제 4 여덟개의시구장, 3. 악한뜻 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 3. 悪意八詩句経 1. 中村元先生訳 780 実に悪意をもって ( 他人を ) 誹 ( そし ) る人々もいる また他人から聞いたことを真実だと思って ( 他人を ) 誹る人々もいる 誹ることばが起こっても 聖者はそれに近づかない だから聖者は何ごとにも心の荒 ( すさ ) むことがない 正田大観先生訳 787.(780) また 或る者たちは まさに 憎しみや怒りなどの 汚れた意で 自己の論を 説く しかして また まさに 自説こそが 真理である という 高慢と我執の 意で 自己の論を 説く しかしながら 牟尼は 論敵への憎悪と自説への固執から 生じた 悪意ある 論に近づかない それゆえに 牟尼は 他者にたいする 鬱屈 ( 偏見 ) が どこにも存在しない (1) 1, 영문 04 Atthakavagga - 03 Dutthatthakasutta 1. Verily, some wicked-minded people censure, and also just-minded people censure, but the Muni does not undergo the censure that has arisen; therefore there is not a discontented (khila) Muni anywhere. 2, 영문 780. Lo! some there are who speak with ill-intent, And some there are who speak intent on truth : Come talk what may, the sage is unconcerned, Yet nowhere barren is the silent sage.
3, 영문 780. From spite, or honestly, are charges spread abroad ; but, as all fail to hit the sage, his heart is light. パーリ語原文 786.(780) Vadanti ve duṭṭhamanāpi eke, 語る 実に 悪意からも ある人々は athopi ve saccamanā vadanti; そしてまた実に真実の意から語る Vādañ ca jātaṃ muni no upeti, 話しに しかし 生じた 聖者は ない 近づか tasmā munī natthi khilo kuhiñci. それ故聖者はない心が乱れることがどこにも
제 4 여덟개의시구장, 3. 악한뜻 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 3. 悪意八詩句経 2. 中村元先生訳 781 欲にひかれて 好みにとらわれている人は どうして自分の偏見を超えることができるだろうか かれは みずから完全であると思いなしている かれは知るにまかせて語るであろう 正田大観先生訳 788.(781) まさに どのようにして 自らの見解を超え行くというのだろう 欲 の思い に導かれ 好みによって 思いが 固着した者が 諸々の特定の見解について それらは 完全である と 自ら 執着の思いを 作り為している者は まさに 限定された自己だけの観点から 知るであろうとおりに そのように 自説を独善的に 説くであろう (2) 1, 영문 04 Atthakavagga - 03 Dutthatthakasutta 2. How can he who is led by his wishes and possessed by his inclinations overcome his own (false) view? Doing his own doings let him talk according to his understanding. 2, 영문 781. How could a man, led by desire, convinced Thro' wilfulness, escape that view of his, When he had firmly formed his own ideas? He would declare, indeed, just as he knew.
3, 영문 781. When inclination prompts and self will reigns, shall men desert their cherished views? Their outlook shapes their speech. パーリ語原文 787. Sakañ hi diṭṭhiṃ kathamaccayeyya, 実に自分の 見解を 如何に超えることができるか chandānunīto ruciyā niviṭṭho; 欲求に導かれ 好みに とらわれて Sayaṃ samattāni pakubbamāno, 自分の 完全だと 思いなして yathā hi jāneyya tathā vadeyya. ように 実に 知るままに そのように 語るであろう
제 4 여덟개의시구장, 3. 악한뜻 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 3. 悪意八詩句経 3. 中村元先生訳 782 人から尋ねられたのではないのに 他人に向かって 自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は 自分で自分のことを言いふらすのであるから かれは 下劣な人 である と真理に達した人々は語る 正田大観先生訳 789.(782) その人が 自己の 保持する 諸々の戒や掟を まさしく 他者から 尋ねられていないのに 他者たちに説くなら 彼が まさしく 自ら 自己のことを あれこれと 説くなら 彼のことを 智者たちは 聖ならざる法 ( 性質 ) の者 と言う (3) 1, 영문 04 Atthakavagga - 03 Dutthatthakasutta 3. The person who, without being asked, praises his own virtue and (holy) works to others, him the good call ignoble, one who praises himself. 2, 영문 782. The man who boasts unasked to other folk Of practices and virtues of his own, ' That is unariyan,' the experts say, ' If he should boast himself about himself.'
3, 영문 782. The man who sings, unasked, his virtue's praise, is styled 'ignoble' by adepts for talking of himself. パーリ語原文 788.(782) Yo attano sīlavatāni jantu, およそ自分の戒 掟を人が anānupuṭṭhova paresa pāvā; 問われてないのに 他人に 言うならば Anariyadhammaṃ kusalā tamāhu, 聖ならざる法の者と 善巧者たちは 彼を 言う yo ātumānaṃ sayameva pāva. 彼は 自分を 自ら まさに 言うならば
제 4 여덟개의시구장, 3. 악한뜻 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 3. 悪意八詩句経 4. 中村元先生訳 783 修行僧が平安となり 心が安静に帰して 戒律に関して わたしはこのようにしている といって誇ることがないならば 世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから かれは < 高貴な人 > である と真理に達した人々は語る 正田大観先生訳 790.(783) しかしながら 自己が寂滅した 寂静なる比丘は かくのごとく わたしは と 諸々の戒について誇らずにいる 彼のことを 智者たちは 聖なる法 ( 性質 ) の者 と説く 彼に 貪りや怒りなどの 諸々の増長 の妄想 が 世において どこにも存在しないなら (4) 1, 영문 04 Atthakavagga - 03 Dutthatthakasutta 4. But the Bhikkhu who is calm and of a happy mind, thus not praising himself for his virtues, him the good call noble, one for whom there are no desires anywhere in the world. 2, 영문 783. The monk, grown calm, exceeding cool-of-self, In praising virtues says not, ' Such are mine. ' ' That way is Ariyan,' the experts say, ' There are no thoughts of 'prominence' for him.'
3, 영문 783. The Almsman true, at peace, not vaunting virtues rare, adepts as 'noble' hail, because he 's not puffed up. パーリ語原文 789.(783) Santo ca bhikkhu abhinibbutatto, 平静で しかし 比丘は 自己が寂静した itihanti sīlesu akatthamāno; 私はこれだと 戒において 誇らない Tamariyadhammaṃ kusalā vadanti, それは聖法だと 智者たちは 言う yassussadā natthi kuhiñci loke. 彼に ( 煩悩の ) 増長が ない どこにも 世間に対して
제 4 여덟개의시구장, 3. 악한뜻 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 3. 悪意八詩句経 5. 中村元先生訳 784 汚れた見解をあらかじめ設け つくりなし 偏重して 自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである 正田大観先生訳 791.(784) 彼に 執着の対象として 想い描かれ 妄想によって 形成された諸々の法 ( 見解 ) が 存在し 特別のものとして 偏重された諸々の浄白ならざるものが存在するなら すなわち 自己 の見解 について のみ 福利を見るなら まさに その 動揺を縁とする 虚妄の 寂静に依存する者である (5) 1, 영문 04 Atthakavagga - 03 Dutthatthakasutta 5. He whose Dhammas are (arbitrarily) formed and fabricated, placed in front, and confused, because he sees in himself a good result, is therefore given to (the view which is called) kuppa-pa/t/i/kk/a-santi. (?) 2, 영문 784. Whose views are predetermined, fully formed, And prejudiced, nor washen of dispute, When profit in assumption he beholds, His trust is on that calm-on-quaking built.
3, 영문 784. When wrong conceptions fill the mind with prejudice, the man who looks to find a blessing there, builds hopes of Peace on shifting sands. パーリ語原文 790.(784) Pakappitā saṅkhatā yassa dhammā, 想い描かれ 形成された 彼に 法 ( 見解 ) が purakkhatā santi avīvadātā; 偏重され 存在し 清浄でない Yadattani passati ānisaṃsaṃ, 即ち 自己に 見る ( ならば ) 利益を taṃ nissito kuppapaṭicca santiṃ. その 依存する者 動揺を 縁とする 寂静に
제 4 여덟개의시구장, 3. 악한뜻 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 3. 悪意八詩句経 6. 毎田周一先生訳 785. 自分がどんなに物事に捉われているかを知り自分の考えでは駄目だと気付くのは実に難しいだから人は立場にこだわって真理を捨てたり掴んだりする 中村元先生訳 785 諸々の事物に関する固執 ( はこれこれのものであると ) 確かに知って 自己の見解に対する執著を超越することは 容易ではない 故に人はそれらの ( 偏執の ) 住居のうちにあって ものごとを斥け またこれを執る 正田大観先生訳 792.(785) まさに 諸々の見解にたいする固着は 超克し易きものではない 諸々の法 ( 見解 ) について 執着の対象として 執持されたものを 執着の対象と 判別して ( 対象化し特別視して ) それゆえに 人は それらの 妄執が 固着する場において 法 ( 見解 ) を放棄し かつまた 執取する (6) 1, 영문 04 Atthakavagga - 03 Dutthatthakasutta 6. For the dogmas of philosophy are not easy to overcome, amongst the Dhammas (now this and now that) is adopted after consideration; therefore a man rejects and adopts (now this and now that) Dhamma amongst the dogmas.
2, 영문 785. 'Tis hard indeed to loose opinion's hold, By studying what men accept in views. And hence a man amid such harbourage This thing now scouts and now again adopts. 3, 영문 785. As rooted prejudice is hard to quell, a man should test ideas he holds, discarding freely, till he holds the Doctrine's truth. パーリ語原文 791.(785) Diṭṭhīnivesā na hi svātivattā, 見解に固執は ない 実に 超えやすく dhammesu niccheyya samuggahītaṃ; 法に対して 確かに知って 固執した Tasmā naro tesu nivesanesu, それ故に 人は それらの 住居において nirassatī ādiyatī ca dhammaṃ. 捨てる 受け取る また 法 ( 真理 ) を
제 4 여덟개의시구장, 3. 악한뜻 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 3. 悪意八詩句経 7. 毎田周一先生訳清められた人はこの世の何処にいてもあれこれのことを自分で作り出した考えにあてはめてみるようなことはしないだから清められた人はいつわりと思い上がりとからすっきりと離れているこの何にもとりついていない人が 何処かへ行く ということがあるだろうか 中村元先生訳 786 邪悪を掃い除いた人は 世の中のどこにいても さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない 邪悪を掃い除いた人は いつわりと驕慢とを捨て去っているが どうして ( 輪廻に ) 赴くであろうか? かれはもはやたより近づくものがないのである 正田大観先生訳 793.(786) まさに 清き者には 世のどこにおいても 諸々の種々なる生存にたいし あらかじめ断定的に 想い描かれた 特定の 見解は存在しない 欺瞞の 幻想も 我想の 思量も 両者ともに 捨棄して 清き者は 彼は 何によって 迷いの生存に 赴くというのだろう 彼は 特定の見解や迷いの生存に 近づかない者である (7) 1, 영문 04 Atthakavagga - 03 Dutthatthakasutta 7. For him who has shaken off (sin) there is nowhere in the world any prejudiced view of the different existences; he who has shaken off (sin), after leaving deceit and arrogance behind, which (way) should he go, he (is) independent.
2, 영문 786. The washen nowhere in the world hath view Preformed about becoming this or that ; That washen, quit of guile and pride, by what Then goeth he? He is without concern. 3, 영문 786. The inly washen saint, now freed from fancies fond of life hereafter, stripped of pride and error, how place him? He stands apart! パーリ語原文 792.(786) Dhonassa hi natthi kuhiñci loke, 清浄な人には実にないどこにも世の pakappitā diṭṭhi bhavābhavesu; 構想された 見解 種々の生存に対して Māyañ ca mānañ ca pahāya dhono, 惑わしと 慢を 捨てて 清浄な人は sa kena gaccheyya anūpayo so. 彼は何によって行くだろうか執着がなくなった彼は
제 4 여덟개의시구장, 3. 악한뜻 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 3. 悪意八詩句経 8. 毎田周一先生訳 787. 物にとりつく人は言い争うが何にもとりつかぬ人をどうして何を問題として論争に引入れることができるだろうかこの人は物に実体があるかないかそんな考えにはもう捉われてはいないそこにはこの世にある限りの一切の偏見がなくなっている 中村元先生訳 787 諸々の事物に関してたより近づく人は あれこれの議論 ( 誹り 噂さ ) を受ける ( 偏見や執著に ) たより近づくことのない人を どの言いがかりによって どのように呼び得るであろうか? かれは執することもなく 捨てることもない かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである 正田大観先生訳 794.(787) まさに 執着の対象に 近づく者は 諸々の法 ( 見解 ) のうち 特定の 論に近づく しかしながら 特定の見解や迷いの生存に 近づかない者を 何によって どのように説くというのだろう ( 彼は 論争の相手にはならない ) なぜなら 彼には 自己と自己ではないものが 両者ともに 存在しないのだから 彼は まさしく この 世において 一切の見解を払い落としたのだ ということで (8) 1, 영문 04 Atthakavagga - 03 Dutthatthakasutta 8. But he who is dependent undergoes censure amongst the Dhammas; with what (name) and how should one name him who is independent? For by him there is nothing grasped or rejected, he has in this world shaken off every (philosophical) view.
2, 영문 787. Who hath concern concerns himself with talk Of things : how tell the unconcerned, by what? In him is naught assumed, rejected naught, Washed hath he here indeed all views away. 3, 영문 787. Their mental states define men with propensities. But how define the man with none? who nought asserts and naught denies, but waves all theories aside? パーリ語原文 793.(787) Upayo hi dhammesu upeti vādaṃ, 近づく人は実に諸法に対して近づく議論に anūpayaṃ kena kathaṃ vadeyya; 近づかない人を何によってどのように説くのだろうか Attā nirattā na hi tassa atthi, 我も非我もない実に彼にとって存在し adhosi so diṭṭhimidheva sabbanti. 捨て去った彼は見解を ここに一切の と