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빈면

4단원*

Transcription:

1. 仲 井 健 治 先 生 の 研 究 活 動 の 再 照 明 2. - 白 湖 林 悌 を 中 心 に - 野 崎 充 彦 ( 大 阪 市 立 大 学 ) 一. はじめに 最 初 にお 詫 びすべき 幾 つかの 点 がございます まず 一 つ 目 は 私 は 韓 国 古 典 文 学 を 専 攻 しているとはい え 白 湖 林 悌 の 研 究 者 ではなく また 漢 詩 に 対 する 造 詣 も 極 めて 浅 いため 作 品 解 釈 において 十 分 な 検 討 を なすことができません ですから 本 来 ならば 今 回 のようなシンポジウムに 参 加 する 資 格 はないというべ きでしょう しかしながら 私 の 所 属 する 大 阪 市 立 大 学 は 全 南 大 学 と 数 年 前 より 大 学 間 交 流 を 行 っているこ とから 無 下 に 断 るのも 失 礼 であり 少 しでもお 役 にたてるなら 協 力 すべきではないか と 思 い 直 しまし た また 仲 井 健 治 先 生 は 大 阪 のご 出 身 だと 聞 き それならば やはり 同 じ 大 阪 に 位 置 する 大 学 の 研 究 者 が 携 わるべきではないか と 考 えて 引 き 受 けることにした 次 第 です ところが もう 一 つ 新 たな 問 題 が 生 じました 私 は 当 初 仲 井 先 生 が 如 何 なるきっかけでして 白 湖 林 悌 に 関 心 を 持 ち どのように 研 究 を 進 められていったのか その 足 跡 を 紹 介 できればよいものと 考 えておりまし た 実 際 全 南 大 学 湖 南 学 研 究 院 からの 依 頼 も 仲 井 先 生 の 業 績 紹 介 程 度 でよいとのことでしたから 仲 井 先 生 は2007 年 に 惜 しくも 逝 去 されましたが ご 遺 族 が 今 も 大 阪 と 京 都 の 中 間 にある 高 槻 市 にお 住 まいですの で お 訪 ねしてお 話 を 伺 えばある 程 度 の 事 柄 は 調 査 できるものと 楽 観 していました そこで ご 遺 族 に 連 絡 を 取 って 訪 問 したのですが 残 念 なことに 仲 井 先 生 の 奥 様 までもが 今 年 初 めに 病 の ため 亡 くなられていたのです 現 在 長 男 の 方 が 一 人 でお 暮 しですが 仲 井 先 生 は 家 庭 では 特 に 子 供 に 対 しては 韓 国 古 典 研 究 については 殆 ど 語 られることがなかったようで 何 も 知 らないとのことでした このた め 仲 井 先 生 がどのように 漢 詩 文 に 親 しまれ どのような 過 程 を 経 て 白 湖 林 悌 研 究 にのめり 込 んでいかれ たのか について 知 るすべは 永 久 に 失 われてしまったわけです 残 るは 仲 井 先 生 が 残 された 原 稿 から 先 生 が 白 湖 や 韓 国 古 典 漢 詩 文 の 世 界 へどのように 踏 み 入 って 行 か れたのかを 辿 って 行 くことだけでしたが しかし ここにも 問 題 がありました 当 初 韓 国 から 送 られてき た 資 料 は 林 白 湖 集 を 読 む など 白 湖 関 連 の 原 稿 だったのですが 仲 井 健 治 先 生 の 恵 簡 ( 以 下 書 簡 集 と 略 称 )を 読 めば それ 以 外 にも 膨 大 な 数 の 原 稿 があることが 判 明 したからです そこで 急 遽 他 の 資 料 を 送 る よう 求 めたのですが 全 南 大 学 や 羅 州 市 庁 に 保 管 されている 原 稿 は 一 部 に 過 ぎず 残 りの 資 料 は 羅 州 林 氏 中 央 花 樹 会 副 会 長 の 林 彩 南 氏 が 所 持 しておられることがわかりました 林 彩 南 氏 は 長 年 にわたる 仲 井 先 生 と の 文 通 を 通 じ 厚 い 友 誼 を 重 ねてこられた 方 であることを 書 簡 集 を 通 じて 知 りましたが ちょうど 九 月 の 末 に 韓 国 に 出 張 する 機 会 があり そのおりにソウルにお 住 いの 林 彩 南 氏 を 訪 ねることにしました 初 対 面 にも 関 わらず 林 彩 南 氏 は 大 変 温 かく 接 してくださり 資 料 についてもできるだけの 協 力 をすると 申 し 出 てくださりました そして その 後 数 度 にわたり 膨 大 な 量 の 原 稿 をコピーして 送 ってくださいま した 改 めて ここに 感 謝 の 意 を 表 するものであります 林 彩 南 氏 は 今 年 自 ら 日 本 に 赴 かれ 仲 井 先 生 の

ご 自 宅 を 訪 問 また 東 京 の 内 閣 文 庫 において 林 悌 の 貴 重 な 資 料 である 昌 平 版 本 林 白 湖 集 を 発 掘 されたこ とを 申 し 添 えておきます さて 些 か 前 置 きが 長 くなりましたが 以 上 のような 経 緯 を 辿 ったため 私 が 仲 井 先 生 のお 仕 事 の 全 貌 を 知 るようになったのは つい 最 近 のことで 実 質 的 には 二 ヵ 月 足 らずに 過 ぎません そのため せっかく 入 手 した 原 稿 をじっくりと 読 みとおす 余 裕 もありませんでした また 先 にも 述 べましたように 私 は 漢 文 学 に 対 する 素 養 が 浅 いため 仲 井 先 生 のお 仕 事 を 十 分 に 理 解 し 評 価 することは 困 難 です そこで 以 下 仲 井 先 生 の 略 歴 および 仲 井 先 生 が 残 された 業 績 の 全 貌 を 紹 介 することを 主 眼 としてお 話 しすることで 私 に 与 えられた 責 務 を 僅 かなりとも 全 うできれば と 願 う 次 第 です 二. 仲 井 先 生 の 略 歴 仲 井 健 治 先 生 は1922 年 に 大 阪 府 下 の 農 村 で 四 人 兄 弟 の 次 男 として 出 生 1943 年 に 百 年 の 歴 史 を 誇 る 関 西 地 方 有 数 の 私 立 大 学 である 関 西 大 学 商 業 学 科 に 入 学 するも ほどなく 軍 に 召 集 され 陸 軍 経 理 学 校 幹 部 候 補 生 として1945 年 8 月 まで 約 二 年 間 軍 隊 生 活 を 送 られました 同 年 12 月 には 計 理 士 登 録 を 経 て 開 業 そ の 旁 同 大 学 法 学 部 で 学 び 1950 年 に 卒 業 されています 書 簡 集 には 法 学 部 時 代 には 民 法 専 攻 でありなが ら 戦 時 国 際 法 と 法 哲 学 に 関 心 があったこと またヘーゲルやマルクスなどのドイツ 哲 学 への 言 及 が 見 られ ますが それらの 教 養 はこの 時 期 に 培 ったものでありましょう その 後 の20 年 あまりについては 先 ほど 述 べました 事 情 により 詳 細 を 知 ることはできませんが 1973 年 に 日 本 の 天 理 大 学 図 書 館 において 清 陰 金 尚 憲 (1570~1652 年 )の 済 州 島 紀 行 文 である 南 槎 録 に 記 載 され た 林 悌 の 南 溟 小 乗 を 通 じ 林 悌 の 詩 世 界 に 魅 せられ 生 涯 をかけ 白 湖 研 究 に 邁 進 することを 誓 うことに なりました 因 みに 天 理 大 学 は 天 理 教 という 新 興 宗 教 団 体 によって1925 年 に 創 設 された 学 校 で 海 外 布 教 のために 外 国 語 教 育 に 力 を 入 れ また 図 書 館 の 蔵 書 には 貴 重 な 資 料 も 数 多 く 今 日 では 日 本 における 朝 鮮 韓 国 研 究 の 重 要 な 機 関 としてよく 知 られています 翌 年 の1974 年 5 月 に 初 めて 韓 国 の 釜 山 を 訪 問 続 く 翌 年 の5 月 に 再 訪 ソウルの 奎 章 閣 や 中 央 図 書 館 の 古 書 室 において 白 湖 関 連 資 料 の 調 査 をされました この 時 には 所 期 の 目 的 を 達 成 できなかったこともあり これ 以 後 白 湖 宗 中 の 都 有 司 である 林 光 澤 教 授 らをはじめ 門 中 の 人 々との 交 友 を 深 め 白 湖 の 墓 所 にも10 度 も 訪 れるなど 林 悌 の 詩 魂 に 触 れること 益 々 深 められました その 結 晶 が1992 年 に 刊 行 された 亡 女 奠 詞 臆 断 です この 頃 には 殆 ど 計 理 士 の 仕 事 から 離 れられた 仲 井 先 生 はさらに 一 層 白 湖 研 究 に 集 中 されるようになります が 1993 年 に 灌 白 酬 唱 録 を 密 陽 朴 氏 の 宗 報 に 連 載 を 開 始 ( 途 中 で 中 断 ) 翌 94 年 には 朝 鮮 の 釣 詩 ( 第 一 稿 )を 脱 稿 するなど 旺 盛 な 執 筆 活 動 を 続 けられます 1995 年 年 末 ごろから 林 白 湖 第 14 代 傍 系 の 林 彩 南 氏 と 書 信 による 交 流 を 始 められますが この 交 流 は 仲 井 先 生 が 亡 くなられる 前 まで 続 き その 間 林 彩 南 氏 を 通 じて 入 手 した 数 多 くの 資 料 により さらに 活 発 な 執 筆 活 動 を 展 開 されることになりました それらについ ては 次 節 で 詳 しく 紹 介 しますが そのあらましを 挙 げておけば 次 の 通 りです

1996 年 新 灌 白 酬 唱 録 石 村 林 胥 遺 稿 詩 釈 注 など 同 年 8 月 林 白 湖 を 読 む ( 翌 年 完 成 ) 1997 年 霽 湖 集 瞥 観 など 1998 年 林 習 静 詩 釈 注 続 編 剡 湖 集 選 釈 など 1999 年 浮 碧 楼 觴 詠 録 評 釈 注 など 2001 年 許 蘭 雪 軒 の 世 界 など 2000~05 年 林 白 湖 文 集 評 釈 の 執 筆 開 始 2007 年 逝 去

三. 仲 井 先 生 の 論 考 について これまでに 仲 井 先 生 が 執 筆 された 韓 国 古 典 詩 文 に 関 する 論 考 のうちで 私 が 入 手 または 確 認 できたもの は 次 の 通 りです( 日 付 は 主 に 書 簡 集 に 基 づく なお 原 稿 枚 数 は200 字 換 算 ) 1. 亡 女 奠 詞 臆 断 375 頁 (1992 年 ) 2. 林 白 湖 を 読 む (1~4) その 他 ( 計 635 枚 )(1996 年 ~) 3. 新 稿 灌 白 酬 唱 録 論 釈 注 篇 (388 枚 )(1996 年 ~) 4. 滄 浪 主 人 詩 釈 注 (10 枚 )(96.1.17) 5. 石 村 遺 稿 を 読 む Ⅰ~Ⅳ( 計 286 枚 )(96.3.~7 月 ) 6. 昌 平 坂 本 林 白 湖 集 について (8 枚 )(96.6.25) 7. 権 韠 詩 評 釈 Ⅰ~Ⅲ( 計 108 枚 )(1996.7 月 前 後 ) 8. 所 謂 陶 靖 節 集 二 巻 について (? 枚 )(96.8.29) 9. 鼠 獄 説 の 作 者 は 林 悌 (10 枚 )(96.8.29) 10. 読 滄 浪 亭 詩 釈 注 (24 枚 )(96.11.21) 11. 百 花 亭 詩 評 釈 注 (44 枚 )(96.11.21) 12. 林 灌 詩 集 を 読 む Ⅰ Ⅱ Ⅲ( 計 278 枚 )(97.2.16) 13. 海 隠 詩 評 釈 (26 枚 )(97.7.19?2.16) 14. ( 新 発 見 の) 林 灌 詩 集 を 読 む Ⅳ( 計 312 枚 )(97.6.15) 15. 霽 湖 集 瞥 観 (20 枚 )(97.6.15) 16. 石 州 詩 文 釈 注 (28 枚 )(97.4.10) 17. 玉 峯 の 挽 林 兵 使 夫 人 詩 (10 枚 )(97.9.21) 18. 滄 浪 曲 について (10 枚 )(97.9.21) 19. 滄 浪 曲 賛 歌 (32 枚 )(97.12.3) 20. 剡 湖 集 選 釈 (200 枚 ) (98.2.13) 21. 剡 湖 集 選 釈 拾 遺 (1)(2)(3) ( 計 108 枚?)(98.4.7) 22. 白 松 湖 詩 散 策 (1)(98.4.7) 1のみか?(64 枚 ) 23. 二 玄 一 窺 (170 枚 )(98.5.18) 24. 松 湖 詩 散 策 (98.6.21) 1 2(1は 未 見 )(1-? 2-26 枚 ) 25. 林 習 静 詩 釈 注 続 編 (1)~(4)( 計 106 枚 )(98.6.21) 26. 五 峯 集 瞥 観 (32 枚 )(98.9.21) 27. 竹 陰 集 瞥 観 (22 枚 )(98.9.21) 28. 看 羊 録 詩 評 釈 (38 枚 )(98.9.21) 29. 滄 浪 亭 遺 稿 ( 釈 注 ) (2)(3)(4) ( 計 106 枚?)(98.11.19~12.15) 30. 閒 好 詩 釈 注 (26 枚 )(99.1.7) 31. 滄 渓 詩 釈 注 (36 枚 )(99.1.7) 32. 滄 渓 公 遺 事 (? 枚 )(99.1.7) 33. 睡 隠 姜 沆 詩 二 首 釈 注 (10 枚 )(99.3.12) 34. 南 松 詩 釈 注 (116 枚 )(99.3.12)

35. 松 湖 白 振 南 詩 六 首 釈 注 (99.3.12)(20 枚 ) 36. 朝 鮮 之 釣 詩 Ⅰ~Ⅳ( 計 666 枚 )(99.3.31~6.15) 37. 大 谷 青 渓 蓀 谷 霽 峯 松 江 負 喧 堂 選 釈 ( 計 122 枚 )(1999.7.7) 38. 浮 碧 楼 觴 詠 録 評 釈 注 (500 枚 )(99.12.31) 39. 意 馬 賦 管 説 釈 注 篇 附 考 篇 補 注 篇 ( 計 240 枚 )(2000.3 月 ) 40. 竹 梧 堂 重 修 賞 詠 録 ( 計 110 枚 )(2000.12.26) 41. 林 悌 の 七 言 古 詩 を 読 む (72 枚 ) 42. 林 悌 の 七 言 古 詩 続 稿 (50 枚 ) 43. 林 悌 の 三 五 七 詩 を 読 む (28 枚 ) 44. 林 悌 の 五 排 と 七 排 を 洗 う (78 枚 ) 45. 林 悌 の 雑 体 詩 (106 枚 ) 46. 林 悌 の 憶 秦 娥 一 闋 について (20 枚 ) 47. 林 悌 の 五 言 絶 句 (1~4)( 計 426 枚 ) 48. 林 悌 の 五 言 絶 句 (5~8)( 計 646 枚 ) 49. 林 悌 の 五 言 古 詩 (1)~(4)( 計 270 枚 )(2001.10 月 以 降 ) 50. 林 悌 の 七 言 絶 句 酬 和 寄 贈 (1)~(5)( 計 500 枚 ) 51. 林 悌 の 七 言 絶 句 歌 吟 (1)~(2)( 計 162 枚 ) 52. 林 悌 の 七 言 絶 句 釈 門 道 門 (1)~(2)( 計 118 枚 ) 53. 林 悌 の 七 言 絶 句 悲 悼 ( 一 )( 二 )( 計 130 枚 ) 54. 林 悌 の 七 言 絶 句 高 山 察 訪 (66 枚 )(2002.1 月 ) 55. 蘭 雪 軒 の 世 界 (1)~(10)( 計 364 枚 )(2001.4.22) ( 일본인이 본 허난설헌 한시의 세계 허미자역 국학자료원 2003년) 56. 林 悌 の 七 言 絶 句 艶 意 (118 枚 )(2002.2 月?) 57. 林 悌 の 七 言 絶 句 梅 堂 煮 茗 録 (86 枚 ) 58. 林 悌 の 七 言 絶 句 病 痾 (102 枚 ) 59. 林 悌 の 七 言 絶 句 水 力 亭 八 詠 (92 枚 ) 60. 林 悌 詩 評 爍 追 記 (10 枚 ) 61. 滄 浪 主 人 詩 釈 注 追 記 (24 枚 ) 62. 羅 州 林 氏 世 乗 滄 浪 公 遺 事 を 読 みくだす (6 枚 ) 63. 習 静 詩 集 中 に 見 える 海 隠 詩 について (6 枚 ) 64. 荷 谷 挽 林 子 順 詩 について (20 枚 ) 65. 昌 平 坂 本 林 白 湖 集 について 追 述 (10 枚 ) 66. 俛 仰 老 人 三 簡 牘 を 読 む (42 枚 ) 67. 俛 仰 老 人 三 簡 牘 附 考 篇 Ⅰ Ⅱ ( 計 58 枚?) 書 簡 集 では 言 及 されないものや 原 稿 に 脱 稿 の 日 付 を 記 していないものも 多 く そのうえ 私 の 調 査 が 綿 密 でないため 漏 れ 落 ちたものもあるはずですので 日 付 は 必 ずしも 正 確 ではありません また ここに 挙 げた もの 以 外 にも 仲 井 先 生 が 残 された 原 稿 があると 推 測 されますが とはいえ おそらく90パーセント 以 上 は 把 握 し 得 たと 思 われます ご 覧 のとおり 比 較 的 短 い 期 間 にこのように 膨 大 な 論 考 を 執 筆 されたことに 驚 く ほかありません そこで 仲 井 先 生 が 白 湖 林 悌 をはじめとする 韓 国 古 典 詩 歌 の 何 に 魅 了 され どのように 評

価 していたのか それを 次 に 見 ることにしましょう 四. 仲 井 先 生 の 林 悌 に 対 する 評 価 林 悌 の 詩 巻 をおおっている 著 しい 特 色 は 詩 の 風 気 の 多 様 性 である 華 侈 艶 冶 の 風 を 漂 わせるかと 思 え ば 一 転 して 剛 鋭 の 気 を 漲 らせるのは まるで 杜 牧 の 如 くである 抒 情 の 纏 綿 たることが 元 白 や 孟 郊 を 想 起 せしめるかと 思 えば 精 緻 繁 縟 で 寓 意 が 模 糊 としているのは さながら 李 賀 や 李 商 隠 の 如 くである 一 体 どれ が 最 も 林 悌 にふさわしいものであるかは 後 人 の 取 捨 選 択 にゆだねようというのが その 真 意 だった 見 なけ ればならぬのである ( 亡 女 奠 詞 臆 断 31 頁 ) 林 悌 が 若 くして 亡 くなった 娘 を 哀 悼 して 作 った 亡 女 奠 詞 を 読 み 解 くために 中 国 古 典 詩 歌 の 世 界 にその 源 流 を 探 らんと 最 初 の 著 作 である 亡 女 奠 詞 臆 断 が 書 かれたわけですが その 主 たる 目 的 は ここで 指 摘 されているように 林 悌 の 詩 の 風 気 の 多 様 性 を 追 求 するためでした 仲 井 先 生 は 林 悌 の 詩 世 界 の 多 様 性 を 見 極 めるために 半 生 を 費 やされたといっても 過 言 ではないでしょう そのような 姿 勢 は 他 の 論 考 でも 終 始 一 貫 していますが その 過 程 は 実 に 困 難 なものであったようです これは 林 白 湖 が 大 変 意 欲 的 だった 五 言 絶 の 作 品 についての 評 釈 です 唐 詩 の 花 とされるこの 詩 形 は 造 るのが 最 も 困 難 とされますが 読 むのにもまた 非 常 な 苦 労 をさせられます ただ 字 面 を 追 うだけでは 詩 意 をつかむことがほとんど 出 来 ないのです ( 書 簡 集 96 年 10 月 2 日 ) それにしても 五 言 絶 句 というような 風 変 わりな 詩 形 に 挑 んだ 白 湖 の 闘 魂 に 共 感 を 覚 えどおしです ( 同 前 96 年 10 月 15 日 ) 最 後 に 取 り 上 げました 分 韻 十 首 は 漢 詩 の 歴 史 における 記 念 碑 的 な 作 品 だと 思 います ( 同 前 96 年 12 月 2 日 ) これらは 先 に 挙 げた 論 考 2. 林 白 湖 を 読 む (1~4) その 他 ( 計 635 枚 ) 執 筆 中 に 漏 らされた 感 慨 です が 仲 井 先 生 は 詩 文 集 の 元 資 料 に 掲 載 された 作 品 を 一 字 一 句 自 ら 書 写 され 難 解 な 個 所 に 至 れば 何 日 もか けて 思 索 に 耽 ったうえ 自 分 が 得 心 のいった 解 釈 のみを 書 きつけるという 作 業 を 倦 まず 弛 まず 積 み 重 ねられ たのですが その 苦 しさ また 楽 しさを 書 簡 集 の 随 所 に 述 べられています 詩 人 林 白 湖 の 核 心 に 迫 るのには 今 まで 誰 人 もスポットを 当 てようとしなかった その 晩 年 の 生 活 を 追 求 してみる 必 要 があり それには 朴 灌 園 との 関 係 を 照 射 しなければならぬとして 鋭 意 執 筆 に 務 めたのがこの 原 稿 です ( 書 簡 集 95 年 3 月 3 日 ) これは 朴 啓 賢 の 灌 園 逸 稿 と 林 悌 の 林 白 湖 集 に 収 められた 両 者 の 酬 答 詩 ( 朴 啓 賢 18 首 林 悌 27 首 計 45 首 )を 仲 井 先 生 が 編 集 された 灌 白 酬 唱 録 ( 論 考 では 3の 新 稿 灌 白 酬 唱 録 論 釈 注 篇 )に 言 及 したものです が このような 独 自 な 視 点 に 到 達 し 得 たのも 白 湖 の 詩 文 との 対 話 においては 誰 に 対 しても 引 けを 取 らない との 自 負 があったからでしょう そのような 自 信 が 灌 白 酬 唱 録 こそは 韓 国 文 学 史 上 特 筆 されるべき 事 件 です 謝 霊 運 を 尊 崇 して 雕 虫 耽 美 主 義 に 傾 斜 した 朴 啓 賢 杜 牧 に 心 酔 したうえ 天 台 仏 教 に 深 く 染 まり 独 立 独 歩 の 境 涯 を 貫 いた 林 悌 明 の 文 芸 思 想 の 影 響 下 にあった16 世 紀 末 葉 の 朝 鮮 における 両 者 の 火 花 を 散 らす 対 戦 は 篤 とスポットをあててみる 必 要 がありま

す ( 書 簡 集 97 年 7 月 10 日 ) のような 力 強 い 言 葉 を 生 み 出 す 原 動 力 となったのです それはまた 一 方 で 既 成 の 研 究 に 対 する 厳 しい 批 判 ともなりました 訳 注 白 湖 全 集 における 灌 白 酬 唱 鹽 韻 詩 の 釈 文 には 誤 った 解 釈 や こじつけ 解 釈 が 数 多 く 見 られることに 黙 止 し 難 いものがあって 筆 を 執 りました ( 書 簡 集 97 年 12 月 3 日 ) これは 韓 国 で 出 版 された 訳 注 白 湖 全 集 (1997 年 創 作 と 批 評 社 )に 対 する 批 判 ですが( 訳 注 白 湖 全 集 疑 懐 ) 他 の 論 考 においても 同 様 の 批 判 的 な 言 辞 が 数 多 く 見 られます 仲 井 先 生 の 批 判 が 全 て 当 を 得 たものであ るかどうかは 専 門 家 の 検 討 を 要 することですので 私 がここで 私 見 を 述 べることは 差 し 控 えますが この ような 激 しい 批 判 精 神 も 地 道 な 作 業 を 通 じて 得 られた 己 の 知 見 に 強 固 な 自 負 を 持 っておられたからでありま しょう その 舌 鋒 は 韓 国 のみならず 北 朝 鮮 の 白 湖 研 究 にも 向 けられています 鼠 獄 説 の 作 者 が 誰 であるかを 伝 える 文 献 資 料 など どこにもあろう 筈 はありません すべからく この 小 説 の 得 意 な 技 法 と 文 章 表 現 の 諸 特 性 などを 篤 と 調 べ 上 げて 林 悌 の 作 に 相 違 ないことを 論 証 すべきだと 思 います ( 書 簡 集 96.8.29) これは 北 朝 鮮 において 元 生 夢 遊 録 や 花 史 愁 城 誌 と 並 んで 鼠 獄 説 が 何 ら 確 たる 根 拠 もなしに 林 悌 の 作 品 とされていることを 批 判 しながらも 新 たなアプローチによる 研 究 の 必 要 性 を 説 いたものです(9. 鼠 獄 説 の 作 者 は 林 悌 ) 仲 井 先 生 は 晩 年 愁 城 誌 の 釈 注 論 考 にも 取 り 組 んでおられましたので( 書 簡 集 2000.3.24.) 或 いは 鼠 獄 説 の 研 究 にも 取 り 組 んでおられていたかも 知 れませんが 今 のところその 原 稿 は 見 あたりません 今 後 の 課 題 としたいと 思 います 五. 仲 井 先 生 の 仕 事 の 意 義 日 本 における 韓 国 文 学 受 容 史 の 視 点 から 以 上 甚 だ 雑 駁 ではありますが 仲 井 先 生 が 残 された 論 考 について 大 まかな 紹 介 を 致 しました それが 白 湖 林 悌 研 究 においてどのような 意 味 を 持 つかについては 先 ほども 申 しましたように 門 外 漢 である 私 には 論 じる 資 格 はありません そこで 最 後 に 日 本 における 韓 国 文 学 受 容 史 の 視 点 から その 意 義 を 述 べ 本 発 表 のまとめに 代 えたく 存 じます 日 本 における 韓 国 小 説 の 翻 訳 状 況 については 一 つの 明 らかな 傾 向 があります それは 解 放 以 前 においては 古 典 関 係 が 解 放 後 は 近 現 代 の 小 説 が 圧 倒 的 多 数 を 占 めるということです まず 古 典 文 学 では 初 期 の 翻 訳 には 次 のようなものがあります 1. 朝 鮮 の 物 語 集 附 俚 諺 (1910 年 ) 高 橋 亨 2. 朝 鮮 野 談 集 (1912 年 ) 青 柳 南 冥 3. 謝 氏 南 征 記 九 雲 夢 (1914 年 ) 4. 広 寒 楼 記 懲 毖 録 丙 子 日 記 洪 吉 童 伝 秋 風 感 別 曲 (1921 年 ) 5. 瀋 陽 日 記 沈 清 伝 薔 花 紅 蓮 伝 (1922 年 ) 6. 三 国 遺 事 淑 香 伝 罷 睡 録 (1923 年 )

1の 著 者 である 高 橋 亨 は 大 著 李 朝 仏 教 (1929 年 )で 知 られる 研 究 者 であり 自 ら 丹 念 に 渉 猟 した 文 献 や 現 地 調 査 をもとに 書 かれています 2の 青 柳 南 冥 も 民 間 信 仰 に 関 する 著 述 を 多 く 残 しましたが この 朝 鮮 野 談 集 は 青 邱 野 談 などの 野 談 類 や 成 俔 (1439~1504 年 )の 慵 斎 叢 話 のような 稗 官 文 学 のアンソロジーで その 文 体 は 漢 文 を 日 本 式 に 読 み 下 したものに 過 ぎません 朝 鮮 の 漢 文 学 は 江 戸 時 代 にも 散 発 的 に 紹 介 されることがありました 1711 年 に 刊 行 された 許 蘭 雪 軒 の 詩 集 はよく 知 られていますが それ 以 前 にも1653 年 に 刊 行 された 金 時 習 (1435~1493 年 )の 金 鰲 新 話 は 近 世 日 本 の 怪 異 文 学 に 大 きな 影 響 を 与 え しばしば 比 較 文 学 研 究 の 対 象 となっていますし 続 いて 徐 居 正 (1420~ 1488 年 )の 東 人 詩 話 も1655 年 に 刊 行 されています 3~6は 謂 わゆる 古 典 文 学 と 呼 ばれる 作 品 ですが これらの 多 くは 韓 国 人 がまず 訳 し その 訳 文 に 日 本 人 が 手 を 入 れ 直 す 方 式 で 書 かれたものでした 翻 訳 のやり 方 もさることながら なかには 洪 吉 童 伝 のように 今 日 知 られているストーリーとは 一 部 異 なっているものもあり 使 用 されたテキスト 問 題 も 含 め 改 めて 検 証 されるべき 課 題 の 多 いものです( 洪 吉 童 伝 に 関 しては 三 種 のテクストを 扱 った 拙 訳 が2010 年 に 平 凡 社 東 洋 文 庫 から 刊 行 されました) これらの 古 典 作 品 の 紹 介 は 単 なる 異 文 化 理 解 のためではなく 植 民 地 経 営 に 役 立 つ 知 見 を 提 供 する 目 的 のもとで 遂 行 されたことは 言 うまでもありません 古 典 小 説 に 混 じって 懲 毖 録 丙 子 日 記 瀋 陽 日 記 などが 含 まれているのもその 表 れといえるでしょう 近 代 小 説 については その 創 作 活 動 の 時 期 からしても 登 場 が 遅 れたのは 当 然 ですが 1930 年 代 後 半 からぽ つぽつと 日 本 語 訳 が 出 始 めます 朝 鮮 文 学 代 表 作 集 ( 少 年 行 金 南 天 苗 木 李 箕 永 豚 李 孝 石 崔 老 人 伝 抄 録 朴 泰 遠 など)や 朝 鮮 文 学 選 集 ( 鴉 李 泰 俊 金 講 師 とT 教 授 兪 鎮 午 蕎 麦 の 花 の 頃 李 孝 石 な ど)がその 代 表 的 なものです 解 放 後 から 現 代 に 至 ると 今 度 は 逆 に 古 典 文 学 の 紹 介 はごく 僅 かで 圧 倒 的 に 近 現 代 文 学 の 比 重 が 高 まり ました それは 朝 鮮 戦 争 後 軍 事 独 裁 政 権 とそれに 対 抗 する 市 民 学 生 の 勇 敢 な 民 主 化 闘 争 そして 漢 江 の 奇 跡 と 呼 ばれた 経 済 成 長 を 遂 げた 韓 国 に 対 する 関 心 が 高 まったからです とはいえ 初 期 の 頃 はまだ 在 日 韓 国 人 によるものが 主 でしたが やがてジャーナリストや 韓 国 文 学 研 究 者 など 日 本 人 による 翻 訳 が 増 加 しはじめ ます 1984 年 に 刊 行 された 朝 鮮 短 編 小 説 選 ( 岩 波 書 店 )は 本 格 的 な 韓 国 文 学 研 究 の 到 来 を 告 げる 記 念 碑 的 な 訳 業 となりました 1988 年 のソウルオリンピックの 成 功 や 文 民 政 府 の 誕 生 を 経 て 韓 国 への 関 心 は 益 々 強 まり それにつれて 文 学 作 品 も 短 編 中 心 から 長 編 へと 広 がり 1999 年 趙 廷 来 の 太 白 山 脈 全 十 巻 の 刊 行 されるに 至 ります それ 以 後 もこの 傾 向 は 変 わらず 2005 年 より 平 凡 社 から 朝 鮮 近 代 文 学 選 集 の 刊 行 が 開 始 され 李 光 洙 の 無 情 の 初 の 完 訳 から 最 近 の 廉 想 渉 の 三 代 に 至 るまで 韓 国 近 代 文 学 の 再 評 価 をめざした 意 欲 的 な 企 画 が 進 行 中 で あり 洪 命 熹 の 林 巨 正 が 日 本 の 読 者 の 前 に 姿 を 見 せる 日 も 遠 くないでしょう その 一 方 で 古 典 文 学 は 低 調 で 春 香 伝 のようなパンソリ 系 小 説 はともかくとして( パンソリ 平 凡 社 東 洋 文 庫 1982 年 ) それ 以 外 の 古 典 小 説 は 学 術 的 な 評 価 に 耐 えうる 水 準 を 備 えた 訳 注 は 極 めて 少 ないのです この 傾 向 は 詩 歌 では 一 層 顕 著 で 初 めて 時 調 を 本 格 的 に 紹 介 した 時 調 朝 鮮 の 詩 心 ( 創 樹 社 1978 年 )の 他 で は 金 笠 詩 選 ( 平 凡 社 東 洋 文 庫 2003 年 )ぐらいしか 目 ぼしい 成 果 がありません このような 状 況 にあって 仲 井 先 生 が 残 された 数 多 くの 論 考 は 極 めて 貴 重 であり 日 本 における 韓 国 文 学 受 容 史 の 視 点 からいえば 事 件 といっても 決 して 過 言 ではないほどです 私 は 韓 国 古 典 研 究 に 携 わる 者 の 一 人 として 仲 井 先 生 の 学 問 に 対 する 誠 実 かつ 厳 格 な 姿 勢 に 学 ぶところ 多 く 己 の 怠 惰 さを 叱 咤 激 励 された 思

いすらします 最 後 になりましたが このような 機 会 を 与 えていただきました 全 南 大 学 湖 南 学 研 究 院 また 多 大 の 惜 し みない 協 力 をいただきました 林 白 湖 第 14 代 の 林 彩 南 氏 に 対 し 改 めてお 礼 申 し 上 げるとともに 遠 からず 先 生 の 御 業 績 を 必 ずや 日 本 に 紹 介 することをお 約 束 して 私 の 発 表 を 終 わらせていただきます ありがとうございました 以 上

나카이 겐지( 仲 井 健 治 )선생 연구활동의 재조명 - 백호 임제를 중심으로 - 노자키 미쓰히코( 野 崎 充 彦 ) * 차 례 1. 서론 2. 나카이 선생의 약력 3. 나카이 선생의 논고에 관해서 4. 나카이 선생의 임제에 대한 평가 5. 나카이 선생의 연구의 의의 1. 서론 발표에 앞서 몇 가지 사과드릴 점이 있습니다. 우선 첫 번째는 제가 한국고전문학을 전공하고 있기는 하나 백호 임제의 연구자가 아니며, 또한 한시에 대한 조예도 지극히 깊지 않기 때문에 작품 해석에 있어 서 충분한 검토를 할 수 없었습니다. 때문에 본래라면 이번과 같은 심포지엄에 참가할 자격은 없다고 할 수 있을 것입니다. 하지만 제가 소속되어 있는 오사카시립대학은 전남대학과 몇 년 전부터 대학 간 교류 를 실시하고 있기 때문에 무턱대고 거절하는 것도 실례이며, 조금이라도 도움이 될 수 있다면 협력해야 한다고 생각했습니다. 또한 나카이 겐지( 仲 井 健 治 ) 선생이 오사카( 大 阪 ) 출신이라는 이야기를 듣고, 그렇 다면 역시 같은 오사카에 위치한 대학의 연구자가 관여해야한다고 생각하여 이 연구를 맡게 되었습니다. 그런데 또 하나 새로운 문제가 발생했습니다. 저는 당초 나카이 선생이 어떠한 계기로 백호 임제에 대 해 관심을 갖고, 어떤 식으로 연구를 진행했는지 그 발자취를 소개할 수 있다면 좋겠다고 생각했습니다. 실제로 전남대학교 호남학연구원에서 의뢰한 발표내용도 나카이 선생의 연구업적 소개 정도로 괜찮다고 했기 때문입니다. 나카이 선생은 2007년에 애석하게도 서거하셨습니다만 유족이 지금도 오사카와 교토의 중간에 있는 다카쓰키 시( 高 槻 市 )에 거주하고 있기 때문에 방문하여 이야기를 듣는다면 어느 정도의 사 정은 조사될 수 있다고 낙관했습니다. 그래서 유족에게 연락을 취하여 방문했습니다만 유감스럽게도 나카이 선생의 사모님까지 올해 초에 병 으로 돌아가셨습니다. 현재는 장남이 홀로 생활하고 있는데 나카이 선생은 가정에서는 특히 자식들에게는 한국고전연구에 관해서 거의 말씀하신 적이 없는 것 같았고, 아무것도 모른다고 하였습니다. 때문에 나카 이 선생이 어떻게 한시문을 즐기게 되었고, 어떠한 과정을 거쳐 백호 임제 연구에 빠져들게 되었는지에 대해서 알 수 있는 방도는 영구히 잃게 되어버린 것입니다.

남아 있는 일은 나카이 선생이 남긴 원고로부터 선생이 백호나 한국고전 한시문의 세계로 어떻게 들어 가게 되었는지를 더듬어 가는 것뿐이었습니다만 이점에도 문제가 있었습니다. 당초 한국에서 보낸 자료 는 임백호집을 읽다( 林 白 湖 集 を 読 む) 등 백호 관련의 원고였습니다만, 나카이 겐지 선생의 혜간( 仲 井 健 治 先 生 の 恵 簡 ) (이하, 서간집( 書 簡 集 ) 으로 약칭)을 읽으면 그 밖에도 방대한 수의 원고가 있다는 것을 판명할 수 있었기 때문입니다. 그래서 서둘러 다른 자료를 보내도록 요청했습니다만 전남대학교나 나주시청에 보관되어 있는 원고는 일부에 불과하였고, 나머지 자료는 나주 임씨 중앙화수회( 中 央 花 樹 會 ) ㆍ부회장 임채남( 林 彩 南 ) 씨가 소지하고 있다는 것을 알게 되었습니다. 임채남 씨가 오랜 세월에 걸친 나 카이 선생과의 편지 왕래를 통해 두터운 우의를 쌓아 오신 분인 것은 서간집을 통해 확인할 수 있었는데, 마침 지난 9월말에 한국에 출장할 기회가 있어 그 때 서울에 거주하는 임채남 씨를 방문하게 되었습니다. 첫 대면임에도 불구하고 임채남 씨는 매우 따뜻하게 응대해 주셨고 자료에 관해서도 가능한 한 협력을 하겠다고 자청해서 말씀하셨습니다. 그리고 그 후 몇 차례에 걸쳐 방대한 양의 원고를 복사해서 보내주셨 습니다. 다시 한 번 여기에서 감사의 뜻을 전하고 싶습니다. 임채남 씨는 올해 몸소 일본에 가서 나카이 선생의 자택을 방문, 또한 도쿄( 東 京 )의 내각문고( 内 閣 文 庫 )에서 임제의 귀중한 자료인 창평판본( 昌 平 版 本 ) 임백호집( 林 白 湖 集 ) 을 발굴했던 일을 덧붙여 말씀하셨습니다. 다소 서론이 길어졌습니다만 이상과 같은 경위를 밟아왔기 때문에 제가 나카이 선생의 전모를 알게 된 것은 바로 최근의 일이며, 실질적으로는 2개월이 채 못 되었습니다. 때문에 모처럼 손에 넣은 원고를 차 분히 통독할 여유도 없었습니다. 또한 앞에서도 언급했듯이 제가 한문학에 대한 소양이 깊지 않기 때문에 나카이 선생의 연구업적을 충분히 이해하고 평가하는 것은 곤란합니다. 그런 까닭으로 이하 나카이 선생 의 약력 및 나카이 선생이 남긴 업적의 전모를 소개하는 것을 주안점으로 삼아 이야기함으로써, 제게 주 어진 책무를 다소나마 완수할 수 있기를 바랄 따름입니다. 2. 나카이 선생의 약력 나카이 겐지 선생은 1922년에 오사카부( 大 阪 府 ) 아래의 농촌에서 사형제 중 차남으로 출생하였습니다. 1943년에 백년의 역사를 자랑하는 간사이( 関 西 ) 지방 유수의 사립대학인 간사이대학 상업학과에 입학하 였지만, 머지않아 군대에 소집되어 육군경리학교 간부후보생으로 1945년 8월까지 약 2년간의 군대생활을 보냈습니다. 같은 해 12월에는 공인회계사 등록을 거쳐 개업하였습니다. 한편 동대학 법학부에서 수학하 여 1950년에 졸업하였습니다. 서간집에서 법학부 시절에는 민법을 전공하면서 전시국제법과 법철학에 관심을 가졌던 점, 또 헤겔이나 마르크스 등 독일철학에 대한 언급을 볼 수 있습니다만, 그러한 교양은 이 시기에 배양했던 것 같습니다. 그 후 20년 남짓의 일에 대해서는 앞에서 언급했던 사정에 의해 상세히는 알 수 없습니다만, 1973년에 일본의 덴리( 天 理 )대학 도서관에서 청음( 淸 陰 ) 김상헌( 金 尙 憲 ) (1570~1652년)의 제주도 기행문인 남사 록( 南 槎 録 ) 에 기재된, 임제의 남명소승( 南 溟 小 乗 ) 을 통해 임제의 시 세계에 매료되었으며 평생을 걸고 백호연구에 매진할 것을 맹세하게 되었습니다. 덧붙여서 덴리대학은 덴리교( 天 理 教 )라는 신흥종교단체에 의해 1925년에 창설된 학교로, 해외포교를 위해 외국어교육에 힘을 쏟고 있으며 또한 도서관 장서에는 귀중한 자료도 많아서 오늘날 일본에서의 조선ㆍ한국 연구의 중요한 기관으로 잘 알려져 있습니다. 다음 해인 1974년 5월에 처음으로 한국의 부산을 방문합니다. 잇따라 다음 해 5월에 재방문합니다. 서

울에 있는 규장각이나 중앙도서관의 고서실에서 백호 관련 자료의 조사를 하였습니다. 이 시기에는 소기 의 목적을 달성할 수 없었던 점도 있고, 이 이후 백호 종중( 宗 中 )의 도유사( 都 有 司 )인 임광택( 林 光 澤 ) 교 수 등을 비롯하여 문중 사람들과의 교우를 돈독히 하여 백호의 묘소에도 10번이나 방문하는 등 임제의 시혼( 詩 魂 )에 접하는 것을 더욱더 깊게 하였습니다. 그 결실이 1992년에 간행된 망녀전사억단( 亡 女 奠 詞 臆 断 ) 입니다. 이즈음에는 거의 공인회계사 일에서 벗어난 나카이 선생이 한층 더 백호연구에 집중하게 됩니다만, 1993년에 관백수창록( 灌 白 酬 唱 録 ) 을 밀양박씨의 종보( 宗 報 )에 연재하기 시작(도중에 중단), 다음 해인 1994년에는 조선의 조시( 朝 鮮 の 釣 詩 ) (제1원고)를 탈고 하는 등 왕성한 집필활동을 계속합니다. 1995 년 말경부터 임백호 제14대 방계( 傍 系 )인 임채남 씨와 서신으로 교류를 시작하게 되는데, 이 교류는 나 카이 선생이 돌아가시기 전까지 계속되며 그 사이 임채남 씨를 통해 입수한 수많은 자료에 의해 한층 더 활발한 집필활동을 전개하게 되었습니다. 그 집필활동에 대해서는 다음 절에서 상세히 소개하겠습니다만 그 대강을 언급하자면 다음과 같습니다. 1996년 : 신관백수창록( 新 灌 白 酬 唱 録 ), 석촌ㆍ임서유고시석주( 石 村 ㆍ 林 胥 遺 稿 詩 釈 注 ) 등 동년 8월 : 임백호 를 읽다( 林 白 湖 を 読 む) (다음 해 완성) 1997년 : 제호집 별관 ( 霽 湖 集 瞥 観 ) 등 1998년 : 임습정시석주 속편( 林 習 静 詩 釈 注 続 編 ), 섬호집 선석( 剡 湖 集 選 釈 ) 등 1999년 : 부벽루상영록평석주( 浮 碧 楼 觴 詠 録 評 釈 注 ) 등 2001년 : 허난설헌의 세계( 許 蘭 雪 軒 の 世 界 ) 등 2000~2005년 : 임백호문집평석( 林 白 湖 文 集 評 釈 )의 집필 개시 2007년 : 서거 3. 나카이 선생의 논고에 관해서 현재까지 나카이 선생이 집필한 한국 고전시문에 관한 논고 중에서 제가 입수 또는 확인할 수 있었던 것은 다음과 같습니다(날짜는 주로 서간집에 근거함. 또한 원고 매수는 200자 환산). 1. 망녀전사억단( 亡 女 奠 詞 臆 断 ) 375쪽(1992년) 2. 임백호 를 읽다( 林 白 湖 を 読 む) (1~4)ㆍ기타,(합계 635장)(1996년~) 3. 신고관백수창록( 新 稿 灌 白 酬 唱 録 ) 론 석주편(388장)(1996년~) 4. 창랑주인시석주( 滄 浪 主 人 詩 釈 注 ) (10장)(1996년 1월 17일) 5 석촌유고 를 읽다( 石 村 遺 稿 を 読 む) Ⅰ~Ⅳ(합계 286장)(1996년 3월~7월) 6. 창평판본 임백호집 에 관하여( 昌 平 坂 本 林 白 湖 集 について) (8장)(1996년 6월 25일) 7. 권필시평석( 権 韠 詩 評 釈 ) Ⅰ~Ⅲ(합계 108장)(1996년 7월 전후) 8. 소위 도정절집 2권에 관하여( 所 謂 陶 靖 節 集 二 巻 について) (?장)(1996년 8월 29일) 9. 서옥설의 작자는 임제( 鼠 獄 説 の 作 者 は 林 悌 ) (10장)(1996년 8월 29일) 10. 독 창랑정시석주( 読 滄 浪 亭 詩 釈 注 ) (24장)(1996년 11월 21일)

11. 백화정시평석주( 百 花 亭 詩 評 釈 注 ) (44장)(1996년 11월 21일) 12. 임관시집 을 읽다( 林 灌 詩 集 を 読 む) ⅠㆍⅡㆍⅢ(합계 278장)(1997년 2월 16일) 13. 해은시평석( 海 隠 詩 評 釈 ) (26장)(1997년 7월 19일? 2월 16일) 14. (신발견의) 임관시집 을 읽다 Ⅳ(합계 312장)(1997년 6월 15일) 15. 제호집 별관( 霽 湖 集 瞥 観 ) (20장)(1997년 6월 15일) 16. 석주시문석주( 石 州 詩 文 釈 注 ) (28장)(1997년 4월 10일) 17. 옥봉의 만림병사부인시( 玉 峯 の 挽 林 兵 使 夫 人 詩 ) (10장)(1997년 9월 21일) 18. 창랑곡에 관하여( 滄 浪 曲 について) (10장)(1997년 9월 21일) 19. 창랑곡찬가( 滄 浪 曲 賛 歌 ) (32장)(1997년 12월 3일) 20. 섬호집 선석( 剡 湖 集 選 釈 ) (200장)(1998년 2월 13일) 21. 섬호집 선석 습유 (1)(2)(3) (합계 108장?)(1998년 4월 7일) 22. 백송호시산책( 白 松 湖 詩 散 策 ) (1)(1998년 4월 7일)1뿐일지?(64장) 23. 이현일규( 二 玄 一 窺 ) (170장)(1998년 5월 18일) 24. 송호시산책( 松 湖 詩 散 策 ) (1998년 6월 21일)1ㆍ2(1은 미견)(1-?, 2-26장) 25. 임습정시석주 속편( 林 習 静 詩 釈 注 続 編 ) (1)~(4)(합계 106장)(1998년 6월 21일) 26. 오봉집별관( 五 峯 集 瞥 観 ) (32장)(1998년 9월 21일) 27. 죽음집별관( 竹 陰 集 瞥 観 ) (22장)(1998년 9월 21일) 28. 간양록 시평석( 看 羊 録 詩 評 釈 ) (38장)(1998년 9월 21일) 29. 창랑정유고(석주)( 滄 浪 亭 遺 稿 ( 釈 注 )) (2)(3)(4)(합계 106장?)(1998년 11월 19일~12월 15일) 30. 한호시석주( 閒 好 詩 釈 注 ) (26장)(1999년 1월 7일) 31. 창계시석주( 滄 渓 詩 釈 注 ) (36장)(1999년 1월 7일) 32. 창계공유사( 滄 渓 公 遺 事 ) (?장)(1999년 1월 7일) 33. 수은강항시이수석주( 睡 隠 姜 沆 詩 二 首 釈 注 ) (10장)(1999년 3월 12일) 34. 남송시석주( 南 松 詩 釈 注 ) (116장)(1999년 3월 12일) 35. 송호백진남시육수석주( 松 湖 白 振 南 詩 六 首 釈 注 ) (1999년 3월 12일)(20장) 36. 조선지조시( 朝 鮮 之 釣 詩 ) Ⅰ~Ⅳ(합계 666장)(1999년 3월 31일~6월 15일) 37. 대곡ㆍ청계ㆍ손곡ㆍ제봉ㆍ송강ㆍ부훤당 선석( 大 谷 ㆍ 青 渓 ㆍ 蓀 谷 ㆍ 霽 峯 ㆍ 松 江 ㆍ 負 喧 堂 選 釈 ) (합계 122 장)(1999년 7월 7일) 38. 부벽루상영록평석주( 浮 碧 楼 觴 詠 録 評 釈 注 ) (500장)(1999년 12월 31일) 39. 의마부관설 석주편ㆍ부고편ㆍ보주편( 意 馬 賦 管 説 釈 注 篇 ㆍ 附 考 篇 ㆍ 補 注 篇 )(합계 240장)(2000년 3월) 40. 죽오당중수상영록( 竹 梧 堂 重 修 賞 詠 録 ) (합계 110장)(2000년 12월 26일) 41. 임제의 칠언고시를 읽다( 林 悌 の 七 言 古 詩 を 読 む) (72장) 42. 임제의 칠언고시 속고( 林 悌 の 七 言 古 詩 続 稿 ) (50장) 43. 임제의 삼오칠시를 읽다( 林 悌 の 三 五 七 詩 を 読 む) (28장) 44. 임제의 오배와 칠배를 밝혀 낸다( 林 悌 の 五 排 と 七 排 を 洗 う) (78장) 45. 임제의 잡체시( 林 悌 の 雑 体 詩 ) (106장) 46. 임제의 억진아일결에 관하여( 林 悌 の 憶 秦 娥 一 闋 について) (20장) 47. 임제의 오언절구( 林 悌 の 五 言 絶 句 ) (1~4)(합계 426장) 48. 임제의 오언절구 (5~8)(합계 646장) 49. 임제의 오언고시( 林 悌 の 五 言 古 詩 ) (1)~(4)(합계 270장)(2001년 10월 이후) 50. 임제의 칠언절구 수화기증( 林 悌 の 七 言 絶 句 酬 和 寄 贈 ) (1)~(5)(합계 500장)

51. 임제의 칠언절구 가음( 林 悌 の 七 言 絶 句 歌 吟 ) (1)~(2)(합계 162장) 52. 임제의 칠언절구 석문도문( 林 悌 の 七 言 絶 句 釈 門 道 門 ) (1)~(2)(합계 118장) 53. 임제의 칠언절구 비도( 林 悌 の 七 言 絶 句 悲 悼 ) (1)(2)(합계 130장) 54. 임제의 칠언절구 고산찰방( 林 悌 の 七 言 絶 句 高 山 察 訪 ) (66장)(2002년 1월) 55. 난설헌의 세계( 蘭 雪 軒 の 世 界 ) (1)~(10)(합계 364장)(2001년 4월 22일) ( 일본인이 본 허난설헌 한시의 세계 허미자 역 국학자료원 2003년) 56. 임제의 칠언절구 염의( 林 悌 の 七 言 絶 句 艶 意 ) (118장)(2002년 2월?) 57. 임제의 칠언절구 매당자명록( 林 悌 の 七 言 絶 句 梅 堂 煮 茗 録 ) (86장) 58. 임제의 칠언절구 병아( 林 悌 の 七 言 絶 句 病 痾 ) (102장) 59. 임제의 칠언절구 수력정팔영( 林 悌 の 七 言 絶 句 水 力 亭 八 詠 ) (92장) 60. 임제시평삭추기( 林 悌 詩 評 爍 追 記 ) (10장) 61. 창랑주인시석주추기( 滄 浪 主 人 詩 釈 注 追 記 ) (24장) 62. 나주임씨세승 창랑공유사를 고쳐 읽다( 羅 州 林 氏 世 乗 滄 浪 公 遺 事 を 読 みくだす) (6장) 63. 습정시집 속에 보이는 해은시에 관하여( 習 静 詩 集 中 に 見 える 海 隠 詩 について) (6장) 64. 하곡만림자순시에 관하여( 荷 谷 挽 林 子 順 詩 について) (20장) 65. 창평판본 임백호집 에 관하여 추술( 昌 平 坂 本 林 白 湖 集 について 追 述 ) (10장) 66. 면앙노인삼간독을 읽다( 俛 仰 老 人 三 簡 牘 を 読 む) (42장) 67. 면앙노인삼간독 부고편ⅠㆍⅡ( 俛 仰 老 人 三 簡 牘 附 考 篇 ⅠㆍⅡ) (합계 58장?) 서간집에 언급되지 않은 것이나 원고에 탈고 날짜를 적지 않은 것도 많아서, 게다가 저의 조사가 면밀 하지 않은 탓도 있어서 날짜는 반드시 정확하지 않습니다. 또한 여기에서 언급한 것 이외에도 나카이 선 생이 남긴 원고가 있을 것이라고 추측됩니다만, 아마 90% 이상은 파악할 수 있었다고 생각됩니다. 보시 는 바와 같이 비교적 짧은 기간에 이처럼 방대한 논고를 집필할 수 있었던 것에 놀랄 수밖에 없습니다. 그러면 이제 나카이 선생이 백호 임제를 비롯한 한국 고전시가의 무엇에 매료되어 그것을 어떻게 평가하 고 있었는지 다음 장에서 살펴보기로 합시다. 4. 나카이 선생의 임제에 대한 평가 가) 임제의 시집을 뒤덮고 있는 현저한 특색은 시가 지니는 풍기( 風 氣 )의 다양성이다. 화치염야( 華 侈 艶 冶 )의 바람을 감돌게 하는가 하면, 일변하여 강예( 剛 銳 )의 기운이 넘쳐흐르게 하는 것은 마치 두목( 杜 牧 )과 같다. 서정이 얽혀 있는 것은 원백( 元 白 )이나 맹교( 孟 郊 )를 상기시키게 하는가 하면, 정치번욕( 精 緻 繁 縟 )하고 우의( 寓 意 )가 모호한 것은 마치 이하( 李 賀 )나 이상은( 李 商 隱 )과 같다 대관절 어떤 것 이 가장 임제다운 것인지는 후세 사람의 취사선택에 맡기자고 하는 것이 그 진의 였다라고 봐야할 것이다.( 亡 女 奠 詞 臆 断 31쪽) 임제가 요절한 딸을 애도하면서 지은 망녀전사 를 해독하기 위해서, 중국 고전시가의 세계에서 그 원

류를 탐구하려고, 최초의 저작인 망녀전사억단 을 쓴 것입니다만, 그 주된 목적은 여기서 지적되고 있듯 이 임제의 시가 지니는 풍기의 다양성 을 추구하기 위해서였습니다. 나카이 선생이 임제의 시세계의 다양 성을 규명하기 위해서 반생을 소비했다고 해도 과언은 아닐 것입니다. 그러한 자세는 다른 논고에서도 시 종일관하고 있습니다만 그 과정은 실로 곤란했던 것 같습니다. 나) 이것은 임백호가 매우 의욕적이었던 오언절( 五 言 絶 ) 작품에 관한 평석입니다. 당 시( 唐 詩 )의 꽃으로 여겨지는 이 시의 형태는 창작하는 것이 가장 곤란하다고 여 겨집니다만, 시를 읊는데도 또한 상당한 고생을 하게 만듭니다. 그저 글자 모양을 눈으로 뒤쫓는 것만으로는 시의 의미를 거의 파악할 수 없습니다.( 書 簡 集 1996년 10월 2일) 다) 라) 그렇다고 해도 오언절구와 같은 색다른 시의 형태에 도전했던 백호의 투혼에 공 감을 느낍니다.(동상 1996년 10월 15일) 마) 바) 마지막에 채택했던 분운십수( 分 韻 十 首 )는 한시의 역사에서 기념비적인 작품이라 고 생각합니다.(동상 1996년 12월 2일) 이는 앞에서 언급한 논고 2. 임백호 를 읽다 (1~4)ㆍ기타(합계 635장) 집필 중에 느끼게 된 감개입 니다만, 나카이 선생은 시문집의 원자료에 게재된 작품을 일자일구 몸소 서사하였고 난해한 부분에 다다 르면 수일에 걸쳐 사색에 잠긴 후 자신이 납득할만한 해석만을 기록해두는 작업을 꾸준히 거듭했습니다. 그 괴로움과 즐거움은 서간집의 여기저기에 기술되어 있습니다. 사) 시인 임백호의 핵심에 직면하는 데는 지금까지 아무도 스포트라이트를 비추려 하 지 않았던 그 만년의 생활을 추구해 볼 필요가 있으며, 이를 위해서는 박관원( 朴 灌 園 )과의 관계를 비춰보아야 한다고 하여 예의 집필에 힘썼던 것이 이 원고입니 다.( 書 簡 集 1995년 3월 3일) 이것은 박계현( 朴 啓 賢 )의 관원일고( 灌 園 逸 稿 ) 와 임제의 임백호집 에서 취합할 수 있었던 양자의 수 답시( 酬 答 詩 )(박계현 18수, 임제 27수, 합계 45수)를 나카이 선생이 편집한 관백수창록 (논고에서는 3 의 신고관백수창록 론 석주편)에서 언급했던 것입니다만, 이처럼 독자적인 시점에 도달할 수 있었던 까 닭도 그 누구와 비교하더라도 백호의 시문에 관한 대화에서는 뒤지지 않을 것이라는 자부심이 있었기 때 문일 것입니다. 그러한 자신감은 다음의 인용문에서 확인할 수 있습니다. 아) 관백수창록이야말로 한국문학사상 특필될만한 사건입니다. 사령운( 謝 靈 運 )을 우 러러 존경하고 조충탐미주의( 雕 虫 耽 美 主 義 )에 치우친 박계현. 두목( 杜 牧 )에 심취 한 후 천태종 불교에 깊게 감화되어 독립독보의 생활을 관철한 임제. 명나라 문 예사상의 영향 하에 있었던 16세기말엽의 조선에서 양자의 불꽃 튀기는 대전은 꼼꼼히 스포트라이트를 비추어볼 필요가 있습니다.( 書 簡 集 1997년 7월 10일) 그러한 자신감이 이와 같은 강력한 말을 낳는 원동력이 되었던 것입니다. 그것은 또 한편으로 기성연구

에 대한 엄격한 비판이 되기도 했습니다. 자) 역주백호전집( 訳 注 白 湖 全 集 )에서의 관백수창염운시( 灌 白 酬 唱 鹽 韻 詩 )의 석문( 釋 文 )에는 잘못된 해석이나 억지 해석이 많이 보임에 따라 묵과하기 어려운 것이 있어서 붓을 들었습니다.( 書 簡 集 1997년 12월 3일) 이것은 한국에서 출판된 역주백호전집 (1997년, 창작과 비평사)에 대한 비판입니다만( 역주백호전집 의회( 訳 注 白 湖 全 集 疑 懐 ) ), 다른 논고에 대해서도 똑같이 비판적인 언사를 많이 볼 수 있습니다. 나카이 선생의 비판이 모두 합당한 것인지 어떤지는 전문가의 검토를 필요로 하는 것이기 때문에, 제가 여기에서 사견을 논하는 것은 삼가겠습니다만 이러한 격렬한 비판정신도 착실한 작업을 통해 얻을 수 있었던 자신 의 지견에 강고한 자부심을 가지고 있었기 때문일 것입니다. 그 날카로운 언변은 한국뿐만 아니라 북한의 백호연구에도 향해 있습니다. 차) 서옥설 의 작자가 누구인지를 전하는 문헌자료는 어디에도 없을 것입니다. 모름 지기 이 소설의 득의양양한 기법과 문장표현의 여러 특성 등을 꼼꼼히 조사하여 임제의 작품임에 틀림없다는 것을 논증해야한다고 생각합니다.( 書 簡 文 1996년 8월 29일) 이것은 북한에서 원생몽유록( 元 生 夢 遊 録 ) 이나 화사( 花 史 ), 수성지( 愁 城 誌 ) 와 나란히 서옥설 을 어떤 확실한 근거도 없이 임제의 작품으로 여기고 있는 것을 비판하면서도, 새로운 접근법에 의한 연구의 필요성을 말한 것입니다.(9. 서옥설의 작자는 임제 ). 나카이 선생은 만년 수성지 의 석주ㆍ논고에도 몰두하고 있었기 때문에( 書 簡 集 2000년 3월 24일), 어쩌면 서옥설 연구에도 몰두하고 있었는지 모르 겠습니다만 현재 그 원고는 발견되지 않습니다. 향후의 과제로 삼고자 합니다. 5. 나카이 선생의 연구의 의의 - 일본의 한국문학수용사의 시점에서 이상으로 매우 잡박하게나마 나카이 선생이 남긴 논고에 관해서 대략적인 소개를 했습니다. 나카이 선 생의 연구업적이 백호 임제 연구에 있어서 어떠한 의미를 지니는지에 대해서는 앞에서도 언급했듯이 문 외한인 저에게는 논할 자격이 없습니다. 그래서 마지막으로 일본의 한국문학수용사의 시점에서 그 의의를 논함으로써 본 발표의 결말을 대신하고자 합니다. 일본에서 한국소설의 번역 상황은 하나의 분명한 경향이 있습니다. 그것은 해방 이전에는 고전 영역이, 해방 이후에는 근현대의 소설이 압도적으로 다수를 차지한다는 것입니다. 우선 고전문학 중에서 초기의 번역에는 다음과 같은 것이 있습니다. 1. 조선의 이야기집 및 속담( 朝 鮮 の 物 語 集 附 俚 諺 ) (1910년) - 다카하시 도루( 高 橋 亨 ) 2. 조선야담집( 朝 鮮 野 談 集 ) (1912년) - 아오야기 난메이( 青 柳 南 冥 ) 3. 사씨남정기ㆍ구운몽( 謝 氏 南 征 記 ㆍ 九 雲 夢 ) (1914년) 4. 광한루기( 広 寒 楼 記 ), 징비록( 懲 毖 録 ), 병자일기( 丙 子 日 記 ), 홍길동전( 洪 吉 童 伝 ), 추풍감별곡( 秋 風

感 別 曲 ) (1921년) 5. 심양일기( 瀋 陽 日 記 ), 심청전( 沈 清 伝 ), 장화홍련전( 薔 花 紅 蓮 伝 ) (1922년) 6. 삼국유사( 三 国 遺 事 ), 숙향전( 淑 香 伝 ), 파수록( 罷 睡 録 ) (1923년) 1의 저자인 다카하시 도루는 대저 이조불교( 李 朝 仏 教 ) (1929년)로 알려진 연구자이며, 몸소 정성들여 섭렵한 문헌이나 현지조사를 바탕으로 기술하고 있습니다. 2의 아오야기 난메이도 민간신앙에 관한 저술 을 많이 남겼습니다만 이 조선야담집 은 청구야담( 青 邱 野 談 ) 등의 야담류나, 성현( 成 俔 )(1439~1504 년)의 용재총화( 慵 斎 叢 話 ) 와 같은 패관문학의 시문선( 詩 文 選 )으로 그 문체는 한문을 일본식으로 고쳐 읽은 것에 불과합니다. 조선의 한문학은 에도( 江 戸 ) 시대에도 산발적으로 소개되는 경우가 있었습니다. 1711년에 간행된 허난 설헌의 시집은 잘 알려져 있습니다만 그 이전에도 1653년에 간행된 김시습(1435~1493년)의 금오신화 ( 金 鰲 新 話 ) 는 근세 일본의 괴이문학( 怪 異 文 學 )에 커다란 영향을 끼쳤으며 자주 비교문학연구의 대상이 되고 있고, 잇따라 서거정(1420~1488년)의 동인시화( 東 人 詩 話 ) 도 1655년에 간행되었습니다. 3~6은 이른바 고전문학이라고 불리는 작품입니다만 이들 대부분은 한국인들이 우선 번역하고 그 번역 문에 일본인들이 다시 손을 대는 방식으로 쓰인 것이었습니다. 번역의 방식은 물론이고 그 중에는 홍길 동전 과 같이 오늘날 알려져 있는 스토리와는 일부 상이한 것도 있으며, 사용된 텍스트 문제도 포함해서 재차 검증되어야할 과제가 많은 것입니다( 홍길동전 에 관해서는 3종의 텍스트를 다룬 졸역이 2010년에 平 凡 社, 東 洋 文 庫 에서 간행되었습니다). 이들 고전작품의 소개는 단순히 이문화를 이해하기 위한 것이 아 니라 식민지 경영에 도움이 될 지견을 제공할 목적 아래에서 수행되었던 것은 말할 필요도 없습니다. 고 전소설과 섞여서 징비록, 병자일기, 심양일기 등이 포함되어 있는 것도 그 발로라고 할 수 있을 것 입니다. 근대소설에 대해서는 그 창작활동의 시기부터서도 등장이 늦어진 것은 당연합니다만 1930년대 후반부 터 띄엄띄엄 일본어 번역이 나오기 시작합니다. 조선문학대표작집 ( 소년행 김남천ㆍ 묘목 이기영ㆍ 돼지 이효석ㆍ 최노인전초록 박태원 등)이나 조선문학선집 ( 까마귀 이태준ㆍ 김강사와 T교수 유진 오ㆍ 메밀꽃 필 무렵 이효석 등)이 그 대표적인 것입니다. 해방 이후부터 현대에 이르면 이번에는 반대로 고전문학의 소개는 지극히 적고 압도적으로 근현대 문 학의 비중이 높아집니다. 이는 한국전쟁 이후 군사독재정권과 그에 대항하는 시민학생의 용감한 민주화투 쟁 그리고 한강의 기적 이라고 불렸던 경제성장을 이룬 한국에 대한 관심이 높아졌기 때문입니다. 그렇다 고는 해도 초기에는 아직 재일한국인에 의한 번역이 주였습니다만, 머지않아 저널리스트나 한국문학연구 자 등 일본인에 의한 번역이 증가하기 시작했습니다. 1984년에 간행된 조선단편소설선 ( 岩 波 書 店 )은 본 격적인 한국문학연구의 도래를 고하는 기념비적인 번역 업적이 되었습니다. 1988년 서울올림픽의 성공과 문민정부의 탄생을 거쳐 한국에 대한 관심은 더욱 더 강해졌고 그에 따 라 문학작품도 단편 중심에서 장편으로 확대되었으며, 1999년 조정래의 태백산맥 전10권이 간행되기에 이르렀습니다. 그 이후에도 이러한 경향은 변함없이 2005년부터 헤이본샤( 平 凡 社 )에서 조선근대문학선집 의 간행이 개시되었고, 이광수의 무정 의 첫 완역부터 최근 염상섭의 삼대 에 이르기까지 한국근대문학 의 재평가를 목표로 한 의욕적인 기획이 진행 중이며, 홍명희의 임꺽정 이 일본의 독자들 앞에 모습을 드러낼 날도 멀지 않을 것입니다. 한편으로 고전문학은 저조하여 춘향전 과 같은 판소리계 소설은 차치하더라도( 판소리 平 凡 社 東 洋

文 庫 1982년), 그 이외의 고전소설은 학술적인 평가를 할 만한 수준을 갖춘 역주가 지극히 적습니다. 이 러한 경향은 시가에서 한층 더 현저하며 최초로 시조를 본격적으로 소개한 시조 - 조선의 시심( 時 調 - 朝 鮮 の 詩 心 ) ( 創 樹 社, 1978년) 이외에는 김립시선( 金 笠 詩 選 ) ( 平 凡 社 東 洋 文 庫 2003년) 정도밖에 눈에 띄는 성과가 없습니다. 이러한 상황에서 나카이 선생이 남긴 수많은 논고는 매우 귀중한 자료이며 일본의 한국문학수용사의 시점에서 말하자면 사건 이라고 해도 결코 과언은 아닐 것입니다. 저는 한국고전연구에 종사하는 한사람 으로서 나카이 선생의 학문에 대한 성실하고 엄격한 자세에 배울 점이 많으며, 자기 자신의 나태함을 질 타 격려 받았다는 생각조차 했습니다. 마지막으로 이러한 기회를 만들어 주신 전남대학교 호남학연구원 그리고 아낌없이 많은 협력을 해주신 임백호 제14대손인 임채남 씨에게 다시 한 번 감사의 말씀을 드림과 동시에 머지않아 임선생님의 업적을 반드시 일본에 소개할 것을 약속하면서 저의 발표를 마치도록 하겠습니다. 감사합니다.

나카이 겐지의 백호 임제 관련 연구활동의 재조명 에 대한 토 론 문 장선희(광주보건대) 0. 백호 임제 국제 학술대회를 위해서 먼 길을 오신 노자키 마스히코 교수님을 진심으로 환영합니다. 또한 나카이 겐지( 仲 井 健 治 ) 선생님의 백호 임제 연구 활동에 대해 소상하게 발표해 주신 것에 대해 감 사의 말씀을 드립니다. 교수님께서는 짧은 시간 동안에 준비하셨다고 하셨지만 나카이 겐지 선생님의 백호 임제에 관한 연구 활동을 거의 망라하여 조사하고 수집하셔서 나카이 선생님의 연구 활동을 전체적으로 조명할 수 있게 하 여 주셨습니다. 본 토론자도 교수님의 발표를 통해서 나카이 선생님의 업적에 대해서 알게 되었습니다. 그리고 굉장히 흥미있게 들었고 많은 관심과 도전을 느끼게 되었습니다. 그래서 저는 토론이 아닌 저의 관심과 궁금증을 여기 계신 다른 분들도 가지시리라는 생각으로 몇 가지를 여쭙고자 합니다. 1. 교수님의 발표를 들으면서 가장 궁금했던 것은 나카이 선생님이 어떻게 백호 임제에 대해서 알게 되었는가 하는 점입니다. 처음 백호 임제 연구를 시작하게 된 동기에 대해서 알고 싶었는데, 이미 교수님 께서는 유족들을 찾아 만나 뵈었어도 알 수가 없었다는 말씀을 주셨습니다. 혹시 교수님께서 나카이 교수 님의 연구 업적들을 조사하면서 나카이 선생님이 백호 임제 연구에 몰두하게 된 계기를 찾으신 것이 있 으신지요? 아니면 교수님의 짐작이 있으신지요? 2. 나카이 선생님은 본래는 연구자나 학자가 아니었던 것 같은데 어떻게 이런 고문학 자료나 문인들에 대해 관심을 가지고 접근할 수 있었던 것일까요? 혹시 이 자료가 보존되고 있었던 덴리( 天 理 )대학과 나 카이 선생님과의 관계를 설명해 주실 수 있으신지요? 3. 우리나라의 옛 문헌들이 일찍부터 일본으로 전해지고 연구해 왔던 사실들에 대해 놀라움과 경이로 움을 느꼈습니다. 백호 문집 은 초간본이 1617년에, 중간본인 목판본이 1759년에 발간되었는데, 일본의 창평판학문소에서 1823년에 임백호 문집 (필사본)이 상 하권으로 발간되었습니다. 우리나라에서 발간된 것과 시간상으로 큰 차이가 없는 때에 이미 일본에 임백호 문집 이 전해지고 알려진 것입니다. 또한 임백호 문집 뿐만 아니라 조선의 다른 문인들의 문집이나 작품들도 일본으로 전래되었을 것 같 은데, 어떤 경로를 통해서 이들 문집이나 작품들이 일본으로 유입되었을까요? 또, 일본에서 조선의 문학 에 대해서 일찍부터 관심을 가진 이유는 무엇이라고 생각하시는지요? 또한 일본의 한국문학 수용처럼 일본의 고전문학이 우리나라로 전래되었던 경우들도 있는지요? 일본과 조선의 문학적 교류 상황에 대해 서 아신다면 답변을 부탁드립니다.

4. 다시 한 번 새로운 관점과 정보를 제공해 주시고 임제 문학의 국제적 가치에 대해서 생각하게 해 주신 점에 대해서 충심으로 감사의 말씀을 드립니다. 감사합니다.