시장경제로의 체제이행을 하였더라도 거주자의 외환거래에 대해 서는 상당한 규제를 하였는데, 거주자의 러시아내에서의 모든 거래는 루 블화로 하고, 외화에 의한 결제나 지불은 러시아 중앙은행에 의해 허가를 받은 경우에만 가능하도록 하였다. 여기서 거주자란 국적에 상관없이 매 년 183 일 이상 러시아에 거주하는 자연인 뿐 아니라, 러시아내에 소재하 면서 러시아 법에 의해 설립된 법인과 이들의 해외지사 및 해외에 있는 러시아의 공식 대표부를 말한다. 거주자는 러시아 중앙은행에 외화계좌를 개설할 수 있을 뿐 아니라 국내 외환시장에서 외환을 구입할 수 있으나, 중앙은행에 의해 규정된 엄격한 절차에 의해서만 외환을 해외로 반출할 수 있도록 하였다. 또한 거주자의 7) 참조 박현우 : (1993), pp ; Delpla/Wyplosz (1995), pp 21-35; Sachs (1995), pp

212 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 해외활동을 통해 획득한 외화재는 러시아내로 반드시 송금하도록 하였다. 이들의 대외적인 활동에 있어서 경상거래에는 제약이 없으나, 자본거래 시는 러시아 중앙은행에 허가를 받도록 하였다. 러시아가 자본거래로 분 류하는 거래는 직접투자, 주식투자, 건물과 토지 등 부동산 소유권 획득을 위한 외화송금, 상환기간이 180일 이상인 수출입 결제의 지불유예 공여 및 도입 및 상환기관이 180 일 이상인 신용공여 및 도입 등을 말한다. 특 이한 점은 거래기간이 180일 이상인 경우 상품거래로 촉발된 외환거래라 도 자본거래로 분류되어 까다로운 규제를 받도록 하고 있으며, 또한 거주 자가 미화 500달러이상을 외화를 반출하기 위해서는 세관신고서와 은행의 허가서가 필요하다는 점이다. 이에 비해 비거주자의 외환거래 규제가 거주자의 경우와는 달랐는데, 여 기서 비거주자란 매년 183 일 이상 해외에 거주하는 자연인 뿐 아니라, 해 외에 있는 외국법인에 의해 설립된 법인과 이들의 러시아내 지사 및 러시 아 내에 소재하는 외국의 공식대표부를 말하는 비거주자 법인을 모두 말 한다. 비거주자 개인인 경우 러시아 내에 제한 없이 외화를 반입할 수 있 으며, 루블화 소득을 예치하거나 러시아 내에서 경비지출 및 투자를 위해 서는 개인명의로 루블화 계좌를 개설할 수 있도록 하였다. 비거주자 법인 의 경우 국내외환시장에 외화를 매각할 수 있으며, 외환거래를 위해 러시 아 수임은행에 루블화 계좌와 외화계좌를 개설할 수도 있게 하였다. 또한 외화계좌에 의해 러시아내로 송금할 수 있도록 하였으며, 외화계좌 내 자 금을 상품구입, 채무상환이나 정기예금 및 투자 등을 위해 사용할 수 있 도록 하였다. 8) 하여튼, 러시아는 자본주의적 시장경제체제를 도입하면서 제조기업의 파산과 유통질서의 혼란 및 외환정책의 급격한 변화 등으로 인해, 경제전 체가 불안정해지고 루블화의 화폐로서의 기능을 상실하면서 그 가치가 폭 락하였다. 자본주의적 시장경제체제로 개혁한 직후에는 러시아의 국내 총 생산이 전년에 비해 14% 나 감소되고 소비자 물가는 20배 이상 상승하는 등 심한 생산활동의 위축과 물가의 불안정이 발생하였다. 이러한 경제의 침체와 불안정현상은 경제체제의 전환 전부터 실시해왔던 경제개혁의 계 8) 참조: 이성규 (1995), pp 29-57; 지역정보센터 (1996), pp

213 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 속적인 실패와도 관련이 있었는데, 이러한 결과 제품유통의 암시장이 만 연한 채 루블화는 지불수단으로서의 화폐기능을 제대로 할 수 없게 되었 다. 게다가 국영은행들은 경제성을 전혀 고려하지 아니하지 않은 채 대형 국영기업에게 대규모여신을 계속하였다. 이러한 불실 국영기업과 민영화 되려고 하는 군수산업체의 금융부조리로 인해, 러시아경제는 세계시장경 제체제에 완전히 편입되었음에도 불구하고 루블화의 화폐기능은 거의 소 멸되어가고 위조지폐까지 성행하게 되었다. 그리하여, 루블화의 실질적 시세반영과 만연된 위조지폐의 제거를 목적으 로 러시아 중앙은행은 1992 년 화폐개혁조치를 실시하여, 과거의 루블화는 금지하고 새로운 화폐를 유통시켰다. 특히 1인당 35,000루블까지만 신권교 환을 허용하고 나머지 소유분은 의무적으로 정부가 지정하는 은행에 6개 월 이상을 저축예금의 형태로 예치하게 하였다. 여기서 1년에 20배 정도 로 화폐가치가 떨어져 35,000루블이 약 35 달러밖에 해당하지 아니하자, 그 해에 신권교환 허용액을 100,000루블로 확대하고 10루블 이하의 소액화폐 는 당분간 계속 사용하도록 하게 하는 아이러니칼한 현상도 발생하였다. 러시아 경제전체가 혼란에 빠지고 국고의 외환이 부족하게 되자, 러시 아 정부는 이를 극복하기 위한 차원에서 기업의 경화소득에서 중앙은행 등에 의무적으로 매각하여야 하는 의무매각비율을 1993년 6월부터 50% 로 상향조정하였다. 또한 자본주의적 계획경제체제로의 급속한 경제 개혁조 치 이후 막대한 양의 외화자산이 해외로 불법으로 유출되었는데, 이는 주 로 대외거래 시에 러시아 기업과 러시아 은행들의 불법적인 방법을 통해 이루어졌다. 외화유출 규모가 매월 최소 5억 달러에서 최대 8억 달러에 달할 정도로 심각하였으며, 이러한 러시아 국내자본의 해외불법유출 현상 은 러시아 경제에 커다란 손실이 되었다. 9) 그러하자 러시아 정부는 1994년 러시아 국내외화자산의 해외불법 유출 을 막기 위해 종합적인 수출입 통제체제를 가동하여 관리하는 전산체제를 구축하였다. 왜냐하면, 러시아 기업들이 해외에 있는 그들의 외화계좌를 통해 국내 외화자금을 해외로 불법유출하는 사례가 많아졌기 때문이다. 9) 참조: 윤찬혁 (1994), pp 11-36; 박제훈 (1995), pp 52-56; Goldberg (1993), pp

214 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 이리하여 수출입대금관리를 포함한 전체적인 외환관리는 수임은행에 의해 서 이루어지게 하였으며, 수임은행은 러시아 중앙은행, 재무부, 대외경제 관계부는 물론 국세청, 국가관세위원회에도 통제를 받게 하였다. 이 결과 수출계약서 작성부터 수출대금이 수임은행 내 외화계좌에 입금되는 것까 지의 모든 과정을 추적할 수 있도록 하였다. 또한 외화 획득능력이 높은 전략물자에서부터 점차 모든 수출상품에 대해 수출대금을 통제하는 수출 관련정보에 대한 전산망을 구축하여, 모든 수 출과정에서의 관련 정보는 국가관세위원회 내 전산센터에서 일괄적으로 관리하였다. 즉, 대외무역자유화 조치에 따른 수출대금의 해외유출을 방지 하기 위해 세관과 은행을 연결한 수출사후관리체제를 구축하였다. 이 관 리체제의 핵심은 수출관련 정보를 전산화하여 물품선적 후 수출업체의 은행구좌로 입금되었는지를 확인하는 것이다. 180일 이내에 수출기업이 수출상품명과 수량 및 금액 등이 기재된 서류를 외국환은행의 확인을 받아 세관에 제출하면, 세관은 통관절차를 진행하면서 은행에 통 보함으로써 수출대금이 국내로 정확히 입금되는지를 확인하도록 한 것이 다. 이리하여, 수출관리기관들간의 업무 협조 및 정보교환 체계를 마련하 고, 러시아 중앙은행과 국가관세위원회는 러시아 기업의 수출대금 수령방 법에 통제할 수 있도록 하였다. 만약 기업에서 행한 수출대금의 해외불법 유출이 적발되더라도 기업은 물론 개인도 처벌받도록 하여, 엄격히 단속하였던 것이다. 불법유출을 이러한 방법으로 수출입대금의 해외로의 불법적인 유출을 방지하기 위한 체계적 관리체계를 구축하였는데, 수입에 대한 외환관리의 경우에도 수입 대금 결제 후 180일 내에 상품 및 서비스의 수입을 증명할 수 있는 관련 서류의 제출을 의무화함으로써, 이루어지도록 하였다. 수출입에서의 종합적인 외환관리제도가 또한, 수입과정에서는 거주자의 경우에만 외화를 반출하기 위한 중앙은행 의 허가를 받도록 하였으나, 비거주자의 경우는 엄격한 통제를 하지 아니 하였다. 비거주자 법인은 외국환은행에 루블화와 외화구좌를 개설하여 상 품 및 서비스 매입대금으로 자유롭게 결제할 수 있게 하였다. 비거주자 개인은 제한 없이 외화반입이 가능하지만, 반출은 러시아내에서 적법한 224

215 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 절차를 통해 획득한 소득과 입국시 신고한 금액을 합친 상태에서, 그 액 수가 적은 경우에 한해 자유로운 환전 및 해외송금이 가능하도록 하였던 것이다. 10) 러시아는 1996년 5월 루블화의 가치상승에 따른 산업경쟁력 약화를 방 지하기 위해, 슬라이드식 목표변동환율제도를 시행하였다. 이 제도 하에서 환율은 물가상승률, 은행 및 기타환전소에서의 외환거래와 국제달러시세 등을 감안한 상태에서, 상하로 일정한 폭의 테두리에서 결정되었다. 슬라 이드식 목표변동환율제도가 시행되기 전의 관리변동환율제 하에서는, 율이 기타 환경에 영향을 받는다고는 하지만 일정한 폭 안에서 일정한 기 간동안 고정적으로 운영되었다. 그 결과 환율이 안정되는 효과를 거둘 수 있었지만, 결과적으로 환율인상률이 물가상승률을 밑돌 정도로 루블화가 고평가되면서 산업경쟁력의 약화를 초래하였다. 이에 반해 슬라이드식 환 율제도는 중앙은행이 상하 일정 폭 안에서 매일 고정환율을 결정해 고시 함으로써, 관리변동환율제도의 환율변동의 경직성을 상당히 제거한 것이 다. 결국 러시아는 이 제도를 도입함으로써, 관리변동환율제도하의 환율안 정을 꾀하면서 실물경제동향에 따라 유연하게 대응할 수 있는 기초를 마 련한 것으로 평가된다. 환 근본적으로 러시아의 외환관리법의 목적은, 자본주의적 시장경제로의 체제전환으로 인하여 급증하고 있는 외화의 해외유출과 외환에 대한 가수 요를 진정시키는 데 있다고 할 수 있다. 러시아 경제의 발전을 위해 기업 개혁 및 대외개방을 적극적으로 추진하면서도, 국내 외환시장의 균형과 루블화 가치 안정을 구축하기 위해, 거주자 및 비거주자의 외환거래에 대 하여 국가가 직접적으로 규제 또는 조정하고자 하였던 것이다. 이와 같이 서방국가들과의 대외교역 규모가 급속히 증대되는 가운데에 서, 루블화의 태환성을 확보하고 환율의 안정 및 국제수지 균형을 달성하 기 위한 일련의 조치들을 추진하게 된다. 태환성이란 자국의 통화를 자유 로이 다른 통화로 교환하는 것을 의미하는 것이기에, 이를 위해서는 외국 통화와의 자유로운 교환, 자유로운 시장의 존재, 대외경제활동에 있어 통 화의 자유로운 사용 및 국내 통화가 그 기능을 다하고 있을 것 등의 전제 10) 참조: 박현우 (1993), pp ; 이성규 (1995), pp 34-42; Rostowski (1994), pp

216 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 조건이 충족되어야 한다. 그러나, 경제개혁의 실패와 정치불안의 계속으로 태환성에 대한 큰 효율성은 보지 못하고 있었다. 러시아는 자본주의적 시 장경제로의 경제체제의 전환 후, 러시아 경제의 세계시장에 대한 완전개 방을 위한 외환정책을 실시하되, 경제의 안정된 발전을 위해 수출입 대금 의 해외 불법 유출을 방지하고 루블화 가치의 안정을 통한 종합적인 관리 체계를 마련하여 시행하여 왔다고 볼 수 있다. 11) V. 모라토리엄선언과 관련한 외환정책 1. 모라토리엄선언의 성격 1997년을 맞으면서 러시아에는 두 가지 면에서의 상반된 현상이 나타나 고 있었다. 먼저 외형적으로는 천연자원 제품 및 금융 산업그룹의 제품 에 대한 수출성장에 힘입어, 경제체제의 전환 후 몇 년간 계속되던 러시 아 경제가 어느 정도 성장하기 시작한다. 이에 반해 정부의 재정과 중앙 은행의 외환보유고는 바닥난 상태에서, 은행도 단기국채투자나 외국금융 차입 및 비효율적 기업투자로 인해 심각한 유동성문제에 직면하고 있었으 며, 천연자원과 금융 산업그룹과 관련되지 아니한 대부분의 기업은 외국 금융차입과 제품경쟁력 부족 및 운전자금의 유동성부족으로 어려움에 처 해 있었다. 어쩌면 러시아경제는 단기성 외국자금의 도움으로, 국가경제전 체가 성장을 시작하는 것 같이 보였다고 말할 수도 있다. 게다가 비체계 적 세수행정에다 세수계산의 기술적 후진성으로 인해, 뇌물 및 세수불이 행 등의 불법적 탈세는 물론이거니와, 탈세자체가 세수대상자가 합법적으 로 명단에서 빠지게 되는 경우도 상당히 나타나게 되어, 최대 재정수입원 인 세수의 부족현상이 발생하였다. 실제로 1997년 7월에는 경제체제의 전 환 후 최고 수준의 외환보유고를 가지고 있었지만, 이는 재정과 은행 및 기업의 단기성 자금운용으로 인해 그 상당부분이 상환되어야 할 자금에 불과하였다. 이와 같은 자금운영의 취약성은 무엇보다도 체제전환 초기에 있었던 경 11) 참조: 조한범 종합무역정보서비스 (1997), pp 31-41; (1998), pp 4-13; 이창재 외(1998), pp

217 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 제전체의 불안정과 루블화 가치의 폭락을 극복하기 위해, 러시아 정부가 국내외 금융시장으로부터 상당한 차입한데서 나타난 결과이다. 즉, 계속적 인 긴축재정정책으로 나타난 몇 년간의 루블화 가치의 안정을 기함으로 써, 경제체제의 전환 직후의 혼란 속에서도 경제전체의 불안정과 루블화 가치의 폭락을 극복하려 했던 것이다. 그러나, 러시아 정부의 이러한 화폐 가치 안정책으로 인한 국내외자금에 대한 원리금상환으로 인해, 러시아정 부는 만성적인 재정난에 시달리게 되었다. 그러던 1997년 7월 태국 바트화의 폭락과 인도네시아의 정치적 불안사 태가 시작하면서 발생한 동남아에서의 금융위기가 점차 확산되면서, 국제 투자자들은 높은 투자수익률의 개도국에서 투자리스크가 낮은 선진국으로 투자대상을 전환하기 시작하였다. 외국인 투자자들의 개도국에 대한 투자 심리 불안은 금융취약점을 가지고 있는 러시아 시장에도 커다란 영향을 미쳤는데, 재정, 은행 및 기업에서 단기유동성의 문제점을 가지고 있는 러 시아시장에서 자본이 유출하기 시작하였던 것이다. 국민의 저축과 지하자 금의 양성화를 위해 과거부터 준비하였던 화폐개혁에도 불구하고, 단기유 동성 부족으로 인한 해외로의 자본유출은 바로 러시아 주가폭락과 루블화 환율의 급등을 가져왔으며, 러시아의 국제신인도 또한 동남아 사태에 자 극되어 계속 떨어지기 시작하였다. 이에 러시아 정부는 환율방어를 위해 외화를 사용하였는데, 이로 인해 러시아의 외환보유고는 상당히 소진되었 다. 러시아 정부는 루블화 가치유지를 위한 환율방어 및 외화유출방지에 1997년 4/4분기 동안 70 억 달러 이상의 외화보유고를 사용하였다. 러시아 정부의 이러한 환율방어정책과 함께 외환위기 상황을 타개하기 위해, 중앙은행은 재할인율을 21% 에서 28% 로 인상하였으며, 연간 환율변 동폭을 15% 로 확대하였다. 또한 IMF 등으로부터 17억 달러의 차관도 조 달하였다. 그 결과, 루블화 환율은 잠시나마 안정되는 모습을 보였다. 12) 1998년 1월 중순부터 동남아 경제위기가 홍콩으로까지 확산될 조짐을 보이면서, 외환보유고는 바닥나고 높은 금리로 기업의 도산이 많아진 러 시아에 대해, 환율급등에 대한 우려와 함께 외자이탈 현상이 점점 더 심 화되어 갔다. 이러한 상태에서 재할인율을 150% 까지 대폭 인상하면서 러 12) 참조 서승원 외 : (1998), pp ; 권율 (1998), pp ; Lopez-Claros/ Alexashenko (1998), pp

218 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 시아 중앙은행은 금융 외환시장내의 신뢰도를 올리기 위해 노력할 뿐 아 니라, IMF 등은 약 250 억 달러 정도의 지원을 결정할 정도로, 러시아의 치명적인 금융위기를 방지하기 위해 국내외적인 노력이 계속되었다. 러시 아의 파국에 대해 외국도 신경을 썼던 이유는, 러시아의 위기는 과거 사 회주의체제의 종주국이었던 러시아의 자본주의체제의 유지에 대한 회의를 가져올 뿐 아니라, 이로 인해 여러 체제전환국가에 상당한 영향을 줄 가 능성이 있다고 판단했기 때문이다. 하여튼 이러한 긴급구제금융 지원결정에도 불구하고, 결과는 루블화의 평가절하 및 지불불능에 대한 우려와 함께 러시아 금융 외환상황이 더욱 악화되어 나타났으며, 외자유출 규모는 더욱 확대되었다. 그나마 천연자원 의 수출에 힘입어 조금이나마 상승하기 시작하였던 러시아 경제는, 국제 원자재가격 하락에 따른 수출부진과 이로 인한 국내기업의 경기침체로 경 상수지가 적자로 반전되는 상황이 전개되었다. 몇 개 대기업의 상품수출 과 원자재의 수출로 경기회복이 간신히 이루어지고 있던 러시아에 있어 서, 원자재 가격의 하락은 외환보유고를 급격히 떨어뜨리는 결정적인 원 인이 되었던 것이다. 왜냐하면 단기성 외국자금과 단기국채의 상환은 계 속되는데, 외국 및 국내로부터 재정 및 중앙은행에로의 유입은 거의 없기 때문이다. 이 상태에서 러시아 의회는 러시아 정부의 각종 위기극복 프로그램에 대해 승인을 거부한데다, 소로스 퀀텀펀드 회장도 루블화 평가절하에 대 해 의사 표명을 하자, 러시아에서의 외자유출은 급격히 가속화되었다. 이 와 같이 평가절하율과 인프레이션 등으로 인하여 발생하는 은행위기와 물 가상승률과 환율상승률 등으로 인해 발생하는 통화위기가 발생하자, 러시 아는 급기야 1998년 8월 러시아 거주자 법인이 180일 이상 기한으로 외국 으로부터 빌린 금융차관 등에 대해, 90일간 채무 지불유예를 하는 부분적 인 모라토리엄을 선언하기에 이르렀다. 13) 13) 참조: 강선구 (1998), pp 12-35; 대우경제연구소 (1998), pp 20-45; 안드리아노프(1999), ; Volkov (1998), pp 1-19; 정여천 / 김석환 (2004), 48-63, 배영목 (2005),

219 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 2. 모라토리엄선언 이후의 외환정책 모라토리엄 선언 이후 러시아는 외환위기를 극복하고 자본주의적 시장 경제체제에 적극적으로 대응하는 외환정책을 쓴다. 러시아는 1998년 1월 달러화에 대한 루블화의 변동폭을 상하 15% 로 하는 신변동환율제도를 도 입함과 동시에, 외환위기에서 탈출하기 위해 의무매각비율을 75% 로 높임 으로써 외환통제를 강도 높게 실시하였다. 또한 외국인 기업이 송금하기 위해서는 보유한 루블화 자금을 러시아 외환시장에서 환전해야 했는데, 그러함으로써 송금하는 데에 4-6 개월이 소요되게끔 하여, 실제로 외화송 금을 상당히 제한하였던 것이다. 그러나, 실제로는 대부분의 외국인 기업 들은 오히려 이를 피해 제3국에 있는 러시아 은행지점이나 외국계 은행의 계좌를 이용하게 되는 양상을 보였다. 러시아정부는 러시아내 저축증대를 유도하고 지하경제 자금의 제도권 유입을 통해 산업발전을 유도하고자, 1998년 1월 1천 루블 짜리 구화폐를 1 루블 짜리 신화폐로 교환하겠다는 화폐개혁을 발표하였다. 이러한 일련의 개혁은 세 가지 의미를 가지는데, 첫째는 모라토리엄 이 후에는 외환통제를 실시하여 국가경제를 안정화시키겠다는 의미를 가지 며, 둘째는 루블화 안정화 조치를 통해 대외교역과 해외 금융시장에 적극 적으로 대처하자는 의미를 가지며, 셋째는 인플레이션을 억제하자는 의미 를 가진다. 14) 이뿐 아니라 러시아는 모라토리엄 선언 이후 외환위기 극복을 위해 IMF 와 구제금융 지원조건을 놓고 오랜 기간 줄다리기를 하였는데, 비록 만족할 만한 결과를 얻어내지는 못하였지만, 1998년 4월에 IMF는 향후 18개월 동안에 러시아에 44억7 천만달러를 지원할 것이라고 발표했다. IMF 는 이 같은 지원자금 결정과 함께, 러시아 경제가 1998년 7월에 저점 을 통과했으며, 재정 및 금융분야의 개혁을 착실히 단행하면 그 회복속도 가 더욱 빨라질 것이라고 밝혔다. 그러나, 이 같은 구제조치 발표이후에도 러시아의 경제가 뚜렷한 회복조짐을 보이지 못하였는데, 그 가장 큰 이유 는 러시아의 외채가 총 할 이자가 매월 2,100억 달러에 달하고 매달 서방선진국에 갚아야 3 억 달러안팎에 달했기 때문이다. 14) 참조 매일경제신문 년 월 일자 이창재 외 한국무역협회 :, ; (1998), pp 18-28; (1999), pp

220 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 이렇게 되자 1998년 8월에 러시아는 루블화의 가치를 5배정도 하락시켰 는데, 이러한 특단의 조치가 취해지자 경기가 회복되기 시작하였다. 즉, 신변동환율제의 효력과 수출소득의 75% 를 외환시장에서 반드시 매각토록 유도하는 외환통제정책의 효력 및 화폐개혁의 효력이 어는 정도 작용하고 있는 가운데, 8월에 루블화 평가절하를 실시하자 이로 인한 수출신장에 힘입어 99 년부터 무역수지가 커다란 흑자를 기록하게 되었던 것이다. 물 론 러시아 국가통계위원회는 1999년 1-3월 중 러시아 경제성장률은 마이 너스 4% 를 기록하였다고 밝혀, 러시아의 경제가 모라토리엄의 수렁에서 벗어나지 못하고 있음을 보여주었으나, 1999년 하반기에 들어서면서 러시 아 경제가 기회회생의 길로 들어서고 있음을 나타내는 징조를 여러 곳에 서 찾을 수 있었다. 막중한 외채부담에도 불구하고, 이러한 여러 조치의 효과가 1999 년 하반기부터 나타나 경제를 회복시키기 시작했는데, 그 근 본적인 이유는 모라토리엄 이후의 여러 조치를 이행함으로써 외환공급을 확대하는 하는 동시에 수요감소책을 유지하고 있어, 외환수급에는 문제가 없을 것으로 평가되었던 것이다. 또한 러시아는 1999년 4월에 GSP( 일반 특혜관세) 수혜방식을 네거티브 방식에서 포지티브 방식으로 전환하여 수 혜대상 품목을 대폭 축소하는 등의 효율성진작을 위한 노력을 하였는데, 이러한 조치도 경제회복의 원인이 되었다. 15) 는 경제회복의 현상으로는 먼저 1999년 말 외채는 GDP의 94.4% 에 달하 1,743억 달러로까지 줄어들 정도로 호전상태를 보이기 시작한 점을 들 수 있다. 게다가 계속적인 유가상승 및 석유제품의 수출에 힘입어, 1998년 에 실질 GDP의 증가율이 -4.6% 이던 것이, 1999년에는 3.2% 를 나타내었 다. 1998년에 -5.2% 이던 공업생산증가율은 1999년에는 8.1% 가 되었으며, 1998년에 84.4% 이던 소비자물가상승률은 1999년에는 36.5% 가 되었다. 이 를 볼 때에도, 러시아 경제는 상당한 회복세를 보이고 있다고 평가할 수 있다. 이러한 가운데, 채권국회의인 파리클럽은 이미 99년 8월초 년 만기도래 분 81억 달러 중 6.2억 달러를 제외한 나머지 부분의 만기를 20 년간 연장해 준 바 있으며, 2000년 2월에는 320억 달러의 구소련 민간채 15) 참조: 한국수출보험공사 (2000), pp 5-9; 대한무역투자진흥공사 (2000), pp

221 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 권을 소유하고 있는 런던클럽이 원금의 3분의 1수준인 116억을 탕감하고 나머지는 7 년간 상환을 유예하면서 장기국채로 전환하기로 합의하였다. 이러한 경제회복세와는 다르게 러시아의 정치는 금융개혁의 발목을 잡 는 요인으로 작용하여 한 때 혼미를 거듭했었다. 즉, 한때 옐친 대통령이 프리마코프 총리를 해임한데 이어 하원에서 옐친 대통령의 탄핵안을 심의 하여 정치적 혼란까지 극에 달한 적도 있었으며, 이러한 정치적 혼란을 이유로 세계은행은 러시아에 대한 자금지원을 보류하는 사태가 벌어지기 도 했었다. 그러나 러시아정부가 10년 내 GDP를 2배로 늘리겠다면서 신 경제 수립에 박차를 가하고 러시아 중앙은행 또한 루블화 안정화 정책에 모든 힘을 경주하고 있는 것이 인정되고, 99년도 경제성장률과 산업생산 이 각각 3.2% 와 8.1% 가 늘어난 데 이어 2000년에는 각각 4.5% 와 6.5% 에 달할 가능성이 높은 것으로 전망되자, 1999년 하반기에 들어서부터 정치 상황이 크게 개선되어 정치적 혼란은 일단 소강상태에 접어들기 시작하였 던 것이다. 그리고 러시아의 외환보유고는 99년 말 125억 달러를 저점으로 감소세 가 멈추었으며 2000년 3월에는 137 억 달러, 6월에는 196억 달러를 각각 기록하는 등 급격한 증가세로 돌아서기 시작하였다. 특히 2000년 1/4분기 에 경상수지 흑자규모가 101 억 달러를 기록한데 힘입어, 2000년도 총 흑 자규모는 260 억 달러에 달할 것으로 기대된다. 루블화 가치는 1999년 들 어 안정세를 보이기 시작한 이래로 커다란 변동이 없는 실정이다. 루블화 가치가 1999년 3월에는 달러 당 25 루블, 99년 12월에는 27 루블, 2000년 2 월에는 29 루블, 2000년 6월에는 달러 당 28루블을 기록하여 변화의 폭이 크지 않은 상태다. 당분간 루블화는 외환보유고 증가와 중앙은행의 루블 화 안정화 정책에 기인하여, 30 루블은 넘지 않을 것으로 예상된다. 16) 이와 같이 러시아 정부는 외환위기 극복을 위해 여러 개혁조치를 취하 였는데에도 불구하고, 금융기관 개혁은 제대로 이루어지지 아니하고 있다. 1999년 현재 러시아내 영업중인 1473개 은행 중 70% 에 달하는 1000여 개 는 재정적으로 안정되어 있어 문제가 없으나, 나머지 30% 인 441개 은행 은 유동성으로 심각한 자금난을 겪고 있는 실정이다. 이중 200여 은행은 16) 참조: 한국수출보험공사 (2000), pp 5-9; 이창재 외(1998), pp 44-80; 정여천 (2000), pp

222 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 채무상환 유예선언 이후 예금인출사태까지 겹쳐, 폐쇄가 불가피한 상황이 다. 또한 매년 러시아에서 해외로 유출되는 자본이 250억 달러에 달하는 것도, 금융개혁의 걸림돌로 작용하고 있다. 모라토리엄 이후 러시아 정부는 은행의 구조조정을 전담하는 은행구조 조정청을 설립하여 부실은행 관리와 자금지원을 담당하고 있는데, 지원자 금이 크게 부족하여 비관적인 전망이 나돌고 있다. 다만 상업은행들은 명 목상 재무상태가 개선되고 있는 것으로 나타났다. 중앙은행에 따르면 2000년 4월 1일 현재 러시아은행의 총자산은 14.5% 가 증가하여 18억1600 만 루블을 기록중이며, 이중 루블화자산과 외화표시 자산은 각각 16.9% 와 6.3% 가 증가하였다. 2000년 들어 옐친의 돈독한 신임 하에 등장한 블라디미르 푸틴 정권에 서의 외환정책은, 옐친의 외환정책을 그대로 받아서 실시한다고 해도 과 언이 아니다. 외환위기의 극복이라는 과제를 떠맡은 푸틴이 정권을 잡으 면서, 높은 배럴 당 30달러를 웃도는 유가와 루블화의 가치하락으로 인한 상품경쟁력 제고로 인해, 2000년 1-4월 중 산업생산량은 전년 같은 기간 보다 10% 정도 증가하고 있다. 또한 체제전환 이후에도 상당히 존재하였 던 물물교환방식은, 화폐를 매개로 한 교역으로 변하면서 무역의 효율성 도 증대되고 있는 실정이다. 특히 푸틴 정부는 금융분야의 구조조정에 박 차를 가하면서 경제활동의 규제철폐, 조세개혁, 자본유출 방지에 힘쓰고 있을 뿐 아니라, 년 중 WTO가입협상을 완료할 계획이어서 귀 추가 주목된다. 이를 볼 때, 풍부한 자원과 높은 수준의 기초과학 및 상당 한 잠재수요를 가진 러시아는, 안정된 외환상황과 함께 빠른 속도의 경제 발전이 이루어질 것으로 기대된다. 그러한 노력의 결과 러시아는 2002 년, 2003년 및 2004년의 환율은 각각 31.8, 29.5 및 27.7( 루블/US$) 을 기록하 는 것을 볼 때, 루블화의 가치는 비교적 안정세를 유지하는 가운데 약간 씩 상승하고 있다고 볼 수 있다 년, 2003년 및 2004년의 소비자물가 상승률 또한 각각 15.1, 12.0 및 11.7% 을 기록하고 있는 것을 볼 때, 러시 아경제는 약간씩 안정을 찾아가고 있는 중이다. 17) 17) 참조: 정여천 / 김석환 (2004), ; 베치욱 (2000), 13-14; 대외경제정책연구원 (2005), 135; 정한구 (2004), 7-37; 김학기,(2003), 4-28; 윤덕룡 / 정형곤 / 남영숙 (2003),

223 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 VI. 결 론 지금까지 러시아 외환정책의 변천과정을 살펴보았다. 외환정책의 변천 과정에 대해 폐쇄적 사회주의적 계획경제체제에서의 외환정책, 사회주의 적 계획경제체제를 유지하면서도 세계시장에 대해 적극적으로 개방하는 페레스트로이카에서의 외환정책, 자본주의적 시장경제체제로의 경제체제 전환과 관련된 외환정책 및 모라토리엄과 관련한 외환정책으로 나누었는 데, 이러한 외환정책의 변천에 대한 역사적 분석은 다음과 같은 학문적 및 실무적 유용성을 가진다. 먼저 학문적으로는, 러시아 외환정책의 역사적 변천과정을 경제체제와 관련하여 4 단계로 나누어 분석하였다는 점이다. 이 논문은 경제체제와 관 련하여 외환정책의 변천과정을 4 단계로 나눈 뒤, 이에 대한 외환정책의 구체적 형태를 역사적으로 서술하였는데, 각 단계마다의 외환정책의 특징 은 아래와 같이 요약해 나타낼 수 있다. 첫 번째 단계의 자본주의적 시장경제체제와 대립하는 가운데 세계시장 경제에 대해 폐쇄된 사회주의적 계획경제체제의 외환정책은, 자본주의국 가로부터 사회주의권 내에 부족한 자원과 우수제품을 구입하고자 필요한 최소한의 외환을 관리하기 위해, 세계각국 환율에 영향을 받지 아니하는 고정환율제로 대표되는 외환정책을 실시하였던 것이다. 두 번째 단계의 페레스트로이카를 진행하는 가운데 개방된 사회주의적 계획경제체제에서 나타나는 외환정책은, 환산계수제와 의무매각제 등을 실시함으로써 세계 시장에로 개방을 적극적으로 하되 사회주의체제는 계속 유지하고 발전시 키기 위한 외환정책이라 할 수 있다. 세 번째 단계의 자본주의적 시장경 제로 경제체제를 전환한 후에의 외환정책은, 체제전환을 한 자본주의국가 로서 시장경제에 맞는 화폐개혁과 루블화의 태환성을 중시함으로써 세계 시장에 대한 완전개방을 하겠다는 과도기적 외환정책이라 할 수 있다. 네 번째 단계의 체제전환과정에서 발생된 경제위기와 관련하여 나타난 외환 정책은, 모라토리엄선언을 전후하여 서로 다른 특징을 나타내며 달라졌는 데, 모라토리엄 선언 이전 1 년간은 체제전환의 결과 바닥난 외환보유 상 태에서 세계적 외환위기의 피해를 입지 않으려고 재할인률 조정이나 IMF 지원 등의 외환위기방지를 위한 비상정책을 썼다가, 모라토리엄 선언 이 233

224 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 후에는 평가절하 등의 수출신장을 통한 경제회복을 위한 조치를 취함으로 써 외환위기를 극복하고자 하는 외환위기 극복정책을 쓰고 있다. 또한 실무적 유용성으로는 현재의 외환정책만 숙지하고 러시아에 진출 하려는 기업들에 대해 외환정책에 대한 정보를 제공함으로써, 러시아로 진출하려는 기업들에 대해 전략수립에의 기본틀을 제공한다는 점이다. 즉, 현재의 외환제도만 숙지하고 있는 러시아 진출기업에게 외환정책의 기본 틀을 제공해 줌으로써, 현재의 외환정책에도 적극적으로 대처하게 할 뿐 아니라 미래의 방향도 약간이나마 예측할 수 있도록 한다는 것이다. 즉, 현재 진출기업이 알고 있는 외환정책은 모라토리엄을 겪은 후의 외환정책 이라는 특수한 상태에 불과하고, 러시아 외환정책의 큰 틀은 아직도 사회 주의적 계획경제에서의 체제전환이라는 영향을 받을 수밖에 없는 비성숙 된 자본주의적 시장경제체제라는 점을 알려준다는 것이다. 그리하여, 이 논문은 국제기업에 대해서 러시아시장에 대한 진출전략 및 외환전략을 세 울 때, 실무적으로 상당한 유용성을 제공할 것이다. 234

225 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 참 고 문 헌 < 국내문헌 > 강선구, 러시아 모라토리엄 사태의 전개방향과 대응방안, LG 경제연구원, 권율, 동남아경제의 금융위기와 구조조정, 대외경제정책연구, 제 2권 2 호, 대외 경제정책연구원, 1998, pp 김학기, 최근 러시아 경제동향과 한 러 경제협력방향, 산업연구원, 대우경제연구소, 러시아 금융위기의 원인과 파급효과, 대우경제연구소, 대외경제정책연구원, 국제금융시장 세계지표, KIEP 세계경제, 10 월호( 통권 85 호), 대한무역투자진흥공사, CIS 시장동향 설명회, 박제훈, 소련의 대외무역 및 금융제도 개혁, 대외경제정책연구원, 박제훈, 러시아 대외경제관계의 신전개, 지역경제, 95-9, pp 박현우, 러시아 외환관리제도의 이해, 내: 러시아 진출, 어떻게 할 것인가( 편: 박현우), 산업기술정보원, pp , 배영목, 은행위기와 통화위기의 결정요인, 대외경제연구, , 제9권 1 호, 베치욱, 러시아 경제정책의 변화와 한러 경제협력 방향, 대한무역투자진흥 공사, 서승원 외, 러시아 금융외환위기의 원인과 향후 전개방향, 대외경제정책연 구, 제2권 제 2 호, 1998, pp 안드리아노프, V.D., 러시아 대외경제론 ( 역: CIS 시장연구회 ), 동명사, 알렉 노브, 소련경제사 ( 역: 김남섭), 창작과비평사, 윤덕룡/ 정형곤/ 남영숙, 체제전환국 사례를 통해본 북한의 금융개혁 시나리오, 대외경제정책연구원, 윤찬혁, 러시아 연방의 외국인 투자관련제도, 대외경제정책연구원, 윤찬혁, 러시아의 수출입제도, 대외경제정책연구원, 이상준, 공산권교역 - 그 본질과 전망, 서울, 매일경제신문사, 이성규, 러시아의 외환관리제도, 대외경제정책연구원, 이창재 외, 러시아 금융위기의 원인과 파급효과, 대외경제정책연구원, 정여천, 러시아경제의 회복추세와 푸틴 정부의 경제정책전망, 세계경제, 제3권 제 5 호, 대외경제정책연구원, pp 83-89,

226 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 정여천/ 김석환, 현대 러시아 정치 경제의 이해, 대외경제정책연구원, 정한구, 러시아와 미국: 푸틴대통령의 대국주의 -실용주의와 러시아 대외정책의 진 로, 세종연구소, 조한범, 중국과 러시아의 경제체제개혁 비교연구, 민족통일 연구원, 종합무역정보서비스, 러시아 외환관리제도, 한국무역협회, 주정옥, 소련 무역론, 협동연구원, 지역정보센터, 러시아편람, 대외경제정책연구원, 한국무역협회, 러시아국가정보, 한국무역협회, 한국수출보험공사, 컨트리파일 - 러시아, 한국수출보험공사, < 외국문헌 > Delpla, J. / Wyplosz, C., "Russia's Transition - Muddling Through", in: Russian Economic Reform at Risk (ed.: Aslund, A.), Pinter Publishers, London, pp 19-51, Bohunovsky, H., "Besondere Zahlungsformen im Ostgeschäft", in: Praxis des Osthandels (eds: Lange-Prollius, H.), Düsseldorf, Econ Verlag, pp , Brahm, H., Stagnation-Perestrojka-Krise, Berichte des Bundesinstituts für ostwissenschaftliche und internationale Studien, Nr. 68, Kӧln, Damus, R., RGW - Wirtschaftliche Zusammenarbeit in Osteuropa, Leske, Opladen, Goldberg, L. S., Foreign Exchange Markets in Russia - Understanding the Reforms, PPAA/93/1, IMF Paper on Policy and Assessment, Gӧtz-Coenenberg, R., Der sowjwtische Weg zur Marktwirtschaft von 1986, Aktuelle Analysen, Berichte des Bundesinstituts für ostwissenschaftliche und internationale Studien, Nr. 39, Kӧln, Heller, M. / Neklich, A., Geschichte der Sowjetunion, Kӧnigstein, Athen äum, Lopez-Claros, A. / Alexashenko, S. V., Fiscal Policy Issues during the Transition in Russia, IMF Occasional Paper-155, Rostowski, J., "Dilemmas of Monetary and Financial Policy in post-stabilization Russia", in: Transformation in Russia (ed: Aslund, A.), St. Martin's Press, New York, 1994, pp Sachs, J. D., "Why Russia has failed to stabilize", in: Russian 236

227 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 Economic Reform at Risk (ed.: Aslund, A.), Pinter Publishers, London, 1995, pp Seidenstecher, G., Zum Stand der Finanz- und Kreditform im Rahmen der Perestrojka, Berichte des Bundesinstituts für ostwissenschaftliche und internationale Studien, Nr. 33, Kӧln, Timmermann, H., Die sowjetische Aussenpolitik im Zeichen von neuen Denken und Handeln, Berichte des Bundesinstituts für ostwissenschaftliche und internationale Studien, Nr. 48, Kӧln, Volkov, V. R., Comparison between Russia and other Economies in Transition, Working Paper No. 58, Economic Planning Agency, Tokyo,

228 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) A historical study on the transition processes of Russian foreign exchange system Gyue-Jin Joe Professor Kwangwoon University Yong-Min Choi Professor Korea International Trade Association Abstract Russian foreign exchange system become our great interest after entering of Russian economy into the world market. Because of the open-door policy under the socialistic planned economy, the transformation of economic system and the moratorium, Russian foreign exchange system could be divided into five period. Before Perestroika under the closed socialistic planned economy Russia had the fixed exchange system mainly, but after Perestroika under the open-door socialistic planned economy had the foreign exchange system with the various conversion coefficients under the government's control. After the transformation of the economic system from the socialistic planned economy to the capitalistic market system, this system changed to the single floating exchange system without the government's control. Russia tries to enter the world capitalistic 238

229 러시아 외환정책의 변천과정에 대한 사적 고찰 market system positively with the new floating exchange rate system after the moratorium. Keywords : foreign exchange system, socialistic planned economy, capitalistic market system, Perestroika, moratorium 239

230 < 부록 > 제 14 차 해외학술탐사 및 국제학술대회 - 실크로드 (Silk Road) 탐사기 - 최 영 순 * 1) 目 次 Ⅰ. 학술탐사 개요 1. 학술탐사 목적 2. 학술탐사 지역 3. 학술탐사단 구성 4. 학술탐사 기간 5. 학술탐사 후원기관 Ⅱ 학술탐사 조사일정 I. 학술탐사 개요 1. 학술탐사 목적 한국경영사학회는 다음과 같은 목적 하에 실시했다. 2005년도 학술행사의 하나로 실크로드의 학술조사를 1) 기원전 6세기 이래 지중해와 비단의 나라로 알려진 중국을 연결하는 7000Km 가 넘는 실크로드, 비단길은 수많은 동서양의 상인이 오고간 동서 교역로였다. 이름과는 달리 사막이나 험난한 산지로 연결된 이 길을 답사 하며 당시 隊 商 이 동서양의 문명과 경제에 끼친 영향을 재조명한다. 이로써 서안을 기점으로 하는 이 동서교역로를 통해 비단뿐만 아니라 불교와 종이, 나침반 등의 동서문물이 소개되고 동서양을 가깝게 했음을 * 한양대학교 경제금융학부 강의전담교수 241

231 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 확인한다. 2) 실크로드의 중간기착지로 중앙아시아에서 가장 오래된 도시 중의 하 나인 전설적인 사마르칸트와 타슈켄트는 소련연방이 1991년 해체된 후 탄 생한 독립국가연합(CIS) 중의 하나인 우즈베키스탄의 도시들이다. 영화로 웠던 이슬람의 티무르제국과 실크로드 대상들의 후예로써 전통을 지키며 새로운 경제개혁을 추진하는 우즈베키스탄에서 도약하는 미래를 감지해본 다. 스탈린기에 강제이주하여 그곳에 살고 있는 수많은 고려인의 삶 속에 서 한민족의 끈끈한 생명력과 더불어 우리민족이 하나임을 확인해본다. 3) 광활한 대지와 무진장한 자원을 앞세워 사회주의적 시장경제로 괄목 할만한 성장을 보이고 있는 중국의 어제와 오늘을 직접 목격하여 팍스 시 니카의 가능성을 조용히 타진해보고자 한다. 과거에 안주하지 않고 시대적 흐름에 적극적으로 도전하며 변화를 꾀 하는 중앙아시아 나라들의 변화를 살펴보면서 개혁의 끈을 놓지 않고 지 속적인 경제발전과 함께 민족의 자긍심을 지켜가는 것이 세계화시기에 우 리나라가 나아갈 최선의 길임을 다시 확인하는데 그 목적을 둔다. 2. 학술탐사지역 타슈켄트 ( 우즈베키스탄 ) -> 히바 -> 사마르칸트 -> 알마티( 카자흐스탄 ) -> 우르무치 ( 중국) -> 투르판-> 돈황-> 서안 3. 학술탐사단 구성 김영래 한국경영사학회 회장님을 단장으로 하여 4. 학술탐사 기간 ~ (12 일간) 28 명의 교수님이 참여함. 5. 학술탐사 후원기관 SPC그룹-2005년도 한국경영사학회 창업대상 수상자 242

232 실크로드(Silk Road) 탐사기 Ⅱ. 학술조사 일정 1. 7 월 12 일 ( 화 ) 만남과 이별이 있는 공항. 그래서인지 공항에 오면 항상 가슴이 설레인 다. 하지만 이번 여행은 설레임보다 약간은 두려움이 더 크다. 무지에서 오는 두려움이라할까. 여행 예비모임에 갔었지만 별다른 소득이 없었다. 무지 무지 덥다는 것을 확인한 것 외에는. 전혀 가름할 수 없는 기후는 나에게 비교의 잣대가 되어줄 대상이 없기에 더 막막했다. 섭씨 48 도라, 나에게 어떤 정보도 전해주지 못하는, 그냥 수치일 뿐이다. 카이로의 여름 과 비슷하다거나 조금 더 덥다라고 했다면 이보다는 쉽게 감을 잡았을텐 데. 준비해가는 옷이 적절한 것인지, 더위를 이길 수 있는지, 무엇인가 더 더위에 대비하지 않아도 되는지 불안하기까지 했다. 망설이다 결국 면세 점에서 만일을 대비한 체력보강제로 홍삼절편을 구입하고 한결 가벼워진 마음으로 거꾸로 가는 실크로드 대장정에 올랐다. 정작 동서양의 교역로 이던 실크로드, 꿈에 그리던 사마르칸트와 돈황을 간다는 설레임은 뒤늦 게 찾아왔다. 청도의 관제탑에서 이륙허가가 내려지기 까지 이륙을 하지 못하고 15 분 정도 출발이 지연될 때, 비로소 과거로의 여행이 실감나게 다가왔다. 7시간 10분의 비행을 마치고 타슈켄트에 도착하여 트랩을 내릴 때, 문득 올려다 본 하늘에는 초승달이 짙은 어둠 속에서 우리를 맞고 있 었다. 내일은 35 도 정도가 되겠다니 얼마나 더울지 기대가 된다 월 13 일 ( 수 ) 실크로드의 중심지였던 오아시스의 도시 히바(Khiva) 를 가기 위해 다시 아침 일찍 일어나 공항으로 갔다. 비행기가 도착할 우르겐치는 호라즘주 의 州 都 이다. 한국의 2배 정도의 크기로 동서 1000km 에 달한다. 예로부터 동쪽으로는 산이, 서쪽은 사막이 경계를 이루고 있어 호라즘 제국은 침략 에서 자유로웠다고 한다. 하지만 칭기즈 칸의 사절단을 살해한 대가로 10 만 군사를 이끌고 설욕전을 펼치러 온 칭기즈 칸에게 1220 년 멸망하였다. 힘을 견제하기 위해 도시들이 자체적으로 방어하도록 한 당시의 조처가 오히려 칭기즈 칸에게 쉽게 정복당하게 했다고 한다. 칭기즈 칸의 후예는 16 세기 까지 이곳을 지배했고, 16세기부터 19세기에 다시금 히바는 재도 243

233 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 약을 했지만 1866년 러시아의 침략으로 위기에 처했다가 결국 1919년 자 유를 위한 항쟁(1916) 에도 불구하고 소련에 의해 호라즘 제국은 지도상에 서 사라졌다. 지금 이곳은 돈은 많지만 생활수준은 높지 않다고 한다. 목 화와 밀의 주생산지답게 길 양 옆에 목화밭이 끝없이 펼쳐져있다. 촘촘히 늘어선 가녀린 포플라 길이 인상적이다. 너무 일찍 도시락으로 아침을 대 신한 지라 9 시에 벌써 배가 고프다. 당나귀 수레와 아침 일찍 밭일을 하 는 아낙들이 눈에 들어온다. 아랄해의 증발과 함께 염분이 날라와 이 지 역의 사망률이 높다고 한다. 가속화되는 사막화를 막을 방도는 없을까? 유네스코의 세계문화유산으로 지정된 흙성, 히바성에 왔다. 역사적으로 훈족과 이란, 아랍들의 지배를 받았지만 1200년 경 대국으로 성장하여 세 계적으로 문화의 중심에 놓여있었음을 한 눈에 알 수 있었다. 단아한 흙 벽돌로 된 건축물이 코발트 빛 하늘과 너무도 잘 어울린다. 꼭 건축 모형 지물 사이를 걷는 느낌마저 든다. 시간을 훌쩍 뛰어 넘어 중세로 타임머 신을 타고 온 기분이다. 이곳도 모슬렘의 흔적이 많이 남아있다. 유일하게 이슬람 양식으로 지은 중앙아시아 최고의 줌마 모스크(Juma Masjidi) 나 지금도 그 채색비법을 알 수 없다는 아라베스크 문양이 그려진 푸른색 도 자기 타일 등 감탄사가 절로 난다. 더위를 피하기 위한 이슬람식 정자도 특이하다. 당시의 브하라 제국과 경쟁하며 전 세계에서 제일 높은 미나렛 을 건설하려다 만 26m 의 아름다운 미나렛이 히바성의 상징인 듯 하다. 대상들에게 빛을 발하는 등대구실을 하던 당시의 미나렛이 중단된 이유야 많겠지만 높은 망대가 무의식적으로라도 사생활을 침범하지 않을까하는 우려에서 그랬단다. 히바성 안에서 점심식사를 했다. 무지하게 더웠지만 맛난 과일과 건포도, 땅콩 등으로 입이 즐거웠다. 사과와 복숭아는 자라다 만 것처럼 작지만 단맛이 난다. 우리와는 달리 과일이 후식이 아니라 전 식으로 나왔다. 감자와 고기덩이가 들어간 스프, 만두도 입맛에 맞아 히바 성의 즐거움을 더해 주었다. 목공예와 실크카펫 작업장을 둘러보았다. 실 크 카펫을 짜는 여인들의 손놀림이 예사롭지 않다. 쨍쨍 내리쬐는 햇살을 마다 않고 온통 흙으로 된 중세의 성안을 헤매고 다녔다. 우르겐치에서 타쉬켄트까지의 1시간 20분 간 비행은 만년설에 덮인 산 과 사막, 초원 등 다양한 볼거리를 제공했다. 거의 1시간 이상 사막 위를 날았다. 그 중간에 소금이 하얗게 드러나 있는 호수(?) 또한 인상적이다. 비행 중 기체결함(?) 으로 냉방이 아닌 난방이 40분 정도 지속되어 비명도 못 지르고 서서히 쪄죽는 줄 알았다는 항변은 더위에 대한 인내력 부족이 라고만 할 수 없을 듯. 가뜩이나 40도를 윗도는 더위에 하루 종일 시달린 244

234 실크로드(Silk Road) 탐사기 터라 사우나 비행은 엽기순위 1 위. 그 와중에 곤한 잠에 빠져 연옥체험을 하지 못한 사람도 더러 있다고 하니 이 또한 엽기라 할 밖에. 현지 가이드 안바르(Anvar) 는 이곳 학생 모두가 입학하고 싶어 하는 세 계정치경제대학에 재학 중인 영재인 듯하다. 인터넷을 통해 2년 정도 한 국말을 배웠다는데 놀라울 정도다. 언어감각이 뛰어난가보다. 가끔은 혀를 내들를 정도의 농담도 한다. 우즈벡 민족이 있는 곳이란 뜻의 우즈베키스 탄은 1924 년 스탈린 때 생겨났다. 구소련연방에 속했던 5 나라들 중 가장 강력한 정부를 갖고 있지만 경제력은 4 위란다. 면화와 석유, 금이 많이 나 지만 농산물을 제외하고는 거의 모두 수입에 의존한다. 중앙아시아에 거 주하는 40 만 고려인 중 이곳에 절반 이상이 살고 있다. 이곳은 아직 사회 주의 국가의 구습이 남아서 인지 거주지 이탈시 거주허가를 받아야 한단 다. 우즈벡의 국기에는 깨끗과 착함( 희망, 기대, 행복) 을 상징하는 흰색, 활발함과 역동성을 말해주는 피의 붉은 색, 이슬람의 색으로 평화를 기원 하는 녹색이 함께 어우러져 있다. 소련연방에서 벗어난 이후 티무르의 후 예로서 새로운 도약을 다지고 있는 우즈벡의 모든 바람이 담겨있는 듯하 다 월 14 일 ( 목 ) 드디어 사마르칸트로 간다. 타쉬켄트에서 5시간 30분이나 걸리는 먼 길 이지만 결코 멀다고 느껴지지 않는다. 낙타가 아닌 버스로라도 실크로드 를 체험할 수 있다는 사실에 고무되어 6 시( 기상), 7 시( 식사), 8 시( 출발) 의 주문에 흔쾌히 따랐다. 1박할 준비를 하고 떠날 차비를 하는데 오늘도 역 시 덥겠다고 한다. 목화밭도 지나고 러시아까지 연결된 가스관도 보인다. 버스에서 안바르의 우즈벡에 관한 설명이 이어진다. 너무 큰 소리로 설명 을 하니 듣는 사람도 좀 힘들고 말하는 본인도 힘들어한다. 목에 무리가 온 것 같다. 우리의 직업이 직업이니 만큼 교육에 대한 질문이 이어졌다. 99.9% 가 교육의 혜택을 받는 우즈벡에서는 남녀의 차이 없이 7세에 초등 학교에 입학하여 11 년간 교육을 받은 후, 3과목으로 입학시험을 봐서 대 학에 진학한다. 소위 말하는 내신성적과는 무관한 대학입학제도인 셈. 최 상위 20% 에는 국가가 장학금을 지급하며 매년 12만 명 이상을 배출하는 대학은 고급실직자를 양산하고 있단다. 고학력 실업은 어제 오늘일도 아 니고 어느 한 지역의 문제가 아닌 듯 세계화되고 있는 추세이다. 이곳의 245

235 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 젊은이들은 임시방편으로 대학원 진학이나 유학을 결행한다고 한다. 이곳 역시 영어에 관심이 높은 편이다. 비가 오지 않아서 만년설이 녹은 물이 닿는 높은 산에만 나무가 있다. 점심때 쯤 들른 휴게실에서 나이 지긋한 분들의 유쾌한 친구모임에 동참 하게 되었다. 입 안 가득 금니를 물고 있는 이곳 사람들의 넘쳐나는 인간 미를 경험한 소중한 시간이다. 상위에 넘쳐나는 빵과 과일, 음식, 그리고 웃음과 행복이 이들과 함께한다. 누군가와 식사를 한다는 것은 영혼을 함 께 나눈다 는 말의 의미를 알고 실천하는 사람들이다. 예고 없이 들인 닥 친 무례한(?) 나그네로 우리는 그들의 식탁에 기꺼이 초대되어 짧지만 풍 족함과 여유, 나그네를 맞는 주인의 기쁨 등을 맛보았다. 여흥을 즐기며 사는 행복한 사람들. 푸른 도시 사마르칸트에 왔다. 51만의 인구가 살고 있는 이 도시를 2001 년 유네스코는 세계문화유산 도시로 지정했다. 사마 르칸트는 1220년에 칭기즈 칸에 의해 철저히 파괴되고 나서 거의 200여년 간 폐허로 남았다. 아무르 티무르가 나타나 몽골의 지배를 종료했다하니 이곳 사람들이 티무르를 영웅으로 받들만하다. 티무르의 도시답게 곳곳에 그의 흔적을 볼 수 있다. 금강산도 식후경이라고 노천카페처럼 생긴 식당 에서 늦은 점심을 먹다. 양고기고치가 드디어 이슬람지역에 왔음을 말해 주는 듯하다. 사마르칸트의 빵이라는 폭신하고 둥근 빵도 있다. 여기서 폭 신한 빵을 강조하는 것은 그 이후로 갓 구운듯한 부드러운 빵을 먹을 기 회가 없었기 때문이다. 현지의 별미를 알아보는 혀끝의 미각이 신통하기 만 하다. 오늘 소고기고치는 별 인기가 없다. 제일 먼저 장손자를 위해 1398년 티무르가 건축했다는 구르에미르 영묘 에 가다. 티무르가 유난히 좋아했다는 코발트색 아라베스크 문양이 눈길 을 사로잡는다. 이 코발트색은 사마르칸트의 상징이다. 14세기 이슬람지역 에서 채색기술자를 영입하여 이 신비로운 색을 얻었지만, 현재는 이와 똑 같은 색의 도자기 타일을 만들 수 없단다. 영묘에 들어가기 앞서 마당 여 기저기 놓여있는 유물들이 보인다. 1342년 이란원정시 발부상을 입어 절 름발이간 된 티무르가 옥좌에 앉기 위해 손을 짚고 올라갔다는 구멍이 있 는 옥좌며 전쟁에 나가는 병사의 수를 헤아리기 위해 고안했다는 엄청난 크기의 물 담는 돌그릇 등 당시의 아이디어를 읽어볼 수 있어 재미있었 다. 가장 존경하는 스승의 발치에 묻히기를 원한 티무르를 중심으로 아들 과 손자들이 잠들고 있다. 티무르에 대한 관심은 죽어서도 시들지 않았나 보다. 티무르 관을 열면 불행이 따른다는 전설 아닌 전설을 저버리고 1941년 소련이 티무르 관을 열려고 했던 바로 그날 소련은 독일에게 침공 246

236 실크로드(Silk Road) 탐사기 당했다고 한다. 그래도 나중에 관을 상트 페터스부르크로 옮겨가 검사를 했단다. 다시 걸음을 재촉하여 당시 세계 제 1의 모스크이던 비비하님 모스크로 가다. 둥근 코발트 색 돔이 인상적이다. 비록 지금은 폐허가 되었지만 그 당시 얼마나 아름다웠을지 상상하는 것만으로도 즐겁다. 1399년에서 1404 년 사이에 1만 명이 투입되어 건설했다는 모스크는 시원한 그늘을 만들어 주는 아름드리나무가 세월을 말하고 있다. 지금도 여전히 쪽빛을 발하며 아름다움을 과시하고 있는 돔 위에 듬성듬성 자란 잡풀 또한 세월의 무상 함과 권력의 덧없음을 말해주는 듯하다. 비비하님 모스크 바로 옆에 있는 바자르(Siyob Bozozi) 에 가다. 향료와 건과일, 쌀, 꿀 등이 쌓여있다. 어느 나라든 시장에는 살아가는 사람들의 모습이 담겨있다. 엄마와 아들이, 아 버지와 아들이 함께 가게 안에서 사람들을 부르고 있다. 어느 이슬람 국 가에서와 마찬가지로 어린 여자 아이들 모습은 찾아볼 수 없다. 실크로드, 아니 여기서는 great 를 붙여 大 실크로드라고 한다. 따라서 이곳 바자르의 상인들도 大 실크로드의 중심이었던 사마르칸트의 후예답게 사마르칸트를 찾아온 손님에게 참 친절하다. 활짝 웃으며 함께 포즈도 취하고 사진을 찍을라치면 진열대 아래 있는 물건까지 꺼내놓는 성의도 보인다. 레기스탄 광장에서 다시 사마르칸트의 옛 영화를 느끼다. 티무르의 손 자인 울르그벡이 세운 메드레세( 신학교) 에서 지금은 관광상품을 파는 가 게로 변모한 교실이나 선생님 방을 둘러보았다. 유럽에서는 16세기에 이 미 울르그벡의 천문학이 알려졌지만 막상 사마르칸트에서는 1906년에야 알려졌다고 한다. 그의 아들이 아버지를 죽인 후 그의 책을 모두 불태웠 기 때문이란다. 8월 24 일 열리는 음악회 준비로 광장은 분주하다. 음악회 까지 넘보면 과한 욕심이라고 하겠지. 우즈벡의 지폐는 한국에서 발행한 다는데 몇 슘짜리 지폐인지는 기억에 없지만 그 지폐에서 본 호랑이가 여 기 레기스탄 광장의 건물에 그려져 있다. 힘의 상징이 호랑이란다. 알고 보니 이곳에서는 왕이나 예전에 모슬렘이 타종교인을 노예로 거래하던 노예시장에도 갔다. 이외에는 5살 이상 되는 남자의 출입을 금지한 하렘은 여성들의 거처인 만큼 아기자기하다. ㅁ 형 정원의 절반이 항상 그늘이 지게 수입산 고급 나무로 가꾼 정원이 있었다고 한다. 이곳도 지구온난화는 비켜갈 수 없나 보다. 겨울에는 두 손으로 꼽을 정도로 밖에 눈이 오지 않는다. 그것도 사 막에는 한 두 번이 고작이란다. 끝으로 회교인만 묻힐 수 있는 가장 오래 된(1600 년) 샤하진다 영묘(Complex Shakhi Zinda) 를 걷다. 훌륭하거나 유 왕 247

237 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 명한 사람들 옆에 잠들면 잘못한 것을 속죄 받는다고 여긴 사람들이 유명 한 사람들이 잠든 이곳에 하나 둘 묻히면서 이슬람 세계에서 3번째로 성 스러운 장소가 되었다. 모든 신자에게 천국으로 가는 문이 열려있다 라 는 15세기에 쓰여진 문구는 이들 삶에 차지하고 있는 종교의 무게를 잘 가름 하게 한다. 영묘를 끝으로 사마르칸트의 유적과 작별을 고하고 이들 삶의 단면을 볼 수 있다는 어느 가정으로 저녁을 먹으러 갔다. 예상문제 적중이라는 말을 이때 쓰는가. 늦은 점심 뒤에는 꼭 이른 저녁이 나오기 마련. 그것도 맛나고 푸짐한 저녁상이 분위기 나는 하얀 2 층 테라스에 마련되어 있다. 포도와 복숭아, 사과 등의 과일과 피망, 양배추, 가지에 다져서 양념한 소 고기를 넣은 음식과 고로케와 유사한 만두가 나왔지만 위대하지(?) 못한 영혼은 절반 이상을 남겨야했다. 아깝게시리. 분명 출산드라에게 혼나겠 다. 이들의 음식문화는 양고기를 즐겨 먹는다는 점을 제외하고도 터어키 와 매우 유사한 듯하다. 왠지 모르지만 이곳은 이슬람교가 너무도 자연스 럽게 어울린다. 나만의 생각인가? 사마르칸트의 밤공기는 서늘하다. 이 아름다운 역사의 도시를 발로 걸 어보지 못하고 그냥 떠난다면 억울할 것 같아 혼자 무작정 호텔을 나와 몇 블록 걸어가는데 도통 낯선 도시에서 느껴지는 설레임이 없다. 책을 통해 너무도 익숙해졌나보다. 이게 바로 책벌레들의 비애다. 타슈켄트에 도착할 때 보았던 초승달은 점점 살이 붙어가고 있다 월 15 일 ( 금 ) 아쉽지만 다시 사마르칸트를 떠난다. 일요일에 6만 명 정도가 모인다는 그 유명한 바자르도, 그 어디쯤 있을 대상의 숙소도 못보고 5시간 30분 동안 버스를 타고 돌의 도시 타슈켄트로 되돌아간다. 어제까지만 해도 사 마르칸트에서 타슈켄트로 수도를 옮겨서 많은 사람 고생한다고 투덜거렸 는데, 이제는 이해가, 아니 안심이 된다. 수도로 남아있다면 옛 모습을 간 직하기가 어려울테니까. 사마르칸트의 가치를 아는 사람들에게 언제까지 나 변하지 말고 남아있기를 바라는 염원을 담고 한층 더 행복한 마음으로 버스에 올랐다. 타슈켄트에서는 국제학술 심포지엄이 오후 프로그램으로 우리를 기다린 다. 집 떠난 지가 어제인 것 같은데 대사관 옆 서울식당에서 점심으로 상 추쌈과 제육복음을 대하니 반갑다. 248

238 실크로드(Silk Road) 탐사기 실크로드 교역의 경영사적 의미에 관한 국제학술 심포지엄이 최종태( 서 울대) 교수님의 사회와 김영래 회장님의 개회사로 개최되었다. 제 1 부 이건희( 이화여대 명예교수 ) 교수님께 학술상 수여 제 2 부 사회: 홍부길( 이화여대 교수) [ 발표1] Silkroad and ItsEffect on Korean Culture - 발 표 자: 이승영, 동국대 교수) - 토 론 자: 김태명( 세명대 교수), 이재춘( 극동대 교수), 안종태( 강원대 교수) - 발표내용 : 실크로드를 이용한 동서교류 및 실크로드가 한국문화에 미친 영향을 재조명하며 21세기 인터넷시대에 동아시아 중심국가로 서 실크로드를 잘 활용하여 세계로 뻗어나가야 함을 강조함 [ 발표2] Accounting Standards and Taxation System of Kazakhstan - 발 표 자: 최종윤, 강원대 교수) - 토 론 자: 박경희( 이화여대 교수), 민승기( 성균관대학 교수), 김신( 경희대 교수) - 발표내용 : 개방경제를 도입한 카자흐스탄의 국제회계기준에 맞춘 회계 제도와 세수증대 및 공평과세를 고려한 세제정책 등의 경제개 혁이 논의됨 [ 발표3] The Status of SPC Group in Korean Business History - 발 표 자: 김성순, 단국대 교수) - 토 론 자: 반성식( 진주대 교수), 이승욱( 단국대 교수), 최단옥( 인천대 교수), 정준화( 동아방송대 교수) - 발표내용 : SPC 그룹의 발전과정 및 식생활개선과 새로운 문화, 고용창출 등 국민경제에 미친 영향을 고찰하며 식품산업으로서 끊임없는 경영혁신과 신뢰성 있는 기업문화를 구현하는 기업으로 평가함 제 3 부 특별좌담 : 중앙아시아의 경제사회환경 - 연 사 : 김운옥, 타슈켄트 동방학대학교 교수 역임) - 강연내용 : 우즈베키스탄의 역사 및 우즈베키스탄의 개혁 및 발전 방안) 249

239 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 5. 7 월 16 일 ( 토 ) 오늘도 어김없이 6, 7, 8 시스템이 적용된다. 특별히 겨울휴양지인 침간 산에 가기 때문에 따뜻한 옷을 챙겼다. 키르히스탄의 국경과 인접한 위험 지역이라 경찰차가 에스코트를 한다. 남프랑스 지역을 연상하게 하는 키 프로스가 눈에 들어온다. 리프트를 타고 올라가는데 한 무리의 사람들이 나무 밑에서 우리에게 손을 흔든다. 소풍 나온 이곳 주민인 것 같다. 정상 에 오니 만년설이 간간히 보이고 흰 색 천을 매놓아 철조망이 천조망처럼 보인다. 꼭 우리의 성황당 같다. 시원하고 맑은 공기를 감탄하고 있는데 어느새 나무 밑에서 손 흔들며 쉬고 있던 사람들이 걸어 올라와서 시끌벅 적해졌다. 땀으로 뒤범벅이 되었지만 적당히 붉어진 뺨에서 건강미가 넘 쳐난다. 오면서 꺽었음직한 야생꽃에서는 진한 향내가 난다. 이름 모를 꽃 을 든 건강미 넘치는 순박한 아낙이 다가와 함께 사진을 찍잔다. 유쾌함 과 건강미가 전도되는 순간이다. 오늘 나들이는 이들과의 만남이 있었기 에 빛난다. 잘 어울린다. 차르박 호수 색이 구름 한 점 없는 코발트색 하늘과 너무도 점심으로 침간산 레스토랑에서 치즈를 넣은 송아지구이를 먹고 좀 너무 하다 싶은 민속무용을 보았다. 노출의 강도가 심해서 18세 관람불가 판정을 내려야 할 듯. 무대 위에서 관객과 거리를 두었다면 모 를까 식사 후에 의자를 돌려놓고 앉아서 무희들과 얼굴 맞대고 보려니 아니다 싶었다. 돈 많고 무례한(?) 관광객 대접을 받은 것 같아 불편했 다. 타슈켄트로 돌아와 고려인 김병화의 이름을 딴 김병화 농장에 갔다. 여 의도의 약 8배에 달하는 콜호즈는 이제 집단농장이 아니라 협동농장으로 운영된다 한다. 일정기준( 필요로 하는 서류와 농기구 구입이 가능한 자본) 을 갖춘 사람들이 관리권을 분양받아 농장을 운영하여 일정 생산량을 국 가에 내고 나머지는 자유처분 하는 형태라고 한다. 25년에 걸쳐 권리금을 상환하는데 이를 어길 시 국가에 다시 환수해야한다고 한다. 이 농장에서 는 현재 1500 명에 달하는 고려인이 주로 밀과 목화를 생산한다. 1990년대 소련붕괴 이전까지는 여권이 없어서 농장을 떠날 수 없었지만, 지금은 젊 은이들이 도시로 떠나고 노인들과 아이들만 남아있다. 우즈벡 공화국의 이중사회주의로력영웅 ( 두번 영웅칭호를 받은) 김병화 선생의 동상 앞에 서 사진을 찍으며 동족의 정신적 지주역할을 하며 고려인의 긍지를 이어 간 인고의 세월을 회상해보았다. 고려인 박물관에서 일하는 나이 지긋한 250

240 실크로드(Silk Road) 탐사기 아주머니가 한 말 - 조롱조롱 앉아서 사진을 찍으라와 골이 일 안하는 놈 - 은 여행 내내 우리 일행을 즐겁게 했다. 뚝 하면 골이 일을 안 해 서리... 하면서 웃음보를 자극했다. 고려인이 경영하는 아무르 티무르 레스토랑에서 점심과 유사한 저녁을 먹다. 당근죽이 인상적이다. 어제 사마르칸트 바자르에서 본 정체불명의 노란색 무우, 바로 그 노란 당근으로 만들었단다. 이슬람국가에서 피해야 한다는 돼지고기가 나왔다. 가이드의 골이 일을 안했는지 점심때와 비슷 한 민속공연을 또 관람했다. 물론 점심에 식당에서 서비스 차원에서 제공 했을 수도 있지만 저녁 때도 유사한 프로그램에 들어 있으면 하나는 생략 했어도 좋았을 것을. 너무 불평하는 건가. 하긴 옥에 티가 없으면 가짜라 고 하지 않던가! 아무튼 악기를 연주하다 끝에 아리랑을 너무도 구성진 목소리로 부르던 음악가에게 큰 박수를 보냈다. 한국인은 어디 가나 아리 랑에는 껌벅 죽는다. 불평한 김에 하나 더 하자. 골프인구 20명 정도라는 타슈켄트에 한국인이 운영하는 골프장이 있단다. 골프관광? 예전에 한국 인이 오면 교회와 학교가 생겨난다고 했는데 이제는 골프장이 가세하는 추세인가 보다 월 17 일 ( 일요일 ) 오늘도 어김없이 6, 7, 8 시스템이다. 아침 일찍부터 타슈켄트 구경에 나서다. 며칠을 묵었건만 정작 타슈켄트는 사마르칸트의 그늘에 가려져 본 것이 없다. 제일 먼저 지진기념탑에 가다. 1966년 4월 26일 새벽 5시20 분, 이 도시를 덮친 지진으로 희생된 영혼을 위로하는 거대한 탑이다. 그 뒤로는 2천년이 된 3m 폭의 인공운하가 흐른다. 사회주의 국가의 잔상이 남아있는 인민 친선광장도 있다. 오늘의 히트상품은 얼마 전에 월드컵 예 선전이 열렸던 축구경기장에 간 것. 당시 한국대표팀은 우즈벡과 1:1 무승 부를 기록했었다. 지나가는 길에 들린다지만, 일요일이라 경기장으로 들어 갈 수 없다고 해도 꼭 보고 싶어 한다. 어찌 막을 쏜가! 하지만 우리의 열렬 애국자들을 어차피 너무 일찍 서둘러서 일요일에 열리는 바자르에 가도 별 볼일 없다지 않은가! 한 30분 정도 아침 산책으로 그리 나쁘지 않았다. 국회의사당을 둘러보고 뽕나무의 오디가 탐스럽게 열린 국가 공 인 수공예 작업장에서 수공예품을 둘러보았다. 다들 두고 온 가족들 생각 하며 기념품을 고르는데 여념이 없다. 이 또한 여행이 주는 즐거움이다. 251

241 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 1977년 만들어졌다는 지하철을 타고 타슈켄트의 대학로인 브로드웨이로 이동하다. 3 칸 남짓 되는 지하철은 일요일인데 붐빈다. 30여명이 올라타니 시선이 우리에게로 집중되는 것 같다. 아무르 티무르 역에서 하차했다. 여 기도 아무르 티무르 없이는 아무 것도 안 되나 보다. 지하철 역 이름에도 LG 상표가 선명하다. 드디어 아기 다리 고기 다리 던 꾸일륙 바자르에 갔다. 고려인이 많 다는 이 바자르에 들어서면서 없는 것 빼놓고 다 있을 것 같다는 생각이 났다. 그렇다면 화개장터? 화개장터는 아직 안 가봐서 모르겠다. 둥근 지 붕이 서 너게 연이어 서 있는 바자르. 입구에 늘어선 자동차 행렬과 사람 들, 그야말로 시끌벅적 시골장터 같다. 정차한 승용차 안에서는 거짓말 조 금 보태 열 마리 정도의 도살된 양이 적나라한 모습으로 수레에 담겨지고 있다. 입구에는 자동차( 마티스) 가 경품인 듯 전시되어 있다. 인파에 휩쓸 려 안으로 들어가는데 입구에는 사마르칸트의 둥근 빵을 가득 실은 빵수 레가 손님을 부르고 있다. 낯설고 신기한 향신료와 건과일, 꿀, 야채, 화 초, 농기구 등이 눈과 코를 즐겁게 해준다. 점심때가 되어서 그런지 한 모 퉁이에서 매콤한 연기와 함께 양고치( 샤슬릭) 익는 냄새가 후각을 자극한 다. 큰 양푼에 담긴 찐만두와 닭다리, 오이피클은 물론이고, 쳐다보면서 궁금해지는 별의별 것이 다 있다. 빈 페트병을 파는 할머니가 카메라 앞 에서 자세를 고쳐 앉는다. 비닐봉지도 판다. 이곳에도 없는 게 있다. 바로 생선! 양고기 파는 정육점은 따로 폐쇄된 큰 공간을 차지하고 있다. 그곳 도 북적인다. 우리가 들어가자 앞 다투어 함께 사진을 찍자고 한다. 디카 에 찍힌 자신의 모습을 즉석에서 확인할 때 놀라워하는 모습이란, 보는 우리도 즐겁다. 분명히 돈이 오고가고 구매자와 판매자가 흥정을 하고 있 는데도 우리에게 익숙한 자본주의 냄새가 나지 않는게 신기하다. 못 말리 는(?) 관광객의 편협한 시각이 불러온 소치이겠지만. 구경한 번 잘하고 갈 려고 입구에 나오니 귀에 익숙한 노래가 울려 퍼진다. 겨울연가 주제곡이 흐른다. 시골에서 올라와 바자르 안에 자리가 없는 아낙들이 바자르 진입 로에 앉아 찐 옥수수를 팔고 있다. 한국에서 왔다니까 장사는 뒷전이고 옆에 앉으라고 난리다. 준상과 유진 등 겨울연가의 연인들 이야기를 하고 싶어 한다. 한류열풍이라 해도 이 정도일지는 몰랐는데. 미국의 TV 시리 즈 달라스 를 보며 J. R. 과 패밀라의 일거수 일투족에 촉각을 곤두세우던 우리의 옛날이 떠올랐다. 그야말로 소박하게 유쾌한 삶을 살아가는 그곳 의 순박한 사람들이 지금도 눈에 아른거린다. 다시 점심으로 어제 점심을 먹었던 침간식당으로 갔다. 어제와 비슷한 252

242 실크로드(Silk Road) 탐사기 메뉴다. 오늘은 돈가스가 나왔다. 여행에서 누리는 즐거움 중의 하나는 평 소에 먹을 수 없는 맛나고 색다른, 때로는 신기한 음식을 접해보는 것인 데... 이번에는 겹치기 출연(?) 이 다소 예상된다만 오늘 이것으로 끝나기 를 바라는 마음 간절하다. 30 명이 움직이자면 어려움이 뒤따르겠지만, 누 군가 골을 좀 심하게 쓰면 해결할 수 있지 않을까. 아니면 골이 아닌 돈 이 해결해 줄 문제인가? 이제 인간미 물씬 풍기는 우즈벡을 떠나 카자흐 로 가기 위한 1시간 30 분 간의 짧은 비행이 기다리고 있다. 알마티(Alma-Ata). 무지무지하게 복잡하고 까다로운 입국수속을 마치 고 나온 세상은 정말 딴 세계이다. 멀리 보이는 산은 알프스처럼 아름답 다. 오로지 비행장과 산만 존재하는 자연의 세계. 하지만 곧 사진도 찍지 못하게 지키고 선 사람들을 보면서 실망감이 더해졌다. 천산산맥의 한 자 락에 자리 잡고 있는 알마티는 카자흐스탄의 옛 수도다. 그래서 그런지 보이는 풍경에 활력이 넘친다. 천산산맥의 만년설이 간간히 보인다. 시내 로 이동하는 가운데 여기서도 어김없이 LG 와 삼성의 광고를 본다. 아프 리카대륙에서도 중아시아에서도 이 두 기업의 입지가 대단함을 새삼 확인 했다. 우즈벡에서는 대우차( 특히 마티스) 가 많이 보였지만, 이곳은 유럽의 대도시에서처럼 BMW 와 아우디, 벤즈 등의 대형외제차가 거리를 달리고 있다. 카스피해 서부와 남부에서 엄청난 석유가 나와 기름값이 싸다니 (40-50Cent) 대형차가 대수인가! 오늘도 어김없이 이곳의 번화가에 있다 는 한인식당에서 김치찌개, 된장찌개로 저녁을 먹다. 10년 전 한국어교수 로 왔다가 정착한 분이 안내를 맡았다. 식당은 현지인으로 붐볐다. 한국에 대한 관심이 높다는 것을 말해주기라고 하듯. 한국과 3시간 밖에 차이가 나지 않지만 또 다른 세계에 왔다는 호기심을 누르며 잠자리에 들었다 월 18 일 ( 월 ) 가이드 김상옥과 무라트. 오늘은 7, 8, 9 시스템. 맘에 든다. 우즈벡이 비단길의 후예답게 근면한 상업민족이라면 유목민인 카자흐는 여유를 즐 기며 게으르단다. 이런 카자흐족의 성향이 당장 오늘 아침 활동시스템에 변화를 몰고 온 것이 아닐까! 남한의 27배에 해당하며 서유럽의 면적과 맞먹는 카자흐는 카스피해 석유이외에도 가스와 우라늄 등이 매장되어 있 는 지하자원의 보고이다. 스텝과 사막으로 둘러싸인 중심부와는 달리 천 산산맥의 눈 녹은 물로 녹지대를 이룬 남부에 주로 사람들이 모여 산다. 253

243 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 그래도 남쪽 끝에 위치한 알마티를 경제수도로 남겨두고 1997년 중심부인 아스타나로 수도를 이전하여 중앙아시아의 두바이로 급부상하고 있다. 성 공적인 시장경제로의 이행은 2007년 달성하기로 한 국민소득 2500$ 을 2005년 7 월로 앞당겼다. 중앙아시아에 있는 150만 고려인 중 10만여 명이 살고 있다는 이곳은 고려인 외에도 다수의 한국인의 새로운 활동처로 부 각되고 있다. 이곳 시장의 50% 이상을 점유하고 있는 삼성과 LG, 대우 등 의 가전제품 3 사 뿐만 아니라, 무늬만 이슬람인 이곳의 종교계를 평정하 기 위해 많은 선교사가 활동하고 있단다. 수도에 대학이 몰려있는 것은 우리만의 현실이 아닌가 보다. 알마티에도 35 개의 대학이 있단다. 돈이 없 어도 능력이 있으면 무상으로 대학교육을 받게 해주던 리워하는 사람이 많다고 한다. 1999년 이전을 그 천산북로에 해당하는 알마티에서 오늘 하루가 시작된다. 오전 9시에 벌 써 28 도다. 어제까지만 해도 17 년 만의 폭염(42-45) 으로 고생했다는데 다 행히 오늘은 선선할 것이라고 한다. 상쾌하게 시작한 하루. 침불락을 향해 가는 도중 해발 1000m에 있는 메데우국립공원에서 모두들 다시 한 번 더 애국자가 된다. 한국의 쇼트랙선수가 금메달을 딴 곳이니 사진이라도 찍 자고 멈추었다. 계속 달려 천산산맥에 있는 침불락에 도달했다. 해발 3163m 까지 리프트를 타고 올라갈 수 있단다. 계속 올라갈수록 날씨가 쌀 쌀해지더니 힘들여 들고 온 겨울 잠바가 제구실을 톡톡히 해낸다. 눈앞에 펼쳐지는 만년설에 덮인 산줄기와 이름 모를 앉은뱅이 야생화로 덮인 초 지가 대비를 이룬다. 금방 아래 쪽에서 안개가 올라와 산을 덮는다. 한치 앞이 안 보인다. 어디에나 있는 촛대바위가 이곳에도 없을 수가 없지. 그 높은 산 위에 우둑 솟은 촛대바위를 향해 숨을 헐떡이며 산을 올랐다. 다 시 리프트를 타고 내려가면서 걸어 올라오는 알피니스트를 보다. 어깨에 맨 배낭무게만도 만만치 않을텐데... 이 한여름에 웬 겨울옷 하면서 두꺼 운 옷을 준비하지 않은 젊은이들이 추워 떨며 올라가는 모습도 보인다. 이번 여행 내내 궁금했던 것을 무라트가 풀어줬다. 1911년 지진으로 알 마티에 있던 대상숙소( 카라반 사라이) 가 폐허가 되어 지금은 건물터만 남 아있다고 한다. 사마르칸트와 부하라 사이에 대상숙소가 있다는데 보지 못한 것이 아쉽다. 명색이 실크로드 탐사인데... 낙타의 이동거리에 따라 20, 30km 마다 있던 대상숙소 중의 한 곳도 보지 못한 것이 이상하다. 그 야말로 붕어빵에는 붕어가 없다 인가! 관광객들로 붐비는 한 식당에서 서양식 뷔페로 점심을 한 후, 박물관에 갔다. 학예관이 먼저 지도를 보면서 카자흐스탄의 지정학적인 상황을 설 254

244 실크로드(Silk Road) 탐사기 명해주었다. 잘되는 집안은 호박을 심어도 수박이 된다는 말이 있듯이 우 즈벡에 속했던 카스피해 연안 유전이 카자흐스탄으로 들어오면서 더욱 풍 요로워진 나라. 삼성이 위탁경영하던 구리광산지대도 보인다. 한 때 삼성 은 이 구리광산에서 해외수입의 40% 정도를 벌어들였다고 한다. 이슬람교 가 전파되기 이전 토테미즘과 탱그리즘( 하늘과 땅를 신봉) 이 이들의 정신 세계를 지배했다고 한다. 그래서 그런가 이곳의 화폐단위가 탱게르이다. 카자흐인은 박물관에 그들의 살아있는 과거의 모습, 실크로드와 유목민의 세계를 자랑스럽게 진열해 놓았다. 카자흐 민족이 거주하는 유르다는 평 등한 이들의 유목문화를 말해준다. 왕의 거처를 흰색 유르다로 구별하는 것 이외는 거의 모든 유르다가 차별이 없단다. 40일 이상 한 곳에 거주하 지 않는 이주문화가 만들어낸 지혜의 소산이리라. 몽골사람이나 마사이족 은 산이 없어 수평이동을 하지만 카자흐족은 여름에는 산을 오르고, 겨울 이면 하산을 하는 수직이동을 한다는 사실 또한 새롭다. 유목국가인 만큼 예로부터 이곳의 말은 유명했다. 5세기 경 부터 중국상인들이 이곳 사람 들이 좋아하는 은과 보석을 가지고와 말을 사갔다고 한다. 천산산맥의 만 년설이 있음으로 해서 사마르칸트 등의 오아시스 도시가 존재할 수 있고 실크로드라는 동서교역로가 생겨났다는 김상옥씨의 말을 들으며 다시금 닭이 먼전지 계란이 먼저인지 잠깐 고민이 됐다. 악기박물관에서 여유 있게 휴식을 취하며 유목민의 서사문학과 전통음 악을 감상했다. 인생을 다 살아본 듯한, 꼭 프리드리히 대제와 같은 의상 을 한 73 세의 노인이 여러 나라 말로 인생과 사랑을 노래했다. 시를 쓰고 작곡을 하고 전통현악기를 연주하며 노래하는 아주 유쾌한 음악가이다. 어떤 선생님의 말마따나 카자흐스탄의 조영남 이라고 할까. 박수와 환호 가 이어지는 가운데 이 할아버지가 갑자기 외투 속에 손을 넣더니 카세트 하나를 꺼내 든다. 자신의 작품과 노래가 담긴 이 카세트를 사주면 감사 하겠다는 멘트와 함께. 노장의 음악가가 거리의 악사로 변신하는 순간을 그 누구도 예상치 못했으리. 악기박물관을 뒤로 하고 독일군을 저지한 28명의 용사들을 기리는 판필 로바 28 인 공원으로 걸어갔다. 꺼지지 않는 광장의 불꽃이 한낮의 더위를 더해준다. 더위에 대한 막연한 두려움이 가셔져 가는 이때 선선했던 오전 과는 달리 오후의 날씨가 매우 무더웠다는 인상을 지을 수 없다. 처음으 로 옷에 땀이 찬 날이었으니까. 습도가 거의 없던 우즈벡의 더위는 즐길 만했다고 말한다면, 아니라고 아우성칠 사람보다는 찬동하는 사람이 더 많을 듯하다. 이 공원은 한마디로 상당히 정치색 짙은 광장이다. 결혼식에 255

245 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 앞서 신랑신부가 꼭 찾아서 참배한다는 가이드의 말이 없더라도. 1917년 부터 1920년까지 사회주의 혁명을 완수하기 위해 치렀던 중앙아시아 내전 에 관한 기념물도 있다. 공원 끝자락에 있는 그리스정교회를 보는 것으로 실크로드 탐사에 생뚱맞게 들어있다고 생각했던 알마티의 일정이 끝났다. 엿장수 맘처럼 이곳 항공사의 비행스케줄은 시도 때도 없이 변하여 여 행사 사장님과 김영래 회장님을 이 여행 내내 마음 졸이게 했다는 비행기 출발시간이 2시간 정도 앞당겨져 저녁을 도시락으로 공항에서 해결해야 했다. 공항로비에서 30 여 명이 줄줄이 앉아 도시락을 펼치는 상황, 그 냄 새! 어디서나 민생고 해결이 문제로다. 새벽 3시경으로 예정된 취침을 앞 당길 수 있다는 반대급부가 있었으니 그나마 다행이다. 5시 30분경 공항 에 도착하여 우여곡절 끝에 짐을 부쳤다. 하지만 문제는 지금부터. 우루무 치로 출발할 시간이 다가오지만 10개의 창구 중 몇 개만 열어놓고 세월아 내월아 한다. 게다가 새치기를 아무렇지 않게 한다. 줄어들 기색 없이 밀 리고 밀리던 줄은 결국 끝이 나고 7시 15분 발 비행기는 8 시에 출발했다. 입국도 어렵고 출국도 힘들었던 알마티를 뒤로하고 중앙아시아 제일의 시장이 있는 우루무치로 떠났다. 시베리아 등지로 오고 가는 모든 물동량 의 최대집산지로 新 실크로드의 중심지란다. 비행기로 1시간 30 분( 총알택 시로는 20 시간) 거리에 있다는 신장 위구르 자치주에서의 일정이 기대된 다. 비행기 안에서 내려다보는 천산산맥이 일품이다. 그 위로 통통히 살이 오른 보름달 직전의 달이 보인다. 타슈켄트에서 본 초승달이 어느새 보름 달이 되어 가고 있다. 모든 시름 털어 버리고 하는 여행이라서 그런지 시 간이 정말 잘 간다. 알마티와 우르무치가 2시간의 시차를 보이기 때문에 현지 시간으로 11시 30 분에 도착했다. 새벽 1시경 미려화 국제호텔에 여 장을 풀었다. 가이드가 별 5 개짜리 호텔임을 강조할 때부터 수상했는데, 짐을 다 풀기도 전인 새벽 1 시 반 경 정전이 되었다. 칠흑 같은 어둠 속 에 비상등도 없다. 우리는 15층에 투숙했는데 한 참을 기다려도 불이 들 어오지 않는다. 불안한 마음에 막고굴 벽화를 보기 위해 준비해간 손전등 에 의지해서 몇몇 선생님들과 비상계단으로 내려갔다. 4-5층에서 대피중 인 다른 팀과 합세해서 로비까지 내려갔을 때 불이 들어왔다. 15분 만이 다. 아무 일도 없었으니 망정이지, 정말 아찔한 순간이었다. 아침 식사 때 중국은 다 그렇다 고 하며 아무렇지도 않게 말하는 선생님들의 안전 불감 증에 한 번 더 놀랐다. 256

246 실크로드(Silk Road) 탐사기 8. 7 월 19 일 ( 화 ) 가이드 이원우( 하얼빈 출신 조선족). 7, 8, 9 시스템이 이곳에서도 지속 되다. 우르무치(Urumqi, 몽골어로 아름다운 목장) 에서 100km 떨어진 천 산천지에 갔다. 해발 2000m에 있는 천지는 히말라야의 융기로 생겨났다 고 한다. 고비사막 - 이곳에서는 딱딱한 땅 위에 펼쳐진 스텝을 지칭하는 일반명사라고 한다 - 을 달리는데 흙 구릉이 가끔씩 나타나고 노란색이 유난히도 예쁜 해바라기가 아침부터 해바라기를 하고 있다. 광활한 사막 에 지평선이 아련하다. 고비사막과 눈 덮인 천산산맥이 햇살에 반짝이며 버스를 따라오는 듯하다. 버스 안에서 속성으로 역사공부를 하다. 신강 위 구르의 자치구는 중국 땅의 1/6을 차지하고 한국의 16 배에 달한다. 신강 의 강 을 한자로 풀이하며 이곳의 지리적 입지가 확연해진다. 彊 을 풀이해 보자. 활궁변에 흙 토가 빠져있지만. 제일 위의 한일 자는 알타이산맥, 밭 전은 중가리아 분지, 다음 한일 자는 천산산맥, 다음 밭 전은 타림분지와 타클라마칸 사막, 맨 밑의 한일 자는 곤륜산맥을 뜻한다고 한다. 그러고 보면 신강 위구르 자치구는 이름만 들어도 무시무시한 여러 개의 산맥과 분지, 사막에 둘러싸여 있다. 47개의 소수민족이 어울려 2200만 인구를 이 루는 이곳에 45% 정도가 위구르족이다. 수염을 기르고 눈이 푹 들어간 것이 위구르족의 특징이란다. 이와는 달리 카자흐족은 긴 장화를 신고 직 사각형의 모자를 쓴다. 모슬렘인 위구르족은 양고기와 소고기, 야채를 주 로 섭취하여 장수하는 민족으로 유명하다. 보지 않은 것은 먹지 않는다는 이곳 사람들의 습관에서 해물을 먹지 않는다고 한다. 신장에서 가장 가까 운 바닷가는 5000km 떨어져 있단다. 역시 중국이다! 자치구 소재지인 우 르무치의 인구는 200 만이다. 2시간 정도를 달려 도착한 천산천지는 이들이 즐겨 찾는 관광지인가보 다. 알록달록한 케이블카를 타고 중간까지 가서 다시 놀이동산의 코끼리 열차 같은 구간차를 타고 천지에 도달했다. 엄청난 중국 사람들 틈에서 천지라고 쓰여진 돌비석을 차지하고 사진을 찍기란 너무도 힘든 일이었 다. 유람선을 타고 천지를 한 번 돌았다. 천지 안 산비탈에 있는 도교사찰 에 참배하러 온 사람들이 내리고 난 배안에는 우리 팀만 남았다. 천산산 맥의 만년설과 눈 녹은 물이 만든 침엽수림의 푸르름이 쾌적한 날씨와 함 께 여행의 즐거움을 배가시켰다. 천산천지 내 식당에서 점심을 먹다. 드디 어 고량주와 중국 맥주 등장이다. 여행 오기 직전에 터진 방부제 첨가된 257

247 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 중국맥주의 비리로 마시기가 좀 그랬지만 더위를 식혀주기에 알맞게 시원 했다. 양고치를 시켰는데 살점이 매우 작고, 다 식은 것이 나와서 맛을 알 수가 없었다. 냄새는 좋았다만. 이 식당에서의 하이라이트는 화장실이었 다. 이름 모를 그대들과 함께 볼일을 봐야한다! 허리정도에서 옆 칸막이 가 끝나고 문도 없다. 순간 당황. 점심 후에 멀리 보이는 천산산맥의 만년 설을 등지고 달반성목장에서 말을 타다. 연록색의 풀과 풀 뜯는 양, 말을 보며 즐거운 시간을 보내다. 말고삐를 잡은 어린 소년과 소녀의 검게 타 서 거칠어진 피부와는 달리 이들의 눈망울은 맑다. 구름 한 점 없는 하늘 과 맑은 공기, 말타기 등으로 적당히 피곤해져 버스 안에서 곤하게 녹아 떨어졌다. 가끔씩 깨서보면 여전히 이원우씨는 설명을 하고 있다. 3시간 반 정도 거리에 있는 투루판으로 가는 중이다. 중앙아시아에서 가장 큰 시장이 있다는 우루무치에 와서 시장 주변도 가보지 못한 채 그냥 가다 니. 이럴 수가! 우리 모두의 골이 일을 하지 않은 소치이다. 우주벡에서는 문 닫힌 축구경기장 밖을 서성일망정 가지 않았던가. 바깥 풍경이 심상치 않다. 잠자기에는 너무도 아까운 장관이다. 단순하 면서도 거대한 자연이 수시로 바뀐다. 바람이 드세 나무가 작은 계곡이 나오는가 하면 검은 암벽이 병풍처럼 펼쳐지고 그 앞으로 수심 낮은 냇물 이 흐른다. 물결이 제법 거칠다. 암벽 굴 안으로 사라지는 기차가 꼭 장난 감 같이 작아 보인다. 고비사막을 가로지르는 고속도로와 철길이 저 멀리 지평선과 만난다. 여전히 천산산맥이 호위하고 있다. 낙타 타고 몇 년 걸 려 지나갔을 이곳을 이렇게 편하게 가다니. 투루판에 다가왔는지 포도 말 리는 벽돌집이 곳곳에 보인다. 오아시스이며 분지인 투루판은 포도산지로 유명하다. 500 여 종의 포도를 바람으로 건조하여 건포도를 만든다. 포도송 이 모양의 가로등과 포도넝쿨이 가로수를 대신하고 있다. 발마사지를 받 으며 하루의 피곤을 풀다 월 20 일 ( 수 ) 7, 8, 9. 이 시스템이 정착되는 분위기다. 아무튼 맘에 든다. 한 낮의 더 위가 40도에 이르면 지면온도가 80도까지 올라간다는데 더위와의 싸움이 만만치 않겠다. 아주 더울 때가 49도라니 40 도에 감사를 해야할 형편. 투 루판(Turpan) 의 옛 이름이 火 州 였다는 것에서 오늘의 더위가 어느 정도 짐작이 된다. 이곳은 우르무치의 5배로 56 만 명이 살고 있다. 중국의 3대 258

248 실크로드(Silk Road) 탐사기 명물로 만리장성과 대운하( 항주), 카레즈를 꼽는데, 바로 카레즈가 투루판 에 있다. 천산에서 녹은 물이 흐르는 지하수로 땅 속의 만리장성이라고 한다. 식민정책을 편 한무제가 카레즈를 건설하여 이곳을 사막 가운데 있 는 오아시스로 만들었다. 본격적으로 한무제의 업적을 살펴보자. 한무제는 BC 138 년 장건을 보내 흉노를 제압하고 실크로드를 개척했다. 그 과정에 투루판이 한무제의 수중에 들어왔다고 한다. 기원전 4세기 경 알렉산드리 아에서 일어난 실크 붐이 중국과의 실크교역을 활성화시켰기 때문이다. 따라서 한무제는 중국과 로마를 잇는 실크로드의 남로에 해당하는 투루판 에 서역도호부( 교하고성) 와 안서도호부( 고창고성) 을 두어 관리했다. 로드를 이야기할 때 중국의 실크 4대 미녀 중의 하나라는 왕서군의 일화를 빼 놓을 수 없다. 한무제는 제일 못생긴 초상화의 궁녀를 골라 흉노의 왕에 게 시집보내 실크로드를 침략하지 않겠다는 약조를 받아냈다 한다. 이 궁 녀가 바로 날아가는 기러기도 떨어진다는 낙안落 雁 미녀 왕서군이다. 뒤 늦게 왕서군의 실물을 본 한무제가 통탄해도 소용없는 일. 이렇게 왕서군 도 실크로드의 번영에 한몫 했다. 현장법사 역시 실크로드를 거쳐간 유명인이다. 중국의 4대 발명품인 종 이, 화약, 인쇄술, 나침판도 이 길을 통해 서양에 전래되었다. 네스토리안 교와 조로아스터교, 이슬람, 불교도 이 길을 통해 전파되었다. 명대에 폐 허가 되어 잊혀져간 실크로드는 19세기에 영국과 러시아의 탐사대가 카슈 카르의 유적을 발굴하면서 세상에 다시 모습을 드러냈다. 천산산맥과 흑산이 마주보고 서 있고 그 사이에 끝없이 펼쳐진 고비사 막으로 눈이 즐겁다. 불길이 치솟고 있는 한 쪽에서는 석유를 퍼내는 작 업이 한창이고 다른 한 쪽으로는 카레즈 수로가 흐른다. 지세가 높고 인 력이 창궐하여 고창국이라 했다는 고창고성을 보러 가는 중이다. 한나라 출신의 국문태가 세웠다는 국씨왕조( ) 는 고창고성에서 영화를 누 리다 당태조에 의해 멸망했다. 인도로 불경을 구하러 가는 현장법사가 6 박 7 일 동안 이곳에 머물며 부처님의 설법을 설파했다고 한다. 불교로 국 력을 통일한 국문태는 불심이 대단했다. 되돌아올 때 2년 간 머물겠다는 약조를 받고서야 현장법사를 떠나게 했는데, 정작 현장법사가 다시 왔을 때 나라는 망하고 없었다. 1383년에 이곳은 징기스칸의 아들에 의해 강압 적으로 이슬람을 받아들였다. 고창고성에 다다르니 흙으로 만든 집 앞으 로 도랑( 혹 카레즈?) 이 흐른다. 더위를 피해 밖에서 자는지 침상이 밖에 놓여있다. 왁자지껄 꼬마상인들이 왕성한 상행위를 펼치고 있다. 사마르칸 트 등지에서는 이슬람의 영향으로 여아들은 상행위를 하지 않은 반면, 이 259

249 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 곳에는 순악질여사의 눈썹 을 한 많은 여자아이들이 1:1로 물건을 팔고자 하는 집요함을 보인다. 부모와 멀리 떨어지지 말라는 뜻으로 눈썹을 하나 로 붙여 그렸단다. 나귀수레를 타고 고창국의 폐허가 된 성터로 갔다. 권력의 무상함을 말 해 무엇하리. 눈에 보이는 곳이 온통 반쯤 무너진 흙무더기이다. 너무도 푸른 쪽빛 하늘과 대비되는 누런 먼지와 황토색 폐허, 하늘 아래 완전한 것이 아무 것도 없다는 말이 실감난다. 폐허 앞에서 느끼는 처연함과 숙 연함이란! 흙으로 만든 이글로 비슷한 건물은 다행이도 제 모습을 간직하 고 있다. 더위에 지친 낙타가 꿈쩍도 하지 않고 땡볕에서 휴식을 취하고 있다. 이어서 귀족들의 공동묘지인 아스타나 고분군을 보러가다. 편히 쉬는 곳이란 뜻을 지닌 아스타나는 당대의 귀족 무덤( ) 으로 몇 개를 발 굴해서 보여준다. 입구에서 석실에 이르는 계단이 길수록 부귀영화를 누 린 고관들의 묘란다. 처음 들어간 무덤의 4 폭짜리 그림이 인상적이다. 어 려서 열심히 배워( 금인, Gold Man) 장성해서 아는 것을 베풀어( 석인, Stone Man), 가르침을 주라 라는 뜻을 지녔다고 한다. 가운데 있는 입이 붕대로 감겨있는 옥인(Jade Man) 이라는 그림은 혈기 방만한 청년기에 입 조심 할 것을 암시한다나. 계영배와 같은 기울어진 술잔과 저금통, 실타래 가 그려있는 맨 끝 그림은 교만하지 말고 너무 채우지 말며, 작은 일부터 시작하여 너무 큰 일을 기대치 말라는 교훈을 담고 있단다. 석실 안에 그 려진 이 그림은 도대체 누구를 위한 것인지 반문해본다. 아름답게 꾸민 방이 아주 많다고 해서 붙여진 천불동은 이름에 걸맞게 벽화로 장식이 되어있다. 아프가니스탄에서 수입한 주사( 빨간색) 로 색칠을 해서 벽화가 잘 보존되었다고 한다. 5세기 경 조성된 17굴에는 석가모니 좌불상과 극락세계가 그려져 있다. 이슬람교가 전래되면서 천불동 벽화의 일부를 파손했다. 27불 경우처럼 마니교 벽화 위에 불상을 덧칠하기도 했 다. 인류의 문화유산은 이렇게 종교에 의해서 조성되고, 또한 종교에 의해 서 파괴되는 악순환을 거듭하는 가운데 탐험가들에 의해 다시금 약탈당하 는 운명을 겪었다. 그 대표적인 예가 20 굴이다 년 콕(A. v. Cog) 이라 는 독일 탐험가가 모래에 덮인 벽화를 발견하고 잘라내서 낙타로 실어 날 라 베를린으로 가져갔다. 페가몬박물관이 소장했던 이 벽화는 전쟁 중에 파괴되었다고 한다. 31굴의 벽화 역시 1914 년 영국의 스타인이 가져갔다. 벽화를 훔쳐간다? 상상할 수 없는 이 일을 가능케 한 것은 흙벽에 짚을 넣은 흙을 바른 후, 낙타털과 양털을 덧입히고 광물질로 마무리를 했기 260

250 실크로드(Silk Road) 탐사기 때문이다. 그래서 아름다운 불상은 톱질로 잘려나갔고 못난이 벽화만이 남아 오늘날까지 천불동을 지키고 있다. 못난 자식이 부모 공양한다는 식 인가? 손오공이 부채로 불을 껐다는 화염산에 갔다. 온통 붉다. 이름처럼 작렬 하는 햇살이 이글이글 땅을 불태우는 듯하다. 바깥 온도계의 수은주는 48 도까지 올라갔다. 습기가 없기 때문에 건식사우나에 온 것 같다. 서유기를 그린 벽화를 보기 위해 실내로 들어오니 꼭 냉장고 안처럼 서늘하다. 에 어컨이 잘 가동된다 싶었는데 웬걸 실내온도계는 이것이 바로 상대성 원리렸다! 34 도를 가리키고 있다. 맹민화탁을 기리기 위해 그의 2째 아들인 소래만이 건설했다는 37m의 소공탑에 갔다. 강희황제는 이슬람의 최고 지도자 맹민화탁과 연합전선을 꾀하여 몽골을 격파했다. 그래서 건륭황제가 맹민화탁을 투루판의 세습왕 으로 삼았다고 한다. 이 탑은 흙탑으로 기하학적인 무늬가 새겨있다. 모스 크 옆의 2 층 건물에서는 주변의 아름다운 포도밭 풍경을 잘 볼 수 있다. 수많은 민족들이 모여 사는 이곳에서는 장례습관도 서로 다양하다. 회족 의 장례는 일일장으로 죽은 곳에서 장사를 지낸다고 한다. 이와는 달리 라마교를 믿는 몽골에서는 마차에 싣고 달리다 떨어뜨려 놓고 갔다가 나 중에 뼈만 추려 장례를 지낸다고 한다. 길가에는 투루판의 상징인 청포도 를 말리고 있다. 이곳의 건포도가 최고라니 맛을 안 보고 갈 수 없지. 그 래서 들른 포도농장에서 수박과 하미과를 먹다. 멜론과 비슷한 맛을 지닌 하미과는 황제가 붙여준 이름이 아니던가. 멜론이라 하기에는 좀 크고 수 박이라 하기에는 크기는 얼추 맞지만 색깔이나 맛이 영 다르다. 2시경 늦은 점심을 먹었지만 돈황 가는 기차를 타기 위해 5시 30분경 이른 저녁을 먹고 한 시간 정도 버스로 이동했다. 기차가 연착을 한다고 해서 3 층에 있는 대합실로 짐을 들고 가야했다. 여행용 가방을 들고 3층 까지 계단을 올라갔다. 정말 장난이 아니다. 얼마나 많은 관광객들이 이 역사를 사용할텐데 에스컬레이터가 없다니! 어쨌든 항우장사 부럽지 않을 괴력을 발휘하여 침대칸 승객 전용 대합실에 가니 이상하게도 우리 일행 외에는 아무도 없다. 남들은 연착하는 사실을 알았다는건가? 조금 있다가 눈초리가 매서운 한 청년이 달랑 컵라면이 몇 개든 봉지만 들고 와서 우 리 일행 주변에 앉아 두리번거린다. 곧 이어 또 다른 청년이 들어와서 함 께 웃으면서 부지런히 눈길을 주고받는다. 이들의 눈초리가 예사롭지 않 다. 우리의 일거수일투족을 주시하는 듯하다. 흩어져 있던 짐을 한 곳으로 모으고 우리도 경계심을 늦추지 않았다. 김태명 선생님이 이 두 청년과 261

251 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 대화를 하여 이들을 좋게 되돌려 보냈다. 멋진 퇴치작전으로 안도의 숨을 쉬는 순간, 더 기막힌 소식을 접했다. 투르판에서 야간열차를 타는데 투루 판이 아닌, 우루무치 출발시간에 맞추어서 2시간 먼저 기차역에 온 것이 다! 4인승 침대칸을 확보하기 위해 출발지인 우루무치에서 돈황까지 발권 한 것이 화근이다. 골이 일을 하지 않은 전형적인 경우! 시간을 잘 못 알 아 기차를 놓쳤다면 문제가 심각해지지만, 이 정도는 양해사항. 게다가 다 들 늦은 저녁을 위해 두둑하게 도시락을 준비하지 않았는가. 이로써 이 대합실에 우리만 덩그러니 앉아있던 이유가 밝혀졌다. 출발 30분을 전후 하여 사람들이 모여들기 시작했다. 곧 대합실은 불난 호떡집으로 변했다. 이날의 압권은 역시 투루판 역의 공중화장실이다. 이제까지 경험한 이름 모를 그대들과 함께 볼일을 은 그런대로 양호한 편이었다. 이곳의 이름 모를 그대들 앞에서 는 도저히... 다시 짐을 끌어내려 플랫홈에 섰을 때 기진맥진했지만, 앞으로 전개될 기차여행에 약간은 설레였다. 처음 타보는 침대차다. 기차역의 화장실에서 받은 충격이 워낙 컸던지라, 솔직히 말해 객실이 이렇게 정갈할 줄은 상상조차 못했다. 잠자리에 들었을 때, 찾아온 또 하나의 신선한 충격. 이럴수가. 어제까지 보름달을 향해가던 달이 드디 어 보름달이 되었다. 침대에 누워 보름달을 본다. 도도한 달빛이 광활한 대지를 달리는 기차와 벗이 되는 순간이다. 달을 혼자 두고 잘 수 없어 자다 깨다를 반복했다. 한참을 자다 깨도 여전히 계속되는 진짜 고비사막 ( 고유명사로 지도상에 나와 있다) 위에 달이 휘영청 밝다. 개인적으로 이 번 여행 중 가장 기억에 남는 순간이다. 항상 보는 달인데도 허허벌판의 대지를 달리는 기차에 누워서 보는 달이란, 감동 그 자체다. 새벽녘에 일 어나 기차복도를 지나는데 해가 막 올라오고 있다. 기차로 10시간 이상 달려왔는데도 바깥풍경은 그대로인 듯하다. 도대체 중국이 얼마나 크단 말인가! 하긴 우루무치에서 북경까지 기차로 48 시간 걸린다고 하니, 알만 하다. 돈이 없어 침대칸을 이용하지 못하는 사람들의 고충은 어찌 말하랴 월 21 일 ( 목 ) 흑룡강 출신의 가이드 노성철. 이른 시간인데도 분주한 유원역에 도착 하여 아침을 먹고 2 시간 거리에 있다는 돈황으로 출발하다. 아침부터 찌 는 것을 보니 무척 더울 것 같다. 한 낮의 예상온도 41 도. 옥문관과 양관 이 만나는 돈황. 아니지, 우리의 일정이 거꾸로 가는 실크로드이니, 돈황 262

252 실크로드(Silk Road) 탐사기 에서 서역의 진입로인 옥문관과 양관으로 갈라진다고 하는 것이 옳다. 한 무제의 흉노를 제압하기 위한 노력은 장건이 개척한 하서회랑( 간쑤성 서 부, 서안- 돈황까지 이어지는 오아시스 지대) 곳곳에 남아있는 장성( 흙담) 에 서 지금도 엿볼 수 있다. 하서회랑의 서쪽 관문인 돈황에서 불교문화가 번성했다. 기련산맥의 만년설이 녹아서 돈황은 물론 하서회랑에 물을 공 급해준다. 이때 개척한 하서회랑은 위진남북조 때 끊어져 맥을 상실했다. 고비사막 안의 오아시스, 돈황에는 지금 12 만의 인구가 살고 있다. 돈황 으로 오는 도중 휴게실에서 실크로드 여행 중 최고의 맛을 자랑하는 멜론 을 맛보다. 망설임 없이 이번 여행을 감행하게 했던 사마르칸트와 돈황. 이제 그 끝자락인 돈황, 드디어 막고굴에 왔다. 불교신자도 아니면서 막고 굴에 대한 관심은 내가 봐도 지나치다 싶었는데, 설레임이 시작된다. 사막 의 높은 곳에 있는 굴이라는 막고굴에는 엄청나게 많은 벽화와 목심부상 ( 나무조상) 이 있다. 366년부터 서역 가는 길에 안전과 부를 지켜 달라고 불상을 조성했기 때문이다. 특이한 것은 막고굴의 모든 벽화에는 비천상 이 그려져 있다. 얼마나 힘든 여정이었기에 날아가고 푼 심정을 비천상에 담았을까! 막고굴의 가이드 부계군의 한국어 안내가 재미나다. 1961년 국 보로 지정되어 보호수리에 들어간 막고굴은 1987년 중국에서 처음으로 유 네스코 세계문화유산으로 병마용, 자금성, 만리장성, 산동성 태산과 함께 지정되었다. 초당기(1300 년 전) 에 조성한 328굴에는 완벽한 석가모니의 불 상이 있다. 염화시중의 미소로 잘 알려진 가섭의 근엄한 상과 얼굴이 훤 하게 잘생긴 안회도 있다. 중 하나는 보살상의 관능미가 일품이라면서 공양보살상 미국놈 도둑놈 이 가져가 하버드대학교에 있다고 부계군이 흥 분을 감추지 못한다. 한국말을 곧잘 하는 중국인 가이드가 자신들의 문화 유산에 대하여 열정을 갖고 설명하는 것이 보기 좋다. 문화재를 가져간 영국과 프랑스, 미국, 러시아를 직접 도둑놈이라고 한다. 그것도 미국놈은 더 나쁜 도둑놈이란다. 혜초의 왕오천축국전 권과 대당서역기, 돈황 록 등이 발견된 장동경, 17 굴에 갔다. 당말기(1200 년 전) 세운 커다란 부 처님상과 봉황의 모습이 인상적인 16굴과 입구가 같아서 오랫동안 발견되 지 않았나보다. 16굴 입구 바로 곁 오른쪽 벽에 조그마한 17 굴이 있다. 그 안에는 막고굴에 남아있는 고승들 초상 중 최고라는 홍변스님의 초상이 있다. 이 굴을 1900년 발견한 왕도사는 은 30냥에 예수를 판 유다처럼 이 귀중한 문화유산을 영국에서 온 스타인(?. Stein) 과 프랑스의 펠리오(P. Pelliot) 에게 헐 값으로 넘겨주었다. 중국어를 할 줄 알던 펠리오는 스타인 보다 늦게 왔지만 왕오천축국전의 80% 에 해당하는 중요한 경전을 손에 263

253 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 넣었다 한다. 그 뒤를 이어 일본과 러시아, 미국이 막고굴을 유린하여 중 국은 영토뿐만 아니라 문화유산까지 제국주의에 희생당했다. 경전이 없어 진 후에 나타난 미국의 워너(L. Warner) 는 경전 대신 채색벽화와 불상을 가져가는 大 盜 가 되었다. 이런 상황이니 부계군의 도둑놈 이란 호칭은 그 래도 양반이다 싶다. 1400년전에 1200명이 시주하여 만든 428굴에는 부처 님 열반상이 있다. 특이하게도 시주한 1200명의 시주상이 벽화에 그려져 있다. 힌두교양식의 벽화란다. 148굴은 15m 길이의 열반하는 석가모니의 와불상이다. 그 주위를 70명의 제자들이 슬픈 모습으로 열반에 든 부처님 의 자비를 기리며 모여 있다. 249 굴은 초위기(1580 년 전) 때 만들어진 것으 로 고구려벽화에서 보던 수렵도가 그려있다. 상상속의 호랑이불교와 도교 와 힌두교가 혼재해있다. 11년간 만들었다는 35.5m의 석심조상 미륵대불 앞에선 말문이 막힌다. 세계 제 1 의 실내대불이라 할 만 하다. 조그만 불 상 하나 들여놓기 힘든 쬐그마한 굴에서부터 이런 어마어마한 대불을 만 들게 한 종교의 힘이 놀라울 뿐이다. 돈황시 박물관에서 놀라운 사실을 알았다. 이제까지 실크로드를 통해 실크와 비취, 옥 등이 중국에서 서양으로 온 줄 알았는데 대상들이 비취 와 옥을 중국으로 가져갔다고 한다. 왕복 15000km에 달하는 실크로드를 당시 소수민족이던 서장사람과 아랍인이 5-6년에 걸쳐 낙타를 타고 이동 했다. 실크로드 곳곳에 흔적을 남긴 현장법사는 천산북로로 인도에 갔다 가 천산남로로 되돌아왔다. 그의 여정은 년이 걸렸다고 한다. 모래능선이 너무도 아름다운 명사산에 가다. 는 소리가 울음소리처럼 들린다하여 붙여진 명사산 입구에서 고운 모래가 바람에 날리 5명씩 한 조 가 되어 낙타를 타고 대상隊 商 기분을 내며 월하천까지 갔다. 모래언덕 중 반에서 모래썰매를 타고 있다. 능선 위를 걸어가는 사람들의 모습이 고즈 녁하기까지 하다. 발에 밟히는 모래가 뜨거워 양철지붕 위의 고양이처럼 뛰어다녔지만 동서로 40km, 남북 10km인 명사산에 해가 떨어지자 금방 모래가 식고 어둠이 깃든다. 식사 후에 足 道 라는 일식풍의 대규모 발마사 지 집에서 발마사지를 받다. 명사산의 피로가 확 풀렸다 월 22 일 ( 금 ) 서안 가이드 김성두. 억양이 특이하지만 입심이 좋다. 이곳의 날씨는 한 국처럼 무덥다. 서안함양국제공항에 도착해서 1시간 정도 버스를 달려 서 264

254 실크로드(Silk Road) 탐사기 안(Xian) 중심가에 있는 한국식당으로 가서 늦은 점심을 먹다. 그렇다면 오늘도 이른 저녁? 종이보다 엷은 삼겹살을 상추와 함께 먹다. 그리고 오 늘 일정으로 잡힌 병마용과 화청지는 내일 일정으로 미루고 서안성벽과 대안탑을 먼저 보기로 했다. 6 대 古 都 중의 하나인 長 安 은 장기적으로 평 안하기를 바라는 심정이 담겨있고 새로운 이름인 西 安 역시 서쪽이 평안 하기를 갈망하는 뜻이 내포되어있다. 천연요새처럼 진경산맥이 경계를 이 루는 가운데 사방 800리의 평야에서는 2 모작이 가능하단다. 밀과 옥수수 를 주로 생산하며 자원과 물이 풍부한 하남성은 이제까지 우리가 왔던 사 막과는 달리 녹지대이다. 인구도 1 억 정도라고 한다. 서안에는 진시왕릉을 비롯해서 73 개의 왕릉이 있다. 역시 서안은 진시황제를 빼놓고는 이야기 를 할 수 없다. 그는 13 세에 왕위에 올라 천하와 화폐, 문자, 도량형을 통 일하고 흉노를 막기 위해 만리장성을 쌓은 위대한 군주인 동시에, 비판세 력을 잠재우기 위해 분서갱유를 감행하고 죽음을 두려워하여 불로초를 구 하기 위해 노심초사한 인물이기도 하다. 문덕황후를 기리며 당고종이 648 년에 지었다는 자은사에 갔다. 탁본을 통해 익히 보아왔던 불경을 등에 지고 횃불을 밝히며 밤길을 달려오는 현 장법사의 그림이 있다. 손오공을 닮은 신라왕족 원측스님과 저팔계처럼 뚱뚱한 모습의 규기법사 그림도 있다. 현장법사가 인도에서 가지고 온 불 경을 번역, 보관하기 위해 652년 만들었다는 64.5m의 7층 대안탑이 관심 을 끈다. 피사의 사탑처럼 왼쪽으로 기울어졌다. 현장법사가 인도로 갈 때 기러기가 사막에서 길을 인도했다고 해서 붙여진 이름이다. 이 더운 날씨 에 땀을 흘리면서 276 계단을 올라가서 시가지를 둘러보다. 오늘 분명 40 도 이상 올라갔겠지만 공식적인 기온은 38 도란다. 공산당에서 40도 이상 되는 날을 공무원 휴일로 해놓았기 때문이란다. 말 열 필이 달릴 수 있다는 서안성벽을 걷다. 찹쌀과 석회, 흙을 섞어서 만든 철옹성이다. 둘레만도 13.7km 에 달하는 당대의 작품이다. 여행 내내 일행의 안전을 신경 쓰셨을 회장님이 드디어 서울입성을 목전에 두시고, 더위와 피로에 지친 일행에게 시원한 발마사지를 선물하셨다. 해단식도 마쳤으니 짐 싸는 일만 남은 것 같다. 서안 명물 만두도 못 먹어보고 내 일 떠나야 한다니. 짐을 꾸리는 손길이 허전하다. 265

255 經 營 史 學 第 20輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) 월 23 일 ( 토 ) 6, 6.5, 7.5 시스템이 가동하다. 일찍부터 서둘러 양귀비와 현종이 노닐 던 화청지에 갔다. 꽃이 부끄러워한다는 수화( 羞 花 ) 미녀 양귀비는 봉건귀 족의 딸로 16세에 수왕의 비가 되었지만 27세때 그녀를 흠모하는 시아버 지, 61 세의 현종과 맺어졌다. 안녹산의 난을 무마하고자 36살 꽃다운 나이 에 죽음을 택했던 당대의 미녀 양귀비. 김성두씨의 입심이 맹활약을 하다. 못생긴 처녀들이 울면서 양귀비 묘의 흙을 바르면 너도 나도 미녀가 되어 빨리 시집을 갔다고 한다. 그러자 예뻐지고 싶은 아줌마도 등장하는데... 아줌마는 설음이 없어서 수건에 물을 적셔서 흙을 묻혀 얼굴에 발랐단다. 그 발상하고는. 이 대목에서 모두들 자지러들었다. 75kg의 거구였던 양귀 비는 르노아르가 좋아했음직 하다. 안개에 덮여 신비감마저 감돌던 이 화 청지는 중국의 현대사와도 밀접하다. 이곳에서 1936년 12월 12일에 모택 동과 장개석의 국공합작을 가능케 한 장학량의 구테타, 서안사변이 일어 났다. 화청지 한쪽에 백거이의 長 恨 歌 를 모택동이 쓴 시비가 있다. 장한가 를 몹시 궁금해 하던 한 선생님이 생각나 몇 구절 찾아 적어본다. 저녁이면 날아드는 반딧불에 그리움은 더해지고 외로운 등잔불을 돋우느라 잠 못이루네 서서히 울리는 종소리에 밤은 더욱 깊어져 반짝이는 은하수에 동이 트려하는구나 싸늘한 원앙 기와 서리꽃 피어나니 차가운 비취 이불 뉘와 함께 같이할까? 아득히 사별하여 해가 다시 지나가도 영혼은 꿈속으로 찾아오지 아니하네 장구한 천지도 끊일 날이 있겠지만 이들의 한은 끊일 날이 없으리라 - 백거이의 < 장한가> 중에서 - 만만디의 중국에서 서둘러 2200 년 전에 만든 병마용을 보러가다. 진시 황능이라고 추정되는 석류나무로 덮여있는 산에서 동쪽으로 1.5km 떨어 266

256 실크로드(Silk Road) 탐사기 진 곳, 1974년 6명의 농민이 관개작업을 하다 우연히 병마용을 발견했단 다. 72만명의 장인들이 실물크기와 똑 같은 병사를 손금과 머리카락까지 정교하게 흙으로 빚어서 800도의 온도에서 구워냈다는 진시황제의 8천여 능지하군사와 500 여 필의 말. 6개의 별을 단 1.96m의 장군은 이중갑옷을 입고 있다. 병사들의 생김새나 머리, 옷 모양으로 그들의 민족을 가름하게 한다. 병마용 발굴 당시의 색채를 많이 상실하고 있어 안타깝다. 그래서 발굴보다는 보존 쪽을 선택한 듯하다. 1, 2, 3 병마용 갱 마다 일부만을 발굴해서 병마용을 세워놓았다. 그래도 살아있는 듯한 군사들의 모습과 큰 규모가 압도적이다. 삼국지 인물인 항우가 삼촌의 원수를 갚고자 진시 황제의 아방궁과 병마용을 파괴했다고 하는 검게 그을린 흔적도 보인다. 진시황릉의 서쪽 20km지점에서 발견한 동마차도 병마용 박물관에 전시되 어있다. 실제크기의 1/2에 해당하는 4마리 말이 끄는 청동마차와 황제 행 차시 받쳤던 놋쇠 우산꽂이가 놀랍도록 정교하다. 당시 병마용을 발견한 할아버지는 병마용 박물관에 앉아서 책자에 사인을 해주며 돈을 벌고 있 다. 병마용이 발견된 이후 이 지역 사람들은 농토를 몰수당하고 1만원의 생활비를 지원받는단다. 일거리가 없어진 이들은 병마용 가는 주변에 병 마용 유물을 벌려놓고 관광객을 부르고 있다. 이 어마어마한 2200년 전 유물을 보고 마음을 추스르기도 전에 인천으 로 떠나는 비행기에 올라야하는 비극, 우울함. 드디어 여행도 끝을 향해간 다. 아쉽기만 하다. 비행기 안에서 읽은 신문 또한 우울한 기사로 넘쳐난 다. 홍석현 주미대사의 정계로비사건과 두산의 형제다툼 등. 매일 이런 뉴 스를 듣고 보지 않았다는 것만으로도 여행은 값지다. 비록 2% 부족한 실 크로드 여행이었지만. 1) 1) 인간과 가장 비슷한 염기서열을 가진 동물이 오랑우탄이다. 오랑우탄의 염기서열은 인간과 98% 이상이 일치일치한다. 그렇다면 2% 부족할 때???? 여행사 사장님이 여행 끝나고 나면 왜 이렇 게 거꾸로 실크로드를 가는지 이해할 것이라고 했지만, 개인적으로 여행이 끝나고 나니 더 이해 가 안 간다. 비행스케줄을 비롯해 여러 가지 요인이 있었겠지만 역사적인 실크로드 여정을 제대 로 따라가지 못한 것이 아쉽기만 하다. 267

257 附 錄 附 錄 學 術 誌 經 營 史 學 의 發 刊 實 績 英 文 學 術 誌, The Journal of Business History의 韓 國 經 營 史 學 會 會 則 韓 國 經 營 史 學 會 創 業 大 賞 規 程 韓 國 經 營 史 學 會 專 門 經 營 者 大 賞 規 程 經 營 史 學 學 術 賞 規 程 韓 國 經 營 史 學 會 論 文 集 編 輯 委 員 會 設 置 內 規 經 營 史 學 投 稿 要 領 基 金 運 營 委 員 會 規 程 韓 國 經 營 史 學 會 任 員 名 單 發 刊 實 績 265

258 附 錄 學 術 誌 經 營 史 學 의 發 刊 實 績 1. 創 刊 號 (1986 年 12 月 30 日 發 刊 < 論 文 > 特 輯 : 省 谷 金 成 坤 硏 究 1 省 谷 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 金 柄 夏 ) 2 省 谷 의 政 治 ( 金 舜 坤 ) - 主 로 政 治 家 로서의 그의 片 貌 3 省 谷 과 育 英 文 化 事 業 ( 崔 泰 鎬 ) 4 省 谷 의 言 論 機 關 運 營 ( 崔 丙 卓 金 柄 夏 ) 5 省 谷 의 體 育 活 動 과 企 業 및 體 育 界 에 미친 影 響 ( 裵 守 鎭 ) 6 轉 換 期 의 農 場 經 營 과 奴 婢 ( 高 承 濟 ) 7 經 營 史 硏 究 方 法 論 諸 說 ( 金 鋼 淇 ) < 論 評 > 8 韓 國 會 計 史 硏 究 ( 尹 根 鎬 著 ) ( 安 潤 泰 ) 9 藥 令 施 硏 究 ( 權 丙 卓 著 ) ( 金 孝 東 ) 2. 第 2 輯 (1987 年 12 月 30 日 發 刊 < 論 文 > 特 輯 : 企 業 活 動 家 의 事 例 1 小 南 金 台 原 의 事 蹟 과 金 井 金 鑛 의 經 營 ( 金 峻 憲 ) 2 省 谷 의 企 業 活 動 家 ( 金 柄 夏 ) 3 省 谷 의 經 營 과 人 脈 ( 高 在 經 ) 4 三 共 合 資 會 社 에 관한 考 察 ( 金 柄 夏 ) 5 省 谷 과 金 星 紡 織 ( 黃 明 水 ) 266

259 附 錄 6 韓 國 시멘트工 業 의 展 開 와 雙 龍 洋 灰 ( 趙 璣 濬 ) 7 朝 鮮 時 代 의 人 口 規 模 推 計 (I)( 李 永 九 李 鎬 澈 ) 8 美 國 의 經 濟 史 硏 究 ( 黃 明 水 ) - 過 去 와 現 在 < 論 評 > 9 韓 國 廣 告 史 ( 申 寅 燮 著 ) ( 金 南 奎 ) 10 日 本 的 經 營 論 爭 ( 岩 田 龍 子 著 ) 3. 第 3 輯 (1988 年 12 月 30 日 發 刊 < 論 文 > 1 湖 巖 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 金 柄 夏 ) 2 大 同 法 硏 究 ( 金 玉 根 ) 3 會 計 發 達 史 攷 ( 高 承 禧 ) 4 朝 鮮 時 代 의 人 口 規 模 推 計 (I)( 李 永 九 李 鎬 澈 ) - 17, 18 세기 人 口 增 加 率 推 計 를 中 心 으로 5 日 本 의 經 營 史 學 界 및 硏 究 現 況 ( 孫 一 善 ) < 論 評 > 6 現 代 經 營 史 ( 金 信 雄 朴 載 錄 共 著 ) ( 金 商 奎 ) 7 財 閥 の比 較 史 硏 究 ( 安 岡 重 明 他 著 ) ( 李 春 根 ) 4. 第 4 輯 (1989 年 12 月 30 日 發 刊 < 論 文 > 特 輯 : 湖 巖 李 秉 喆 企 硏 究 1 三 星 物 産 의 成 立 과 湖 巖 의 企 業 家 活 動 ( 黃 明 水 ) 2 湖 巖 의 事 業 轉 換 ( 金 柄 夏 ) - 第 一 製 糖 의 成 立 을 中 心 으로 267

260 附 錄 3 湖 巖 과 第 一 毛 織 ( 趙 璣 濬 ) 4 湖 巖 의 多 角 的 經 營 과 韓 國 肥 料 ( 金 柄 夏 崔 明 圭 ) 5 湖 巖 과 三 星 電 子 의 事 業 展 開 ( 安 春 植 ) - 特 히 半 導 體 事 業 을 中 心 으로 6 湖 巖 의 育 英 文 化 事 業 觀 과 事 蹟 ( 劉 元 東 ) - 龍 仁 自 然 農 園 을 中 心 으로 7 戰 前 期 日 本 의 財 閥 所 有 者 와 專 門 經 營 者 와의 關 係 ( 安 岡 重 明 ) 8 財 閥 ( 史 ) 論 과 企 業 集 團 의 接 點 ( 石 川 健 次 郞 ) < 動 向 > 9 Fuji International Conference on Business History 에 다녀온 所 感 ( 金 聖 一 ) 5. 第 5 輯 (1990 年 12 月 30 日 發 刊 < 論 文 > 年 産 까지의 現 代 建 設 의 資 本 蓄 積 과 經 營 理 念 ( 金 柄 夏 ) 2 住 友 財 閥 의 形 成 과 廣 瀨 宰 平 의 企 業 家 活 動 ( 作 道 洋 太 郞 ) 3 農 村 住 民 의 構 成 과 存 在 樣 態 에 관한 經 濟 史 的 硏 究 ( 李 永 九 李 鎬 澈 ) < 動 向 > 4 韓 國 經 營 史 學 의 硏 究 動 向 ( 金 商 奎 ) 6. 第 6 輯 (1991 年 12 月 30 日 發 刊 < 論 文 > 1 우리나라 民 族 銀 行 의 經 營 近 代 化 過 程 에 관한 硏 究 ( 閔 庚 晥 ) - 近 代 金 融 機 關 의 成 立 過 程 을 中 心 으로 2 韓 國 勞 動 責 任 形 成 史 의 定 立 을 위한 序 說 的 硏 究 ( 金 聖 壽 ) 3 日 本 - 産 業 化 初 期 의 勞 使 關 係 ( 康 季 三 ) 268

261 附 錄 4 財 閥 - 政 府 關 係 의 歷 史 的 ( 推 移 ( 柳 町 功 ) - 三 星 財 閥 의 事 業 擴 張 過 程 을 中 心 으로 5 意 思 決 定 支 援 會 計 情 報 システムの展 開 過 程 についての一 考 察 ( 李 盈 周 ) 6 日 本 資 本 主 義 成 立 期 의 工 業 過 程 ( 黃 完 晟 ) ~1950 忠 南 製 絲 ( 株 ) 의 發 展 過 程 ( 金 惠 水 ) 7. 第 7 輯 (1992 年 12 月 30 日 發 刊 < 論 文 > 1 日 帝 時 代 의 市 場 과 商 業 活 動 에 관한 硏 究 ( 金 聖 壽 ) 2 忠 淸 北 道 의 工 業 發 達 過 程 ( 金 信 雄 ) 3 社 史 分 析 을 通 한 韓 國 企 業 의 發 展 段 階 別 特 性 에 관한 硏 究 ( 李 宗 舜 池 禎 澤 ) 4 牧 山 許 周 烈 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 朴 光 緖 ) 5 解 放 後 民 間 貿 易 에 관한 硏 究 ( 柳 基 悳 ) 6 再 來 市 場 의 生 成 發 展 에 따른 流 通 近 代 化 에 관한 硏 究 ( 李 相 玉 ) 7 前 後 日 本 における企 業 會 計 制 度 の發 展 史 攷 ( 高 承 禧 ) < 評 論 > 8 崔 泰 鎬 著, 近 代 韓 國 經 濟 史 硏 究 序 說 ( 徐 吉 洙 ) 9 金 宗 炫 著. 工 業 化 와 企 業 家 活 動 ( 朴 光 緖 8. 第 8 輯 (1993 年 12 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 獨 逸 商 社 의 對 極 東 進 出 ( 金 光 洙 ) 年 까지에 있어서 韓 國 과 日 本 을 中 心 으로- 2 都 中 에 관한 硏 究 ( 金 柄 夏 ) - 開 城 선주전과 海 州 선주전을 中 心 으로- 269

262 附 錄 3 韓 國 의 生 命 保 險 産 業 經 營 에 관한 史 的 考 察 ( 朴 光 緖 ) 4 染 織 界 의 始 祖, 金 德 昌 硏 究 ( 李 漢 九 ) 5 金 輸 出 入 의 史 的 高 察 ( 金 町 新 ) 6 東 洋 拓 植 株 式 會 社 의 朝 鮮 經 濟 收 奪 의 金 融 産 業 經 營 ( 강 태 경) 7 近 代 株 式 會 社 의 形 成 과 儒 敎 的 價 値 觀 의 變 化 ( 柳 町 功 ) 8 스위스의 傳 統 線 業 ( 崔 榮 順 ) -The Microeconomic Determinats of Consolidated Firms 9 Performace(1905~1919)(Kang, Joo-Hoon) 9. 第 9 輯 (1994 年 12 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : 柳 一 韓 硏 究 1 柳 一 韓 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 黃 明 水 ) 2 柳 一 韓 의 企 業 活 動 과 經 營 戰 略 ( 安 春 植 ) 3 美 國 에서의 柳 一 韓 의 經 濟 政 治 社 會 活 動 ( 金 光 洙 ) 4 柳 一 韓 의 社 會 事 業 및 育 英 事 業 ( 金 搗 經 ) 5 柳 韓 洋 行 의 成 長 과 發 展 ( 逝 去 時 까지)( 金 聖 壽 ) 6 柳 韓 洋 行 과 韓 國 製 藥 事 業 ( 金 信 雄 ) 7 柳 韓 韓 의 遺 業 과 繼 承 發 展 ( 朴 載 錄 ) 8 柳 韓 韓 의 經 濟 思 想 과 社 會 的 責 任 ( 朴 光 緖 ) 9 柳 韓 洋 行 의 經 營 陣 들( 高 承 禧 ) 10 韓 國 經 營 史 學 會 産 業 革 命 地 學 術 調 査 紀 行 文 ( 金 相 圭 ) 10. 第 10 輯 第 1 號 ( 通 卷 10 號 ) (1995 年 6 月 30 日 發 刊 ) < 硏 究 發 表 論 文 > 1 日 帝 下 土 着 錦 工 業 資 本 의 性 格 에 관한 硏 究 (I) ( 李 漢 九 ) 2 東 西 貿 易 의 史 的 硏 究 ( 金 新 ) 3 韓 國 勞 組 組 織 形 態 의 變 遷 에 관한 硏 究 ( 金 倉 宣 ) 270

263 附 錄 4 地 中 海 中 世 商 業 史 考 察 ( 金 聖 壽 ) 5 中 世 地 中 海 沿 岸 의 貿 易 經 路 에 관한 硏 究 ( 朴 光 緖 ) 6 中 世 紀 유럽지역의 會 計 學 發 展 史 에 관한 硏 究 ( 李 建 憙 ) 7 이탈리아 複 式 簿 記 의 會 計 史 的 考 察 ( 高 承 禧 ) < 一 般 論 文 > 8 獨 逸 의 産 業 革 命 ( 金 光 洙 ) 9 獨 逸 社 會 的 市 長 經 濟 의 史 的 展 開 過 程 ( 黃 俊 性 ) 10 韓 國 在 來 市 長 의 變 遷 과 流 通 近 代 化 에 관한 硏 究 ( 李 相 玉 ) 년대의 工 業 化 와 資 本 形 成 ( 徐 贊 洙 ) 12 資 本 國 際 化 와 韓 國 經 濟 ( 李 甲 泳 ) 11. 第 10 輯 第 2 號 ( 通 卷 11 號 ) (1995 年 12 月 31 日 發 刊 ) 特 輯 : 光 復 50 周 年 記 念 해방둥이 企 業 硏 究 1 靜 石 의 生 涯 와 經 營 理 念 에 관한 硏 究 ( 金 聖 壽 ) 2 韓 進 그룹 形 成 過 程 硏 究 ( 李 漢 九 ) 3 東 亞 建 設 創 業 者 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 高 承 禧 ) 4 東 亞 建 設 의 成 長 과 發 展 ( 金 光 洙 ) 5 中 外 製 藥 의 成 長 과 創 業 理 念 ( 朴 光 緖 ) 6 中 外 製 藥 의 成 長 과 發 展 ( 金 信 雄 ) 7 大 熊 製 藥 윤영환의 生 涯 와 經 營 理 念 에 관한 硏 究 ( 安 春 植 ) 8 大 熊 製 藥 의 成 長 과 發 展 ( 李 建 憙 ) 12. 第 11 輯 第 1 號 ( 通 卷 12 號 ) (1995 年 12 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : 大 山 愼 鏞 虎 硏 究 1 大 山 愼 鏞 虎 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 黃 明 水 ) 2 敎 保 生 命 保 險 의 成 長 과 發 展 ( 金 聖 壽 ) 271

264 附 錄 3 敎 保 生 命 保 險 創 立 初 期 의 企 業 活 動 과 經 營 前 略 ( 李 建 憙 ) 4 大 山 愼 鏞 虎 의 社 會 的 責 任 과 公 益 財 團 設 立 運 營 ( 金 光 洙 ) 5 敎 保 生 命 保 險 과 韓 國 保 險 事 業 ( 朴 光 緖 ) 6 敎 保 生 命 保 險 의 經 營 陳 들( 高 承 禧 ) 13. 第 11 輯 第 2 虎 ( 通 卷 13 虎 ) (1996 年 12 月 30 日 發 刊 ) < 學 術 發 表 論 文 > 特 輯 : 創 立 10 周 年 記 念 特 輯 1 An Entrepreneur Spirit in Yong-Ho Shin of Top Management in 2 The Korean Insurance Industry( 金 聖 壽 ) 희랍의 都 市 國 家 ( 金 光 洙 ) 3 産 業 標 準 化 의 歷 史 的 考 察 ( 金 相 圭 ) 4 資 本 主 義 發 展 過 程 에서 資 本 蓄 積 과 資 本 類 型 에 관한 硏 究 ( 金 性 基 ) 5 古 代 貿 易 構 造 의 特 性 에 관한 硏 究 ( 金 新 ) 6 古 代 會 計 發 展 史 硏 究 ( 李 建 憙 ) 7 바빌로니아時 代 의 商 業 과 商 人 ( 李 光 周 ) 8 勞 使 情 報 共 有 와 企 業 成 果 에 관한 硏 究 ( 柳 炳 胃 ) 9 品 質 管 理 의 歷 史 的 考 察 ( 韓 漢 洙 ) < 一 般 硏 究 論 文 > 10 業 績 評 價 를 위한 目 標 管 理 의 效 率 的 活 用 方 案 ( 金 寅 鎬 ) 11 東 洋 拓 植 會 社 의 土 地 收 奪 經 營 ( 姜 泰 景 ) 12 日 本 的 勞 使 關 係 의 特 質 과 形 成 背 景 에 관한 硏 究 ( 李 元 雨 ) < 其 他 > 13 中 世 地 中 海 沿 岸 商 業 主 導 地 學 術 調 査 ( 朴 光 緖 ) 14 古 代 商 業 및 貿 易 都 市 學 術 調 査 ( 崔 榮 順 ) 15 韓 國 經 營 史 學 會 의 10 年 史 管 見 ( 高 承 禧 ) 272

265 附 錄 14. 第 12 輯 第 1 鎬 ( 通 卷 14 鎬 ) (1997 年 6 月 31 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : 亞 南 그룹 創 業 者 金 向 洙 硏 究 1 牛 穀 의 生 涯 와 營 業 理 念 의 硏 究 ( 金 聖 壽 ) 2 亞 南 그룹의 成 長 과 發 展 ( 黃 明 水 ) 3 牛 穀 金 向 洙 의 企 業 活 動 과 經 營 戰 略 ( 高 承 禧 ) 4 亞 南 그룹의 社 會 的 責 任 과 公 益 事 業 ( 金 光 洙 ) 5 亞 南 그룹 經 營 陳 의 寄 與 度 分 析 ( 李 建 憙 ) 6 亞 南 그룹과 韓 國 의 電 子 産 業 ( 朴 光 緖 ) 15. 第 12 輯 第 2 鎬 ( 通 卷 15 鎬 ) (1997 年 11 月 15 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : 湖 巖 思 想 의 再 照 明 硏 究 1 湖 巖 의 삶의 哲 學 과 企 業 의 歷 程 ( 趙 璣 濬 ) 2 湖 巖 의 經 營 理 念 再 照 明 ( 黃 明 水 ) 3 韓 國 經 濟 發 展 에 있어서 湖 巖 의 産 業 的 寄 與 에 관한 考 察 ( 金 聖 壽 ) 4 湖 巖 의 經 營 觀 을 통해 본 企 業 의 社 會 的 責 任 ( 金 光 洙 ) 5 湖 巖 의 韓 國 經 營 史 學 에서의 位 置 ( 李 建 憙 ) 6 湖 巖 의 文 化 精 神 ( 高 承 禧 ) 16. 第 12 輯 第 3 號 ( 通 卷 16 號 ) (1997 年 12 月 30 日 發 刊 ) < 學 術 發 表 論 文 > 1 韓 國 經 營 理 念 의 愛 國 的 傳 統 과 21 世 紀 企 業 家 의 價 値 觀 ( 金 柄 夏 ) 2 英 國 퓨리턴( 基 督 敎 ) 의 企 業 倫 理 와 韓 國 基 督 敎 企 業 人 의 倫 理 ( 黃 明 水 3 바이킹과 북유럽상업권( 金 光 洙 ) 4 유럽聯 合 (EU) 의 會 計 標 準 化 過 程 ( 高 承 禧 ) 5 노벨 經 濟 學 賞 受 賞 者 의 財 務 理 論 硏 究 ( 李 建 憙 ) 273

266 附 錄 6 海 外 進 出 路 의 歷 史 的 特 性 에 관한 硏 究 ( 金 新 ) 7 8 스웨덴 경영참가제의 전환 과정( 安 鍾 泰 ) 현지인 노무관리실태와 개선방안에 관한 연구 ( 柳 炳 冑 방 진 방) < 一 般 硏 究 論 文 > 9 韓 國 財 閥 의 形 成 發 展 過 程 과 企 業 家 精 神 에 관한 硏 究 ( 朴 有 榮 ) 10 東 隱 金 容 完 의 財 閥 活 動 과 經 濟 哲 學 ( 朴 載 錄 ) 11 歸 屬 錦 紡 織 工 場 의 設 立 과 變 化 有 形 에 관한 硏 究 ( 徐 文 錫 ) 12 近 代 經 濟 學 의 스톡홀름學 派 에 관한 硏 究 ( 李 光 鍾 ) 13 華 僑 의 資 本 形 成 過 程 과 經 營 戰 略 ( 李 德 勳 ) 일본 벤처기업의 생성배경과 경영과제( 박 경 열) 손해보험자와 운송인의 이해관계 변화에 관한 사적 연구 ( 李 洪 武 ) 16 임금협상시 회계정보에 대한 이해관계집단의 반응연구 ( 홍 정 화 이 환 수 金 寅 鎬 ) 17 原 價 會 計 의 史 的 考 察 ( 金 相 圭 ) < 其 他 > 18 북구 바이킹의 후예를 찾아서( 최 영 순) 17. 第 13 輯 第 1 號 ( 通 卷 17 號 ) (1998 年 6 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 日 帝 下 民 族 系 企 業 集 團 形 成 과 性 格 에 관한 硏 究 ( 金 聖 壽 ) 2 知 識 社 會 的 觀 點 에서 再 照 明 한 프레더릭 테일러의 生 涯 와 思 想 ( 李 在 奎 ) 3 중국 구유기업의 발전사에 관한 연구( 宋 在 薰 ) 4 러 중 기업개혁제도의 경영사적 의미분석( 曺 圭 珍 ) 5 일본의 순수 지주회사 부활( 신 장 철) 6 複 式 簿 記 와 資 本 主 義 의 發 達 에 관한 文 獻 史 的 硏 究 ( 高 承 禧 ) 7 地 理 上 發 見 이 유럽에 미친 影 響 에 관한 硏 究 ( 金 新 ) 8 한국금융시장의 국제화과정에서 기관투자가의 역할에 관한 연구( 황 남일 김 유상) 9 일본의 보험사업에 대한 규제오의 역사적 고찰( 李 洪 茂 ) 274

267 附 錄 10 日 帝 下 土 着 錦 工 業 資 本 의 性 格 에 관한 硏 究 (2) ( 李 漢 九 ) 11 해방이후 귀속재산의 변동에 관한 연구( 徐 文 錫 ) 12 成 功 的 인 年 俸 制 導 入 과 運 營 方 案 ( 金 寅 鎬 ) 18. 第 13 輯 第 2 號 ( 通 卷 18 號 ) (1998 年 12 月 30 日 發 刊 ) < 國 際 學 術 發 表 論 文 > 1 한국경영사학의 연구동향( 黃 明 水 ) 2 韓 國 財 閥 의 經 營 史 的 硏 究 ( 金 聖 壽 ) 3 上 州 民 間 機 械 製 系 の先 驅 者 星 野 長 太 郞 の伊 仏 蚕 系 業 視 察 (I) 4 ( 加 藤 降 ) 三 井 財 閥 の解 体 と企 業 集 團 への再 編 成 ( 柳 町 功 ) 5 中 國 國 有 企 業 改 革 的 歷 史 性 考 察 ( 劉 曙 野 許 柱 媦 ) 6 한국기업의 대중국시장 진출방안에 관한 연구( 宋 在 薰 ) 7 斗 山 그룹의 형성과정, 년( 金 東 雲 ) 8 러 중 북한의 대외교역에 대한 발전과정( 曺 圭 珍 ) < 一 般 硏 究 論 文 > 9 日 本 獨 占 資 本 形 成 期 의 勞 動 運 動 ( 康 季 三 ) 10 戰 後 日 本 의 經 濟 外 交 史 ( 姜 太 勳 ) 11 日 本 의 近 代 化 初 忌 에 있어서 財 務 諸 表 制 度 의 展 開 ( 高 承 禧 ) 12 東 海 表 記 의 歷 史 的 小 考 ( 金 新 ) 마케팅조사의 윤리문제 연구( 李 光 周 ) 수출보험의 정책대응에 관한 역사적 전개( 黃 南 逸 ) 19. 第 14 輯 第 1 號 ( 通 卷 19 號 ) (1999 年 5 月 5 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : 峨 山 鄭 周 永 硏 究 1 峨 山 鄭 周 永 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 金 聖 壽 ) 275

268 附 錄 2 現 代 그룹의 發 展 과 經 營 戰 略 ( 李 建 憙 ) 3 峨 山 精 神 과 現 代 그룹의 企 業 文 化 ( 高 承 禧 ) 4 峨 山 鄭 周 永 의 社 會 的 責 任 精 神 과 社 會 福 祉 事 業 ( 金 新 ) 5 現 代 그룹 金 融 企 業 의 成 長 과 發 展 ( 李 洪 茂 ) 6 現 代 그룹이 韓 國 經 濟 發 展 에 미친 영향( 李 光 鍾 ) 20. 第 14 輯 第 2 號 ( 通 卷 20 號 ) (1999 年 6 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 Rhee Syng Man Government and Korea's Economic Development (Sul, Bong-Sik Yoon, Jae-Hee) 2 孔 孟 思 想 과 儒 敎 資 本 主 義 ( 梁 創 三 ) 3 후레더릭 테일러와 피터 드러커의 經 營 思 想 에서의 生 産 性 硏 究 ( 李 在 圭 ) 4 日 帝 下 土 着 錦 工 業 資 本 의 性 格 에 관한 硏 究 (3) ( 李 漢 九 ) 5 美 國 地 方 政 府 의 會 計 制 度 에 관한 考 察 ( 金 相 圭 尹 泰 和 ) 6 朝 鮮 後 期 實 學 의 現 代 經 營 學 的 再 照 明 ( 朴 晟 洙 ) 7 歸 屬 財 産 의 消 滅 에 관한 硏 究 ( 徐 文 錫 ) 8 美 國 會 計 基 準 의 變 遷 過 程 ( 崔 松 吉 ) 9 韓 美 生 命 保 險 情 報 公 示 制 度 의 歷 史 的 考 察 ( 金 億 憲 ) 10 組 織 社 會 化 效 果 性 에 영향을 미치는 리더십과 企 業 下 部 文 化 의 役 割 ( 김 우 택 김 인호) 11 品 質 要 因 과 品 質 프로그램의 效 果 에 관한 實 證 的 硏 究 ( 安 榮 珍 ) 21. 第 14 輯 第 3 號 ( 通 卷 21 號 ) (1999 年 12 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 韓 國 企 業 의 海 外 直 接 投 刺 30年 과 對 中 國 投 資 10 年 의 特 徵 ( 金 榮 來 ) 2 分 斷 國 家 의 經 濟 力 比 較 와 經 濟 統 合 方 案 ( 金 聖 壽 ) 3 韓 中 貿 易 史 硏 究 ( 金 新 ) 4 中 國 의 會 計 制 度 發 展 史 ( 李 建 憙 ) 5 中 國 에 再 投 資 한 韓 國 企 業 의 立 地 決 定 要 因 에 관한 硏 究 ( 宋 在 薰 ) 6 韓 國 企 業 在 貨 投 資 分 析 ( 許 拄 娟 ) 276

269 附 錄 7 東 西 方 國 家 市 長 經 濟 模 式 比 較 硏 究 ( 孫 宇 周 尙 容 ) 8 三 井 財 閥 にぉける審 頭 經 營 にっぃて( 柳 町 功 ) 9 中 國 國 有 企 業 改 革 與 發 展 的 歷 程 與 前 景 ( 劉 建 民 ) 10 中 國 의 外 換 制 度 變 遷 史 에 관한 分 析 ( 曺 圭 珍 崔 容 民 ) 22. 第 15 輯 第 1 號 ( 通 卷 22 號 ) (2000 年 5 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : 蓮 庵 具 仁 會 上 南 具 滋 暻 硏 究 1 蓮 庵 具 仁 會 와 上 南 具 滋 暻 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 金 聖 壽 ) 2 LG 그룹의 成 長 과 經 濟 發 展 의 寄 與 度 ( 薜 鳳 植 ) 3 LG 그룹의 發 展 과 經 營 戰 略 ( 李 建 憙 ) 4 蓮 庵 具 仁 會 와 上 南 具 滋 暻 의 社 會 的 責 任 과 社 會 福 祉 事 業 ( 崔 鐘 泰 ) 5 LG 그룹의 韓 國 經 營 史 學 에서의 位 置 ( 柳 炳 胃 ) 6 LG 精 神 과 企 業 文 化 ( 高 承 禧 ) 23. 第 15 輯 第 2 號 ( 通 卷 23 號 ) (2000 年 6 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 LG 의 東 유럽 進 出 現 況 과 展 望 ( 金 新 ) 2 東 유럽 諸 國 의 會 計 制 度 發 展 史 ( 李 建 憙 ) 3 유럽의 品 質 動 向 과 標 準 化 事 業 에 관한 考 察 ( 韓 漢 洙 ) 4 東 유럽 諸 國 과 經 濟 實 相 ( 金 光 洙 ) 5 電 子 商 去 來 發 展 史 에 관한 硏 究 ( 金 相 圭 ) 6 大 山 思 想 의 獨 創 性 과 世 界 化 의 追 究 ( 朴 光 緖 ) 7 20 世 紀 韓 國 海 運 의 歷 史 的 展 開 에 관한 考 察 ( 吳 世 榮 李 源 哲 ) 8 附 加 價 値 稅 法 令 의 變 遷 史 에 관한 硏 究 ( 宋 東 燮 ) 9 栗 谷 李 珥 의 經 營 思 想 에 관한 硏 究 ( 梁 創 三 ) 10 先 進 國 의 社 史 發 刊 傾 向 ( 珥 漢 九 ) 277

270 附 錄 24. 第 15 輯 第 3 號 ( 通 卷 24 號 ) (2000 年 12 月 31 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 中 國 會 計 制 度 의 變 遷 史 에 관한 硏 究 ( 宋 東 燮 ) 2 日 本 炭 鑛 의 朝 鮮 人 勞 動 者 에 대한 勞 務 管 理, 勞 動 統 制 硏 究 ( ) ( 金 旻 榮 ) 3 中 國 의 WTO 加 入 과 韓 中 經 濟 協 力 方 案 에 관한 硏 究 ( 宋 在 薰 ) 4 中 世 및 近 代 期 의 商 工 業 에 종사한 女 性 硏 究 ( 崔 榮 順 ) 5 Bluecord Technology 의 成 長 과 林 采 煥 의 經 營 理 念 ( 柳 炳 冑 ) 6 企 業 家 型 經 營 者 의 企 業 家 活 動 - 事 例 : FILA KOREA( 주) 尹 潤 洙 社 長 ( 金 榮 來 ) 7 韓 國 財 閥 にぉけるオ ー ナー 經 營 体 制 - 絶 對 的 支 配 의の変 容 可 能 性 にっぃて ( 柳 町 功 ) 8 中 國 私 營 企 業 的 變 遷 與 發 展 ( 嚴 法 善 ) < 其 他 > 9 東 유럽 學 術 調 査 踏 査 記 ( 朴 京 姬 ) 10 專 門 經 營 者 의 使 命 과 役 割 ( 林 采 煥 ) 11 專 門 經 營 者 의 特 性 과 類 型 ( 尹 潤 洙 ) 25. 第 16 輯 第 1 號 ( 通 卷 25 號 ) (2001 年 5 月 31 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : SK그룹 崔 鐘 賢 硏 究 1 崔 鐘 賢 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 金 聖 壽 ) 2 SK 그룹의 成 長 과 發 展 ( 韓 漢 洙 ) 3 SK 그룹의 發 展 과 經 營 戰 略 ( 李 建 憙 ) 4 創 業 者 崔 鐘 賢 의 社 會 的 責 任 과 社 會 福 祉 事 業 ( 趙 東 成 ) 5 SK 그룹의 韓 國 經 營 史 學 에서의 位 置 ( 李 承 郁 ) 6 SK 그룹의 企 業 文 化 ( 高 承 禧 ) 278

271 附 錄 26. 第 16 輯 第 2 號 ( 通 卷 26 號 ) (2001 年 6 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 美 國 에 있어서 經 營 史 學 의 生 成 과 發 展 ( 金 榮 來 ) 2 美 國 損 害 保 險 産 業 의 現 況 과 韓 國 保 險 社 의 進 出 戰 略 ( 金 億 憲 ) 3 美 國 의 品 質 經 營 의 發 展 과 役 割 ( 韓 漢 洙 ) 4 美 合 衆 國 의 管 理 會 計 發 展 史 와 國 際 比 較 ( 李 建 憙 ) 5 캐나다의 IT 産 業 에 관한 史 的 考 察 ( 林 外 錫 ) 6 SK 의 北 美 進 出 現 況 과 展 望 ( 金 新 ) 7 우리 나라 稅 效 果 會 計 制 度 의 展 開 過 程 ( 高 承 禧 ) 8 韓 國 의 會 社 史 發 刊 傾 向 에 관한 硏 究 ( 李 漢 九 ) 9 日 本 綜 合 商 社 의 戰 後 解 體 와 再 編 成 에 관한 硏 究 ( 申 章 澈 ) 10 日 本 中 小 企 業 의 海 外 投 資 戰 略 의 變 遷 ( 朴 京 烈 ) 11 日 本 企 業 의 戰 略 的 情 報 시스템에 대한 歷 史 的 考 察 ( 韓 光 熙 ) 27. 第 16 輯 第 3 號 ( 通 卷 27 號 ) (2001 年 12 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 2 금호 박인천의 기업가정신에 관한 연구( 김 정 식) 퇴계 이황의 경영사상에 관한 연구( 양 창 삼) 3 우리나라 會 計 制 度 의 變 遷 過 程 에 관한 硏 究 ( 田 雄 秀 宋 東 燮 李 信 男 ) 4 5 우리나라 會 計 原 則 以 前 時 代 의 企 業 會 計 制 度 에 관한 硏 究 ( 高 承 禧 ) 무역정책수단으로서의 우리나라 수출보험 발전과정( 박 현 희) 6 東 部 獨 逸 의 對 外 貿 易 構 造 와 內 獨 貿 易 의 發 展 ( 金 泰 憲 ) 7 검은 아프리카에 대한 프랑스의 식민정책에 관한 연구 8 東 海 표기의 역사적 과정( 金 新 ) ( 우 영 환) 9 한국 공장의 경쟁력 제고를 위한 경영혁신기법의 효과성에 관한 연구( 안영진 송명식) 10 構 造 調 整 專 門 會 社 를 통한 企 業 構 造 調 整 促 進 에 관한 硏 究 ( 李 贊 民 李 在 述 ) 279

272 附 錄 < 其 他 > 11 제10 회 해외학술탐사 및 국제 심포지엄 참관기( 김상규 임외석) 28. 第 17 輯 第 1 號 ( 通 卷 28 號 ) (2002 年 5 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : 梅 軒 朴 承 稷 蓮 岡 朴 斗 秉 硏 究 1 梅 軒 朴 承 稷 과 蓮 岡 朴 斗 秉 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 金 聖 壽 ) 2 斗 山 그룹의 成 長 과 發 展 ( 李 承 郁 ) 3 斗 山 그룹의 企 業 活 動 과 經 營 戰 略 ( 李 建 憙 ) 4 梅 軒 朴 承 稷 과 蓮 岡 朴 斗 秉 의 社 會 的 責 任 과 社 會 福 祉 事 業 ( 朴 光 緖 ) 5 斗 山 그룹의 韓 國 經 營 史 學 에서의 位 置 ( 韓 漢 洙 ) 6 斗 山 그룹의 企 業 文 化 ( 高 承 禧 ) 29. 第 17 輯 第 2 號 ( 通 卷 29 號 ) (2002 年 6 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 韓 國 財 閥 의 性 格 에 관한 연구( 이 한 구) 개성상인정신 발달사 연구( 金 聖 壽 ) 한국 기업 생성기의 인사 노무관리에 관한 고찰( 안 춘 식) 금호 박인천의 경제철학에 관한 연구( 김 정 식) 5 관계마케팅의 역사적 배경과 한국의 관계마케팅 연구( 김 갑) 6 7 국내 은행합병의 역사적 고찰 : 년( 박 노 경) 과학적 관리운동의 국제적 확산과정 연구( 이 재 규) 8 기업의 공연예술지원의 역사적 고찰과 경제학적 접근( 전 형) 9 10 우리나라 유통산업 생성 및 변천에 관한 연구( 조 성 제) 일본의 전후 재벌의 해체와 벤처창업붐( 강 판 국) 11 斗 山 그룹의 海 外 進 出 戰 略 ( 金 新 ) 12 南 美 諸 國 의 會 計 發 展 史 硏 究 ( 李 建 憙 ) 280

273 附 錄 30. 第 18 輯 第 1 號 ( 通 卷 30 號 ) (2003 年 3 月 31 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 2 한국 경영사학의 연구동향( 황 명 수) 日 本 經 營 史 學 界 の最 近 の潮 流 と硏 究 成 果 ( 宮 本 又 郞 ) 3 女 性 CEO 金 正 子 의 기업활동과 기업가정신( 李 建 憙 ) 4 솔방울 김치의 발전과 여성CEO( 金 聖 壽 ) 5 美 國 財 務 會 計 異 論 의 形 成 에 관한 硏 究 ( 高 承 禧 ) 6 美 國 會 計 敎 育 의 發 展 史 에 관한 硏 究 ( 李 贊 民 ) 7 日 帝 下 大 規 模 錦 紡 織 工 場 의 高 級 技 術 者 硏 究 ( 徐 文 錫 ) 8 韓 國 燒 酒 産 業 發 展 에 관한 史 的 考 察 ( 吳 成 東 ) 9 중국의 근대화와 국가경영에 대한 역사적 고찰( 양 창 삼) 10 코맥스의 世 界 經 營 에 대한 歷 史 的 照 明 ( 이승영 최용록) 11 中 南 美 經 濟 改 革 의 변천과정과 시사점( 金 誠 恂 ) 12 日 帝 下 東 海 와 地 名 改 稱 事 例 硏 究 ( 金 新 ) 13 中 國 鄕 鎭 企 業 의 發 展 段 階 에 관한 연구( 유병주 신광철) 14 산업구조의 변화를 통해 본 지역경제의 고찰( 金 泰 明 ) 31 第 18 輯 第 2 號 ( 通 卷 31 號 ) (2003 年 6 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : 中 甫 金 昇 浩 硏 究 1 中 甫 金 昇 浩 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 金 聖 壽 ) 2 保 寧 그룹의 成 長 과 發 展 ( 李 承 郁 ) 3 保 寧 그룹의 企 業 活 動 과 經 營 戰 略 ( 李 建 憙 ) 4 中 保 金 昇 浩 會 長 의 社 會 的 責 任 과 社 會 福 祉 事 業 ( 朴 光 緖 ) 5 保 寧 製 藥 의 創 業 情 神 과 企 業 文 化 ( 高 承 禧 ) 281

274 附 錄 32 第 18 輯 第 2 號 ( 通 卷 32 號 ) (2003 年 12 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 일제하 대규모 면방직공장의 조선인 고급기술자 연구( 徐 文 錫 ) 2 한국기업의 품질운동 발달사( 안 영 진) 3 日 本 企 業 의 福 祉 厚 生 制 度 의 變 遷 ( 朴 亨 烈 ) 4 호주 노사관계제도의 변화( 안 종 태) 5 朝 鮮 朝 儒 敎 的 統 治 理 念 에 나타난 資 本 主 義 성립의 連 帶 性 6 에 관한 연구( 鞠 承 奎 ) 우리나라 해운항만정책의 변천과정에 관한 연구( 조 성 제) 7 전후 서독경제 고성장( ) 의 원인과 성격에 관한 연구( 이 헌 대) 8 중국 첨단기술산업개발단지 성장과 발전( 유병주 신광철) 9 전자상거래 발달과정에 관한 연구( 김 갑 성윤옥) 10 女 性 CEO 姜 善 鎬 회장의 의료창업정신과 의료법인 동화의료재단의 발전( 李 建 喜 ) 11 한영캉가루의 성장과 여성CEO 姜 惠 淑 의 기업활동( 高 承 喜 ) 12 중남미 학술조사 기행문( 金 相 圭 林 外 錫 ) 13 제12 회 한국경영사학회 국제학술심포지엄 및 해외학술탐사( 유 성 기) 14 산업구조의 변화를 통해 본 지역경제의 고찰( 金 泰 明 ) 33 第 19 輯 第 1 號 ( 通 卷 33 號 ) (2004 年 6 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 日 本 의 勞 動 運 動 변천과정과 勞 使 關 係 發 展 ( 이 원 우) 2 戰 前 日 本 資 本 市 場 과 商 人 組 織 ( 李 明 輝 ) 3 韓 國 鐵 道 와 産 業 得 興 五 個 年 計 劃 ( 林 采 成 ) 4 The Evolution of Theories Foreign Direct Investment(Hwy-Chang Moon)) 5 南 阿 共 흑인정부 10 년의 經 濟 改 革 과 向 後 전망 ( 金 誠 恂 ) 6 中 國 주강삼각주 유역경제의 形 成 및 歷 史 的 변천에 寬 限 硏 究 ( 조 대 우이 상 빈) 7 日 本 기업간시스템의 변천과정 - 日 本 化 學 섬유산업의 事 例 ( 李 亨 五 ) 8 Estimating Elasticities of Demand and supply for South African Manufactured Exports Using a Vector Error Correction Model (Lungisile Ntsebeza) 282

275 附 錄 9 葛 藤 管 理 유형으로 본 韓 國 勞 使 關 係 의 發 展 過 程 ( 장 동 운) 33 第 19 輯 第 2 號 ( 通 卷 34 號 ) (2004 年 11 月 25 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : 愛 敬 그룹 張 英 信 硏 究 1 愛 敬 그룹 創 業 者 張 英 信 會 長 의 生 涯 와 經 營 理 念 ( 金 聖 壽 ) 2 愛 敬 그룹의 企 業 文 化 ( 高 承 禧 ) 3 愛 敬 그룹의 成 長 과 發 展 ( 李 承 郁 ) 4 愛 敬 그룹의 經 營 革 新 活 動 과 經 營 戰 略 ( 李 建 憙 ) 5 愛 敬 그룹 張 英 信 會 長 의 社 會 的 責 任 에 대한 硏 究 ( 金 榮 來 宋 永 旭 ) 6 韓 國 經 營 思 想 愛 敬 그룹의 位 相 ( 李 漢 九 ) 34. 第 19 輯 第 3 號 ( 通 卷 35 號 ) (2004 年 12 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 동북아 시대에 있어서 한국기업의 향후진로( 최 종 태) 2 Cooperation among Japan, Korea, China Through Sharing Business and Cultural Advantages ( 문 휘 창) 3 北 東 アジアにおける連 携 の模 索 ( 厚 東 偉 介 ) 4 実 利 問 われる日 韓 FTA( 深 川 田 起 子 ) 5 The Future Development of Chinese Enterprises In Northeast Asian Era (Liu Junsheng) 6 中 韩 经 贸 合 作 关 系 的 若 干 问 题 ( 刘 瑞 卢 鹏 起 ) 7 중국 국유기업제도 개혁에 관한 역사적 접근( 백 권 호) 8 앙트러프러너십(Enterpreneurship)과 이노베이션(Innovation)에 관한 고찰( 김 영 래) 9 The Impact of Industrial Revolution in England on Its Working-Classes' Standard of Living ( 한 도 숙) 10 리틀톤 회계사상의 문헌사적 연구( Ⅱ) ( 고 승 희) 11 전략적 제휴시각에서의 크로스 마케팅 에 대한 고찰( 조 강 필송 영 욱) < 부록> 제13 차 해외학술탐사 및 국제학술대회 ( 이 웅 호) 283

276 附 錄 35. 第 20 輯 第 1 號 ( 通 卷 36 號 ) (2005 年 6 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 1 민영화 이전 포항제철의 지배구조와 경영효율성 ( 김 용 렬) 2 실크로드와 그것이 한국문화에 미친 영향( 이 승 영) 3 한국 프랜차이즈 산업의 발전과 전망( 이 종 태, 성 민) 4 A Study on the Evolution of Modern Russian Capitalism( 심 경 섭) 5 효과적 인적자원개발 및 투자를 위한 인적자원회계 재조명( 장 영 철) 6 카자흐스탄의 회계 및 조세제도 ( 최 종 윤) 7 개성상인의 경영사상과 송도치부법의 논리구조 ( 고 승 희) 8 한국기업의 생성과 발전( 김 영 래) - 기업형성과 성장의 배경(1876 ~1979 년) 을 중심으로 第 20 輯 第 2 號 ( 通 卷 37 號 ) (2005 年 10 月 28 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : SPC그룹 허영인 硏 究 1 SPC초당 허창성 선생과 허영인 회장의 경영이념과 기업가 정신(김 영 래) 2 3 SPC 의 기업문화 연구( 이 문 선) SPC 경영 전략( 문 휘 창) 4.SPC 의 기업윤리 및 사회적 책임/ 공헌활동 ( 장 영 철 ) 5 6 SPC 그룹의 성장과 발전( 백 인 수) SPC 의 한국경영사학적 위상( 김 성 순) 35. 第 20 輯 第 3 號 ( 通 卷 38 號 ) (2005 年 11 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : 三 星 그룹 李 健 熙 硏 究 1 삼성 이건희 회장의 생애와 경영이념(김 성 수) 2 이건희 회장과 삼성의 국제경쟁력( 설 봉 식) 284

277 附 錄 삼성 이건희 회장의 기업활동과. 삼성 이건희 회장의 사회적 책임( 김 영 래 ) 삼성 이건희 회장의 기업문화관( 고 승 희) 경영혁신전략 ( 이 건 희) 6 한국기업경영학계에 있어서의 삼성의 위치( 김 신) 35. 第 20 輯 第 4 號 ( 通 卷 39 號 ) (2005 年 11 月 30 日 發 刊 ) < 論 文 > 特 輯 : 효성그룹 趙 洪 濟 硏 究 효성그룹 창업자 만우 조홍제 선생의 경영이념과 기업가 정신 만우 조홍제 회장과 효성의 기업문화 ( 서 인 덕) 효성그룹의 경영전략 ( 박 영 렬) 4 晩 愚 趙 洪 濟 선생의 사회적 책임 활동( 李 光 周, 姜 太 勳 ) 5 효성그룹의 성장과 발전( 이 한 구) 6 한국경제의 성장 발전상에서의 효성그룹의 역할과 위상( 박 광 서) ( 김 영 래) 285

278 附 錄 英 文 學 術 誌 The Journal of Business History 1. Volume 1, No.1(October 31, 2000) 1 The Industrialization Process and the Introduction of Scientific Management in Poland between 1863 and 1939(Jae-Kyoo Lee) 2 A History of the Cotton Manufacturing Industry In Russia To 1917 (Dong-Woon Kim) 3 A Study on the Historical Geography of East Sea(Shin Kim) 4 Chinese Worker's Value of Korean Manufacturing Companies in China (Byoung-Joo Ryu) 5 The Effect of the Number of Trades and Trade Size on the Price in a Security Market(Kyong-Shik Eom, Kwang-Ro Lee) 6 The German Manufacturing Industry-Old Achievements, New Challenges (Dr. Bernhard Seliger) 7 The Current Situation and Developing Future of The Non-State Owned Economy in China(Wang Kai) 2. Volume 2, No.1(October 31, 2001) 1 A Study on the Business History of California Steel Industries : Focusing on the Success Factor of Multinational Company(Sae-Young Kim) 2 Causes of the Great Depression( ) in the United States and Economic Policy (Hun-Dae Lee) 3 Applying the practical Science(Silhak) to the Philosophy of Ecommerce (Bong-Sik Sul, Jae-Hee Yoon) 4 The Industrial Revolution in Scotland(Dong-Woon Kim) 5 Appendix : The Studies on the Jong-Hyon Chey, Founder of SK Group 286

279 附 錄 社 團 法 人 韓 國 經 營 史 學 會 會 則 第 1 章 總 則 第 1 條 ( 名 稱 ) 本 學 會 는 韓 國 經 營 史 學 會 ( 이하 本 學 會 ) 라 한다. 第 2 條 ( 所 在 地 ) 本 學 會 의 事 務 所 는 大 韓 民 國 에 둔다. 第 3 條 ( 目 的 ) 本 學 會 는 經 營 史 에 관련된 學 術 硏 究 와 會 員 相 互 間 의 친목도모를 目 的 으 로 한다. 第 4 條 ( 事 業 ) 本 學 會 는 前 條 의 目 的 을 達 成 하기 위하여 다음의 사업을 행한다. (1) 經 營 史 와 이에 관련된 硏 究 와 調 査 (2) 會 誌 및 硏 究 業 績 의 刊 行 (3) 硏 究 發 表 會 및 公 開 講 座 의 開 催 (4) 本 學 會 와 目 的 을 같이하는 國 內 外 關 聯 機 關 과 産 業 界 와의 交 流 (5) 創 業 大 賞 選 定 에 관한 事 業 (6) 其 他 필요하다고 인정하는 關 聯 事 業 第 5 條 ( 機 構 ) 本 學 會 는 前 條 의 事 業 을 推 進 하기 위하여 다음의 委 員 會 를 두며 각 위원 회의 設 置 內 規 는 따로 定 한다. (1) 編 輯 委 員 會 (2) 創 業 大 賞 審 査 委 員 會 (3) CEO 大 賞 審 査 委 員 會 (4) 經 營 史 學 學 術 賞 審 査 委 員 會 (5) 企 業 史 硏 究 委 員 會 (6) 企 業 家 思 想 硏 究 委 員 會 (7) 組 織 委 員 會 (8) 弘 報 委 員 會 第 2 章 會 員 第 6 條 ( 會 員 의 構 成 ) 本 學 會 의 會 員 은 本 學 會 의 趣 旨 에 贊 同 하는 者 로 하고, 이를 區 分 하여 (1) 正 會 員, (2) 準 會 員, (3) 特 別 會 員, (4) 機 關 會 員 으로 한다. 第 7 條 ( 會 員 의 資 格 ) 正 會 員 은 大 學 및 專 門 大 學 의 專 任 講 師 이상의 者 와 硏 究 機 關 의 287

280 附 錄 硏 究 員 으로 한다. 準 會 員 은 經 營 史 에 관심을 가진 大 學 院 의 博 士 課 程 의 在 學 生 그에 준 하는 者 로 하고 그 加 入 은 理 事 會 에서 결정한다. 特 別 會 員 은 本 學 會 의 事 業 에 계속하여 贊 助 나 出? 을 하는 者 로 하고 그 加 入 은 理 事 會 에서 결정한다. 機 關 會 員 은 本 學 會 에 계속하여 찬조나 출연을 하는 機 關 ( 團 體 포함) 으로 하고 그 加 入 은 理 事 會 에서 결정한다. 第 8 條 ( 會 員 의 權 利 義 務 ) 本 學 會 의 會 員 은 소정의 會 費 를 納 付 하여야 하며, 本 學 會 의 諸 般 事 業 에 자유롭게 參 加 할 수 있다. 第 9 條 ( 會 員 의 資 格 喪 失 ) 1 本 學 會 의 會 員 으로서 다음 各 號 에 해당하는 者 는 그 資 格 을 喪 失 한다. (1) 會 員 自 身 의 脫 退 意 思 를 表 現 했을 때 (2) 本 學 會 의 名 譽 를 현저히 손상시켰을 때 2 前 港 의 (2) 에 해당하는 會 員 은 總 會 에서 이를 제명할 수 있다. 第 3 章 任 員 第 10 條 ( 任 員 의 構 成 ) 1 本 學 會 의 任 員 은 會 長, 副 會 長, 常 任 理 事, 理 事 및 監 事 로 構 成 한다. 2 理 事 會 는 會 長 1 人, 副 會 長 약간명, 常 任 理 事 20 명 內 外, 理 事 40 명 內 外 로 構 成 한다. 3 本 學 會 의 발전을 위하여 공헌하는 社 會 各 界 의 人 士 中 에서 理 事 會 의 議 決 을 거쳐 顧 問 및 諮 問 委 員 으로 추대할 수 있다. 第 11 條 ( 會 長 의 選 出 ) 會 長 은 理 事 會 의 推 薦 을 받은 者 또는 正 會 員 3분의 1이상의 推 薦 을 받은 者 로서 總 會 의 議 決 을 거쳐 選 出 한다. 第 12 條 ( 監 事 및 理 事 의 選 出 ) 1 監 事 는 總 會 에서 選 出 한다. 2 副 會 長, 常 任 理 事 및 理 事 는 會 長 의 推 薦 에 의해 總 會 에서 認 准 한다. 第 13 條 ( 任 員 의 任 期 ) 1 회장의 임기는 2 년으로 하고 중임할 수 없다. 2 부회장, 상임이사, 이사 및 감사의 임기는 2 년으로 하고 중임할 수 있다. 第 14 條 ( 任 員 의 權 限 ) 1 會 長 은 本 學 會 를 代 表 하고 會 務 를 總 括 한다. 2 副 會 長 은 會 長 을 補 佐 하며 會 長 의 有 故 時 에는 副 會 長 이 그 職 務 를 代 行 한다. 288

281 附 錄 3 常 任 理 事 는 會 長 의 主 帝 下 에 本 學 會 의 業 務 를 協 議 한다. 4 監 事 는 會 務 를 監 事 하고 필요하다고 인정할 때는 理 事 會 의 召 集 을 요구할 수 있으 며 理 事 會 에서 意 見 을 開 陳 할 수 있다. 5 顧 問 및 諮 問 委 員 은 本 學 會 의 發 展 을 위한 諮 問 을 할 수 있다. 第 15 條 ( 事 務 局 設 置 ) 1 本 學 會 에 事 務 局 을 두며, 會 長 은 常 任 理 事 중에서 事 務 局 長 을 임명한다. 2 會 長 은 필요한 경우, 사무국장 및 實 務 를 擔 當 할 幹 事 를 任 命 할 수 있다. 第 4 章 會 議 第 16 條 ( 總 會 ) 本 學 會 의 總 會 는 定 期 總 會 와 臨 時 總 會 로 區 分 하고, 定 期 總 會 는 年 1回 정기적으로 會 長 이 소집하며, 臨 時 總 會 는 會 長 이 필요하다고 인정하거나, 會 員 3분의 1 이상의 요구가 있을 때 이를 소집한다. 第 17 條 ( 議 決 事 項 ) 總 會 는 다음 사항을 의결한다. (1) 會 則 改 正 (2) 會 長 및 監 事 의 選 任 (3) 會 員 의 權 利 와 義 務 에 관한 事 項 (4) 事 業 計 劃 (5) 叡 算 및 決 算 (6) 기타 主 要 事 項 第 18 條 ( 理 事 會 ) 理 事 會 는 다음 事 項 을 議 決 한다. (1) 業 務 執 行 에 관한 事 項 (2) 事 業 計 劃 運 營 에 관한 事 項 (3) 豫 算 書 및 決 算 書 作 成 에 관한 事 項 (4) 總 會 에서 委 任 받은 事 項 (5) 會 則 에 의하여 그 權 限 에 속하는 事 項 (6) 기타 主 要 事 項 第 19 條 ( 定 足 數 ) 1 모든 會 議 는 會 員 多 數 의 參 席 으로 開 催 하고, 出 席 會 員 過 半 數 의 贊 成 으로 決 議 한다. 2 不 得 已 한 사유로 會 議 에 參 席 할 수 없는 會 員 은 議 決 權 을 會 長 및 出 席 委 員 에게 委 任 할 수 있다. 289

282 附 錄 第 20 條 ( 會 議 錄 ) 會 議 事 項 에 관하여는 반드시 會 議 錄 을 作 成 하여야 한다. 第 5 章 財 政 第 21 條 ( 財 政 ) 1 本 學 會 의 財 政 은 회원이 納 付 하는 會 費 와 寄 附 金, 補 助 金, 出 捐 金 및 기타 수입으로 충당한다. 2 會 費 는 理 事 會 에서 定 한다. 第 22 條 ( 會 計 年 度 ) 本 學 會 의 會 計 年 度 는 每 年 7月 1日 부터 다음해 6 月 末 日 까지로 한다. 附 則 第 1 條 1 本 會 則 에 規 定 되지 아니한 사항은 理 事 會 의 議 決 에 따른다. 2 本 學 會 의 總 會 나 理 事 會 에서 특별한 決 議 가 없는 한, 通 常 慣 例 에 따른다. 第 2 條 ( 施 行 ) 本 會 則 은 1986年 12月 9 日 부터 施 行 한다. 附 則 本 會 則 은 1991年 9月 1 日 부터 施 行 한다. 本 會 則 은 施 行 當 時 의 任 員 의 任 期 는 1993年 2月 28 日 까지로 한다. 附 則 本 會 則 은 1994年 7月 1 日 부터 施 行 한다. 附 則 本 會 則 은 1996年 6月 1 日 부터 施 行 한다. 290

283 附 錄 附 則 本 會 則 은 1997年 7月 1 日 부터 施 行 한다. 附 則 本 會 則 은 1999年 11月 20 日 부터 施 行 한다. 本 會 則 은 2004年 1月 1 日 부터 施 行 한다. 291

284 附 錄 社 團 法 人 韓 國 經 營 史 學 會 創 業 大 賞 規 程 第 1 條 ( 目 的 ) 本 規 程 은 우리나라 産 業 發 展 과 社 會 的 奉 仕 에 기여한 우수하고 모범적인 創 業 者 情 神 을 가진 자에게 創 業 大 賞 을 授 與 하는 것을 目 的 으로 한다. 第 2 條 ( 賞 勳 의 原 則 ) 本 創 業 大 賞 은 우리나라 産 業 發 展 에 功 勞 가 큰 創 業 者 와 企 業 의 社 會 的 責 任 에 크게 寄 與 한 經 營 者 에게 授 與 함을 原 則 으로 한다. 第 3 條 ( 大 賞 授 與 의 銓 衡 基 準 ) 創 業 大 賞 의 銓 衡 基 準 은 다음과 같다. 1. 創 業 者 情 神 과 理 念 (1) 創 業 者 情 神 (2) 經 營 理 念 (3) 經 營 思 想 (4) 經 營 者 의 資 質 (5) 企 業 家 情 神 2. 經 營 合 理 化 의 業 績 (1) 經 營, 技 術 의 革 新 (2) 企 業 의 成 長 度 (3) 生 産 性 의 向 上 度 (4) 企 業 의 國 際 化 3. 社 會 的 責 任 의 寄 與 度 (1) 經 濟 發 展 의 寄 與 度 (2) 後 繼 者 의 育 成 (3) 社 會 奉 仕 寄 與 度 (4) 産 業 環 境 에의 貢 獻 度 第 4 條 ( 大 賞 審 査 委 員 回 ) 1. 創 業 大 賞 의 授 與 大 賞 者 選 定 을 위하여 大 賞 審 査 委 員 回 를 둔다. 292

285 附 錄 2. 上 記 1項 의 委 員 의 構 成 은 韓 國 經 營 史 學 會 長 이 本 學 回 에서 學 文 과 人 望 이 두터운 任 員 을 委 囑 하되 9 名 以 下 로 한다. 3. 大 賞 授 與 는 理 事 會 의 認 准 을 받아야 한다. 4. 創 業 大 賞 審 査 委 員 回 는 創 業 大 賞 保 護 者 에 대한 推 薦 書 와 후보자의 槪 要 및 其 他 參 考 資 料 를 提 出 받아 審 査 를 한다. 第 5 條 ( 大 賞 및 副 賞 ) 創 業 大 賞 者 에게는 그의 功 績 을 기재한 象 牌 와 副 賞 을 授 與 하고 經 營 史 學 學 會 誌 에 전재하여 영원히 그 記 錄 을 남긴다. 第 6 條 ( 大 賞 授 與 時 期 ) 創 業 大 賞 은 每 年 定 期 總 會 에서 授 與 함을 原 則 으로 한다. 第 7 條 ( 附 則 ) 1. 本 規 程 에 定 하지 아니한 모든 事 項 은 韓 國 經 營 史 學 會 常 任 理 事 會 의 決 議 에 따라 施 行 한다. 2. 本 規 程 은 1994年 3月 1 日 부터 發 效 한다. 293

286 附 錄 < 양식 1> 創 業 大 賞 推 薦 書 對 象 會 社 名 創 業 者 代 表 者 ( 한글) ( 漢 文 ) ( 한글) ( 漢 文 ) ( 英 文 ) ( 한글) ( 漢 文 ) 住 所 ( 電 話 ) 業 種 主 製 品 區 分 大 企 業 中 小 企 業 其 他 ( ) 推 薦 者 所 機 屬 關 姓 名 ( 인) 電 話 294

287 附 錄 < 양식2> 創 業 大 賞 槪 要 所 在 地 會 社 名 代 表 者 ( 한글) ( 漢 文 ) ( 한글) ( 漢 文 ) 資 本 金 百 萬 원 本 社 ( 電 話 ) 工 場 業 種 主 製 品 從 業 員 數 賣 出 額 計 사무직 ( 電 話 ) ( 電 話 ) 생산직 區 分 大 企 業 中 小 企 業 其 他 ( ) 其 他 기술직 기능직 기타직 명 명 명 명 명 년 년 년 百 萬 원 千 달러 百 萬 원 千 달러 作 成 者 部 署 名 姓 名 ( 印 ) 전 화 百 萬 원 千 달러 (1) 會 社 沿 革 : (2) 創 業 情 神 과 經 營 哲 學 : * 기타 전형기준자료는 創 業 大 賞 規 程 第 3條 에 의한 所 定 의 評 價 資 料 를 임의로 작성하여 提 出 하도록 한다. 295

288 附 錄 社 團 法 人 韓 國 經 營 史 學 會 CEO 大 賞 規 程 第 1 條 ( 目 的 ) 이 規 程 은 우리나라 産 業 發 展 과 企 業 經 營 에 크게 寄 與 한 最 高 經 營 者 에게 CEO 大 賞 을 受 與 하는 것을 目 的 으로 한다. 第 2 條 ( 賞 勳 의 原 則 ) 本 CEO대상은 우리나라 산업발전에 기여한 최고 경영자와 기업의 사회적 책 임에 공헌한 자를 원칙으로 한다. 第 3 條 ( 賞 受 與 의 銓 衡 基 準 ) CEO 大 賞 의 銓 衡 基 準 은 다음과 같다. 1. 産 業 經 營 의 業 績 (1) 成 長 度 ( 매출액, 단기순이익) (2) 經 營 戰 略 (3) 生 産 性 向 上 (4) 世 界 化 진척도 (5) 經 營 革 新 (Innovation) 2. 社 會 的 責 任 의 寄 與 度 (1) 經 營 理 念 (2) 社 會 奉 仕 (3) 利 害 調 整 度 (4) 産 業 環 境 度 (5) 勞 使 關 係 의 調 整 3. 最 高 經 營 者 能 力 (1) 價 値 觀 (2) 리더쉽 (3) 人 間 關 係 (4) 正 直 性 (5) 精 進 力, 健 康, 推 進 力 296

289 附 錄 第 4 條 ( 賞 審 査 委 員 會 ) 1. CEO 大 賞 의 수여대상자 選 定 을 위하여 賞 審 査 委 員 會 를 둔다. 2. 上 記 1 項 의 委 員 會 構 成 은 本 學 會 長 이 學 界, 産 業 界, 言 論 界 人 士 中 에서 學 問 과 人 望 이 훌륭한 분을 委 囑 하되 그 人 員 은 7 名 으로 한다. 3. CEO 大 賞 授 與 는 理 事 會 의 追 認 을 받아야 한다. 4. 賞 審 査 委 員 會 는 CEO大 賞 者 에 대한 推 薦 書 와 對 象 者 의 申 請 書 및 其 他 參 考 資 料 를 提 出 받아 審 査 한다. 第 5 條 (CEO 大 賞 ) CEO 大 賞 은 産 業 分 野 의 業 績 과 社 會 的 責 任 및 寄 與 度, 最 高 經 營 者 能 力 등의 功 績 을 記 載 한 賞 牌 를 수여한다. 第 6 條 ( 賞 授 與 時 期 ) CEO 大 賞 每 年 授 與 할 수도 있다. 第 7 條 ( 其 他 準 據 ) 本 規 程 에 定 하지 아니한 모든 事 項 은 本 學 會 常 任 委 員 會 決 議 에 따라 施 行 한다. (1) ( 制 定 日 ) 이 規 程 은 1996年 11月 16 日 에 制 定 한다. (2) 改 正 된 本 規 程 은 2004年 5月 1 日 부터 施 行 한다. 297

290 附 錄 CEO 大 賞 槪 要 회사명 최고경영자 소 재 지 본사 공장 업종 주제품 구 분 대기업 중소기업 기타 ( ) 종업원수 계 사무직 생산직 기술직 기능직 기타직원 년 년 년 매출액 작성자 (1) 회사연혁 : 부서명 백만원 백만원 백만원 천달러 천달러 천달러 성 명 전 화 (2) CEO 의 경영철학 : (3) CEO 의 경력( 별지에 제출) * 기타 참고자료는 전문경영자대상규정 제3조에 의한 소정의 평가자료를 제출하도록 한다. 298

291 附 錄 CEO 大 賞 추천서 대 상 회사명 한 한 글 문 최 고 경영자 한 글 생년월일 한 문 주 소 전 화 업 종 대기업 주제품 특 기 구 분 중소기업 기타( ) 소속기관 추천자 성 명 ( 인) 전 화 사장실 자택 추천내용 : 299

292 附 錄 韓 國 經 營 史 學 會 學 術 賞 (SPC 學 術 賞 ) 및 最 優 秀 論 文 賞 規 程 第 1 條 ( 目 的 ) 이 規 程 은 韓 國 經 營 史 學 會 會 員 中 經 營 史 學 에 관련된 多 年 間 優 秀 한 硏 究 論 文 및 著 書 를 發 表 한 者 에게 經 營 史 學 學 術 賞 :SPC(Superb company with Passionate & Creative people) 學 術 賞 ( 이하 學 術 賞 이라 稱 한다) 및 當 該 年 度 最 優 秀 論 文 을 發 表 한 者 에게 最 優 秀 論 文 賞 授 與 에 關 한 事 項 을 規 程 함을 目 的 으로 한다. 第 2 條 ( 賞 勳 의 原 則 ) 본 學 術 賞 은 經 營 史 學 硏 究 에 관련된 優 秀 論 文 및 著 書 에 關 하여 學 術 賞 과 當 該 年 度 最 優 秀 論 文 賞 으로 各 各 나누어 授 與 함을 原 則 으로 한다. 第 3 條 ( 學 術 賞 審 査 委 員 會 ) (1) 學 術 賞 과 最 優 秀 論 文 賞 의 授 與 大 賞 者 選 定 을 爲 한 論 文 및 著 書 를 審 査 하기 위하여 學 術 賞 審 査 委 員 會 를 둔다. (2) 上 記 1項 의 委 員 會 構 成 은 學 會 長 이 委 員 을 委 囑 하되 그 人 員 은 7 名 以 內 로 한다. (3) 學 術 賞 授 與 는 理 事 會 의 認 准 을 받아야 한다. 第 4 條 ( 學 術 賞 및 副 賞 ) 學 術 賞 및 最 優 秀 論 文 賞 은 그 功 績 을 記 載 한 賞 牌 와 副 賞 (SPC學 術 賞 基 金 1抑 冤 의 收 益 金 중 2/3金 額 을 SPC 學 術 賞 副 賞 으로, 1/3 金 額 을 最 優 秀 論 文 賞 의 副 賞 ) 으로 한다. 第 5 條 ( 學 術 賞 授 與 時 期 ) 學 術 賞 및 最 優 秀 論 文 賞 은 每 年 定 期 總 會 에서 授 與 함을 原 則 으로 한다. 第 6 條 ( 其 他 準 據 ) 本 規 程 에 定 하지 아니한 其 他 事 項 은 常 任 理 事 會 의 決 議 에 의하여 施 行 한다 附 則 이 規 程 은 1999年 7月 1日 制 定 施 行 한다 이 規 程 은 2005年 12月 31日 制 定 施 行 한다 300

293 附 錄 社 團 法 人 韓 國 經 營 史 學 會 論 文 集 編 輯 委 員 會 設 置 內 規 第 1 條 ( 目 的 ) 이 規 程 은 韓 國 經 營 史 學 會 의 學 術 硏 究 誌 인 經 營 史 學 등의 發 刊 을 위한 編 輯 委 員 會 의 設 置, 運 營 및 그 編 輯 方 針 에 관한 事 項 을 規 定 함을 目 的 으로 한다. 第 2 條 ( 編 輯 委 員 會 ) 本 學 會 의 論 文 集 發 刊 을 위하여 經 營 史 學 發 刊 編 輯 委 員 會 를 설치, 운영한다. 第 3 條 ( 編 輯 委 員 會 의 構 成 ) 1 編 輯 委 員 은 會 長 이 任 命 하고 編 輯 委 員 會 는 7 인 이내로 구성한다. 2 編 輯 委 員 長 은 편집위원 중에서 호선으로 선출하며, 편집에 관한 일체의 업무를 관장 하고 그 결과를 회장에게 報 告 한다. 3 編 輯 委 員 의 任 期 는 1 년으로 하며 연임할 수 있다. 4 編 輯 委 員 會 는 在 籍 委 員 過 半 數 의 出 席 과 出 席 委 員 過 半 數 의 贊 成 으로 決 議 한다. 第 4 條 ( 編 輯 委 員 의 資 格 ) 編 輯 委 員 은 다음 각 호의 조건 모두를 충족하는 자 이어야 한다. 1 4 年 制 大 學 正 敎 授 2 硏 究 業 績 이 總 20編 이상인 자 3 最 近 2 年 以 內 에 國 內 外 學 術 會 議 에서 論 文 發 表 者 ( 또는 座 長, 討 論 者 ) 로서의 經 歷 이 4회 이상인 자 第 5 條 ( 業 務 ) 編 輯 委 員 會 는 다음의 事 項 을 執 行 한다. 1 論 文 集 發 刊 計 劃 의 樹 立 및 施 行 2 提 出 된 論 文 의 揭 載 與 否 審 議 3 기타 論 文 集 發 刊 編 輯 에 관한 第 6 條 ( 豫 算 ) 事 項 編 輯 委 員 會 의 運 營 에 필요한 經 費 는 本 學 會 의 豫 算 에서 執 行 한다. 第 7 條 ( 投 稿 資 格 ) 投 稿 者 는 原 則 的 으로 韓 國 經 營 史 學 會 의 會 員 에 限 한다. 다만, 會 員 과의 共 同 硏 究 자 및 招 請 된 寄 稿 者 는 例 外 로 한다. 第 8 條 ( 揭 載 論 文 의 責 任 ) 揭 載 된 論 文 의 責 任 은 執 筆 者 가 진다. 第 9 條 ( 揭 載 論 文 ) 揭 載 論 文 은 다른 刊 行 物 에 發 表 되지 아니한 것이어야 한다. 第 10 條 ( 揭 載 與 否 通 報 ) 301

294 附 錄 提 出 된 論 文 은 編 輯 委 員 會 에서 위촉하는 審 査 委 員 에 의한 審 査 가 이루어지고 審 査 結 果 에 따라 編 輯 委 員 會 에서 그 揭 載 與 否 를 決 定 하고 이를 執 筆 者 에게 通 報 한다. 第 11 條 ( 修 正 및 補 完 ) 編 輯 委 員 會 는 揭 載 된 論 文 內 容 의 修 正 이나 補 完 을 執 筆 者 에게 요구할 수 있다. 第 12 條 ( 審 査 基 準 ) 揭 載 된 論 文 의 審 査 基 準 은 다음과 같다. 1 硏 究 主 題 의 重 要 性 2 硏 究 方 法 의 妥 當 性 3 內 容 의 創 意 性 과 檢 證 性 4 理 論 的, 實 務 的 및 敎 育 的 其 餘 度 5 其 他 編 輯 技 術 上 의 要 件 에 適 合 與 否 등 第 13 條 ( 審 査 節 次 ) 投 稿 된 論 文 의 審 査 는 다음의 節 次 를 거쳐서 經 營 史 學 에 揭 載 한다. 1 經 營 史 學 투고요령에 따라 작성된 원고만 심사의 대상이 된다. 따라서 편집위원 장은 투고요령에 따르지 않은 원고에 대해서는 투고자에게 보완을 요청할 수 있다. 2 論 文 이 접수되면 編 輯 委 員 長 은 즉시 분야별 편집위원에게 2인의 審 査 委 員 선정을 의 뢰한다. 3 投 稿 된 論 文 은 2 인의 審 査 委 員 에 의해 비밀심사 ( 審 査 委 員 에게는 論 文 著 者 의 이름을 비밀로 하고 논문저자에게는 심사위원의 이름을 비밀로 하는 심사방법 ) 를 받는다. 심사 결과가 揭 載 可 와 揭 載 不 可 로 양분되는 경우 제3 심사는 편집위원이 행한다. 단, 論 文 의 내용상 제3자의 심사가 필요하다고 판단될 겨우 편집위원장이 제3의 심사위원을 선정할 수 있다. 4 編 輯 委 員 長 으로부터 논문심사를 의뢰받은 심사위원은 의뢰받은 날로부터 15일이내에 심사를 끝내고 그 결과를 편집위원회의 소정양식에 의거하여 서면으로 編 輯 委 員 長 에게 통지해야 한다. 선정된 심사위원의 불가피한 사정으로 논문심사를 할 수 없을 때에는 즉시 편집위원장에게 통보해야 한다. 5 編 輯 委 員 長 은 제3심사까지를 포함한 심사가 완료된 후 집필자에게 그 결과를 통지하 며 심사결과에 따라 논문의 수정을 요구할 수 있다. 6 編 輯 委 員 長 으로부터 論 文 의 수정을 요청받은 집필자는 수정을 요청받은 날로부터 15 일이내에 논문을 수정하여 編 輯 委 員 長 에게 다시 제출해야 한다. 집필자는 수정논문과 함께 수정요지를 제출하여야 한다. 집필자가 사유를 통보하지 않고 그 때까지 수정된 論 文 을 提 出 하지 않을 경우 자신의 논문심사과정으로부터 철회한 것으로 간주한다. 7 논문집필자가 수정하여 다시 제출한 論 文 은 1 차 시사자가 다시 심사하도록 한다. 8 編 輯 委 員 會 는 위의 과정을 통과한 논문만을 게재한다. 9 특별기고로 초청받은 논문의 경우도 위와같은 심사과정을 경유하여 필요한 수정을 302

295 附 錄 필한 후 게재한다. 10 편집위 원회 결정에 따른 편집위원회 위촉논문인 경우에는 논문심사를 생략할 수 있다. 第 14 條 ( 論 文 集 內 容 區 分 ) 論 文 集 內 容 은 硏 究 論 文, 硏 究 노트, 書 評 및 通 信 欄 으로 구분될 수 있다. 第 15 條 ( 論 文 의 體 制 ) 揭 載 되는 論 文 의 體 制 에 관한 事 項 은 編 輯 委 員 會 에서 정한다. 第 16 條 ( 揭 載 順 序 ) 論 文 의 揭 載 순서는 編 輯 委 員 會 가 논문을 접수한 날이 빠른 순서를 원칙으로 하고 編 輯 委 員 長 이 논문의 중요성과 독창성을 감안하여 이를 조정할 수 있다. 第 17 條 ( 論 文 揭 載 豫 定 證 明 ) 論 文 揭 載 豫 定 證 明 은 揭 載 가 確 定 된 後 에야 發 行 할 수 있다. 第 18 條 ( 版 權 ) 經 營 史 學 에 揭 載 된 論 文 의 版 權 은 韓 國 經 營 史 學 會 가 所 有 하는 것으로 한다. 第 19 條 ( 返 還 ) 投 稿 된 論 文 은 返 還 하지 아니한다. 第 20 條 ( 發 刊 時 期 ) 經 營 史 學 은 매년 2 회(6 월, 12 월) 발간한다. 단, 韓 國 經 營 史 學 會 의 特 別 硏 究 에 의한 特 輯 을 發 刊 하는 경우는 예외로 한다. 第 21 條 ( 投 稿 要 領 ) 經 營 史 學 에 揭 載 될 論 文 의 投 稿 要 領 은 따로 정한다. 第 22 條 ( 其 他 ) 本 內 規 에 규정되지 않은 사항은 텅상 관례대로 한다. 附 則 本 會 則 은 1991년 9월 1 일부터 施 行 한다. 本 會 則 施 行 當 時 의 任 員 의 任 期 는 1993년 2월 28 일까지로 한다. 本 會 則 은 1994년 7월 1 일부터 施 行 한다. 本 會 則 은 1996년 6월 1 일부터 施 行 한다. 本 會 則 은 1998년 7월 1 일부터 施 行 한다. 本 會 則 은 2003년 2월 25 일부터 施 行 한다. 303

296 附 錄 社 團 韓 國 經 營 史 學 會 法 人 經 營 史 學 편집위원회 논문제목 논 문 심 사 의 견 서 심사위원 소속 : 직위 : 성명 : ( 인) 1. 심사위원 평가사항 평가항목 평가내용( 해당점수에 표시) 1 연구주제의 적합성 평가점수: 20 점( ) 18 점( ) 16 점( ) 14 점( ) 12 점( ) 2 주제의 참신성 평가점수: 20 점( ) 18 점( ) 16 점( ) 14 점( ) 12 점( ) 3 연구방법의 타당성 평가점수: 10 점( ) 8 점( ) 6 점( ) 4 점( ) 2 점( ) 4 연구결과의 기여도 평가점수: 10 점( ) 8 점( ) 6 점( ) 4 점( ) 2 점( ) 논문의 구성 및 논리전개 문장표현 및 편집요건 충족여부 참고문헌, 각주, 영문요약의 적절성 종합점수 평가점수: 20 점( ) 18 점( ) 16 점( ) 14 점( ) 12 점( ) 평가점수: 10 점( ) 8 점( ) 6 점( ) 4 점( ) 2 점( ) 평가점수: 10 점( ) 8 점( ) 6 점( ) 4 점( ) 2 점( ) ( /100) 점 2. 심사위원 최종판정 판 정 내 용 판 정 비 고 (1) 무조건 게재(90 점 이상) ( ) 현재상태로 학회지에 게재할 수 있음. (2) 수정/ 보완 후 게재 가능 (80 점 이상) ( ) 지적사항이 수정된 후 학회지에 게재할 수 있음. ( 수정 및 보완 후 편집위원회가 평가) (3) 수정/ 보완 후 재심 (70 점 이상) ( ) 지적사항을 수정하여 재투고 ( 저자의 심사답변서 포함) 되었을 때 재심사를 함. (4) 게재불가(70 점 미만) ( ) 현재의 연구내용으로는 논문집에 게재할 수 없음. ( 1번과 2번 항목의 합이 30 점 이하인 경우도 해당) 무조건 게재 또는 수정 및 보완 후 게재가능으로 판정된 경우 편집위원장이 삼사( 판정) 결과에 따른 수 정 여부와 답변내용을 확인 후 바로 게재절차를 밟게 됩니다. 논문심사위원께서 수정 또는 답변 내용을 확인하고자 한다면 다음의 ( ) 의 표기해 주십시오. 확 인 희 망( 망 ( ) 304

297 附 錄 3. 심사위원 총평 ( 수정사항 ) 305

298 附 錄 經 營 史 學 投 稿 要 領 1. 투고자는 원고 3부를 디스켓 1 개와 함께 본 학회 편집위원회로 제출하여야 한다. 2. 원고의 접수일은 원고가 본 編 輯 委 員 會 에 도착한 날로한다. 3. 원고는 국문으로 작성하는 것을 원칙으로 하며 분량은 작성요령에 따라 200자 원고지 100 매 (A4용지 20 매) 내외로 한다. 4. 원고의 제1 면에는 원고제목, 투고자의 성명 및 소속기관, 연락주소 및 전화번호 등을 명기하고 원고매수를 표시한다. 단, 원고제목 및 투고자의 성명은 영문을 병기한다. 5. 원고 제2 면부터 본문에 들어가기 앞서 목차를 표시하고 본문을 작성한다. 6. 본문 作 成 時 順 序 表 示 는 I. 1. 1) (1) 1 의 數 字 를 차례로 사용하여 章, 節, 款, 項, 目 의 내용을 표시해야한다. 문장을 작성할 때 내용을 강조할 경우는 [ CDOTS ] 로 표시하고, 引 用 文 의 경우는 { CDOTS } 로 표시하여 각주로 인용한 문언을 나타내야 한다. 7. 학술용어는 될 수 있는 한 국문으로 쓰되 번역이 곤란한 경우에 한해 영문으로 쓸 수 있으며, 번역된 용어의 이해를 돕기 위해 영문을 괄호안에 넣어 덧붙일 수 있다. 8. 모든 표 및 그림은 선명하게 그리며 해당번호 ( 예< 표 1>), < 그림 3>) 와 제목 또는 설명을 붙여야 한다. 9. 脚 註 (Footnote) 는 최소화하되 꼭 필요한 경우에만 작성한다. 10. 脚 註 (Footnote)는 어구의 오른편 상단에 일련번호를 붙여 표시하고 그 내용은 각 면 아래 부분에 작성한다. 11. 참고문헌은 본문의 마지막에 장을 달리하여 기재한다. 참고문헌의 기재순서는 국문문헌, 외국어문헌의 순서로 하며, 국문문헌의 경우 가나다 순으로 일본문헌은 일본가나다 순으로, 영문문헌은 알파벳순으로 게재한다. 12. 본문 중 문헌인용의 경우 이름과 발표년도를 표기할 수 있다. 또한 정부분을 인용한 경우에는 페이지도 함께 기재할 수 있다. 13. 국문 논문인 경우에는 영문 초록을, 영문인 경우에는 영문초록을 반드시 작성해야 한다. 14. 영문제목과 영문 이름, 영문 소속을 반드시 기재한다. 15. 참고문헌의 표시방법은 아래와 같다. 306

299 附 錄 정기간행물의 경우 저자명, 年 度, 논문제목, 간행물이름 ( 국내문헌의 경우 고딕체로, 외국 문헌의 경우 이탤릭체로 표시), 권(Vol), 호(No), 페이지 순으로 한다. 정기간행물이 아 닌 경우는 저자이름, 연도, 도서이름 ( 국내문헌의 경우 고딕체로, 외국문헌의 경우 이탤 릭체로 또는 밑줄로 표시), 출판회수 (2 판이상 ), 출판지, 출판사 이름의 순으로 기재한다. 學 } [ 보기] 1 金 聖 壽 (1994), { 新 經 營 政 策 과 戰 略 }( 서울, 法 經 社 ) 2 高 承 禧 (1995), [ 東 亞 建 設 創 業 者 의 生 涯 와 經 營 理 念 ]( 韓 國 經 營 史 學 會 刊, { 經 營 史 3 평}, 第 11 輯, pp ). 손태원(1992), [ 공정보상에 대한 인식과 태도]( 황일청 : { 한국사회의 불평등과 형 서울: 나남, pp ). 4 Reily, A, Chatman, J., and Caldwell, D. F.(1991), "People and Organizational Culture: A Profile Comparison Approach to Assessing Person-Organization Fit", York Press Co., pp Academy of Management Journal,Vol.34,New 5 天 野 雅 敏 (1995), [ 近 代 的 파라다임의 轉 換 과 經 營 ]( 安 岡 重 明 天 野 雅 敏 共 編, { 近 代 的 經 營 展 開 }, 東 京, 岩 波 書 店, pp ). 16. 마지막 면에는 영문요약 (abstract) 과 key-word 를 A4용지 1 매 분량으로 작성한다. 附 則 본 투고요령은 1996년 3월 1 일부터 발효한다. 본 투고요령은 1998년 3월 1 일부터 발효한다. 307

300 附 錄 基 金 運 營 委 員 會 規 程 第 1 條 ( 目 的 ) 이 規 程 은 社 團 法 人 韓 國 經 營 史 學 會 에 출연한 基 金 運 營 에 필요한 事 項 을 정함을 目 的 으로 한다. 第 2 條 ( 基 金 의 造 成 ) 本 基 金 은 本 學 會 의 設 立 趣 旨 를 이해하고 支 援 하고자 하는 個 人 이나 機 關 이 韓 國 經 營 史 學 會 에 출연하는 各 種 출현기금으로 造 成 한 다. 第 3 條 ( 基 金 의 運 營 ) 本 基 金 은 長 期 的 인 價 値 安 定 對 策 의 一 環 으로 의거하여 金 融 機 關 의 證 書 로 運 用 한다. 第 4 條 ( 基 金 의 使 用 ) 本 基 金 은 學 會 의 事 業 目 的 修 行 과 出 損 者 및 出 損 目 的 에 따라 基 金 運 營 委 員 會 의 결의에 의하여 사용한다. 第 5 條 ( 基 金 運 營 委 員 會 構 成 ) 基 金 의 運 營 을 計 劃 하고 審 議 하기 위하여 韓 國 經 營 史 學 會 豫 算 下 에 基 金 運 營 委 員 會 를 設 置 한다. 本 委 員 會 는 韓 國 經 營 史 學 會 會 長, 副 會 長 3 인, 事 務 局 長 2 人, 常 任 理 事 중 1人 을 先 任 하여 7人 以 內 로 構 成 되며, 本 委 員 會 의 會 計 監 査 를 위하여 監 査 1 人 을 둔다. 第 6 條 ( 基 金 運 營 委 員 會 運 營 ) 1. 基 金 運 營 委 員 會 는 本 委 員 會 決 議 에 따라 運 營 委 員 長 1 人 을 先 任 한다. 2. 本 委 員 會 는 委 員 의 過 半 數 出 席 에 過 半 數 贊 成 으로 議 決 한다. 第 7 條 ( 會 計 報 告 및 監 査 ) 韓 國 經 營 史 學 會 會 長 은 基 金 의 財 産 現 況 및 輸 入 支 出 狀 況 을 每 會 計 年 度 末 에 書 面 으로 作 成 하여 基 金 運 營 委 員 會 檢 討 와 監 事 의 承 認 을 얻어야 하며, 이를 韓 國 經 營 史 學 會 總 會 에 報 告 하여야 한다. 附 則 本 基 金 運 營 規 定 은 2000年 3月 1 日 부터 施 行 한다. 308

301 附 錄 사단 법인 한국경영사학회 임원명단 ( ~ ) 309

302 附 錄 구 분 성 명 소 속 직장/ 핸드폰 자택/ 팩스 회 장 김영래 충북대 (043) (043) (043) 부회장 강태구 전남대 (062) 남명수 인하대 (032) (031) 문원석 제주대 (064) 문휘창 서울대 (02) (02) 서인덕 영남대 (053) (053) 신만수 고려대 (02) (031) (02) 이광주 단국대 (02) (02) (02) 이문선 한양대 (02) (02) (02) 이한구 수원대 (031) (02) (02) 장영철 경희대 (02) (02) (02) 조대우 충남대 (042) (042) (042) kr 상임 이사 김병순 단국대 (041) (02) 김상규 경원전문대 (031) (031) 김성기 충북대 (043) (02) 김창남 동아대 (051) 김태명 세명대 (043) (02) 박경희 이화여대 (02) (02) (02) 박성수 전남대 (062) (061) (02) 백인수 KIET (02) (02) 안영진 단국대 (02) (02) 회원 구분 평생 안종태 강원대 (033) (02) 양진환 강남대 (031) (02)

303 附 錄 구 분 성 명 소 속 직장/ 핸드폰 자택/ 팩스 상임 매일경제 (02) (031) 온기운 이사 논설위원 유성기 주미교수 (02) (02) 이광종 신흥대 (031) (02) (031) 이기동 계명대 (053) (053) (053) 이성준 우송대 (043) (042) 이승영 동국대 (02) (02) 이원우 숭실대 (02) (031) 이재규 대구대 (053) (053) 이제민 연세대 (02) (02) 이종원 수원대 (031) (031) 장상수 삼성경제연 (02) 구상무 전 형 단국대 (02) (02) 정재영 성균관대 (02) (02) (02) 정재훈 인하대 (032) 조성원 고려대 (041) (02) 채명수 한국외대 (02) 최정표 건국대 (02) (02) 황신모 청주대 (043) (043) (043) 감사 민승기 성균관대 (02) 서울시 마포구 성산동 ( 우) 송동섭 단국대 (02) [email protected] (02) [email protected] 사무 (043) 국장 조강필 충북대 (02) [email protected] 사무 (043) 차장 송영욱 충북대 [email protected] 이사 구본열 충북대 (043) [email protected] 이사 국승규 원광대 (063) (063) [email protected] 회원 구분 김 신 경희대 (031) [email protected] 311

304 附 錄 구 분 성 명 소 속 직장/ 핸드폰 자택/ 팩스 김강식 김남인 김동배 김동순 김동운 항공대 머니투데이 부국장 한국노동 연구원 중앙대 동의대 (02) (02) (02) (051) (051) 회원 구분 김병호 김상종 김선봉 김성국 김성순 김원중 김인호 김정식 박기찬 박동규 박상수 박진우 국민대 동국대 신흥대 이화여대 단국대 한성대 경원대 조선대 인하대 한울경영 연구소 충북대 한국외대 (02) (02) (031) (02) (041) (02) (032) (062) (032) (02) (043) (02) 박현희 단국대 박호환 백권호 서종규 아주대 계명대 동덕여대 (031) (053) (02) 손정훈 서울시립대 (02) 손태원 한양대 (02) (031) (042) (031) (031) (041) (02) (032) (02) (02) (053) (02) (02) 송재훈 우석대 (063) (02)

305 附 錄 구 분 성 명 소 속 직장/ 핸드폰 자택/ 팩스 신승국 용인대 (02) 신장철 숭실대 (02) 신황호 인하대 (032) 심상천 경원전문대 (031) 안광호 안춘식 오성동 오세영 유병주 유세준 유임수 인하대 한양대 조선대 동덕여대 충남대 이천대 이화여대 (032) (02) (062) (02) (042) (032) (02) (02) (031) (02) (02) (032) (02) (031) (02) (062) (062) (02) (042) (02) 회원 구분 이광로 이남구 이은재 이정도 건국대 건국대 단국대 경북대 (043) (043) (043) (043) (02) (043) (02) (02) (033) (053) (053) (053) 이종태 중앙일보 이헌대 경기대 (031) 이형오 숙명여대 (02) 이호건 청주대 (043) 이훈영 경희대 (02) 임달호 충북대 (043) 임외석 경원전문대 (031) 장광필 서울시립대 (02) 정수원 동서대 (051) 정준화 동아방송대 (031) (02) (02) (043) (031) (051) (051)

306 附 錄 구 분 성 명 소 속 직장/ 핸드폰 자택/ 팩스 정행득 주낙선 광운대 우석대 (02) (063) (02) (02) 자료없음 지성표 강릉대 (033) (033) 차일근 대진대 (043) 회원 구분 최단옥 최용록 최종태 한한수 현인규 인천대 인하대 서울대 경희대 순천향대 (032) (02) (032) 사용않함 (032) (02) (02) (02) (02) (031) (02) (031) (041) 고문 이현재 ( 전) 대한민국 학술원회장 (02) (02) 서울특별시 서대문구 상선동 255 번지 역대 회장 자문 김병하 (1,2 대) 황명수 (3 대) 김광수(4 대) 김성수 (5 대) 고승희 (6 대) 이건희 (7 대) 이승욱 (8 대) 이화여대 명예교수 1 (054) (031) 해외거주 (031) (02) (02) (02) 위원 편집 위원장 이한구 수원대 (031) 편집 (02) 위원 문휘창 서울대 신만수 고려대 (02) 장영철 경희대 (02) 이제민 연세대 (02) 박영렬 연세대 (02) 조성원 고려대 (041) (02) (02) (031) (031) (031) (02) (02) (02) [email protected] ( 별세) [email protected]( 학교) [email protected]( 집) [email protected] [email protected] [email protected] [email protected] [email protected] (031) [email protected] (02) (02) [email protected] (02) [email protected] [email protected] (02) [email protected] 314

307 附 錄 구 분 성 명 소 속 직장/ 핸드폰 자택/ 팩스 회원 구분 이동기 서울대 (02) 최정표 건국대 (02) (02) 연구분과 (02) 위원장 이건희 이화여대 (031) 행사분과 (02) 위원장 장영철 경희대 (02) (02) 학술대회 분과 위원장 이문선 한양대 (02) (02) (02) 홍보분과 (02) 위원장 이광주 단국대 편집분과 (031) 위원장 이한구 수원대 영문편집 (032) 위원장 남명수 인하대 (02) (02) (02) (02) (031) 창업자 관련이사 김석준 쌍용 회장 이건희 삼성 회장 신용호 김향수 이종호 정주영 구자경 손길승 교보 명예회장 아남산업 회장 중외제약 회장 현대건설 명예회장 LG화학 명예회장 SK그룹 회장 김승호 보령그룹회장 장영신 애경그룹회장 허영인 SPC그룹회장 315

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