식민지 대중문화와 ‘조선적인 것’의 변증법



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目 次 第 1 章 總 則 第 1 條 ( 商 號 )... 1 第 2 條 ( 目 的 )... 2 第 3 條 ( 所 在 地 )... 2 第 4 條 ( 公 告 方 法 )... 2 第 2 章 株 式 第 5 條 ( 授 權 資 本 )... 2 第 6 條 ( 壹 株 의 金 額 )..

經 營 史 學 第 20 輯 第 5 號 ( 通 卷 40 號 ) ち 得 たとはいえ 独 立 後 の 政 治 的 主 導 権 をめぐって 混 乱 が 続 いたのみなら ず その 後 勃 発 した 朝 鮮 戦 争 によって 国 土 は 荒 廃 し ようやく 経 済 再 建 に 向 かい 始 めるのは

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발간사

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대해서 대해 고맙게 생각하고 있습니다. 어느덧 交 通 放 送 은 96 年 상반기도 한 달여밖에 남지 않았습니다 우리 交 通 專 門 放 送 으로서의 역할에 최선을 다하고자 모든 일을 추진하고 있습니다. 委 員 해 주시기를 부탁드리겠습니다. 여러분께서 더욱더 사랑 그러면

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초대의 글 한국일본언어문화학회 회원여러분 그간 안녕하셨습니까? 어느덧 겨울이 성큼 다가오면서 으스스 추위를 느끼게 하고 있습니다. 재직 중인 회원님들께서는 입시철의 업무와 강요받는 대학 변화의 회오리 속에서, 신진 회원님들께서는 우리 학계의 발전을 기대하면서 연구에 박

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모두 언어와 상관없이 시국적 내용이다. 발표매체별 집필 수(K=조선어 N=일본어) 1939년 기사 등 K 文 章 3 三 千 里 2(좌담2포함) 女 性 1 作 品 1 東 亜 日 報 1 N 国 民 新 報 2 소설 K 文 章 년 기사 등 K 三 千 里 10(좌담4

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88 제2기 한일역사공동연구보고서 제5권 다. 2) 김종필 오히라 합의에 이르는 청구권 문제의 해결에 관해서는, 한국 측이 청구권을 포기하는 대신 한국 측의 요구에 근접한 금액을 일본 정부가 경제 협력 으로서 무상, 유상(정부 차관)의 방식으로 공여하는, 일본 정부가

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기본소득문답2

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편집완료

40 / 延 世 醫 史 學 제11권 제1호 세브란스병원의학교 제1회 졸업생이었던 신창희의 생애에 대해서는 그 동안 잘 알려져 있지 않았다. 그의 생애에 관한 개략적인 소개가 있었지만, 1) 여전히 많은 부분이 확인되지 않은 실정이다. 본고 또한 여전히 짧고 소략한 내용

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9정부의 답변은 횡설수설하여 이재민들을 극도로 분노하게 만들었고 직접 피해를 입지 않은 일반국민들까지도 분개했다. 政 府 の 答 弁 は 場 当 たり 的 で/ 二 転 三 転 し 被 災 者 たちは 怒 り 心 頭 に 達 し 直 接 被 害 を 受 けなかった 国 民 たちもかんか

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Transcription:

2015 翰 林 大 學 校 日 本 學 硏 究 所 國 內 學 術 심포지엄 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 日 時 : 2015 年 5 月 29 日 ( 金 ) 13:00~18:30 場 所 : 翰 林 大 學 校 一 松 記 念 圖 書 館 4 層 敎 育 室 主 催 : 翰 林 大 學 校 日 本 學 硏 究 所 後 援 : 韓 國 硏 究 財 團

일 정 29 ( 金 ) 1 접 수 12:40~ 2 사회 / 조정우 한림대 개회사 13:00~ 서정완 한림대 일본학연구소 소장 3 제1부 사회 / 조관자 서울대 일본연구소 13:10~ 메이지 후기의 척식교육론 오쿠마 도모유키 : 竹 越 与 三 郎 와 志 賀 重 昂 를 중심으로 홋카이도대학 대학원 13:40~ 사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지 조선에서의 식민정책론 박양신 한림대 일본학연구소 14:10~ 토론 이규수 고려대 한국사연구소 4 휴 식 14:40~ 5 제2부 사회 / 조형근 한림대 일본학연구소 15:00~ 제국 일본의 라디오 방송과 정지희 공감의 공동체로서의 아시아 구상 서울대 일본연구소 15:30~ 전시기 일본의 추리소설 연구 강태웅 : 방첩소설이라는 이명을 걷어내며 광운대 동북아문화산업학부 16:00~ 마이너리티의 언어, 제국의 언어 임성모 : 전간기 일본 에스페란토운동의 스펙트럼 연세대 사학과 토론 16:30~ 토론 서재길 국민대 국문학과 / 서호철 한국학중앙연구원 6 휴 식 17:10~ 7 제3부 17:30~ 종합토론 사회 / 서정완 한림대 일본학연구소 홍선영 한림대 일본학연구소 8 폐회 18:30 참가자 전원 9 만찬 19:00~

4 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 목 차 메이지 후기의 척식교육론 : 竹 越 与 三 郎 와 志 賀 重 昂 를 중심으로 7 오쿠마 도모유키 홋카이도대학 대학원 사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지 조선에서의 식민정책론 31 박양신 한림대 일본학연구소 제국 일본의 라디오 방송과 공감의 공동체로서의 아시아 구상 61 정지희 서울대 일본연구소 전시기 일본의 추리소설 연구 : 방첩소설이라는 이명을 걷어내며 75 강태웅 광운대 동북아문화산업학부 마이너리티의 언어, 제국의 언어 : 전간기 일본 에스페란토운동의 스펙트럼 91 임성모 연세대 사학과 참가자 PROFILE 99

明 治 後 期 の 拓 殖 教 育 論 : 竹 越 与 三 郎 と 志 賀 重 昻 を 中 心 に 大 熊 智 之 (오쿠마 도모유키) 일본 홋카이도대학

明 治 後 期 の 拓 殖 教 育 論 : 竹 越 与 三 郎 と 志 賀 重 昻 を 中 心 に 7 明 治 後 期 の 拓 殖 教 育 論 : 竹 越 与 三 郎 と 志 賀 重 昻 を 中 心 に 大 熊 智 之 北 海 道 大 學 < 目 次 > はじめに 1. 明 治 後 期 における 日 本 人 論 としての 植 民 論 2. 竹 越 与 三 郎 の 拓 殖 教 育 論 2-1 植 民 教 育 論 2-2 植 民 文 学 論 3. 志 賀 重 昻 の 拓 殖 教 育 論 と 実 践 3-1 植 民 生 活 精 神 涵 養 意 見 3-2 志 賀 重 昻 の 拓 殖 教 育 の 実 践 おわりに はじめに 近 代 日 本 と 植 民 地 の 歴 史 について 考 えるとき 教 育 が 及 ぼした 影 響 は 重 要 な 参 照 点 となる これまで 植 民 地 教 育 史 は 豊 富 な 研 究 蓄 積 を 積 み 重 ねてきた それに 比 べると 出 移 民 と 教 育 の 問 題 すなわち 人 材 養 成 としての 拓 殖 教 育 の 歴 史 をめぐっては 解 明 されていない 部 分 が 多 い しかし 植 民 地 で 活 動 す る 主 体 の 一 方 の 当 事 者 である 植 民 者 たちがどのような 教 育 を 受 けて 来 た 者 であるのかを 解 明 すること は 植 民 地 の 歴 史 を 明 らかにするのに 重 要 な 手 がかりをくれるはずである また 拓 殖 教 育 の 現 場 は 植 民 政 策 学 を 一 般 に 教 授 する 場 でもあった すなわち 植 民 をめぐる 学 知 と 植 民 者 を 媒 介 するものであるといえる 以 上 の2つが 拓 殖 教 育 という 素 材 を 取 り 上 げる 理 由 である 拓 殖 教 育 をめぐる 従 来 の 研 究 では 国 家 による 拓 殖 教 育 への 関 与 の 問 題 を 中 心 として 1930 年 代 後 半

8 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 以降の国策移民の養成を担った移植民学校が主にとりあげられ その政策的意図や教育実態が明らかに されてきた1) 本稿では拓殖教育の歴史を検討するための基礎的な作業として 研究のきわめて少ない初 期の拓殖教育論の特徴を把握することを目的とする 拓殖教育および植民政策学の黎明期にあたる明治 後期にあって 在野の代表的な植民論者であった竹越与三郎と志賀重昻に着目して検討する 本稿で使用する 拓殖教育 という用語について簡単に説明しておきたい 本稿では 移動する人材 の養成を包括的に表す用語として便宜上 拓殖教育 を用いる 移民教育 植民教育 移 植民教育 という語はいわゆる在外子弟教育 移住先における2世教育 を含む用語として さらに 移 民教育 は受入国が移民者に施す教育 植民教育 はしばしば植民地で宗主国が行う異民族教育 を表す際にも用いられるからである これらの用語と異なり 拓殖教育 は 移動する人材の養成を主たる 意味内容とするものとして考える 1 明治後期における日本人論としての植民論 検討をはじめるに先立って 当時の言論界で活発に展開された 日本人論としての植民論 の傾向を 整理して 拓殖教育論の主要な出自の1つを確認しておきたい 1900年を前後する時期に その時代の代表的な総合雑誌であった 太陽 と 中央公論 に 殖 民的国民としての日本人 という同じ題名を持つ文章が掲載されている2) 2つの文章は ともに日本人の 殖民的国民 としての資質を検討したものであるが その論じ方は大きく異なっている 一方は 歴史 民族の出自という参照軸から日本人がまさに 殖民的国民 であることを証明しようとするのに対し 他方 は 日本人の 殖民的国民 としての資質に疑問を呈して 欧州の植民先進国を参照軸とし そこから教 訓を得ようとするのである 太陽 に掲載された高山林太郎による論説に特徴的なのは 歴史的 本質主義的に考察する論じ 1) 内原訓練所 満蒙開拓少年義勇軍についてある程度まとまった研究蓄積がある 内原訓練所史跡保存会事務局 満 州開拓と青少年義勇軍 創設と訓練 内原訓練所史跡保存会 1998年 白取道博 満蒙開拓青少年義勇軍史研 究 北海道大学出版会 2008年など そのほか主なものを挙げれば 大久保由里 戦時期 南方国策移民 訓 練機関の実態 拓南練成所を中心として 日本植民地研究 14号 2002年 拓殖訓練所 東京高等農林 学校拓殖学科を扱った佐藤一也 もうひとつの学校史 日本の拓殖教育 光陽出版社 2004年などがある 2) 高山林次郎 樗牛 殖民的国民としての日本人 太陽 5巻6号 1899年 里山 殖民的国民としての日 本人 中央公論 18巻6号 1903年 ただし 後者の目次上の題は 殖民的日本国民としての性格 移住労働 者の三大欠点 となっている

明治後期の拓殖教育論 竹越与三郎と志賀重昻を中心に 9 方である まず 日本民族の起源を論じてそれが 殖民的民族 であることを示し 日本の古代からの歴 史的事例のなかに 殖民的性格 を読み込む さらに 殖民的性格 を発揮することを阻害してきた要 素として鎖国政策という歴史的要因をとりあげている 中央公論 の論説は巻頭の社説で 執筆者は 里山 と記してある この論説では まず日本人 の問題点を指摘し 欧州各国の植民の状況を比較する そのなかから英国民を模範として選びその 自 主独立の精神 による植民の重要性を指摘した上で 日本人の植民的資質に対しての不安を表明した そして その対策として植民奨励の必要性を唱える 里山 は植民奨励の手段として 国民の教育法の 改善 資力や教育ある者による植民 婦人の渡航の奨励という三策を挙げている そのうち 筆頭に掲げ られ 最必要 とされたのは 教育の根本より注意し 時代の国民を改造 することであった このように 高山と 里山 に代表される1900年頃の日本人論としての植民論は 日本人の 殖民的 国民 としての資質について それを日本の歴史によって検討しようとする本質主義的なものと 欧州各国の 植民の現況との比較から教訓を得 教育によって国民性を改造しようとするものが存在した 拓殖教育論は 基本的に後者の論じ方から導き出されるといえよう こうした2つの論じ方は その後 時に新しい要素を付け くわえられ 時に両者が接続されながら 多くの論者によって反芻されることになる 2 竹越与三郎の拓殖教育論 2 1 植民教育 論 竹越与三郎は 1865年に埼玉県に生まれた 三叉の号でも知られるジャーナリスト 歴史家 政治家 である 新潟で漢学を学んだ後上京し 1881年に慶応義塾に入学して 福沢諭吉の思想的影響を受け た 慶応義塾を中退した後は 同志社出身のキリスト者と親交を結び また民友社の有力な一員となると 国民之友 などで旺盛に執筆活動を展開した 1896年には開拓社を起こしてみずから雑誌 世界之日 本 を創刊している さらに 西園寺公望らと交わると1902年衆議院議員として政界に進出し 貴族院議 員も含めて政治活動も長きにわたった また 歴史家としても知られている 竹越は早くは1903年に 現今の教育に対する希望 と題した文章のなかで 日本は列強にならぶ 殖 民的勢力 にならなければならぬとして 小学校から勇敢に遠征する精神を読本で教えること 中学校でも 省略できる科目はできるだけ減らして植民学科を加えるべきだと主張していた3) 1905年の 殖民教育を起こすべし では 単に小中学校の地理科を盛んにすればよいという程度のもの 3) 竹越与三郎 現今の教育に対する希望 教育報知 651号 1903年 9頁

10 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 特殊専門 殖民教育 起 主張 理由 同年 保護国 韓国 施政 理由 挙 竹越 保護国論 確認 彼 韓国 保護国 主張 彼 韓国 保護国 意義 日本 面倒 負担 回避 上 外交上 経済上 権利 獲得 存在 我邦 唯外交 権 霞 関 収 経済上 利益 我邦 吸収 定 最早足 様 負担 同化主義 反対 断髪 洋服 必要 廃止 必要 同化的政策 必 失敗 殖民史 一冊 読 決 為 様 過 犯 現在 日本 官吏 政治家 同化主義 失敗 経験 政策 転換 植民地 風俗習慣信仰 問題 干渉 専門 植民学校 植民教育 受 者 官 吏 植民地 就任 紹介 具体的 植民教育 論 展開 形論 植民文学及 植民教育 初出1910年 文章 主張 整理 竹越 国民 海外発展 志 経済的 必要 生理的 必要 国 家 成長 飛躍 時期 達 鳥 巣立 自然 羽 何 海外 飛出 人 増 説明 国民 雄心 巧 導 点 日本 課題 指摘 方策 次 5 提案 ①学校教育 海外 発展 教 熱帯地方 職業 持 者 熱帯地方 事 情知 現状 ではなく の を こすべし であると した その としては に と なった での を に げている ここで の を しておきたい は を にすべきだと した4) によれば を とする は が な を した で の を す ることに しており は の を ヶ に め の を に するといふことを むれば れりである 5) よって 々な のかかる には することになる6) で にさせる もなければ ハングルを させる もなく そうした をとれば ず するという こうした の を んだものは して ない な ちを しているのが の の だとする による を したフランスは を して の などの には し ないことになった それだけでなく フランスには の があり を けた でなければ として に することができないと している それでは にはどのような を していたのか もっともまとまった で じられている び という からその を してみたい7) は が を すのは な というよりは な であるとする すなわち が して の に すれば あたかも が って に ばたくかのように となく に したい という が えてくるのだと する したがって そうした の を みに いていかなけ ればならない この が の であると し として の つを する で に することについて えること で を とうとする は の を らなくてはならないが はそうなっていない 4) 竹越与三郎 鬼谷先生 朝鮮に於ける半上落下の政策 太陽 10巻14号 1904年 琴秉洞編 資料 雑誌にみ る近代日本の朝鮮認識 第1巻 緑陰書房 1999年 257頁 5) 竹越与三郎 妹邦 か 勝国 か 読売新聞 1905年11月2日 比較殖民制度 読売新聞社 1906年 194 頁 竹越の保護国論に見られるような植民思想を정애영は 저코스트 식민론 と評している 정애영 竹越与三 郎의 식민사상 저코스트 식민론의 원형 日本學報 第65輯2巻 2005年 6) 平石直昭は日露戦争期の竹越の議論を引きながら その同化主義批判のなかに 相手側に立って相手を理解しよう とする 抵抗主体としての朝鮮観 の存在を指摘している 韓国保護国論の諸相 独立と併合の間 戸水寛 人 竹越三叉 有賀長雄を中心に 宮嶋博史 金容徳編 近代交流史と相互認識Ⅱ 日帝支配期 慶應義塾大学出 版会 2005年 333-334頁 しかし 抵抗主体 としての朝鮮人が本国の財政を圧迫するということに竹越の 懸念の重点は置かれていた 同化主義はあくまでもそうした事態を誘発するものとして批判されていることに注意 する必要がある 7) 竹越与三郎 植民文学及び植民教育 三叉文存 至誠堂 1914年 359-382頁

明治後期の拓殖教育論 竹越与三郎と志賀重昻を中心に 11 ②もっとも優秀な少年を海外発展させるために 海外に雄飛する志を教えること 国内で失敗した者が鉄 道自殺するつもりで海外に出ているのが現状である ③植民地に行く者を助ける協会を設立すること 政府は密航者を取り締まるのではなく 公然と海外に渡 航する手助けをするべきである とくに婦人を送る協会が必要である ④海外発展の志を鼓舞する植民文学を興すこと 植民文学といえるものがほとんどないのが現状であ る ⑤植民専門の学校を設立すること 西洋各国には植民地へ行く官吏を養成する学校がある したがって 朝鮮に行く官吏が朝鮮語 朝鮮の制度歴史を知らないことが多い 第5の提案にある植民専門の学校については 次のように述べている 願は日本植民学校と云ふが如きものを造り 普通の生徒は一通りの植民地に適応すべき語学 及植民地の事 情を知るだけに止まり 更に高等なる者は高等の教育を受けて 植民地の官吏たると云ふが如き資格を得せし めるやうにしたい8) 実際 後に竹越は東京植民貿易語学校の設立計画に協力することになる 2 2 植民文学 論 先に紹介した 植民文学及び植民教育 でも提唱されていた通り 竹越の拓殖教育論の特徴として日 本における 植民文学 の欠乏を指摘し その立ち上げを主張することが挙げられる なぜ植民文学を重 視するかといえば 植民政策が成功するかどうかは 制度其のものゝ是非よりは寧ろ国民性如何に依る と ころが大きいと考えるからである9) 竹越の考える 植民文学 とはいかなるものか 彼によれば 我国の倭寇を始として古来海外に発展 した人々の事績甚だ少くない 之を詩に詠じ小説に書き歴史に伝へ論文に書いて 以て我国人の海外 発展の志を鼓舞する ものである10) イギリスは17世紀から 殖民文学 が興隆しそれが植民活動に大い に寄与してきたと評価し それに範をとるべきだとして各論説で繰り返し主張している 例えば東インド会社など を題材として大帝国建設の物語を書いたもの11) 他国で王となった山田長政の事績を小説にしたもの12) 8) 同上 382頁 9) 竹越与三郎 殖民文学を振起せよ 殖民世界 創刊号 1908年 6頁 10) 竹越与三郎 植民文学及び植民教育 三叉文存 至誠堂 1914年 378-379頁

12 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 提案 文学 子 読 国民 殖民的精神 を鼓舞する などを している こうした を どものころから ませることによって の ことができるという こうした の に したものであろうか に から が された13) は を の に せている 竹越 主張 同調 1908年 成功雑誌社 殖民文学 欄を持つ 殖民 世界 誌 創刊 竹越 殖民世界 殖民文学興隆 急先鋒 として歓迎する文章を創 刊号 寄 年来余の尤も遺憾とせるは 我国に未だ殖民に関する機関なき事なりき 而して又殖民文学の欠乏にてありき 本誌は能く其の欠陥を充たし 一面又殖民文学興隆の急先峰として現はれたるものにして 併せて殖民的知識 の普及のため 与つて力多かるべきは余の嘱望して喜ぶ処なりとす 願はくば自愛自重し 我が国民性をして 極めて適当に刺激し指導することを勗められよ 14) 殖民文学 を興し 殖民的知識 を普及させることで日本の国民性を指導する 殖民に関 機関 竹越が 殖民世界 誌を評価していたことが分かる ここからは する として 3 志賀重昻の拓殖教育論と実践 3 1 植民生活精神涵養意見 志賀重昻は多くの啓蒙的著作を著した明治大正期を代表する地理学者 評論家 政治家である15) 札幌農学校を卒業後 雑誌 日本人 の創刊に参加し国粋主義的な論を展開した 世界各地を航海し て回り地理学を開拓した 著書に明治期南進論を代表する 南洋時事 や 日本風景論 などがあ る 志賀は1907年に 植民生活精神涵養意見 を文部大臣に提出している16) そこから志賀の身体に拓 11) 竹越与三郎 現今の教育に対する希望 教育報知 651号 1903年 9頁 12) 竹越与三郎 殖民教育を起こすべし 教育時論 741号 1905年 3頁 13) 殖民世界 創刊号に掲載された 殖民文学 は堀内新泉の小説 南米行 と 児玉花外の詩 行く鴻 であっ た 14) 竹越与三郎 殖民文学を振起せよ 殖民世界 創刊号 1908年 6頁 15) 志賀重昻の移民論および北米 ハワイ在住の在外日本人を対象とした 移民教育論 を分析したものに 沖田行 司 伝統主義における移民及び移民教育論 志賀重昻の場合 キリスト教問題研究 33号 1985 年 韓国認識を分析したものに이규수 일본의 국수주의자, 시가 시게타카(志賀重昻)의 한국인식 민족문 화연구 45号 2006年がある

明治後期の拓殖教育論 竹越与三郎と志賀重昻を中心に 13 殖教育論を読み取ってみたい まず 自らの航海や各地の視察により見聞した知識から 日本人の移民 植民や航海における失敗例を西洋人と比較しながら列挙する 例えばフィジー島に移住した日本人移民は 風土不適格で失敗に終わったのに対し 西洋人は無事に永住を果たしていること 航海中や移住先で日 本人には脚気や熱病 水腫などの発症者 病死者が多数発生するのに対して西洋人には少ないことなど である また樺太での観察結果として ロシア人の生活は単純簡易を旨とし衣食住も単調であるのに対し 日本人の場合 食物は複雑で衣類も豊富であるにもかかわらず病気になる者が多いと指摘する このように 西洋人と日本人を比較し 西洋人が優れ日本人が劣っていることを強調している そして列 国が植民策を競っている時勢にもかかわらず 日本の移住者たちは南洋においても北海においても風土が 適さないと自ら公言している現状を嘆き 身体的に日本人が航海や移住先に適応できていないことを指摘す る その 解決策として志賀が提唱するのが 学生の間に 殖民生活の素養 を身につけさせることである 具体的には 修学旅行 天幕生活 缶詰調理法 野天に快く暮らす法などを挙げている こうした方法 で鍛えれば 全体に肉体が快活となり したがって 精神も快活と相成り おのずから 煩悶とか厭世と か もなくなると主張した 樺太におけるロシア人の簡素な生活を称賛していたことからも分かるように 志賀の提唱する 殖民生活 の素養 とは一見すれば近代的な衛生概念と相反する この点について 志賀は教育雑誌に執筆した論 説で次のように解説している 固より衛生なるものは堅く守り 秩序なるものは最も厳重に守らざるべからざるものなれども 一旦風土の変化に 会へば 衛生及び秩序以上の事を為し遂ぐるに非ずんば 世界に雄飛するに堪へずと信ずる17) 例えば 喉を暖めるのは衛生であるけれども 襟巻をしなければすぐに風邪を引くように虚弱ではとうてい植民 的事業に適応できないとする そこで普段から襟巻をしないこと 和服の下にはシャツを着ないことなどを推奨 している18) 日露戦後に台湾協会学校で行った 占領地に適当なる人格 という講演でも 野宿を苦にし ない精神的気象が占領地に適当な人格であるとして 衛生を守ると同時に衛生以上の事を為し得る人格 16) 志賀重昻 植民生活精神涵養意見 教育界 6巻3号 1907年 113頁 17) 志賀重昻 植民生活の涵養 現代壮少年の弱点 教育時論 782号 1907年 29頁 18) この時点での志賀の議論には身体は鍛えれば丈夫になるという基本的な認識がある 私は農学校に居る頃は痩 た玉ネギの様でしたが只今は此んな体になつて と自らの身体も鍛え上げて改造したことを誇示する 志賀重 昻先生講演 十月二十七日午後六時 同窓会報 17号 1913年 東洋協会専門学校同窓会 拓殖大学創立百 年史編纂室所蔵 45頁

14 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 作 台湾 韓国満洲将 樺太 後 善 学生 語 志賀 身体 頑丈 背景 札幌農学校時代 経験 札幌農学校 学 生当時 等 諸先生等 就 或 未開墾地 測量 行 或 土人 案内者 原人時代 山林 入 或 谷地 宿泊 先生 医学専門 植民的生活 最 必要 健全 身体 繰返教 現在 自分 身体 作 回想 札幌在学 頃 深 頭脳 銘 二事 氷 頭部 負傷 教師 治療 頼 際 凛然 語気 断 雪中行軍演習 際寒気 訴 学生 対 米国南北戦争中 防寒 用意 大雪 3日間露営 自 体験 聞 是 寒気 何 訴 叫 話 上級生 伝 聞 挙 農学校時代 印象的 過酷 環境下 耐 抜 身体 重要性 関 志賀 拓殖教育論 基礎 一端 札幌時代 示 衛生及 秩序以上 事 為 遂 力 植民者 必要 志賀 認識 札 幌農学校 彼 先輩 新渡戸稲造 程度共有 新渡戸 台湾協会 学生 対 行 講演 現時 日本 於 上品 紳士 不必要 諸君希 ( )大自然 戦 送 以 大人物 呼 単 良 植民者 大自然 開拓 挑 困難 耐 抜 覚悟 植 民者 必要 志賀 拓殖教育論 特徴 身体 着眼 少後 1920年代 大和魂 西洋肉体( ) 対 概念 大和( )肉体( ) 提唱 西洋肉体( ) 暑気 耐 対 大和( )肉体( ) を る ことによって た の を くする ことができると たちに りかけた19) がこのように の さにこだわった には の がある の ピーボチー ブルックス の に き は に に き は を として の に り は に したこと カッター より に も なるは なる であることを り し わったこと などが の の を ったと している20) さらに の に く に したる として により を し の カッターに を んだ たる で られたこと の を える に してクラークが に の もないまま のなか した らの を かせ れしきの に を へんとするかと ばれた という を から え いたことを げている21) に だったことがこのように な を え く の に するエピソードで あったことは の の の が にあったことを しているといえよう ところで び の を し ぐる が には であるという の は で の にあたる もある していた は で に して った のなかで の に てはレファインドジエントルマン の は である くば ママ と いフロンテヤライフを り て たれ と びかけている22) にジェント ルマンであるだけでは き にはなれない の に み に え く をもった である があるというのである23) このように の の は への であった し のものにはなるが に は からだ と となる として やまと からだ を している すなわち からだ は に えることができないのに して やまと からだ は 19) 志賀重昻 占領地に適当なる人格 台湾協会学校に於て 志賀重昻全集 第7巻 122-123頁 講演の年代 は 内容から日露戦争直後と推定される 20) 志賀重昻 植民的生活 北海道学生大会に於て 志賀重昻全集 第7巻 124頁 講演の年代は 内容から 日露戦争直後と推定される 21) 同上 125頁 クラークについての同様の逸話の紹介は志賀重昻 私の学生時代 志賀重昻全集 第8巻 にも見られる 志賀は逸話を紹介しながら クラークについて 農学校の学生は明に此人の感化を蒙り 以来其思 想をも支配されて居る と述べている 157頁 22) 新渡戸稲造 講演 植民者の覚悟 会報 25号 東洋協会専門学校同窓会 1915年 拓殖大学創立百年史編纂 室所蔵 6頁 23) 新渡戸は 植民教育の急務 という演説のなかで 植民教育 の必要性を強調している 東洋協会記事 植民 教育の急務 東洋時報 233号 1918年 57頁 新渡戸の拓殖教育論については 大熊智之 戦前期の北大関 係者と移植民教育 移植民学校への関与を中心に 北海道大学大学文書館年報 第7号 2012年 25-27 頁を参照

明治後期の拓殖教育論 竹越与三郎と志賀重昻を中心に 15 適合することができる したがって西洋人が発展することが困難な南方へと日本人は発展するべきだと説く 大和(やまと)肉体(からだ) は天が日本民族に与えた 絶好無二の本色 だというのである ここにおい て 志賀の身体に着目した拓殖教育論は本質主義的なものに転化していると見ることができる 3 2 志賀重昻の拓殖教育の実践 大正期に入ると志賀は実際に拓殖教育にかかわる活動を開始した まず東京植民貿易語学校という私 立学校の校長を務めたことである この学校は 大正三年十月頃 戦後に於ける我国民の海外発展を慮 つて 永井柳太郎 岸本源治 長澤孝享の三氏によつて当時の文相高田早苗氏 新渡戸稲造氏 松 岡均平氏 江木翼(たすく)氏 竹越与三郎氏などの賛助の下に計画された もので 一時計画が頓挫し たものの 最終的には新渡戸の熱心な働きかけによって1917年に私立各種学校として設立された24) 志賀 は同年9月に校長に就任し 東京都教育会の運営となる翌年7月まで務めている25) 就任にいたった経 緯 校長としてどのような活動をしたのかなどの詳細は不明であるが 実際に学校運営に関与していたことは 確認できる 東京植民貿易語学校に関与するのとほぼ同時期に 志賀は自宅を 無費用の海外発展補助機関 と して開放し 海外発展にかんする質問を訪問や書簡で受け付け それに回答する活動をはじめた26) 寄 せられた主な質問は ①外国に関する事項 ②外国への旅行案内 ③在外日本人の就業に関する件 ④在外日本人宿所の調査 ⑤外国行に関する参考図書の質問などで 北米 南米 南洋に関する質 問が多かった 問い合わせの書面は毎日少なくとも10通にのぼり 北海道と朝鮮からの問い合わせが 殊 更に多数なる 状況であった27) 24) 東京府教育会で創める植民貿易語学校 時事新報 1918年7月11日付夕刊 発行は7月12日 25) 学校の変遷 植貿 創刊号 東京植民貿易語学校同窓会 1929年 18頁 この資料によれば初代校長は新渡 戸稲造 第2代小林丑三郎 志賀が第3代である 26) 志賀重昂 無費用の海外発展補助機関成る 日本一 3巻6号 1917年 13頁 27) 志賀重昻 海外発展の根本精神 日本一 3巻9号 1917年 12頁

16 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 おわりに 以 上 検 討 してきたことから 明 治 後 期 の 拓 殖 教 育 論 の 特 徴 を 簡 単 にまとめたい 第 一 に 拓 殖 教 育 論 の 出 自 の 一 つとして 当 時 盛 んに 論 じられた 日 本 人 論 としての 植 民 論 のうち 西 洋 との 比 較 の 中 で 日 本 人 の 殖 民 的 国 民 としての 現 状 を 反 省 し その 改 良 を 目 指 す 論 じ 方 があったこ とを 指 摘 した 竹 越 と 志 賀 の 拓 殖 教 育 論 も 基 本 的 にはその 論 理 を 踏 襲 していたといえる そのうえで 竹 越 は 国 民 性 の 改 良 方 法 として 植 民 文 学 の 有 用 性 を 強 調 し 志 賀 は 身 体 を 鍛 えることの 重 要 性 を 強 調 した もっとも 志 賀 は 後 に 本 質 主 義 的 な 大 和 肉 体 論 を 提 唱 することになった 第 二 に 専 門 家 が 国 民 の 移 植 民 活 動 を 支 援 する 機 関 の 設 立 が 必 要 だと 考 えられていたことであ る したがって 竹 越 は 植 民 文 学 欄 をはじめとして 植 民 知 識 の 普 及 を 目 指 した 殖 民 世 界 誌 にそうし た 役 割 を 期 待 し その 誕 生 を 熱 く 歓 迎 した 志 賀 にいたってはみずから 無 費 用 の 海 外 発 展 補 助 機 関 を 構 え 一 般 からの 質 問 に 答 える 活 動 まで 行 った また 両 者 が 東 京 植 民 貿 易 語 学 校 に 関 与 していたことも 同 様 に 理 解 できるだろう

明 治 後 期 の 拓 殖 教 育 論 : 竹 越 与 三 郎 と 志 賀 重 昻 を 中 心 に 17 메이지 후기의 척식교육론 :다케코시 요사부로와 시가 시게타카를 중심으로 오쿠마 토모유키( 大 熊 智 之 ) 일본 홋카이도대학 대학원 문학연구과 < 目 次 > 들어가며 1.메이지 후기 일본인론으로서의 식민론 2.다케코시 요사부로의 척식교육론 2-1 식민교육 론 2-2 식민문학 론 3.시가 시게타카의 척식교육론과 실천 3-1 식민생활정신함양의견 3-2 시가 시게타카의 척식교육의 실천 나가며 들어가며 근대 일본과 식민지의 역사에 대해 고찰할 때, 교육이 미친 영향은 중요한 참조점이 된다. 지 금까지 식민지 교육사는 풍부한 연구를 축적해 왔다. 이에 비하면 출이민과 교육의 문제, 즉 인 재양성으로서 척식교육 의 역사에 대해서는 해명되지 않은 부분이 많다. 그러나 식민지에서 활 동하는 주체의 당사자 일반이 되는 식민자 들이 어떤 교육을 받아 온 자인가를 해명하는 것은, 식민지의 역사를 밝히는데 중요한 단서를 줄 것이다. 또한 척식교육의 현장은 식민정책학을 일반 에게 교수하는 장, 즉 식민을 둘러싼 학지와 식민자를 매개하는 것이라고 할 수 있다. 상기의 두 가지 점이 척식교육이라는 소재를 선정한 이유이다.

18 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 척식교육에 관한 종래의 연구에서는, 국가의 척식교육에 대한 관여 문제를 중심으로, 1930년 대 후반 이후의 국책이민 양성을 담당한 이식민학교가 주로 선정되어 그 정책적 의도와 교육실 태가 밝혀져 왔다 1). 본고에서는 척식교육의 역사를 검토하기 위한 기초적인 작업으로써, 연구가 극히 적은 초기의 척식교육론에 대한 특징 파악을 목적으로 한다. 척식교육 및 식민정책학의 여 명기에 해당하는 메이지 후기에 재야의 대표적인 식민론자였던 다케코시 요사부로와 시가 시게 타카에 주목하여 검토하였다. 본고에서 사용할 척식교육 이라는 용어에 대하여 간단하게 설명해 두겠다. 본고에서는 이동하 는 인재의 양성을 포괄적으로 표현하는 용어로서 편의상 척식교육 을 사용한다. 이민교육 식 민교육 이식민교육 이라는 말은 소위 재외자제교육(이민국에서의 2세 교육)을 포함하는 용어로 서, 그리고 이민교육 은 수입국이 이민자에 대하여 실시하는 교육, 식민교육 은 종종 식민지에서 종주국이 실시하는 이민족 교육을 표현하는 경우에도 이용되기 때문이다. 이러한 용어와는 달리 척식교육 은 이동하는 인재의 양성을 주된 의미 내용으로 가진 것으로 생각하였다. 1. 메이지 후기 일본인론으로서의 식민론 검토를 시작하기에 앞서, 당시 언론계에서 활발하게 전개되었던 일본인론으로서의 식민론 의 경향을 정리하여 척식교육론의 주요한 출생 중 하나를 확인해 두고자 한다. 1900년 전후의 시기에 그 시대의 대표적인 종합잡지였던 타이요( 太 陽 ) 과 추오코론( 中 央 公 論 ) 에, 식민적 국민으로서의 일본인 이라는 동일한 제명을 한 문장이 게재되었다 2). 두 문장은 모두 일본인의 식민적 국민 으로서의 자질을 검토한 것이나 논하는 방식은 크게 다르다. 한쪽은 역사 민족의 출생이라는 참조축에서 일본인이 확실하게 식민적 국민 이라는 것을 증명하려고 하는데 대하여, 다른 한 쪽은 일본인의 식민적 국민 으로서의 자질에 의문을 가지고 유럽의 식 1) 우치하라 훈련소 만몽개척 소년의용군에 대하여 어느 정도 정리된 연구 축적이 있다(우치하라 훈련소 사적보존 회 사무국 만주개척과 청소년 의용군 창설과 훈련 우치하라 훈련소 사적 보존회, 1998년 시라토리 미치히로 ( 白 取 道 博 ) 만몽개척 청소년 의용군사 연구 홋카이도 대학 출판회, 2008년 등). 그 외에 주된 것을 들자면 오쿠 보 유리( 大 久 保 由 里 ) 전시기 남방국책 이민 훈련기관의 실태 척남 연성소를 중심으로 일본식민지연구 14 호, 2002년, 척식 훈련소 도쿄고등농림학교 척식학과를 다룬 사토 가즈야( 佐 藤 一 也 ) 또 하나의 학교사 일본 의 척식교육 고요 출판사, 2004년 등이 있다. 2) 다카야마 린타로( 高 山 林 太 郎 )(쵸규( 樗 牛 )) 식민적 국민으로서의 일본인 타이요 5권 6호, 1899년 사토야마 식민적 국민으로서의 일본인 추오코론 18권6호, 1903년. 단, 후자의 목차상의 제목은 식민적 일본국민으로서 의 성격 이주노동자의 삼대 결점 이었다.

明 治 後 期 の 拓 殖 教 育 論 : 竹 越 与 三 郎 と 志 賀 重 昻 を 中 心 に 19 민선진국을 참조축으로 하여 거기에서 교훈을 얻고자 하였다. 타이요 에 게재된 다카야마 린타로( 高 山 林 太 郎 )의 논설에서 특징적인 것은 역사적 본질주의 적으로 고찰하는 방식이다. 우선, 일본 민족의 기원을 논하고 그것이 식민적 민족 이라는 것을 제 시하고, 일본의 고대로부터 이어진 역사적 사례 속에 식민적 성격 을 읽어 낸다. 그리고 식민적 성격 을 발휘하는 것을 저해해 온 요소로 쇄국정책이라는 역사적 요인을 들었다. 추오코론 의 논설은 권두의 사설에서 집필자는 사토야마( 里 山 ) 라고 기재하였다. 이 논설에서 는 우선 일본인의 문제점을 지적하고, 유럽각국의 식민 상황을 비교한다. 그 중에서 영국민을 모 범으로 선택하여 그 자주독립의 정신 에 의한 식민의 중요성을 지적한 후에, 일본인의 식민적 자질에 대한 불안을 표명하였다. 그리고 그 대책으로서 식민장려의 필요성을 제창한다. 사토야 마 는 식민장려의 수단으로서, 일본의 교육법 개선, 자질과 교육을 받은 자에 의한 식민, 부인의 도항 장려라는 3가지 정책을 들었다. 그 중 필두에 든 최중요 항목은 교육의 근본에서부터 주 의하여 시대의 국민을 개조 하는 것이었다. 이처럼 다카야마와 사토야마 로 대표되는 1900년경의 일본인론으로서의 식민론은, 일본인이 가진 식민적 국민 의 자질에 대하여, 그것을 일본의 역사에 비추어 검토하려고 하는 본질주의적 인 것과, 유럽 각국의 식민 현황과 비교하여 그로부터 교훈을 얻어 교육으로 국민성을 개조하려 고 한 것이 존재한다. 척식교육론은 기본적으로 후자의 방식에서 도출된다고 할 수 있을 것이다. 이러한 두 방식은 그 후, 때로는 새로운 요소가 첨가되고, 때로는 양자가 접촉되면서 많은 논자 로 하여금 반추되게 된다. 2. 다케코시 요사부로의 척식교육론 2-1. 식민교육 론 다케코시 요사부로는 1865년에 사이타마현에서 출생하였으며 산사( 三 叉 )라는 호로도 알려져 있는 저널리스트, 역사가, 정치가이다. 니가타에서 한학을 공부한 후에 상경하여 1881년에 게이 오기쥬쿠에 입학, 후쿠자와 유키치( 福 沢 諭 吉 )로부터 사상적 영향을 받았다. 게이오기쥬쿠를 중퇴 한 후, 도시샤( 同 志 社 ) 출신의 기독교 신자와 친교를 쌓고, 또한 민유샤( 民 友 社 )의 유력한 일원이 되어 국민의 벗( 国 民 の 友 ) 등에서 왕성하게 집필활동을 전개하였다. 1896년에는 가이타쿠샤( 開 拓 社 )를 설립하여 스스로 잡지 세계지일본( 世 界 之 日 本 ) 을 창간하였다. 그리고 사이온지 킨모치 ( 西 園 寺 公 望 )등과 교류하며 1902년 중의원으로 정계에 진출, 귀족원의원을 포함하여 오랜 기간에

20 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 걸쳐 정치활동을 하였다. 또한 역사가로서도 알려져 있다. 다케코시는, 일찍이 1903년에 오늘날의 교육에 대한 희망 이라는 제목의 글에서, 일본은 열 강에 비견될 정도의 식민적 세력 이 되어야 한다고 하며, 소학교 단계에서부터 용감하게 원정하 는 정신을 독본으로 가르칠 것, 중학교에서도 생략할 수 있는 과목은 가능한 줄이고 식민학과를 추가하여야 한다고 주장하였다 3). 1905년의 식민교육을 일으켜야 한다 에서는, 단순히 소 중학교의 지리과를 보강하면 된다는 정도가 아니라, 특수전문의 식민교육을 일으켜야 한다 고 주장하였다. 그 이유로 동년에 보호국 이 된 한국에서의 시정을 이유로 들고 있다. 여기에서 다케코시의 보호국론을 확인해 두고자 한다. 그는 한국을 보호국으로 하여야 한다고 주장하였다 4). 그에 따르면 한국을 보호국으로 하는 의의는 일본이 번거로운 부담 을 회피하고, 그 위에 외교상 경제상의 권리를 획득하는 데 그 의의가 있으며, 일본은 단순히 외교권을 가스 미가세키에 두고, 경제상의 이익을 일본이 흡수한다는 것이 정해지면 그것으로 만족한다 5). 따라서 여러 가지 부담이 있는 동화주의에는 반대하는 것이 된다 6). 단발과 양복을 입게 할 필 요도 없거니와, 한글을 폐지할 필요도 없으며, 그러한 동화적 정책 을 취하면 반드시 실패한다고 하였다. 이러한 식민사를 한 권이라도 읽은 자는 결코 하지 않을 법한 실수 를 범하고 있는 것 이 현재 일본의 관사 정치가들이라고 하였다. 동화주의의 실패를 경험한 프랑스는 정책을 전환 하여 식민지의 풍속습관신앙 등의 문제는 간섭하지 않도록 하였다. 그뿐 아니라 프랑스에는 전문 적인 식민학교가 있고, 식민교육을 받은 자가 아닌 경우에는 식민지로 취임할 수 없다고 소개하 였다. 그렇다면 구체적으로는 어떤 식민교육 론을 전개하였는가. 가장 정리된 형태로 논한 식민문 3) 다케코시 요사부로 현대 교육에 대한 희망 교육보지 651호, 1903년, 9쪽. 4) 다케코시 요사부로(기코쿠선생( 鬼 谷 先 生 )) 조선의 반상낙하 정책 타이요 10권14호, 1904년, 금병동( 琴 秉 洞 )편 자료 잡지에서 보는 근대 일본의 조선인식 제 1권, 녹음서방, 1999년, 257쪽. 5) 다케코시 요사부로 매방 인가 승국 인가 요미우리신문 1905년11월2일, 비교 식민제도 요미우리신문사, 1906 년, 194쪽. 다케코시의 보호국론에서 볼 수 있는 식민사상을 정애영은 저코스트 식민론 이라고 평가하였다(정 애영 다케코시 요사부로의 식민사상 저코스트 식민론의 원형 일본학보 제65집2권, 2005년). 6) 히라이시 나오아키( 平 石 直 昭 )는 러일전쟁기 다케코시의 논의를 인용하면서, 그 동화주의 비판 속에서 상대측에 서서 상대를 이해하려 한다 저항주체로서의 조선관 의 존재를 지적하고 있다 ( 한국보호국론의 제상 독립과 병합의 사이 도미즈 히론도( 戸 水 寛 人 ), 다케코시 산사, 아라가 나가오( 有 賀 長 雄 )를 중심으로 미야지마 히로시 ( 宮 嶋 博 史 ) 김용덕( 金 容 徳 )편 근대교류사와 상호인식Ⅱ 일제지배기 게이오기쥬쿠대학 출판회, 2005년, 333-3 34쪽). 그러나 저항주체 로서의 조선인이 본국의 재정을 압박한다는 점에 다케코시는 우려의 중점을 두었다. 동 화주의는 어디까지나 그러한 사태를 유발한 것으로서 비판을 받았다는 것에 주의할 필요가 있다.

明 治 後 期 の 拓 殖 教 育 論 : 竹 越 与 三 郎 と 志 賀 重 昻 を 中 心 に 21 학 및 식민교육 (초판1910년)이라는 글로 그 주장을 정리해 보고자 한다 7). 다케코시는 국민이 해외발전에 뜻을 두는 것은 경제적인 필요라기 보다는 생리적인 필요라고 하였다. 즉, 국가가 성장하여 비약의 시기에 달하면, 마치 새가 둥지를 떠나 자연으로 날갯짓 하 듯이 그냥 해외로 나가고 싶다 는 사람이 증가하게 되는 것이라고 설명한다. 따라서 그러한 국 민의 웅심을 능숙하게 이끌어야 한다. 이 점이 일본의 과제라고 지적하며 방책으로서 다음 5가지 를 제안하였다. 1 학교교육에서 해외발전에 대하여 가르칠 것. 열대지방에서 직업을 가지려고 하는 자는 열대 지방의 사정을 알아야 하나 현상은 그렇지 못하다. 2 가장 우수한 소년을 해외로 발전시키기 위해, 해외로 웅비하는 뜻을 가르칠 것. 국내에서 실패한 자가 철도자살을 할 생각으로 해외로 나가는 것이 현상이다. 3 식민지로 가는 자를 돕는 협회를 설립할 것. 정부는 밀항자를 단속할 것이 아니라 공연하 게 해외로 도항하기 위해 도와야 할 것이다. 특히 부인을 보내는 협회가 필요하다. 4 해외발전의 뜻을 고취하는 식민문학을 일으킬 것. 식민문학이라고 할만한 것이 거의 없는 것이 현상이다. 5 식민전문 학교를 설립할 것. 서양각국에는 식민지로 가는 관사를 양성하는 학교가 있다. 따라서 조선으로 갈 관사가 조선어, 조선의 제도 역사를 모르는 경우가 많다. 다섯 번째 제안의 식민전문 학교에 대해서는 다음과 같이 설명하였다. 소원은 일본식민학교와 같은 것을 만들고, 보통 생도는 일반적으로 식민지에 적응하여야 하는 어학, 및 식민지의 사정을 아는 정도로 하고, 더욱 고등인 자는 고등의 교육을 받아 식민지의 관사라고 할 수 있는 자격을 얻을 수 있도록 하고 싶다 8) 실제, 이후에 다케코시는 도쿄식민 무역어학교 설립 계획에 협력하게 된다. 7) 다케코시 요사부로, 식민문학 및 식민교육, 산사문존 지성당( 至 誠 堂 ), 1914년, 359-382쪽. 8) 상동, 382쪽.

22 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 2-2. 식민문학 론 앞서 소개한 식민문학 및 식민교육 에서도 제창된 바와 같이, 다케코시 척식교육론의 특징으 로 일본의 식민문학 의 결여를 지적하고 그 부흥을 주장하였다는 것을 들 수 있다. 왜 식민문학 을 중시하는가 하면, 식민정책 성공의 여부는 제도 그 자체의 시비보다는 오히려 국민성 여하에 달린 부분이 크다고 생각하였기 때문이다 9). 다케코시가 생각하는 식민문학 은 어떤 것인가. 그에 따르면 일본의 왜구를 비롯하여 고래 해 외로 발전한 사람들의 사적은 매우 많다, 이것을 시로 읊고, 소설로 써 역사에 전하여 논문으로 기록하여, 일본인의 해외발전의 뜻을 고무하는 것이다 10). 영국은 17세기부터 식민문학 이 융성하 여 그것이 식민활동에 크게 기여해 왔다고 평가하고 있으며, 이를 모범으로 삼아야 한다는 것을 각 논설에서 반복적으로 주장하였다. 예를 들면 동인도회사 등을 제재로 하여 대제국 건설의 이 야기를 쓴 것 11), 타국에서 왕이 된 야마다 나가마사( 山 田 長 政 )의 사적을 소설로 한 것 12), 등을 제안하였다. 이러한 문학을 어린 시절부터 읽게 함으로써 국민의 식민적 정신 을 고무할 수 있 다고 하였다. 이러한 다케코시의 주장에 동자한 것이었을까, 1908년에 성공잡지사에서 식민문학 란이 있는 식민세계( 殖 民 世 界 ) 지가 창간되었다 13). 다케코시는 식민세계 를 식민문학 부흥의 급선봉 으 로써 환영한다는 글을 창간호에 기고하였다. 연내 내가 가장 유감으로 생각하는 것은 우리나라에 아직 식민에 관한 기관이 없는 것이다. 그리고 또한 식민문학의 결핍이다. 본지는 그 결함을 충족하고, 다른 한편으로는 식민문학 융성의 급선봉으 로서 지금 나타난 것이므로, 함께 식민적 지식의 보급을 위해 힘이 될 부분이 많을 것이라는 것은 내가 촉망하여 바라던 바이다. 바라건대 자애자중하여 우리나라의 국민성을 매우 적당하게 자극하여 지도하기 위해 노력하라 14). 여기에서는 식민문학 을 일으켜 식민적 지식 을 보급시킴으로써 일본의 국민성을 지도하는 식 9) 다케코시 요사부로, 식민문학을 진작하라, 식민세계 창간호, 1908년, 6쪽. 10) 다케코시 요사부로, 식민문학 및 식민교육, 산사문존 지성당, 1914년, 378-379쪽. 11) 다케코시 요사부로, 오늘날의 교육에 대한 희망, 교육보지 651호, 1903년, 9쪽. 12) 다케코시 요사부로, 식민교육을 일으켜야 한다, 교육시론 741호, 1905년, 3쪽. 13) 식민세계 창간호에 게재된 식민문학 은 호리우치 신센( 堀 内 新 泉 )의 소설 남미행 과, 코다마 카가이( 児 玉 花 外 ) 의 시 가는 큰 새( 行 く 鴻 ) 였다. 14) 다케코시 요사부로, 식민문학을 진작하라, 식민세계 창간호, 1908년, 6쪽.

明 治 後 期 の 拓 殖 教 育 論 : 竹 越 与 三 郎 と 志 賀 重 昻 を 中 心 に 23 민에 관한 기관 으로써, 다케코시가 식민세계 지를 평가하고 있다는 것을 알 수 있다. 3. 시가 시게타카의 척식교육론과 실천 3-1. 식민생활 정신함양 의견 시가 시게타카는 많은 계몽적 저작을 집필한 메이지 다이쇼기를 대표하는 지리학자, 평론가, 정치가이다 15). 삿포로농학교를 졸업한 후에 잡지 일본인( 日 本 人 ) 창간에 참가하여 국수주의적 인 론을 전개하였다. 세계각지를 항행하며 지리학을 개척하였다. 저서에 메이지기 남진론을 대표 하는 남양시사( 南 洋 時 事 ) 와 일본풍경론( 日 本 風 景 論 ) 등이 있다. 시가는 1907년에 식민생활 정신함양 의견 을 문부대신에게 제출하였다 16). 여기에서 시가의 신체에 대한 척식교육론을 읽어 내고자 한다. 우선 자신의 항해와 각지의 시찰을 통해 견문한 지 식에서 일본인의 이민 식민과 항해의 실패례를 서양인과 비교하면서 열거하였다. 예를 들면 피 지섬으로 이주한 일본인 이민은 풍토부적격으로 인해 실패로 끝났으나 서양인은 무사히 영주에 성공한 것, 항해 도중과 이주국에서 일본인은 각기와 열병, 수종 등의 발병자와 병사자가 다수 발생하였으나 서양인은 그 수가 적은 것 등이다. 또한 사할린에서의 관찰결과로, 러시아인의 생 활의 모습은 단순 간편하며 의식주도 단조로운데 비하여, 일본인의 경우, 음식은 복잡하고 의류 도 풍부함에도 불구하고 질병에 걸리는 자가 많다고 지적하였다. 이처럼 서양인과 일본인을 비교하며, 서양인이 우수하며 일본인은 열등하다는 것을 강조하고 있다. 그리고 열국이 식민책을 경쟁하고 있는 시세임에도 불구하고 일본의 이주자들은 남양에서 도 북해에서도 풍토에 맞지 않는다고 스스로 공언하고 있는 현상을 한탄하며 신체적으로 일본인 이 항해와 이주국에 적응할 수 없다는 것을 지적하였다. 그 해결책으로서 시가가 제창한 것이 학생 시기에 식민생활 소양 을 익히게 하는 것이다. 구 체적으로는 수학여행, 텐트생활, 통조림조리법, 노천에서도 흔쾌히 생활하는 방법 등을 들었다. 이러한 방법으로 단련하면 육체가 전체적으로 쾌활해 지고 따라서 정신도 쾌활해 져서, 저절로 번민이나 염세 같은 것 도 없어질 것이라고 주장하였다. 15) 시가 시게타카의 이민론 및 북미 하와이 재주의 재외일본인을 대상으로 한 이민교육론 을 분석한 것에 오키 타 유쿠지( 沖 田 行 司 ), 전통주의의 이민 및 이민교육론 시가 시게타카의 경우 ( 기독교 문제연구 33호, 1985년), 한국인식을 분석한 것에는 이규수 일본의 국수주의자, 시가 시게타카( 志 賀 重 昻 )의 한국인식, 민족 문화연구 45호, 2006년이 있다. 16) 시가 시게타카, 식민생활 정신함양 의견, 교육계 6권3호, 1907년, 113쪽.

24 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 사할린에서 볼 수 있는 러시아인의 간소한 생활을 칭찬한 것에서도 알 수 있듯이 시가가 제창 하는 식민생활 소양 은 얼핏 근대적인 위생개념과는 상반된다. 이점에 대하여 시가는 교육잡지 에 집필한 논설에서 다음과 같이 해설하였다. 원래 위생이라는 것은 엄격하게 지키고, 질서라는 것은 가장 엄중하게 지켜야 하는 것이지만, 일단 풍토의 변화에 조우하여 위생 및 질서 이상의 일을 해내지 못한다면 세계로 웅비하기에 부적합하 다고 믿는다 17) 예를 들면 목을 따뜻하게 하는 것은 위생이지만, 목도리를 하지 않으면 금방 감기에 걸릴 듯이 허약해서는 식민적 사업에는 도저히 적응할 수 없다고 하였다. 그래서 평상시부터 목도리를 하지 말 것, 와후쿠 아래에는 셔츠를 입지 말 것 등을 권장하였다 18). 러일전쟁 후에 대만협회학교에서 실시한 점령지에 적당한 인격 이라는 강연에서도 노숙을 힘들어 하지 않는 정신적 기상이 점령 지에 적당한 인격이라고 하며, 위생을 지킴과 동시에 위생 이상의 일을 할 수 있는 인격을 만듦 으로써 대만, 한국 만주 혹은 사할린의 후를 능하게 할 수 있다고 학생들에게 말하였다 19). 시가가 이처럼 신체의 건강함을 중시한 배경에는 삿포로농학교시절의 경험이 있다. 삿포로농학 교의 학생 당시 피보티, 브룩스 등의 제 선생 등에 대하여, 혹은 미개간지를 측량하러 가거나, 혹 은 토인을 안내자로 하여 원인시대의 삼림에 들어가거나, 곡지에서 숙박 한 것, 커터선생(의학전 문)으로부터 식민적 생활에 가장 필요한 것은 건전한 신체 라고 반복적으로 가르침 받은 것, 등 이 현재의 자신의 신체를 만들어 왔다고 회상하였다 20). 그리고 삿포로 재학 시절에 두뇌에 깊 이 새겨둔 두 가지 로, 얼음 때문에 두부에 부상을 입어 교사인 커터에게 치료를 부탁하였을 때, 의연한 말투 로 거절당한 것, 설중 행군 연습 시에 한기를 견디고 있던 학생에게 클라크가 미국 남북전쟁 중에 방한에 대한 대비도 없이 대설 속에서 3일간 노영한 자신의 체험을 들려주며, 이 정도의 한기에 무슨 우는 소리는 하느냐고 혼이 났다 는 이야기를 상급생으로부터 전해들은 일화 17) 시가 시게타카, 식민생활의 함양(현재 장소년의 약점), 교육시론( 敎 育 時 論 ) 782호, 1907년, 29쪽. 18) 이 시점에서 시가의 논의는 신체는 단련하면 건강해진다는 기본적인 인식이 있었다. 나는 농학교 시절에는 마 른 양파같았지만 지금은 이런 몸이 되어서 라고 자신의 신체도 단련하여 개조한 것을 효시하고 있다( 시가 시 게타카 선생 강연(10월27일 오후 6시), 동창회보 17호, 1913년, 동양협회전문학교 동창회, 타쿠쇼쿠대학창립 백년사 편찬실 소장, 45쪽). 19) 시가 시게타카, 점령지에 적합한 인격(대만협회학교에서), 시가 시게타카 전집 제 7권, 122-123쪽. 강연 연 대는 내용으로 보아 러인전쟁 직후인 것으로 추정된다. 20) 시가 시게타카, 식민적 생활(홋카이도 학생 대회에서), 시가 시게타카 전집 제 7권, 124쪽. 강연 연대는 내 용으로 보아 러인전쟁 직후인 것으로 추정된다.

明 治 後 期 の 拓 殖 教 育 論 : 竹 越 与 三 郎 と 志 賀 重 昻 を 中 心 に 25 를 들었다 21). 농학교 시절에 인상적이었던 것이 이와 같이 가혹한 환경하에서 버텨내는 신체의 중요성에 관한 에피소드였다는 것은 시가의 척식교육론을 이루는 기초의 일단이 삿포로시절에 있었다는 것을 나타내는 것이라고 할 수 있다. 그런데 위생 및 질서 이상의 일을 해내는 힘이 식민자에게 필요하다는 시가의 인식은 삿포로 농학교에서 그의 선배였던 니토베 이나조( 新 渡 戸 稲 造 )도 어느 정도는 공유하고 있었다. 니토베는 대만협회에서 학생을 대상으로 실시한 강연에서 현대 일본에서는 리파인드 젠틀맨(품위있는 신 사)는 불필요하다. 제군들이여 부디 대자연과 싸워 프론티어 라이프를 보내 큰 인물이 되어라 고 호소하고 있다 22). 단순히 젠틀맨이기만 해서는 좋은 식민자가 될 수 없다. 대자연의 개척에 도전 하여 곤란에 싸워 이길 각오 를 가진 식민자여야 하는 것이다 23). 이처럼 시가의 척식교육론의 특징은 신체에 주목한 것이었다. 조금 이후가 되나 1920년대에는 일본의 혼(야마토 다마시이) 서양의 몸(세이요 카라다) 과 반대되는 개념으로 일본의 몸(야마토 카라다) 을 제창하고 있다. 즉 서양의 몸 은 더위에 버틸 수 없으나 일본의 몸 은 이에 적응할 수 있다. 따라서 서양인이 발전하기 어려운 남방으로 일본인은 발전하여야 한다고 설명하였다. 일본의 몸 은 하늘이 일본민족에게 준 절호무이( 絶 好 無 二 )의 본색 이라는 것이다. 여기에서 시가 의 신체에 주목한 척식교육론은 본질주의적인 것으로 바뀌었다고 볼 수 있다. 3-2. 시가 시게타카의 척식교육 실천 다이쇼기에 들어와 시가는 실제로 척식교육에 관련된 활동을 개시하였다. 우선 도쿄식민 무역 어학교라는 사립학교 교장을 지냈다는 것이다. 이 학교는 다이쇼 3년 (1914) 10월 경, 전후( 戦 後 ) 일본국민의 해외발전을 꾀하여 나가이 류타로( 永 井 柳 太 郎 ), 기시모토 모토하루( 岸 本 源 治 ), 나 가사와 타카유키( 長 澤 孝 享 ) 세명이 당시의 문부대신 다카타 사나에( 高 田 早 苗 )씨, 니토베 이나조 씨, 마쓰오카 긴페이( 松 岡 均 平 )씨, 에기 다스쿠( 江 木 翼 )씨, 다케코시 요사부로씨 등의 찬조하에 계획된 것으로 일시 계획이 좌절되었으나, 최종적으로는 니토베의 열성적인 활동으로 1917년에 21) 상동, 125쪽. 클라크에 대한 동일 일화의 소개는 시가 시게타카 나의 학생시절 ( 시가 시게타카 전집 제 8 권 )에서도 볼 수 있다. 시가는 일화를 소개하면서 클라크에 대하여 농학교의 학생은 이 사람의 감화를 받아 이후에 그 사상 역시 지배를 받았다 고 말하였다(157쪽). 22) 니토베 이나조, 강연 식민자의 각오, 회보( 會 報 ) 25호, 동양협회 전문학교 동창회, 1915년, 척식대학 창립 백년사 편찬실 소장, 6쪽. 23) 니토베는 식민교육의 급무 라는 연설에서 식민교육 의 필요성을 강조하였다 ( 동양협회 기사 식민교육의 급 무, 동양시보( 東 洋 時 報 ) 233호, 1918년, 57쪽). 니토베의 척식교육론에 대해서는 오쿠마 도모유키( 大 熊 智 之 ) 전전기의 홋카이도대학 관계자와 식민교육 이식민학교에 대한 관여를 중심으로, 홋카이도대학 대학 문서관 연보 제 7호, 2012년, 25-27쪽을 참조.

26 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 사립각종학교로서 설립되었다 24). 시가는 동년 9월에 교장으로 취임하여 도쿄시 교육회의 운영이 되는 이듬해 7월까지 근무하였다 25). 취임에 이른 경위, 교장으로서 어떠한 활동을 하였는가에 대 한 상세한 사항은 불명이나 실제로 학교 운영에 관여하였다는 것은 확인할 수 있다. 도쿄식민 무역어학교에 관여한 것과 거의 동시기에 시가는 자택을 무비용의 해외발전 보조기 관 으로 개방하고, 해외발전에 관한 질문을 방문과 서면으로 받아, 그에 답변하는 활동을 시작하 였다 26). 이때 받은 질문은 1외국에 관한 사항, 2외국 여행안내, 3재외일본인의 취업에 관한 건, 4재외일본인 숙소의 조사, 5외국행에 관한 참고도서에 대한 질문 등으로 북미 남미 남양 에 관한 질문이 많았다. 문의 서면은 매일 적어도 10통에 이르렀으며 홋카이도와 조선에서 온 문의가 특히 다수인 상황이었다 27). 나가며 이상의 검토에서 메이지 후기의 척식교육론의 특징을 간단히 정리해 두겠다. 첫 번째, 척식교육론의 출생 중 하나로서, 당시 왕성하게 논의되던 일본인론으로서의 식민론 중, 서양과 비교하여 일본인의 식민적 국민 의 현상을 반성하고, 논하는 방식이 그 개량을 목표 로 한 방식이었다는 것을 지적하였다. 다케코시와 시가의 척식교육론도 기본적으로는 그 논리를 답습하고 있다고 할 수 있다. 게다가 다케코시는 국민성의 개량방법으로서 식민문학의 유용성을 강조하며, 시가는 신체 단련의 중요성을 강조하였다. 단 시가는 후에 본질주의적인 일본의 몸 론을 제창하게 되었다. 두 번째, 전문가가 국민의 이식민 활동을 지원하는 기관 의 설립이 필요하다고 생각하고 있었 다는 것이다. 따라서 다케코시는 식민문학란을 비롯하여 식민지식 보급을 목표로 한 식민세계 지에 그러한 역할을 기대하고, 그 탄생을 뜨겁게 환영하였다. 시가에 이르러는 스스로 무비용 해외발전 보조기관 을 갖추고 일반인으로부터의 질문에 대답하는 활동도 실시하였다. 또한 양자 가 도쿄식민 무역어학교에 관여하였다는 것을 이와 마찬가지로 이해할 수 있을 것이다. 24) 도쿄부 교육회에서 시작하는 식민무역어학교, 시사신보( 時 事 新 報 ), 1918년7월11일자 석간, 발행은 7월 12일 25) 학교의 변천, 식무( 植 貿 ) 창간호 도쿄식민 무역어학교 동창회, 1929년 18쪽. 이 자료에 따르면 초대 교장은 니토베 이나조, 제2대 교장 고바야시 우시사부로( 小 林 丑 三 郎 ), 시가는 제 3대이다. 26) 시가 시게타카 무비용 해외발전 보조기관이 되다, 일본일( 日 本 一 ) 3권6호, 1917년, 13쪽. 27) 시가 시게타카 해외발전의 근본정신, 일본일 3권9호, 1917년, 12쪽.

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28 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 M E M O

사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지조선에서의 식민지정책론 박 양 신 한림대학교 일본학연구소

사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지조선에서의 식민지정책론 31 사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지조선에서의 식민지정책론 박 양 신 한림대학교 일본학연구소 <목 차> Ⅰ. 머리말 Ⅱ. 나가이 류타로의 식민정책론 Ⅲ. 마키야마 고조의 식민정책론과 조선 Ⅳ. 이타바시 기쿠마쓰의 조선 식민지 론과 행적 Ⅴ. 맺음말 Ⅰ. 머리말 1915년 8월 초 나가이 류타로( 永 井 柳 太 郞, 1881-1944) 와세다대학 교수는 조선공론사가 개최 하는 하계강연회에 연사로 초빙되어 조선을 방문하였다. 조선공론사는 마키야마 고조( 牧 山 耕 作, 1882-1961)가 1913년 설립하여 조선공론 을 발간하고 있던 잡지사이다. 나가이와 마키야마는 와세다대학 정치경제학과 1년 차-나가이가 1905년 졸업, 마키야마가 1906년 졸업- 선후배 사이 였다. 와세다 재학 시절 둘은 학생들이 중심이 되어 조직한 동아협회 에서 함께 활동하였다. 동 아협회는 와세다대학 설립자 오쿠마 시게노부( 大 隈 重 信 )가 이끄는 헌정본당의 정치가 이누카이 쓰요시( 犬 養 毅 )를 회장으로 하여, 아시아문제의 연구와 아시아에 관한 계몽운동을 전개했다고 한 다. 1) 대학 졸업 후 나가이는 영국 유학 후 모교 교수로 임용되어 식민정책과 사회정책 강좌를 1) 永 井 柳 太 郎 編 纂 会, 永 井 柳 太 郎 ( 頸 草 書 房, 1982), 45-46쪽. 이 협회는 그 밖에도 같은 헌정본당의 정치가 다케 토미( 武 富 時 敏 ), 고우무치( 神 鞭 知 常 ), 경제인 아메미야( 雨 宮 敬 次 郎 ) 등이 지원했으며. 오쿠마의 조언에 따라 후에 청한( 淸 韓 )협회 로 개칭했다고 한다. 회장을 맡은 이누카이는 대외문제에 있어 아시아주의적 성향이 강한 정치가 로, 특히 대륙낭인들과 인연을 맺어 그들로부터 입수한 정보를 토대로 중국문제에 깊이 관여한 것으로 알려져

32 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 담당하였고, 마키야마는 이누카이의 추천으로 조선으로 건너가 경성일보 창간에 참여한 뒤 2) 조 선공론사를 설립하는 등 식민지의 언론인으로 활동했다. 마키야마는 자신이 대학시절 오로지 식 민지의 학에 마음을 기울 였다고 밝힌 바 있다. 3) 그런 마키야마의 조선공론사에 1916년 이타바시 기쿠마쓰( 板 橋 菊 松, 1888-1983)가 일자리를 얻어 조선으로 건너왔다. 1908년에 와세다 정치경제학과를 졸업한 이타바시는 마키야마의 2년 후배였다. 그는 와세다 재학시절부터 식민사에 특별한 관심을 갖고 있었으며, 졸업 후 10여 년 간 저술업 등에 종사하면서도 식민사와 식민정책학, 사회정책학 연구만은 잊지 않고 계속해왔다 고 술회하였다. 이타바시는 그렇게 식민정책학 연구를 할 수 있었던 것을 은사 나가이 류타로 씨 의 각별한 지도 덕분이라고 감사의 뜻을 밝히고 있다. 4) 이타바시는 그 연구를 바탕으로 후에 사립 경성고등상업학교에서 식민정책학을 강의하게 된다. 와세다대학은 사립대학 중에서는 가장 빠른 1906년부터 식민학 관련 강좌를 개설한 것으로 보 인다. 5) 와세다대학 졸업생이 식민지로 어느 정도 진출했는지에 대해서는 정확한 통계가 없으나, 나가이는 1916년 만선( 滿 鮮 )시찰 후 우리 와세다대학 출신자는 이들 식민지에서 아직 중심인물 로 여겨질 정도로 발전한 것은 아니지만, 수적인 면에서 보면 어느 학교에도 뒤지지 않는다. 가 는 곳마다 와세다대학의 건아를 만난 것은 나의 마음을 든든하게 해주었다 6) 고 감상을 남겨 와 세다 출신의 식민지 진출 상황을 알리고 있다. 이러한 상황을 전제로 식민지 지역에서도 와세다 대학 교우회(동창회)가 만들어지기 시작했다. 이 교우회에 대한 한 연구에서는 도쿄제대 법학부 있다. 조선과의 관계에서는 갑신정변 이후 일본으로 망명한 김옥균을 지원한 바가 있다( 時 任 英 人, 明 治 期 の 犬 養 毅, 芙 蓉 書 房 出 版, 1996, 제5장 참조). 이누카이는 훗날 1931년 수상에 취임하고 이듬해 5.15사건으로 해군장 교에 의해 살해당했다. 2) 朝 鮮 公 論 社 編, 在 朝 鮮 內 地 人 紳 士 名 鑑 ( 朝 鮮 公 論 社, 1917), 370쪽. 3) 牧 山 耕 藏, 殖 民 地 統 治 に 関 して 大 隈 首 相 に 進 言 す, 朝 鮮 公 論 3-9(1915.9), 6쪽. 4) 板 橋 菊 松, 最 近 植 民 地 問 題 研 究 ( 京 城 : 巖 松 堂 京 城 店, 1921), 2쪽, 4쪽. 5) 메이지~다이쇼 시기에 와세다대학에서 행해진 강의과목과 담당교수를 정리한 자료에 의하면, 정치경제학과에서 아루가 나가오( 有 賀 長 雄 )가 1907년부터 1909년 1학기까지 식민정책( 殖 民 政 策 ) 을 담당하고, 1909년 2학기 이후 는 유학에서 귀국한 나가이가 식민정책( 植 民 政 策 ) 을 담당하였다( 石 山 昭 次 郎, 明 治 後 期 における 早 稲 田 大 学 の 教 員 および 担 任 課 目 - 明 治 三 十 五 年 九 月 より 明 治 四 十 二 年 八 月 まで, 早 稲 田 大 学 史 紀 要 9,1976.3; 石 山 昭 次 郎, 明 治 末 期 大 正 前 期 の 早 稲 田 大 学 教 員 と 担 任 課 目 - 明 治 四 十 二 年 より 大 正 八 年 まで, 早 稲 田 大 学 史 紀 要 10, 1977.3 참조). 그런데 이 논문이 토대로 한 원자료에는 1906년 9월~1907년 8월의 분이 결락되어 있다고 하는데, 와세다 대학출판부에서 간행된 이시구로 사다요시( 石 黑 定 美 )의 植 民 論 에 명치39년도[1906년] 강의록 이라는 주인( 朱 印 )이 찍혀 있는 것으로 보아 와세다대학의 식민학 강의는 1906년부터 시작된 것으로 보인다. 6) 岡 本 真 希 子, 東 アジア 地 域 における 早 稲 田 大 学 校 友 会 : 帝 国 日 本 のなかの 校 友 共 同 体, 早 稲 田 大 学 史 紀 要 44(2 013.2), 82쪽에서 재인용.

사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지조선에서의 식민지정책론 33 출신 문관고등시험 합격자가 식민지 관료의 다수를 차지하는 가운데, 식민지의 와세다 출신은 언 론 관계에서 활동의 장을 마련하고 있는 점이 하나의 특색이라고 지적하였다. 7) 본고에서 다룰 마키야마와 이타바시는 그 대표적인 인물이라고 할 수 있을 것이다. 본고에서는 종래 관학의 식민정책학과 관학 출신의 식민지 관료를 중심으로 이루어져오던 연 구에서 벗어나 재학시절부터 식민정책학에 관심을 기울였던 전술한 사학 와세다 출신 3인을 중 심으로, 이들이 제국-식민지 공간에서 전개한 식민정책론의 양상을 살펴보고, 나아가 사학 엘리 트의 식민지에서의 존재 방식의 한 단면도 아울러 제시하고자 한다. Ⅱ. 나가이 류타로의 식민정책론 1881년 가나자와( 金 澤 )에서 태어난 나가이는 16세에 교토로 옮겨 도시샤( 同 志 社 )중학교를 다녔 는데, 거기서 만난 스승 아베 이소오( 安 部 磯 雄 )의 영향으로 1901년 도쿄전문학교-1902년부터 와 세다대학으로 개칭-에 입학하였다. 1905년에 졸업하고 이듬해부터 아베의 알선으로 약 3년간 영 국에서 유학한 뒤 1909년 귀국하여 와세다대학에 교수로 임용되었다. 이후 1917년 학내 분쟁에 휘말려 대학을 사직하기까지 나가이는 와세다대학에서 식민정책과 사회정책을 강의하였다. 와세다대학출판부에서 간행된 나가이의 식민정책 강의록은 현재 1910년도부터 1913년도분까 지 4권이 남아 있다. 4권의 내용은 모두 동일하며, 이 강의록을 보완하여 1916년 간행한 것이 植 民 原 論 이다. 이 식민정책 강의록을 통해 나가이의 식민정책에 대한 기본 인식을 살펴보기로 한다. 8) 나가이는 먼저 총론에서 식민의 의미를 국민의 부분적 이주와 통치권의 확장이라는 두 요소 를 구비한 국민적 운동 으로 규정하였다. 9) 여기서 통치권의 확장 은 반드시 영토의 확장을 의미 하는 것은 아니라고 함으로써 소위 세력권도 식민 의 범주에 들어감을 암시하였다. 또한 식민의 목적에 대해서는 일정한 토지를 개척하고 그 토인( 土 人 )의 문화를 향상시켜 본국의 물질적 및 정신적 문명을 증진할 협력자를 만드는 데 있다 고 하고, 이런 목적을 달성하기 위해서는 본국인 의 이주를 필요로 한다고 강조하였다. 10) 뿐만 아니라 최근의 식민학 논의에서는 정치적, 경제적 7) 위의 논문, 73-74쪽. 8) 나가이의 식민정책론에 대해서는 間 宮 国 夫, 永 井 柳 太 郎 の 植 民 政 策 論, アジア 学 への 視 角 ( 早 稲 田 大 学 社 会 科 学 研 究 所, 1985) 참조. 9) 永 井 柳 太 郎, 植 民 政 策 ( 早 稲 田 大 学 出 版 部, 제32회 정치경제학과 강의록=1913), 15쪽.

34 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 이익의 목적보다 문화적, 인도적 목적을 중시해야 한다는 주장이 힘을 얻고 있다고 지적하고, 이 목적의 수행을 위해 경제적 이익과 양립하는 범위 내에서 식민지민의 고혈을 주구( 誅 求 )하는 일 은 결코 허용되어서는 안 된다고 주장하였다. 11) 다음으로 식민지의 분류법으로는 일본의 식민정책학 형성에 큰 영향을 준 폴 라인쉬 교수의 이주식민지(settlement colonies)와 방자( 放 資 )식민지(investment colonies)로의 구분이 가장 적 절하다고 소개한다. 12) 나가이는 이런 두 종류의 식민지가 발생하는 원인을 기후에서 찾았다. 곧 열대식민지는 식민자가 적응하기 곤란하니 방자식민지 로서의 성격을, 온대식민지는 식민자의 거 주에 적절하니 자연히 이주식민지 로서의 성격을 띠게 된다는 것이다. 여기에는 식민지를 획득 하는 국가는 대부분 문명국으로 온대지역에 분포한다는 전제가 깔려 있다. 따라서 자본의 증가 가 인구의 증가보다 왕성한 국민은 열대식민지를 필요로 하고, 인구의 증가가 자본의 증가보다 빠른 국민은 온대식민지를 필요로 한다 는 것이 나가이의 설명이다. 결국 그는 식민지의 분류를 경제적 특질에서 구할 것이 아니라 풍토적 특질에서 구하는 것이 적절하다면서 극대( 極 帶 )식민 지 -열대, 한대-와 온대식민지로 구분하는 것이 온당하다고 주장하였다. 13) 이러한 구분은 열대식 민지인 대만과 온대식민지인 조선, 만주를 구분해서 논할 때 그 근거로 작용한다. 이와 같은 식민원론의 기본 개념 위에 나가이가 구체적으로 식민문제를 어떠한 동기에서 설명 하고, 실제 일본의 식민통치와 관련해서는 어떠한 논의를 전개했는지를 살펴보기로 한다. 나가이의 식민문제에 대한 주목은 사회문제의 인식에서 비롯된다. 그는 일본의 사회문제를 도 시사회문제 와 농촌사회문제 의 둘로 나누어 논하는데, 전자는 공장 노동자의 비참한 생활이, 후 자는 영세농의 곤궁이 핵심을 이룬다. 도시사회문제는 공장법의 실시를 비롯한 제반 사회정책의 주장으로 이어지고, 농촌사회문제가 바로 식민 의 필요성으로 이어진다. 나가이에 따르면 일본의 사회문제는 서구와 달리 도시보다 농촌에서 더 중요하다. 왜냐하면 인구의 6할이 농업에 종사하 기 때문이다. 일본의 농민은 5반( 反, 1 反 =300평) 미만의 토지소유자가 약 46%로 가장 많고, 5반 이상 1정보 ( 町 步, 1 町 步 =10 反 ) 미만 소유자까지 합하면 약 72%에 이른다. 즉 영세 규모의 소농민이 다수에 이르는데, 그들은 매우 낮은 수익에다가 그 나마도 지조( 地 租 )의 체납 등으로 소작농으로 전락하 거나 도시로 흘러들어간다. 그런데 일본에 이렇게 소농민이 많은 이유는 일본의 경지면적이 총면 10) 위의 책, 16쪽. 11) 위의 책, 58쪽. 12) 위의 책, 36쪽. 13) 위의 책, 43쪽.

사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지조선에서의 식민지정책론 35 적 중 14%밖에 안 되기 때문이다. 결국 일본 농촌문제의 핵심은 소농민이 농촌에 너무 많기 때 문 이라는 것이다. 하물며 일본의 인구증가는 해마다 현저해지고 있어, 매년 5,60만씩 증가하고 있는데 그 중 6할 즉 30만 정도가 농촌에서 살고 있다. 따라서 농민의 경제상태를 근본적으로 개혁하여 농촌의 건전한 발달을 꾀하기 위해서는 새로운 토지를 찾아서 잉여의 농민을 그곳으로 이주시키는 수밖에 길이 없다고 단언했다. 14) 즉 잉여 농민의 배출구로서 식민지로의 이주를 주 장하면서 조선의 이주식민지로서의 적합성에 대해 논의를 이어갔다. 이처럼 나가이는 국내 사회문제의 핵심인 농촌에 영세농이 지나치게 많다는 인구과잉 문제의 해결책으로서 식민의 중요성을 강조하였다. 이에 기초해 나가이가 와세다대학 교수로 재직 중이 던 1910년대에 전개한 식민정책론을 살펴보면 다음의 몇 가지 내용으로 정리할 수 있다. 먼저 식민지를 통할( 統 轄 )하는 중앙기구인 척식국의 위상을 높일 것을 주장한다. 식민지를 통 할하는 중앙기구로는 대만 식민지 획득 이후인 1896년에 척식성이 설치되고, 1897년 10월 그것 이 내각 대만사무국으로 바뀐 뒤 내무성 대만사무국->내각관방 대만과를 거쳐 1910년 6월 내각 척식국이 되었다. 그러나 그 후 척식국을 폐지하려는 움직임이 보이자 나가이는 이에 대해 반대 하고 오히려 그 권한을 확대할 것을 주장한 것이다. 그는 영국, 프랑스, 독일의 식민성 설치 사 례를 설명하면서 이들 국가들도 처음에는 주무관청이 없다가 독립된 주무관청을 설치한 점에서 일치한다고 지적하고 일본에서도 그런 방향으로 정비할 것을 제언한다. 그에 따르면 현재 기능면 에서 조선총독이 척식국 총재보다 훨씬 위에 있는 등 척식국 총재는 서구의 식민대신처럼 식민 행정에 대한 최고지휘관으로서의 권한이 없다. 그러나 식민지의 건전한 발달을 꾀하고, 식민행정 에 대한 책임의 소재를 명확히 하기 위해서는 척식국의 권한을 확장하여 척식국 총재를 국무대 신의 지위로 승격시키는 동시에 각 식민지 총독으로 하여금 척식국 총재의 감독을 받도록 할 필 요가 있다고 주장하였다. 15) 나가이의 식민정책론의 두 번째는 일본인의 식민지로의 이주를 위해 설립된 동양척식회사(이하 동척)에 대한 비판이다. 나가이의 식민문제에의 관심은 농촌 과잉 인구의 해소라는 사회정책의 일환이었다. 따라서 그의 식민정책론에서는 과잉 인구의 식민지로의 이주가 상당히 중요한 위치 를 차지할 수밖에 없다. 그런 의미에서 동척에 대한 나가이의 기대는 컸을 것이다. 그러나 1910 년대 전반까지 동척의 실적은 기대에 크게 못 미칠 뿐만 아니라 여러 가지 부정과 폐해가 드러 나고 있었다. 그는 1913년에 자신이 주재하고 있던 잡지 신일본 에 동척박멸론을 5회에 걸쳐 게재함으로써 동척 문제에 대해 세간의 관심을 환기시키는 데 크게 기여하였다. 16) 14) 永 井, 五 反 百 姓 論, 新 日 本 1-4(1911.7), 17-21쪽. 15) 永 井, 拓 殖 局 の 存 廢 を 論 ず, 社 會 問 題 と 植 民 問 題 ( 新 興 社, 1912), 368-369쪽.

36 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 동척은 8년간 매년 30만엔의 국고 보조를 받는 특수회사로, 설립 당시 매년 약 10만의 이민 실행을 공약하였으나 이민사업은 돌보지 않고 막대한 자금력을 이용하여 조선의 이원( 利 源 )을 독 점하는 횡포를 노정하고 있다는 것이 나가이로 하여금 동척박멸론을 쓰게 한 동기였다. 그의 동 척에 대한 비판 내용을 정리하면 대략 다음과 같다. 첫째 동척은 조선 도처에 산재해 있는 미간지는 제쳐두고 손쉬운 기간지의 매수에만 힘쓰고 있다. 둘째 동척은 매수한 기간지의 구 지주였던 조선인으로부터 소작미를 거두게 된 결과 다수 의 소작인을 낳았다. 이런 추세로 가면 회사의 토지 획득에 비례해서 소작인 수도 증가함으로써 중대한 사회문제를 낳게 될 것이다. 뿐만 아니라 조선인에게 일본인 이민 때문에 토지를 침략 당 한다는 오해를 야기하여 조선인의 일본인에 대한 반감을 야기할 것이라고 경고했다. 셋째로는 동 척 자금의 대부분을 기간지의 매수나 고리대의 목적으로 사용한다는 것이다. 현재 동척은 사실상 대지주이자 재류 일본인의 고혈을 빨아먹는 고리대에 불과하다고 신랄하게 비판하였다. 17) 넷째 로 일본인 이주민에 대한 회사의 보조가 매우 박하다고 비판한다. 이주민에 대한 회사의 보조는 단지 2정보 이내의 논밭을 연 6푼의 이자로 25개년부로 양도할 약속으로 대부하고 있으나, 토지 에 대한 소유권을 도항 당시에 양도하고, 그 토지를 담보로 토지 대금을 대출해주는 방식으로 바 꿔야 한다고 주장하였다. 18) 다섯째 동척 중역의 보수와 수당이 지나치게 높다고 지적하였다. 19) 결론적으로 나가이는 국가의 공익을 위해 행해야 할 식민 및 이민사업을 영리회사에 위임한 것 은 근본적 오류이니 조선총독부가 직접 이민의 모집과 분배를 맡아야 한다고 주장하였다. 20) 다음으로 나가이의 식민정책론의 세 번째 내용은 그가 토인 으로 칭하는 식민지민에 대한 대 책이다. 식민지민은 문명 정도나 생활이 본국인과 다르니 본국과 같은 법령으로 통치할 수는 없 지만, 21) 과거의 정복자처럼 그들을 억압하고 함부로 재산 및 노동력을 착취해서는 그들의 반감 을 도발하고 그 결과 경제적 발달을 저해할 것이라고 지적했다. 22) 16) 이에 대해 나가이는 그 반향이 국내외에 미쳐 혹자는 직접 방문하여 혹자는 간접적으로 서면으로 기자의 논의 에 뒷받침을 하고 그 재료를 수집하는 데 노력하겠다고 신청자가 종종 있었으니, 이는 매우 통쾌하고 감사한 일 이라고 말했다( 東 洋 拓 殖 會 社 撲 滅 論 ( 四 ), 新 日 本 3-12, 1913.11, 12쪽). 17) 永 井, 東 洋 拓 殖 會 社 撲 滅 論 ( 一 ), 新 日 本 3-8(1913.8), 26-29쪽. 18) 永 井, 東 洋 拓 殖 會 社 撲 滅 論 ( 二 ), 新 日 本 3-9(1913.9), 20-22쪽. 19) 永 井, 東 洋 拓 殖 會 社 撲 滅 論 ( 四 ), 新 日 本 3-12(1913.11), 18쪽. 20) 永 井, 東 洋 拓 殖 會 社 撲 滅 論 ( 五 ), 新 日 本 3-13(1913.12), 28쪽. 21) 나가이는 대만총독에게 특별입법권-제령 제정권-을 부여한 소위 63법 -> 31법 에 대해 당연하다는 입장을 취 하여, 그 법의 적용 기한(1916년 12월까지)의 연장 여부가 이슈가 되었을 때 그 연장에 찬성하였다. 다만 총독 이 그 권한을 남용하는 것을 예방하기 위한 정치적 안전판을 제도화하도록 제언하였다( 所 謂 六 十 三 號 論 - 臺 灣 特 別 立 法 制 度 改 良 私 案, 新 日 本 5-12, 1915.12).

사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지조선에서의 식민지정책론 37 마지막으로 나가이의 식민정책론으로서 들 수 있는 것은 식민지 고등 관리나 실업가( 實 業 家 ), 식민평론가 양성을 위한 식민학교 설립의 주장이다. 그는 독일, 프랑스, 영국의 식민학교처럼 일 본에도 식민지 경영에 필요한 일반적 원리 및 그 응용 연구를 목적으로 하는 대학 혹은 전문학 교 정도의 식민학교를 설립해야 한다고 말했다. 또한 식민지에도 대만의학교-열대병학 연구-와 남만( 南 滿 )의학당-중국에서 개업할 일본인 의사의 양성-의 확장이 시급하다고 주장하였다. 23) 이상과 같은 식민정책론을 전개하고 있던 나가이는 1915년과 1916년 두 차례에 걸쳐 조선을 방문하였다. 먼저 1915년 8월 1일부터 일주일간 조선공론사에서 개최하는 하계강연회에 요시다 도고( 吉 田 東 伍 ), 다나카 호즈미( 田 中 穂 積 )와 함께 연사로 초청되었다. 나가이는 물론 요시다(사학 과, 국사전공)와 다나카(정치경제학과, 재정학 전공) 모두 와세다 교수였다. 와세다 출신의 조선공 론사 사장 마키야마의 와세다 인맥을 통한 초청임을 쉽게 알 수 있다. 와세다대학 교우회에서는 이들 일행에 대한 환영회를 6일 명월관에서 성대하게 개최하였다. 24) 나가이는 첫 조선 방문에서 마키야마 사장의 안내로 덕수궁, 창경궁 등을 구경하고 그 감상을 조선공론 지상에 남겼다. 왕궁과 매우 작고 열악한 민가 사이의 격차를 거리의 비애 라고 표 현한 나가이는 이것이 곧 조선의 왕궁이 인민을 희생으로 단지 자신의 영화( 榮 華 )를 쌓는 데만 힘쓴 살아있는 증거라고 했다. 반면 일본의 황실은 인덕( 仁 德 )의 정신으로 치국의 방침을 삼고 있으니, 조선인이 이조( 李 朝 ) 의 학정에서 벗어나 일본 황실의 인정( 仁 政 )을 받들게 된 것은 큰 행복이라고 말했다. 25) 또 조선이 일본 통치 하에 들어온 뒤 문화의 설비나 문명이 발달하고 있 는 것은 공전의 일 이라고 치켜세우고, 조선통치의 근본은 동화 에 있다고 밝혔다. 26) 또 다른 잡지에는 조선에 대해 다음과 같은 인상기를 남기고 있다. 조선이라는 곳은 산은 벌거벗고 들은 황량하며 물은 탁하여 꽤 살풍경한 곳이라고만 상상하 고 있었으나 와서 보니 반드시 그렇지도 않다. 산은 벗겨져 있으나 생각했던 만큼은 아니고, 들은 황량하기는 하나 물은 탁하지 않다. 백의의 민은 매우 평화로운 얼굴을 하고 예의 긴 담뱃대를 입 에 대고 버드나무 그늘 아래서 유유히 뻐끔뻐끔 빨고 있는 것이 완전 그림 같다. 조선인은 완전 22) 永 井, 訴 ふる 能 はざる 者 に 代 りて 訴 ふ( 其 一 ), 新 日 本 5-6(1915.6), 24-25쪽. 23) 永 井, 首 相 及 び 內 相 に 與 へて 植 民 敎 育 機 關 設 立 の 急 務 を 論 ず, 新 日 本 7-3(1917.3). 나가이는 실제로 1918년 에 개교하는 東 京 植 民 貿 易 語 學 校 의 설립에 참여하였다( 大 熊 智 之, 東 洋 協 会 による 植 民 学 校 の 教 育 と 変 遷, 한일민족문제연구 27, 2014.12, 19-20쪽). 24) 早 大 出 身 校 友 會, 매일신보 1915.8.5.2면. 25) 永 井, 日 本 の 殖 民 政 策 代 表 者 は 果 して 誰 なりや- 朝 鮮 を 視 察 せる 余 の 感 想, 朝 鮮 公 論 3-9(1915.9),18쪽. 26) 위의 글, 19-20쪽.

38 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 평화로운 태평한 민이다. 기후는 도쿄보다 조금 더 더운 듯하지만 밤이 되면 매우 선선해지므로 도쿄보다는 살기 좋다. 거기에 주요한 곳은 대체로 일본인 동네이므로 일본 내지를 여행하는 것과 조금도 다름이 없다. 경성은 일본 내지의 유수의 도회에 비해서 손색이 없는 설비를 갖추고 있어 매우 유쾌하다. 그리고 내가 가장 예상 밖이라고 생각한 것은 조선에 있는 일본인이다. 그들은 모 국에서 생계가 어려운 자가 많아서, 상당히 난폭한 자나 경박한 자, 사기꾼들이 많으리라고 생각 했다. 나뿐만 아니라 모국에 있는 사람은 대체로 그런 식으로 생각하고 있다. 그러나 와서 보니 전혀 예상 밖이었다. 의외로 온순하고 선량하다. 그리고 의외로 친절하다. 오히려 도쿄 사람보다 훨씬 인정미가 있다. 여유가 있다. 나는 이를 매우 유쾌하게 생각한다. 27) 이처럼 나가이는 첫 번째 조선 방문에서 생각했던 것보다 나은 자연환경과 개발된 조선의 모 습을 발견하고, 나아가 재조선 일본인에 대한 인상을 바꾸는 계기를 만들었다. 그의 두 번째 조선방문은 이듬해인 1916년 8월 29일부터 9월 1일까지이다. 나가이는 경성의 실업가 히로이( 廣 井 澤 次 郞 )의 기부로 조성된 와세다대학 식민정책강좌 자금으로 만선( 滿 鮮 ) 시 찰에 나서서 만주지역을 돌아보고 경성에 입경한 것이다. 28) 이때도 와세다대학 교우회는 경성기 자단과 함께 나가이를 비롯해 당시 체경 중이던 오사카아시히신문 기자 등을 위한 환영회를 개 최하였다. 29) 나가이는 경성에 머무는 동안 8월 31일 조선공론사가 주최하는 대연설회에서 연설 을 하였다. 그는 세계의 대세는 동일한 민족이 서로 손을 잡아 그 민족의 생존과 발전을 도모하 는 데 있다면서 일본은 동종동문인 중국과 제휴해야 한다고 주장하였다. 이어서 중국 산동성에서 목격한 독일인의 중국인에 대한 겸손한 태도와 만철 지역 일본인의 중국인에 대한 거만한 행동 학대를 대비시키면서 해외 일본인의 국민적 외교 의 결여를 지적하기도 했다. 30) 이상에서 살펴본 바와 같이 와세다대학에서 식민정책 강의를 담당하고 있던 나가이는 대학 후 배인 조선공론사 사장 마키야마의 주선으로 두 차례 조선을 방문하여 식민지의 현실을 경험하게 되었다. 그렇다면 그 매개역할을 했던 마키야마는 식민지 조선 현장에서 어떠한 식민정책론을 펼 치고 있었을까. 27) 永 井, 朝 鮮 は 中 々 趣 味 がある- 在 住 日 本 人 に 感 じた, 朝 鮮 及 満 州 99(1915.10), 77쪽. 28) 岡 本 真 希 子, 앞의 논문 東 アジア 地 域 における 早 稲 田 大 学 校 友 会, 82쪽. 29) 永 井 교수 환영회, 매일신보 1916.9.2.2면. 30) 永 井, 小 日 本 より 大 日 本 へ, 朝 鮮 公 論 4-10(1916.10), 40쪽, 44쪽.

사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지조선에서의 식민지정책론 39 Ⅲ. 마키야마 고조의 식민정책론과 조선 마키야마는 1906년 7월 와세다대학 정치경제학과를 졸업한 후 경성일보 창간을 위해 조선으로 건너갔다. 훗날 마키야마는 그 당시를 다음과 같이 회상했다. 되돌아보면 내가 한 자루의 필을 들고 처음으로 조선으로 건너간 것은 지금부터 12년 전, 메이지39년[1906년] 여름에서 가을로 가는 길목이었다. 당시 조선은 일한보호조약이 체결되었고, 이토 히로부미 공이 대명을 받들어 한국통감으로 부임하여 한성에 반거( 蹯 居 )하였다. 공이 통감부의 기관지 경성일보를 창간함에 있 어 나는 현 봉천신문사장 핫토리( 服 部 暢 ), 오사카아사히( 大 阪 朝 日 )신문사장 마루야마( 丸 山 侃 堂 ) 씨와 함께 이에 참획하였다. 31) 마키야마는 경성일보에서 4년을 근무한 뒤 자리를 옮겨 일본전보통신사 경성지사의 지사장을 지내고, 1913년 4월 조선공론사를 창립하여 조선공론 을 간행하게 되었다. 그 사이에 1912년 경성거류민단 의원, 1914년 경성학교조합회 의원에 선출되는 등 재조일본인 사회의 운영에도 적 극적으로 참여하여 그 활동을 넓혀 갔다. 1915년에는 두 명의 공동 투자자 고조( 古 城 菅 堂 ), 나카 가와( 中 川 湊 )와 함께 충남의 텅스텐광산을 경영하고, 32) 1920년 1월에는 조선신문사를 인수하여 경영을 맡게 된다. 조선공론 은 조선총독부의 민간지 발행금지라는 시정방침을 피하기 위한 편법으로 발행지를 도쿄로 하고는 있으나, 편집국을 경성에 두고 실질적인 잡지 발행 업무는 경성에서 이루어졌다. 33) 또 그 찬조자로는 오쿠마 시게노부, 이누카이 쓰요시를 비롯한 정치가, 조선신문사 사장 하기타니 ( 萩 谷 籌 夫 )를 비롯한 언론인, 그리고 마키야마의 모교인 와세다대학의 교수가 다카다( 高 田 早 苗 ) 학 장을 비롯하여 10명이나 이름을 올리고 있는데, 그 중에는 나가이 류타로도 들어 있었다. 조선공론 창간호에서 마키야마는 데라우치 총독의 시정을 비판하면서 포문을 열었다. 각하 는 현대의 문명적 사조를 이해하지 못하는 사람이다. 그 시정은 여론에 역행하고 국민 최대다수 의 최대행복과 교섭 없이, 즉 국민적이지 않고 사회적이지 않으며, 어디까지나 군벌식이다, 관료 식이다. 이는 각하를 위해 아쉬운 점이 아닌가. 34) 마키야마는 특히 총독이 언론의 자유를 인정 하지 않는 점을 지적하고, 조선통치가 제국의 대사업인 만큼 관료의 독점에 맡길 것이 아니라 여 론의 향배나 인심의 소재를 잘 살펴 통치할 것을 진언하였다. 35) 31) 牧 山 耕 藏, 帝 國 議 會 と 植 民 地, 朝 鮮 公 論 6-3(1918.3), 3쪽. 32) 朝 鮮 公 論 社 編, 앞의 책 在 朝 鮮 內 地 人 紳 士 名 鑑, 370쪽. 33) 윤소영, 해제, 조선공론 총목차 인명색인 (어문학사, 2007), ⅹ쪽. 34) 牧 山, 呈 朝 鮮 總 督 寺 內 伯 書, 朝 鮮 公 論 1-1(1913.4), 4쪽.

40 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 이후에도 마키야마는 데라우치 총독의 억압적인 정치에 대체로 비판적인 입장을 고수하지만, 한 가지에 한해서 평가하는 부분이 있었다. 그것은 다름 아닌 헌병경찰제도에 대해서이다. 마키 야마에 의하면 헌병경찰제도는 데라우치 총독의 통치의 골자 로서 데라우치 시정의 성공은 이에 기초한 것이라고 평가했다. 그는 만일 이 제도가 없었다면 생명, 재산의 안정이 확실히 보장되었 을지 의문이 아닐 수 없다면서 데라우치의 정책은 식민지 통치자로서는 무단주의의 장점을 유 감없이 발휘한 시정 이라고 평해야 하며, 이것이 많은 문제점에도 불구하고 자신이 데라우치 시 정을 옹호해온 소이라고 밝혔다. 36) 다음으로 마키야마의 식민정책론을 정리해보기로 한다. 그의 식민정책론은 식민지에 거주하는 식민자의 입장이 반영된 의견 외에는 앞 장에서 살펴본 나가이와 상통하는 부분이 적지 않으며, 심지어 식민자의 경험이 거름이 되어 한발 더 나아간 주장도 보인다. 먼저 동양척식회사에 대한 비판을 들 수 있다. 이 내용은 나가이가 동척박멸론을 집필하는 데 에도 참고가 되었을 것으로 보인다. 사설을 통해 마키야마는 동척의 가장 큰 문제점은 이민사업 을 소홀히 함으로써 이민의 실적이 오르지 않고 있다는 것이라고 지적했다. 둘째로 동척은 개인 의 자금력으로 할 수 없는 미간지를 개척하고 수리( 水 利 ), 도로 부설에 힘써야 하지만, 실제로는 일반 토지의 매수에 힘쓰고 정리를 명분으로 조선인을 압박하여 그들로부터 토지를 거두어 일본 인 이민에게 주기 때문에 조선인의 불평을 야기하고 있다. 뿐만 아니라 일본인 자유이민자가 매 매하려고 하는 토지를 가로채어 매수하는 등으로 일본인 이민자의 곤궁도 초래하고 있다. 기타 금융부의 부진, 정ㆍ부총재 이하 회사 임원진의 잘못된 인선이 회사 내 난맥상을 만들었다는 점, 회사 내 범죄사건의 빈발, 회사 중역의 부당 보수 문제, 임원진의 호화로운 사택 건축 문제 등이 거론되었다. 37) 마키야마는 동척은 국민의 고혈 30만 엔을 빨아먹는 대지주의 고리대 이외에 국가에 공헌하는 바가 없다고 신랄하게 비판하였다. 그는 총독이 동척의 사규를 개정하고 무능한 중역을 일소하여 이민사업, 토지경영, 자금공급 방면에 제대로 활동케 하라고 촉구했다. 38) 동척에 대한 비판은 나아가 이민사업과 영리사업을 분리하여 이민사업은 총독부의 경영으로 35) 위의 글, 6쪽. 36) 牧 山, 始 政 五 年 の 治 績 を 評 す, 朝 鮮 公 論 3-10(1915.10), 4-5쪽. 朝 鮮 の 治 安 維 持 と 警 務 機 関 の 組 織 を 論 ず, 朝 鮮 公 論 2-1(1914.1)에서도 헌병경찰제도를 유지해야 한다고 주장했다. 37) 여기서 지적된 임원에 대한 문제점들은 1916년 제37회 의회에 상정된 동척법 개정안 심의에서 의원들에 의해 거론되었다. 즉 임원의 보수문제, 사택문제, 행실문제 등이 그것인데, 이듬해 동척법 개정안이 재차 상정되었을 때 1917년 의회에 입성한 마키야마는 이에 대해 증언 발언을 하기도 하였다( 河 合 和 男 金 早 雪 羽 鳥 敬 彦 松 永 達 編, 国 策 会 社 東 拓 の 研 究, 不 二 出 版, 2000, 68-72쪽). 1917년 동척법 개정에서는 부총재직을 폐지하고, 이사와 감사를 각각 1인씩 감원하였다. 38) 社 說, 東 洋 拓 殖 会 社 紊 乱 の 現 状 を 叙 して 国 民 に 警 告 す, 朝 鮮 公 論 1-2(1913.5)에 의함.

사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지조선에서의 식민지정책론 41 옮기고, 동척은 영리사업에 집중하도록 하라는 주장으로 발전했다. 후자로는 부동산 금융사업, 매 축( 埋 築 ), 개간, 제방공사, 종자ㆍ비료ㆍ농구 등의 개량, 경편철도의 부설 등의 사업을 들었다. 39) 이민사업을 총독부의 관영으로 해야 한다고 주장하는 점에서 나가이와 마키야마는 공통되고 있으 나, 나가이가 영리사업에 치중하는 동척을 박멸 해야 한다고 주장한 것에 반해 마키야마는 동척을 그대로 존치시켜 영리사업에 집중하도록 주장한 점에서 양자는 입장의 차이를 보이고 있다. 마키야마는 식민지 조선을 개발하기 위해서는 자본이 필요하고, 그를 위해서는 막강한 자본력 을 갖고 있는 동척을 활용해야 한다고 생각한 듯하다. 또한 본국으로부터의 자본 투자도 유도해 야 한다는 생각을 갖고 있었다. 그는 한 글에서 조선 불경기의 원인을 부동산에 대한 자금융통이 원활하지 못한 점과 당국의 부적절한 산업정책에서 구했다. 40) 그래서 전자와 관련해서는 구체적 으로 동척법을 개정하여 금융부를 확장하고, 농공은행 및 금융조합을 잘 연결하여 대출사업을 하 게 하라고 주장한다. 즉 동척은 대자본을, 농은은 중자본을, 금융조합은 소자본을 각기 공급하는 길을 여는 것이 목하의 급무라는 것이다. 또 후자와 관련해서는 사업 인허가가 매우 까다로운 현 상황을 개선해서 조선의 경제계를 개방하여 모국의 자본을 유입시키고 기업가에게 자유롭게 활 동할 여지를 주라고 주장했다. 41) 이른바 회사령의 개정을 요구한 것이다. 그렇다면 마키야마는 근본적으로 일본의 식민지와 식민정책에 대해 어떻게 생각하고 있었을까. 그는 서구 제국과의 비교를 통해 이를 논한다. 일본 식민지의 특징은 서구와 달리 식민지가 본국 에서 지리적으로 근접해있다는 점에 있다. 어떤 의미에서 일본은 식민지를 보유한다기보다 그 영 토를 그대로 확대한 것 같은 느낌조차 있다고 마키야마는 말한다. 또한 그 식민지의 민은 서구의 식민지와 비교해서 본국민과 문화의 정도 차이가 현격하게 크지 않다. 기후, 풍토 면에서도 서구 의 식민지가 대체로열대식민지인 것과 달리 일본의 식민지는 본국과 유사하다. 따라서 서구 식 민제국에 비해 일본의 경우는 식민지 거주 일본인의 비율이 상대적으로 높은 것이다. 42) 이러한 차이에 기인하여 일본의 식민지 경영은 서구 제국주의의 그것과 다를 수밖에 없다. 39) 牧 山, 帝 国 の 殖 民 政 策 を 論 ず, 朝 鮮 公 論 1-9(1913.12), 5쪽. 40) 牧 山, 朝 鮮 の 不 景 気 挽 回 論, 朝 鮮 公 論 2-8(1914.8), 3쪽. 41) 위의 글, 5-6쪽. 마키야마의 주장은 1917년 동척법 개정에서 어느 정도 실현을 보게 된다. 1917년 동척법 개 정으로 동척의 영업목적은 당초의 한국에서 척식사업을 경영 하는 것에서 조선 및 외국에서의 척식자금의 공 급, 기타 척식사업 으로 변경되었다. 즉 사업의 중핵이 기존의 농업, 척식을 위한 토지의 매매ㆍ임차ㆍ경영ㆍ관 리 등에서 척식자금의 공급 으로 바뀌게 되고, 동시에 척식사업을 경영하는 다른 회사에 대한 주식, 채권의 응 모, 인수가 가능해짐으로써 투자회사=주식회사로서의 기능도 함께 갖게 되었던 것이다( 河 合 和 男 編, 앞의 책 国 策 会 社 東 拓 の 研 究, 16-17쪽). 마키야마는 동척법 통과에 있어 정부에게 동척에 대한 관리 감독의 주의를 촉구하는 경고문 을 발의하여 함께 통과시켰다. 42) 牧 山, 植 民 地 帝 国 としての 日 本 - 日 本 式 植 民 の 利 弊, 朝 鮮 公 論 2-6(1914.6), 4-5쪽.

42 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 먼저 국토의 방위 면에서 식민지의 방위는 긴급할 때 언제라도 본국의 병력을 이동할 수 있다. 대만의 방비는 주로 해군의 임무에 속하고, 조선ㆍ만주의 방비는 식민지의 방비가 아니라 본국 자체의 방위 이다. 따라서 군사상의 관점에서 보면 조선, 만주 모두 본국 방위의 범주에 들어가 야 하며 식민지 자체의 방위가 독립적으로 존재하는 것은 아니다. 그렇기 때문에 오히려 현재의 총독부 제도의 강렬한 군사적 색채는 불필요하며, 필요 이상으로 편무적( 偏 武 的 )이라고 비판했 다. 43) 또한 식민지가 근린에 있음으로 해서 식민지민의 의사를 존중할 필요가 있다고 주장한다. 왜냐 하면 근접지에 있는 식민지가 모국에 대해 원망을 품는다면 일본의 국기( 國 基 )는 위태로워질 수 있기 때문이다. 따라서 구미와 달리 일본은 식민지민의 반드시 열등하지 않은 소질 에 대해 별 도의 주의를 기울여야 하며, 선정( 善 政 ) 을 펼 필요가 있다고 주장하였다. 44) 한편, 그의 식민정책론의 주요 주장 중 하나는 조선총독부과 관동도독부의 통폐합이다. 이것은 조선과 만주를 통합해서 하나의 권역으로 설정하여 그 두 지역을 통할하는 총독을 신설하자는 주장이다. 그때 조선총독과 관동도독을 폐지하는 대신 조선은 정무총감이, 관동청은 민정장관이 최고의 행정관으로서 민정을 통할한다. 45) 이 주장은 두 가지 이유에 근거해 있다. 하나는 국경에 서의 철도문제, 이민문제, 경제적 관계, 재목사업, 경비기관, 위생 및 방역 등에서 조선총독부의 정책과 만주의 그것 사이에 불통일, 충돌이 야기되는 상황 때문이다. 또 하나는 보다 근본적으로 대륙정책을 진척시키기 위해서이다. 본래 식민정치의 목표는 식민지 자체에 한정되지 않는다. 즉 대만총독부는 남중국, 필리핀, 자바 등과 경제적, 정치적 직간접의 관계가 있듯이 조선총독부는 동부러시아, 남북 만주, 몽고 및 중국 방면과의 관계를 포함하고 있다. 이에 조선총독부와 관동 도독부의 정무를 통합함으로써 적극적으로 대륙으로의 확장을 도모해야 한다는 것이다. 46) 마키 야마는 동남아시아에 보호령과 식민지를 아우르는 인도차이나총독 거버너제너럴 을 두고 있는 프랑스의 사례 및 이와 유사한 영국의 사례를 들어 자신의 주장이 외국의 사례에서 구상된 근거 없는 논의가 아님을 보였다. 47) 또한 본국 중앙정부의 식민지 감독기관과 관련해서는 현 내무성 지방국 척식과로는 중앙정부 와 식민지 간에 원만한 관계를 지속할 수 없다고 지적했다. 척식국에서 척식과로의 축소는 정부 43) 위의 글, 6-7쪽. 44) 위의 글, 7-8쪽. 45) 牧 山, 滿 鮮 政 務 の 統 一 を 論 じて 山 本 首 相 並 に 寺 内 総 督 の 一 考 を 促 す, 朝 鮮 公 論 1-4(1913.7), 5쪽. 46) 위의 글, 6쪽. 47) 牧 山, 総 督 政 治 の 進 転 機 - 内 閣 諸 公 並 に 寺 内 総 督 に 進 言 す, 朝 鮮 公 論 3-6(1915.6), 7쪽.

사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지조선에서의 식민지정책론 43 의 행재정 정리의 일환으로 단행된 것으로 어쩔 수 없는 측면이 있지만, 향후는 척식성을 창설하 고 식민지의회 또는 식민지평의회와 같은 기관을 신설하여 식민지와 의사를 소통하면서 제국 식 민정책의 발전을 기해야 한다고 주장했다. 48) 나가이와 마찬가지로 식민지를 통할할 수 있는 중 앙기구의 필요성을 마키야마도 느끼고 있었던 것이다. 마키야마는 중의원 의원이 된 후 실제로 제40회 제국의회 이후 수차례 척식성 설치에 관한 결의안을 제출하여 그 실현에 노력한다. 49) 마키야마는 총독부 시정 5년을 맞이하여 자신의 식민정책론을 토대로 향후의 시정 방향에 대 해 다음과 같이 논했다. 첫째 시정이 지나치게 관료적으로 흘러 이주해온 모국 동포의 기업심이 위축되었다는 것으로, 총독은 모국인이 자유롭게 활동할 수 있는 시책을 써야 한다. 둘째 본국의 인구는 매년 60만씩 증가하여 과잉 상태이니 조선 및 만주, 몽고 방면으로의 이민 방책을 강구 해야 한다며 다시 한 번 동척의 문제점을 지적하였다. 셋째 대만의 경우 모국의 자본가를 유치함 으로써 개발이 속히 이뤄져 대만 영유 10년 만에 재정독립을 이루었다. 조선에서도 개방적 정치 를 펴서 모국 동포가 불안 없이 사업을 할 수 있게 하고 자본을 유입시켜 개발의 성과를 거두어 야 한다고 주장하였다. 50) 마키야마는 1915년 3월 중의원 선거에 출마했으나 낙선하고, 1917년 4월에 재차 나가사키 2 구에서 입헌정우회 후보로 출마하였다. 그는 의회에 조선통의 필요성을 강조하여 당선되었다. 이 후 마키야마는 조선과 일본을 왕래하며 의회에서 식민지 조선을 위해 적극적으로 활동하게 된 다. 51) Ⅳ. 이타바시 기쿠마쓰의 조선 식민지 론과 행적 이타바시는 1908년 7월 와세다대학을 졸업한 후 저술업에 종사하다가 조선을 중심으로 한 동 아대륙의 경제사정을 조사할 목적으로 조선으로 건너와, 52) 마키야마가 경영하는 조선공론사에서 일하게 되었다. 이타바시는 부산에 도착한 뒤 경성까지 오는 동안에 느낀 조선의 첫 인상을 다음 과 같이 적고 있다. 48) 牧 山, 殖 民 地 監 督 機 關 論, 朝 鮮 公 論 1-6(1913.9), 4쪽. 49) 牧 山, 帝 國 四 圍 の 情 勢 に 鑑 みて 拓 殖 省 を 設 置 せよ, 朝 鮮 公 論 14-9(1926.9). 50) 牧 山, 始 政 五 年 の 治 績 を 評 す, 朝 鮮 公 論 3-10(1915.10), 9-11쪽. 51) 중의원 의원으로서의 마키야마의 활동에 대해서는 이형식, 1910년대 일본제국의회 중의원과 조선통치, 사 총 82(2014) 참고. 이 논문에서는 마키야마를 비롯하여 조선통 으로 불린 중의원 의원들을 분석하고 있다. 52) 朝 鮮 公 論 社 編, 앞의 책 在 朝 鮮 内 地 人 紳 士 名 鑑, 26쪽.

44 한림대 일본학연구소 2015 국내학술심포지엄 / 제국 문화의 전파와 전유 : 식민학과 문화매체 부산은 예상하고 있던 것보다 작고 좁은 시골마을이었다. 그러나 바다의 전망은 미야케( 三 宅 )씨 의 수채화를 펴 놓은 듯이 뭐라 형언할 수 없는 색채였다. 오전 10시 30분 이곳의 잔교( 棧 橋 )에서 안동행 급행열차를 탔다. 기차가 달렸다. 왠지 대륙적 기분이 들었다. 다만 연선( 沿 線 )의 민둥산과 조선인의 가옥은 앞으로 조선의 식산흥업을 연구할 생각을 갖고 있던 나를 실제 적잖이 실망시켰 다. 나는 내지를 기차로 여행하면 가장 먼저 연선의 산림에 눈이 간다.-문학적으로나 경제적으로나 -. 그리고 각 촌락마다 대농, 중농, 소농 풍의 가옥이 늘어서 있는 것에 눈이 간다. 그러나 조선에 서는 산이란 산은 소위 적나라한 적토( 赤 土 )의 민둥산, 또 어느 촌락을 보더라도 빈약한, 내지의 소 농이 살고 있는 것과 같은 가옥이 있을 뿐, 대농도 중농도 없는 것처럼 보였다. 이를 좋게 말하면 부( 富 )의 분배 가 잘 이뤄지고 있는 것일지도 모른다. 그러나 실제는 빈( 貧 )의 분배 가 잘 이뤄져 있는 것이 아닐까. 어쨌건 조선의 개발은 전도다난, 매우 힘 드는 대사업이라고 느꼈다. 53) 이타바시가 본 부산 및 농촌은 개발되지 않은 매우 빈한한 인상이었다. 그러나 그는 이어서 조 선인은 결코 역사적으로 열등한 민족은 아니라고 덧붙였다. 이타바시는 조선공론사에서 약 2년간 근무하였다. 그 사이 조선공론 에 명사탐방기나 조선의 북부지방 회유기( 回 遊 記 ), 기타 단신 등을 게재하는 한편, 식민정책과 관련된 글도 발표하였다. 그 대표적인 것이 동척의 개혁에 관한 글이다. 그는 동척 총재와 이사가 교체된 시점에서 동척의 문제는 중역뿐만 아니라 불완전한 조직에도 기인한다며 동척의 조직 개편을 제의하였다. 원래 동척은 영국의 동인도회사처럼 일본인이 조선에 자국의 경제적 지반을 만들려고 창립한 것으로, 한국병합이 의외로 빨리 해결된 데에는 동척도 한몫을 했다고 평가한다. 그러나 이미 한 일이 병합한 이상 이런 대회사에 정부에서 보조금을 지급하면서까지 발호시키는 것은 오히려 해 가 많고 이득이 적으니, 차제에 이 회사를 해산하고 그 이민사업을 조선총독부에서 인수해야 한 다고 주장했다. 본래 이민사업은 수익사업이 아니니 조선으로 일본의 농민을 이주시킬 필요가 있 다면 조선총독부에 척식국이라도 설치해서 이를 장려하는 것이 훨씬 효과적이라는 것이다. 또한 동척이 이민사업에서 손을 뗀다면 그와 관련된 각종 농사 경영도 일체 조선총독부로 넘겨야 한 다. 그런 뒤에 동척은 다음과 같이 개혁되어야 한다고 이타바시는 제언했다. 이 회사는 현재 총 무부, 식산부, 금융부의 3부로 나뉘어 있는데, 그중에서 가장 유망한 것은 금융부의 사업이므로 총무 및 식산의 2부를 폐지하고 금융부를 확장해서 한호( 漢 湖 )농공은행을 합병한다. 그래서 일본 의 일본권업 및 일본흥업의 두 은행을 하나로 합친 것과 같은 조선척식은행을 창립하면 좋을 것 이라고 했다. 54) 53) 板 橋 菊 松, 東 京 から 京 城 迄 - 入 社 の 辞 に 代 へて, 朝 鮮 公 論 4-13(1916.12), 82쪽. 54) 板 橋, 東 洋 拓 殖 會 社 改 革 私 案, 朝 鮮 公 論 5-1(1917.1), 103-104쪽.

사학 와세다 인맥을 통해 본 일본 식민지조선에서의 식민지정책론 45 이타바시의 동척 개혁안은 앞 장에서 살펴본 마키야마의 생각과 유사하다. 둘 다 동척에서 이 민사업을 분리시켜 총독부의 관영으로 옮기고, 동척은 금융사업을 전담케 함으로써 식민지 조선 에 자금 융통을 원활히 하게 한다는 것이다. 나가이에 비해 조선 현지에 거주하고 있는 이 둘은 조선의 경제 개발을 촉진할 자본 투자의 필요성을 강하게 주장하고 있었던 것이다. 이것과 같은 맥락에서 이타바시는 일본은행의 금리인하 소식에 대해서 일본 국내의 비판 의견에도 불구하고 적절한 조치라고 평가했다. 왜냐하면 금리인하로 인해 일본의 자본가가 해외 투자에 주력할 것이 므로, 조선에의 투자가 기대되기 때문이다. 55) 이타바시는 나아가 조선의 경제적 개발은 이민척식 보다 방자( 放 資 )척식 에 중점을 두어야 한 다고 주장하였다. 즉 조선처럼 옛날부터 이미 개척되어 있는 곳에는 본국의 소작이민을 이주시키 는 것보다 오히려 방자척식을 우선하여 본국의 자본을 유치하는 편이 좋으며, 만주 역시 마찬가 지이다. 그렇게 하지 않으면 개발하기가 곤란하다는 것이다. 그래서 그는 본국의 자본을 유인하 려면 자본가가 안심하고 투자할 수 있는 기업조직을 완비할 필요가 있다고 강조하였다. 56) 이외 에도 이타바시는 마키야마와의 공동 집필로 국민의 식민사상 고취를 위해 도쿄에 제국척식관을 설립할 것을 제의하였다. 57) 이상에서 살펴본 것처럼 이타바시는 식민지 개발을 위해 농업보다는 자본 투자에 의한 산업 개발에 더 큰 비중을 두고 있었다. 이러한 논의는 한편으로는 마키야마와 마찬가지로 자신이 직 접 사업에 종사하게 된 것과도 무관하지 않으리라고 생각된다. 이타바시는 1918년 8월 경 조선 공론사를 사퇴하고 동아경제회를 만들어 기관지 동아경제시보 (후에 동아경제통신 으로 개제) 를 발간하는 한편, 58) 1918년 6월 선배 의 후원으로 동아상회를 설립하고 그 해 9월에 그것을 동아임산( 林 産 )합자회사로 개편하고 지배인에 취임함으로써 실제 사업에 뛰어들게 되었다. 1920 년 4월에는 동아임산을 사직하고 동아출판주식회사를 창립하여 전무이사에 선출되었다. 59) 동아 경제회는 강연회와 시민강좌 등을 개최하였는데, 예컨대 1920년 8월 15일에는 와세다대학 만선 시찰단으로 만주를 돌아보고 조선을 방문한 히라누마( 平 沼 淑 郎 ) 학장, 시오자와( 塩 沢 昌 貞 ) 교수, 핫토리( 服 部 文 四 郎 ) 강사를 연사로 하여 시민강좌를 개최하였다. 60) 이렇듯 다양한 활동을 벌이고 있던 가운데 이타바시는 1920년 5월 개교한 사립 경성고등상업 55) 板 橋, 財 界 時 言, 朝 鮮 公 論 5-4(1917.4), 23쪽. 56) 板 橋, 植 民 地 開 發 と 獨 逸 の 企 業 組 織, 板 橋, 最 近 植 民 地 問 題 研 究 ( 巖 松 堂 京 城 店, 1921), 85쪽. 57) 帝 國 拓 殖 館 を 東 京 に 常 設 せよ, 앞의 책 最 近 植 民 地 問 題 研 究, 73-74쪽. 58) 신간소개: 동아경제시보(창간), 매일신보 1918.8.23.4면. 59) 朝 鮮 中 央 經 濟 會 編, 京 城 市 民 名 鑑 ( 朝 鮮 中 央 經 濟 會, 1922), 14쪽. 60) 동아일보 1920.8.14.석간3면; 1920.8.15.2면.