日 中 戦 争 期 戦 記 テクストにおける 朝 鮮 人 表 象 金 史 良 郷 愁 の 言 語 戦 略 五 味 渕 典 嗣 ( 大 妻 女 子 大 学 ) 1 はじめに 問 題 の 所 在 石 川 達 三 生 きてゐる 兵 隊 ( 中 央 公 論 1938.3= 発 売 禁 止 )には 消 えてしまった 本 文 がある 朝 鮮 人 の 従 軍 慰 安 婦 にかんする 記 述 である 生 きてゐる 兵 隊 は 初 出 誌 中 央 公 論 の 発 売 前 日 に 禁 止 処 分 通 達 を 受 けて 以 後 差 し 押 さえを 免 れた 雑 誌 以 外 では 読 めない 作 となった 敗 戦 後 に 初 めて 刊 行 する 際 石 川 は 原 稿 は 証 拠 書 類 として 裁 判 所 に 押 収 されたので 中 央 公 論 社 に 残 っていた 初 校 刷 をもとに 本 文 を 作 った と 書 いている 1 現 在 の 読 者 が 手 にできるのは この 戦 後 版 の テクストである だが 原 稿 は 失 われたかも 知 れないが 生 きてゐる 兵 隊 の 本 文 は 校 正 刷 に 残 されていただけではなかった 石 川 達 三 を 聴 取 した 担 当 官 が 特 に 問 題 となるだろう 箇 所 と して 調 書 に 転 記 していた 部 分 の 中 に 現 行 テクストに 存 在 しない 本 文 が 含 まれていたのだ った 2 第 九 章 インテリ 出 身 兵 士 と 農 民 出 身 兵 士 それぞれの 代 表 として 造 型 された 近 藤 一 等 兵 と 笠 原 伍 長 が 南 京 城 内 に 開 設 された 慰 安 所 で 鉄 格 子 の 中 の 支 那 姑 娘 に 慰 安 された というシーンの 後 で 次 の 一 文 が 書 き 置 かれていたのだった 将 校 の 為 には 別 に 慰 安 所 が 設 けられて 朝 鮮 の 同 胞 が 行 っているという 噂 であった なぜこの 部 分 が 復 元 されなかったかは いまのわたしにはわからない だが この 調 書 も 石 川 の 手 もとにあったことは 確 実 なので 敗 戦 後 の 彼 があえてこの 一 文 を 戻 さなかった 可 能 性 は 否 定 できない もしそうなら 南 京 事 件 をめぐって GHQ から 聴 取 を 受 けたことも あるという 石 川 本 人 の 戦 後 責 任 にも 波 及 する 問 題 である しかし ここでわたしが 議 論 したいのは そのことではない この 生 きてゐる 兵 隊 のエピソードは 日 中 戦 争 期 の 内 地 日 本 語 メディアの 朝 鮮 人 表 象 を 考 えるうえで きわめて 象 徴 的 な 事 例 なのだ 中 国 大 陸 での 戦 争 の 現 場 に 立 ち 会 っていた 朝 鮮 人 たちが 一 度 は 書 き 込 まれながらも い つのまにか 消 えていく/ 消 されていく 確 かにそこにいたはずの 朝 鮮 人 たちの 姿 が テク ストの 空 間 の 中 でいつしか 後 景 に 追 いやられ 日 本 語 の 言 説 の 場 から 忘 却 されていく し かもその 忘 却 は おそらく 21 世 紀 の 現 在 においても まちがいなく 継 続 してしまっている この 報 告 でわたしは 以 上 の 問 題 意 識 にもとづき 日 中 戦 争 期 の 内 地 日 本 語 メディ 1 石 川 達 三 誌 ( 生 きてゐる 兵 隊 河 出 書 房 1945.10) 2 同 志 社 女 子 大 学 図 書 館 所 蔵 生 きてゐる 兵 隊 事 件 警 視 庁 警 部 清 水 文 二 意 見 書 聴 取 書 (1938 年 3 月 16 日 の 供 述 記 録 ) 同 じ 資 料 は 秋 田 市 立 中 央 図 書 館 明 徳 館 石 川 達 三 文 庫 にも 所 蔵 されている 1
アにおける 朝 鮮 人 表 象 のありようとその 特 徴 について 考 えたい そして その 検 討 を 踏 ま え 1941 年 6 月 号 の 文 藝 春 秋 に 金 史 良 が 発 表 した 小 説 郷 愁 の 言 語 戦 略 について わたしなりに 言 及 したい なお あくまでこの 報 告 は 日 本 語 メディアを 対 象 にこの 時 期 の 戦 争 表 象 戦 場 表 象 を 考 察 してきたわたしの 関 心 と 立 場 にもとづくもので 現 在 の 世 界 的 な 金 史 良 研 究 の 水 準 から 見 れば 明 らかな 理 解 不 足 や 事 実 誤 認 があるだろうことは よ く 自 覚 している わたしの 拙 い 報 告 が 郷 愁 という 興 味 深 いテクストに 新 たな 文 脈 を 付 与 し 今 までとは 異 なる 角 度 からの 光 を 当 てることができたなら 3 年 間 に 及 んだ 今 回 の 魅 力 的 なプロジェクトに わたしなりの 恩 返 しができるのではないか と 思 っている 2 日 中 戦 争 期 内 地 メディアにおける 朝 鮮 人 表 象 樋 口 雄 一 が 紹 介 した 資 料 によれば 1938 年 2 月 の 陸 軍 特 別 志 願 兵 制 度 公 表 に 先 だって 行 われた 調 査 の 時 点 で すでに 598 名 の 朝 鮮 人 が 軍 属 として 日 本 軍 の 隷 下 に 組 み 入 れ られていた 3 もちろんこの 数 字 には いわゆる 慰 安 婦 として 徴 集 動 員 された 女 性 た ちや 部 隊 付 の 通 訳 や 雑 役 夫 といった 立 場 で 従 軍 した 人 々は 含 まれていない にもかかわらず 日 中 戦 争 にかかる 内 地 の 言 説 の 場 で 朝 鮮 人 の 存 在 感 は 圧 倒 的 に 稀 薄 である もちろん おそらくは 総 督 府 のお 手 盛 りだろうが 文 藝 春 秋 のような 当 時 の 有 力 雑 誌 で 朝 鮮 人 陸 軍 特 別 志 願 兵 の 訓 練 所 を 訪 問 取 材 した 記 事 は 掲 げられていた ( 嶋 元 勲 朝 鮮 人 志 願 兵 訓 練 所 訪 問 文 藝 春 秋 時 局 増 刊 11 1938.8) また いくつ かの 女 性 雑 誌 には 朝 鮮 の 風 物 や 情 景 若 い 女 性 たちの 生 活 を 描 いた 記 事 が 登 場 していた 2 冊 の モダン 日 本 朝 鮮 版 が 企 図 したような 朝 鮮 文 化 朝 鮮 文 学 の 紹 介 も それなり に 始 まっていた しかし 現 在 進 行 形 で 展 開 する 中 国 大 陸 での 戦 場 で 朝 鮮 人 たちがいった い 何 をしているのか そもそもそこに 朝 鮮 人 はいるのか これらの 記 事 からではほとんど わからないのである 管 見 の 限 り ほぼ 唯 一 の 例 外 と 言 えるのが 坂 西 平 八 涙 ぐましい 朝 鮮 同 胞 の 赤 誠 戦 線 より 帰 りて ( 現 代 1938.11)という 一 文 である 筆 者 は 北 支 那 方 面 軍 麾 下 の 野 戦 重 砲 兵 第 一 旅 団 長 として 北 支 戦 線 に 従 軍 した 自 らの 見 聞 を 思 い 出 しながら 実 戦 場 裡 に 於 きましては 内 地 の 人 々の 想 像 も 及 ばない 程 朝 鮮 の 人 々は 活 躍 して 居 ります と 書 きつける 自 らの 部 隊 で 雇 用 していた 朝 鮮 人 男 性 通 訳 が 優 秀 で 勇 敢 だったこと 済 南 他 の 特 務 機 関 では 支 那 の 女 を 宣 撫 するために 朝 鮮 の 娘 が 活 躍 していたこと さ らに こういう 通 訳 宣 撫 の 方 面 に 於 ては 全 く 朝 鮮 の 人 は 天 才 的 だと 賞 讃 しつつ 特 務 機 関 の 手 足 となって 働 いている 女 の 人 のみならず その 他 すべての 戦 場 に 来 ている 朝 鮮 の 女 が 特 に 兵 隊 さんに 好 意 を 示 してくれる 様 子 を 嬉 しく 感 じた とも 述 べている 読 まれるようにこの 文 章 は 特 務 機 関 での 宣 撫 以 外 の 役 割 で 朝 鮮 の 女 たちが 多 く 戦 場 近 くに 存 在 していたことの 同 時 代 的 な 証 言 と 言 える だが 戦 場 での 朝 鮮 人 の 役 割 についてこのように 詳 細 に 述 べた 文 章 は 内 地 のメディアには 他 に 見 当 たらないので 3 樋 口 雄 一 皇 軍 兵 士 にされた 朝 鮮 人 一 五 年 戦 争 下 の 総 動 員 体 制 の 研 究 ( 社 会 評 論 社 1991) 2
ある もちろん 中 国 大 陸 の 戦 局 が 膠 着 する 1940 年 になると 雄 弁 キング 婦 女 界 で 朝 鮮 人 陸 軍 特 別 志 願 兵 として 名 誉 の 戦 死 を 遂 げたと 喧 伝 された 李 仁 錫 の 名 を 冠 し た 記 事 を 確 認 できる 新 聞 報 道 に 目 を 転 ずれば 大 量 に 供 給 されていた 戦 場 での 美 談 の 中 に 現 地 の 日 本 兵 から 北 支 の 女 豹 と 称 されたという 平 壌 出 身 の 女 性 通 訳 ( 弾 雨 下 に 可 憐 の 男 装 勇 躍 する 北 支 の 女 豹 東 京 朝 日 新 聞 1937.8.11)が 北 支 事 変 が 収 まるまで 日 本 軍 の 先 頭 に 立 ってゆくんだ と 張 り 切 って 語 っている 様 子 や 工 兵 部 隊 の 通 訳 として 杭 州 湾 徐 州 を 転 戦 した 後 北 支 での 架 橋 工 事 でのさなかに 狙 撃 され 君 が 代 を 力 強 く 歌 いながら 生 命 を 落 としたという 咸 鏡 南 道 出 身 の 若 い 男 性 の 話 ( 半 島 出 身 の 通 訳 崔 君 の 勇 敢 な 働 き 東 京 朝 日 新 聞 1938.11.6)が 紹 介 されている 通 訳 以 外 でも 海 軍 の 最 前 線 で 唯 一 の 半 島 人 として 奮 闘 する 朝 鮮 人 割 烹 員 が 家 族 に 送 った 手 紙 など いくつかのエピソードは 語 られている( 我 も 海 の 子 江 上 艦 隊 に 唯 一 人 の 半 島 青 年 読 売 新 聞 1938.4.15) だが これらの 話 題 は 基 本 的 に 一 過 性 のものでしかない いずれの 挿 話 も それなりの 物 語 になりそうな 細 部 を 含 んでいるとも 思 えるのだが 小 説 や 映 画 に 取 り 上 げられた り 他 のエピソードを 語 る 際 に 文 脈 として 想 起 されたりすることはない また こうした 記 事 が 掲 げられた 雑 誌 の 格 も 重 要 だ キング 婦 女 界 は 部 数 こそ 大 きいけれど 決 して 世 論 形 成 を 主 導 するような 媒 体 ではなかった 雄 弁 現 代 はいわゆる 総 合 雑 誌 に 当 たるが この 時 期 の 中 心 的 なメディアではまったくなかった さらに こうした 記 事 に 登 場 する 朝 鮮 人 たちが ほぼ 例 外 なく 愛 国 の 赤 誠 に 熱 涙 を 流 すような 人 物 として 造 型 されていることも 指 摘 しておきたい 描 かれた 朝 鮮 人 た ちは ある 場 合 は 大 声 で 君 が 代 を 歌 いながら ある 場 合 は 天 皇 陛 下 万 歳 と 絶 叫 し ながら ある 場 合 は 掲 げられた 日 の 丸 の 下 で 死 ぬ まるで 戦 場 の 朝 鮮 人 たちは 死 の 瞬 間 まで 熱 烈 な 愛 国 者 であることを 行 為 遂 行 的 に 表 現 し 続 けなければならないかのよう なのだ つまり 内 地 の 日 本 語 メディアに 描 かれた 戦 場 の 朝 鮮 人 たちからは 徹 底 し て 個 性 と 表 情 が 奪 われているのである 雄 弁 が 掲 げた 李 仁 錫 の 肖 像 写 真 (とされるも の)が ほとんど 個 性 を 感 じさせない 平 板 な 表 情 だったことは 重 要 だ 戦 場 の 朝 鮮 人 たち は ほとんど 生 命 と 引 きかえでなければ 内 地 の 読 者 に 紹 介 されることはない かりに 語 られたとしても それぞれの 個 性 や 背 景 が 剥 奪 された 類 型 的 な 愛 国 者 としてしか 登 場 を 許 されないのである この 傾 向 は 日 中 戦 争 期 に 内 地 で 盛 んに 刊 行 された 従 軍 記 戦 記 テクストではさら に 顕 著 なものとなる これらのテクストでは まるで 何 かの 検 閲 でも 働 いているかのよう に 朝 鮮 人 の 姿 はほとんど 見 られない 現 時 点 でわたしが 確 認 できた 事 例 を 挙 げれば 長 谷 川 春 子 北 支 蒙 疆 戦 線 ( 暁 書 房 1939)で 包 頭 に 向 かう 軍 人 たちに 同 乗 した 長 谷 川 の 運 転 手 が 半 島 人 の 青 年 である 佐 藤 光 貞 海 上 封 鎖 ( 六 芸 社 1939)では 黄 海 付 近 の 警 戒 に 当 たった 筆 者 が 占 領 地 で 日 本 軍 相 手 に 商 売 を 始 めようとした 一 人 の 半 3
島 人 と 二 人 の 内 地 人 の 姿 を 書 き 留 めている 戦 線 拡 大 直 後 に 兵 站 部 隊 指 揮 官 として 従 軍 した 本 堂 英 吉 の 花 咲 く 戦 場 ( 教 育 社 1940)には 不 思 議 な 度 胸 を 持 って どこま でも 軍 隊 の 後 について 来 る 慰 安 隊 の 大 部 分 が 半 島 人 の 女 性 たちだった といか にも 不 機 嫌 な 様 子 で 言 及 した 一 節 がある だが いずれも 朝 鮮 人 たちはその 場 面 を 横 切 る だけで 彼 ら 彼 女 らが 口 を 開 き 言 葉 を 語 ることはない その 意 味 でたいへん 興 味 深 いのは 火 野 葦 平 と 並 称 された 兵 隊 作 家 上 田 廣 の 代 表 作 黄 塵 ( 改 造 社 1938)である 戦 場 近 くに 向 かう 慰 安 婦 と 思 しき 女 性 たちの 中 に 混 じる 朝 鮮 人 女 性 を 婦 人 と 伏 せ 字 で 表 記 してしまう 上 田 は 語 り 手 私 の 部 隊 で 使 役 している 中 国 人 男 性 が 国 が 亡 びればその 国 の 民 族 だって 亡 びてゆくんです と 自 棄 的 に 語 るのを 聞 きながら いささか 唐 突 に 私 はふと 自 分 等 の 領 土 内 にあって 為 政 者 のよきはからいがあるにもかかわらず 次 第 に 細 りゆくある 民 族 の 姿 を 思 い 浮 かべた と 書 いてしまう 金 史 良 と 同 じ 文 藝 首 都 の 寄 稿 者 であり 他 にも 朝 鮮 人 を 描 いた 作 を 多 く 発 表 している 上 田 が どんな 人 々のことを 念 頭 に 置 いていたかは 明 らかだろう しかもこの 記 述 は なぜ 内 地 の 日 本 語 メディアにおける 戦 争 と 戦 場 の 語 りの 中 で 朝 鮮 人 たちの 居 場 所 が 見 つけ 難 いのかを 端 的 に 示 唆 するものでもある これは 法 的 制 度 的 な 検 閲 というだけでは 説 明 できない 問 題 だ そもそも 日 本 帝 国 にとって この 戦 争 の 表 向 きの 目 的 は 日 支 親 善 であり 日 本 の 戦 争 と 提 携 し 思 い 通 りに 動 いてくれる 親 日 政 権 の 樹 立 に 他 ならなかった この 親 日 なる 語 の 含 意 が 自 らは 一 切 変 わることな く 相 手 の 側 が 一 方 的 に 日 本 の 立 場 を 受 け 入 れ 同 意 するように 求 めることであってみれば すでに 日 本 の 内 側 に 包 摂 したはずの 人 々の 中 にまつろわぬ 者 たちが 決 して 親 日 で はない 他 者 が 存 在 することは ひどく 都 合 が 悪 いことになる その 意 味 で 中 国 とい う 他 者 と 向 き 合 い その 他 者 の 内 面 を 作 りかえようと 企 てていた 日 本 の 戦 争 表 象 の 構 図 に あって 朝 鮮 人 は 決 して 他 者 であってはならなかった 朝 鮮 人 たちの 声 は ともすれば 内 地 のメディアで 語 られる 戦 争 の 語 りの 構 図 を 揺 る がすおそれをはらんでいた だから その 声 は 周 到 に かつ 徹 底 して 抑 圧 される ちなみ に 内 地 の 戦 争 戦 場 の 語 りには 台 湾 の 人 々はもっと 出 て 来 ない 朝 鮮 人 の 表 象 が 抑 圧 されているとすれば 台 湾 人 表 象 は 語 りにおいてはじめから 排 除 されてしまっている 3 金 史 良 郷 愁 の 言 語 戦 略 金 史 良 郷 愁 の 李 絃 は 死 の 床 に 臥 せる 母 親 から 北 京 の 姉 に 手 渡 すようにと 三 〇 〇 円 の 金 を 持 って 来 ていた それだけの 金 があれば 街 外 れの 貧 民 のたまりの 中 を 彷 徨 っているという 義 兄 を 救 い アヘン 窟 の 女 主 人 に 堕 落 した 姉 の 生 活 を 建 て 直 すぐらいは 可 能 だったかも 知 れない だが 李 絃 はその 金 を 助 けて 下 さい 連 れて 行 って 下 さい と 切 なげに 語 りかける 古 い 朝 鮮 の 器 と 交 換 し しっかりと 胸 に 持 ち 帰 ることで 離 郷 した 朝 鮮 人 たちの 郷 愁 の 思 いを 抱 きしめようとする と 同 時 に 姉 が 貧 しい 中 国 人 から 搾 取 した 金 と 交 換 した 切 符 で 平 壌 に 戻 る 列 車 に 乗 り 込 むことで 姉 が 犯 した 罪 をいくらかで 4
も 分 け 持 とうとする こうして 俺 は 立 派 な 東 亜 の 一 人 になる と 言 い 聞 かせながら 語 り 手 が 主 に 寄 り 添 う 人 物 は 確 かに 朝 鮮 の 過 去 の 芸 術 遺 産 に 強 い 愛 情 と 研 究 欲 を 抱 きつつも 自 らを 一 人 の 完 全 な 日 本 国 民 と 自 認 し 元 独 立 運 動 家 の 義 兄 と 彼 に 裏 切 られた 姉 とを 更 生 させたいと 口 にしている だが このテクストは 同 時 代 評 で 河 上 徹 太 郎 が 半 島 人 の 思 想 弾 圧 の 不 当 を 訴 えた 作 ではないと 懸 命 に 否 定 しなければならな かったくらいには ある 種 の 不 穏 さを 抱 え 込 んでいた( 小 説 の 中 の 私 文 藝 春 秋 1941.8) その 不 穏 さは ここまでのわたしの 議 論 を 踏 まえると 言 語 化 できる 部 分 が 確 かにあるように 思 う まず 注 目 すべきは 人 物 としての 李 絃 が つねに 半 醒 半 睡 の 状 態 に 置 かれていることで ある 彼 は 北 京 に 向 かう 車 中 では 十 分 に 眠 れずに 北 京 では 突 然 の 高 熱 に 浮 かされてい る 明 らかにこれは 現 実 と 幻 想 意 識 と 無 意 識 の 境 界 を 曖 昧 に 混 濁 させるための 仕 掛 け である いってみれば 李 絃 の 身 体 は 世 代 を 時 空 を 超 えた 朝 鮮 人 たちの 声 を 受 け 止 め 増 幅 させる 器 に 他 ならない 伽 倻 という 姉 の 名 前 とあわせ 楽 器 を 想 像 させる 名 前 が 与 えられているのは 決 して 偶 然 ではない ならば 李 絃 は 誰 の どんな 声 をテクストに 響 か せるのか このテクストには 決 して 分 量 は 多 くないけれど 異 なる 世 代 の 朝 鮮 人 たちの 生 の 軌 跡 を 想 像 させる 契 機 が 書 き 置 かれている 三 一 事 件 以 後 西 伯 利 亜 或 は 沿 海 州 北 満 東 満 へと 流 れ 歩 きながら 指 導 組 織 を 率 いていたという 尹 長 山 や 満 洲 や 支 那 を 跨 にか けた 直 接 行 動 隊 長 玉 相 烈 のことだけではない 李 絃 と 伽 倻 の 母 親 は 進 取 的 キリ スト 者 として 永 年 啓 蒙 運 動 に 従 事 して 来 た という 人 物 だったし 何 より 李 絃 自 身 学 生 時 代 に 左 翼 運 動 に 傾 倒 した 経 験 の 持 ち 主 と 描 かれている 彼 なりに 人 々の 幸 福 のため を 考 え 日 本 軍 通 訳 に 志 願 したという 伽 倻 の 息 子 蕪 水 を 含 め それぞれが 置 かれた 状 況 の 中 で いくつもの 屈 折 の 中 で 同 胞 同 族 を 思 いながら 選 択 を 為 した 人 物 たちの 姿 が 刻 みこまれているのだ それだけではない 郷 愁 は 満 洲 国 に 来 ている 百 数 十 万 の 同 胞 や 数 知 れぬ 程 多 い 支 那 在 住 の 同 胞 の 存 在 を ユダヤ-キリスト 教 的 な 離 散 を 思 わせる 語 彙 で 上 書 きしていく 一 方 で 何 十 何 万 と 馳 駆 する 高 句 麗 の 兵 士 たちのイ メージを 召 喚 して 朝 鮮 人 たちがまぎれもなくその 場 所 で 歴 史 の 主 体 としてあったことを 印 象 づけていく かなりあやうい 修 辞 ではあるが このテクストの 金 史 良 が 時 空 を 貫 く ある 種 の 想 像 の 共 同 性 を 構 成 しようと 企 てているとは 言 える なぜ 朝 鮮 人 たちがここにい るかを この 場 所 で 彼 ら 彼 女 らが 何 をしてきたかを 内 地 の 言 説 の 場 に 確 かに 書 き 入 れるためである そこで 注 目 したいのが 郷 愁 の 末 尾 に 一 九 三 八 年 五 月 も 暮 れ 頃 のことだった という 時 間 が 明 記 されたことである このテクストの 物 語 現 在 は 同 時 代 の 読 者 がこれを 読 む 現 在 と 重 なってはいない 1941 年 から3 年 前 1938 年 5 月 末 といえば ちょうど 徐 州 作 戦 の 直 後 にあたる はじめ 山 西 省 の 日 本 軍 部 隊 に 属 したという 蕪 水 も 徐 州 戦 線 に 転 じ ていた 可 能 性 は 小 さくない( 玉 相 烈 は 蕪 水 が いま 戦 線 で 異 常 な 戦 功 をたてられて 5
いるそうです と 言 っていた) つまりこのテクストは 読 者 の 近 過 去 の 記 憶 に 介 入 し そこに 朝 鮮 人 たちの 姿 を 書 き 込 み 直 そうとしているのだ たとえば なぜ 郷 愁 は 第 一 線 の 兵 隊 相 手 の 商 売 をしてきたという 朝 鮮 人 時 計 商 の 言 葉 を 伝 えるのか 戦 場 に 愬 ふ ( 軍 事 思 想 普 及 会 1939)の 火 野 葦 平 が 憤 っているように 日 本 軍 占 領 地 で 大 陸 進 出 の 名 によって いかがわしい 商 売 を 不 愉 快 な 方 法 で 始 める 人 々 の 存 在 は かなり 早 い 段 階 から 内 地 のメディアで 批 判 の 対 象 となっていた だが その 日 本 軍 占 領 地 に 品 物 や 食 料 品 を 供 給 しに 行 く 商 人 たちの 中 に 俺 達 の 仲 間 がおり 通 訳 や 運 転 手 を 勤 めたり 逃 げ 出 した 住 民 達 を 駆 り 集 めたり する 中 にも 俺 達 の 仲 間 はいるのだった 内 地 の 日 本 語 メディアではほとんど 語 られることのなかった 語 られたとしても 画 一 的 にしか 表 象 されなかった 戦 場 の 朝 鮮 人 たちの 顔 立 ちと 言 葉 を 1941 年 の 内 地 の 読 者 の 脳 裏 に 改 めて 刻 みつけること このテクストが 内 地 の 雑 誌 メディアのなかでも とくに 日 中 戦 争 報 道 に 注 力 した 文 藝 春 秋 という 媒 体 に 書 かれていることも 忘 れるべき ではないだろう 再 び 言 うが 郷 愁 の 言 語 戦 略 はかなり 危 うい 綱 渡 りのようにわたしには 見 える こ うした 議 論 は ともすれば 日 本 帝 国 の 戦 争 に 朝 鮮 人 たちがいかに 貢 献 したかを 訴 え たものと 読 まれかねないからである しかし 北 京 で 出 会 った 朝 鮮 人 たちの 声 を 受 け 止 め ながらも 離 散 した 朝 鮮 人 の 声 なき 声 を 換 喩 的 に 表 象 した 古 い 朝 鮮 の 器 しか 持 ち 帰 ら ず 俺 の 体 内 にもこの 価 だけの 支 那 人 の 血 がとけ 込 んでくれる ことで 立 派 な 東 亜 の 一 人 とな ったと 独 言 する 李 絃 を 書 き 入 れた 金 史 良 のテクストは それほど 単 純 なもので はない 戦 場 がアジア 太 平 洋 に 拡 大 する 直 前 日 本 語 の 小 説 で 表 現 可 能 な 領 域 が 厳 しく 制 約 されていく 中 で 他 者 性 とは 言 えないまでも 簡 単 に 包 摂 されない 同 一 化 されない 声 の 存 在 を 日 本 語 言 説 の 内 側 から 刻 みつけること 内 地 の 日 本 語 メディアの 無 知 と 無 関 心 画 一 化 された 表 象 に 敢 然 と 抗 いながら 朝 鮮 人 たちの 想 像 の 共 同 性 を 帝 国 の 戦 争 から 逸 脱 していく 遠 心 的 なものとして 書 きつけること 1937 年 以 降 の 中 国 大 陸 での 戦 争 を 日 本 と 中 国 の 戦 争 としか 理 解 しない 認 識 の 枠 組 みができあがってしまっているよ うに 見 える 現 在 郷 愁 の 問 題 提 起 は むしろ 日 本 語 の 文 学 文 化 の 歴 史 を 考 える 者 に とって 重 要 だとわたしは 思 う 6
中 西 伊 之 助 の 不 逞 鮮 人 個 人 と 共 同 体 の 連 続 性 非 連 続 性 李 正 煕 (イ ジョンヒ) 1. 中 西 伊 之 助 と 作 品 の 評 価 資 料 1 鶴 見 俊 輔 朝 鮮 人 の 登 場 する 小 説 ( 桑 原 武 夫 編 文 学 理 論 の 研 究 岩 波 書 店 1967 年 12 月 ) 日 本 にもっとも 近 い 外 国 が 朝 鮮 であることを 思 う 時 朝 鮮 を 舞 台 として 小 説 が 明 治 大 正 昭 和 にわたって 敗 戦 まであらわれていないということは 日 本 の 近 代 文 学 の 性 格 に かかわる 一 つの 重 大 な 出 来 事 と 言 ってよい 資 料 2 森 山 重 雄 中 西 伊 之 助 論 ( 人 文 学 報 No.80 東 京 都 立 大 学 人 文 学 部 1971 年 3 月 ) むろん 鶴 見 は 朝 鮮 を 舞 台 とした 小 説 が 皆 無 だといっているのではない たとえば 高 浜 虚 子 の 随 筆 小 説 朝 鮮 (1911 年 ) 前 田 川 広 一 郎 の 実 録 小 説 朝 鮮 (1921 年 ) 張 赫 宙 の 権 という 男 (1933 年 ) 田 中 英 光 の 酔 いどれ 舟 (1948 年 )などをあげている 鶴 見 の 論 文 は 戦 後 にまで 及 んでおり 眼 くばりの 細 かな 論 文 なのに 大 正 時 代 にはまったく 触 れておらず 中 略 わたしの 頭 にあるのは 中 西 伊 之 助 の 代 表 作 赭 土 に 芽 ぐむもの ( 大 11 2 改 造 社 )であり 朝 鮮 を 無 台 にしているという 点 では 外 にも 不 逞 鮮 人 ( 大 11 9 改 造 ) 汝 等 の 背 後 より ( 大 12 2 改 造 社 ) 国 と 人 民 ( 大 15 6 平 凡 社 ) などがある 中 略 旺 盛 な 作 家 活 動 のわりには 評 価 されていないのは 主 題 のアクチー ブに 比 して 芸 術 的 処 理 の 面 で 完 璧 性 をもたないことが 禍 しているのであろう 彼 自 身 も おのれを 作 家 として 規 定 づけたことは 恐 らく 一 度 もなく 労 働 運 動 家 と 作 家 との 二 筋 道 を 生 涯 歩 んだ 中 西 伊 之 助 は 芸 術 性 が 高 い 作 品 を 書 いたとは 評 価 されず 大 正 期 に 朝 鮮 を 舞 台 にした 数 少 ない 作 品 を 書 いた 書 き 手 として 評 価 されている 資 料 3 アンドレ ヘイグ 中 西 伊 之 助 と 大 正 期 日 本 の 不 逞 鮮 人 へのまなざし ( 立 命 館 言 語 文 化 研 究 22 巻 3 号 2011 年 1 月 ) 1920 年 代 の 初 期 プロレタリア 文 学 における 中 西 の 印 象 的 な 独 自 性 は 一 貫 して 朝 鮮 の 植 民 地 支 配 をめぐる 諸 問 題 に 焦 点 をあわせたことであろう 中 略 1920 年 代 初 頭 という 段 階 に おいてまだ 勃 興 期 になったプロレタリア 文 学 運 動 の 作 家 は 三 一 独 立 運 動 によって 可 視 化 された 朝 鮮 における 植 民 地 問 題 や 不 逞 鮮 人 言 説 の 前 で 一 般 に 沈 黙 を 守 っていた しかも 石 坂 浩 一 林 淑 美 や 川 村 湊 がすでに 指 摘 したように 一 般 に 日 本 の 社 会 主 義 運 動 とプロレタリア 文 学 運 動 は 階 級 問 題 にあまりにも 集 中 したため これによって 解 消 さ 7
れるはずの 植 民 地 主 義 における 民 族 問 題 への 盲 点 を 抱 えていた 1922 年 2 月 に 発 表 された 処 女 作 赭 土 に 芽 ぐむもの は 勝 村 誠 が 指 摘 したように 朝 鮮 小 説 として 始 めて 日 本 の 朝 鮮 植 民 地 支 配 を 批 判 的 に 描 き 出 した 作 品 として 注 目 され た 当 時 でも 宮 本 百 合 子 は 中 略 中 西 伊 之 助 の 小 説 赭 土 に 芽 ぐむもの を 題 材 において これまでの 作 家 が 扱 わなかった 領 域 に 進 出 した プロレタリア 文 学 作 品 として 取 り 上 げて 評 価 した 不 逞 鮮 人 が 出 版 された 当 時 江 口 渙 生 田 長 江 や 矢 部 周 ら 文 芸 批 評 家 は 中 西 の 赭 土 に 芽 ぐむもの と 比 べ 多 くの 弱 点 を 指 摘 し あまり 高 く 評 価 しなかった 確 かに 不 逞 鮮 人 は 芸 術 作 品 として 弱 点 があるかもしれない 中 略 単 なる 小 説 としてだけで はなく 芽 生 えたばかりの 日 本 探 偵 推 理 小 説 の 要 素 を 取 り 入 れた 小 説 という 形 で 不 逞 鮮 人 言 説 の 表 象 コトバその 裏 にある 意 識 を 告 発 する 対 抗 言 説 への 試 み 実 験 としてと らえるべきではないだろうか また 1920 年 代 当 時 において 不 逞 鮮 人 が 文 学 を 通 じて 朝 鮮 独 立 運 動 の 意 義 を 積 極 的 に 模 索 した 唯 一 の 小 説 だったことは 注 目 に 値 する 不 逞 鮮 人 には 労 働 運 動 や 階 級 闘 争 といったプロレタリア 文 学 の 典 型 的 な 要 素 が 少 なく 階 級 より は 民 族 問 題 に 焦 点 を 合 わせていると 言 ってよいであろう 先 行 研 究 では 中 西 伊 之 助 を 論 じる 際 主 に 赭 土 に 芽 ぐむもの を 取 り 上 げ 不 逞 鮮 人 はついでに 語 ったりする 最 近 不 逞 鮮 人 についての 論 文 が 出 始 めている 2. 不 逞 鮮 人 における 登 場 人 物 とことばの 言 説 初 出 : 改 造 1922 年 9 月 (ここで 引 用 する 本 文 は 黒 川 創 編 外 地 の 日 本 語 文 学 選 3 朝 鮮 ( 新 宿 書 房 1996)か ら 抜 粋 したものである) 物 語 の 内 容 世 界 主 義 者 と 任 じる 碓 井 栄 策 が 不 逞 鮮 人 と 直 接 語 ってみたいと 思 い 不 逞 鮮 人 の 巣 窟 に 入 ることになる 物 語 はその 巣 窟 へ 至 るまでとまた 巣 窟 に 着 いてからのエピ ソードとその 旅 程 における 碓 井 の 心 理 を 描 いている 本 文 1 いつだったか ある 府 庁 の 役 人 が 救 済 金 を 携 えて 田 舎 を 旅 行 していると 一 発 の 下 に 脆 くやられて 金 を 奪 われた 話 を 聴 いたが その 地 方 はたしかにこの 辺 だなどとも 栄 策 は 考 えたりした 本 文 2 君 その 船 頭 は 僕 が 内 地 人 だから 渡 さないと 言 うのだろうね? と 栄 策 は それでもなにか 他 に 理 由 があってくれればいいがと 僅 かな 望 みをかけて 訊 いてみた け うな れどそんな 期 待 は 見 事 に 裏 切 られてしまった 通 訳 は 肯 ずいて 苦 笑 した 不 逞 鮮 人 に 会 いにいくために 渡 らなければいけない 川 で 日 本 人 だという 理 由 で 船 に 乗 せてくれないという 逆 差 別 を 受 ける 碓 井 は 服 を 脱 いで 泳 いで 渡 り 通 訳 者 は 船 で 渡 るようになる 8
本 文 3 どうも 突 然 伺 いまして 非 常 に 御 迷 惑 をかけます とまたすぐ 彼 はつけ 加 えた そしてなるべく 主 人 の 心 持 を そうした 会 話 からこちらへ 惹 きつけたいと 思 った いや といたしまして と 主 人 は 押 さえつけるような 口 調 で 云 った 朝 鮮 人 が 日 本 語 を 使 う 時 に まだ 発 音 に 慣 れない 人 は 濁 音 が 清 音 になったり または 半 濁 音 になる それから 母 音 を 略 してしまう ことが 稀 にある 碓 井 は 友 人 洪 の 紹 介 状 で 不 逞 鮮 人 の 首 魁 の 家 で 一 晩 お 世 話 になるが その 家 の 主 人 は 流 暢 ではないが 通 訳 がいらないほどの 日 本 語 はできる しかし 主 人 が 語 っている 日 本 語 は 濁 音 と 長 音 がよく 間 違 えている それは 朝 鮮 語 を 母 語 にしている 人 が 間 違 いやすいところでもある 本 文 には 主 人 が 間 違 っているところにほぼ 傍 点 がつ いているが ここでは 省 略 した もう 少 し 例 をあげると 私 洪 には 長 く 会 いませんが としています どうして あまり 空 想 ばかりではためたと 云 ってやりました だめ 碓 井 さんは 洪 をとして 識 っています? どうして そてすか そうですか 関 東 大 震 災 の 時 少 なくない 朝 鮮 人 が 虐 殺 された 1 といわれている その 時 に 日 本 人 か 朝 鮮 人 か 区 別 の 判 断 基 準 は 日 本 語 の 発 音 だった 2 と 伝 えられている 不 逞 鮮 人 が 震 災 の 約 1 年 前 に 世 に 出 たことから 震 災 以 前 から 日 本 人 のなかでは 不 逞 鮮 人 という 言 説 やその 不 逞 鮮 人 が 話 している 日 本 語 の 発 音 がどういう 特 徴 があるかを 少 なくない 日 本 人 が 認 知 していたことを 物 語 っているのではないか 本 文 4 栄 策 の 予 感 に 違 わず 主 人 は 果 たして 娘 のことを 云 い 出 した はあ 聞 いています と 彼 はやや 誇 張 した 表 情 でしかもその 中 に 彼 自 身 の 義 憤 といったような 語 気 も 含 ませて すぐこう 肯 ずいて 見 せたが ふとまた 自 分 が 日 本 人 であることに 気 がつくと その 言 葉 を 相 手 がかなり 白 々く 考 えはしないかという 不 安 が 胸 に 射 し 込 んだ そてすか 資 料 4 渡 辺 直 紀 中 西 伊 之 助 の 朝 鮮 関 連 の 小 説 について 特 に 表 記 言 語 と 人 物 の 遠 近 化 1 工 藤 美 代 子 は ロンドンのナショナル アカイブから 発 見 された 謀 略 冊 子 では 二 万 三 千 人 独 立 新 聞 は 六 千 四 百 人 吉 野 作 造 は 二 千 六 百 人 が 虐 殺 された といいつのる とし 震 災 時 東 京 には 九 千 人 の 朝 鮮 人 があいた が 八 百 人 前 後 が 殺 害 の 対 象 となった と 推 測 している また 朝 鮮 人 に 限 ら ず 中 国 人 も 被 害 をこうむったことが 判 明 している また 方 言 を 話 す 日 本 の 地 方 出 身 者 なども 誤 認 殺 害 されるなど 当 時 の 混 乱 した 社 会 情 勢 がうかがえる そうした 統 計 数 字 は 研 究 者 の 間 でも 議 論 が 分 か れるまま 今 日 に 至 っている ( 関 東 大 震 災 朝 鮮 人 虐 殺 の 真 実 産 經 新 聞 出 版 2010)と 言 ってい る いずれにせよ 震 災 に 朝 鮮 人 が 殺 されたという 前 提 になっている 2 山 岸 秀 は 震 災 の 時 朝 鮮 人 に 間 違 えられた 経 験 を 述 べた 日 本 人 が アイウエオ を 言 えとか 教 育 勅 語 を 暗 通 しろ とか 歴 代 天 皇 の 名 前 を 言 え と 大 変 でした といった 例 をあげている また 戦 旗 ( 壷 井 繁 治 一 五 円 五 〇 銭 戦 旗 者 一 九 二 八 年 九 月 号 )から ヂユウゴエンゴヂツセン 一 五 円 五 〇 銭 の 発 音 をあげている( 関 東 大 震 災 と 朝 鮮 人 虐 殺 早 稲 田 出 版 2002) 9
の 関 係 を 中 心 に ( 日 本 学 第 22 巻 東 国 大 学 校 日 本 学 研 究 所 2003 年 ) 主 人 が 娘 の 死 について 思 いだすことを 立 て 続 けに 栄 策 に 語 るその 姿 は その 語 られてい る 内 容 に 比 べて 一 層 悲 壮 に 響 く 中 略 拙 い 日 本 語 を 話 す 主 人 の 性 格 は 日 本 語 で 切 り 取 られたものである 実 際 に 朝 鮮 語 を 話 す 主 人 の 性 格 を 日 本 語 で 表 記 するだけならば この ようなことは 生 じなかったであろう 拙 い 日 本 語 をこの 主 人 に 話 させることで 主 人 の 性 格 には 小 説 の 文 面 には 表 れない いわば 剰 余 の 部 分 が 生 じるのである しゅかい 本 文 5 果 たして 自 分 が 今 朝 想 像 してやって 来 たいわゆる 不 逞 鮮 人 の 首 魁 の 家 であろう かと 思 ってみた なんだかうそのようである かす 本 文 6 軀 のどこかに 潜 んでいた 不 安 が 素 早 く 彼 の 胸 を 掠 めた 当 てもなく 眼 を 瞳 った と 次 の 瞬 間 に 彼 の 寝 ている 足 もとのあたりで 今 の 生 き 物 がことことと 動 いた 彼 の 軀 が 衝 動 的 にぐっと 縮 んだ 中 略 まるで 壁 いっぱいに 見 えるほど 大 きい 影 法 師 が 暈 っと 映 った 彼 は 思 わずあっと 叫 びをあげそうになったが 驚 いて 踏 み 堪 えた 中 略 つまり 闖 入 者 は 彼 等 の 衣 類 や 持 物 ばかりを 窃 みに 来 た 有 触 れた 夜 盗 であると 感 づいたのである もた 本 文 7 はじめて 闖 入 者 の 後 ろ 姿 を 少 しく 頭 を 擡 げて 瞥 た 瞬 間 彼 は 驚 いて 自 分 の 眼 を 疑 った 以 外 にもそれは 宵 の 主 人 の 後 ろ 姿 であったからである 中 略 今 主 人 がこの 部 屋 へ 来 たのは 栄 策 達 が 武 器 を 提 携 しているかをどうか 調 べに 来 たのである 中 略 最 愛 の 娘 の 血 を 啜 った 仇 敵 の 片 われを! 栄 策 は 洪 に 陥 られたのだと 思 った 安 価 な 世 界 主 義 者 は まんまと 彼 等 の 術 中 に 陥 ってしまったのだ 中 略 長 い 間 都 会 の 喧 騒 したまん 中 で 暮 ら していても 梟 を 人 の 叫 び 声 と 聴 き 違 えるのは あまりにも 惨 じめな 生 の 執 着 である 中 略 君 今 部 屋 は 来 た 者 はね とこれまで 云 った 時 ギイとすぐ 眼 の 前 の 部 屋 の 扉 が 内 裡 から 開 いた そして 眩 しそうな 光 がさっと 廊 下 から 二 人 の 佇 っている 足 許 のあたりに 流 めんく ぎょ たちすく れる 意 外 に 面 食 らった 栄 策 は 恟 っとして 立 竦 んだ 通 訳 はあわててぱたぱたと 暗 がりに かわ 身 を 躱 した 便 所 わかりませんか? その 声 は 確 かに 主 人 であった 深 い 印 象 を 残 している 宵 の 主 人 の 親 切 な 言 葉 が 同 じ 響 きをもって 栄 策 の 胸 に 暖 かく 滲 み 躍 った 本 文 5から7までは 碓 井 が 不 逞 鮮 人 にいつ 攻 撃 されるかわからないという 不 安 の 緊 張 と 緩 和 が 繰 返 されている その 度 に 碓 井 は 世 界 主 義 者 から 不 逞 鮮 人 と いう 言 説 に 打 ちのめされている 一 日 本 人 の 間 を 行 ったり 来 たりしている 資 料 5 山 岸 秀 関 東 大 震 災 と 朝 鮮 人 虐 殺 ( 早 稲 田 出 版 2002) この 二 つの 例 ( 震 災 美 談 中 島 姉 私 家 版 一 九 二 四 年 )において 朝 鮮 人 はなぜ 殺 され 10
なかったのか もちろん 文 さんの 大 家 さんや 熊 谷 の 絹 紡 会 社 関 係 者 の 人 柄 もあろう し かし 朝 鮮 人 虐 殺 に 加 わった 人 たちの 多 くも 普 段 は 優 しい 人 格 であっただろう とすると 殺 されなかった 理 由 で 人 格 以 上 により 重 要 なのは たとえ 差 別 的 な 関 係 においてであって も 日 本 人 と 朝 鮮 人 との 間 に 一 定 の 日 常 的 な 人 間 関 係 が 成 立 していたということだと 私 は 考 える 中 略 製 糸 女 工 そして 助 けられた 朝 鮮 人 として 美 談 に 出 てくる 者 たちは 朝 鮮 人 としての 差 別 者 として 日 常 的 に 毎 日 朝 から 晩 まで 付 き 合 うという 関 係 にあり 流 れ 行 商 とは 違 って 日 本 人 の 日 常 生 活 の 中 に 組 み 込 まれていたものであった(もっともそのよう な 人 たちで 殺 された 者 も 他 の 地 域 ではいるのだが) 11
雑 誌 文 学 案 内 と 張 赫 宙 そして 植 民 地 の 文 学 者 たち 朝 鮮 現 代 作 家 特 輯 (1937 年 2 月 )を 中 心 に 曺 恩 美 ( 東 京 外 国 語 大 学 国 際 日 本 研 究 センター) 1 はじめに 本 発 表 では 植 民 地 朝 鮮 出 身 の 日 本 語 作 家 張 赫 宙 が その 作 品 批 評 を 発 表 した 日 本 のメディアに 注 目 し とりわけプロレタリア 文 学 系 の 雑 誌 文 学 案 内 に 組 まれた 朝 鮮 現 代 作 家 特 輯 (1937 年 2 月 )との 関 わりを 検 証 することを 通 じて 植 民 地 と 帝 国 の 文 学 のネットワークのあり 方 を 考 察 する 1 2 日 本 語 文 学 者 張 赫 宙 改 造 デビューから 文 学 案 内 編 集 顧 問 まで 張 赫 宙 にとって 改 造 (1932 年 第 5 回 )の 懸 賞 当 選 という 出 来 事 は その 後 の 活 動 に おいてさまざまな 相 互 交 流 の 可 能 性 が 存 在 する 空 間 を 提 供 するものとなった 改 造 での デビューはその 後 文 芸 首 都 同 人 への 参 加 に 繋 がり 懸 賞 当 選 作 家 の 保 高 徳 蔵 (1928 年 第 1 回 )と 植 民 地 台 湾 作 家 龍 瑛 宗 (1937 年 第 9 回 )と 出 会 い 帝 国 と 植 民 地 そして 植 民 地 文 学 者 同 士 の 交 流 と 支 えになる 台 湾 の 研 究 者 王 恵 珍 によれば 龍 瑛 宗 は 東 京 へ 出 発 して 改 造 懸 賞 創 作 の 賞 を 受 ける 前 に 改 造 社 を 通 じて 張 赫 宙 に 手 紙 を 送 った 張 赫 宙 は 龍 瑛 宗 に 直 接 保 高 徳 蔵 を 訪 ねるほうがいいと 勧 めた それゆえ 彼 は 東 京 に 着 いてから 文 芸 首 都 社 に 保 高 を 訪 ね た 2 張 赫 宙 が 龍 瑛 宗 に 宛 てた 書 簡 でも 保 高 徳 蔵 ( 芝 区 巴 町 一 )と 湯 浅 克 衛 ( 芝 区 愛 宕 町 第 二 愛 山 荘 )の 両 氏 に 是 非 逢 つて 下 さい 吾 々 植 民 地 人 には 特 に 理 解 が 深 いですから 3 と 保 高 への 会 見 を 熱 心 に 薦 めていたことが 確 認 される 朝 鮮 に 在 住 した 経 験 のある 保 高 徳 蔵 は 朝 鮮 は 私 の 心 のふるさとだ 4 とよく 述 べていた が 1936 年 7 月 文 学 案 内 社 の 主 催 により 開 かれ 主 に 日 本 のプロレタリア 文 学 者 が 集 まっ た 張 赫 宙 歓 迎 宴 5 にも 保 高 徳 蔵 や 改 造 懸 賞 作 家 たちの 名 前 が 確 認 されるのも こう した 繋 がりによってであろう 雑 誌 改 造 については 白 川 豊 が 述 べているように 張 1 張 赫 宙 と 日 本 の 雑 誌 メディアとの 関 わりについては 拙 稿 帝 国 日 本 のメディアと 張 赫 宙 の 日 本 語 文 学 雑 誌 文 学 案 内 を 中 心 に ( 社 会 文 学 41 号 2015 年 3 月 ) を 参 照 されたい 2 王 恵 珍 ( 台 湾 清 華 大 学 ) 植 民 地 作 家 の 変 奏 台 湾 人 作 家 から 見 た 朝 鮮 人 作 家 張 赫 宙 日 本 台 湾 学 会 第 8 回 関 西 部 会 研 究 大 会 2010 年 12 月 18 日 関 西 大 学 15 頁 3 1937 年 6 月 13 日 付 書 簡 王 恵 珍 氏 と 高 橋 梓 氏 提 供 王 恵 珍 氏 によれば 2 人 の 関 係 は 書 信 往 来 など 1944 年 頃 まで 続 いていた 王 恵 珍 前 掲 4 保 高 みさこ 花 実 の 森 小 説 文 芸 首 都 立 風 書 房 1971 年 20 頁 5 丸 山 義 二 張 赫 宙 君 歓 迎 会 をひらいて 文 学 案 内 2 巻 9 号 1936 年 9 月 155 頁 なお 本 稿 では 復 刻 版 文 学 案 内 ( 不 二 出 版 2005 年 )を 用 いる 12
赫 宙 と 龍 瑛 宗 という 朝 鮮 と 台 湾 を 代 表 する 日 本 語 作 家 を 登 壇 させた 6 ことは 注 目 に 値 する 張 赫 宙 は 雑 誌 文 芸 首 都 の 主 宰 者 であった 保 高 徳 蔵 に 朝 鮮 の 金 史 良 7 や 台 湾 の 龍 瑛 宗 など 新 人 作 家 を 推 薦 する 紹 介 者 として 活 躍 する 一 方 プロレタリア 文 学 系 の 雑 誌 文 学 案 内 においては 東 京 へ 移 住 して 間 もない1936 年 10 月 号 から 編 輯 顧 問 に 加 わり 朝 台 中 国 新 鋭 作 家 集 (1936 年 1 月 ) 朝 鮮 現 代 作 家 特 輯 (1937 年 2 月 )の 企 画 翻 訳 に 関 わっ ていた 一 方 文 学 案 内 の 主 宰 者 である 貴 司 山 治 は 張 君 には 朝 鮮 文 壇 のよき 作 家 の 紹 介 その 作 品 の 日 本 語 訳 等 で 特 別 の 骨 を 折 つて 貰 ふことになつてゐる 8 と その 活 躍 に 期 待 をかけている しかしながら この 時 期 植 民 地 朝 鮮 においては 張 赫 宙 の 日 本 でのこのような 活 動 が 必 ずしも 評 価 されているとはいい 難 い 現 実 があった 朴 勝 極 の 評 論 の 一 節 張 赫 宙 の 受 難 において 張 赫 宙 は 文 学 案 内 に 朝 鮮 文 壇 の 現 状 報 告 朝 鮮 文 壇 の 将 来 等 歪 曲 にみちた 報 告 と 所 論 を 二 回 も 書 いて 悪 評 をかつた 9 という 叙 述 からは この 時 期 朝 鮮 文 壇 で 張 赫 宙 がおかれた 状 況 の 一 断 面 をうかがい 知 ることができる 他 方 張 赫 宙 にお いて 植 民 地 朝 鮮 から 差 し 向 けられた 非 難 に 対 して 貴 司 山 治 は 張 氏 は 立 派 な 進 歩 的 な 作 家 である ( 略 ) 張 赫 宙 氏 の 存 在 はやはり 朝 鮮 文 壇 の 立 派 な 誇 りであると 信 ずる 10 と 反 応 している 当 の 張 赫 宙 は 日 本 における 活 動 に 対 する 朝 鮮 知 識 人 からの 非 難 と 日 本 文 学 界 における 後 押 しの 狭 間 で つねに 自 分 は 日 本 文 壇 の 人 間 であつて 朝 鮮 文 壇 の 代 表 者 ではない 11 と 訴 えかけていた しかしどちらもその 声 に 耳 を 傾 けることはなく 朝 鮮 側 からは 朝 鮮 人 は 朝 鮮 文 人 になる 方 がもっとも 意 義 あることだと 批 判 され 他 方 で 日 本 側 では 立 派 な 進 歩 的 な 作 家 さらには 現 代 朝 鮮 の 代 表 的 作 家 12 とみなされ あくまで 朝 鮮 文 学 ( 者 ) の 枠 内 で 張 赫 宙 を 扱 っていた 張 赫 宙 の 日 本 語 文 学 には 植 民 地 と 帝 国 が 出 会 い 交 流 する なかで 齟 齬 や 軋 みが 生 まれていたのである 3 朝 鮮 現 代 作 家 特 輯 (1937 年 2 月 号 ) 日 本 における 最 初 の 朝 鮮 文 学 の 紹 介 特 輯 として 雑 誌 文 学 案 内 は 1937 年 2 月 号 におそらく 日 本 では 初 めて 朝 鮮 現 代 作 家 特 輯 13 [ 以 下 特 輯 と 略 称 ]という 特 筆 すべき 企 画 を 組 む 掲 載 作 品 は 李 北 鳴 裸 の 部 落 玄 民 ( 兪 鎮 午 ) 金 講 師 とT 教 授 韓 雪 野 白 い 開 墾 地 姜 敬 愛 長 山 串 李 孝 石 蕎 麦 の 花 の 6 白 川 豊 植 民 地 期 朝 鮮 の 作 家 と 日 本 大 学 教 育 出 版 1995 年 4 頁 他 方 高 榮 蘭 の 出 版 帝 国 の 戦 争 一 九 三 〇 年 前 後 の 改 造 社 と 山 本 實 彦 満 鮮 から ( 文 学 二 一 年 三 四 月 号 )によれば 改 造 社 の 商 業 化 出 版 戦 略 によって 植 民 地 文 学 者 の 作 品 が 企 画 掲 載 された 7 保 高 徳 蔵 日 本 で 活 躍 した 二 人 の 作 家 民 主 朝 鮮 1946 年 7 月 号 70 頁 8 編 集 局 推 薦 原 稿 編 輯 局 文 学 案 内 2 巻 6 号 1936 年 6 月 135 頁 9 朴 勝 極 朝 鮮 と 文 学 一 九 三 五 年 文 壇 の 回 顧 文 学 評 論 3 巻 1 号 1936 年 1 月 160 頁 10 編 輯 局 朝 鮮 台 湾 中 国 新 鋭 作 家 集 について 文 学 案 内 2 巻 1 号 1936 年 1 月 93 頁 11 編 集 局 朝 鮮 台 湾 中 国 新 鋭 作 家 集 について 前 掲 93 頁 12 編 集 局 サーチライト 文 学 案 内 2 巻 1 号 1936 年 1 月 35 頁 13 朝 鮮 現 代 作 家 特 輯 については, 白 川 豊 植 民 地 期 朝 鮮 の 作 家 と 日 本 ( 前 掲 )において 先 駆 的 に 紹 介 されている 13
頃 の 五 篇 である 張 赫 宙 は 文 学 案 内 の 特 輯 の 企 画 について 次 のようにその 意 義 と 抱 負 を 述 べている 私 は 吾 が 朝 鮮 文 学 が 近 年 著 しくその 文 学 レベルを 向 上 させつつあるのを 見 種 々な 客 観 状 勢 に 因 つて 不 遇 の 地 位 を 忍 んでゐるのを 傍 観 することが 出 来 なくなつた 私 が 文 学 案 内 社 と 結 んで 朝 鮮 作 家 号 を 出 してもらふやうになつた 主 要 理 由 はここにあつた これに 依 つて 朝 鮮 文 学 の 優 秀 性 を 認 めてくれる 人 の 多 からんことを 私 は 秘 かに 念 じて やまない 14 また 特 輯 が 組 まれた 同 号 に 張 赫 宙 は 評 論 現 代 朝 鮮 作 家 の 素 描 をのせて 特 輯 に 組 まれた 朝 鮮 の 作 家 と 作 品 の 詳 細 を 紹 介 している そこでは 日 本 文 壇 において 以 前 に も 朝 鮮 文 学 は 紹 介 されてはいたが それは 紹 介 文 や 短 編 程 度 であり 雑 誌 文 学 案 内 の 特 輯 のように 全 面 的 な 一 時 に 多 くの 作 品 を 紹 介 したことはないと その 意 義 を 述 べている つづいて 張 赫 宙 は 作 家 作 品 の 選 別 については 大 体 に 於 いて 進 歩 的 な 立 場 にゐる 作 家 といふことにし( 略 ) 朝 鮮 文 壇 に 於 ける 開 拓 者 とも 言 はる 可 き 大 家 諸 氏 や 現 代 の 総 ゆ る 傾 向 の 作 家 の 作 品 を 一 冊 に 纏 めて 読 んでもらふ 為 に 全 面 的 朝 鮮 文 学 の 反 訳 集 [ 翻 訳 集 ー 引 用 者 ]の 企 画 も 考 へてゐる それが 実 現 されるときには 更 に 多 くの 作 家 と 作 品 が 紹 介 さ れることは 無 論 15 であるとその 抱 負 を 述 べる それでは 実 際 に 日 本 の 読 者 に 紹 介 された 特 輯 の 作 品 についてみてみたい まず 労 働 者 出 身 作 家 李 北 鳴 の 裸 の 部 落 は 張 赫 宙 によれば 作 家 自 ら 日 本 語 で 創 作 したとされるが 16 この 作 品 は 暗 夜 行 路 のタイトルで 新 東 亜 1936 年 9 月 号 に 朝 鮮 語 で 発 表 されたものを 日 本 語 で 書 き 直 した 形 で 掲 載 されたものと 考 えられる 改 稿 の 過 程 では 朝 鮮 語 の 初 出 と 時 期 設 定 主 人 公 の 日 本 警 察 に 検 挙 される 理 由 など いくつか の 異 同 が 見 られる 次 に 張 赫 宙 の 評 論 において 朝 鮮 文 学 のレベルを 世 界 的 にした 傑 作 であると 紹 介 して いる 玄 民 ( 兪 鎭 午 )の 金 講 師 とT 教 授 は 新 東 亜 1935 年 1 月 号 に 朝 鮮 語 で 発 表 され た 作 品 を 作 家 自 ら 日 本 語 で 翻 訳 して 掲 載 している 17 その 翻 訳 過 程 で 作 家 自 身 によって 大 幅 に 改 作 が 行 われた そして 張 赫 宙 の 1935 年 評 論 朝 鮮 文 壇 の 現 状 報 告 18 において 朝 鮮 文 学 の 発 展 を 促 す 作 家 として 期 待 された 李 孝 石 の 作 品 蕎 麥 の 花 の 頃 は 現 在 の 韓 国 においても 韓 14 張 赫 宙 文 案 十 二 月 号 予 告 朝 鮮 作 家 について 文 学 案 内 2 巻 11 号 1936 年 11 月 135 頁 15 張 赫 宙 現 代 朝 鮮 作 家 の 素 描 文 学 案 内 3 巻 2 号 1937 年 2 月 84 頁 16 張 赫 宙 現 代 朝 鮮 作 家 の 素 描 前 掲 85 頁 17 張 赫 宙 現 代 朝 鮮 作 家 の 素 描 前 掲 86 頁 18 張 赫 宙 朝 鮮 文 壇 の 現 状 報 告 文 学 案 内 1 巻 4 号 1935 年 10 月 14
国 現 代 短 編 小 説 の 代 表 作 の 一 つとして 評 価 されている 作 品 である 作 者 自 訳 19 であるこ の 作 品 の 初 出 は 朝 鮮 語 雑 誌 朝 光 1936 年 10 月 号 であるが 日 本 語 へ 翻 訳 される 過 程 で 他 の 作 家 と 比 べて 唯 一 注 意 をひくような 書 き 直 しや 内 容 の 異 同 は 見 当 たらない 一 方 こ の 作 品 はその 後 モダン 日 本 ( 朝 鮮 版 1939 年 11 月 号 )に 再 録 される つづいて 姜 敬 愛 の 長 山 串 は 大 阪 毎 日 新 聞 朝 鮮 版 において 1936 年 4 月 ~6 月 にかけて 朝 鮮 女 流 作 家 集 の 特 集 が 組 まれ そのなか 長 山 串 は 6 月 6 日 ~10 日 ま で 掲 載 された 作 品 である 日 本 語 訳 に 関 しては 張 赫 宙 によれば 反 訳 者 は 明 らかでない 20 としている 一 方 現 在 の 研 究 状 況 においても 姜 敬 愛 の 長 山 串 は 初 めから 日 本 語 で 書 かれた 作 品 なのか 朝 鮮 語 原 作 があるのかなど 依 然 としてその 詳 細 は 明 らかでない 一 方 青 柳 優 子 は 長 山 串 は 初 めから 日 本 語 で 発 表 された 姜 敬 愛 の 唯 一 の 作 品 である と 断 定 している 21 しかし その 後 に 大 村 益 夫 は 長 山 串 は 未 だに 朝 鮮 語 の 原 文 が 見 つかっていない 訳 者 も 不 明 である というように 原 文 は 朝 鮮 語 であることを 想 定 して 言 及 している 22 また 青 柳 は 長 山 串 のように 両 国 民 衆 の 友 情 が 形 象 化 された 作 品 は 極 めて 珍 しいものであると 評 価 している そして 大 阪 毎 日 新 聞 朝 鮮 版 の 初 出 版 と 文 学 案 内 への 再 録 版 の 間 では 二 〇 箇 所 以 上 の 改 稿 点 が 確 認 され 張 赫 宙 によって 手 が 加 えられた 可 能 性 を 指 摘 している 多 くの 改 稿 点 の 中 でも 最 も 重 要 な 部 分 として 青 柳 が 注 目 するのが 死 線 を 去 来 してゐ る 志 村 を ( 大 阪 毎 日 新 聞 版 1936 年 6 月 10 日 )という 表 現 を 死 線 を 去 来 してゐる 律 々 しい 軍 服 姿 の 志 村 を ( 文 学 案 内 版 65 頁 下 線 部 挿 入 )と 改 稿 した 部 分 であり 律 々 しい 軍 服 姿 の 志 村 という 一 句 が 挿 入 されることで 小 説 の 雰 囲 気 が 変 わったと 論 じている しかしながら この 時 期 文 学 案 内 などプロレタリア 系 の 雑 誌 で 活 動 しながら 朝 鮮 の 進 歩 的 な 作 家 に 注 目 して 朝 鮮 文 壇 の 現 状 報 告 や 朝 鮮 現 代 作 家 特 輯 などを 組 んでいた 彼 が あえて 律 々しい 軍 服 姿 という 加 筆 を 行 う 理 由 は 見 当 たらない 青 柳 は 加 筆 の 根 拠 として この 時 期 張 赫 宙 は 日 本 文 壇 へのデビュー 時 には 鮮 明 だっ た 民 族 主 義 からの 離 脱 を 明 確 にしており その 張 の 手 によって 紹 介 された 文 学 案 内 の 長 山 串 であれば 加 筆 削 除 は 彼 が 行 った と 考 えるのが 自 然 であり こ れは 修 正 した 意 図 は 明 らかである 23 24 と 述 べている 青 柳 の 主 張 はあくまで 任 展 慧 の 論 考 に 従 ってなされた 推 測 の 域 を 出 ておらず 張 赫 宙 が 改 稿 を 行 ったという 根 拠 としては 正 当 性 があるとはいえない 最 後 に 越 北 した 植 民 地 朝 鮮 の 代 表 的 なプロレタリア 文 学 者 韓 雪 野 の 白 い 開 墾 地 19 張 赫 宙 ほか 編 著 朝 鮮 文 学 選 集 Ⅰ 赤 塚 書 房 1940 年 109 頁 20 張 赫 宙 現 代 朝 鮮 作 家 の 素 描 前 掲 85 頁 21 青 柳 優 子 韓 国 女 性 文 学 研 究 Ⅰ 御 茶 の 水 書 房 1997 年 205~224 頁 22 姜 敬 愛 著 大 村 益 夫 訳 人 間 問 題 朝 鮮 近 代 文 学 選 集 2 平 凡 社 2006 年 385 頁 23 青 柳 優 子 韓 国 女 性 文 学 研 究 Ⅰ 前 掲 210 頁 24 任 展 慧 日 本 における 朝 鮮 人 の 文 学 の 歴 史 法 政 大 学 出 版 局 1994 年 202~209 頁 15
についてみてみたい 白 い 開 墾 地 は 韓 国 において 金 在 湧 により 1990 年 雑 誌 文 学 案 内 から 資 料 発 掘 されて はじめて 韓 国 において 紹 介 された 25 それ 以 降 金 在 湧 の 先 行 論 は 定 説 として 定 着 し 後 につづく 研 究 者 もそのまま 初 出 などの 作 品 の 詳 細 を 採 用 して 研 究 を 進 めているのが 現 状 である 26 しかしながら 朝 鮮 語 原 文 の 問 題 を 含 めて 金 在 湧 が 断 定 している 朝 鮮 語 執 筆 が 先 であ って その 後 日 本 語 に 圧 縮 して 翻 訳 したという 議 論 には 多 くの 問 題 点 があると 思 われる 金 在 湧 によれば 韓 雪 野 の 白 い 開 墾 地 は 山 村 ( 朝 光 1938 年 11 月 )を 中 心 において そこに 洪 水 27 ( 朝 鮮 文 学 続 刊 1936 年 5 月 号 )と 賦 役 ( 朝 鮮 文 学 続 刊 1937 年 6 月 )を 圧 縮 して 組 み 込 み 日 本 語 で 改 めて 書 いた 作 品 であるという 28 その 後 この 考 察 は 定 説 になっていく しかしながら 雑 誌 文 学 案 内 の 特 輯 は 1937 年 2 月 に 発 行 されている ここで 素 朴 な 疑 問 が 生 じる 1937 年 2 月 以 降 に 朝 鮮 語 で 発 表 された 賦 役 と 山 村 が なぜ 朝 鮮 語 で 先 に 執 筆 していたとされるのだろうか もちろん 金 在 湧 が 述 べるように 先 に 執 筆 して 何 年 か 後 に 掲 載 する 場 合 もしばしばあるともいえるが やはり 再 考 の 余 地 はある むしろ 白 い 開 墾 地 は 韓 雪 野 のもう 一 つの 新 たな 日 本 語 作 品 であり 朝 鮮 語 の 作 品 洪 水 の 一 部 を 借 用 して 日 本 語 で 白 い 開 墾 地 を 執 筆 し その 後 さらに 一 部 を 朝 鮮 語 へ 翻 訳 して 二 つの 作 品 賦 役 と 山 村 として 発 表 したとみなすのが 妥 当 では ないだろうか 何 よりも 当 時 の 張 赫 宙 は ( 韓 雪 野 - 筆 者 注 ) 氏 は 本 誌 に 寄 せる 為 に 日 本 文 でかいた 白 い 開 墾 地 を 創 作 せられた 29 と 明 らかにしている ことも 付 け 加 えてお く 雑 誌 文 学 案 内 の 特 輯 に 掲 載 された 作 家 と 作 品 は 現 在 でも 韓 国 文 学 史 上 で 代 表 的 と 見 られている 作 家 と 作 品 が 揃 った 形 で 企 画 され 朝 鮮 における 発 表 時 期 とほぼ 同 時 期 に 日 本 語 で 翻 訳 紹 介 が 行 われた この 企 画 は 張 赫 宙 の 評 論 朝 鮮 文 壇 の 現 状 報 告 30 で 朝 鮮 の 新 人 として 期 待 され 紹 介 されていた 作 家 の 作 品 が 集 められたものであるが 朝 鮮 知 識 人 による 張 赫 宙 への 批 判 すなわち 朝 鮮 文 壇 を 歪 曲 したとされるその 批 判 は 当 時 いわゆる 朝 鮮 のブルジョワ 文 学 者 らと 対 立 し 論 争 を 深 めていたカップ( 朝 鮮 プロレタリア 芸 術 家 同 盟 ) 派 作 家 や カップの 活 動 に 同 調 する 同 伴 者 作 家 たちであった 兪 鎭 午 李 孝 石 ら 25 金 在 湧 [ 作 品 発 掘 ] 失 踪 作 家 韓 雪 野 白 い 開 墾 地 1930 年 代 後 半 事 実 主 義 小 説 の 自 己 模 索 と 白 い 開 墾 地 の 意 味 韓 国 文 学 1990 年 1 月 310~315 頁 26 ソンハチュン 編 著 韓 国 現 代 長 編 小 説 事 典 1917-1950 高 麗 大 学 校 出 版 部 2013 年 海 老 原 豊 は 日 帝 強 占 期 韓 国 作 家 の 日 語 作 品 再 考 文 学 案 内 誌 朝 鮮 現 代 作 家 特 輯 を 中 心 に ( 現 代 小 説 研 究 40 号 2009 年 韓 国 現 代 小 説 学 会 )において 満 洲 事 変 と 日 本 のプロレタリア 文 学 作 家 との 連 関 性 を 考 察 する 中 朝 鮮 現 代 作 家 特 輯 について 触 れている なお この 論 考 は 初 出 など 書 誌 の 誤 記 が 目 立 つ 27 洪 水 の 初 出 は 多 くのペンネームを 持 っている 韓 雪 野 が 韓 炯 宗 というペンネームで 新 春 文 芸 に 応 募 し 入 選 した 作 品 で 東 亜 日 報 (1928 年 1 月 2 日 ~6 日 )に 全 5 回 掲 載 された 短 篇 である 東 亜 日 報 に 用 いた 韓 炯 宗 というペンネームについては 布 袋 敏 博 先 生 のご 教 示 にあずかるものである 28 金 在 湧 [ 作 品 発 掘 ] 失 踪 作 家 韓 雪 野 白 い 開 墾 地 前 掲 310 頁 29 張 赫 宙 現 代 朝 鮮 作 家 の 素 描 前 掲 87 頁 30 張 赫 宙 朝 鮮 文 壇 の 現 状 報 告 前 掲 16
を 日 本 で 高 く 評 価 し その 対 立 軸 にあったブルジョワ 文 学 者 を 低 く 評 価 していたことにも 起 源 する 1931 年 9 月 の 満 洲 事 変 勃 発 以 降 1930 年 代 半 ばから 植 民 地 朝 鮮 においてプロレタリア 文 学 者 に 対 する 弾 圧 は 一 層 強 まり 朝 鮮 の 文 学 者 に 大 きな 影 響 を 与 えた さらに 第 3 次 朝 鮮 教 育 令 が 1938 年 8 月 公 表 され 帝 国 日 本 の 総 動 員 体 制 に 至 るこの 時 期 は 朝 鮮 文 学 史 の 中 で 一 つの 転 換 期 だと 言 える なかでも 1935 年 のカップ 解 散 は 韓 国 の 文 学 史 上 における 大 事 件 となった このような 状 況 の 下 朝 鮮 の 進 歩 的 な 作 家 たちはちょうど 同 時 期 である 1935 年 に 弾 圧 さ れるプロレタリア 文 学 の 再 建 をめざして 創 刊 された 日 本 の 進 歩 的 雑 誌 文 学 案 内 が 張 赫 宙 という 媒 介 を 通 じて 作 品 発 表 の 場 となったのではないか また 植 民 地 朝 鮮 の 文 学 者 らは 朝 鮮 の 厳 しい 検 閲 より 日 本 の 検 閲 が 若 干 緩 やかである ことから 作 品 に 刻 まれた 牙 を 隠 しつつメッセージを 発 することを 試 み 始 める たとえば 金 在 湧 が 朝 鮮 語 より 一 層 反 日 的 で 階 級 的 であると 評 価 しているように 韓 雪 野 の 白 い 開 墾 地 では 朝 鮮 語 において 組 合 という 一 つの 表 現 に 統 一 されているものが 日 本 語 では 争 議 (55 頁 ) T 農 組 総 検 挙 ( 36 頁 ) T 農 組 再 建 事 件 (55 頁 )など 具 体 的 にその 対 象 や 表 現 が 織 り 込 まれている また 朝 鮮 における 東 拓 の 資 本 や 朝 鮮 総 督 府 が 掲 げた 心 田 開 業 ( 思 想 善 導 ) 自 力 更 生 農 事 改 良 (41 頁 )の 虚 像 日 本 人 校 長 小 林 の 卑 劣 な 交 渉 漠 然 とした 模 範 校 長 の 表 彰 が 明 確 に 総 督 府 表 彰 と 示 され 小 作 権 が 朝 鮮 人 地 主 から 移 住 日 本 人 地 主 へ 移 動 する 過 程 などが 明 示 される 一 方 農 組 による 農 民 の 団 結 も 加 われている また 李 北 鳴 の 暗 夜 行 路 では できの 悪 い 社 会 主 義 者 (377 頁 )であった 主 人 公 三 徳 が 日 本 警 察 に 捕 まった 理 由 は 配 達 夫 親 睦 会 事 件 (377 頁 )によるものであったが 文 学 案 内 の 裸 の 部 落 では K 邑 新 聞 配 達 夫 同 盟 組 織 準 備 中 に 検 挙 ( 11 頁 )と 明 示 されている そして 兪 鎭 午 の 金 講 師 とT 教 授 では 消 極 的 な 主 人 公 金 講 師 の 性 格 が 日 本 人 同 僚 に 向 かい 怒 りを 爆 発 するなど 大 胆 な 性 格 へと 変 化 する 一 方 植 民 地 の 現 実 を 浮 き 彫 りにしている このように 植 民 地 文 学 者 ゆえの 創 作 の 苦 悩 ともいえるこのよ うな 表 現 の 差 異 を 通 じてもわかるように 植 民 地 朝 鮮 文 壇 よりは 多 少 なりとも 自 由 な 表 現 が 許 される 日 本 のメディア 文 学 案 内 は そのような 試 みの 場 を 提 供 する 役 割 を 一 定 程 度 果 たしたといえる 貴 司 山 治 らも 示 しているように 張 赫 宙 君 の 一 方 ならぬ 厚 意 によつて 生 れたといつて いゝ 31 朝 鮮 現 代 作 家 特 輯 は 朝 鮮 の 同 時 代 の 作 品 を 日 本 に 翻 訳 紹 介 し 植 民 地 朝 鮮 の 作 家 たちを 日 本 読 者 に 紹 介 したものとして 意 義 を 持 つ また 雑 誌 文 学 案 内 が これらの 作 家 はいづれも 現 代 朝 鮮 文 壇 をになふ 新 進 中 堅 の 俊 才 で 必 ずや 大 方 の 期 待 に 添 ふであらうと 共 にこれらを 特 輯 することはわが 編 輯 部 が つねに 朝 鮮 台 湾 中 国 文 壇 の 紹 介 に 率 先 して 微 力 を 注 いて 来 た 真 意 を より 積 極 的 に 31 貴 司 山 治 編 輯 室 レポ 文 学 案 内 3 巻 2 号 1937 年 2 月 192 頁 17
表 現 したものである 32 と その 意 義 を 示 しているように 植 民 地 作 家 たちに 作 品 発 表 の 場 を 与 え そのことで 植 民 地 の 現 実 を 広 く 知 らせるきっかけにもつながっていく だが 雑 誌 文 学 案 内 はこの 特 輯 の 後 今 年 中 にもう 一 度 第 二 朝 鮮 作 家 号 を 出 したいと 思 ふし 中 国 作 家 号 なども 企 てたい 33 と 抱 負 を 述 べたものの 1937 年 4 月 号 を 最 後 に 廃 刊 に 追 い 込 ま れてしまう 4 むすび 雑 誌 文 学 案 内 における 植 民 地 文 学 者 との 特 別 の 連 帯 心 や 台 湾 朝 鮮 中 国 文 壇 の 日 本 への 紹 介 やその 作 品 の 日 本 文 壇 への 移 植 と 相 互 交 渉 という 理 念 は 雑 誌 文 学 案 内 が 廃 刊 された 後 も 続 けられた その 後 ともに 文 学 案 内 の 編 輯 顧 問 であった 張 赫 宙 ( 戯 曲 )と 村 山 知 義 ( 演 出 )の 協 力 で 春 香 伝 ( 1938 年 )が 上 演 され そして 雑 誌 文 学 案 内 や 戯 曲 春 香 伝 上 演 に 関 わっていた 張 赫 宙 村 山 知 義 秋 田 雨 雀 兪 鎮 午 の 共 同 編 輯 による 全 面 的 朝 鮮 文 学 の 反 訳 集 の 企 画 34 であった 朝 鮮 文 学 選 集 全 3 巻 ( 赤 塚 書 房 1940 年 )の 刊 行 にもつながっていくのである 32 編 輯 局 朝 鮮 作 家 特 輯 号 の 発 行 について 文 学 案 内 2 巻 12 号 1936 年 12 月 159 頁 33 貴 司 山 治 編 輯 室 レポ 前 掲 192 頁 34 張 赫 宙 現 代 朝 鮮 作 家 の 素 描 前 掲 84 頁 18
呉 泳 鎮 の 日 本 語 エクリチュールと 民 族 主 義 呉 泳 鎮 の 小 説 真 相 とシナリオ ハンネの 昇 天 李 相 雨 (イ サンウ/ 高 麗 大 ) ( 渡 辺 直 紀 訳 ) 1 雑 誌 城 大 文 学 と 小 説 真 相 呉 泳 鎮 (オ ヨンジン/1916-74)は 民 俗 儀 礼 3 部 作 といわれるシナリオ ベベンイ 巫 儀 (1942) 孟 進 士 宅 の 慶 事 (1943) ハンネの 昇 天 (1972)を 書 いた このシナリ オは 呉 泳 鎮 自 身 の 代 表 作 であるのみならず 韓 国 的 アイデンティティ(identity)を 代 弁 する 劇 作 品 と 認 められており そのために 彼 は 韓 国 を 代 表 する 劇 作 家 と 評 価 されている さらに 彼 は 民 族 主 義 思 想 を 持 つ 劇 作 家 としても 有 名 である 解 放 期 また 1950~60 年 代 にかけてみられた 積 極 的 な 反 共 反 日 民 族 主 義 思 想 と 活 動 は 呉 泳 鎮 が 民 族 主 義 指 向 の 作 家 であるという 事 実 を 示 す 端 緒 となる しかし 彼 が 小 説 家 として 文 学 の 第 一 歩 を 始 めたという 事 実 そして 当 時 彼 が 書 いた 小 説 がみな 日 本 語 作 品 であったという 事 実 は さほどよく 知 られていない もちろん 呉 泳 鎮 が 日 帝 末 期 に 国 民 文 学 に 発 表 したシナリオ ベベンイ 巫 儀 (1942.8)や 孟 進 士 宅 の 慶 事 (1943.4)も すべて 日 本 語 で 創 作 されたが これは 日 本 語 使 用 が 強 制 された 日 帝 末 期 に 発 表 されたものである しかし 彼 がそれ 以 前 に 書 いた 小 説 は 朝 鮮 語 での 創 作 が 可 能 だった 1930 年 代 中 盤 に すべて 日 本 語 で 創 作 されたために 注 目 を 要 する 公 式 の 誌 面 に 発 表 された 呉 泳 鎮 の 処 女 作 品 は 1934 年 に 京 城 帝 国 大 学 予 科 の 同 人 誌 清 凉 18 号 に 収 録 された 短 篇 小 説 婆 さん (1934.7)である 清 凉 には 当 時 趙 容 萬 高 晶 玉 具 滋 均 など 多 数 の 朝 鮮 人 学 生 たちの 作 品 が 掲 載 されたことが 確 認 できる 呉 泳 鎮 は 京 城 帝 大 の 予 科 の 時 期 から 文 学 創 作 に 相 当 の 関 心 を 傾 けたものとみられる 彼 の 創 作 熱 は 京 城 帝 大 本 科 に 在 学 した 時 期 にも 着 実 に 続 き 1936 年 に 文 学 同 人 誌 城 大 文 学 に 全 4 編 の 短 篇 小 説 を 発 表 した 2 号 (1936.2)の 真 相 をはじめとして 3 号 (1936.5)に 友 の 死 後 4 号 (1936.7)に かがみ そして 5 号 (1936.10)に 未 完 成 作 丘 の 上 の 生 活 者 など 1 年 間 に 4 編 の 日 本 語 小 説 を 相 次 いで 発 表 するという 旺 盛 な 創 作 活 動 を 示 し た 城 大 文 学 は 京 城 帝 大 の 日 本 人 の 作 家 志 望 生 が 作 った 文 学 同 人 誌 であった 一 色 豪 が 同 人 誌 の 編 輯 兼 発 行 人 として 表 記 されており その 他 の 同 人 として 宮 崎 清 太 郎 渡 部 学 田 中 正 米 泉 靖 一 森 田 四 郎 呉 泳 鎮 李 碩 崑 などがいた 呉 泳 鎮 は 2 号 (1936.2)に 真 相 を 発 表 することで 同 人 として 参 加 する 城 大 文 学 2 号 の 編 集 後 記 を 見 ると 新 同 人 19
として 参 加 することになった 呉 泳 鎮 の 力 作 を 得 て 光 栄 だ 李 碩 崑 も 同 人 になり 今 後 半 島 学 生 両 君 の 活 躍 が 期 待 される としている 呉 泳 鎮 は 日 本 人 学 生 たちが 作 った 文 学 同 人 誌 に たぐいまれな 朝 鮮 人 として 参 加 して 日 本 語 で 小 説 を 書 いたのである 呉 泳 鎮 が 城 大 文 学 に 発 表 した 4 編 の 小 説 のうち 特 に 真 相 は 注 目 を 要 する 作 品 である それは この 作 品 が 後 日 発 表 されるシナリオ ハンネの 昇 天 の 創 作 源 泉 と なる 作 品 だからである ハンネの 昇 天 は 呉 泳 鎮 の 民 俗 儀 礼 3 部 作 の 完 結 版 で 呉 泳 鎮 の 民 族 主 義 的 な 指 向 をよく 示 す 作 品 の 1 つとして 数 えられる だが 日 本 語 使 用 が 強 制 されなかった 時 期 に 日 本 語 の 文 学 同 人 誌 に 日 本 語 で 創 作 された 小 説 真 相 が 民 族 的 アイデンティティを 代 弁 する 作 品 で 韓 国 劇 文 学 の 正 典 として 認 識 される ハンネの 昇 天 を 産 んだ 原 作 であるというこの 矛 盾 性 を どのように 理 解 するべきだろうか 本 稿 の 問 題 意 識 はまさにこの 地 点 にある 2 呉 泳 鎮 の 真 相 と 金 史 良 そして 二 重 言 語 エクリチュール 日 本 語 小 説 真 相 (1936)は 1930 年 代 の 植 民 地 朝 鮮 の 農 村 現 実 の 一 断 面 を 写 実 的 に 反 映 した 作 品 である この 小 説 の 主 人 公 哲 洙 は 大 酒 飲 み かつ ならずもの で 村 で も 有 名 な 小 作 人 である これによって 彼 は 本 妻 の 金 氏 と 一 日 じゅうケンカをしている 関 係 である 金 氏 が 哲 洙 とケンカして 家 出 して 数 日 間 帰 ってこなかったある 日 哲 洙 は 街 で 物 乞 いする 若 くて 美 しい 女 性 徐 氏 を 自 分 の 家 に 連 れてきて 一 緒 に 暮 らすようになる 性 格 がはげしい 金 氏 とは 異 なり 仙 女 のように 美 しい 性 格 と 容 貌 を 持 った 徐 氏 とともに 生 活 しながら 哲 洙 のわがままな 生 活 態 度 は 日 ごとに 変 化 する 飲 酒 と 放 蕩 をやめ 着 実 な 農 民 に 変 貌 したのである 若 くて 美 しい 新 妻 徐 氏 を 迎 えた 幸 福 感 で 哲 洙 は 酒 を 断 ち 着 実 に 仕 事 をしながら 金 儲 けを 思 案 することになる しかし 哲 洙 に 新 妻 ができると すぐに 周 辺 の 村 の 人 々は いつの 間 にか 哲 洙 を 嫉 妬 するようになる 特 に 地 主 で 村 の 自 力 更 生 会 の 会 長 である 成 三 の 嫉 妬 はかなり 執 拗 なものだった 一 方 村 役 場 の 書 記 である 富 基 は 成 三 をとても 嫌 い それとなく 哲 洙 を 助 けようとするが それは 成 三 が 品 行 のよくない 人 物 であり あたか も 自 身 が 道 徳 的 であるかのように 偽 善 的 な 行 動 をする 人 物 だからである 多 くの 村 の 人 々は 成 三 の 偽 善 的 な 態 度 を 知 らず 財 力 や 清 廉 さ 道 徳 心 学 識 を 持 って いるとされる 自 力 更 生 会 会 長 成 三 に 尊 敬 の 念 を 表 している 面 書 記 の 富 基 だけがひとり 彼 の 偽 善 を 見 抜 いている しかし 地 主 の 成 三 が 哲 洙 を 呼 び 出 し 模 範 村 の 体 面 を 考 えて 徐 氏 と 別 れ 本 妻 の 金 氏 と 再 結 合 しろと 強 要 してくることに 対 して 小 作 人 の 哲 洙 は 抵 抗 できない 立 場 である 成 三 の 要 求 を 聞 き 入 れなければ 小 作 権 を 奪 われるかもしれ ず 村 の 共 同 体 から 無 視 されるかもしれないという 不 安 のために 哲 洙 は 結 局 徐 氏 と 別 れてしまう 徐 氏 と 別 れた 後 哲 洙 は 失 意 に 陥 り 再 び 大 酒 飲 み で ならずもの の 以 前 の 生 活 に 戻 る 家 に 戻 った 金 氏 は いくらもたたずに 哲 洙 とケンカして また 家 を 出 20
てしまうが 彼 女 が 成 三 の 家 をしばしば 出 入 りするところが 富 基 によって 目 撃 される 結 局 徐 氏 を 奪 ったのをはじめとして 金 氏 を 背 後 から 動 かしていたのも みな 成 三 の 策 略 だったことが 明 らかになるのである この 小 説 は 表 面 的 に 見 ると 人 間 の 根 源 的 慾 望 や 嫉 妬 の 問 題 を 扱 った 通 俗 的 な 作 品 の ように 見 える しかし 深 層 的 に 見 る 時 この 小 説 は 日 帝 の 植 民 地 農 村 政 策 ( 特 に 農 村 自 力 更 生 運 動 )の 矛 盾 を 批 判 している 点 に 焦 点 が 置 かれた 作 品 である 大 酒 飲 み であり ならずもの の 小 作 人 哲 洙 が 美 しい 物 乞 いの 女 性 ( 仙 女 )に 出 会 って 着 実 な 農 民 に 生 まれ 変 わろうとすること すなわち 自 ら 更 生 しようと 考 えるのを 自 力 更 正 運 動 会 の 会 長 である 成 三 とその 会 員 たちの 嫉 妬 が 阻 んでいるからである ある 堕 落 農 民 の 自 発 的 な 更 生 機 会 を 自 力 更 正 会 が 挫 折 させてしまうという なかなか 笑 えないアイロニーを 示 し ていることが まさにこの 小 説 の 核 心 的 な 意 図 である この 小 説 で 描 き 抜 いた 自 力 更 正 運 動 のアイロニーに 対 する 風 刺 は 1933 年 から 朝 鮮 総 督 府 が 推 進 した 農 村 振 興 運 動 の 主 要 事 業 である いわゆる 農 家 更 生 計 画 の 虚 構 性 を 痛 烈 に 暴 露 したものといえる 1930 年 代 の 農 村 振 興 運 動 は 1932 年 から 1940 年 まで 朝 鮮 総 督 府 が 主 導 した 一 種 の 官 製 農 民 運 動 である これは 1929 年 ごろに 吹 き 荒 れた 世 界 経 済 恐 慌 の 直 接 の 被 害 階 層 である 農 民 が 小 作 争 議 や 農 民 組 合 運 動 など 生 存 のための 抵 抗 運 動 を 熱 く 展 開 すると 農 民 階 層 の 不 満 を 解 消 し 農 村 社 会 を 統 制 するための 一 種 の 自 己 救 済 策 に 乗 り 出 したのである 1 自 力 更 正 運 動 の 本 質 が 植 民 地 農 村 社 会 の 根 本 的 な 発 展 を 目 標 にし たものではなく 農 民 の 民 心 離 反 を 抑 えるために 地 主 財 力 家 など 農 村 の 地 域 の 有 志 を 中 心 にした 農 村 の 自 律 的 統 制 組 織 を 作 ることに 目 的 があったために それは 本 質 的 に 虚 構 的 かつ 欺 瞞 的 なプロジェクトにすぎなかった 1930 年 代 中 盤 の 植 民 地 朝 鮮 の 農 村 社 会 の 基 幹 組 織 である 自 力 更 正 会 が 個 別 の 農 民 の 欲 望 を 抑 圧 する 真 相 を 暴 露 し 批 判 するこの 小 説 を 植 民 地 官 立 大 学 の 学 生 身 分 である 呉 泳 鎮 が 大 胆 にも 帝 国 大 学 の 文 学 同 人 誌 に 発 表 できた 点 は 呉 泳 鎮 個 人 の 鋭 利 な 洞 察 力 も あったが このころに 農 村 振 興 運 動 の 反 時 代 性 に 対 する 批 判 世 論 が 形 成 され 始 めていたと いう 社 会 的 な 雰 囲 気 も 作 用 した さらに 京 城 公 立 農 業 学 校 の 野 村 校 長 のような 責 任 ある 地 位 にある 人 間 まで 農 村 更 生 計 画 の 問 題 点 に 対 して 批 判 するような 状 況 だった 2 小 説 真 相 が 示 した 文 学 的 特 徴 は さまざまな 点 で 金 史 良 の 日 本 語 小 説 との 親 近 性 を よく 示 している 特 に 彼 の 草 深 し (1940)を 見 ると このような 現 象 がよくみられる 草 深 し は 郡 守 である 叔 父 の 日 本 語 演 説 を 通 じて 強 調 される 総 督 府 の 色 衣 奨 励 政 策 の 持 つ 虚 構 性 農 村 の 凄 惨 な 貧 窮 の 現 実 を 直 視 できない 火 田 民 対 策 の 非 現 実 性 を 医 学 徒 で ある 朴 仁 植 の 視 線 を 通 じて 深 く 鋭 く 暴 いている だが ここで 特 に 注 目 しなければならな いのは まさに 色 衣 奨 励 政 策 に 対 する 戯 画 化 である この 政 策 もまた 植 民 地 の 農 村 振 興 1 チ スゴル 日 帝 の 軍 国 主 義 ファシズムと 朝 鮮 農 村 振 興 運 動 歴 史 批 評 47 号 1999 年 夏 号 16-19 頁 2 チ スゴル 1932~1935 年 間 の 朝 鮮 農 村 振 興 運 動 韓 国 史 研 究 46 号 1984 131 頁 21
運 動 の 一 環 で 展 開 される 事 業 の 1 つだったが 草 創 期 の 振 興 運 動 は 色 衣 奨 励 禁 酒 断 煙 のような 生 活 改 善 運 動 が 主 流 をなした 3 伝 統 的 な 白 衣 を 着 ないようにして 色 衣 を 無 理 に 押 し 付 ける 喜 劇 的 状 況 を 金 史 良 は 日 本 語 演 説 という 滑 稽 な 演 劇 的 状 況 を 動 員 して 風 刺 して いるのである これは 草 深 し の 深 層 的 意 図 も やはり 呉 泳 鎮 の 真 相 と 同 様 に 植 民 地 農 村 政 策 の 失 敗 と 矛 盾 を 暴 露 するところにあったものと 思 われる 草 深 し や 真 相 を 明 らかにする というニュアンスの 作 品 のタイトルは 隠 された 真 実 を 暴 いたり 明 らか にするという 意 味 が 見 え 隠 れする 彼 らが 小 説 を 通 じて 明 らかにしたいのは 総 督 府 農 村 政 策 の 真 相 であっただろう 興 味 深 いことに 呉 泳 鎮 と 金 史 良 の 2 人 は 共 通 点 がとても 多 い 平 壌 出 身 キリスト 教 名 門 の 家 柄 出 身 帝 国 大 学 出 身 日 本 語 創 作 民 族 主 義 的 指 向 などは 2 人 が 共 有 する 共 通 点 である 第 1に 平 壌 で 出 生 し 平 壌 高 普 に 通 ったという 事 実 1928 年 に 平 壌 高 等 小 学 校 に 入 学 した 金 史 良 は 同 盟 休 学 事 件 の 主 謀 者 として 加 担 し 1931 年 に 退 学 処 分 を 受 けて 渡 日 した 4 反 面 呉 泳 鎮 は 1928 年 に 養 正 高 普 に 入 学 した 後 1930 年 に 平 壌 高 等 小 学 校 に 転 校 しているので 2 人 がともに 平 壌 高 等 小 学 校 に 通 った 期 間 はおよそ 1 年 余 りである 第 2に 平 壌 キリスト 教 の 名 門 の 家 柄 の 子 弟 だったという 事 実 特 に 西 北 地 域 のキリスト 教 は 財 力 ある 土 着 勢 力 商 工 人 民 族 主 義 者 らと 結 合 して 強 力 な 民 族 主 義 的 キリスト 教 の 性 格 を 有 していた 5 呉 泳 鎮 の 父 親 は 島 山 安 昌 浩 (アン チャンホ) 古 堂 曺 晩 植 (チ ョ マンシク) 朱 基 徹 (チュ ギチョル) 牧 師 などとともに 活 動 した 西 北 地 方 の 人 望 あ るキリスト 教 系 列 の 民 族 運 動 家 呉 胤 善 (オ ユンソン) 長 老 である 呉 泳 鎮 の 回 顧 によ ると 当 時 呉 泳 鎮 の 自 宅 の 広 間 は 島 山 安 昌 浩 古 堂 曺 晩 植 などが 出 入 りし 民 族 運 動 の 懸 案 を 議 論 する 集 会 所 だったという 6 一 方 金 史 良 の 母 親 は 篤 実 なキリスト 教 信 者 として 平 壌 の 有 名 飲 食 店 やデパートを 経 営 した 財 力 家 であった 金 史 良 の 妻 の 実 家 も やはりキリスト 教 一 族 で 平 壌 のゴム 工 場 を 経 営 し 成 功 した 商 工 業 者 階 層 だった 第 3に 帝 国 大 学 出 身 のエリート 文 学 者 であるという 点 金 史 良 は 東 京 帝 大 独 文 学 科 を 呉 泳 鎮 は 京 城 帝 大 朝 鮮 語 文 学 科 に 通 い 在 学 中 にそれぞれ 文 学 誌 の 同 人 として 活 動 しながら 日 本 語 小 説 を 創 作 した 金 史 良 は 東 京 帝 大 の 日 本 人 の 友 人 らと 文 学 同 人 誌 堤 防 を 発 行 し 小 説 土 城 廊 ( 1936)などを 発 表 しながら 本 格 的 に 日 本 語 小 説 を 創 作 した 反 面 呉 泳 鎮 は 小 説 真 相 (1936)を 発 表 しながら 京 城 帝 大 城 大 文 学 の 同 人 として 活 動 することに なる 日 本 語 エクリチュール(literacy)に 秀 でた 帝 国 大 学 出 身 のエリート 文 学 者 として 互 いに 共 有 できる 意 識 世 界 があっただろう 第 4に 2 人 とも 創 作 と 人 生 を 通 じて 民 族 主 義 的 な 性 向 を 示 した 2 人 は 実 際 の 人 生 としても 民 族 主 義 者 の 道 を 歩 んだ 金 史 良 は 日 帝 末 期 に 中 国 で 延 安 地 区 に 脱 出 し 朝 鮮 義 勇 軍 に 参 加 した 7 呉 泳 鎮 は 父 親 呉 胤 善 や 曺 晩 植 の 民 族 3 チ スゴル(1999) 前 掲 文 20 頁 4 イ ジョンスク 金 史 良 と 平 壌 の 文 学 的 距 離 国 語 国 文 学 145 号 2007 239 頁 5 徐 正 敏 平 安 道 地 域 キリスト 教 史 概 観 韓 国 キリスト 教 と 歴 史 3 号 1994 23-24 頁 6 呉 泳 鎮 ひとつの 証 言 中 央 文 化 社 1952 8-9 頁 7 安 宇 植 沈 元 燮 訳 金 史 良 評 伝 文 学 と 知 性 社 2000 23-24 頁 22
主 義 運 動 に 協 力 した 8 実 際 に 呉 泳 鎮 と 金 史 良 の 間 には 具 体 的 な 交 流 があったものとみられる これについて 呉 泳 鎮 の 回 顧 をみると 次 の 通 りである 東 京 にはまだ 東 大 の 学 生 である 金 史 良 が 有 力 な 同 人 雑 誌 に 小 説 を 書 いていたし 安 英 一 (アン ヨンイル)が 新 協 劇 団 で 助 演 出 をしているし 黄 憲 永 (ファン ホニョ ン)が 二 科 展 に 出 品 して 文 学 準 (ムン ハクチュン) 任 東 赫 (イム ドンヒョク) が 音 楽 で 活 躍 していたし 朱 永 渉 (チュ ヨンソプ)が 学 生 芸 術 座 を 率 いていた 彼 らは 自 由 主 義 者 であり 社 会 主 義 者 であり 民 族 主 義 者 を 自 負 していた 彼 らは 活 動 写 真 を 勉 強 すると 訪 ねてきた 植 民 地 大 学 出 身 の 文 学 者 を 親 しく 迎 えた ( ) 学 者 になろうと 朝 鮮 文 学 を 勉 強 したわけではなかったように 芸 術 家 になろうと 映 画 勉 強 をしたわけではない 性 急 な 私 としては 小 説 では 自 分 が 意 図 するところを 急 速 な 期 間 に 達 成 できないだろうと 思 ったので 文 学 は 史 良 に 任 せて 映 画 を 選 択 した のである 文 学 の 才 能 において 史 良 に 劣 ると 考 えたことはなかった 9 呉 泳 鎮 が 京 城 帝 大 を 卒 業 し 映 画 の 勉 強 のために 東 京 に 渡 ったのは 1938 年 9 月 だった 彼 は 東 京 発 声 映 画 製 作 所 で 映 画 の 授 業 を 受 けながら 金 史 良 安 英 一 任 東 赫 朱 永 渉 な どと 交 遊 した 東 京 で 金 史 良 と 出 会 ったのは さきに 挙 げた 2 人 の 共 通 点 が 作 用 したもの と 思 われる 帝 国 大 学 出 身 の 2 人 のエリート 文 学 者 の 間 には おそらく 互 いに 対 する 尊 重 心 や 競 争 心 のようなものが 作 用 していただろう そのために 呉 泳 鎮 が 小 説 をあきらめて 映 画 の 道 を 選 択 しながら 文 学 は 史 良 に 任 せて 映 画 を 選 択 したのである 文 学 の 才 能 にお いて 史 良 に 劣 ると 考 えたことはなかった という 陳 述 が 必 要 だったのである 呉 泳 鎮 と 金 史 良 民 族 主 義 的 指 向 を 持 つこの 2 人 の 植 民 地 エリート 知 識 人 が 日 本 語 で 文 学 作 品 を 創 作 することになった 動 機 は 何 だろうか このような 現 象 は 1930 年 代 中 盤 以 後 東 アジアの 普 遍 語 として 浮 上 した 日 本 語 の 地 位 と 関 連 して 考 えることができる 金 史 良 は 植 民 地 朝 鮮 の 民 衆 が 直 面 した 現 実 を 世 の 中 に 広 く 知 らせたくて 日 本 語 で 作 品 を 書 くようになったと 言 ったことがある 当 時 日 本 語 は 朝 鮮 の 植 民 地 エリートが 世 界 的 普 遍 性 に 通 じるために 必 ずや 経 ざるを 得 ない 媒 介 体 換 言 すれば 世 界 文 学 への 入 口 だ ったのである 10 当 時 朝 鮮 は 学 校 官 公 庁 など 公 共 機 関 で 日 本 語 を 公 用 語 として 使 用 し その 他 の 私 的 領 域 で 朝 鮮 語 を 自 然 語 として 使 うという 二 重 言 語 の 使 用 が 自 然 に 受 け 入 れられる 言 語 の 現 実 に 直 面 していた 11 このような 言 語 状 況 において 世 界 的 な 普 遍 に 向 かって 文 学 的 な 再 現 欲 求 を 表 現 しよう 8 呉 泳 鎮 一 点 の 黒 い 雲 が 思 想 界 1962.4 268-275 頁 9 呉 泳 鎮 前 掲 文 270-272 頁 10 黄 鎬 徳 金 史 良 の< 光 の 中 に> 日 本 語 で 書 くということ 明 日 を 開 く 歴 史 2008 年 夏 号 144 頁 11 金 允 植 韓 国 近 代 文 学 史 の 視 線 でみた 二 重 言 語 エクリチュール 空 間 におけるエクリチュール 類 型 論 作 家 世 界 2004 年 冬 号 355-365 頁 23
とする植民地エリートにとって 日本語創作はそれこそ避けて通れないものだったであろ う さらに 帝国大学出身の植民地エリートにとっては 日本語で創作することは特別な 難関でなかったばかりか 東洋の国際語に堪能な帝国大学出身の文化的な優越性を誇る方 法になりえた このような意識の根底には 帝国大学特有の教養主義意識 すなわち 地 方語でない帝国の言語で自由に読み書きできることを優越したことと考える意識が定着し ていた 当時 帝国大学の植民地学生 知識人 には いつの間にか現実における差別を 特権的な教養主義を通じて想像的に克服しようという欲望が内在していたと思われる12 もちろん このような文化的優越意識 特権的な教養主義の中でも 彼らは民族主義を 追求しようとした そのような現象は 作品の内容 主題においてのみならず 言語形式 にもみられる たとえば 帝国の言語である日本語をややひねりながら使用して 嘲弄し 戯化するという専有 appropriation の現象が 金史良 呉泳鎮の作品に部分的にみられ る 真相 の場合には 名前や擬声語を表現する時 音声記号を通じて朝鮮語の音を表現 ホ ホ しようとした たとえば 名前 徐氏 は 徐氏 Səsi に 朝鮮語の擬声語 허허 はっ は は これと類似した日本語の擬声語を使わずに həhə のように朝鮮語の擬声語をそ チ マ カ ルボ のまま使った また 치마 裳 や 갈보 売女 のように朝鮮的な情緒をはらむ単語 は 日本語の単語を使わずに チマの裾 ガルボ のように 朝鮮語の単語をカタカナ でそのまま露出する方法を使用したりもした 3 真相 と ハンネの昇天 の関係 呉泳鎮の初期作品 真相 1936 と晩年の作品 ハンネの昇天 1972 の間には 発 表時点だけを見たとき 36 年もの距離がある しかし この 2 つの作品は非常に近い関係 にある 真相 が 呉泳鎮の作品世界のフィナーレを飾る代表作とされる ハンネの昇天 の原作にあたるためである 呉泳鎮は日帝末期に小説 真相 をシナリオに改作して 仙 女の新郎 というタイトルで植民地朝鮮の日本語誌 国民文学 に発表することになって いたが 国策文学としてふさわしくないという理由で掲載が拒否されて掲載されなかった 現在 仙女の新郎 というシナリオは伝わらず 1936 年作の 真相 を土台にシナリオへ の改作過程を推定するしかない とにかく この作品がシナリオの形で初稿が創作された のが 1940 年代初期とするならば 呉泳鎮が死ぬ 2 年前の 1972 年に発表されるまで 30 年 という長い熟考の期間があったことになる 呉泳鎮は解放後から死ぬまで 徹底した反共 反日民族主義の道を歩み 自らの作品に そのような政治的指向を明らかに示した 西北地方出身のキリスト教系が編集陣の主流を なしていた 思想界 の筆陣だった彼は 1965 年の韓日国交正常化を推進する朴正煕政権 に対して批判的な態度を示すこともあった しかし 彼のこのような民族主義的指向にも 12 尹大石 京城帝大の教養主義と日本語 揺れる言語 成均館 ソンギュングァン 大大同門花宴救援 旧怨 2008 426 頁 24
かかわらず 彼 は 若 い 時 期 から 死 ぬ 前 まで 韓 国 語 と 日 本 語 を 混 用 して 日 記 を 書 いたとい う 13 にもかかわらず 彼 が 晩 年 に 書 いた 劇 作 品 には 反 日 民 族 主 義 的 な 指 向 が 極 端 に 露 骨 化 されている 特 に 戯 曲 アッパッパを 着 ました (1970) モザイクゲーム (1970) 東 天 紅 (1973)などを 見 ると 日 本 に 対 する 敵 対 感 と 憎 悪 心 が 天 を 衝 くようである アッ パッパを 着 ました では 日 本 人 女 性 と 結 婚 した 在 日 同 胞 のキム サンフンが すべての 財 産 を 処 分 して 韓 国 に 帰 国 しようとすると 夫 人 のキヨコが 日 本 人 情 夫 と 共 謀 して 夫 を 殺 害 するという 内 容 である 東 天 紅 は 金 玉 均 の 甲 申 政 変 の 失 敗 の 原 因 を 日 本 の 朝 鮮 侵 略 の 野 心 に 見 出 そうとしている なので 金 玉 均 や 朴 泳 孝 などのような 甲 申 政 変 の 主 役 よ りも 政 変 を 利 用 して 朝 鮮 侵 略 を 企 てようとする 竹 添 日 本 公 使 島 村 書 記 官 村 上 中 隊 長 など 日 本 政 府 の 陰 謀 に 作 品 の 焦 点 が 向 けられている 作 品 にみられる 日 本 に 対 する 憎 悪 心 が 示 すように 呉 泳 鎮 の 日 本 に 対 する 敵 対 的 な 強 迫 観 念 は 晩 年 に 極 度 に 達 することに なる 彼 は 1960 年 代 後 半 ソウル 明 洞 のある 喫 茶 店 で 突 然 日 本 の 奴 らが 攻 めてくる と ドアを 蹴 飛 ばして 出 ていったというエピソードがある ある 対 談 で 夫 人 のキム ジュギョ ンは 呉 泳 鎮 がときおり 日 本 がいまにも 攻 め 込 んできそうな 錯 覚 に 陥 ったと 証 言 してい る 14 結 局 彼 は 精 神 分 裂 症 で 東 大 門 の 梨 大 附 属 病 院 の 精 神 科 で 入 院 治 療 を 受 けるに 至 る 反 日 主 義 が 深 刻 化 するほど 彼 はより 一 層 日 本 語 日 本 映 画 日 本 の 食 べ 物 など 日 本 的 な 趣 向 に 陥 っている 自 らの 生 活 に 対 する 罪 意 識 や 自 己 侮 蔑 自 己 否 定 に 深 くさいなまれ 精 神 分 裂 症 に 陥 ることとなった 15 ハンネの 昇 天 (1972)は 輪 廻 の 思 想 や 恨 (ハン)の 情 緒 また 村 の 祭 儀 仮 面 劇 な どのような 伝 統 演 戯 的 な 技 法 を 通 じて 民 族 アイデンティティを 表 現 しようとした 点 で 民 族 主 義 的 性 向 の 作 品 と 見 ることができる しかし それは 同 じ 時 期 の 他 の 作 品 にみら れる 反 日 民 族 主 義 指 向 の 理 念 過 剰 の 傾 向 とはかなり 区 別 されるものである 第 1に 他 の 作 品 が 韓 日 国 交 正 常 化 以 降 日 本 の 新 植 民 主 義 を 警 戒 しながら 生 み 出 された 当 代 的 な 産 物 なのに 比 べて ハンネの 昇 天 は 1930 年 代 の 真 相 に 起 源 を 置 き 1940 年 代 のシ ナリオ 仙 女 の 新 郎 を 経 て 長 きにわたって 熟 考 された 作 品 である 第 2に 1970 年 代 初 めから 始 まった 伝 統 の 現 代 的 再 創 造 という 演 劇 界 の 流 れに 合 わせて 韓 国 の 民 族 アイデ ンティティを 込 めた ハンネの 昇 天 (1972)を 書 くことになったという 点 である ハンネの 昇 天 は その 原 作 にあたる 小 説 真 相 を 継 承 しながら 一 層 発 展 させた 作 品 である 呉 泳 鎮 は 真 相 にみられる 日 帝 の 植 民 地 農 村 政 策 批 判 という 内 容 的 な 民 族 主 義 を 消 去 し その 代 わりに 韓 国 人 の 民 族 の 原 型 的 な 心 性 や 仏 教 的 な 輪 廻 思 想 民 俗 儀 礼 の 構 造 ( 村 の 祭 儀 )や 伝 統 演 戯 の 表 現 形 式 ( 仮 面 劇 男 寺 党 牌 遊 戯 )など 韓 国 的 アイデ 13 呉 泳 鎮 の 日 記 は 解 放 直 後 から 死 亡 直 前 まで 書 かれたと 伝 えられている その 内 容 の 一 部 は 現 在 のキム ユンミの 博 士 論 文 オ ヨンジン 劇 文 学 にみられる 民 族 表 象 研 究 ( 延 世 大 2010)に 引 用 されてい る 14 柳 敏 栄 政 治 に 犠 牲 になったインテリ 劇 作 家 呉 泳 鎮 演 劇 と 人 間 2010 19 頁 15 キム ユンミ 呉 泳 鎮 劇 文 学 にみられる 民 族 表 象 研 究 延 世 大 博 士 論 文 2010 105-106 頁 25
ンティティの 表 現 方 式 に 重 点 を 置 く 様 式 的 レベルの 民 族 主 義 を 追 求 する 戦 略 を 選 択 した 仙 女 洞 の 酒 飲 みで 道 楽 者 のマンミョンは 仙 女 池 に 身 投 げしようとしていたハンネを 救 って 一 緒 に 暮 らすようになることで 新 たな 人 生 へと 旅 立 とうとする 寺 堂 牌 芸 人 の 両 親 に 金 で 売 られ 転 々として 娼 女 に 転 落 した 自 らの 人 生 を 悲 観 し 自 殺 しようとしていたハ ンネも マンミョンとともに 暮 らして はじめて 人 生 に 愛 着 を 持 つようになる マンミョ ンは ハンネが 自 殺 した 自 分 の 母 親 と 似 ていたので より 一 層 彼 女 に 対 して 愛 着 を 持 つ そのような 理 由 で 彼 はハンネに 母 親 が 残 したチマ(スカート)を 与 える 仙 女 のよう な 女 性 を 得 たマンミョンは 村 内 の 人 々からいつの 間 にか 非 難 と 嫉 妬 の 視 線 で 見 られる 対 象 となる 村 の 祭 儀 ( 洞 祭 )がおこなわれる 期 間 に 素 性 も 知 らぬ 外 部 の 人 間 を 村 に 入 れ ることが 不 浄 なこととして 認 識 されたためである 酒 飲 み 道 楽 者 として 噂 になったマンミョンに 片 思 いするセドルの 家 の 食 母 が マンミ ョンがタブーを 破 って 外 部 の 人 間 であるハンネを 村 に 引 き 込 んで 一 緒 に 住 むのを 村 長 夫 婦 に 言 いつける 村 のタブーを 破 ったマンミョンの 行 動 さらには 酒 場 の 女 を 村 に 引 き 込 んだ 行 動 は 村 共 同 体 の 非 難 を 得 やすい このような 場 面 は ハンネの 昇 天 が 小 説 真 相 の 基 本 的 な 葛 藤 構 造 を 借 用 した 事 実 を 示 している 酒 飲 み 道 楽 者 であるマ ンミョンが 仙 女 のような 女 性 を 得 て 過 去 を 悔 い 改 めて 新 しい 人 生 に 旅 立 とうとする が 村 の 人 々の 嫉 妬 と 非 難 に 阻 まれて 困 難 に 直 面 する 葛 藤 の 構 図 は 真 相 のそれと 非 常 に 似 ている ここでマンミョンは 真 相 の 哲 洙 に ハンネは 真 相 の 仙 女 のよう な 女 徐 氏 に そしてセドルの 家 の 食 母 は 真 相 の 本 妻 金 氏 にあたる 人 物 である 村 長 は 真 相 の 成 三 に 肩 を 並 べる 人 物 といえる 村 の 祭 儀 をおこなう 芸 人 らの 要 求 によって ハンネが マンミョンの 親 が 残 した 1 着 し かないチマを 渡 すことになると マンミョンはやむを 得 ず 村 の 祭 儀 が 行 われる 間 村 を 出 ることができないタブーを 破 って ハンネのチマを 用 意 するために 村 を 離 れて 市 場 に 行 く 市 場 で 金 を 用 意 するために 賭 博 に 手 を 出 したマンミョンは ハンネのために 用 意 した 服 地 を 奪 い 取 ろうとする 女 を 偶 発 的 に 殺 害 してしまう 村 の 祭 儀 の 期 間 に 外 部 の 人 間 を 入 れて 勝 手 に 村 を 出 るタブーを 犯 しただけでなく 賭 博 をして 人 を 殺 すという 罪 悪 まで 犯 しながら 状 況 は 極 限 に 達 することになる マンミョンが 村 に 戻 れずに 身 を 避 ける 間 に 状 況 はさらに 悪 化 する マンミョンの 実 父 であり 村 の 祭 儀 の 祭 主 であるピルチュが マンミ ョンの 母 のチマを 着 て 焼 紙 の 儀 式 をするために 現 れたハンネを 見 て 20 年 前 に 自 分 が 凌 辱 したマンミョンの 母 と 勘 違 いし ハンネを 凌 辱 することになる 20 年 前 にマンミョンの 母 がそうしたように ピルチュに 凌 辱 されたハンネは 人 生 に 対 する 最 後 の 希 望 をすべて なくし 仙 女 池 に 行 って 投 身 自 殺 をしてしまう 後 についてきたマンミョンもハンネにつ いて 自 殺 する 真 相 において 仙 女 徐 氏 をめぐる 哲 洙 と 成 三 の 葛 藤 は ハンネの 昇 天 において 仙 女 ハンネを 間 に 置 いて マンミョンとピルチュの 愛 欲 の 葛 藤 へと 変 奏 された ここ で 重 要 なのは マンミョンの 敵 対 者 が 先 に 登 場 した 村 長 でない マンミョンの 実 父 であ 26
り 村 の 祭 儀 祭 主 であるピルチュだという 事 実 である マンミョンとピルチュの 葛 藤 構 造 は 真 相 のような 写 実 主 義 的 なレベルを 越 えて 人 間 の 欲 望 によって 生 み 出 された 原 初 的 な 宿 命 の 悲 劇 を 示 す 地 点 にまで 行 き 着 いたといえる ハンネの 昇 天 が 真 相 から 一 層 発 展 した 様 相 を 示 しているのは まさにこのような 地 点 においてである 4 結 び これまで 数 十 年 間 日 本 帝 国 主 義 の 侵 略 と 強 制 占 領 に 苦 しんだ 東 アジア 諸 国 では 自 然 と 日 本 語 で 書 き 発 表 された いわゆる 海 外 日 本 語 文 学 が 量 産 され これに 対 して 韓 国 中 国 台 湾 などでは 親 日 文 学 あるいは 漢 奸 文 学 淪 陥 区 文 学 という 議 論 が 広 が った しかし 最 近 になって この 外 地 日 本 語 文 学 を 単 に 民 族 を 裏 切 った 文 学 行 為 として 裁 断 するよりは 1930-40 年 代 の 日 本 占 領 下 の 東 アジアの 大 帝 国 において 発 生 した 超 民 族 的 (trans-national)な 文 化 現 象 として 理 解 すべきという 認 識 が 韓 国 のみならず 東 アジア 各 国 に 広 がっている まず 1930 年 代 の 日 本 語 小 説 真 相 は そのような 観 点 で 理 解 する 必 要 がある 植 民 地 時 代 に 日 本 語 に 精 通 したエリート 文 学 者 によって 創 作 された 日 本 語 文 学 のもつ 両 義 性 つまり 相 対 的 に 日 帝 の 検 閲 がゆるかった 日 本 語 創 作 を 通 じて 植 民 地 の 現 実 を 批 判 しようとした 民 族 主 義 的 欲 望 を 表 出 した 側 面 また 日 本 語 エクリ チュールを 通 じて 被 植 民 地 の 差 別 を 克 服 し 帝 国 の 文 壇 の 中 心 世 界 的 な 普 遍 性 に 進 み 出 ようとした 帝 国 主 体 への 欲 望 が 並 存 していたと 解 釈 できるのである 真 相 から ハンネの 昇 天 にいたって 呉 泳 鎮 の 民 族 主 義 は 明 らかに 進 化 した 様 相 を 示 している 民 族 の 生 にみられる 桎 梏 を 社 会 的 構 造 と 制 度 の 観 点 から 眺 める 態 度 を 克 服 し これを 人 間 の 普 遍 的 な 欲 望 と 朝 鮮 民 族 の 根 源 的 情 緒 ( 恨 (ハン)) 東 洋 的 輪 廻 の 世 界 観 という 内 面 的 な 民 族 アイデンティティを 村 の 祭 儀 仮 面 劇 男 寺 党 遊 戯 など 伝 統 民 俗 演 戯 の 様 式 など 外 形 的 な 民 族 アイデンティティと 結 びつけて 深 く 表 現 しようとした という 点 で 一 層 深 みある 内 的 成 熟 を 達 成 している ハンネの 昇 天 が 同 じ 時 期 の 呉 泳 鎮 の 他 の 作 品 が 直 面 している 理 念 過 剰 の 分 裂 様 相 に 比 べて 民 族 的 アイデンティティをよ り 完 熟 させ 表 現 しつくすことができたのは 36 年 前 の 真 相 の 創 作 体 験 が 彼 の 意 識 の 深 層 世 界 で ながらく 熟 して 自 然 に 結 実 を 結 んだためであろう 27
咸 世 德 の 舞 衣 島 紀 行 再 考 漁 船 天 佑 丸 との 関 連 を 中 心 に 金 牡 蘭 ( 早 稲 田 大 学 ) 1.はじめに 朝 鮮 半 島 の 近 現 代 劇 の 歴 史 の 中 で 咸 世 德 (ハムセドク)は 特 異 な 存 在 である 植 民 地 朝 鮮 における 近 代 演 劇 が 主 に 日 本 留 学 を 経 験 した 文 学 青 年 たちによって 主 導 されたとい う 事 実 から 見 て 咸 世 德 が 劇 作 家 の 道 を 歩 むことになった 背 景 つまり 商 業 学 校 の 卒 業 生 としては 珍 しく 京 城 の 日 韓 書 房 に 就 職 し これをきっかけに 金 素 雲 に 柳 致 真 を 紹 介 され ることで 劇 作 を 始 めたというその 経 歴 がまずそうである そのために 咸 世 德 は 当 代 の 朝 鮮 作 家 の 一 般 的 な 場 合 とは 異 なり 劇 作 家 として 正 式 に 登 壇 した 後 の 1942 年 に 初 めて 日 本 に 渡 ることになるが これは 処 女 作 サンホグリ ( 朝 鮮 文 学 )1936 年 9 月 )が 発 表 さ れてから 6 年 後 のことであった しかし このような 咸 世 德 の 特 異 性 は 決 して 他 の 作 家 たちに 比 べて 彼 における 外 国 文 学 との 接 点 が 少 なかったことを 意 味 するわけではない 李 海 浪 の 懐 古 でも 窺 えるように 彼 が 書 店 で 働 きながら 読 破 した 戯 曲 は 西 欧 の 古 典 劇 や 現 代 劇 日 本 の 歌 舞 伎 のような 伝 統 劇 など その 幅 が 広 く イプセンやオニールに 愛 蘭 劇 まで 読 んで 話 題 にする 彼 に 対 して 大 学 の 芸 術 科 に 在 学 中 だった 李 海 浪 の 方 が 負 い 目 を 感 じるほどであった 1 咸 世 德 の こうした 外 国 の 劇 作 に 対 する 関 心 が 彼 自 身 の 創 作 に 影 響 しなかったはずはなく その 様 子 は 1980 年 代 末 の 解 禁 とともに 本 格 化 した 咸 世 德 研 究 においても ある 程 度 明 らかにされて いる かつて 柳 敏 滎 は 咸 世 德 の 戯 曲 の 相 当 数 が 外 国 作 品 の 模 作 であり 彼 は 模 倣 の 天 才 に 過 ぎないと 主 張 したことがあるが 2 チャンへジョンは 柳 敏 滎 のこの 主 張 が 具 体 的 な 検 証 を 経 たものではないと 指 摘 しながら 咸 世 德 の 作 品 に 現 れた 外 国 作 品 の 受 容 と 変 容 の 振 幅 を 綿 密 にかつ 深 く 検 討 する 作 業 に 挑 んだ 3 その 一 方 で イヒファンは それ 以 前 にあまり 知 ら れていなかった 戯 曲 碧 空 を 紹 介 したが この 作 品 は0.ヘンリーの 最 後 の 一 葉 と 類 似 したものであった そのためにイヒファンは 咸 世 德 における 西 欧 文 学 の 影 響 を 論 じる 際 にアイルランドのそれに 偏 ってきた 既 存 の 研 究 動 向 が 改 められるべきだと 主 張 し 改 善 1 李 海 浪 虚 像 の 真 実 (セムン 社 1991)pp.283-4 徐 淵 昊 咸 世 德 と 日 本 演 劇 韓 国 劇 芸 術 学 会 編 咸 世 德 ( 演 劇 と 人 間 2010)pp.201-2 から 再 引 用 2 柳 敏 榮 韓 国 現 代 戯 曲 史 (ホンソン 社 1982)pp.301-26; pp.333-38 チャンへジョン 咸 世 德 の 戯 曲 に 現 れた 外 国 作 品 の 影 響 問 題 韓 国 劇 芸 術 学 会 編 咸 世 德 ( 前 掲 )p.83 から 再 引 用 3 チャンへジョン( 前 掲 )pp. 82-4 28