제 4 여덟개의시구장, 4. 청정 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 4. 清浄八詩句経 1 毎田周一先生訳 788. 私はここに最上のつまり煩いをすっかり離れた清らかさを見るそして人は物の見方で清らかになることが出来る とこのように考えて 最上のこと がそこにあると知りそんなことを清らかさを見ていると称する人が智慧だと信じ込んでいる 中村元先生訳 788 最上で無病の 清らかに人をわたくしは見る 人が全く清らかになるのは見解による と このように考えることを最上であると知って 清らかなことを観ずる人は ( 見解を 最上の境地に達し得る ) 智慧であると理解する 正田大観先生訳 795.(788) わたしは 見る 清浄で 無病で 最高なる者を 見られたものによって 人の清浄は有る と このように 自己だけの観点で 証知しながら これこそ 最高である と 自分勝手に 知って 清浄を随観する ( 理解する ) 者は かくのごとく 形だけの 知恵を信受する ( 盲信する ) (1) 1, 영문 04 Atthakavagga - 04 Suddhatthakasutta 1. I see a pure, most excellent, sound man, by his views a man's purification takes place, holding this opinion, and having seen this view to be the highest he goes back to knowledge, thinking to see what is pure.
2, 영문 788. I see the cleansed, the yondermost, the well, By seeing comes there cleansing of a man! Who, thinking thus, knows this as yondermost, Deems knowledge to be seeing ot the cleansed! 3, 영문 788. ' Lo! man pure, perfect, hale, made pure by views he holds! ' Convinced ' perfection 's found ' through such imaginings, ' experts in purity ' expect to come to know! パーリ語原文 794. Passāmi suddhaṃ paramaṃ arogaṃ, 私は見る 清浄を 最上の 無病を diṭṭhena saṃsuddhi narassa hoti; 見解によって 全くの清らかさは 人にとて ある Etābhijānaṃ paramanti ñ atvā, このように認識しつつ 最上と 知って suddhānupassīti pacceti ñāṇaṃ. 清浄を随観するものは このように了解する智識だと
제 4 여덟개의시구장, 4. 청정 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 4. 清浄八詩句経 2. 毎田周一先生訳もしも人がその人の物の見方によって清らかとなったりあるいはまた智慧によって苦しみを捨てるというのであれば盲目の命を拠り処としているものが何か他のことによって清められるということになるそんなことをいう人を偏見の持主というのである 中村元先生訳 789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば それは煩悩にとらわれている人が ( 正しい道以外の ) 他の方法によっても清められることになるであろう このように語る人を 偏見ある人 と呼ぶ 正田大観先生訳 796.(789) もし 見られたものによって 人の清浄が有るなら あるいは 形だけの 知恵によって 彼が苦を捨棄するなら 彼は 依り所 ( 依存の対象 ) を有する者であり 自己ではない 他のものによって清まる ことになる なぜなら 他のものである 彼の 見解は 彼のことを そのように 形だけで 説いている者と 自ら 説くからである (2) 1, 영문 04 Atthakavagga - 04 Suddhatthakasutta 2. If a man's purification takes place by (his philosophical) views, or he by knowledge leaves pain behind, then he is purified by another (way than the ariyamagga, i.e. the noble way), together with his upadhis, on account of his views he tells him to say so.
2, 영문 789. If from mere sight comes cleansing to a man, Or he by knowledge may be quit of ill, He, tho' infected, is by other cleansed : But see, his views belie him as his words! 3, 영문 789. If dogma makes men pure, or if such lore ends then something not the Path makes pure an earthy man whose views give him the lie. パーリ語原文 795.(789) Diṭṭhena ce suddhi narassa hoti, 見解によって もし 清浄が 人に あるならば ñ āṇena vā so pajahāti dukkhaṃ; 智識によって 或は 彼は 捨てるならば 苦を Añ ñ ena so sujjhati sopadhīko, 他によって 彼は 清浄になる 依存者のままで diṭṭhī hi naṃ pāva tathā vadānaṃ. 偏見者と 実に 彼を 言う そのように 説く
제 4 여덟개의시구장, 4. 청정 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 4. 清浄八詩句経 3. 毎田周一先生訳 790. 道に達した人は他のことを即ち知識とか学問とか徳行とか思想とかを清らかであるとはいわないそして善いことにも悪いことにも染まらずこの世で何かを作り出そうとせず既に身についているものをみな払い捨ててしまう 中村元先生訳 790 ( 真の ) バラモンは ( 正しい道の ) ほかには 見解 伝承の学問 戒律 道徳 思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない かれは禍福に汚されることなく 自我を捨て この世において ( 禍福の因を ) つくることがない 正田大観先生訳 797.(790) 見られたものについて 聞かれたものについて 戒や掟 ( 執着の対象に成り下がった宗教行為 ) について あるいは 思われたもの ( 我執の思いで対象化され他者化した認識対象 ) について 真の 婆羅門 ( 人格完成者 ) は 他のものから 生まれた 虚妄の 清浄を 清浄とは 言わない 善 ( 功徳 ) についても 悪 ( 功徳なき ) についても 何であれ 汚されない者は 自己を捨棄する者であり この 世において 執着の思いを 作り為さずにいる (3) 1, 영문 04 Atthakavagga - 04 Suddhatthakasutta 3. But the Brâhma/n/a who does not cling to what has been seen, or heard, to virtue and (holy) works, or to what has been thought, to what is good and to what is evil, and who leaves behind what has been grasped, without doing anything in this world, he does not acknowledge that purification cornes from another.
2, 영문 790. No brahman from another cleansing claims, Be it by things seen, heard, felt, rule or rite ; Alike unsoiled is he by good and bad. Rid of assumption, he doth none here form. 3, 영문 790. 'The Path not things of sense alone brings purity,' our self less 'Brahmin' says, by 'merit's' quest unsmirched, aloof from mundane ends. パーリ語原文 796.(790) Na brāhmaṇo añ ñ ato suddhimāha, ない バラモンは 他には 清浄と言わ ( ない ) diṭṭhe sute sīlavate mute vā; 見解により伝承により戒 掟により思想により或は Puñ ñ e ca pāpe ca anūpalitto, 善について また 悪について また 汚されない者 attañ jaho nayidha pakubbamāno. 自我を捨て ない ここに 作りなさ ( ない )
제 4 여덟개의시구장, 4. 청정 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 4. 清浄八詩句経 4. 毎田周一先生訳 791. 前のものを捨てては次のものを掴み落着きなく動き廻る人達は捉われを離れていない彼等は摑まえてはまた投げすてる丁度猿が木の枝を放しては掴むように 中村元先生訳 791 前の ( 師など ) を捨てて後の ( 師など ) にたより 煩悩の動揺に従っている人々は 執著をのり超えることがない かれらは とらえては また捨てる 猿が枝をとらえて また放つようなものである 正田大観先生訳 798.(791) 前の 教師や教義 を捨棄して 他の 教師や教義 に依存する者たち 動揺 の思い に従い行く彼らは 自らの 執着 の思い を超えない 彼らは 特定の何かを 執着の対象として 執持し 排除の対象として 放棄する 猿が 枝を掴んでは放つようなもの (4) 1, 영문 04 Atthakavagga - 04 Suddhatthakasutta 4. Having left (their) former (teacher) they go to another, following their desires they do not break asunder their ties; they grasp, they let go like a monkey letting go the branch (just) after having caught (hold of it).
2, 영문 791. Men quit the old to trust another view And in distraction do not cross the bog ; As apes let go a branch to grasp a branch, So seize they on a thing to let it go. 3, 영문 791. Chopping and changing fails to calm distracted folk, who now hold fast to this, and now to that, like apes that skip from bough to bough. パーリ語原文 797.(791) Purimaṃ pahāya aparaṃ sitāse, 前の 捨て 後ろの 依存する ejānugā te na taranti saṅgaṃ; 動揺に従う 彼らは ない 超え ( ない ) 執着を Te uggahāyanti nirassajanti, 彼らは 取り 捨てる kapīva sākhaṃ pamuñcaṃ gahāyaṃ. 猿の ように 枝を 捨てて 掴む
제 4 여덟개의시구장, 4. 청정 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 4. 清浄八詩句経 5. 毎田周一先生訳 792. 自ら戒律をきびしく守る人は自分だけの思いに捉われて思い上ったり卑下したりするしかし賢い人は深い智慧によって真理を悟り広やかな明るい心で思い上りもせずまた卑下もしない 中村元先生訳 792 みずから誓戒をたもつ人は 思いに耽って 種々多様なことをしようとする しかし智慧ゆたかな人は ヴェーダ ( 実践的認識 ) によって知り 真理を理解して 種々多様なことをしようとしない 正田大観先生訳 799.(792) 人は 自ら 自分勝手に 諸々の掟を受持して 自分勝手な 表象 ( 想 : 概念 心象 ) に執着し 迷いのままに 高下に赴く しかしながら 知ある者は 諸々の知によって法 ( 真理 ) を行知して 広き知慧ある者となり 高下に赴かない (5) 1, 영문 04 Atthakavagga - 04 Suddhatthakasutta 5. Having himself undertaken some (holy) works he goes to various (things) led by his senses, but a man of great understanding, a wise man who by his wisdom has understood the Dhamma, does not go to various (occupations).
2, 영문 792. A man will pledge himself to practices And hither-thither run, caught in surmise : Not hither-thither runs the quickened sage But, reaching, knows a thing by verities. 3, 영문 792. Self prompted, slaves of Sense pursue austerities. Not so the wise, who know, who grasp the Doctrine's truth. パーリ語原文 798.(792) Sayaṃ samādāya vatāni jantu, 自ら 引き受けて 戒律を 人は uccāvacaṃ gacchati sañ ñ asatto; 高低に 赴く 想に執着し Vidvā ca vedehi samecca dhammaṃ, 智者は しかし 聖智によって 悟り 真理を na uccāvacaṃ gacchati bhūripañ ño. ない 高低に 赴か ( ない ) 広い智慧の人は
제 4 여덟개의시구장, 4. 청정 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 4. 清浄八詩句経 6. 毎田周一先生訳 793. 彼はどんなことに向っても見たり学んだり考えたりしたことで自分を武装せず物事をありのままに見明るい心で生活してゆく だからこの人は世間の人がこういう人だと掴もうとしても決して摑まえられない人である 中村元先生訳 793 かれは一切の事物について 見たり学んだり思索したことを制し 支配している このように観じ 覆われることなしにふるまう人を この世でどうして妄想分別させることができようか 正田大観先生訳 800.(793) あるいは 見られたもの 聞かれたもの あるいは 思われたもの それが何であれ 彼は 一切の諸法 ( 事象 ) にたいし 敵対という有り方を離れている このように見る者である彼を 迷妄の覆いが 開かれた者として行じおこなう者を ここに この 世において いったい 誰が 何によって 想い描くというのだろう ( 執着の対象を想い描くことがない者は 執着の対象として想い描かれることもない ) (6) 1, 영문 04 Atthakavagga - 04 Suddhatthakasutta 6. He being secluded amongst all the Dhammas, whatever has been seen, heard, or thought--how should any one in this world be able to alter him, the seeing one, who wanders openly?
2, 영문 793. Whoso hath fought his fight in all life's ways, Whate'er may be of things seen, heard or felt, He faring, very seer of the disclosed, How could he of the world be here misled? 3, 영문 793. When once man's thought transcends what sense impressions bring, when, thus inspired, he goes his clear eyed way, what lure can now unsettle him? パーリ語原文 799.(793) Sa sabbadhammesu visenibhūto, 彼は一切の物事について 敵対することがない yaṃ kiñ ci diṭṭhaṃ va sutaṃ mutaṃ vā; それが何であれ 見たり 或は 聞いたり考えたり或は Tameva dassiṃ vivaṭaṃ carantaṃ, このように見る者は 隠すことなく 行ずる kenīdha lokasmi vikappayeyya. 何によって この 世間に 分別するであろうか
제 4 여덟개의시구장, 4. 청정 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 4. 清浄八詩句経 7. 毎田周一先生訳 794. 彼等は何かをあてにせず又何かを取出してあがめることもなくこれが 終極の清らかさ だなどともいわないそして世間に結ぼれてゆくその執着を切り捨ててこの世の何事にも望みをかけない 中村元先生訳 794 かれらははからいをなすことなく ( 何物かを ) 特に重んずることもなく これこそ究極の清らかなことだ と語ることもない 結ばれた執著のきずなをすて去って 世間の何ものについても願望を起すことがない 正田大観先生訳 801.(794) 特定の何かを 想い描かず 特定の何かを 偏重せず 彼ら ( 知慧ある者たち ) は 究極の清浄である と説かない 執着の思いで 拘束された執取の拘束 ( 欲望や執着の対象 ) を捨てて 世のどこにおいても 自分勝手な 願望を作らない (7) 1, 영문 04 Atthakavagga - 04 Suddhatthakasutta 7. They do not form (any view), they do not prefer (anything), they do not say, 'I am infinitely pure;' having cut the tied knot of attachment, they do not long for (anything) anywhere in the world.
2, 영문 794. They fashion not, they predetermine not, Nor say : ' This is the final cleansing now! ' : Loosed from the trammel, from the ' grasping ' bond, They form a hope for nowhere in the world. 3, 영문 794. No idols these set up, no 'final purity' do they affirm, who burst the chains of hankering and yearn for nothing more. パーリ語原文 800.(794) Na kappayanti na purekkharonti, ない 評価し ない 重んじ accantasuddhīti na te vadanti; 究極の清浄だと ない 彼等は 言わない Ādānaganthaṃ gathitaṃ visajja, 執着の束縛を 結ばれた 捨てて āsaṃ na kubbanti kuhiñ ci loke. 願望を ない 持た ( ない ) 何事にも 世間の
제 4 여덟개의시구장, 4. 청정 8 시구경. 숫타니파타第 4 八つの詩句の章 4. 清浄八詩句経 8. 毎田周一先生訳 795. 罪の及ぶ境を超えて道に達した人には何かを知っているとか見ているとかいうことがこの人を拘束することにならない彼は貪ることにも夢中にならないが欲を離れることにもむきにならない彼にはこれがこの世で最上のことだといって摑まえるものが何もない 中村元先生訳 795 ( 真の ) バラモンは ( 煩悩の ) 範囲をのり超えている かれが何ものかを知りあるいは見ても 執著することがない かれは欲を貪ることなく また離欲を貪ることもない かれは ( この世ではこれが最上のものである ) と固執することもない 正田大観先生訳 802.(795) 執着の対象として 執持されたものを あるいは あるがままに 知って あるいは あるがままに 見て 世の 罪悪を超え行く婆羅門 彼には 執着の対象が 存在しない 彼は 貪り の対象 を貪る者でもなく 離貪 の思い に染まった者でもない 彼には この 世において これこそ 最高である と 執持されたもの ( 執着の対象 ) が存在しない ということで (8) 1, 영문 04 Atthakavagga - 04 Suddhatthakasutta 8. He is a Brâhma/n/a that has conquered (sin); by him there is nothing embraced after knowing and seeing it; he is not affected by any kind of passion; there is nothing grasped by him as the highest in this world.
2, 영문 795. And for the brahman, passed beyond the bound, Who knows, who sees, there's no accepted view ; Unmoved by passion, by disgust unstirred, For him there is naught further to accept. 3, 영문 795. Sinless, the Brahmin true, through ken and vision, grasps at nothing; passion free, he does not plume himself on being passionless. No more has he to learn. パーリ語原文 801.(795) Sīmātigo brāhmaṇo tassa natthi, 境界を超えた バラモンは 彼には ない ñ atvā va disvā va samuggahītaṃ; 知って 或は 見って 或は 執着することが Na rāgarāgī na virāgaratto, ない 貪りを貪ること ない 離欲に染まること tassīdha natthī paramuggahītanti. 彼にはこの世で存在しない最上だと固執するものは